徳川家康
~天下泰平の礎忘るるな遺志譚~
徳川家康の「天下泰平の礎を忘るるな」という遺志譚は史実ではないが、彼の生涯、幕府の神格化、家光の統治体制確立が融合し、理想の君主像として後世に語り継がれた。
徳川家康の遺志譚「天下泰平の礎を忘るるな」に関する徹底検証報告
序章:語り継がれる「天下泰平」の遺志
徳川家康という人物を語る上で、その人物像を最も象徴的に表す逸話として広く知られているのが、「死後、遺言に『天下泰平の礎を忘るるな』と記した」という遺志譚である。この言葉は、幾多の困難を乗り越え、戦乱の世を終焉させた家康の、平和への強い希求と後継者への戒めを示すものとして、今日に至るまで多くの人々の心に刻まれている。彼の忍耐強さ、深謀遠慮、そして最終的に二百六十余年の長きにわたる平和な時代の礎を築いた創業者としてのパブリックイメージは、この一文によって強力に補強されてきたと言っても過言ではない。
しかし、歴史を深く探究する上で、人口に膾炙した逸話ほど、その史実性については慎重な検証が求められる。本報告書は、この広く浸透した逸話の真偽を徹底的に検証することを目的とする。そのために、まず第一に、この言葉の直接的な出典とされる文献を特定し、その成立過程と信憑性を分析する。第二に、家康の死に際してリアルタイムで記録された『徳川実紀』や『本光国師日記』といった一級史料を精査し、当該の言葉、あるいはそれに類する趣旨の発言が記録されているか否かを確認する。第三に、一次史料にそのような記録が存在しない場合、史実として確認できる家康の最期の言動は具体的にどのようなものであったのかを、時系列に沿って詳細に再構築する。そして最後に、史実ではないとすれば、なぜこの「天下泰平の礎を忘るるな」という逸話が生まれ、後世において広く信じられるようになったのか、その歴史的背景と政治的意図を深く考察する。本報告書は、これら四つの問いに答えることを通じて、史実としての徳川家康の最期と、伝説として創り上げられた「神君」像との関係性を明らかにするものである。
第一部:逸話の源流と史実性の検証
1-1. 逸話の直接的典拠:「東照公御遺訓」の分析
利用者様が提示された「天下泰平の礎を忘るるな」という逸話の源流をたどると、一般的に「東照公御遺訓」として知られる一連の教訓に行き着く 1 。この御遺訓は、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」という有名な一節から始まるもので、その中に「天下太平治世長久は 上たる人の慈悲にあるぞ」といった、天下泰平の重要性に言及する箇所が含まれている 1 。この部分が、時代を経てより簡潔で力強い「天下泰平の礎を忘るるな」という警句へと昇華し、流布していったものと考えられる。
しかしながら、この「東照公御遺訓」そのものの史実性には、重大な疑義が呈されている。現代の歴史学研究においては、この御遺訓は徳川家康本人が直接書き残したり、語ったりしたものではなく、後世に創作されたものであるというのが定説となっている 3 。その成立過程については諸説あるが、水戸藩二代藩主であり、『大日本史』の編纂者としても知られる徳川光圀の遺訓が元になったとする説が有力視されている 4 。家康を祀る久能山東照宮の公式サイトにおいても、この御遺訓が学術的には家康本人の作ではないことを認識しつつ、その教えの内容が家康の精神や哲学を見事に体現するものであるとして、その価値を認めるという立場を取っている 3 。
この事実から導き出される結論は明確である。逸話の源流である「東照公御遺訓」が家康本人の言葉ではない以上、そこから派生した「天下泰平の礎を忘るるな」という遺志譚もまた、史実ではないということになる。これは、家康の死後、彼の偉業を称え、その思想を後世に伝える過程で、理想化された創業者像として形成された「伝説」の範疇に属するものと位置づけるのが妥当である。
1-2. 一次史料の精査:『徳川実紀』と『本光国師日記』
逸話の非史実性をさらに決定的なものとするのが、家康の最晩年を記録した最も信頼性の高い一次史料の分析である。江戸幕府が公式に編纂した史書である『徳川実紀』、そして家康の臨終に側近として立ち会い、その遺言を直接聴取した金地院崇伝が記した『本光国師日記』は、家康の最期の言動を知る上で欠かすことのできない一級史料である 5 。
これらの史料をいかに精査しても、「天下泰平の礎を忘るるな」という言葉、あるいはそれに類する抽象的・教訓的な遺言は一切見出すことができない。史料に記録されているのは、後述する、自身の死後の埋葬方法や神格化に関する極めて具体的で政治的な指示、そして国家に一大事が起こった際の軍事指揮権の継承に関する、現実的な取り決めのみである 5 。
史実として記録された「遺命」と、伝説として語り継がれる「遺志譚」との間には、その内容において埋めがたい乖離が存在する。史実の遺命が、自身の神格化による幕府の権威付けや、有事の際の軍事体制の維持といった、極めて現実的で権力維持に直結する内容であるのに対し、伝説の遺志譚は、「平和の礎」「慈悲」といった道徳的・哲学的な教えである。この乖離は、単なる記録の有無の問題にとどまらない。それは、徳川幕府という統治機構が、そのイデオロギーを時代と共に変容させていった歴史的プロセスを象徴している。創業期においては、創業者自身の「力」と死後の「権威」によって支配の正当性を担保する必要があった。しかし、幕府の体制が安定期に入ると、武力や権威だけでなく、為政者の「徳」や「道徳」による支配の正当性がより強く求められるようになる。人口に膾炙したこの逸話は、まさに後者の時代の要請に応えるために創出され、普及していったイデオロギー装置であったと分析できる。一次史料の沈黙は、この逸話が後世の創作であることを決定的に裏付けると同時に、史実と伝説の質的な違いを通じて、徳川幕府が創業者・家康のイメージを「稀代の権力者」から「万民を慈しむ賢君・哲人」へと意図的に昇華させていった歴史の深層を浮き彫りにするのである。
第二部:終焉の刻、駿府城における真実の記録(時系列分析)
「天下泰平の礎を忘るるな」という言葉が史実でないとすれば、徳川家康は実際にどのような最期を迎えたのであろうか。一次史料に基づき、彼の終焉に至る日々を時系列で詳細に再構築する。そこから見えてくるのは、抽象的な理念を語る哲人ではなく、徳川三百年の安泰を見据え、最後の瞬間まで具体的かつ戦略的な手を打ち続けた、一人の統治者の姿である。
表1:徳川家康の最晩年における主要な言動の時系列表
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日付(元和二年) |
出来事 |
主要関係者 |
状況 |
出典史料 |
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正月二十一日 |
鷹狩りの最中に腹痛を発症。鯛の天ぷらが原因との説あり。 |
徳川家康、茶屋四郎次郎 |
駿府城に帰還後、病状が悪化。 |
『慶長日記』、『徳川実紀』等 [10, 11] |
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正月~三月 |
病状が一進一退を繰り返す。胃癌であった可能性が濃厚。 |
徳川家康、侍医 |
腹部に硬いしこりが確認されるなど、癌の症状が見られる。 |
医学的推察 12 |
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四月朔日 |
病床に堀直寄を召し、国家有事の際の軍事指揮権を遺言。 |
徳川家康、堀直寄、徳川秀忠 |
死期を悟り、徳川の世の軍事的安定に具体的な手を打つ。 |
『徳川実紀』 5 |
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四月二日 |
本多正純、南光坊天海、金地院崇伝を召し、自身の死後の処置を遺言。 |
徳川家康、本多正純、天海、崇伝 |
自身の神格化による幕府の権威確立を意図した詳細な指示。 |
『本光国師日記』 [7, 8, 14] |
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四月十七日 |
巳の刻(午前10時頃)、駿府城にて薨去。享年75。 |
徳川家康、側近(榊原照久ら) |
辞世の句を残し、静かに息を引き取る。 |
『徳川実紀』 [15, 16] |
2-1. 元和二年正月:病の発端と死の予感
徳川家康の最期へと至る物語は、元和二年(1616年)正月二十一日に始まる。この日、家康は趣味であった鷹狩りのため駿河国田中に赴いたが、その夜から急な腹痛と体調不良を訴えた 11 。この原因として広く知られているのが、京都の豪商・茶屋四郎次郎が上方で流行していた珍しい料理として献上した「鯛の天ぷら」を、家康がその美味さに惹かれて食べ過ぎたため、という逸話である 10 。
しかし、これもまた後世に面白く脚色された側面が強く、現代では家康の直接の死因は以前から患っていた胃癌であったとする説が最有力となっている 10 。その根拠として、家康の死後、腹部に硬いしこりがあったという記録が残っていること、そして奇しくも息子の二代将軍・秀忠も胃癌で亡くなっており、遺伝的な要因が推察されることなどが挙げられる 12 。
死因をどのように捉えるかは、彼の最期の行動を理解する上で極めて重要である。もし死因が天ぷらによる急な食中毒であったならば、彼の遺言は予期せぬ死を前に慌ただしく語られたものとなる。しかし、死因が癌による緩やかな死であったとすれば、家康には数ヶ月にわたって自らの死を予期し、死後の世界、すなわち徳川幕府の未来について熟慮し、万全の準備を整える時間があったことになる。その後に続く彼の極めて計画的で詳細な遺言の数々は、後者の状況、すなわち自らの死を冷静に見つめ、それを徳川三百年のための最後の仕上げと位置づけていたことを強く示唆している。
2-2. 元和二年四月朔日:国家万一への備え — 軍事遺言
死期を悟った家康が、まず着手したのは徳川の世の軍事的な安定を担保することであった。死の16日前にあたる四月朔日、家康は病床に外様大名である越後村上藩主・堀丹後守直寄を呼び寄せた。その場には二代将軍・秀忠も同席しており、この遺言が次代への公式な引き継ぎであることを示している。『徳川実紀』には、その際の家康の言葉が次のように生々しく記録されている。
「此度の老病とても快復すべきにあらず。我なからん後、國家に於て一大事あらんには、一番の先手(せんて)藤堂和泉守(高虎)、二番は井伊掃部頭(直孝)に命じ置ぬ。汝は両軍の間に備を立て、横槍を入べし」 5 。
現代語に訳せば、「この老いによる病は、もはや回復の見込みはないだろう。私が亡くなった後、国家に万一の事態(反乱など)が起きたならば、全軍の先鋒の第一陣は藤堂高虎、第二陣は井伊直孝に任せることに決めてある。そなた(堀直寄)は両軍の中間に陣を構え、戦況を見極めて側面から攻撃を仕掛けよ」となる。
この人選と指示には、家康の徹底したリアリズムと深謀遠慮が凝縮されている。井伊家は徳川四天王の筆頭格であり、譜代大名の代表として徳川軍の先鋒を務めるのは当然の人選である。しかし、その井伊家を差し置いて、第一陣の総大将に藤堂高虎を指名した点が極めて重要である。高虎は、主君を幾度も変えた経歴を持つ外様大名であったが、築城術や実戦における戦術眼は当代随一と評価されていた。家康は、譜代・外様という出自や家格にとらわれず、国家の危機に際しては最も能力のある実力者を最前線に投入するという、断固たる実力主義の姿勢を死の直前に改めて示したのである。これは、自身の死後、譜代大名が驕り高ぶり、有能な外様大名を軽んじることで幕府内に不和が生じ、組織が硬直化することを防ぐための、後継者たちへの強烈な政治的メッセージであった。さらに、「横槍を入べし」という極めて具体的な戦術指示は、彼の思考が最後まで抽象的な理念ではなく、戦場のリアルな現実に向いていたことを如実に物語っている。この軍事遺言は、「天下泰平」という究極の目標を、道徳的な訓戒によってではなく、最も効果的で合理的な軍事組織と指揮系統という現実的な手段によって担保しようとする、家康の統治哲学の真髄を示すものであった。
2-3. 元和二年四月二日:神となるための「御遺命」 — 祭祀遺言
軍事的な布石を打った翌日の四月二日、家康は腹心の側近である本多正純、南光坊天海、金地院崇伝の三名を枕元に呼び寄せた 7 。ここで彼が語ったのは、自らの死後の肉体と霊魂の扱いに関する、詳細かつ壮大な計画であった。その内容は、その場にいた崇伝が自らの日記『本光国師日記』に書き留めており、家康の真の遺言として最も信頼性の高い記録とされている 2 。
その要旨は、以下の五点に集約される。
- 遺体は久能山へ : 「臨終候はば御躰をば久能へ納め」(私が死んだなら、遺体は駿河の久能山に納めよ)
- 葬儀は増上寺で : 「御葬禮をば增上寺にて申付」(葬儀は江戸の増上寺で行え)
- 位牌は大樹寺に : 「御位牌をば三川之大樹寺に立」(位牌は故郷である三河の大樹寺に立てよ)
- 一周忌後に日光へ分祀 : 「一周忌も過候て以後 日光山に小き堂をたて勧請し候へ」(一周忌が過ぎたら、下野の日光山に小さな堂を建てて(私の霊を)分祀せよ)
- 関八州の鎮守となる : 「八州之鎮守に可被爲成」(そうすれば、私は関東八州の鎮守の神となるであろう)
さらに、久能山に埋葬する際には、遺体を西に向けて座らせた(蹲踞させた)形で埋葬するよう指示したと伝えられる 8 。これは、大坂の陣で滅ぼした豊臣家の残党や、西国の有力外様大名たちに対して、死してなお睨みを利かせ続けるという強い意志の表れであった 20 。
この一連の指示は、単なる埋葬場所の指定ではない。それは、家康自身が「神」となり、その神威によって徳川の支配を永遠に守護するための、壮大なグランドデザインであった。故郷である三河(大樹寺)、大御所として晩年を過ごした駿河(久能山)、幕府の本拠地である江戸(増上寺)、そして江戸城の鬼門(北東)の方角に位置し、国家鎮護の要となる日光。これら徳川家にとって重要な拠点を自らの霊廟で結びつけることにより、徳川の支配領域全体を鎮護する一大宗教システムを構築しようとしたのである。家康は、武力や法制度といった物理的な統治機構だけでなく、人々の精神に働きかける宗教的権威によって徳川幕府を永続させようと考えた。かつて豊臣秀吉が「豊国大明神」として神格化された先例を深く研究し、それを超える形で自らを神格化し、後継者である将軍の権威を絶対的なものにする。この祭祀遺言こそが、家康が後世に残した最も重要かつ戦略的な「遺言」であり、それは「天下泰平」という抽象的な理念ではなく、徳川支配の永続性を担保するための極めて具体的なロードマップだったのである。
2-4. 元和二年四月十七日:最期の瞬間と辞世の句
あらゆる手を打ち尽くした家康に、ついに最期の時が訪れる。元和二年四月十七日の巳の刻(午前10時頃)、家康は駿府城において、75年の波乱に満ちた生涯に静かに幕を下ろした 15 。その最期は、日頃から真面目な働きぶりを評価していたという側近の榊原照久の膝を枕にしていたと伝わっている 16 。
その死に際して、二首の辞世の句を残したとされる。
「嬉やと 再び覚めて 一眠り 浮世の夢は 暁の空」 4
「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」 4
一首目の句は、「(戦乱の世が終わり)安心して二度寝ができるような平和な世の中になった。振り返れば、この世での私の人生も、夜明けの空に消えていく夢のようなものであったな」と解釈でき、天下統一という大事業を成し遂げた深い満足感と安堵の念が滲み出ている。二首目の句は、「先に死ぬ者も、後に残る者も、いずれは同じ道を行く。誰も道連れにはしない、ただ順番が違うだけだ」という意味であり、家臣たちが忠義のあまり殉死(追い腹)することを固く戒め、残された者たちにこそ、これからの徳川の世をしっかりと支えていってほしいという、最後の願いが込められていると解釈される。
注目すべきは、これらの最期の言葉とされる辞世の句に、後世への憂いや未練、あるいは「忘れるな」といった強い訓戒の響きが全く見られないことである。そこにあるのは、自らの生涯に対する静かな肯定と、来るべき平和な時代への穏やかな満足感である。これは、何かを憂い、後継者たちに強く念を押すような精神状態とは対極にある心境と言えよう。
第三部:逸話の形成と定着の背景 — なぜ「遺志譚」は必要とされたのか
史実としての家康は「天下泰平の礎を忘るるな」とは言わなかった。しかし、この言葉は彼の死後、あたかも真実であるかのように広く受け入れられ、定着していった。なぜ、史実ではない逸話がこれほどまでに強い生命力を持つに至ったのか。その背景には、家康自身の生涯、徳川幕府による国家的な神格化事業、そして三代将軍・家光による統治体制の確立という、三つの歴史的要因が深く関わっている。
3-1. 逸話の土壌:生涯を懸けた「天下泰平」の追求
逸話が史実ではないからといって、それが家康の思想と全く無関係であったわけではない。むしろ、この逸話が多くの人々の心を捉え、真実味を帯びて受け入れられた最大の理由は、徳川家康の75年の生涯そのものが、まさしく「天下泰平」を渇望し、それを実現するために費やされたと解釈できるからである。
弱小豪族の嫡男として生まれながら、幼くして父を失い、織田家、次いで今川家へと人質として送られた不遇の幼少期 22 。桶狭間の戦いを機に独立を果たして以降も、三方ヶ原での武田信玄に対する惨敗、同盟者である織田信長の理不尽な要求による嫡男・信康の自刃、本能寺の変に際しての決死の伊賀越えなど、その前半生は絶え間ない緊張と存亡の危機の連続であった 24 。豊臣秀吉の天下統一後はその臣下として雌伏の時を過ごし、秀吉の死後にようやく天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利し、最後の大坂の陣で豊臣家を滅ぼして、名実ともに関ヶ原以来の「元和偃武(げんなえんぶ)」、すなわち戦乱の終結を宣言するに至る 25 。
このように、彼の生涯は「天下泰平」という目標に至るための、長く険しい道のりそのものであった。苦難の末に平和を築き上げた創業者という物語は、彼がその最期に「天下泰平の礎を忘れるな」と後世に言い残したであろう、という強い蓋然性を人々に感じさせる。史実ではない言葉であっても、家康の生涯という壮大な「文脈」においては、それは極めて説得力を持つものとして響くのである。この史実的背景こそが、伝説が生まれ、深く根付くための肥沃な土壌となった。
3-2. 逸話の設計者:「東照大権現」創出の国家事業
家康の死後、彼の遺志を継いだ幕府首脳、特に側近であった南光坊天海や儒学者の林羅山といった当代随一の知識人たちは、家康を単なる偉大な武将としてではなく、「神」として祀り上げる国家事業に着手した 26 。これは、徳川幕府の支配を永続させるための、極めて高度な政治戦略であった。
特に天海の果たした役割は決定的であった。家康の神号を巡って議論が起こった際、天海は、豊臣秀吉が用いた神道系の「明神」号を退け、仏が衆生を救うために仮の姿(権り)で神として現れるという、仏教(特に天台宗)的な思想に基づく「権現」号を強く主張し、これを採用させた 29 。これにより、家康は「東照大権現」として、薬師如来を本地仏とする神となり、既存の仏教勢力との親和性を保ちつつ、幕府独自の神聖な権威の源泉として位置づけられた。この神格化は、天皇を頂点とする朝廷の伝統的権威を利用しつつも、それとは別の次元で幕府の支配の正当性を担保するための、巧みなイデオロギー操作であった 30 。
このような「神君」を創り上げる過程においては、壮麗な社殿や祭祀といった儀礼だけでなく、その神にふさわしい「神託」や「教義」が必要不可欠となる。民を慈しみ、平和を願う賢君としての側面を強調する物語が求められたのである。「東照公御遺訓」や、本報告書で扱う「天下泰平の礎を忘るるな」という逸話は、まさにこの神格化プロジェクトの一環として、神となった家康にふさわしい「神の言葉」を与えるために創出、あるいは編纂された可能性が極めて高い。それは、徳川の支配が単なる武力によるものではなく、神君の深遠な教えに基づくものであることを示すための、重要なプロパガンダであった。
3-3. 逸話の完成者:三代将軍家光による権威の確立
家康の神格化と、それに伴う創業者神話の形成を完成させたのが、孫にあたる三代将軍・徳川家光であった。家光は祖父・家康を深く崇敬しており、その治世において莫大な費用と労力を投じ、日光東照宮の大規模な改築、いわゆる「寛永の大造替(かんえいのだいぞうたい)」を断行した 33 。この事業は、全国の諸大名に普請(工事)を命じる「天下普請」として行われ、大名の財力を削ぎ、幕府の絶対的な権威を天下に示すという、極めて政治的な意図を持っていた。
家光の治世は、参勤交代の制度化、鎖国体制の完成、キリスト教の禁圧強化など、徳川幕府の統治体制、すなわち幕藩体制が確立された重要な時期と重なる 35 。家光は、祖父や父のように戦乱を勝ち抜いた経験を持たない、生まれながらの将軍であった。彼の権力の源泉は、その血筋と、創業者である家康の絶大な威光にあった。そのため、家康を絶対的な神として祀り上げ、その神託を受けた正統な後継者として自らを位置づけることが、何よりも重要だったのである。
この時代に至り、壮麗な日光東照宮という物理的な「ハードウェア」と、「東照公御遺訓」に代表される創業者神話という思想的な「ソフトウェア」が揃った時、徳川の支配イデオロギーは盤石のものとなった。「天下泰平の礎を忘るるな」という逸話が広く社会に定着したのは、まさにこの家光の時代に、徳川の統治理念が完成し、その象徴として「民を慈しむ賢君・神君」としての家康像が浸透した結果である。この簡潔で力強い言葉は、徳川がもたらした二百六十余年の平和(パックス・トクガワーナ)の道徳的正当性を端的に示す、極めて効果的なキャッチフレーズとして機能し、後世へと語り継がれていったのである。
結論:史実を超えた遺志の本質
本報告書の徹底的な検証の結果、徳川家康が臨終に際して「天下泰平の礎を忘るるな」と直接語った、あるいは遺言として書き残したという史実的根拠は存在しない、と結論づけられる。この広く知られた言葉は、家康本人の作ではない後世に成立した『東照公御遺訓』にその源流を持ち、理想化された創業者像を象徴する逸話、すなわち「遺志譚」である。
史実として一次史料に記録されている家康の最期の「遺命」は、これとは全く様相を異にする。それは、国家有事の際の軍事指揮権の委譲や、自身の遺体の埋葬方法から神号に至るまでの詳細な神格化計画といった、徳川幕府の権力基盤を永続させるための、極めて現実的かつ戦略的な指示に集中していた。彼の最後の思考は、後世への抽象的な道徳理念よりも、具体的な統治技術と権威の構築に向けられていたのである。
しかし、この逸話が史実ではないからといって、歴史的に全く無価値な虚構であると断じるのは早計である。この遺志譚は、家康が生涯をかけて追求した目標がまさしく「天下泰平」の実現であったという、否定しがたい歴史的文脈に深く根差している。そして何よりも、この言葉は、徳川幕府が二百六十余年にわたる長期の平和な時代を統治する上で、その支配の正当性を支える道徳的支柱として極めて重要な役割を果たした。
ここに、史実としての「遺命」と、記憶としての「遺志譚」という、二つの「遺言」の姿が浮かび上がる。史実の「遺命」が、軍事力と神格化によって徳川の「権力」の物理的基盤を固めたとすれば、伝説の「遺志譚」は、創業者に道徳的な理想を仮託することで徳川の「権威」の正統性を人々の心に根付かせた。この両輪が巧みに組み合わさることによって、徳川の世は盤石のものとなったのである。本報告書は、この一つの逸話を史実と伝説の二つの側面から徹底的に分析することで、徳川家康という一人の歴史上の人物が、いかにして「神君」という国家統治のイデオロギーの象徴へと昇華していったかの過程を明らかにした。それは、歴史の真実が、時に記録された事実そのものだけでなく、人々によって語り継がれ、信じられてきた物語の中にこそ、より深く存在する可能性を示唆している。
引用文献
- 御遺訓 - 徳川家康公について https://www.toshogu.or.jp/about/goikun.php
- 東照宮御遺訓は後世の創作だった!?|本当の徳川家康公御遺言とは? https://www.ieyasu.blog/archives/6837
- 徳川家康の遺訓は本物ではない?本当の言葉と遺言を紹介 https://jin-jaa.com/tokugawa-ieyasus-words/
- どこにいた家康 Vol.48 久能山東照宮 - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/13156
- 徳川家康(とくがわ いえやす)が臨終にあたって「もしも天下を揺るがすような兵乱が起きた場合には、先ず... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000299819
- 東照宮御実紀附録/巻廿三 - Wikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE%E5%BE%A1%E5%AE%9F%E7%B4%80%E9%99%84%E9%8C%B2/%E5%B7%BB%E5%BB%BF%E4%B8%89
- 東照大権現~徳川家康を祀る東照宮~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/jinbutu/tosho-daigongen.html
- 徳川家康公の墓|駿府ネット https://sumpu.net/
- 日本三大東照宮とは!? - ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/toshogu-big3/
- Q.ウソ?ホント?家康“天ぷら死亡説” - 油に関するQ&A|植物のチカラ 日清オイリオ https://www.nisshin-oillio.com/oil/qa/qa12.html
- 家康の病|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents6_02/
- 武将ブログ 「徳川家康」の死因と謎 - 刀剣ワールド https://www.touken-hiroba.jp/blog/9048530-2/
- 吹田市立図書館- - Ufinity https://www-std-pub02.ufinity.jp/suitalib/index.php?key=mu0kfwd7z-468
- 徳川家康の遺骸 01 - 日光所記 https://nikkohistories.info/ieyasu01/677/
- 家康の死|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents6_03/
- 榊原照久(榊原康政の甥)、遺命により、死後も祭主として家康に仕えるよう命じられる(「どうする家康」217) - 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 https://wheatbaku.exblog.jp/33202497/
- 元和2年4月17日、徳川家康の死因は鯛の天ぷら!? - CANPANブログ https://blog.canpan.info/funenokagakukan/archive/285
- 徳川家康「大坂夏の陣」死亡説とは?大阪・南宗寺に残る墓の謎に迫る - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/88274/
- 久能山東照宮・神廟(家康墓所) | 静岡・浜松・伊豆情報局 https://shizuoka-hamamatsu-izu.com/shizuoka/shizuoka-city/sz528/
- 大河ドラマではどう描かれる?徳川家康の最期を『葉隠』はこう伝えた【どうする家康】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/195689
- 天下は天下の天下なり…徳川家康の遺言 | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知る https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3791
- 【探究・知識を深める】原点は幼少期にあり? 家康をつくった人質生活 - ブリタニカ・ジャパン https://www.britannica.co.jp/blog/tokugawaieyasu/
- 徳川家康のルーツを探る : 「源氏」の出という説は実は曖昧 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12001/
- 泰平の世の礎を築いた大将軍・徳川家康が辿った生涯と人物像に迫る【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1098919
- 徳川家康の名言・逸話・エピソード - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/78167/
- なぜ信長、秀吉、家康の3人は神になろうとしたのか…「天下人」になった男たちが必ず直面する意外な困難 天下統一はやるよりも、続けるほうが難しい (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/70878?page=2
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- 秀吉・家康の神格化と「徳川王権論」 - 日本思想史学会 https://ajih.jp/backnumber/pdf/44_01_03.pdf
- 徳川家康 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
- 日光東照宮、徳川家康と家光の関係。 - 江戸散策 | クリナップ https://cleanup.jp/life/edo/121.shtml
- all_08891384.pdf - 日光市 https://www.city.nikko.lg.jp/material/files/group/3/all_08891384.pdf
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