最終更新日 2025-10-25

長宗我部盛親
 ~逃走中に女を助け捕らえられる~

長宗我部盛親が大坂夏の陣後に逃走中、金銭調達で捕縛された史実と、母子を助け捕らえられたという伝承を比較。武将の人間性と悲劇性を描く。

長宗我部盛親、最後の仁義―捕縛にまつわる悲哀譚の史実と伝承

序章:落日の凶星―八幡の葦原に潜む影

慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣の砲煙が空を覆い、豊臣家の栄華は燃え盛る大坂城と共に灰燼に帰した。一個の時代が、ここに終わりを告げたのである。城を枕に討ち死にした真田信繁(幸村)や後藤基次(又兵衛)ら、数多の将星が戦場に散る中、土佐の旧国主・長宗我部盛親は、九死に一生を得て戦場からの離脱に成功していた 1

しかし、彼の胸中に去来していたのは、安堵ではなかった。それは、雪辱と再起への執念の炎であった。大坂方への参陣は、「土佐一国」の返還という破格の条件と引き換えであった 2 。父・元親が一代で築き上げた四国の覇権、そして関ヶ原の戦いでの不覚により失った故郷の地。41歳にして、盛親はその全てを取り戻すという壮大な夢を、この一戦に賭けていたのである。

その夢が潰えた今、彼に残された道は限られていた。徳川方の執拗な残党狩りが畿内一円に張り巡らされる中、敗軍の将が生き延びることは至難の業であった。特に、戦で田畑を荒らされた農民たちによる「落ち武者狩り」は、正規の追討軍以上に恐ろしい存在であった 3 。彼らは、武具や金品を狙い、身分の高低に関わらず敗残兵を容赦なく殺害した。山崎の戦いで明智光秀が命を落としたとされるのも、この落ち武者狩りによるものであったという説はあまりにも有名である 3

このような死と隣り合わせの状況下で、盛親の行動は単なる延命を目的とした逃避行ではなかった。捕縛後の彼の言動からも明らかなように、その胸中には常に再起の二文字が刻まれていた。「逃げるのではない。生き延びて、再び立ち上がるのだ」 5 。そう自らに言い聞かせながら、彼は潜伏の地として京に近い山城国八幡を選んだ。淀川を臨むこの地は、水運の要衝であり、情報収集にも都合が良かった。そして何より、身を隠すのに好都合な、人の背丈ほどもある葦が鬱蒼と生い茂る湿地帯が広がっていたのである 6 。葦原の奥深く、泥と水に塗れながら、かつて土佐二十四万石を領した男は、息を潜め、反撃の機会をただひたすらに窺っていた。

第一章:運命の日―捕縛に至るまでの時間的再構築

大坂城落城から数日が経過した5月11日。葦原での潜伏生活は、盛親の心身を確実に蝕んでいた。絶え間ない緊張と湿気、そして何よりも空腹が、彼の気力と体力を奪っていく。再起を誓う固い意志とは裏腹に、肉体は限界に近づいていた。

この日、ついに飢えに耐えかねた盛親、あるいはその従者が、一つの致命的な過ちを犯す。食料を調達するため、所持していた小判を手に、近くの集落へと向かったのである 6 。向かった先は、橋本の餅屋「井筒屋」であったとされる 8

当時の状況を再現してみよう。戦乱の直後、世情は未だ騒然としており、誰もが疑心暗鬼に駆られていた。そんな中、見るからに落ちぶれた風体の男が、突如として大金である小判を差し出したのである。餅屋の主人が驚愕し、同時に強い不審を抱いたのは当然のことであった。戦火を逃れた庶民が日常の買い物に使うのは、粗末な銅銭がせいぜいである。このような高額貨幣を、しかも身分を隠しているような男が使うこと自体が、異常事態を告げていた。

「この騒ぎの最中に、このような大金を持つとは……何者だ?」

店主の脳裏に、徳川方が発した敗将への厳しい触れ書きと、莫大な懸賞金のことが浮かんだであろう。密告は、即座に行われた。通報を受けたのは、阿波徳島藩主・蜂須賀至鎮の家臣たちであった。その中に、長坂三郎左衛門という名の武士がいた 8

報を受けた長坂らの一隊は、直ちに問題の男が消えたという葦原へと急行した。広大な葦原は、網を狭めるように、じりじりと包囲されていく。兵士たちの鎧が擦れる音、葦を踏みしめる音だけが、静寂を破る。陽光は葦の葉に遮られ、湿った地面からは水気が立ち上っていた。

その頃、葦原の奥深くで、盛親は何を思っていたであろうか。一瞬の油断が招いた危機を悟り、己の迂闊さを呪ったか。あるいは、迫りくる追手の気配に、ついに運命の時が来たことを静かに受け入れたか。史料に彼の抵抗の記録は見られない。おそらくは度重なる逃避行で心身ともに疲弊しきっていたか、あるいは多勢に無勢を悟り、潔く捕縛を受け入れたものと推察される。

やがて、探索の兵の一人が、葦の根元に不自然にうずくまる人影を発見する。

「見つけたぞ!者ども、かかれ!」

怒号と共に、兵士たちが殺到する。泥に汚れた衣服、憔悴しきった表情。しかし、その眼光だけは、未だ武将としての鋭さを失ってはいなかった。こうして、長宗我部元親の四男、土佐の旧国主・長宗我部盛親は、あまりにもあっけなく、そして英雄的とは言い難い形で捕らえられたのである 6。彼の捕縛は、武将としての戦闘能力の欠如によるものではなく、一国の主として育ち、世俗の金銭感覚や庶民の暮らしに疎かったが故の、いわば「世間知らず」が招いた悲劇であった。この英雄らしからぬ結末が、後世の人々をして、より悲劇的で高潔な物語を求める素地となったのかもしれない。

第二章:悲哀譚の源流―「母子救済」逸話の徹底検証

利用者より提示された「逃走中、幼児を抱えた女を助けたが、そのまま捕らえられた」という逸話は、長宗我部盛親の最期を語る上で、極めて示唆に富む物語である。それは、彼の人間性と悲劇性を凝縮した、聞く者の心を強く揺さぶる悲哀譚として、一部で語り継がれてきた。

逸話の物語的構造

まず、この伝承されている逸話の筋書きを具体的に詳述する。

大坂城を落ち延び、追手の目を逃れながら潜伏を続ける盛親。心身ともに疲弊し、一刻も早く安全な場所へと身を移さねばならない極限状況にあった。その道中、彼は一人の女性に遭遇する。彼女は幼子を腕に抱き、戦火で何もかも失い、途方に暮れていた。あるいは、追われる身の恐怖からか、赤子は激しく泣きじゃくっていた。

盛親の供回りは、関わってはならないと諌める。「若、今はご自身のことのみをお考えくだされ。我らには構っている刻はございませぬ」。しかし盛親は、その母子の哀れな姿を振り捨てることができなかった。彼は自らの危険を全く顧みず、母子に歩み寄り、持っていた食料や僅かな金銭を与え、安全な場所まで導こうとする。

しかし、この仁義の行いが仇となった。母子のために足を止めたことで、彼は貴重な時間を失ってしまう。あるいは、赤子の泣き声が追手の注意を引いてしまったのかもしれない。結果として、彼の居場所は徳川方に察知され、逃げ遅れた盛親は包囲され、捕縛されてしまう。武将としての非情さを捨て、一人の人間として情けをかけたその瞬間に、彼の再起の夢は永遠に断たれたのであった。

この物語は、武士の「仁」と、運命の非情さを見事に対比させ、盛親を高潔な悲劇の英雄として描き出している。

典拠の探求と史実性の評価

本報告書の核心は、この感動的な逸話が史実に基づいているか否かを検証することにある。結論から先に述べれば、 この「母子救済」の逸話は、信頼性の高い同時代の史料や、江戸時代に成立した主要な軍記物・逸話集には一切見出すことができない。

『土佐物語』や『常山紀談』、『慶長見聞集』といった、戦国・江戸初期の武将の言行を記録した文献を精査しても、盛親の捕縛の経緯として記されているのは、前章で詳述した「餅屋で小判を使ったことによる露見」という筋書きである 6 。今回調査した文献群 2 の中にも、母子を助けたという話を示唆する記述は皆無であった。

では、この逸話はどこから来たのであろうか。その成立過程については、いくつかの可能性が考えられる。

  1. 地方における口承伝承: 長宗我部氏への思慕や尊崇の念が、明治維新後もなお根強く残っていた土佐国 9 、あるいは盛親が潜伏し、捕らえられた京都・八幡周辺の地域で、旧主の非業の死を悼む人々によって語り継がれるうちに、このような美談として形成されていった可能性である。非業の死を遂げた英雄を、より高潔な人物として記憶したいという民衆の集合的な願望が、物語を創造する原動力となったと考えられる。
  2. 後世の創作物による影響: 江戸時代中期以降に隆盛した講談や草双紙、あるいは近代になってからの歴史小説や戯曲などで、物語的な面白さや悲劇性を高めるために創作されたエピソードである可能性も高い。英雄の最期をドラマティックに演出する手法として、このような人情話は極めて効果的である。
  3. 類似逸話の混同・仮託: 他の武将にまつわる有名な人情話や、仏教説話に見られるような善行の物語が、時代を経て長宗我部盛親の逸話として結びつけられ、定着した可能性も否定できない。

いずれにせよ、この「母子救済譚」は、歴史的記録としての確証を欠く、伝承の域を出ない物語であると結論付けざるを得ない。しかし、史実でないからといって、この物語が無価値であるわけではない。むしろ、なぜこのような物語が生まれ、盛親という特定の人物に結びつけられたのかを考察することにこそ、歴史を深く理解する鍵が隠されている。それは、史実が語る「事実」とは別の、人々の心が紡ぎ出した「願望の物語」なのである。

第三章:二つの物語の交錯―史実と伝承の狭間で

長宗我部盛親の捕縛をめぐっては、二つの全く異なる物語が存在する。一つは史料が示す「小判使用譚」、もう一つは人々の間で語り継がれてきた「母子救済譚」である。この二つの物語を比較分析することは、史実と人々の記憶(伝承)がどのように交差し、一人の歴史上の人物像を形作っていくのかを明らかにする上で、極めて重要である。

二つの物語の構造的差異

両者の物語構造は、対照的とも言えるほどに異なっている。その差異を明確にするため、以下に比較表を示す。

比較項目

史実とされる「小判使用譚」

伝承とされる「母子救済譚」

行動の動機

生存本能(食料調達)

人道的精神(弱者救済)

露見の引き金

社会的常識の欠如、不用意さ

高潔な人情、自己犠牲

物語が示唆する人物像

没落した貴人、世俗に疎い男

仁愛に満ちた武将、悲劇の英雄

物語のテーマ

運命の皮肉、栄枯盛衰

善行が招く悲劇、武士の情け

この表が示すように、「小判使用譚」は、一国の主として生まれ育ったが故の世間知らずが招いた、ある種の皮肉に満ちた結末を描いている。それは英雄の最期としてはあまりに人間臭く、威厳に欠けるかもしれない。対照的に「母子救済譚」は、盛親の行動を「仁愛」という儒教的な徳に基づいた高潔なものとして描き、彼の破滅を「善行が招いた悲劇」として昇華させている。ここには、単なる敗北者ではない、徳ある人物としての盛親像が明確に打ち出されている。

なぜこの伝承が盛親に結びついたのか

では、なぜ数多いる戦国武将の中で、特に長宗我部盛親にこのような人情味あふれる逸話が付与されたのであろうか。その背景には、いくつかの要因が考えられる。

第一に、盛親自身の経歴に、この物語を受け入れる素地があったことである。彼は関ヶ原の戦いで改易された後、大坂の陣で再起を図るまでの十数年間、京都で浪人生活を送っていた。その間、寺子屋の師匠をして糊口をしのいでいたという記録が残っている 10 。この事実は、彼が単なる武辺一辺倒の人物ではなく、子供たちに学問を教えるような穏やかで知的な一面を持っていたことを強く示唆する。この「寺子屋の師匠」というイメージが、「幼児を抱えた母を助ける」という物語に、不思議なリアリティと説得力を与える土壌となったことは想像に難くない。

第二に、土佐における長宗我部氏への根強い思慕である。父・元親は「土佐の出来人」として、今なお郷土の英雄として絶大な人気を誇っている 9 。その息子の非業の死、そして盛親の5人の息子たちも処刑され、元親直系の嫡流が完全に断絶したという悲劇 12 は、土佐の人々の心に深い傷を残した。旧主一族の悲劇的な運命を悼む心情が、盛親をより気高く、慈悲深い人物として記憶しようとする無意識の動きに繋がり、このような美化された逸話を生み出す温床となったのである。

そして第三に、この物語が持つ普遍的な魅力である。「情けが仇となる」「善行が報われない」という筋書きは、聞き手の同情を強く引きつけ、運命の非情さを際立たせる力を持つ。これは、源義経に対する「判官贔屓」にも通じる、日本人が古来より好んできた悲劇の構造である。盛親の最期を語る上で、この物語は史実以上に人々の心に響く「真実」として機能したのである。

この逸話は、単に盛親個人の物語に留まらない、より大きな文化的背景を映し出している。大坂の陣は、実力のみがものを言う戦国乱世の終わりを象徴する戦いであった。続く泰平の江戸時代において、武士に求められる資質は、武勇や謀略といった「力」だけでなく、「仁・義・礼・智・信」といった儒教的な徳性へと大きくシフトしていく。この新しい価値観のフィルターを通して過去の英雄を語り直す際、単なる強さを示す逸話よりも、「仁愛」のような徳を示すエピソードが重視されるようになる。「母子救済譚」は、滅びゆく戦国武将である盛親に、新しい時代の理想的な武士像である「仁」の衣を着せることで、彼の悲劇を単なる敗北者の物語から、徳高き人物の受難の物語へと昇華させる役割を果たした。これは、時代の価値観の変遷が、歴史上の人物像をいかに再構築していくかを示す、一つの好例と言えるだろう。

終章:六条河原の露と消えて―悲劇の将、最後の気概

「母子救済」の逸話が描く慈悲深い人物像とは裏腹に、捕らえられた後の長宗我部盛親が見せた態度は、決して憐れなだけの敗将のものではなかった。彼は京都に連行されると、二条城の門外の柵に縛り付けられ、見せしめとして数日間晒し者にされた 2 。多くの民衆が嘲り、あるいは同情の目を向ける中、盛親は少しも臆した様子を見せなかったという。

徳川秀忠の側近が「なぜ潔く自害しなかったのか」と詰問した際、盛親は毅然としてこう答えたと『常山紀談』は伝えている。「一方の大将たる身が、葉武者(雑兵)のごとく軽々と討ち死にすべきではない。折あらば再び兵を起こして、この恥をすすぐつもりであった」と 2 。さらに、別の逸話では「命とこの右の手がありさえすれば、家康と秀忠をこのような姿(縄で縛られた姿)にすることもできたのだ」と語ったともされる 2 。その言葉には、最後まで潰えることのなかった再起への執念と、徳川家への烈々たる敵意が漲っていた。

慶長20年5月15日、盛親は洛中を引き回された上、六条河原の刑場へと送られた。享年41 2 。その首は三条河原に晒されたが、生前親交のあった蓮光寺の僧が、時の京都所司代・板倉勝重に願い出て、その遺骸を丁重に寺内に葬ったと伝えられている 2 。今も京都市五条の蓮光寺には、盛親の墓が静かに佇んでいる 15

ここに、長宗我部盛親という一人の武将の、二つの顔が浮かび上がる。一つは、捕縛後も最後まで武将としての誇りを失わず、再起を誓った不屈の闘将としての顔。これは史料が伝える彼の姿である。もう一つは、自らの危険を顧みず、名も知らぬ母子に情けをかけた慈悲深い仁将としての顔。これは伝承が語る彼の姿である。

結論として、利用者より提示された「幼児を抱えた女を助けたが、そのまま捕らえられた」という逸話は、歴史的記録としては確認できない。しかし、それは単なる「誤り」や「創作」として切り捨てられるべきものではない。むしろ、それは長宗我部盛親という悲劇の将を記憶し、その非業の死を悼んだ後世の人々の心情が結晶化した、「もう一つの真実」と呼ぶべき物語なのである。史実が示す無念の最期と、伝承が描く高潔な魂。この両面性を併せ持つ存在として捉えることによってのみ、我々は長宗我部盛親という人物の持つ、複雑で深い人間的魅力に触れることができる。六条河原の露と消えた悲劇の将の記憶は、史実と伝承の狭間を揺蕩いながら、今なお我々の心を捉えて離さないのである。

引用文献

  1. 長宗我部盛親で考える ~最後まで勝ちへの執念を持ち続けるには~|吉祥旦(きったん) - note https://note.com/nqh07729/n/n7bcf8094b4ab
  2. 長宗我部盛親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E7%9B%9B%E8%A6%AA
  3. 合戦の結末/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46109/
  4. 旅 1074 長宗我部信親の墓 - ハッシー27のブログ - Seesaa https://0743sh0927sh.seesaa.net/article/202006article_1.html
  5. 長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか) 拙者の履歴書 Vol.396~主君の恩義と忠義の果て - note https://note.com/digitaljokers/n/n56f399644e90
  6. 武将印紹介30 「長宗我部盛親」(墨将印) - 戦国魂ブログ https://www.sengokudama.jp/blog/archives/3675
  7. 第8話 長宗我部盛親に学ぶ - 蔵人会計事務所 https://www.c-road.jp/6column/column08.html
  8. 長宗我部盛親が潜んだ家 15号 - 八幡の歴史を探究する会 https://yrekitan.exblog.jp/21402416/
  9. 長宗我部元親公 - 若宮八幡宮 | 高知 http://wakamiya-kochi.com/chosokabe.html
  10. 長宗我部盛親の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97635/
  11. 特集「長宗我部元親の野望」から - 歴史おもしろデータ | 歴史街道 | 雑誌 | PHP研究所 https://www.php.co.jp/magazine/rekishikaido/data_detail.php?unique_issue_id=84239
  12. 一人の戦国武将の死が、その後の四国の運命を変えた? < 長宗我部信親公墓所 / 高知市 > - コトバス https://www.kotobus-express.jp/column/2018/10/post-72.html
  13. 最後の当主・長宗我部盛親はなぜすべてを失ったのか?…関ヶ原から大坂の陣へ、名家の終焉 https://sengoku-his.com/614
  14. 【京都お寺めぐり】不思議伝説を持つ2体の仏像安置!戦国武将・長宗我部盛親のお墓も「蓮光寺」 https://kyotopi.jp/articles/oUDLK
  15. 7/27 蓮光寺 - 京都 心の都へ https://www.ntv.co.jp/kyoto/backnumber/oa/20020727/naiyou.html