柴田勝家
~お市に別れの盃受け自刃寂寥譚~
賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家と妻お市の方の最期。北ノ庄城で別れの盃を交わし、娘たちを託した後、壮絶な自刃を遂げる。武士の誇りと夫婦の深い絆を描く寂寥の物語。
北ノ庄城、終焉の刻:柴田勝家とお市の方、別れの盃と寂寥の自刃
序章:終焉の城へ ― 敗走と覚悟
天正十一年(1583年)四月二十一日、近江国賤ヶ岳。織田家の覇権を賭けた柴田勝家と羽柴秀吉の決戦は、秀吉の圧勝という形で幕を下ろした 1 。信頼を寄せていた与力大名・前田利家の突然の戦線離脱が決定打となり、勇猛を謳われた柴田軍は雪崩を打って総崩れとなる 2 。かつて戦場に「かかれ、かかれ」と檄を飛ばし、敵陣を蹂躙した「鬼柴田」の面影はなく、勝家はわずか三千ほどの兵と共に、自らが北陸から京への進軍路として整備した北国街道を、本拠である越前・北ノ庄城へと敗走を余儀なくされた 4 。
しかし、秀吉に息つく暇は与えられなかった。その追撃は電光石火と評されるほどの凄まじさであった 6 。賤ヶ岳の勝敗が決した翌日の二十二日には、秀吉は早くも越前府中城に入り、降伏した前田利家を合流させる 6 。そして、その利家を先鋒として北ノ庄城へと進軍させたのである。この追撃の驚異的な速度は、情報、兵站、調略を駆使する新しい時代の支配者たる秀吉の能力を象徴していた。一方で、冬の積雪によって行動を制限される北陸の地理に縛られていた勝家 5 。両者の差は、単なる戦術の優劣ではなく、時代の変化そのものであった。旧来の武勇を誇る武将が、新しい時代の奔流に取り残された悲劇が、この敗走劇には凝縮されていた。
勝家が命からがら帰り着いた北ノ庄城は、単なる居城ではなかった。天正三年(1575年)に織田信長から越前一国を与えられた勝家が、主君信長を迎えることも想定し、心血を注いで築き上げた壮大な城郭であった 6 。足羽川と吉野川が交わる要衝に位置し、九重とも七層ともいわれる壮麗な天守が聳え立つ 6 。来日していた宣教師ルイス・フロイスは、その天守の瓦が美しい笏谷石(しゃくだにいし)で葺かれていたと記録しており、その規模と美観は信長の安土城にも匹敵するといわれた 9 。北陸平定の拠点であり、勝家の天下への夢の象徴でもあったこの城が、皮肉にも彼自身の最後の砦、そして墓標となろうとしていた。
四月二十三日、秀吉軍は北ノ庄城を完全に包囲。秀吉自らは城の南方に位置する足羽山(愛宕山)に本陣を構えた 7 。さらに秀吉は、賤ヶ岳で捕らえた勝家の猛将・佐久間盛政と、勝家の子である勝敏を城の眼前に晒し者とし、城兵の士気を徹底的に削ぐという冷徹な心理戦を展開する 6 。壮麗な城壁とは裏腹に、城内に残された兵はもはや数百名に過ぎず、その誰もが死を覚悟していた 5 。天下人の夢の結晶であったはずの巨城は、今や巨大な棺と化し、静かに終焉の刻を待っていた。
第一章:訣別の宴 ― 天正十一年四月二十三日夜
城外では羽柴の大軍が鬨の声をあげ、城壁に取り付こうとする攻防の音が絶え間なく響いていた 12 。しかし、炎と喧騒に包まれつつある北ノ庄城の天守最上階では、異様なほどの静寂に支配された最後の宴が始まろうとしていた。
柴田勝家は、もはやこれまでと自らの運命を悟り、一族と譜代の家臣八十余名を天守へと招き入れた 12 。広間から書院にかけては、今は亡き主君・信長から拝領した天下の名物として知られる茶器や武具が、最後の晴れ姿とばかりに整然と飾り立てられている 13 。それは、自らの武功と信長からの信頼の証を、死を共にする家臣たちに示すための、勝家なりの美学の表れであった。集った者たちは皆、言葉少なに己の座につく。死を目前にした者だけが共有する、諦観と覚悟に満ちた空気が座を支配していた。
宴が静かに進む中、勝家は傍らに座す妻、お市の方に静かに語りかけた。その会話の詳細は、後にお市の次女・初(常高院)に仕えた侍女が記した覚書『渓心院文』によって伝えられている 14。
「武家の習い、今更是非もなし。されど、そなたは信長公の妹御。羽柴秀吉とて、無下には扱うまい。三人の姫たちを連れ、この城を落ち延びよ」
それは、夫として妻子の命を救いたいという切なる願いであり、同時に、彼女たちを守りきれなかった自らの不甲斐なさに対する無念の言葉でもあった。
しかし、お市の方は静かに首を横に振った。彼女の表情には、悲しみよりもむしろ、すべてを受け入れたかのような毅然とした光が宿っていた。
「浅井が小谷城にて滅びし時、一度は死すべき身にございました。今日までながらえることができましたのは、ひとえに修理殿(勝家)にお会いするためであったと存じます。今さら何の生き恥を晒せましょうぞ。今生にては夫婦の縁、あまりに短くございましたが、来世までも御身のお供を仕りたく存じます」
彼女の決意は、単なる夫への情愛だけではなかった。兄・信長によって最初の夫・浅井長政を失い、そして今また、その兄の後継者を争う戦によって二度目の夫を失う。このあまりにも数奇な運命に対する、武家の女としての誇りと、深い諦観の表れであった 15。
勝家とお市の婚姻は、信長亡き後の清洲会議を経て結ばれた政略結婚であり、その期間はわずか半年余りに過ぎなかった 11 。しかし、この死を前にした二人の選択と会話は、その関係が単なる政略を超え、短いながらも深い信頼と情愛で結ばれていたことを何よりも雄弁に物語っている。夫は妻の未来を案じ、妻は夫と運命を共にする道を選ぶ。この極限状況における選択によって、彼らの夫婦関係は、悲劇的ながらも永遠に完成されたのである。
第二章:母の祈り ― 三姉妹の脱出
自らの死を決意したお市の方には、最後に成し遂げねばならない務めが残されていた。それは、最初の夫・浅井長政との間に生まれた三人の娘たちの命を救うことであった。当時、長女の茶々は十六歳、次女の初は十四歳、そして三女の江与は十二歳 16 。母は、燃え盛る城の一室に三人の娘を呼び寄せ、最後の別れを告げた。
その情景は、戦国の世の非情さと、普遍的な母性の交錯する、痛切なものであったに違いない。お市は娘たち一人ひとりを強く抱きしめ、こう諭したとされる。「母は父上と共に行く道を選びました。なれど、そなたたちは生き延びねばなりませぬ。生き延びて、浅井と織田の血を未来へと繋ぐのです。それが、そなたたちに託された務めなのです」と。母としての断腸の思いを胸に秘め、しかしその声には武家の女としての凛とした響きがあった。
娘たちを誰に託し、いかにして城外へ送り届けたかについては、いくつかの説が伝わっている。家臣の富永新六郎が付き添ったとも、後に勝家と共に殉死することになる老臣・中村聞荷斎(文荷斎)が最後の主命として姫たちを護衛したともいわれる 17 。いずれにせよ、娘たちは敵将である羽柴秀吉の陣へと送り届けられ、秀吉はこれを保護した 2 。憎き敵に愛する娘たちの将来を託さねばならない勝家とお市の無念は、察するに余りある。しかし、それでもなお娘たちの生存を最優先したその決断は、親としての深い愛の表れであった。
この北ノ庄城での母の決断は、その後の日本の歴史に大きな影響を及ぼすことになる。この時、死の淵から救い出された三姉妹は、それぞれが戦国の世を生き抜き、歴史の表舞台で重要な役割を果たす。長女・茶々は、他ならぬ母の仇である豊臣秀吉の側室(淀殿)となり、その後継者・秀頼を産む。三女・江与は徳川二代将軍・秀忠の正室(崇源院)となり、三代将軍・家光の母となる 16 。お市が「死」を選択し、娘たちに「生」を託した主体的な決断が、結果として豊臣と徳川という二つの天下人の家に浅井と織田の血脈を繋ぎ、歴史を大きく動かしていくのである。北ノ庄の炎の中で下された一人の母の祈りと決断は、まさに歴史の分水嶺となる一瞬であった。
第三章:終焉の刻 ― 天正十一年四月二十四日
黎明の総攻撃
夜が明けきらぬ天正十一年四月二十四日の午前四時頃、羽柴秀吉軍による北ノ庄城本丸への総攻撃が開始された 12 。鬨の声が地を揺るがし、無数の鉄砲が火を噴く。これに対し、天守に立てこもる柴田方の精兵二百余名は、死を覚悟した最後の抵抗を試みた 5 。弓の名手は眼下の敵兵を射抜き、鉄砲隊は狭間から応戦する。数では圧倒的に劣るものの、主君の最期を飾るべく、一人また一人と斃れるまで死に物狂いで戦い続けた。
秀吉軍は多大な犠牲を払いながらも、徐々に包囲網を狭めていく。大軍での攻撃が難しいと判断した秀吉は、正午ごろ、鎧兜を完全に装備した精鋭部隊数百名を選抜し、手槍と刀だけを手に天守内部へと突入させた 12 。城内は阿鼻叫喚の地獄と化し、柴田方の兵はついに天守へと追い詰められていった。
天守炎上と辞世の詠み交わし
もはやこれまでと悟った勝家は、敵の手に渡るを潔しとせず、自ら天守に火を放った 1 。瞬く間に業火が壮麗な天守を包み込み、黒煙が天を突く。凄まじい炎と煙が迫る中、勝家とお市の方は、燃え盛る天守の一室で静かに差し向かい、最後の盃を交わしたと伝えられる 18 。それは、あまりにも短かった夫婦の縁を慈しみ、来世での再会を誓う、無言の儀式であっただろう。
そして二人は、最後の会話として辞世の句を詠み交わした。いくつかの史料によれば、まずお市の方が静かに口を開いたという 13 。
さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の 別れを誘う ほととぎすかな 10
(ただでさえ眠る間もないほど短い夏の夜なのに、ホトトギスの鳴き声が、この世との別れを急かすように聞こえることよ)
「夏の夜」は人生の儚さの象徴であり、「ほととぎす」は冥土へ導く鳥ともいわれる 19 。自らの死を静かに受け入れるお市の心境が、哀しくも美しく詠み込まれている。これに対し、勝家は力強く返歌を詠んだ。
夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす 21
(夏の夜の夢のように儚い我が生涯であったが、我が名を後世まで、雲の上まで高く響かせてくれ、山のホトトギスよ)
勝家もまた、お市と同じく「ほととぎす」に自らの運命を託した。しかしそこには、死を受け入れつつも、武人として自らの「名」が後世に残ることへの強い執着が込められている。同じモチーフを用いながら、それぞれの立場からの心情を詠み込む。それは、二人が死生観を共有し、深い絆で結ばれていたことの何よりの証であった。
鬼柴田、最後の檄
炎が天井を舐め、天守が崩れ落ちようとする中、柴田勝家は一人、最上階である九重目へと登った。そして、黒煙の中から眼下にひしめく羽柴の大軍を見下ろし、生涯最後となる、しかし最も強烈な一喝を放った。
「修理が腹の切り様見申し、後学に仕候へ!」 9
(この柴田修理亮勝家の腹の切り方をよく見て、お前たちの後々の手本とせよ!)
それは、敗軍の将の言葉ではなかった。自らの死の様式美をもって、敵である兵士たちに武士の生き様を説く、師としての言葉であった。その凄まじい気迫に、攻め寄せていた兵士たちも思わず動きを止め、燃え盛る天守を見上げたという。心ある者は涙し、鎧の袖で顔を覆ったと伝えられる 23 。生涯を「鬼柴田」「かかれ柴田」として生きた武将の、これ以上なく彼らしい、圧巻の最期であった。
壮絶なる自刃
大音声の檄を放った後、勝家は静かに階下へ戻った。そして、武士として最後の、そして最も非情な務めを果たす。敵の辱めを受ける前にと、まず妻であるお市の方を、次いで一族の婦女子たちを、自らの手で次々と刺し殺していった 11 。それは、愛する者たちを守るための、武士の最後の情けであった。
全てを終えた勝家は、血に染まった広間の中央に座し、従容として自らの腹に刃を突き立てた。その作法は、最も正式とされる「十文字腹」であったという 22 。凄まじい苦痛の中、勝家は侍臣の中村聞荷斎(文荷斎)を呼び、介錯を命じた。聞荷斎が主君の首を打ち落とすと、その場にいた八十余名の家臣たちも、次々と主君の後を追い、殉死を遂げた 22 。
勝家の最期は、それで終わりではなかった。かねてより天守に運び込まれていた大量の火薬に、聞荷斎が火をつけたのである 22 。次の瞬間、轟音と共に北ノ庄城の天守は大爆発を起こし、勝家をはじめとする八十余名の遺骸もろとも、木っ端微塵に吹き飛んだ。『川角太閤記』によれば、その爆風は凄まじく、天守の瓦や燃えさしが、一キロメートル以上離れた秀吉の本陣まで飛来したと記されている 7 。自らの肉体はおろか、その一片たりとも敵の戦利品とさせない。それは、自らの死のあり方、そして死後の名誉さえも完全に支配しようとする、柴田勝家の凄絶な意志の最終的な発露であった。
自害の時刻については、秀吉の書状にある「辰ノ下刻(午前九時頃)」 13 、あるいは他の軍記物にある「申ノ刻(午後四時頃)」 23 、「寅の下刻(午後五時頃)」 22 など諸説あり、歴史の煙の中に正確な時刻は失われている。しかし、柴田勝家という武将が、自らの死を後世に語り継がれるべき一つの「物語」として、完璧に演出しきったことだけは、確かであった。
【史料に見る柴田勝家・お市の方の最期】
この北ノ庄城での悲劇は、単一の完璧な記録によってではなく、複数の史料に遺された断片的な記述を繋ぎ合わせることで、その全体像が浮かび上がる。それぞれの史料が、異なる視点からこの歴史的瞬間を伝えている。
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史料名 |
柴田勝家・お市の方の最期に関する記述内容の比較 |
典拠 |
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『秀吉事記』 |
4月23日夜、天守での最後の宴。勝家がお市に脱出を勧めるも拒否される。三人の娘は城外へ。 |
12 |
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『渓心院文』 |
勝家とお市の最後の会話の典拠。お市の次女・初の侍女による覚書。 |
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羽柴秀吉書状 |
「天守へ取上、妻子以下刺殺、切腹、廿四日辰ノ下刻(午前9時頃)相果候」と、秀吉自身による簡潔な報告。 |
13 |
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『川角太閤記』 |
天守に運び込まれた火薬が爆発し、天守の瓦などが十町(約1km)離れた秀吉の本陣まで飛んできたという、爆死の壮絶さを伝える記述。 |
7 |
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『甫庵太閤記』 |
勝家が天守最上階から「我が腹の切り様を見よ」と叫んだこと、申ノ刻(午後4時頃)に果てたとする記述。 |
23 |
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『柴田退治記』 |
寅の下刻(午後5時)に、十文字腹を切り、中村聞荷斎が介錯したとする詳細な記述。 |
22 |
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ルイス・フロイスの記録 |
北ノ庄城が安土城に匹敵する壮麗な城であったことなど、宣教師の客観的な視点からの記録。 |
9 |
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太田牛一『大かうさまくんきのうち』 |
簡潔に、勝家が一門・親類30余人と共に切腹し、天守に火をかけ焼死したと記す。 |
17 |
終章:寂寥譚の残響
柴田勝家の最期を語る逸話には、しばしば「春雪の中で」という詩的な表現が伴う。しかし、この描写の史実性を検証すると、一つの結論に至る。落城した旧暦四月二十四日は、現在の太陽暦に換算すると六月上旬にあたる 7 。賤ヶ岳の戦い自体が、北陸の雪解けを待って開始されたものであり 2 、この時期に北ノ庄で雪が降ることは、気候的に考え難い。
したがって、「春雪」の描写は、史実というよりも、後世の講談や物語がこの悲劇に加えた文学的な演出である可能性が極めて高い。しかし、この事実は逸話の価値を損なうものではない。むしろ、なぜ「雪」というイメージが付加されたのかを考えることで、この物語が持つ本質的な「寂寥感」がより鮮明になる。雪は、北国に本拠を置いたが故に機動力を削がれた勝家の悲運を象徴し、また、炎に包まれて消えていく命の儚さと、その背景にある冷たく静かな孤独を際立たせる。それは、史実を超えた「心象風景としての雪」であり、この物語を単なる戦記から、胸を打つ「寂寥譚」へと昇華させる重要な装置なのである。
「かかれ柴田」の異名が示す通り、柴田勝家の生涯は、勇猛果敢な突撃に象徴される、剛直なものであった 25 。その生き様は、織田信長という絶対的な主君の下では最大の武器となった。しかし、信長が斃れ、力だけでは推し量れない複雑な政治と調略の時代が到来すると、その剛直さは逆に命取りとなった。彼の敗北は、時代の変化に対応できなかった武将の悲劇であった。
その不器用で、あまりにもまっすぐな武将が、戦国一の美姫と謳われたお市の方と、人生の黄昏に結ばれた。そして、わずか半年という短い時間の中で、深い絆を育み、壮絶にして美しい最期を共にした。猛々しい「剛」の武将の物語が、数奇な運命に翻弄された「柔」の姫の悲哀と交わることで、他に類を見ない深みと奥行きを獲得した。柴田勝家の物語が、単なる敗者の記録としてではなく、今なお人々の心を打ち、涙を誘う「寂寥譚」として語り継がれる理由は、まさにここにある。北ノ庄の天守から立ち上った黒煙は、一つの時代の終わりと、滅びの美学の伝説を、後世に伝え続けている。
引用文献
- 賤ヶ岳の戦(しずがたけのたたかい)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%B3%A4%E3%83%B6%E5%B2%B3%E3%81%AE%E6%88%A6-839882
- 柴田勝家が築いた北ノ庄城~勝家・お市の方終焉の地~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/etizen/kitanosho-jyo.html
- 柴田勝家はなぜ、賤ヶ岳で敗れたのか~秀吉の謀略と利家の裏切り - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5303?p=2
- 賤ヶ岳の戦い - 敦賀市 http://historia.justhpbs.jp/toring1.html
- 賤ヶ岳の戦い - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7258/
- 北ノ庄城の戦い - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/KitanosyouJou.html
- 秀吉に一矢を報いた勝家 - 紀行歴史遊学 - Typepad https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2012/09/%E7%A6%8F%E4%BA%95%E7%A7%80%E5%90%89%E6%9C%AC%E9%99%A3.html
- 柴田勝家 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1618
- 北ノ庄城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/hokuriku/kitanosyo.j/kitanosyo.j.html
- 信長の後を継ぐのは誰か?柴田勝家と羽柴秀吉、最終決戦「北ノ庄城」 | 夢中図書館 いざ城ぶら! https://favoriteslibrary-castletour.com/fukui-kitanoshojo/
- 柴田勝家 - 福井市立郷土歴史博物館 https://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/tenji/kaisetsusheets/18.pdf
- 北ノ庄城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E3%83%8E%E5%BA%84%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 「勝家の切腹を見て後学にせよ」真っ先にお市夫人を刺殺し自分の腹を ... https://president.jp/articles/-/72228?page=2
- 「秀吉と一緒になるのがイヤ」ではない…お市の方が柴田勝家との自害 ... https://president.jp/articles/-/99704?page=1
- 北庄に散った柴田勝家とお市の方 - ふくい歴史王 http://rekishi.dogaclip.com/rekishioh/2015/07/post-8771.html
- 観光案内:柴田勝家 - 福井市 https://www.fcci.or.jp/fsig/katuie.htm
- 「勝家の切腹を見て後学にせよ」真っ先にお市夫人を刺殺し自分の腹を十文字に切った柴田勝家の壮絶な最期 | (4/5) | PRESIDENT WOMAN Online(プレジデント ウーマン オンライン) | “女性リーダーをつくる” https://president.jp/articles/-/72483?page=4
- 勝家とお市の方の悲話を伝える<北庄城> https://sirohoumon.secret.jp/kitanosyoujo.html
- 辞世の句・歌 その24「夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲居にあげよ山ほととぎす」(柴田勝家) https://wakadokoro.com/learn/jisei/%E8%BE%9E%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%AD%8C-%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%92%EF%BC%94%E3%80%8C%E5%A4%8F%E3%81%AE%E5%A4%9C%E3%81%AE%E5%A4%A2%E8%B7%AF%E3%81%AF%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%81%8D%E8%B7%A1%E3%81%AE%E5%90%8D/
- 柴田勝家・お市の方 | 歴史あれこれ | 公益財団法人 歴史のみえるまちづくり協会 https://www.fukui-rekimachi.jp/category/detail.php?post_id=32
- 北ノ庄城址 https://gururinkansai.com/kitanoshojoato.html
- 柴田勝家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%8B%9D%E5%AE%B6
- 戦国武士の「名誉ある死」――柴田勝家の最期から紐解く、《切腹》の多面的な性格 - 幻冬舎plus https://www.gentosha.jp/article/27777/
- 北の庄城址資料館 柴田公園をより深く楽しめる情報がいっぱい https://www.tanosimiya.com/blog/2024062604/
- "機を見て敏"に動けなかった柴田勝家の後悔|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-031.html