最終更新日 2025-10-28

真田幸村
 ~本陣突入兜外し顔見よ真田なり~

真田幸村(信繁)が大坂の陣で徳川家康本陣へ突入した史実を検証。兜を外し「顔を見よ、これが真田なり」と叫んだ逸話の真偽と、伝説が生まれた背景を探る。

真田信繁、最後の突撃 ― 逸話「顔を見よ、これが真田なり」の時空間的復元と史的検証

序章:決戦の朝 ― 滅びゆく豊臣の最後の賭け

慶長二十年(1615年)五月七日、払暁。大坂城南方に広がる天王寺・岡山の地は、戦国という時代の終焉を告げる最後の決戦を前に、張り詰めた静寂に包まれていた。この日、真田左衛門佐信繁(さなださえもんのすけのぶしげ)は、豊臣家の命運、そして自らの武士としての生涯のすべてを賭した突撃を敢行する。本報告書で検証する「兜を外し『顔を見よ、これが真田なり』と叫んだ」という逸話は、この壮絶な一日の、まさに頂点に位置するものである。しかし、この突撃とそれにまつわる逸話を正しく理解するためには、まず、それが単なる一個人の武勇伝ではなく、豊臣方が選びうる唯一にして最後の戦略であったという、冷徹な事実を認識せねばならない。

この時点で、豊臣方と徳川方の戦力差は絶望的であった。徳川方は全国から動員された約15万の大軍勢であるのに対し、豊臣方は寄せ集めの牢人衆を中心に約5万5千に過ぎなかった 1 。前年の大坂冬の陣の結果、大坂城は外堀と二の丸、三の丸を埋め立てられ、もはや籠城戦に耐えうる要塞ではなかった 3 。豊臣方の諸将が野戦による短期決戦に活路を見出そうとしたのは、必然の帰結であった 4

軍議において、豊臣方の作戦目標はただ一点に絞られていた。それは、徳川軍の総大将、徳川家康の首級ただ一つであった。オランダ東インド会社の記録が日本の実質的な「皇帝」と記した家康さえ討ち取れば、豊臣方の勝利は確実と見なされていた 5 。諸大名から必ずしも信望が厚いとは言えない二代将軍・秀忠では15万の連合軍を統率できず、人心の期待を集める豊臣秀頼を擁する豊臣方が政治的に復権できるという、極めて高度な、しかし成功の確率が限りなく低い賭けであった。この「戦略的斬首作戦」とも言うべき計画において、信繁の部隊は、敵陣の心臓部を貫く槍の穂先そのものであった。

信繁が本陣を構えた茶臼山は、奇しくも冬の陣で家康が本陣を置いた因縁の地であった 4 。この場所に立つ信繁の胸中には、父・昌幸から受け継いだ知略のすべてと、武士としての誇りをかけて、当代随一の権力者に一矢報いんとする、並々ならぬ覚悟が満ちていたに違いない。彼の突撃は、滅びゆく者たちの最後の咆哮であり、豊臣家の存亡を賭けた唯一無二の希望だったのである。

第一章:鬨の声、地を揺るがす ― 茶臼山からの進撃

慶長二十年五月七日正午頃、天王寺口において戦闘の火蓋が切られた。真田信繁率いる部隊は、茶臼山から鬨の声を上げ、徳川軍の分厚い陣列へとその歩みを進めた。それは、戦国最後の合戦における、最も苛烈な時間の始まりであった。

信繁が率いる兵力は、わずか3,500余りであったと伝わる 4 。しかし、その一団は戦場で比類なき威圧感を放っていた。兵士たちは皆、鎧、兜、旗指物を真紅に染め上げた「真田の赤備え」で統一されていた 4 。赤備えは、かつて甲斐武田軍において最強を謳われた部隊の象徴であり、真田氏が武田旧臣であることの誇りを示すものであった。そして何より、徳川家康にとって、それは若き日に三方ヶ原で惨敗を喫した武田信玄の記憶を呼び覚ます、悪夢の色でもあった 7 。信繁は、この視覚的・心理的効果を最大限に利用し、敵に物理的な戦力以上の恐怖を植え付けようとしたのである。

その真田隊の正面に立ちはだかったのは、徳川家康の孫であり、徳川軍の中でも屈指の兵力を誇る松平忠直率いる1万5千の越前兵であった 4 。実に4倍以上の兵力差である。常識的に考えれば、正面からの衝突は無謀としか言いようがない。しかし、信繁の突撃は単独で行われたわけではなかった。彼の左翼に布陣していた毛利勝永の部隊が、先に徳川方の先鋒である本多忠朝隊を打ち破り、さらに第二陣の榊原康勝、仙石忠政、諏訪忠澄らの部隊をも次々と崩壊させていた 7 。この毛利隊の獅子奮迅の働きによって生じた徳川方の混乱が、真田隊の進撃路を切り開く上で決定的な役割を果たした。

信繁はこの好機を逃さなかった。毛利隊の奮戦によって生じた敵陣の動揺に乗じ、彼は配下の兵に口々に叫ばせたと伝わる。「浅野殿がお味方についたぞ」と 7 。松平隊の後方に布陣していた浅野長晟隊が裏切ったという偽情報である。これを聞いた越前兵は浮き足立ち、その陣形に致命的な亀裂が生じた。この逸話の真偽は定かではないが、父・昌幸譲りの知略と謀略を駆使して、単なる武勇のみに頼らず戦況を有利に導こうとする信繁の姿を彷彿とさせる。武威と知略、そして友軍との完璧な連携。これらが一体となった瞬間、真田隊は怒涛の如く、1万5千の厚い壁を突き破ったのである。

第二章:血路を開け ― 徳川本陣への三度の波状攻撃

松平忠直の精強な越前兵団を突破した真田隊は、もはやその勢いを止める術を知らなかった。朱色の軍団は、徳川方の諸部隊を次々と蹴散らし、ただ一点、家康の本陣のみを目指して血路を切り開いていく。史料によれば、真田隊はこの過程で実に10以上の部隊と交戦し、これを蹂躙したと記録されている 8 。これは、戦国時代の合戦史上、類を見ない驚異的な突破力であった。

この時の真田隊の凄まじさを、敵方であった薩摩藩の史料『薩藩旧記雑録』は克明に伝えている。それによれば、信繁は家康の本陣に対し、実に三度にわたって波状攻撃を仕掛けたという 11 。一度目の突撃で本陣の守りを突き崩し、二度目の突撃で旗本衆を追い散らし、そして三度目の突撃で家康その人に肉薄した。一度崩されては体勢を立て直し、再び突撃するその執拗さと鬼気迫る猛攻は、徳川本陣を未曾有の恐慌状態に陥れた。本陣の兵の中には、恐怖のあまり三里(約12km)も逃げ出した者もいたと記されている 11

徳川方自身の記録である大久保彦左衛門の『三河物語』も、この時の本陣の無様な崩壊ぶりを隠すことなく記している。徳川家の象徴であり、家康の旗印である「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」の金扇の馬印(うまじるし)が倒され、土埃にまみれた 11 。徳川家の馬印が倒れたのは、武田信玄に完膚なきまでに叩きのめされた「三方ヶ原の戦い」以来のことであった 12 。家康の脳裏には、真田の赤備えが、かつて自らを死の淵に追いやった武田の赤備えと二重写しになって見えたに違いない。この衝撃は、単なる物理的な脅威に留まらず、家康の心の奥底に刻まれたトラウマを呼び覚ます、強烈な心理的打撃であった。

混乱は極限に達した。旗本たちは散り散りに逃げ惑い、家康の周囲にはごく僅かな供回りしか残っていなかった。『三河物語』によれば、一時は家臣の小栗正忠とわずか二人きりになり、もはやこれまでと自刃を覚悟したとさえ記されている 11 。信繁の刃は、文字通り天下人の喉元にまで達していたのである。この戦国時代最後の大合戦におけるクライマックスの光景は、戦いに参加した黒田長政が描かせたとされる国指定重要文化財『大坂夏の陣図屏風』にも、生々しく記録されている 14 。そこには、特徴的な鹿角脇立付兜(かづのわきだてつきかぶと)を被った信繁が、松平忠直隊と激突する場面が描かれており 16 、この一瞬の輝きが、同時代人にとっていかに衝撃的であったかを雄弁に物語っている。

第三章:逸話の検証 ― 「顔を見よ、これが真田なり」は叫ばれたか

徳川家康を自刃寸前まで追い詰めた真田信繁の猛攻。そのクライマックスを象徴する逸話として語り継がれてきたのが、「兜を外し『顔を見よ、これが真田なり』と叫んだ」という場面である。この劇的な名乗りは、信繁の不屈の闘志と武士としての矜持を凝縮したものとして、多くの人々の心を捉えてきた。しかし、この逸話は果たして歴史的事実なのだろうか。史料批判の観点から、その信憑性を徹底的に検証する。

分析一:逸話の状況的再構成

まず、この逸話が事実であったと仮定した場合、それがどのような状況で起こり得たかを考察する必要がある。家康本陣に突入し、敵兵が入り乱れる戦闘の最高潮において、自ら防御の要である兜を外すという行為は、戦術的に見て極めて非現実的である。敵に顔を晒すことは、格好の的になることを意味し、百戦錬磨の信繁が取る行動とは考えにくい。もしこの行為があったとすれば、それは戦闘行為の一環としてではなく、自らの死を覚悟した上で、自己の存在を敵将に、そして後世に強く刻みつけるための、象徴的なパフォーマンスであったと解釈するのが妥当であろう。

分析二:名称の矛盾 ―「幸村」という名の謎

逸話の信憑性を揺るがす、より決定的な問題は、叫ばれたとされる「幸村」という名にある。現代では「真田幸村」の名で広く知られているが、信繁が生前に「幸村」と名乗ったことを示す確かな一次史料は、今日に至るまで一切発見されていない 18 。彼が自筆の書状などで用いた実名は、一貫して「信繁」である。

「幸村」という名が歴史の表舞台に登場するのは、大坂の陣から約半世紀後の寛文十二年(1672年)頃に成立した軍記物語『難波戦記』が最初である 9 。この書物が大衆の人気を博したことで、「幸村」の名が英雄譚の主人公として定着していった 21 。したがって、信繁自身が合戦の場で「幸村」と名乗ることはあり得ず、この一点をもって、逸話の文言そのものの史実性はほぼ完全に否定される。

分析三:史料に見る「名乗り」との乖離

他の史料が伝える信繁の最期の言葉や状況も、この逸話とは大きく異なっている。

最も広く知られている通説は、度重なる突撃で疲労困憊し、安居神社の境内で休息していたところを敵兵に発見され、「我が首を手柄にせよ」と潔く首を差し出した、というものである 9。これは武士の美学を感じさせる最期として語られる。

また、別の記録では、最期に「我は真田左衛門佐(信繁)なり」と実名を名乗ったとも伝わる 24。

そして近年、信憑性が高い史料として注目されているのが、信繁を討ち取った当人である越前松平家の鉄砲組頭・西尾仁左衛門の記録(福井県立図書館所蔵『松平文庫』)である。これによれば、西尾は当初、相手が信繁とは知らず、馬上にて遭遇した「よき敵」として一騎討ちを挑み、激闘の末に討ち取った。その首が信繁のものであると判明したのは、後のことであったという 10。この当事者の記録は、自ら名乗りを上げて顔を見せたという逸話とは明確に矛盾する。

分析四:英雄「幸村」の誕生と逸話の形成

では、なぜ史実とは異なるこのような劇的な逸話が生まれ、語り継がれるようになったのか。その背景には、江戸時代という泰平の世における人々の心理がある。徳川幕府の絶対的な支配体制下で、その創業者である家康を窮地に陥れた信繁の物語は、民衆にとって一種のカタルシスをもたらす格好の娯楽であった 9

『難波戦記』をはじめとする講談や軍記物語は、体制に一矢報いた反骨の英雄として信繁を偶像化していった。その過程で、「兜を外し、顔を見せる」という、視覚的で記憶に残りやすい場面が、英雄譚を完成させるための象徴的なクライマックスとして創作されたと考えられる。それは、徳川の権威を直接的に批判することなく、かつての「反逆者」の武勇を最大限に称賛するための、洗練された文化的装置であった。つまり、この逸話は歴史の記録ではなく、徳川の治世下で語られることを前提として生まれた「記憶の物語」なのである。

以下の表は、信繁の最期に関する主要な伝承を比較したものである。

項目

逸話:「顔を見よ、これが真田なり」

通説:「我が首を手柄にせよ」

西尾仁左衛門の記録(松平文庫)

典拠

主に江戸中期の軍記物『難波戦記』以降の講談・創作物 18

江戸期の複数の編纂史料 9

討ち取った当人の書状の写し 10

状況

家康本陣突入時、あるいはその直後。自ら兜を外す。

疲労困憊し、安居神社で休息中、敵に発見される。

騎馬で移動中、同じく騎馬の西尾と遭遇し、一騎討ちとなる。

行動

敵(家康)に対し、自己の存在を誇示する。

抵抗せず、武士としての潔さを示す。

相手が誰か知らぬまま、最後まで武人として戦う。

信憑性

低い(名称の矛盾、状況の非現実性、一次史料の欠如)

中程度(武士の最期として典型的だが、美化の可能性あり)

高い(当事者の記録であり、具体的で自己顕示的な脚色がない)

この比較から明らかなように、当該逸話は他の伝承、特に一次史料に近い記録と比較して、創作の要素が色濃い。それは歴史的事実の探求というよりも、後世の人々が「真田幸村」という英雄にどのような姿を求めたかを示す、文化史的な資料として捉えるべきであろう。

第四章:燃え尽きる魂 ― 日本一の兵、最後の刻

栄光の突撃は、しかし、あと一歩のところで実を結ばなかった。数で圧倒的に勝る徳川方は、一時的な混乱から次第に体勢を立て直し、分厚い包囲網で真田隊を圧迫し始めた。岡山口から駆けつけた井伊直孝隊や藤堂高虎隊が真田隊の側面に攻撃を仕掛けたことで、その勢いは決定的に削がれた 10

さらに致命的だったのは、豊臣方の後続部隊による支援が絶たれたことであった。当初の作戦では、真田・毛利隊の突撃によって徳川本陣が混乱した機を捉え、総大将である豊臣秀頼自らが出馬し、全軍の士気を鼓舞する手はずであった 10 。しかし、秀頼は最後まで大坂城の桜門から動くことはなかった。この総大将の不在が、豊臣全軍の最後の粘りを失わせ、信繁の奮戦を孤立無援のものとしたのである。

衆寡敵せず、真田隊は壊滅。信繁自身も度重なる戦闘で全身に傷を負い、満身創痍となっていた。彼は乱戦の中からかろうじて離脱し、四天王寺近くの安居神社の境内へとたどり着き、境内の松の木の下でしばしの休息を取ったと伝えられている 4

「日本一の兵」と謳われた男の最期の瞬間については、前章で触れたように複数の説が存在する。その対比は、後世の人々が信繁という武将に投影した理想像の多様性を映し出している。

広く知られる通説は、疲労困憊して動けなくなった信繁が、追ってきた越前松平家の西尾仁左衛門に発見され、「我が首を手柄にせよ」と静かに告げ、一切抵抗することなく討たれたというものである 23。これは、自らの運命を受け入れ、見事に散っていく武士の「滅びの美学」を体現した、受動的で潔い最期である。

一方、近年注目される『松平文庫』の記録が示すのは、最後まで武人としての誇りを失わなかった能動的な最期である 10。この説では、信繁は西尾と一対一で槍を交え、死力を尽くして戦った末に討ち取られたとされる。これは、不屈の闘志を燃やし続けた勇士としての姿を強調するものである。

いずれの説が真実であったにせよ、彼の死が敵方にも大きな衝撃を与えたことは間違いない。討ち取られた信繁の首が徳川本陣に届けられると、その首実検には多くの徳川方武将が見物に訪れたという。そして、その武勇にあやかりたいと、彼の髪の毛を記念に持ち帰る者までいたと伝えられている 9 。敵味方の垣根を越えて最大限の敬意が払われたこの事実は、彼の戦いぶりが、戦国の世の終わりにいかに鮮烈な輝きを放ったかを物語っている。

結論:史実の突撃、伝説の名乗り

本報告書は、真田信繁の「家康本陣へ突入の際、兜を外し『顔を見よ、これが真田なり』と叫んだ」という逸話について、その背景となる戦闘の時系列的展開と、逸話自体の史実性を多角的に検証した。

結論として、慶長二十年五月七日、真田信繁が寡兵をもって徳川の大軍を突破し、家康本陣に三度にわたって突撃を敢行、家康を死の寸前まで追い詰めたことは、複数の一次史料によって裏付けられる、疑いようのない歴史的事実である。この奮戦は、敵将であった薩摩の島津忠恒(家久)をして「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)、古よりの物語にもこれ無く」と絶賛せしめた 1 、戦国時代最後にして最大の個人武勇の輝きであったと評価できる。

一方で、本題である「顔を見よ、これが真田なり」という逸話は、文字通りの史実とは考え難い。その理由は、彼自身が名乗ったとは考えられない「幸村」という名の使用、戦闘状況における非現実性、そしてより信憑性の高い一次史料との明確な矛盾点にある。

しかし、この逸話を単なる偽史や作り話として退けることは、その本質を見誤ることになる。この逸話は、信繁の突撃という歴史的事実がもたらした、同時代および後世の人々への計り知れない衝撃と驚嘆が、物語という形で結晶化した「伝説の核」なのである。家康をあと一歩まで追い詰めたという史実の圧倒的な重みが、それを語り継ぐための象徴的で劇的なシーンを必要としたのだ。

ここに、史実の人物「信繁」の苛烈な戦いぶりと、物語の英雄「幸村」の劇的な名乗りが融合する。史実の土台なくして伝説は生まれず、伝説の彩りなくして史実はこれほどまでに人々の心を捉えなかったであろう。我々がこの逸話に強く惹きつけられるのは、その言葉の裏に、滅びゆく豊臣家に殉じ、戦国の世の最後に己のすべてを燃焼させた一人の武将の、紛れもない魂の咆哮を聞き取るからに他ならない。史実と伝説が分かちがたく結びついた時、「真田幸村」という不滅の英雄像は完成したのである。

引用文献

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  3. 大坂の陣|国史大辞典・世界大百科事典・日本国語大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=63
  4. 大阪の今を紹介! OSAKA 文化力 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/012.html
  5. 「大坂の陣と真田幸村」 https://ueda.zuku.jp/katudou/salon-talk/2015.1.17.pdf
  6. 真田幸村と大坂の陣コース - OSAKA-INFO https://osaka-info.jp/modelcourse/course-sanada-yukimura-walk/
  7. 大坂夏の陣、天王寺の戦い~真田幸村が討死 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3843
  8. 真田 幸村公[久宝堂 武将特集] - 楽天市場 https://www.rakuten.ne.jp/gold/miyage/busho-special/sanada-yukimura/
  9. 真田幸村は何をした人?「大坂の陣の突撃で日本一の兵と称えられて伝説になった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/yukimura-sanada
  10. 「大坂夏の陣(1615)」豊臣vs徳川が終戦。家康を追い詰めるも一歩及ばず! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/712
  11. 徳川家康は大坂の陣で討ち死にしていた!?~堺・南宗寺にある墓の謎 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4820
  12. 井伊の赤備え・真田の赤備え・村上水軍/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/10427/
  13. 大坂の陣での真田信繁の最期を巡る謎 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/14118
  14. 大坂夏の陣図屏風 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%A4%8F%E3%81%AE%E9%99%A3%E5%9B%B3%E5%B1%8F%E9%A2%A8
  15. 大坂夏の陣図屏風 https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/110305.html
  16. ご利用案内User Guide - 大阪城天守閣 https://www.osakacastle.net/guide/
  17. 大坂の陣と福井藩 - 福井市立郷土歴史博物館 https://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/tenji/kaisetsusheets/98.pdf
  18. 真田信繁は、以前は真田幸村と言っていたと思うが、どちらが正しい名前なのか。(2016年) - 江戸東京博物館 https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/purpose/library/reference/alphabet/13263/%EF%BB%BF%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81%E3%81%AF%E3%80%81%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AF%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%B9%B8%E6%9D%91%E3%81%A8%E8%A8%80%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%A8%E6%80%9D
  19. 真田信繁 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81
  20. 【総力特集】真田信之と幸村 - 歴史おもしろデータ | 歴史街道 | 雑誌 | PHP研究所 https://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/data_detail.php?unique_issue_id=84297
  21. 『難波戦記~真田幸村 大坂城入城』 あらすじ - 講談るうむ - FC2 http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/03-33_sanadayukimuraooska.htm
  22. 「真田幸村」は架空の名前? 江戸時代に大ヒットしたネーミングのイイ話 - TMオフィス https://www.tm-office.co.jp/column/20160711.html
  23. 真田幸村名言「恩義を忘れ、私欲を貪り人と呼べるか。」 - 大塚城 https://kojodan.jp/castle/801/photo/21165.html
  24. 真田幸村(さなだ ゆきむら/真田信繁) 拙者の履歴書 Vol.6~智略と武勇 日本一の兵 - note https://note.com/digitaljokers/n/nf8675ae8ad40
  25. 12月18日の最終第50回で幸村の最後がどう描かれるんですかね? | Be an optimist and always believe in A Brighter Future!! https://ameblo.jp/bruin-since1999/entry-12218443548.html
  26. 架空のヒーロー「真田十勇士」はいかにして誕生したか 山村竜也 - 幻冬舎plus https://www.gentosha.jp/article/13786/
  27. 真田幸村の辞世 戦国百人一首70|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/na167fe15150f