三国同盟破綻(1568)
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甲相駿三国同盟の破綻(1568年):東国世界の地政学的リセットに関する詳細報告
序章:盤石の同盟、その内に潜む亀裂
戦国時代の日本列島において、大名家間の同盟は領国の存亡を左右する極めて重要な外交戦略であった。中でも、甲斐の武田氏、相模の北条氏、駿河の今川氏という、隣接する三大勢力が結んだ「甲相駿三国同盟」は、十数年にわたり東国世界の勢力均衡を維持した稀有な成功例として知られる。しかし、その盤石に見えた構造は、永禄11年(1568年)12月、武田信玄による駿河侵攻によって突如として、そして決定的に崩壊した。本報告書は、この歴史的転換点に至るまでの伏線、事変発生時の各勢力のリアルタイムな動向、そして同盟破綻がもたらした広範な影響について、時系列に沿って徹底的に詳述するものである。
甲相駿三国同盟の成立と構造
天文23年(1554年)、今川義元の軍師・太原雪斎の仲介により、今川義元、武田信玄(当時は晴信)、北条氏康の三者が駿河国の善徳寺に会し、歴史的な和議を締結した。これは「善徳寺の会盟」として知られ、甲相駿三国同盟が正式に成立した瞬間であった 1 。この同盟は、単なる相互不可侵協定に留まらず、有事の際には互いに援軍を派遣する攻守軍事同盟としての性格を帯びていた 3 。
この強固な同盟関係を担保したのは、三家の嫡男と娘たちの婚姻によって結ばれた、複雑かつ緊密な姻戚関係であった。具体的には、以下の三つの政略結婚が順次成立した 5 。
- 天文21年(1552年):今川義元の娘・嶺松院が武田信玄の嫡男・武田義信に嫁ぐ(駿甲同盟)。
- 天文22年(1553年):武田信玄の娘・黄梅院が北条氏康の嫡男・北条氏政に嫁ぐ(甲相同盟)。
- 天文23年(1554年):北条氏康の娘・早川殿が今川義元の嫡男・今川氏真に嫁ぐ(相駿同盟)。
これにより、三家は互いに「婿」であり「舅」でもあるという、三竦みの関係を構築した。この同盟によって背後の安全を確保した武田氏は北信濃へ、北条氏は関東へ、そして今川氏は三河・尾張へと、それぞれが主たる戦略目標に軍事力を集中させることが可能となったのである 8 。
桶狭間の衝撃(1560年)と地殻変動の始まり
永禄3年(1560年)5月、今川義元は尾張侵攻の途上、桶狭間において織田信長の奇襲を受け、討ち死にした。この「桶狭間の戦い」は、単に一人の傑出した大名の死を意味するものではなかった。「海道一の弓取り」と称された当主と、松井宗信、井伊直盛といった多数の有力武将を同時に失った今川家は、その権威と軍事力に回復不能なほどの打撃を受けた 9 。
この事件は、三国同盟のパワーバランスを根底から揺るがす最初の、そして最大の地殻変動であった。同盟の基盤は、三家の勢力が拮抗しているという前提の上に成り立っていた。しかし、桶狭間の戦いはその前提を破壊した。今川家は「対等なパートナー」から「弱体化した庇護対象」へと転落し、同盟の性質そのものが三者三様に変質し始めたのである。武田信玄にとって、今川領はもはや「安定した背後」ではなく「征服すべき標的」へと映り、北条氏康にとっては「対等な盟友」から「守るべき姻戚」へとその立場を変えた。皮肉にも、同盟を強固にしていたはずの婚姻関係が、武田の裏切りに対する北条の怒りを増幅させ、同盟崩壊時の対立をより激化させる装置として機能することになる。同盟の「強み」が、一角の崩落を機に、破局的な対立を招く「弱み」へと転化した瞬間であった。
第一章:崩れゆく今川の権威(1560年~1567年)
桶狭間の戦いは、今川家の緩やかな、しかし確実な崩壊プロセスの始まりを告げた。武田信玄の侵攻は、すでに内部から崩壊しつつあった国家への最後の一撃に過ぎなかった。この時期の今川領国は、単なる軍事力の低下ではなく、「領国経営システムの崩壊」という、より深刻な問題を抱えていた。
後継者・今川氏真の苦悩
偉大な父・義元の後を継いだ今川氏真は、和歌や蹴鞠を嗜む当代一流の文化人であったが、乱世を生き抜く大名に不可欠な軍事・政治の才覚には恵まれていなかった 7 。父の仇である織田信長への雪辱を果たせない氏真の姿は、今川家臣団の間に失望と動揺を広げ、その求心力を急速に低下させていった 9 。戦国大名の権力は、当主のカリスマと軍事力だけでなく、在地領主である国衆を束ねる統治システムに依存する。義元の死は、このシステムの「重し」を失わせ、氏真には父ほどの権威で国衆の利害を調整し、忠誠を維持する能力が欠けていたのである 11 。
松平元康(徳川家康)の独立
今川家の権威失墜を最も象徴する出来事が、人質であった松平元康(後の徳川家康)の自立であった。桶狭間の戦後、岡崎城へ帰還した元康は、今川家からの独立を画策 9 。永禄5年(1562年)、元康は父の仇敵である織田信長と「清洲同盟」を締結した 9 。これは今川家に対する明確な離反であり、三国同盟の一角であった今川領が、その西側から崩れていく決定的な瞬間であった。
領国を蝕む内乱「遠州忩劇」
家康の独立は、ドミノ倒しのように今川領内の動揺を誘発した。特に遠江国では、今川家という中央権力を見限った国衆たちが、新たな庇護者(徳川家康)を求めて次々と反旗を翻した。この一連の混乱は「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」と呼ばれる 13 。
永禄5年(1562年)には井伊直親が家康への内通を疑われて氏真に誅殺され、翌年には引間城主の飯尾連龍が公然と離反するなど、有力国衆の反乱が頻発した 13 。氏真はこれらの鎮圧に追われ、領国経営は完全に麻痺状態に陥った。さらに、この混乱の裏では、まだ同盟関係にあったはずの武田信玄が水面下で遠江の国衆に調略を仕掛け、今川家の弱体化を加速させていた 13 。今川家の統治システムは、もはや機能不全に陥っていたのである。
武田家との関係悪化と「塩止め」
今川家の衰退と、武田家内部で駿河侵攻論が台頭していることを察知した氏真は、永禄10年(1567年)、北条氏康と連携し、武田領である甲斐への塩の輸出を停止する経済封鎖、いわゆる「塩止め」を断行した 15 。これは武田家に対する明確な敵対行動であり、両家の関係がもはや修復不可能な段階に至ったことを内外に示した。この経済封鎖に対し、越後の上杉謙信が塩の輸出を継続したことが「敵に塩を送る」の故事として知られるが、これは人道的な理由に加え、上杉家にとって塩が重要な収入源であったという経済的側面も大きかった 15 。この塩止めは、結果的に信玄に駿河侵攻の口実を与えることにも繋がった。
第二章:甲斐の虎、南へ(1565年~1568年)
今川家の弱体化を好機と見た武田信玄にとって、駿河侵攻は単なる領土拡大策ではなかった。それは、自らの後継者体制と家中の安定を賭けた、極めてリスクの高い「国家戦略の全面転換」であった。
武田信玄の戦略転換
長年にわたり、信玄の戦略目標は北信濃の支配であり、その過程で越後の上杉謙信と五度にわたる「川中島の戦い」を繰り広げてきた。永禄7年(1564年)の第五次合戦を最後に両者の大規模な衝突が終息すると、信玄は戦略の矛先を南へと転換した 17 。山国である甲斐にとって、太平洋に面した駿河の港を確保することは、経済的・戦略的に長年の悲願であった 18 。弱体化した今川領は、その悲願を達成するための格好の標的だったのである。
家中を揺るがした「義信事件」
しかし、この戦略転換は武田家中に深刻な亀裂を生んだ。信玄の嫡男・武田義信は、今川義元の娘・嶺松院を正室に迎えており、舅である今川家を攻めることに猛烈に反対した 6 。義信は単なる息子ではなく、武田家の正式な後継者であり、今川家との同盟を象徴する存在であった。
義信の傅役(後見人)であり、武田軍最強と謳われた「赤備え」を率いる宿老・飯富虎昌をはじめとする親今川派の重臣たちも義信に同調し、家中は駿河侵攻を推進する信玄派と、同盟維持を主張する義信派に二分された。この対立はエスカレートし、義信派による信玄暗殺の謀議まで計画される事態に至った 22 。
この家中の分裂に対し、信玄は非情な決断を下す。永禄8年(1565年)、信玄は義信派の粛清を断行。飯富虎昌は謀反の首謀者として処刑され、義信は嫡男の座を廃された上で甲府の東光寺に幽閉された 23 。義信はその2年後の永禄10年(1567年)10月に失意のうちに病死した 26 。信玄は、自らの後継者と重臣を犠牲にしてまで、駿河侵攻への道を切り開いたのである。これは、従来の三国同盟を基軸とする国家戦略を完全に否定し、今川・北条との敵対を前提とする新戦略へ、武力をもって強制的に舵を切ったことを意味する、まさに国家の未来を賭けた大博打であった。
外交戦の暗闘:徳川家康との密約
駿河侵攻を実行するにあたり、信玄が最も警戒したのは、今川の姻戚である北条氏の軍事介入であった。この脅威を相殺するため、信玄は周到な外交工作を展開する。織田信長を仲介役として、三河で着実に勢力を拡大していた徳川家康に接触し、今川領の分割統治を持ち掛けたのである 28 。
弱体化したとはいえ、旧主である今川家を攻めることにためらいもあった家康だが、武田と組まなければ遠江の支配権を武田に奪われかねないという戦略的判断から、この密約を受け入れた。永禄11年(1568年)2月頃、両者の間で密約が成立。大井川を国境とし、東の駿河国を武田が、西の遠江国を徳川がそれぞれ領有するというものであった 28 。この密約の証として、家康は家老筆頭である酒井忠次の娘を人質として甲斐に送っている 31 。こうして、信玄は駿河侵攻のための全ての布石を打ち終えた。
第三章:三国同盟、崩壊の刻(1568年12月)
永禄11年(1568年)12月、東国の政治地図を永遠に塗り替える動乱の幕が切って落とされた。この1ヶ月間の出来事は、複数の勢力がそれぞれの思惑で動く「マルチプレイヤー・ゲーム」の様相を呈し、各々の行動が相互に影響し合い、予測不能な連鎖反応を引き起こしていった。
侵攻開始(12月上旬)
12月6日 、武田信玄はかねての計画通り、約2万の大軍を率いて甲府の躑躅ヶ崎館を出陣。14年間にわたって東国の平和を支えてきた甲相駿三国同盟を一方的に破棄し、駿河への電撃的な侵攻を開始した 26 。
12月9日 、武田軍の別働隊が駿河富士郡の要衝・大宮城を攻撃。城主の富士信忠は奮戦し、これを一度は撃退するも、武田軍本隊の西進を止めることはできなかった 26 。
今川方の総崩れ(12月12日~13日)
12月12日 、武田軍接近の報を受け、今川氏真は本拠地である駿府の今川館から興津の清見寺へ出陣。東海道の最大の難所である薩埵峠(さったとうげ)に防衛線を敷き、武田軍を迎え撃つ態勢を整えた 33 。
しかし、氏真の期待は無残に裏切られる。信玄の周到な調略により、防衛の主力部隊を率いていた瀬名信輝、葛山氏元、朝比奈信置といった今川家の重臣たちが、戦わずして次々と武田方に寝返ったのである 28 。これにより今川軍の防衛線は戦闘開始を待たずに崩壊。氏真の周囲にはわずかな手勢しか残らなかった。
12月13日 、組織的抵抗を失った今川軍を尻目に、武田軍は薩埵峠を突破。同日中に駿府へ無血入城を果たし、今川家代々の居館を占拠、焼き払った 28 。氏真はもはや戦う術もなく、忠臣・朝比奈泰朝が守る遠江国の掛川城を目指して、命からがら西へ逃れた。この逃避行はあまりに急であり、正室である早川殿(北条氏康の娘)は乗り物である輿すら用意できず、徒歩で険しい山道を踏破するという屈辱的なものであった 21 。
徳川・北条の動き(12月中旬~下旬)
信玄の侵攻は、直ちに他の二大勢力を行動へと駆り立てた。
12月12日頃 、信玄の出陣に呼応し、徳川家康も密約通り三河から遠江への侵攻を開始した。井伊谷三人衆(近藤氏・菅沼氏・鈴木氏)などを事前に調略しており、井伊谷城、そして後の徳川家の拠点となる引馬城(浜松城)など、遠江西部の諸城を次々と攻略していった 13 。
一方、相模の北条氏康は、娘婿・氏真の敗走と、愛娘・早川殿が徒歩で逃げ延びたという悲惨な知らせに激怒した。信玄の非道な盟約違反を断罪し、今川家救援のための出兵を即座に決定。ここに甲相同盟は完全に破綻した 21 。
12月27日 、遠江の主要拠点を制圧した家康軍は、氏真が籠る掛川城を包囲し、ここに掛川城攻防戦が始まった 32 。
12月下旬 には、北条氏政が率いる救援軍が駿河へ進軍。武田軍が占拠する駿府の東、薩埵峠に布陣し、武田軍と対峙した 41 。
当初の武田・徳川による「共同作戦」は、わずか数週間のうちに、東では武田対北条、西では徳川対今川という、全く異なる二つの戦線へと変質したのである。
【時系列表】1568年12月 各勢力動向タイムライン
日付 (永禄11年) |
武田信玄の動向 |
徳川家康の動向 |
今川氏真の動向 |
北条氏康・氏政の動向 |
12月6日 |
甲府を出陣、駿河侵攻を開始。 |
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12月9日 |
別働隊が大宮城を攻撃。 |
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12月12日 |
薩埵峠で今川軍を撃破。 |
遠江侵攻を開始。 |
薩埵峠で防衛を試みるも家臣の裏切りで敗走。 |
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12月13日 |
駿府に無血入城、今川館を占拠・焼き討ち。 |
遠江の諸城を攻略。 |
駿府を脱出、掛川城へ逃亡。 |
信玄の裏切りと娘の窮状に激怒、出兵を決定。 |
12月18日 |
駿河国内の平定を進める。 |
引馬城(浜松)に入城。 |
掛川城で籠城の準備。 |
救援軍を駿河へ派遣。 |
12月27日 |
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掛川城を包囲。 |
掛川城での籠城戦を開始。 |
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12月下旬 |
薩埵峠で北条軍と対峙。 |
掛川城包囲網を構築。 |
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北条軍が薩埵峠に着陣。 |
信玄の計画は、弱体化した今川を迅速に制圧し、北条が介入する前に既成事実を作ることだった。しかし、今川家臣の寝返りが予想以上に早かったことで、氏真と早川殿の悲惨な逃避行という「情報」が北条氏康の感情を激しく刺激し、予想以上に迅速かつ大規模な軍事介入を招いた。これは信玄の計算外であった可能性が高い。一つの成功が、新たな、より大きな脅威を生み出すという、戦国の非情な現実がそこにはあった。
第四章:二つの戦線(1569年初頭~5月)
1569年に入ると、駿河・遠江を舞台にした動乱は二つの主要な戦線に集約された。東では武田と北条が、西では徳川と今川が、それぞれ一進一退の攻防を繰り広げた。そして、この二つの戦線の背後では、昨日までの同盟者であった武田と徳川の間に、修復不可能な亀裂が走り始めていた。
東の戦線:薩埵峠の対峙
永禄12年(1569年)1月、北条氏政が率いる約4万5千の大軍は薩埵峠に堅固な陣を構え、駿府に駐留する武田軍約1万8千と睨み合いを続けた 41 。兵力で劣る武田軍は決戦を避け、戦線は膠着状態に陥った。
この状況を打開するため、北条氏は外交戦を仕掛ける。長年の宿敵であった越後の上杉謙信に使者を送り、武田を挟撃するための同盟交渉(後の越相同盟)を本格化させたのである 39 。背後から上杉軍に信濃を突かれることを何よりも恐れた信玄は、4月下旬、ついに駿府の確保を断念。興津城などに守備兵を残し、一旦甲斐へと兵を撤退させた 18 。北条氏の断固たる介入が、信玄の第一次駿河侵攻を頓挫させた形となった。
西の戦線:掛川城攻防戦
一方、西の遠江では、徳川家康による掛川城の包囲が続いていた。家康は、掛川城の周囲に天王山砦や金丸山砦など、十数ヶ所に及ぶ砦を体系的に築き上げ、完全な包囲網を完成させた 47 。
しかし、城を守る今川方の抵抗は熾烈を極めた。城主の朝比奈泰朝は、多くの家臣が氏真を見限る中で最後まで忠義を貫き、約3千の籠城兵を巧みに指揮して徹底抗戦した 14 。今川軍は城から討って出ることもあり、家康軍に多大な損害を与え、攻城戦は約半年にわたる長期戦となった 48 。
密約の破綻と武田・徳川の亀裂
この掛川城攻防戦の最中、武田と徳川の同盟関係を根底から揺るがす事件が発生する。信玄の家臣・秋山信友(虎繁)が率いる部隊が、信濃から遠江に侵入し、見付(現在の磐田市)まで進軍。あろうことか、すでに徳川方となっていた久野城を攻撃するなど、明らかに密約を反故にする軍事行動を展開したのである 30 。
この越境行為は、家康を激怒させた。家康は直ちに信玄に激しい抗議の書状を送った。これは単なる領土侵犯ではなく、家康が「武田の下位の協力者」と見なされていることの証左であり、独立した大名としての家康の尊厳を傷つける行為であった。当時、東で北条軍と対峙していた信玄は、西の家康まで敵に回すことを避けるため、家康に陳謝して秋山隊を撤退させた 25 。
しかし、この事件によって両者の間に植え付けられた不信感は決定的であった。家康は武田の野心を、信玄は家康の自立性を再認識し、両者の関係は「同盟者」から「潜在的な敵」へと完全に移行した。この亀裂は、後の三方ヶ原の戦いへと至る対立の直接的な原因となったのである 26 。
第五章:一つの時代の終わり
1569年5月、掛川城の開城をもって、一つの時代が終わりを告げた。戦国大名・今川氏の滅亡は、関東から東海に至る広域の国際秩序を崩壊させ、全く新しい合従連衡の時代、すなわち「地政学的リセット」の引き金となった。
掛川城の開城と今川氏の滅亡
長期化する籠城戦と、背後から迫る武田という新たな脅威に直面した徳川家康は、力攻めから方針を転換し、今川氏真に和議を提案した 29 。援軍の望みが絶たれ、籠城の限界を悟った氏真も、家臣たちの命を救うことを条件にこれを受け入れた。この和議交渉には、氏真の舅である北条氏康も仲介役として深く関わったとされる 53 。
永禄12年(1569年)5月17日、掛川城は徳川方に明け渡された。氏真は妻・早川殿と共に、実家である北条家を頼って伊豆へと退去した 29 。これにより、駿河・遠江の領国をすべて失い、足利将軍家の一門として名門の誉れ高かった戦国大名・今川家は、事実上滅亡した 10 。
東国情勢の再編:新たな対立軸へ
三国同盟の崩壊は、東国の勢力図を劇的に塗り替えた。昨日までの同盟者が今日の敵となり、昨日までの宿敵が今日の同盟者となる、流動的な抗争の時代が始まったのである。
- 甲相同盟の完全破綻と抗争激化: 今川領を巡る対立から、武田と北条は完全な敵対関係に突入した。同年10月、信玄は北条氏の本拠地・小田原城を包囲し、その帰路において北条軍と激突(三増峠の戦い)。両者の抗争は、関東・駿河の二正面で激化していくこととなる 57 。
- 越相同盟の成立: 武田信玄という共通の敵を前に、北条氏は長年の宿敵であった上杉謙信と歴史的な和睦を結んだ。ここに「越相同盟」が成立し、東国の政治地図は「武田 vs 上杉・北条連合」という新たな構図に再編された 39 。
- 徳川の台頭と武田との対立: この動乱の中で最も大きな利益を得たのは、徳川家康であった。今川という旧主の軛から完全に解放され、遠江一国を平定。三河・遠江の二カ国を領有する有力な戦国大名へと飛躍を遂げた 31 。家康は本拠地を引馬から改名した浜松城へと移し、西の織田信長との同盟を堅持しつつ、東の新たな脅威である武田信玄との全面対決に備える体制を構築していく 38 。
三国同盟の破綻は、今川氏を歴史の舞台から退場させ、武田・北条・上杉・徳川という新たな主役たちによる、より複雑で流動的な抗争時代の幕開けを告げる号砲となったのである。
終章:残響と新たな秩序
甲相駿三国同盟の破綻という地殻変動は、その後の東国、ひいては日本全体の戦国史に長く深い残響を残した。それは、戦国中期の安定した秩序を破壊し、織田信長の天下統一事業が本格化する直前の、東国における最後の大規模な勢力再編であった。
その後の主要人物
- 今川氏真: 北条家を頼った後、その北条家が武田と和睦すると居場所を失い、最終的にはかつての家臣であった徳川家康の庇護下に入った。大名として返り咲くことはなかったが、京で培った文化人としての才能を発揮し、穏やかな余生を送った。その子孫は江戸幕府において儀式を司る高家として存続し、今川の名跡を後世に伝えた 56 。
- 武田信玄: 念願の駿河を手に入れたものの、その代償は大きかった。北条・徳川・上杉という三方の敵に囲まれる状況を自ら作り出し、その治世の晩年は絶え間ない戦いに明け暮れた。この後、京を目指す西上作戦を開始し、三方ヶ原で家康を完膚なきまでに打ち破るも、その道半ばで病に倒れた 64 。
- 北条氏康: 信玄の侵攻を一度は食い止めるという意地を見せたが、元亀2年(1571年)に病没。氏康の死後、後を継いだ氏政は上杉との同盟を破棄し、再び武田と同盟を結ぶ(甲相一和)など、北条家の外交方針は揺れ動くこととなる 64 。
- 徳川家康: 遠江平定を足掛かりに、武田氏との約10年にわたる熾烈な抗争(高天神城の戦いなど)を繰り広げた 29 。信玄亡き後の武田家を織田信長と共に滅亡させると、旧今川・武田領を併合し、その家臣団を吸収することで組織を拡大 67 。三河の小大名から、東海地方に覇を唱える大大名へと成長し、後の天下取りへの強固な基盤を築き上げた。
三国同盟破綻が戦国史に与えた影響の総括
甲相駿三国同盟の破綻は、単一の歴史事変に留まらない、多層的な意義を持つ。
第一に、今川家の滅亡は、旧今川領を巡る武田・徳川の新たな抗争の火種を生み出した。この抗争は武田家の国力を著しく消耗させ、結果的に長篠の戦いでの歴史的敗北、そして武田家滅亡へと繋がる遠因となった。
第二に、この事変は徳川家康の飛躍を決定づけた。もし同盟が継続していれば、家康は今川家の支配下から脱することは困難だったかもしれない。旧主の領地を併合し、その人材を登用することで、家康は天下を争う資格を得た。三国同盟の破綻なくして、後の徳川幕府はあり得なかったと言っても過言ではない。
最終的に、この東国世界の秩序崩壊は、中央で勢力を伸ばしていた織田信長にとって、東方への進出を容易にする間接的な追い風となった。三国同盟という巨大なブロックが解体され、各勢力が互いに争い始めたことで、信長は各個撃破の機会を得たのである。かくして、1568年の同盟破綻は、戦国乱世が最終局面である天下統一へと向かう、大きなうねりの始まりを告げる出来事となったのである。
引用文献
- 善得寺の変遷 - 鎌倉円覚寺の無学祖元門下の大勲策 禅師 須津庄小県 (現中里1丁目) - 富士市 https://www.city.fuji.shizuoka.jp/documents/7389/rn2ola0000005w4p.pdf
- 第33話 善徳寺の会盟 - 武田信玄の歩み(武田伸玄) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054908292416/episodes/1177354054921499724
- GLOCAL Vol24 13/16 - 中部大学 https://www.chubu.ac.jp/documents/digibook/glocal/glocal024/pageindices/index13.html
- 駿甲相三国同盟 : 今川、武田、北条、覇権の攻防 - 新書マップ https://shinshomap.info/book/9784040825267
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- 甲相駿三国同盟で嫁入りした女性たちの後半生を追う - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2295
- 甲相駿三国同盟とは?|武田氏、北条氏、今川氏が締結した和平協定の成立から終焉までを解説【戦国ことば解説】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1119202/2
- 越相同盟と北条氏邦 https://www.town.yorii.saitama.jp/uploaded/attachment/4108.pdf
- 桶狭間の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 奇跡の逆転劇から460年! 織田信長はなぜ、桶狭間で今川義元を討つことができたのか https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/101738/
- 今川氏真の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/94143/
- 徳川家康、見限った今川氏真と和睦した果敢な思惑 手を結んだ武田信玄を信用することなく行動 https://toyokeizai.net/articles/-/661236?display=b
- 『今川氏滅亡』氏真は無能だったのか?恐るべき武田信玄、頼りにならない上杉謙信 https://sengokubanashi.net/history/imagawashi-extinction/
- 今川家 武将名鑑 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/imagawaSS/index.htm
- 信玄に塩を送ったというのは本当か? - 戦国のすべて https://sgns.jp/addon/p.php?p=1525&bflag=1&uid=NULLGWDOCOMO
- 戦国の美談「敵に塩をおくる」 信玄と謙信の時代から今に続く企業のお話 - ホテル鹿角 https://www.h-kazuno.co.jp/raiman/archive.php?id=700
- 【武田信玄と上杉謙信の関係】第一次~第五次合戦まで「川中島の戦い」を徹底解説 - 歴史プラス https://rekishiplus.com/?mode=f6
- 第三十六回|北条氏康 巨星墜落篇|つながる文芸Webサイト「BOC」ボック https://www.chuko.co.jp/boc/serial/ujyasu-5/post_893.html
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