脇坂安治
~西から東へ寝返り見間違い譚~
関ヶ原の脇坂安治の寝返りは、「旗の見間違い」ではなく藤堂高虎との密約に基づく計画。一族存続のため東軍へ合流し、周到な準備と忠誠が評価され所領安堵。
関ヶ原、松尾山麓の決断:脇坂安治「寝返り見間違い譚」の真相
序章:俗説の向こう側へ ― 「見間違い」から「密約」へ
日本の歴史上、天下分け目の戦いとして知られる関ヶ原の合戦。その勝敗を決定づけた要因の一つに、西軍諸将の相次ぐ寝返りが挙げられる。中でも、賤ヶ岳の七本槍の一人として武名を馳せた脇坂安治の東軍への寝返りは、戦局に決定的な影響を与えた。この寝返りを巡っては、「戦場の混乱の中、合図の旗を見間違えた結果、偶発的に東軍に味方してしまった」という、劇的な逸話がまことしやかに語り継がれてきた。この「見間違い譚」は、戦場の偶発性や人間的な錯誤が歴史を動かすという物語として、人々の興味を惹きつけてきた。
しかし、この逸話は歴史的検証に耐えうるものなのだろうか。本報告書は、この俗説の検証から筆を起こし、より信憑性の高い史料に基づき、脇坂安治の寝返りが決して偶発的な「見間違い」などではなく、周到に準備された「密約」に基づく、冷静かつ計算された政治的・軍事的決断であったことを徹底的に解き明かすものである。その鍵となるのは、東軍の謀将・藤堂高虎との間に交わされた密約と、特定の旗印を合図とする具体的な計画の存在である 1 。本報告は、俗説のベールを剥ぎ取り、乱世を生き抜いた一人の武将の、したたかなる生存戦略の実像に迫る。
第一章:関ヶ原前夜 ― 水面下の密約と決意
第一節:不本意なる西軍への参加
慶長5年(1600年)、徳川家康が上杉景勝討伐のため会津へ軍を進めると、日本の大名たちは東軍(家康方)と西軍(石田三成方)への二者択一を迫られた。この時、淡路洲本城主三万三千石の大名であった脇坂安治の立場は、当初から明確に東軍寄りであった 3 。彼は会津征伐が開始される以前から、家康に味方する意向を固め、その旨を記した書状を送り、家康側もその忠誠心を理解していたとされる 4 。
しかし、運命は安治に過酷な選択を強いる。石田三成が家康打倒の兵を挙げた際、安治は妻子と共に大坂の屋敷に滞在していた 4 。三成は、大坂にいる諸大名の妻子を人質とすることで西軍への参加を強要する策に出た。これにより安治は身動きが取れなくなり、本意ならずも西軍に与するという、苦渋の決断を下さざるを得なかったのである 4 。この状況は、彼の後の寝返りが単なる風見鶏的な裏切りではなく、本来あるべき「東軍」という立ち位置への復帰を目指す行動であったことを物語っている。戦後、他の寝返り将が厳しい処分を受ける中で安治が所領を安堵された最大の理由は、彼の行動が「裏切り」ではなく「当初からの忠誠の実行」と家康側に認識されていた点にあり、この「正当性」こそが、彼の周到な準備と大胆な行動の基盤となった。
第二節:藤堂高虎、闇夜の来訪
不本意ながら西軍の一員として関ヶ原へ向かう安治であったが、彼の胸中には東軍への合流という固い決意が秘められていた。その決意を支えたのが、家康本人から与えられた花押・署名入りの書状であったと伝わる 1 。そして、その決意を行動に移すための具体的な段取りが、合戦前夜、密かに行われた。
東軍の知将であり、調略活動の中心人物であった藤堂高虎が、闇に紛れて安治の陣を訪れ、寝返りの最終的な打ち合わせを行ったのである 1 。この密会において、戦場の混乱の中でも確実に意志を疎通させるための、極めて具体的な合図が取り決められた。それは、 藤堂高虎の部隊が「白地に団子」を描いた旗を振った時 、それを合図に東軍へ寝返り、西軍を攻撃するというものであった 1 。この具体的すぎる合図の存在は、安治の行動が計画的なものであったことを強く示唆している。安治は、この密約と家康からの書状を胸に、一族の命運を賭けた天下分け目の戦いに臨むこととなった。
第二章:慶長五年九月十五日 ― 運命の布陣と戦場の霧
第一節:松尾山麓の戦略的配置
慶長5年9月15日、関ヶ原。脇坂安治の部隊約1,000は、西軍の布陣の中でも極めて重要な位置に配置された。それは、西軍最大の懸念材料であった小早川秀秋の大軍15,000が陣取る松尾山の北麓である 3 。安治はここで、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保といった諸将と共に布陣し、西軍きっての名将・大谷吉継の指揮下に組み込まれた 8 。
大谷吉継の部隊がこの地に布陣した主目的は、東軍と対峙することに加え、寝返りの噂が絶えない小早川秀秋の動向を監視し、万が一裏切った際にはこれを迎撃することにあった。つまり、脇坂隊らは、いわば「対小早川の防波堤」の一部としての役割を期待されていたのである。しかし、この配置は皮肉な二重の意味を持っていた。西軍首脳部(三成・吉継)は、豊臣恩顧の「賤ヶ岳の七本槍」である安治を信頼し、小早川への抑えとして期待したのかもしれない 10 。だが、内通している安治にとって、この場所は寝返りを実行する上でこれ以上ない好位置であった。大谷隊の側面という、西軍の防衛戦略のまさに中核を内側から破壊できる絶好の機会が、西軍自身の手によって与えられたのである。
第二節:息子・安元に託された運命
一族の存亡を賭けたこの決死の作戦を成功させるため、安治は非情かつ合理的な采配を振るう。彼は、息子であり跡継ぎでもある脇坂安元を、戦闘の最前線から意図的に外し、 藤堂隊の陣営を見通せる特別な場所 へと配置した 1 。
これは、単に息子を危険から遠ざけるという親心だけではない。戦場の喧騒と土煙の中、無数に林立する旗指物の中から、ただ一つの「白地に団子」の旗を確実に見つけ出し、その合図を正確に父へ伝えるという、極めて重要な役割を安元に託したのである。一族の未来を担う息子に、一族の命運を左右する作戦の成否を委ねる。この冷徹な判断と父子の役割分担こそ、安治の寝返りが周到に計画されたものであったことを示す、何よりの証左と言えるだろう。
第三章:決断の瞬間 ― 「白地に団子」はまだか
第一節:戦況の膠着と焦燥
午前8時頃、関ヶ原を覆っていた深い霧が晴れると同時に、東西両軍の激突火蓋が切られた 12 。しかし、戦局の鍵を握る松尾山の小早川秀秋は動かず、戦いは一進一退の攻防となった。東軍の猛攻に対し、石田三成隊や宇喜多秀家隊が善戦し、特に大谷吉継隊は鬼神の如き働きで東軍部隊を押し返すなど、午前中の戦況はむしろ西軍有利に進んでいた 1 。
この間、脇坂安治はじっと息を潜め、戦況を注視していた。眼下で繰り広げられる友軍の奮戦を横目に、彼の視線はただ一点、遥か前方の東軍・藤堂高虎の陣営に向けられていた。合図はまだか。刻一刻と時間が過ぎる中、彼の胸中には焦燥と緊張が渦巻いていたに違いない。
第二節:小早川、動く
正午過ぎ、膠着した戦況と動かぬ小早川秀秋に業を煮やした徳川家康は、松尾山に向けて威嚇の鉄砲を撃ちかけるという荒療治に出た。これが最後の一押しとなり、ついに小早川秀秋は西軍への裏切りを決断。約15,000の大軍が、鬨の声をあげて山を駆け下り、眼下の大谷隊に襲いかかった 13 。
戦場に激震が走る。しかし、智将・大谷吉継はこの裏切りを予期していた。かねてより備えていた部隊を小早川隊に向けさせ、兵力差10倍という絶望的な状況にもかかわらず、一時はこれを押し返すほどの凄まじい抵抗を見せた 1 。だが、この戦況の激変こそ、安治が待ち望んでいた瞬間であった。
第三節:リアルタイム再現 ― 父子の交信と決断
小早川隊が松尾山から雪崩を打って大谷隊に襲いかかる。戦場の誰もが固唾を飲んでその攻防を見守る中、脇坂安治の思考は極限まで研ぎ澄まされていた。
安治の心象風景: 「金吾(秀秋)が動いたぞ! この機か! 藤堂隊の旗はまだ振られぬか。倅!」 1 。彼は、息子・安元を配置した方角へ、全てを託すように鋭い視線を送った。
安元の視点: 遠く離れた藤堂隊の陣営。無数の旗が翻る中、安元の目はただ一つ、父との約束の旗印を探していた。やがて、東軍の陣中深く、白地に黒い団子が描かれた旗が、天に突き刺すように大きく振られるのを、彼は確かにその目で捉えた。
報告と号令: 息子の声が、戦場の轟音を突き抜け、父の耳に届く。それは、一族の運命を告げる絶叫であった。「 見えました! 父上! 藤堂隊にて、白地に団子の旗が振られておりまする! 」 1 。
この報告を受けた瞬間、安治の全ての迷いは消え去った。彼は即座に決断を下し、腹の底から声を張り上げた。「 よし、今だ。者ども、向きを変えよ! 我らは、あの大谷隊の横合いに突っ込むぞ! 戦は勝ち馬に乗るのが定法ぞ! 」 1 。
第四章:雪崩を打つ裏切り ― 大谷隊の壊滅
第一節:側面への致命的な一撃
脇坂安治の号令一下、脇坂隊約1,000は即座に反転。それまで正面の東軍に向けていた槍先を180度転換し、小早川隊の猛攻を懸命に防いでいた味方、大谷隊の全く無防備な側面(横合い)へと牙を剥いた 1 。
この脇坂隊の動きは、引き金となった。それまで戦況を傍観していた朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の三隊も、これに呼応するかのように一斉に東軍へ寝返り、同じく大谷隊の側面へと殺到したのである 2 。小早川の裏切りが「戦局の変化」であったとすれば、脇坂の裏切りは、他の諸将の寝返りを誘発する「連鎖反応の起爆装置」であり、西軍の組織的崩壊の決定打となった。
第二節:名将・大谷吉継の最期
これにより、大谷隊は絶望的な状況に陥った。正面からは東軍の主力部隊、山上からは小早川秀秋の大軍、そして側面からは今しがたまで味方であったはずの脇坂、朽木、小川、赤座ら四隊の攻撃を受けるという、完全な三方包囲殲滅の形となった 14 。
兵力わずか数千(一説には600)の大谷隊は、数万の敵に蹂躙され、奮戦虚しく壊滅した 15 。義に厚い名将・大谷吉継は、もはやこれまでと敗北を悟り、その場で自刃して果てた 14 。西軍の右翼を支え、戦術的要であった大谷隊の崩壊は、西軍全体の戦線崩壊へと直結した。この瞬間、開戦から約6時間、関ヶ原の戦いの勝敗は事実上決したのである 16 。
第五章:戦後の仕置 ― 寝返りの明暗
第一節:脇坂安治への恩賞
関ヶ原の戦いが東軍の圧倒的勝利に終わった後、徳川家康による戦後処理、いわゆる論功行賞が始まった。ここで、脇坂安治の行動は、戦前から内通していた「忠節」として極めて高く評価された。彼は家康から一切の咎めを受けることなく、淡路洲本三万三千石の所領をそのまま安堵されたのである 4 。
さらに、安治の子孫は伊予大洲藩主、後に播磨龍野藩主として幕末まで大名家として存続した。これは、豊臣恩顧の武将であり、かつて秀吉を支えた「賤ヶ岳の七本槍」の中で、直系の大名家が一度も改易されることなく明治維新を迎えた唯一の例となった 8 。関ヶ原の松尾山麓における一瞬の決断が、脇坂一族の未来を二百数十年間にわたって確固たるものにしたのである。
第二節:他の寝返り将たちの末路
一方で、安治と共に大谷隊を攻撃した他の寝返り将たちの運命は、全く異なるものであった。彼らの行動は、事前の内通に基づかない、単に戦況を見て有利な方についた「日和見」と家康に判断され、その功績は認められなかった。
- 朽木元綱: 戦後、9,500石への減封(領地を大幅に減らされる)処分となった 17 。
- 小川祐忠: 戦後、改易(領地没収)となり、大名の地位を失った 17 。
- 赤座直保: 同じく改易(領地没収)となり、後に前田家の客将となった 17 。
この処遇の差は、家康の論功行賞における厳格な基準を浮き彫りにする。すなわち、単に戦場で味方したという「結果」だけでなく、戦前から忠誠を誓っていたかという「事前の意志」が極めて重要視されたのである。以下の表は、彼らの運命の分岐点を明確に示している。
分析表:松尾山麓・寝返り諸将の比較
|
武将名 |
事前の内通 |
寝返りの契機 |
戦後の処遇 |
典拠 |
|
脇坂安治 |
有り (家康・高虎と) |
事前の合図(団子の旗) |
所領安堵 |
1 |
|
小早川秀秋 |
有り (家康と) |
家康からの催促射撃 |
移封・加増後、無嗣断絶 |
13 |
|
朽木元綱 |
不明(日和見と判断) |
周囲の動きに追随 |
減封 |
17 |
|
小川祐忠 |
不明(日和見と判断) |
周囲の動きに追随 |
改易(所領没収) |
17 |
|
赤座直保 |
不明(日和見と判断) |
周囲の動きに追随 |
改易(所領没収) |
17 |
結論:したたかなる生存戦略 ― 逸話の真相とその意義
本報告書で詳細に検証した通り、関ヶ原の戦いにおける脇坂安治の寝返りは、「旗の見間違い」という偶発的な出来事では断じてない。それは、戦前から徳川家康と通じ、合戦前夜には藤堂高虎と具体的な合図まで取り決めていた、極めて計画的かつ組織的な行動であった。息子・安元を監視役に置くという周到な準備、そして合図を確認してからの迷いのない突撃は、彼の決断が確固たる意志に基づいていたことを物語っている。
この事実を踏まえるとき、脇坂安治という武将像は、単なる「裏切り者」という一面的な評価では捉えきれない、新たな側面を我々に見せる。豊臣恩顧の大名でありながら、豊臣政権の行く末と徳川家康の台頭という時代の大きな流れを冷静に見極め、自らの一族を確実に存続させるために、最も合理的で確実な道を選んだ。それは、情や恩義だけでは生き残れない戦国乱世の終焉期における、先見性と周到さを備えた、したたかなるリアリストの姿である。
この一連の逸話は、関ヶ原の戦いが単なる大規模な武力衝突ではなく、水面下で繰り広げられた熾烈な調略戦・情報戦が勝敗を大きく左右したことを象徴する、格好の事例と言える。そして、脇坂安治の成功と他の寝返り将たちの失敗が描く鮮やかなコントラストは、時代の転換点を生き抜くための冷徹な政治的リアリズムを、現代の我々にまで雄弁に語りかけている。彼の決断は、戦国の終焉と新たな時代の幕開けを告げる、象徴的な一場面であった。
引用文献
- 脇坂安治(西軍)~勝つ方に味方するのが合戦の常道 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22337
- 朽木、小川の裏切りを目の当たりにし、自らの進退を決めた「赤座直保」(西軍) - 歴史人 https://www.rekishijin.com/21687
- 美濃 脇坂安治陣(西軍のち東軍) - 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/mino/sekigahara-wakisakayasuharu-jin/
- 関ケ原の戦いで寝返った6人|戦国雑貨 色艶 (水木ゆう) - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/ne2b146635353
- 裏切りの果てに…「関ヶ原の戦い」で寝返った戦国武将たちのその後【西軍編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/255588
- 小早川秀秋、脇坂安治、小川祐忠~関ヶ原「裏切り者」たちの思惑(1) | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7308
- (脇坂安治と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/88/
- 脇坂安治陣 ~関ヶ原陣地群⑨~ | 城館探訪記 http://kdshiro.blog.fc2.com/blog-entry-3615.html
- 関ヶ原の戦い - Network2010.org https://network2010.org/article/2127
- 脇坂安治陣跡-関ケ原の戦い~城と古戦場~ http://4619.web.fc2.com/shiro45.html
- 脇坂安治 七本鑓と水軍大将 | Webジェイ・ノベル - 実日オンライン https://j-nbooks.jp/novel/original.php?oKey=233
- 関ヶ原の戦いで大勢に流され仕方なく東軍に寝返った「朽木元綱」(西軍) - 歴史人 https://www.rekishijin.com/20676
- 1600年 関ヶ原の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-3/
- 大谷吉継 - 敦賀の歴史 http://historia.justhpbs.jp/ootani.html
- 驚き!「関ヶ原の戦い」の決定打は小早川秀秋の寝返りじゃなかった?東軍に勝利をもたらした功労者たちの末路 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/198152
- 西軍 大谷吉継/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41114/
- 「賤ヶ岳七本槍」から豊臣水軍の中心人物へ|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【脇坂安治編】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1028227/2
- 戦には勝ったのに……哀しきサムライの最期 赤座直保 - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/6103/