最終更新日 2025-10-15

真田昌幸
 ~関門開け敵誘い入れ地の利の妙~

真田昌幸の第一次上田合戦における籠城戦術を解明。地の利を活かした城郭設計、心理戦、天候利用の「開門誘引」の妙技で、徳川大軍を打ち破った知略の全貌を探る。

第一次上田合戦における真田昌幸の籠城戦術 ―「開門誘引」の虚実と地の利の妙―

序章:盤上の駒、動く - 第一次上田合戦、開戦前夜の情勢

天正13年(1585年)、信濃国上田の地は、戦国時代の終焉を目前にした日本列島の縮図ともいえる緊張に包まれていた。一人の知将、真田昌幸が仕掛けた盤上は、やがて天下にその名を轟かせる伝説的な戦いの舞台となる。後に「第一次上田合戦」と呼ばれるこの戦いは、単なる局地戦に非ず、戦国大名の論理と在地領主の意地が激突した、時代の転換点を象徴する出来事であった。

発端:「沼田領問題」という火種

全ての始まりは、上野国(現在の群馬県)の要衝、沼田領を巡る一件であった。天正10年(1582年)の本能寺の変後、織田信長の死によって生じた権力の空白地帯(甲斐・信濃・上野)を巡り、徳川家康、北条氏直、上杉景勝らが激しく争った「天正壬午の乱」。この乱を収拾する過程で、家康は関東の雄・北条氏との和睦を選択する。その条件として提示されたのが、当時徳川方に属していた真田昌幸が実効支配する沼田領の、北条氏への割譲であった 1

家康にとって、沼田領は北条との同盟を維持するための外交上の駒に過ぎなかった。しかし、昌幸にとって沼田は全く異なる価値を持つ土地であった。父・幸隆の代から幾多の血を流して北条氏から奪取し、自力で守り抜いてきた真田家存立の基盤そのものである 3 。昌幸は、家康からの代替地も不明瞭な割譲命令を、「沼田は徳川より拝領の地にあらず」として断固として拒絶した 5 。大名の論理と国衆の論理―この根本的な価値観の相違が、両者の関係を修復不可能な段階へと追いやったのである。

当初、昌幸は家康に臣従し、その支援を受けて対上杉の拠点として上田城の築城に着手していた 8 。しかし、家康との手切れを覚悟した昌幸は、驚くべき一手に出る。昨日までの敵であった越後の上杉景勝に、次男の信繁(後の幸村)を人質として送り、臣従を誓ったのだ 6 。この「表裏比興の者」と評される所以の変節は、家康を激怒させ、ついに真田討伐の軍を発する決断を下させた。

兵力差と両軍の構成

天正13年閏8月、上田盆地に迫る徳川軍の威容は、真田方を絶望させるに十分なものであった。その陣容は、以下の通りである。

表1:第一次上田合戦における両軍の兵力と主要武将

勢力

兵力

主要武将

徳川軍

約7,000名 6

総大将: 鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉 その他: 諏訪頼忠、保科正直、屋代秀正など甲信の国衆

真田軍

約2,000名 6

上田城: 真田昌幸 砥石城: 真田信幸(昌幸嫡男) 矢沢城: 矢沢頼綱(昌幸叔父)

兵力差は実に3倍以上。野戦での正面衝突は、真田にとって自滅行為に等しかった。しかし、昌幸はこの圧倒的な兵力差の内に、徳川軍が内包する脆弱性を見抜いていた。徳川軍は、鳥居元忠や大久保忠世といった歴戦の譜代家臣団が中核を成す一方で、諏訪氏や保科氏など、元は武田家臣であった信濃・甲斐の国衆が多く含まれる混成部隊であった 6 。昌幸にとって彼らは元同僚であり、その中には同じ信濃の国衆である真田を攻めることに、同情や消極的な感情を抱く者がいる可能性を計算に入れていたのである。この一枚岩ではない敵の内部構造が、後の戦局に微妙な影を落とすことになる。

昌幸の布石:上杉の影

さらに昌幸は、開戦に先立ち、巧みな心理戦を仕掛けていた。同盟を結んだ上杉景勝に援軍を要請するも、景勝は領内の新発田重家の反乱に手を焼いており、大規模な派兵は不可能であった 6 。しかし、昌幸の真の狙いは物理的な兵力ではなかった。景勝はこれに応じ、少数の兵を派遣。上田城の西に位置する虚空蔵山城に、上杉家の旗指物を林立させたのである 6

この「見せかけの援軍」は、徳川軍に強烈な心理的圧迫を与えた。実際の戦力にはならずとも、「いつ上杉本隊が背後を突いてくるか分からない」という疑心暗鬼を生み、上田城攻略に全兵力を集中することを躊躇させる。昌幸は、物理的な兵力ではなく、「情報の不確実性」という濃霧を戦場に発生させ、敵の意思決定を鈍らせ、行動を束縛した。盤上の駒は揃った。昌幸は、自らが築いた城と地の利を最大限に活かし、大軍を迎え撃つ準備を整えていた。

第一章:尼ヶ淵の城 - 地の利という名の巨大な罠

真田昌幸の戦術の根幹を成すのは、彼が自ら縄張り(設計)を行った居城・上田城そのものであった。この城は単なる防御拠点ではなく、敵を誘い込み、殲滅するために設計された巨大な戦闘装置であった。

上田城の縄張り:天然の要害

上田城は、千曲川が形成した河岸段丘の崖際に築かれた平城である 12 。城の最大の特徴は、その南側にあった。そこには「尼ヶ淵」と呼ばれる、高さ12メートルにも及ぶ断崖絶壁が天然の城壁としてそそり立ち、いかなる大軍の攻撃も寄せ付けなかった 14

昌幸はさらに、築城にあたって大規模な土木工事を行い、城の北を流れる矢出沢川と西を流れる蛭沢川の流路を変更。これらを外堀として利用することで、城の北・西・南の三方を自然の要害で固めた 17 。これにより、敵の主攻正面は、唯一平地に面した東側の大手門方面に限定される。昌幸は、敵の攻撃ルートを意図的に絞り込み、そこに全ての罠を集中させるという、極めて合理的な城郭設計思想を持っていた。尼ヶ淵の断崖は、防御壁であると同時に、追い詰められた敵兵を千曲川へ追い落とすための「突き落とし台」としての機能すら意図されていた可能性も否定できない。

また、本丸の北東角は、鬼門(不吉とされる方角)を避けるために意図的に隅が欠かれた「隅おとし」という構造になっている 13 。これは、昌幸が迷信や縁起といった要素すらも、城の設計と将兵の心理に影響を与えるものとして重視していたことを示唆している。

城下町の構造:意図的に設計された戦場

昌幸の罠は、城郭内だけに留まらなかった。城の東側に広がる城下町そのものが、徳川軍を待ち受ける第二の罠であった。

軍記物によれば、徳川軍が侵入するであろう二の丸周辺の道には、「千鳥掛け」と呼ばれるジグザグに進路を妨害する柵が幾重にも設けられていた 21 。この柵は、勢いに乗って攻め込む際にはさほど障害に感じられないが、ひとたび混乱し、我先にと退却する際には、兵士たちの行く手を阻む致命的な障害物と化す。これは、敵兵の心理状態の変化、すなわち侵攻時の高揚感と敗走時の恐怖心を正確に計算に入れた、極めて巧妙な設計である。物理的な罠と心理的な罠が、城下町に二重に仕掛けられていたのである。

さらに昌幸は、城下町の東側外縁部に寺社を計画的に配置し、有事の際には防衛拠点、あるいは兵士の待機場所(武者溜まり)として機能するようにしていた 18 。城下町全体が、敵の勢いを削ぎ、混乱を増幅させるための巨大な迷宮として設計されていたのだ。

「堀底道」の正体

利用者様の照会にあった「堀底道で挟撃した」という逸話。この「堀底道」という特定の道が史料に明記されているわけではない。しかし、上田城の構造と戦術を分析することで、その正体を推察することができる。

上田城の堀は、掘り上げた土をそのまま内側に積み上げて土塁とする素掘りの堀であり、二の丸の堀跡は戦後に鉄道が敷設されるほどの広さと深さを有していた 16 。この逸話が指し示すのは、固有名詞としての道ではなく、上田城の戦術が生み出す空間そのものを比喩的に表現したものであろう。

すなわち、城内に誘い込まれ、パニックに陥った徳川軍は、以下の三方向からの立体的な攻撃に晒される。

  1. 城壁や土塁の上からの鉄砲、矢、投石による攻撃( 上方から
  2. 城門から打って出た真田本隊による追撃( 前方から
  3. 砥石城から出撃した信幸の別動隊による側面攻撃( 側方から

この三方からの攻撃に晒され、千鳥掛けの柵や狭い道筋で逃げ場を失った徳川兵にとって、城下の空間はまさしく「堀の底」のような袋小路と化した。彼らが逃げ惑った道こそが、事実上の「堀底道」であった。「堀底道での挟撃」とは、特定の場所ではなく、 上田城の縄張り全体が生み出す「キルゾーン(殲滅地帯)」の総称 と解釈するのが最も妥当である。城と城下町全体が、敵兵をすり潰すための巨大な臼として機能した。これこそが、昌幸が仕掛けた「地の利の妙」の本質であった。

第二章:開門 - 徳川軍、自ら死地へ

天正13年閏8月2日、夜が明けると、徳川の大軍は上田城の東を流れる神川を渡り、城へと迫った。戦国史に残る、知略と慢心の壮絶な駆け引きの幕が切って落とされた。

【合戦開始:閏8月2日】挑発と油断

徳川軍が眼前に迫る中、上田城内は不気味なほど静まり返っていた。一部の軍記物によれば、この時、城将である真田昌幸は櫓の上で悠然と囲碁を打ち、傍らの兵には祝言の席で謡われる能の「高砂」を朗々と謡わせていたと伝わる 3

「高砂や、この浦舟に帆を上げて…」

戦場に響き渡る平穏な謡曲。これは単なる余裕の誇示や奇行ではない。徳川軍を率いる大久保忠世、鳥居元忠といった歴戦の宿将たちの自尊心を逆撫でし、「小城の主が、歴戦の我らを赤子扱いするか」という怒りを煽り、冷静な判断力を奪うための、計算され尽くした心理操作であった。敵将の感情を揺さぶり、功を焦らせる。昌幸の戦いは、すでに始まっていた。

【偽装敗走】計算された混乱

徳川軍の猛攻が始まると、城外で待ち構えていた真田の少数部隊がこれに応戦。しかし、大軍の前にひとたまりもなく、あたかも「徳川軍の勢いに恐れをなしたかのよう」に脆くも崩れ、城内へと逃げ込んでいった 1

この「見せかけの弱さ」は、徳川軍の将兵に致命的な油断を生じさせた。

「見たか、真田の兵など物の数ではないわ!」

「敵は戦意を喪失した。大手門が開いているぞ、一番乗りの手柄は我らだ!」

挑発によって感情的になり、偽装敗走によって楽観的になった徳川軍は、慎重な攻城戦の定石―例えば、城下に火を放ち、潜伏する兵を掃討してから攻めかかるなど―を怠り、手柄を争って開け放たれた大手門へと殺到した 1。昌幸が周到に準備した罠の中へ、徳川軍は自らその足を踏み入れたのである。

【誘引と発動】開け放たれた大手門

徳川軍の先鋒が、雪崩を打って二の丸へと侵入する。その兵の波を、昌幸は城の櫓から静かに見下ろしていたであろう。「まだだ。もっと深く、もっと奥まで引き込め…」。彼の心中には、そのような声が響いていたに違いない。

徳川軍の主力が城内に十分なだれ込んだ、まさにその瞬間。状況は一変する。背後で開け放たれていたはずの大手門が轟音とともに閉じられ、退路が断たれる。同時に、それまで静まり返っていた本丸の土塁や櫓から、一斉に鬨の声が上がり、鉄砲の轟音、矢の雨、さらには大木や大石が降り注いだ 21

この時点で、徳川軍は物理的に閉じ込められただけでなく、心理的にも完全なパニックに陥った。進むも地獄、退くも地獄。先ほどまで手柄の対象であったはずの上田城は、一瞬にして将兵を飲み込む巨大な墓穴へとその姿を変えた。この急激な状況変化に、徳川軍の指揮系統は完全に麻痺し、統制を失った兵士たちは右往左往する烏合の衆と化した。この混乱こそが、次なる三重の挟撃を成功させるための、最大の布石となったのである。

第三章:鬨の声、上がる - 城下を血に染める三重の挟撃

城内で混乱の極みに達した徳川軍に対し、昌幸は容赦のない追撃の矢を次々と放つ。それは、上田城と城下町の地形を完璧に利用した、三重の挟撃作戦であった。

【第一の矢:城内からの逆襲】

徳川軍がパニックに陥り、後退しようともがくその時、今度は閉じられた城門が再び開かれ、昌幸が率いる真田本隊が城内から打って出てきた 1 。逃げ惑う徳川兵は、侵攻時には気にも留めなかった「千鳥掛けの柵」に進路を阻まれ、身動きが取れなくなったところを次々と討ち取られていく 22 。罠は常に二重、三重に仕掛けられている。城内での上方からの攻撃と、退路を断つ障害物、そして正面からの追撃。これにより徳川軍は完全に機動力を失い、一方的な掃討戦の対象と化したのである。

【第二の矢:伏兵による側面攻撃】

徳川軍が城下で混乱の渦中にあった、まさにその時。第二の矢が放たれた。上田城の北東に位置する支城・砥石城に潜んでいた昌幸の嫡男・真田信幸が、精鋭部隊を率いて出撃。徳川軍の防備が手薄になった側面を強襲したのである 1

これは完璧なタイミングで実行された挟撃であった。正面からの追撃に加えて、全く予期していなかった側面からの攻撃。これにより、徳川軍の部隊は分断され、組織的な抵抗は完全に不可能となった。信幸の役割は、単なる伏兵ではない。敵の混乱を決定的な総崩れへと導き、戦いの趨勢を決する「とどめの一撃」であった。父・昌幸が城内で敵を引きつけ、混乱させる間に、子・信幸が外から致命傷を与える。父子の見事な連携が、大軍を打ち破る原動力となった。

【第三の矢:心理的揺さぶり】

昌幸の策は、正規兵による戦闘に留まらなかった。彼は、領民をも戦力として組み込む「総力戦」の思想を実践した。

後代の軍記物によれば、昌幸はあらかじめ周辺の山々に農民たちを潜ませていた。そして、城からの合図とともに、彼らに紙で作った粗末な旗を無数に立てさせ、一斉に鬨の声を上げさせたという 22 。山々にこだまする鬨の声と、林立する無数の旗。すでにパニック状態にあった徳川軍の兵士たちの目には、それが「真田の大軍に完全に包囲された」という絶望的な光景として映った 22

これは、近代戦で言うところの「欺瞞作戦」に他ならない。実際の兵力以上のプレッシャーを敵に与え、戦意を根底から打ち砕く。農民たちは直接戦闘に参加せずとも、その存在と声だけで敵兵の心を折り、戦況を決定づける力となったのである。この逸話は、昌幸の戦術家としての一面だけでなく、領民からの厚い信頼を得ていた為政者としての人心掌握術の巧みさをも物語っている。

物理的な挟撃と心理的な包囲網。この三重の波状攻撃によって、徳川軍は完全に崩壊し、神川に向かって敗走を開始した。

第四章:神川の悲劇 - 濁流は伝説か、現実か

総崩れとなった徳川軍は、唯一の退路である東の神川を目指して潰走した。しかし、そこには昌幸が仕掛けた最後の、そして最も恐るべき罠が待ち受けていた。この神川での出来事は、後世、昌幸の神がかり的な知略を象徴する逸話として語り継がれることになるが、その真相は伝説と史実の狭間に揺れ動いている。

「水攻め」の虚実

『真武内伝』をはじめとする後代の軍記物では、この時の様子が劇的に描かれている。いわく、昌幸は事前に神川の上流を堰き止めておき、徳川軍が川に殺到したタイミングを見計らい、山頂からの狼煙を合図に堰を切って落とさせた。突如として発生した濁流は、川を渡ろうとする徳川兵を次々と飲み込み、多くの者が溺死した、というものである 22 。この「人為的な水攻め」の逸話は、昌幸の知謀を際立たせる格好の物語として、講談などを通じて広く知られるようになった。

しかし、この逸話の史実性には疑問が呈されている。神川は決して小さな川ではなく、当時の土木技術で大規模な堰を短期間で築き、意のままに洪水を起こすことは極めて困難であったと考えられる 27 。したがって、この劇的な水攻めの描写は、昌幸の勝利をより英雄的に見せるための、後世の創作である可能性が非常に高い。

現実的な解釈:天候の利用

では、真実はどこにあったのか。昌幸は洪水を「起こした」のではなく、自然の増水を巧みに「利用した」と考えるのが最も合理的である。

この合戦が行われた旧暦閏8月2日は、現在の太陽暦に換算すると9月下旬から10月上旬にあたる。これは、日本における台風シーズンと見事に一致する 27 。当日の天候が豪雨であったか、あるいは数日前の長雨によって神川がすでに増水していた可能性は十分に考えられる。昌幸は、この地域の地理と気候を熟知しており、増水した神川を渡っての退却がいかに困難であるかを計算していた。そして、城下での挟撃によってパニックに陥れた徳川軍を、意図的にその神川へと追い込んだのである。

これこそが「地の利の妙」の極致と言えよう。単に地形を利用するだけでなく、その土地の気候や天候という不確定要素すらも読み解き、自らの戦術の一部として組み込む。昌幸の知略は、盤上(地形)だけでなく、天候という盤外の要素すらも味方につける次元にあった。伝説として語られる「水攻め」は、この天候を利用した冷徹な戦術が、後世に語り継がれる中で、より英雄的な物語へと昇華された姿なのである。

甚大な被害

この神川での悲劇により、徳川軍は壊滅的な打撃を受けた。その損害については、記録する側の立場によって数字に大きな隔たりがある。

表2:各史料における徳川軍の損害比較

史料名

徳川軍の戦死者数

『三河物語』 (徳川方の史料)

300余名 22

真田信幸書状 (真田方の記録)

1,300余名 28

その他 (軍記物など)

2,000名とも 30

徳川方の史料である『三河物語』が損害を過少に記録し、逆に勝利した真田方が戦果を誇大に宣伝した可能性は高い。しかし、いずれの記録を見ても、真田方の損害がわずか数十名であったとされる点 21 と比較すれば、徳川軍が一方的な大敗を喫したことは疑いようがない。この戦いは、真田昌幸の完勝に終わったのである。

終章:「表裏比興の者」 - 天下に轟く真田の名

第一次上田合戦は、真田昌幸の戦術的完勝によって幕を閉じた。しかし、徳川の大軍を信濃から完全に撤退させた背景には、戦場外での大きな情勢変化も影響していた。

戦いの終結と影響

上田城攻略に失敗した徳川軍は、近隣の丸子城攻めにも手こずり、戦線は膠着状態に陥った 1 。この状況下で、徳川家康にとって衝撃的な事件が発生する。徳川家の機密に通じた重臣中の重臣・石川数正が、突如として豊臣秀吉のもとへ出奔したのである 1 。これは徳川家にとって、軍事機密の漏洩と内部動揺という深刻な危機であった。家康はこの緊急事態に対応するため、信濃からの全面撤退を決断せざるを得なかった。

昌幸は戦術的に勝利したが、戦略的勝利の背景には、中央情勢の激変という「幸運」も作用していた。しかし、その幸運を引き寄せるまで持ちこたえ、徳川軍を上田の地に釘付けにしたのは、紛れもなく昌幸の卓越した知略と、上田城の堅固さであった。

戦術の総括と逸話の完成

この一戦を通じて、昌幸は地形、兵士心理、そして天候(の可能性)という、戦いを構成するあらゆる要素を完璧に掌握し、自らの武器とした。

  • 地の利: 攻め口を東に限定する城の縄張り、敵の退路を塞ぐ城下町の構造、そして最後の障害となる増水した神川。
  • 人の利: 敵将のプライドを刺激する挑発、兵士の油断を誘う偽装敗走、そして恐怖を増幅させる心理戦。
  • 天の利: 豪雨や台風による自然増水を戦術に組み込む先見性。

この鮮烈な勝利は、「真田」の名を一躍天下に轟かせた 7 。わずか2,000の兵で、常勝を誇る徳川の7,000の大軍を打ち破ったという事実は、多くの人々の心を掴み、驚嘆させた。この民衆の熱狂が、後世の講談師や物語作家たちの想像力を掻き立て、『真武内伝』のような軍記物語の中で、挑発、開門誘引、水攻めといった逸話がより劇的に、より英雄的に描かれていく土壌となったのである。

そして、この戦いの衝撃は、15年という時を超えて、日本の歴史を大きく動かす伏線となる。第一次上田合戦での屈辱的な敗北は、徳川家康の三男・秀忠の心に「真田恐るべし」という強烈なトラウマを刻み込んだ。その結果、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し、中山道を進軍していた秀忠は、父・家康の「真田は構わず西へ急げ」という再三の命令を無視して第二次上田合戦に固執。結果、天下分け目の決戦に遅参するという、徳川家史上に残る大失態を演じることになる。

天正13年に昌幸が放った一矢は、時空を超え、15年後の天下の趨勢にまで影響を及ぼした。「関門開け敵誘い入れ地の利の妙」という逸話は、単なる一つの痛快な合戦譚に留まらない。それは、戦国の終焉期において、一人の知将が己の知謀の限りを尽くして大国の論理に抗い、そして歴史の流れにさえ一石を投じた、極めて重要な出来事だったのである。

引用文献

  1. 家康を苦しめた戦国屈指の食わせ者・真田昌幸 | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12008/
  2. 真田昌幸 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8
  3. 第一次上田合戦 https://takato.stars.ne.jp/kiji/meigen.html
  4. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第17回【真田昌幸】“表裏比興の者”と呼ばれ、家康が最も恐れた男 - 城びと https://shirobito.jp/article/1624
  5. museum.umic.jp https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/070099.html#:~:text=%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%9F%8E%E3%81%AF%E7%AF%89%E5%9F%8E%E5%BE%8C,%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%9B%A0%E3%81%A7%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82
  6. 第一次上田合戦と真田昌幸の戦術 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2925
  7. 真田氏築城と慶長の破却 - 上田城について https://museum.umic.jp/uedajo/about/sanadashi.html
  8. 上田城の歴史 - 上田市ホームページ https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/shogaku/2378.html
  9. 上田城 歴史年表 https://www.city.ueda.nagano.jp/uploaded/attachment/50626.pdf
  10. 第一次上田合戦|あまりにも強すぎる。徳川家康を苦しめた規格外の戦闘能力 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=xk4rmmq6J38
  11. 兵力2000の真田軍が7000の徳川軍を撃破!大河ドラマ「真田丸」でも描かれた第一次上田合戦の勝利の秘密は地形にあった! | 株式会社 学研ホールディングスのプレスリリース - PR TIMES https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000666.000002535.html
  12. 上田城の強さは地形にあり!~急崖と川が守る鉄壁の城塞~ - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/12460/
  13. 第一次上田合戦 https://ueda-kanko.or.jp/wp/wp-content/uploads/2024/04/5b3e32e2b9678ca249189c67a904e12d.pdf
  14. 真田ファン必見!上田城の歴史と魅力 #真田 #歴史 - 縄張りマニアの ... https://castlewalk.hatenablog.jp/entry/2025/03/01/100000
  15. 上田城概要紹介 - 上田城下町観光協会 https://nagano-ueda.gr.jp/ueda-jo/ueda-jo-about/
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  17. 第 4 章 史跡上田城跡整備基本計画 https://www.city.ueda.nagano.jp/uploaded/attachment/21189.pdf
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  20. 上田城の歴史情報 - 上田城下町観光協会 https://nagano-ueda.gr.jp/ueda-jo/ueda-jjo-history/
  21. 《第3回 第一次上田合戦》天下に真田の名を知らしめた 徳川との長い戦いが始まる - LIVING和歌山 https://www.living-web.net/%E3%80%8A%E7%AC%AC3%E5%9B%9E-%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6%E3%80%8B%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E3%81%AB%E7%9C%9F%E7%94%B0%E3%81%AE%E5%90%8D%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%97/
  22. 「第一次上田城の戦い(1585年)」真田勢は寡兵ながら、なぜ徳川 ... https://sengoku-his.com/458
  23. エピソード9 「電車が通ったお堀」 - 上田市ホームページ https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/shogaku/2157.html
  24. 日本一の兵・真田幸村特集 | 真田幸村と武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康 - ウエダモヨウ http://shinshu-ueda.info/feature/feature_yukimura-sanada
  25. あるいは研究において定着してしまった虚像を考え直したり、あまり馴染みがないけれど戦国時代を考える上で重要な人物の紹介を行います。今期も引き続き、新年度NHK大河ドラマ「麒麟がくる」にあわせ、織田信長・明智光秀関連を扱います。冬期は - 甲陽雑記 http://kazumaru-takeda.com/zakki.html
  26. 上田の歴史を学ぶ講演会 https://www.umic.jp/video/image/haihusiryo02.pdf
  27. 第一次上田合戦(4):最後のトラップ発動 - 真田太平記をなぞる https://kennytata.hatenablog.com/entry/2017/09/24/201215
  28. 徳川家康を苦悩させた「石川数正の出奔」と「真田昌幸との戦い」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/30678
  29. 第一次上田合戦 http://ogis.d.dooo.jp/sanada2.html
  30. 神川合戦(第一次上田合戦) https://museum.umic.jp/sanada/siryo/sandai/070099.html