最終更新日 2025-10-14

淀殿
 ~天守で最期高貴な終焉譚~

大坂夏の陣で淀殿は武具をまとい兵を励ますが敗色濃厚に。最期は自刃か射殺か史料は交錯するも、その死は豊臣家の終焉と徳川の世の到来を告げる悲劇として語られる。

淀殿、天守における最期 ― 高貴なる終焉譚の深層分析

序章:終焉譚の原風景 ― 燃え落ちる大坂城

慶長二十年(1615年)五月八日、豊臣の栄華を象徴した大坂城は、紅蓮の炎に包まれ、黒煙を天に立ち昇らせていた。この日、淀殿とその子・秀頼が迎えた最期は、単なる一個人の死ではない。それは、太閤・豊臣秀吉が一代で築き上げた権威の象徴そのものの、物理的かつ象徴的な死と完全に同期する出来事であった 1 。城の炎上は、豊臣家の栄華の終焉を告げる壮大な舞台装置であり、その中で繰り広げられる終焉の物語は、必然的に「高貴」と「悲劇」の色を帯びることとなる。

大坂夏の陣の決戦となった前日、五月七日。真田信繁(幸村)や毛利勝永らの決死の奮戦により、豊臣方は一時、徳川家康の本陣にまで肉薄した 2 。しかし、徳川方の圧倒的な物量の前に戦線は崩壊。多勢に無勢の状況は覆しがたく、豊臣方の敗色は濃厚となった 3 。城内では、徳川方の内通者によるものか、あるいは松平忠直隊が大野治長邸にかけた火が燃え広がったものか、各所から火の手が上がった 2 。かつて秀吉が「二度目でなければ攻略できまい」と豪語した難攻不落の名城は、内と外から同時に崩れ落ちていったのである 6

この絶望的な状況は、淀殿にとって決して初めての経験ではなかった。大坂冬の陣において、徳川方が用いた大砲は、昼夜を問わず城内に撃ち込まれ、淀殿の居所である本丸にまで着弾した。その一弾が侍女の命を奪った時、彼女の心には深い衝撃が刻まれたと伝わる 3 。夏の陣における彼女の覚悟を理解する上で、この冬の陣での心理的圧迫は重要な伏線となる。燃え盛る城郭、轟く砲声、そして味方の潰走。物理的にも精神的にも追い詰められた極限状況こそが、「淀殿、天守における最期」という逸話の原風景なのである。

第一部:炎上する天守、最後の刻へ ― 時系列による再構築

第一章:決戦の日、城内の気概と混乱

慶長二十年五月八日、落城の日は、淀殿個人の気高い覚悟と、豊臣という組織全体の致命的な混乱が、悲劇的な乖離を見せた一日であった。徳川方ですら「女が意思決定を担っているため和議が遅れている」と認識していたように、淀殿は単なる「秀頼の母」ではなく、豊臣家の実質的な指導者であった 7 。その彼女が、この最後の日に見せた姿は、後世に形成された「悲劇のヒロイン」というイメージとは一線を画す、凛然たるものであった。

複数の史料が一致して伝えるのは、彼女の驚くべき行動力である。信頼性の高い記録とされる『当代記』によれば、淀殿は自ら武具をまとい、同じく武装した三、四人の侍女を従えて城内の番所を巡回したという 7 。そして、敗色に動揺する武士たち一人ひとりに声をかけ、最後の奉公を激励して回ったのである 8 。一説には80kgもの大鎧を身につけていたとも伝えられ、その姿は、二度の落城を生き延び、三度目の落城を前にしてなお、豊臣家の女主人としての誇りを失わない気概に満ちていた 11

しかし、その気丈な振る舞いとは裏腹に、城内の指揮系統はすでに崩壊しつつあった。豊臣方の中心人物であった大野治長が古傷からの出血で意識を失うと、その姿を見た兵士たちの間に「豊臣方は敗北した」との絶望的な誤解が広まった 2 。二の丸では、もはやこれまでと観念した将兵が次々と自刃。ある女中は、豊臣家の権威の象徴である馬印が敵の手に渡ることを潔しとせず、他の女中たちと協力してそれを粉々に打ち砕いたと『おきく物語』は伝える 12 。淀殿個人のリーダーシップは、もはや組織全体の崩壊を食い止める力を持たなかった。彼女の激励の声は、断末魔の叫びが満ちる城内において、悲壮なまでに空しく響いていたのかもしれない。

第二章:山里曲輪へ ― 終焉の地

本丸にも火の手が迫る中、淀殿と秀頼、そして運命を共にすることを決意した側近たちは、最後の場所を求めて城内を移動した。彼らがたどり着いたのは、天守の北に位置する「山里曲輪(やまざとまる)」であった 13

山里曲輪は、その名の通り山里の風情を模して造られた一角で、かつては松林や桜が茂り、いくつもの茶室が点在していた 13 。秀吉が要人をもてなし、また家族とくつろいだ、安らぎと思い出の場所である。その風雅な空間が、豊臣家終焉の地となったことには、歴史の深い皮肉が感じられる。

戦術的な選択というよりは、燃え盛る城内で唯一残された場所へと追い詰められた末の必然であった。一行が最後の籠城場所に選んだのは、山里曲輪にあった「糒庫(ほしいぐら)」(干飯を貯蔵する蔵、別名「朱三櫓」)あるいは「籾蔵(もみぐら)」とされる堅牢な建物であった 15 。伊達政宗の書状はこれを「焼残りの土蔵」と記している 18 。現在、大阪城公園内のこの地には、そうした伝承に基づき「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」の碑が静かに建てられている 11

その蔵の中には、淀殿と秀頼を中心に、最後まで忠義を尽くした者たちが集っていた。秀頼の介錯という大役を務めたとされる毛利勝永 20 。豊臣家の中枢を担い続けた大野治長 13 。真田信繁の嫡男・大助幸昌 20 。そして、淀殿の乳母であり、豊臣家の内情に深く関わった大蔵卿局 19 。史料によれば、彼らを含め、主従約32名がここで主君と運命を共にしたとされている 11

第二部:高貴なる終焉か、無惨なる最期か ― 史料の交錯

淀殿と秀頼の最期をめぐる記録は、決して一枚岩ではない。「高貴な終焉譚」の核となる誇り高き自害説がある一方で、それを根底から覆す無惨な射殺説も存在する。目撃者が生存していないという決定的な事実が、この歴史的瞬間の真相を深い霧の中に包み込んでいる 7 。これらの交錯する史料を比較検討することは、単に事実を追究するだけでなく、歴史がいかにして書かれ、語られるのかという本質的な問いを我々に投げかける。

第一章:「自刃説」の検証 ― 武家の作法と誇り

淀殿と秀頼が、武家の棟梁として、またその母として、作法に則り自ら命を絶ったとする「自刃説」は、複数の同時代史料によって伝えられており、「高貴な終焉譚」の根幹をなしている。公家である舟橋秀賢の日記『舜旧記』や、山科言緒の日記『言緒卿記』は、共に二人が自害したと記している 12

『言緒卿記』には、徳川方の軍勢が押し寄せる直前、秀頼が矢倉の脇で助命を嘆願する言葉を述べたが、叶わぬと悟り観念して切腹した、というより具体的な記述が見られる 21 。また、『春日社司祐範記』や薩摩藩の記録である「薩藩旧記雑録後編」は、最期の場所を「千畳敷」とし、自害の後、城に火が放たれ名物の茶道具もろとも焼失したと伝えている 21

これらの記述の中でも、豊臣方の悲劇性を最も象徴するのが、毛利勝永が秀頼の介錯を務めたという伝承である 20 。介錯は、切腹する者の苦しみを解き放ち、その名誉ある死を全うさせるための、武士社会における情けであり、重要な儀式であった 22 。勝永がその大役を果たした後、すべてを見届け、息子と共に静かに自刃したという逸話は、滅びゆく主家への絶対的な忠誠と、武士の美学を体現している。

淀殿自身の自害についても、当時の武家の女性の価値観から考察する必要がある。武家の娘は、嫁ぐ際に護身と、いざという時に誇りを守り自害するための懐剣を携えた 23 。その作法は喉を掻き切るなど、凄惨なものであったが、それは敵の手に落ちて辱めを受けることを最大の不名誉とする彼女たちの覚悟の表れであった 24 。淀殿が自害を選んだとすれば、それは浅井長政の娘、そして豊臣秀吉の妻として、その出自と立場に相応しい名誉を守るための、最後の、そして最も高貴な選択であったと解釈できる。彼女が辞世の句を残さなかったという事実もまた、言葉を弄するよりも行動で覚悟を示した、その潔さの証と見ることもできよう 25

このように、「自刃説」は単なる事実報告に留まらない。それは豊臣家の滅亡を、単なる敗北ではなく「名誉ある悲劇」として歴史に刻むための物語的機能を果たしている。勝者である徳川の正当性に対し、敗者の側からその誇りを後世に伝える、一つの精神的な抵抗の形であったとも言えるだろう。

第二章:「射殺説」の衝撃 ― 『本光国師日記』が描くもの

誇り高き自刃説と真っ向から対立するのが、徳川家康の側近中の側近であった金地院崇伝の日記『本光国師日記』にのみ記された、衝撃的な「射殺説」である 21

「黒衣の宰相」とも呼ばれ、江戸幕府の法制度や外交文書の起草に深く関与した崇伝は、その日記にこう記した。唐物倉に籠もった秀頼と淀殿に対し、降伏は認められず、井伊直孝が率いる鉄砲隊が蔵を包囲し、一斉射撃を加えた。母子は、自害すら許されず、銃弾によって命を落とした、と 17

この記述の特異性は、著者である崇伝の立場を考慮することで、その意図が浮かび上がってくる。『本光国師日記』は、幕府の政策決定の裏側を記した、極めて史料価値の高い記録であると同時に、徳川幕府の公式見解に限りなく近い性格を持つ 26 。その崇伝が、なぜ敢えてこのような無惨な最期を記録したのか。

武士社会において、自刃(切腹)は名誉ある死とされた一方、処刑は罪人に対するものであり、最大の不名誉であった 27 。崇伝の記述は、秀頼と淀殿が「潔い切腹すら許されず、反逆者として処刑された」という構図を鮮明に描き出す。これは、豊臣家を「天下人の後継者」という神聖な地位から引きずり下ろし、「幕府に弓引いた謀反人」としてその滅亡を正当化する、強力な政治的プロパガンダとして機能する 12

『本光国師日記』の記述は、客観的な事実報告というよりも、歴史の「勝者による記録」の典型例と見なすべきであろう。それは、豊臣家の権威を歴史的に完全に無力化し、徳川による天下泰平の到来を絶対的な正義として後世に刻むための、高度に意図された情報操作であった可能性が極めて高い。この異説の存在は、「高貴な終焉譚」がいかに脆弱な基盤の上に成り立っているかを物語っている。

第三章:目撃者なき最期 ― 錯綜する情報とその背景

淀殿と秀頼の最期に関する情報がなぜこれほどまでに錯綜したのか。その根源には、落城直後の大坂城が情報のブラックホールであったという事実がある。燃え盛る炎、立ち上る黒煙、そして数万の兵士が入り乱れる極度の混乱の中、正確な情報が外部に伝わること自体が困難であった 12

その状況を如実に示すのが、伊達政宗が国元に送った書状の記述である 18 。彼は「秀頼又御袋も焼残りの土蔵にはいり御座候、御腹を切らせ御申候」と報告している。この「切らせ申候」という表現は、自発的な自害というよりは、誰かに強制された、あるいは追い詰められてやむなく切腹したというニュアンスを帯びる。これは、戦場で得た断片的な情報が、伝達者の解釈を交えながら広まっていく過程を示す好例と言える。

そして何よりも決定的なのは、彼らの最期を直接目撃した者が誰一人として生きて還らなかったという事実である 7 。我々が今日目にすることができる記録はすべて、現場の状況からの推測か、あるいは誰かからの又聞きに基づいた伝聞情報に過ぎない。

これらの錯綜する情報を整理するため、以下に主要な史料の比較表を提示する。

表1:淀殿と秀頼の最期に関する主要史料の比較

史料名

記述される場所

死因

主要な同席者

特記事項

『舜旧記』

千畳敷

自害

秀頼、淀殿

伝聞情報である可能性が高い 12

『言緒卿記』

矢倉の脇

切腹

秀頼、淀殿

助命嘆願の言葉があったとされる 21

『本光国師日記』

唐物倉

鉄砲による射殺

秀頼、淀殿

徳川方の公式記録に近い立場からの記述 21

伊達政宗書状

焼残りの土蔵

切腹させられる

秀頼、御袋(淀殿)

第三者による速報的な情報 18

『春日社司祐範記』

千畳敷

自害

秀頼、淀殿以下

茶道具も焼失したとの記述あり 21

この表が示すように、場所も死因も、記録によって様々である。この事実は、歴史記述そのものの本質的な問題を我々に突きつける。歴史とは、絶対的な真実の記録ではなく、常に断片的で、書き手の立場や意図によってバイアスのかかった情報源から再構築される「解釈」の産物なのである。「淀殿の最期」をめぐる謎は、歴史という学問の不確かさと、その探求の奥深さを象徴している。

第三部:逸話の変容 ― 怨霊と物語の誕生

史実としての淀殿の死は、その不確かさ故に、後世の人々の想像力を大いに刺激した。彼女の最期は、歴史のページを離れ、伝説、怨霊譚、そして舞台芸術の世界へと羽ばたいていく。その変容の過程は、時代の価値観がいかに歴史上の人物像を塗り替えていくかを雄弁に物語っている。

第一章:遺体なき死と生存伝説

淀殿と秀頼の遺体は、公式には確認されなかった。燃え盛る蔵の中で骨すら残らなかったとされているが、この「遺体の不在」という事実が、生存伝説を生み出す直接的な土壌となった 7

豊臣家への同情心、いわゆる「判官贔屓(ほうがんびいき)」の感情を持つ人々にとって、豊臣の血筋が完全に途絶えたという事実は受け入れがたいものであった 29 。その民衆の願望が、史実の空白を埋める形で物語を紡ぎ出したのである。特に有名なのは、真田信繁が秀頼を護衛して薩摩の島津氏を頼って落ち延びたという伝説であり、これに付随して淀殿も薩摩へ逃れたとする説が生まれた 7 。また、遠く離れた上野国厩橋(現在の群馬県前橋市)まで逃れ、その地で没したという説も存在する。この地には、その伝承を裏付けるかのように、淀殿の墓とされるものが今も残っている 30 。これらの伝説は、史実的根拠は薄弱であるものの、豊臣家の滅亡を悼む人々の心が作り出した、もう一つの「終焉譚」と言えるだろう。

第二章:祟りの記憶 ― 大阪城に棲まう怨霊

非業の死を遂げた者の魂が怨霊となって祟りをなす、という信仰は古くから日本に根付いている。淀殿と秀頼の死もまた、例外ではなかった。大坂夏の陣の直後から、焼け落ちた大坂城跡から夜な夜な黒い煙が立ち上り、人々はそれを「秀頼と淀殿の祟りだ」と噂したという 31

数ある怨霊譚の中でも、特に淀殿と強く結びつけられたのが「蛇」のモチーフである。彼女の尽きせぬ妄念が蛇の姿となり、夜な夜な城の石垣の上から人々を睨みつける、という怪異譚が語り継がれている 32 。なぜ蛇なのか。これには二つの背景が考えられる。

一つは、徳川幕府による意図的なイメージ操作である。江戸時代に出版された『絵本太閤記』などでは、淀殿は豊臣家を破滅に導いた悪女として描かれ、時には蛇の化身として表現されることさえあった 33 。これは、豊臣家滅亡の責任を彼女一人に押し付け、徳川の天下統一を正当化するためのプロパガンダであった。

もう一つは、日本古来の文化的背景である。安珍・清姫伝説に代表されるように、日本の神話や伝承では、女性の抑えがたい情念、特に嫉妬や怨念が蛇の姿で具現化されるという類型が古くから存在する 34 。歴史上の人物である淀殿の物語は、この民俗的なアーキタイプに当てはめられ、為政者の政治的意図と民衆の持つ古来の恐怖心とが融合することで、「蛇と化した怨霊」というハイブリッドな伝説が誕生したのである。

第三章:舞台の上の淀殿 ― 悲劇のヒロインへ

江戸時代が泰平の世となり、徳川の治世が盤石になると、かつて朝敵とされた豊臣家への見方は次第に変化していく。直接的な脅威でなくなった豊臣家は、むしろ「判官贔屓」の対象となり、その滅亡の物語は講談や歌舞伎といった大衆芸能の人気演目となった。この中で、淀殿の人物像もまた大きな変容を遂げる。

その象徴的な作品が、明治時代に坪内逍遥によって書かれた新歌舞伎『沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)』である 36 。この舞台で描かれる淀君は、もはや武装して兵を励ます猛々しい女丈夫ではない。彼女は、豊臣家の誇りを守るという一点において極めて気位が高いが故に、敵将・家康の孫娘である千姫を人質として手放そうとしない。しかし、その千姫が城を脱出したことを知ると、最後の拠り所を失い、激しく乱心する悲劇の女性として描かれる 36

この作品に見られるように、淀殿は「国を滅ぼした悪女」というレッテルから解放され、運命に翻弄されながらも最後まで誇りを失わなかった「悲劇のヒロイン」へと、そのパブリックイメージを転換させていった。彼女の物語は、時代の価値観を映し出す鏡となった。幕府成立直後は「反逆者の母」として、泰平の世では「悲劇の貴婦人」として。歴史上の人物は、後世の人々によって常に「再発見」され、その時代の精神を体現するキャラクターとして語り継がれていく。淀殿の最期をめぐる逸話は、その典型的な一例なのである。

結論:語り継がれる「高貴な終焉譚」の深層

「淀殿~天守で最期高貴な終焉譚~」という逸話は、その優雅な響きとは裏腹に、決して単一の美しい物語ではない。本レポートで検証してきたように、それは史実の断片、勝者の論理、敗者への同情、そして後世の創作が複雑に絡み合った、極めて多層的な言説の集合体である。

その核心には、少なくとも四つの異なる物語が存在する。第一に、武家の作法に則り、誇り高く自ら命を絶ったとする**「誇り高き自刃」 の物語。第二に、自害すら許されず、反逆者として無惨に処刑されたとする 「無惨な処刑」 の物語。第三に、その非業の死が怨念となり、蛇と化して祟りをなしたとする 「怨霊の祟り」 の物語。そして第四に、運命に翻弄されながらも気高く生きた女性の生涯を悼む 「悲劇の物語」**である。

これらの多様な解釈が生まれる余地を与えたのは、目撃者の不在と落城時の極度の混乱という、歴史的な状況そのものであった。しかし、我々が忘れてはならないのは、『当代記』が伝える、後世の物語からはしばしば見過ごされてきた彼女のもう一つの姿、すなわち自ら武具をまとい、兵士を鼓舞して最後まで戦い抜こうとした**「戦う指導者」**としての側面である。

結局のところ、「高貴な終焉譚」とは、数ある解釈の中で最も美しく、最も悲劇的であるが故に、人々の記憶に残り続けた一つの「願望の物語」なのかもしれない。しかし、その深層には、史実の断片、為政者の政治的意図、そして無数の人々の感情が渦巻いている。その解き明かせない複雑さこそが、四百年以上の時を経た今もなお、我々を惹きつけてやまないこの逸話の真の魅力なのである。

引用文献

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  2. 「大坂夏の陣(1615)」豊臣vs徳川が終戦。家康を追い詰める ... https://sengoku-his.com/712
  3. (わかりやすい)大坂の陣 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/oosaka.html
  4. 「大坂の陣(夏の陣/冬の陣)」豊臣 VS 徳川の大決戦をまとめてみました | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/527
  5. 夏の陣、大坂落城その時⑤炎上 | 城郭模型製作工房 https://ameblo.jp/orin-pos/entry-12227175403.html
  6. まさかのオウンゴール?難攻不落の大坂城が落とされた原因は、豊臣秀吉のせいだった?! https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/123786/
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