最終更新日 2025-10-26

風魔小太郎
 ~敵陣に忍び火薬で夜空を炎に~

風魔小太郎は黄瀬川の夜襲で北条氏の命を受け武田軍を攪乱。火薬使用は後世の創作だが、奇抜な戦術と心理戦で武田の士気を徹底的に破壊し、歴史に名を刻んだ。

風魔小太郎、紅蓮の夜襲:天正九年黄瀬川における忍術譚の真相

序章:天正九年、黄瀬川の対峙 – 緊迫する甲相の駆け引き

天正九年(1581年)、駿河国を流れる黄瀬川を挟み、二つの大軍が対峙していた。一方は、関東に覇を唱える小田原北条氏の四代目当主・北条氏政と、家督を継いだばかりの若き五代目・氏直の親子。もう一方は、かつて「甲斐の虎」と畏怖された武田信玄亡き後、その巨大な遺産を継承した武田勝頼である 1 。この睨み合いは、単なる国境での小競り合いではなかった。それは、長篠の戦い以降、翳りを見せ始めた武田家の命運と、関東の覇者たる北条家の威信をかけた、抜き差しならない戦略的対決であった。

この対峙に至る背景は複雑である。武田勝頼は、天正三年(1575年)の長篠の戦いにおける織田・徳川連合軍への壊滅的な敗北以降、多くの宿将を失い、その勢力には明らかに陰りが見えていた 2 。さらに悪いことに、駿河方面では徳川家康の執拗な圧迫を受け、戦略的要衝であった高天神城を失うなど、苦境に立たされていた 2 。かつて三国同盟を結んだ北条氏との関係も破綻し、今や東からの圧力にも晒されるという、まさに挟撃の危機に瀕していたのである。疲弊した軍、伸びきった補給線、そして低下する士気。これらは武田の陣営に重くのしかかっていた。

対する北条氏は、この状況を好機と捉えていた。武田氏の弱体化は、かつて奪われた駿河東部の失地を回復し、関東における盤石の支配体制をさらに確固たるものにする絶好の機会であった 4 。しかし、北条氏政は老練な戦略家であり、たとえ弱体化しているとはいえ、武田軍との大規模な正面衝突が自軍にもたらす損耗を軽視してはいなかった。物理的な兵力をもって敵を殲滅するのではなく、より少ない犠牲で、敵の継戦意欲そのものを根底から打ち砕く。それこそが、この局面における北条方の至上命題であった。

このような状況下でこそ、正規の軍事行動とは異なる特殊な戦術が、極めて高い価値を持つ。疲弊し、疑心暗鬼に陥った敵の精神を徹底的に破壊し、内部から崩壊させるための非対称戦。そのための最適な手段として、歴史の表舞台に召喚されたのが、北条氏が扶持する特殊戦闘集団「乱波(らっぱ)」、そしてその名を轟かせる「風魔(ふうま)」の一党であった。

この黄瀬川という土地が、歴史の転換点となる舞台に選ばれたことには、ある種の因縁めいたものがあった。かつて治承・寿永の乱において源頼朝と源義経が涙の対面を果たし、源氏再興を誓った地であり 5 、また古くから関東と東海を結ぶ要衝として、幾度となく軍馬の蹄に踏まれた場所でもある 6 。この歴史的な舞台の上で、今まさに、戦国時代の常識を覆す一夜の惨劇が始まろうとしていた。それは、後に「風魔小太郎」という伝説を不滅のものとする、炎と混乱の物語の序曲であった。

第一章:闇夜の胎動 – 風魔一党、出陣の刻

その夜、黄瀬川の東岸に広がる北条の陣屋は、降りしきる雨音に包まれていた。当時の武士たちは、雨中の野戦を忌み嫌った。具足の革紐は水を吸って重くなり、鎧の隙間からは不快な臭いが立ち上る。刀や鏃は錆びつき、頼みの綱である火縄鉄砲は湿気て使い物にならなくなるからだ 7 。敵も味方も、等しく天候の前にその活動を制限される。だからこそ、敵陣の警戒は緩み、油断が生まれる。そして、その油断こそが、彼らにとって最大の好機であった。

陣の一角、ひときわ深く張られた幕舎の中に、北条氏直から密命を受けた一団がいた。彼らこそ、相模国足柄の山谷を根城とし、代々北条家に仕えてきた乱波集団、風魔一党である 8 。彼らは、伊賀や甲賀の忍びのように特定の主を持たず諸大名を渡り歩く傭兵とは異なり、北条早雲の時代からその特異な能力を見出され、北条家専属の特殊部隊として暗躍してきた存在であった 10 。その本質は、江戸時代初期に成立した軍記物『北条五代記』によれば、「他家へ忍び入り、山賊、夜討、強盗して物盗ること上手なり。才智ありて、計略めぐらすこと、凡慮におよばず」と記される、諜報、破壊、攪乱、そして略奪の専門家集団であった 11 。後世の研究では、彼らは戦国大名に扶持された「悪党」の一種、すなわち、夜間奇襲に伴う分捕りや乱暴狼藉といった略奪行為そのものを本領とする、極めて実利的なゲリラ部隊であったと分析されている 12

その二百人の徒党を束ねる頭領こそが、「風广(かざま)」、後世に「風魔小太郎」の名で知られる男であった 9 。『北条五代記』が伝えるその容貌は、常人のそれとはかけ離れていた。

「長七尺二寸(約218センチメートル)、手足の筋骨あらく敷、かしこにむらこぶ有て、眼はさかさまにさけ、黒髭にて口脇両へ広くさけ、きば四つ外へ出たり。かしらは福禄寿に似て鼻たかし。声お高く出せば、五十町(約5.5キロメートル)聞え…」 9

これが史実の姿であったか、あるいは敵に植え付ける恐怖を最大化するための誇張された風聞であったかは定かではない。むしろ、その実像を誰も知らなかったからこそ、このような怪物的なイメージが流布し、それ自体が心理的な武器として機能したと考えるべきであろう 11 。この異形の頭領像は、個々の兵士の顔を覆い隠し、風魔一党という集団全体を、人間ではなく一つの恐るべき「現象」として敵に認識させるための、巧みな象徴装置であった。

幕舎の中、風魔は二百の配下を前に作戦の骨子を告げる。彼の声は、噂されるような雷鳴の如きものではなく、雨音に溶け込むほど低く、乾いていたという。作戦は単純明快。夜陰と雨に紛れて敵陣に潜入し、最大限の混乱を引き起こし、同士討ちを誘発させ、武田軍の戦意を内側から食い破る。そのために、二百の兵は四つの部隊に分けられた 12 。「山」「海」「強」「窃」の技に秀でた「四頭(四盗)」と呼ばれる熟練の指揮官たちが、それぞれ五十の手勢を率いる 12 。山賊は地形を読み、海賊は水辺を制し、強盗は厳重な警戒を突破し、窃盗は音もなく忍び込む。彼らは高度に組織化された、破壊と略奪のスペシャリスト集団であった。

北条氏の戦略目標である「敵の攪乱」と、彼ら自身の行動原理である「略奪による実利の獲得」が完全に一致したとき、風魔一党の戦闘能力は最大化される。彼らにとって、この夜襲は主君への忠義であると同時に、自らの生存と利益を賭けた稼業でもあった。雨具を纏い、音を立てぬよう武具を固め、闇に溶け込む準備を整える男たちの間には、武士たちのそれとは異質な、しかし研ぎ澄まされた緊張感が満ちていた。やがて頭領の合図一つで、彼らは音もなく闇の中へと溶けていった。目指すは対岸、油断しきった武田の陣。紅蓮の夜の幕が、静かに上がろうとしていた。

第二章:攪乱の序曲 – 武田の陣、静寂の崩壊

黄瀬川の濁流を渡りきった風魔の兵たちは、あたかも獣のように身を低くし、雨に煙る武田の陣へと肉薄していた。警戒の篝火は雨に勢いを殺がれ、見張りの兵士たちの意識も、降り続く雨音と寒さによって内へ内へと向いている。四つに分かれた部隊は、それぞれが事前に定められた目標へと、寸分の狂いもなく進んでいた。

戦国時代の夜戦において、敵陣への潜入は決して珍しいことではない。「水汲み」や「物乞い」を装い、城内や陣屋に紛れ込む手口は、数々の史料に見られる常套手段である 15 。しかし、風魔の潜入は、その規模と計画性において一線を画していた。彼らは単に情報を得るためや、要人を暗殺するために動くのではない。陣営という一つのシステムそのものを、機能不全に陥らせることを目的としていた。

第一の部隊は、陣の生命線である兵糧庫を目指す。第二の部隊は、騎馬隊の要である馬屋へ。第三の部隊は、武具が納められた土蔵へ。そして第四の部隊は、陣の中枢に近い伝令所や将の宿舎が点在する区域へと、それぞれ散開していった。彼らの動きは、闇に紛れるという以上に、闇そのものと一体化しているかのようであった。

そして、丑の刻を回った頃、静寂は突如として引き裂かれた。

陣の東の端から、地の底から響くような鬨の声が上がった。それは、風魔の陽動部隊が上げた偽りの雄叫びであった。戦国時代の夜討ちにおいて、実際の攻撃部隊とは別に、ただ大声と鳴り物で敵を威嚇し、混乱させる「景気の武者」を配置するのは定石の一つである 16 。武田の兵士たちは、何事かとその方角に意識を集中させる。

その瞬間を待っていたかのように、今度は西の手から火の手が上がった。兵糧庫に潜入した部隊が、油を撒き、火を放ったのである。湿った藁葺きの屋根はすぐには燃え上がらないが、一度火が回れば、雨の中でも黒い煙を上げながらじわじわと燃え広がる。

「敵襲!東だ!」「いや、火事は西手!」

陣中は一瞬にして混乱に陥った。どこから、どれだけの数の敵が攻めてきているのか、全く把握できない。指揮系統は麻痺し、兵士たちは右往左往するばかりである。この「情報の遮断」こそが、風魔の戦術の核心であった。彼らは、鬨の声や放火という偽りの情報(大軍が攻めてきたという誤認)を敵に与える一方で、雨と闇を利用して自らの正確な情報(人数、位置、目的)を完全に秘匿する。この圧倒的な情報の非対称性が、敵の判断力を奪い、組織的な抵抗を不可能にするのである。かつて風魔が、自陣に紛れ込んだ武田の透破(すっぱ、忍びのこと)を炙り出すために用いたとされる「立ちすぐり・居すぐり」という合図も、味方だけが知る「情報」を用いて敵を識別する、情報管理術の一環であった 7 。この夜襲は、その情報戦術を、より大規模かつ攻撃的に応用したものと言えた。

狼狽する武田兵の耳に、新たな音が届く。それは、馬のいななきと、馬屋の柵が破壊される音であった。解き放たれた何十頭もの馬が、興奮して陣中を駆け巡り始める。兵士たちは、敵兵だけでなく、暴走する馬をも避けなければならなくなった。混乱は、もはや収拾不可能なレベルに達しつつあった。

これはまだ、地獄の序曲に過ぎなかった。夜空を焦がす本当の炎と、味方の刃が味方の血を吸う本当の悲劇は、これから始まろうとしていた。

第三章:紅蓮の夜空 – 炎が照らす同士討ちの惨禍

攪乱の序曲が奏でられる中、風魔一党の本隊が行動を開始した。それは、武田の兵士たちにとって、悪夢そのものの光景であった。

突如、闇の中から馬上の集団が出現し、猛烈な速度で陣中へと突入してきた。彼らは、当時の武士の常識であった「合戦では馬から降りて槍で戦う」という作法を完全に無視し、騎乗したまま暴れ回った 7 。その手には槍や刀だけでなく、燃え盛る松明が握られており、すれ違いざまに幕舎や物資の山に次々と火を放っていく。火は瞬く間に陣の各所へと広がり、雨の夜空を不気味な赤色に染め上げた。

さらに兵士たちを恐怖させたのは、その不可解な騎乗術であった。ある者は、馬の横腹に吸い付くように身を隠して疾走し、まるで馬だけが暴走しているかのように見せかけた 7 。この曲芸的な技術は、敵に「見えない敵に襲われている」という超自然的な恐怖を植え付けた。風魔一党の出自に「大陸から渡来した騎馬集団」という説があるが 8 、日本の伝統的な武士の騎射や打物とは明らかに異質なこの馬術は、彼らが異文化の戦闘技術を持つ集団であった可能性を強く示唆している。この夜は、単なるゲリラ戦ではなく、異なる軍事文化の衝突でもあったのだ。

風魔の兵たちは、破壊と放火だけでなく、略奪にも余念がなかった。彼らは馬を駆けさせながら、手当たり次第に武具を奪い、兵糧を蹴散らし、さらには抵抗する兵士を生け捕りにして馬上に担ぎ上げ、連れ去っていく 7 。これは敵の戦力を削ぐと同時に、彼らにとっての「戦果」であり、報酬であった。その動きには一切の躊躇がなく、ただ効率的に混乱を極大化させ、実利を得ることだけに集中していた。

炎に照らし出された陣内は、完全な無政府状態に陥った。何が起きているのか、敵は誰で、味方は誰なのか。その区別が、誰にもつかなくなっていた。この極度の混乱こそ、風魔が狙った最終目的であった。彼らは、意図的に武田方の旗指物を掲げたり、偽りの合言葉を叫んだりして、武田兵同士の疑心暗鬼を煽った。

「裏切り者が出たぞ!」

「あそこに見えるは敵の旗だ、斬りかかれ!」

暗闇と炎の明滅の中で、恐怖に駆られた兵士たちは、隣にいる者さえも敵に見え始めた。一度始まってしまった同士討ちは、連鎖反応のように陣全体へと広がっていく。助けを求める悲鳴、怒号、そして断末魔の叫び。それらが雨音と炎の爆ぜる音に混じり合い、阿鼻叫喚の地獄絵図を現出させた。夜空を焦がす紅蓮の炎は、この戦国最大の悲劇を照らし出す、残酷な舞台照明と化していた 14

この戦術思想は、かつて北条氏康が河越城の戦いで見せた夜襲戦にも通じるものがある 16 。天候を利用し、敵の油断を突き、情報戦と心理戦を駆使して敵を自壊させる。北条家伝統の、あるいは得意とするこの奇襲戦術を、より特化させ、残虐なまでに純度を高めたのが、風魔一党の戦い方であった。

夜が明け始める頃、風魔一党は嵐のように引き上げていった。彼らが去った後には、燃え尽きた幕舎の残骸、散乱した物資、そして味方の手にかかって命を落とした数多の兵士たちの亡骸だけが残されていた。武田軍が受けた損害は、物理的なもの以上に、その心に深く刻み込まれた恐怖と不信感であった。一夜にして、彼らの継戦能力と士気は、回復不可能なまでに打ち砕かれたのである。

第四章:『火薬』の真偽 – 史料と伝承の狭間を読み解く

さて、本報告書の主題である「敵陣に忍び込み火薬を仕掛け、夜空を炎で染めた」という逸話について、その核心部分である「火薬」の使用の真偽を検証する必要がある。これまで詳述してきた夜襲の惨状は、主に江戸時代初期の軍記物『北条五代記』の記述に基づいている。しかし、この最も重要な典拠である『北条五代記』巻九「関東の乱波智略の事」を精査しても、「火薬」あるいはそれに類する爆発物を使用したという記述は、一切見当たらない 9

史料が伝えるのは、あくまで「火をはなって」(放火) 7 、「松明(たいまつ)」 11 を用いたという事実である。これは、油を染み込ませた布や藁に火をつけたり、火矢を放ったりといった、当時の合戦で一般的に用いられた放火戦術の範疇を出るものではない。では、なぜ風魔小太郎の逸話に、より破壊的で忍術的な響きを持つ「火薬」というイメージが付与されるようになったのであろか。その答えは、史実が伝説へと昇華していく過程の中にある。

風魔小太郎の物語は、時代と共にその姿を大きく変えてきた。その変遷を辿ることで、「火薬」という脚色が加えられた背景が浮かび上がってくる。

  1. 第一段階:『北条五代記』における記録(江戸初期)
    元北条家臣であった三浦浄心によって書かれたこの書物は、一次史料に最も近い記録である 12。しかし、既にこの段階で、頭領の怪物的な容貌の描写など、多分に誇張や伝聞が含まれており、伝説化の萌芽が見られる。ここでの風魔は「忍者」ではなく、あくまで「乱波」というゲリラ・略奪集団として描かれている。
  2. 第二段階:江戸時代の講談や読本における娯楽化
    泰平の世が続いた江戸時代、戦国の物語は庶民の娯楽として大衆化する 18。この過程で、『北条五代記』の逸話はより刺激的で分かりやすいエンターテイメントへと再構成されていった。現実的なゲリラ戦術は、超人的な「忍術」として語られ始め、風魔は単なる乱波の頭領から、不思議な術を操る忍者へとキャラクターを変えていく。
  3. 第三段階:近代以降の創作物におけるキャラクターの完成
    明治・大正期の立川文庫などの少年向け読み物、さらには昭和期の三田村鳶魚の研究によって「ふうま」という読み方が定着し 19、現代に至る小説、漫画、映画、ゲームといったメディアの中で、「風魔小太郎」は完全に「伝説の忍者」「忍者軍団の首領」として定着した 20。

「火薬」という要素は、まさにこの第二段階から第三段階への移行期において、物語をより派手に見せるための演出として加えられたと考えるのが最も合理的である。単なる「放火」では、超人的な忍術としてはインパクトが弱い。そこで、より専門的で、視覚的にも破壊的にも劇的な「火薬による爆破」というイメージが、物語の作り手によって「翻訳」され、付与されたのである。それは、物語が時代ごとの聴衆や読者の興味を引くために、自己進化を遂げた結果と言える。時代のテクノロジー観が、古い物語のディテールを無意識のうちにアップデートさせたのだ。

以下の表は、この逸話の描写が時代と共にどのように変遷したかをまとめたものである。

典拠(時代)

頭領の呼称・容姿

戦術の描写

放火手段の描写

『北条五代記』(江戸初期)

風广(かざま)、怪物的な容貌

夜討、攪乱、略奪、騎馬戦術

放火、松明

江戸期講談(推定)

風魔小太郎、異形の忍者

忍術、攪乱

火術、火遁の術

近代以降の創作物

風魔小太郎、忍者マスター

超人的忍術、組織的戦闘

火薬、爆薬、爆破

この表が示すように、「火薬を仕掛けた」という鮮烈なイメージは、史実そのものではなく、二百年以上の歳月をかけて人々の想像力の中で醸成され、完成した「伝説」の一部なのである。それは歴史の嘘偽りというよりも、一つの記憶が物語として語り継がれる中で獲得した、必然的な輝きと言えるのかもしれない。

終章:伝説の形成 – 一夜の炎が刻んだ風魔の残像

天正九年、黄瀬川の一夜が明けた時、武田軍が失ったものは兵士の命や物資だけではなかった。それは、組織としての結束力と、戦いを継続する意志そのものであった。この夜襲は、翌天正十年(1582年)に織田・徳川連合軍の侵攻によって武田家が滅亡へと至る、長い坂道を転がり落ちる最後の一押しとなったのかもしれない 2 。その意味で、風魔一党の軍事的な成果は、歴史の大きな流れに確かに貢献したと言える。

しかし、この夜襲が後世に残した最も大きな影響は、軍事的な戦果以上に、人々の心に刻み付けた強烈な「記憶」であった。炎、混乱、闇を駆ける見えない騎馬武者、そして怪物の噂。これらの断片的な恐怖の記憶は、『北条五代記』によって一つの物語として定着し、やがて「風魔小太郎」という不滅の伝説を生み出す源泉となった。

北条家が豊臣秀吉によって滅ぼされた後、風魔一党のその後については、江戸に出て盗賊となり、慶長八年(1603年)に別の盗賊団の密告によって捕縛・処刑されたという伝承が残っている 7 。この、最後まで体制に組み込まれることなく無法者として生涯を終えたという末路は、彼らのアンチヒーロー的な魅力をさらに際立たせ、後世の創作意欲を大いに刺激した。

なぜ、この一夜の物語は、数多ある戦国の逸話の中から、これほどまでに人々を惹きつけ続けるのか。それは、風魔一党の戦い方が、当時の「秩序」に対する根源的な挑戦であったからかもしれない。武士には武士の戦の作法、守るべき名誉という一種の秩序があった。しかし風魔は、雨中に戦い、馬から降りず、略奪をためらわないなど、その作法をことごとく踏みにじった。彼らは、戦場の秩序の破壊者であった。

そして、厳格な身分制度に支えられた江戸時代という「秩序の時代」において、この秩序の破壊者の物語が娯楽として広く受け入れられたのは、人々がその秩序の息苦しさからの解放を夢見たり、あるいは秩序が崩壊することへの潜在的な恐怖を、彼の物語に投影したりしていたからではないだろうか。

結論として、「風魔小太郎が敵陣に忍び込み火薬を仕掛け、夜空を炎で染めた」という逸話は、史実の核(夜襲と放火)に、後世の人々の想像力という名の火薬が詰め込まれ、伝説として大爆発した物語である。それは単なる軍記物語ではない。時代を超えて、人々が抱く「秩序」への憧憬と反発、その両義的な感情を映し出す鏡として、今なお我々の前に立ち現れる。我々がこの逸話に心惹かれるのは、その炎の中に、歴史の真実だけでなく、人間の心の奥底にある破壊と創造への根源的な衝動を見出すからに他ならない。

引用文献

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  2. 武田勝頼は何をした人?「信玄の跡を継いだけど信長に大敗して武田家を滅ぼした」ハナシ https://busho.fun/person/katsuyori-takeda
  3. 武田勝頼には家康の首を取る千載一遇のチャンスがあった…「取り逃がしたのはわが運の末」と嘆いた幻の作戦 戦ってはいけない戦を戦い、戦わなければならない戦を取り逃がした (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/70637?page=2
  4. 大河ドラマ時代考証・平山優と戦国の激戦区!沼津の”城”をめぐる - 歴史人 https://www.rekishijin.com/35082
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  7. 忍者・忍術の研究ノート - 風魔一族 - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n2851cy/16/
  8. かつて北条氏に仕えた風魔一族は、現在の小田原あたりにある風間谷の出身だそうだが - レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000163759&page=ref_view
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  10. 風魔一族の忍者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/52419/
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  15. 勝敗を決する戦闘は夜に行われていた! 戦国合戦の驚きの実態とは? 平山優さんインタビュー https://kadobun.jp/feature/interview/c2gi44bh06os.html
  16. 戦国時代の「夜討」戦術の有効性と作法について【『軍法侍用集』窃盗巻、『兵法雌鑑』夜軍】 - note https://note.com/kiyo_design/n/n83ca122500d0
  17. 日本三大奇襲(日本三大夜戦)/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/91963/
  18. 風魔小太郎(ふうま こたろう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%A2%A8%E9%AD%94%E5%B0%8F%E5%A4%AA%E9%83%8E-1104506
  19. 風魔小太郎の真実!?川越に眠る戦国の秘密を探る | - カワゴエ・マス・メディア https://koedo.info/240913westakawagoe/
  20. 忍者風魔 ~戦国時代を生きた風魔小太郎~ | 幻冬舎ルネッサンス https://www.gentosha-book.com/products/9784344944183/
  21. 講談社文庫 忍者烈伝 - 紀伊國屋書店 https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784062932752