最終更新日 2025-09-17

京枡の統一(1590)

天正18年、豊臣秀吉は京枡を全国統一。太閤検地の基盤となり、石高制確立と兵農分離を推進。この政策は近世社会の秩序形成に不可欠な経済的天下布武であった。
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天正十八年、天下の物差し:京枡統一に見る豊臣政権の経済的天下布武

序章:混沌のなかの「一升」― なぜ枡の統一が必要だったのか

日本の歴史において、体積を計る木製の器「枡」は、1300年以上も前から社会の根幹を支える役割を担ってきた 1 。その起源は奈良時代に遡り、701年の大宝律令によって度量衡制度が定められた際には、すでに国家の計量基準器としての地位を確立していた 3 。しかし、この統一された「物差し」は、中央集権体制の弛緩とともに徐々にその効力を失っていく。平安時代後期以降、各地に荘園や寺社、そして武士といった多様な権力が興隆すると、それぞれが独自の経済圏を形成し、それに伴い独自の枡を制定・使用し始めたのである 4

戦国時代に至る頃には、この多様化は極まり、全国的な統一性は完全に失われていた。例えば、木曽地方では実に9種類もの異なる枡が混在していたという記録もあり、まさに混沌と呼ぶにふさわしい状況であった 6 。この基準の不統一は、単なる不便さを超え、社会の構造的な問題へと発展していた。

第一に、枡は領主による恣意的な収奪の道具と化していた。多くの領主は、年貢米を徴収する際には容量の大きな「返抄枡(へんしょうます)」を、一方で家臣への俸禄米や農民への給付米を支給する際には容量の小さな「下行枡(げぎょうます)」を使い分けるという、巧妙な搾取システムを構築していた 1 。甲斐の武田信玄が定めたとされる「信玄枡」は、後に豊臣秀吉が統一した京枡の実に3倍もの容量があったとされ、度量衡の不統一がいかに領主の都合の良いように利用されていたかを物語っている 8 。このような状況は、支配が客観的な法やルールに基づかない「人治」であることを象徴しており、農民の不満が絶えず燻る温床となっていた。

第二に、この混乱は戦国時代に活発化した商業活動の発展を著しく阻害していた。地域ごとに「一升」の量が異なれば、公正な取引は成立し難い。特に、遠隔地との交易においては、互いの基準が信用できず、経済圏の広域的な拡大にとって大きな足枷となっていたのである 7

このように、枡の不統一は単なる技術的な問題ではなかった。それは、中世社会の根幹にあった「権力の分散」と「支配の恣意性」という構造そのものを象徴する社会問題であった。したがって、枡を統一するという事業は、この旧弊を打ち破り、近世的な「権力の中央集権化」と「支配の客観性・公平性」を確立するための、避けては通れない道程だったのである。

第一章:統一への胎動 ― 織田信長が蒔いた種

豊臣秀吉による京枡統一という画期的な政策は、全くの無から生まれたものではない。その土台には、先駆者である織田信長の先進的な経済政策という、重要な布石が存在した。信長は、武力による天下統一と並行して、経済基盤の整備が新時代の構築に不可欠であることを見抜いていた。

その代表的な政策が「楽市楽座」である。この政策は、座などの特権的な同業者組合を廃止し、自由な商業活動を奨励するものであったが、その効果を最大限に発揮するためには、取引の信頼性を担保する共通の基準、すなわち度量衡の統一が不可欠であった 1 。信長はこの点を深く認識し、枡の規格統一に着手したのである。

その転機となったのが、永禄11年(1568年)の上洛である。京都を制圧し、天下統一への大きな一歩を踏み出した信長は、当時、日本の経済・文化の中心地であった京都で広く流通し、事実上の標準(デファクトスタンダード)となっていた「京都十合枡」を、自らの支配領域における公定枡として採用した 6 。これは、単に便利な枡を選んだという以上の意味を持つ。信長は、京都が持つ経済的な権威を巧みに利用し、自らの政策に正当性を与えようとしたのである。この「京都の基準を公的な基準とする」という発想は、後の秀吉の政策に直接的な影響を与えることになる。

しかし、信長の試みは、その天下統一事業が本能寺の変によって道半ばで途絶えたため、全国的な規模での統一を達成するには至らなかった。その影響力は畿内および信長の支配が及んだ一部地域に限定された。だが、信長が蒔いた「経済インフラの統一」という種は、確実に次代の天下人へと受け継がれた。信長による京枡の公定化は、秀吉が全国統一の基準として京枡を採用するための重要な「前例」となり、その政策の連続性を示す上で欠くことのできない布石であったと言える。

第二章:太閤検地という名の革命 ― 京枡統一の断行

織田信長の後を継ぎ、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、日本の社会構造を根底から作り変えるための一大事業に着手する。それが「太閤検地」である。そして、この革命的な事業の成否を左右する根幹に位置づけられたのが、「京枡の統一」であった。

太閤検地は、単なる土地調査ではなかった。それは、複数の戦略的目標を内包する国家改造プロジェクトであった。

第一に、荘園制以来の複雑で重層的な土地所有関係を根本から整理し、「一つの土地の年貢負担者は、その土地を直接耕作する一人である」とする「一地一作人」の原則を確立すること 12。

第二に、全国すべての田畑の生産力を、「石高(こくだか)」という全国統一の客観的な指標で把握すること 14。

第三に、その石高を基準として、大名には軍役負担を、農民には年貢納入の義務を課し、国家的支配を隅々まで浸透させることであった 16。

これらの壮大な目標を達成するためには、全国どこへ行っても通用する、絶対的な「物差し」が必要不可欠であった。秀吉政権は、そのための物理的なツールとして二つのものを導入した。一つは長さの基準である「六尺三寸を一間とする検地竿」、もう一つが容量の基準である「京枡」である 18 。検地奉行たちは、この二つの統一された道具を携えて全国に派遣された。彼らは検地竿で田畑の面積を正確に測量し、土地の肥沃度などに応じて上・中・下・下々といった等級(石盛)を決定した 12 。そして、その面積に石盛を掛け合わせることで、その土地の総生産力、すなわち石高が算出されたのである 18

このシステムにおいて、京枡は決定的に重要な役割を果たした。石盛、すなわち「一反あたりの標準収穫量」を定義する基準そのものが京枡であったからだ。それまでの指出検地のような自己申告制とは異なり 17 、京枡という物理的な基準器を用いることで、全国の土地から「石高」という均質で比較可能なデータを吸い上げるシステムが初めて構築された。この標準化されたデータこそが、近世日本の財政(年貢)と軍事(軍役)という国家の二大機能を支える基盤となったのである。

この意味で、京枡は単なる計量器ではなかった。それは、国家経営を経験と勘に頼るものから、客観的なデータに基づくものへと変革するための「入力装置」であり、情報標準化による国家支配という、新しい時代のテクノロジーそのものであった。秀吉が信長の前例に倣い、すでに商業の中心地で権威を確立していた京枡を全国基準として採用したことは 10 、この壮大な事業を円滑に進めるための、極めて高度な政治的判断だったのである。

第三章:天正十八年(1590年)のリアルタイム・ドキュメント

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による天下統一事業は、小田原の北条氏を屈服させることで、まさに最終段階を迎えようとしていた。この軍事行動と並行して、秀吉はもう一つの、より静かだが、しかし日本の社会を恒久的に変えることになる「戦い」を断行していた。それが、京枡による全国の容量単位統一である。この年の出来事を、史料に基づき時系列で追うことで、政策が実行されていくリアルタイムの情景を再現する。

1. 正月:基準枡の下賜と指令の発布

この壮大な事業の幕開けを象徴する出来事が、年の初めに起こる。天正十八年正月、秀吉は播磨国(現在の兵庫県)姫路の直轄領代官であった芥田氏に対し、一体の「基準枡」を下賜した 22 。現存するこの枡は、桧材で作られ、口縁が鉄板で補強された堅牢なものである。その底面の裏には、内法の寸法(縦横・深さ)とともに、「この枡の写しを国中に相渡すべきこと」という秀吉の明確な指令が墨書されている。さらに、側面には秀吉の腹心である奉行、増田長盛と浅野長政の花押(サイン)が記され、これが豊臣政権の絶対的な権威によって保証された基準器であることを示している 22 。この一個の枡は、単なる道具ではない。それは、全国に張り巡らされる新たな経済秩序の原器であり、秀吉の意志が込められた国家プロジェクトの起点であった。

2. 春から夏へ:検地奉行の派遣と「検地条目」

小田原征伐が進む背後で、秀吉は全国各地、特に新たに支配下に収めた地域へ、次々と検地奉行を派遣していく。彼らが携えていたのは、検地作業の具体的なマニュアルである「検地条目」であった 24 。そこには、「一、六尺三寸の棹を以て、三百歩を壱反に相極むる事」(長さと面積の基準)、「一、桝は京桝に統一する事」(容量の基準)といった条文が明確に記されており、検地が極めてシステマティックかつ統一された基準で実施されるよう、周到に準備されていたことがわかる 12 。この標準化こそが、太閤検地の核心であった。

3. 現場での実行と軋轢

夏、検地奉行の一行が村々に足を踏み入れる。彼らはまず、村役人を集め、政権の命令を伝えた後、実測作業を開始する。新たな検地竿が田畑に入れられ、一枚一枚の土地の面積が測り直されていく。長年、村独自の竿や枡を使い、慣習に基づいて年貢を納めてきた農民や村役人たちにとって、この中央から派遣された役人たちによる画一的な測量は、大きな混乱と不安をもたらしたであろう。これまでごまかしが効いていた部分が白日の下に晒され、新たな基準である京枡によって算出される石高は、多くの場合、実質的な増税を意味した。現場では、役人との交渉、ささやかな抵抗、あるいは諦めといった、様々な人間模様が繰り広げられたに違いない。

4. 秋から冬へ:検地帳の作成と抵抗の火種

測量が完了すると、その結果は「検地帳」にまとめられた。そこには、一筆ごとの土地の面積、等級、石高、そして年貢負担者である耕作者の名前が記された 12 。これにより、農民は土地に直接結びつけられ、国家によって個人単位で把握される存在となった。中間領主による搾取が排除される一方で、農民は国家に対して直接的かつ逃れようのない納税義務を負うことになったのである 27

この統一政策がもたらす痛みは、早速、抵抗の火の手となって現れる。この年の秋、奥州仕置の一環として仙北地方(現在の秋田県)で強行された検地と、それに付随する武具狩り(刀狩り)は、現地の武士や農民の強い反発を招き、大規模な「仙北一揆」の直接的な引き金となった 29 。天正十八年は、京枡という新たな「物差し」によって全国が測り直され、近世的な秩序が形成され始めた年であると同時に、その過程で生じる痛みが噴出した年でもあった。


表1:戦国期における主要な枡の比較

枡の名称

寸法(内法)

推定容量

主な使用地域 / 制定者

特徴・目的

京枡(秀吉公定)

方4寸9分、深さ2寸7分

約64.8立方寸 (約1.804 L)

豊臣秀吉(全国公定)

太閤検地の基準器。商業の中心地であった京都の枡を元に全国統一を図った 1

新京枡(江戸枡)

方5寸、深さ2寸5分

約62.5立方寸 (約1.739 L)

徳川家康

秀吉の京枡より外見は似ているが、板厚を薄くすることで容量を約3%多くしたとされる説もある 8 。寛文九年に京枡に統一されるまで併用された 1

信玄枡

不明(大型)

京枡の約3倍とされる

武田信玄(甲州)

年貢収取を最大化するために作られた大容量の枡。「信玄の大枡」とも呼ばれる 8


第四章:京枡という「物差し」の衝撃 ― 社会・経済への影響

天正十八年に断行された京枡の統一は、単に計量器の規格を揃えただけではなかった。それは、太閤検地や刀狩令といった一連の政策と有機的に結びつき、日本の社会構造、経済システム、そして人々の生活に根源的かつ不可逆的な変化をもたらす、巨大なインパクトを持っていた。

1. 石高制の確立と武家社会の再編

京枡による収穫量の標準化は、全国に散らばる大名領の価値を「石高」という単一の客観的指標で評価することを初めて可能にした 13 。これ以前は、領地の価値は貫高(銭に換算した額)で示されるなど、基準が曖昧であった。しかし、太閤検地以降、大名の格式、動員すべき軍役の規模、幕府内での地位など、武家社会におけるあらゆる序列が石高に基づいて決定されるようになった。例えば「加賀百万石」という言葉が示すように、石高はその大名の国力を示す代名詞となったのである。これにより、各大名は豊臣政権(後の徳川幕府)を頂点とする、石高を基準としたピラミッド型の支配体制の中に明確に位置づけられることになり、近世的な幕藩体制の基礎が確立された。

2. 農民への影響:「二公一民」の重税と抵抗

農民にとって、京枡の統一と太閤検地は過酷な現実を突きつけるものであった。検地によって精密に算出された石高に対し、秀吉政権は「二公一民」、すなわち収穫の三分の二を年貢として徴収するという、極めて高い税率を課したのである 13 。政権側は、京枡という「公正な物差し」で測ったのだから、それに基づく徴税もまた公正である、という論理を振りかざした。しかし、農民からすれば、これまで曖昧さの中にあった様々な控除が認められなくなり、実質的な負担は大幅に増加した。この過酷な収奪は、当然ながら各地で激しい抵抗を引き起こした。天正15年(1587年)の肥後国衆一揆 31 や、天正18年(1590年)の仙北一揆 29 など、太閤検地に反対する一揆が頻発したのは、この政策がもたらした直接的な帰結であった。

3. 刀狩令との連動と兵農分離の完成

高まる農民の抵抗に対し、秀吉はもう一つの強力な政策を連動させる。それが天正16年(1588年)に発布された「刀狩令」である。太閤検地と刀狩令は、表裏一体の政策であった 13 。京枡統一と検地によって農民からより多くの年貢を徴収する体制を整え、その結果として必然的に発生する一揆や抵抗を、刀狩りによって物理的に封じ込める。この二つの政策は、見事なまでに連動していた。

この一連の政策には、巧妙な因果関係が隠されている。「京枡統一」によって石高の精密な把握が可能となり、それが「高率な年貢徴収」を正当化する論理的根拠となった。しかし、この重税は「農民の反発(一揆)」を招く。すると秀吉は、この抵抗を社会秩序を乱すものとして断罪し、「刀狩令による武装解除」を正当化する大義名分を得たのである 34 。その最終的な帰結が、「兵農分離」の完成であった。武器を奪われ、土地に縛り付けられた農民は、もはや武装して領主に抵抗する力を失い、ひたすら年貢を生産する存在として位置づけられた 28 。一方で、武士は土地の直接経営から切り離され、城下町に集住し、統治と軍事に専念する支配階級としての地位を確立した。

このように、京枡統一という一見すると技術的な経済政策は、社会の武装解除と身分制度の固定化という、日本の社会構造を根本から再編成するための、極めて強力なテコとして機能したのである。

第五章:未完の統一とその後の展開

豊臣秀吉による京枡統一は、画期的かつ強力な政策であったが、天正十八年の法令発布をもって、即座に完璧な全国統一が達成されたわけではなかった。その浸透には長い時間と曲折を要し、秀吉の死後、徳川の時代に至ってようやく完成を見ることになる。

1. 浸透の遅れと地方の実情

江戸時代に入っても、枡の完全な全国統一は実現していなかったという見解がある 35 。中央の公定基準と、各藩が抱える独自の事情との間には、常に緊張関係が存在した。例えば、鳥取藩では、幕府公定の京枡(藩士への扶持米支給用)、町方で使われる町枡、そして年貢収納用の納枡という、実に3種類の枡が幕府に内密で使い分けられていた 36 。納枡は京枡よりも容量が大きく、実質的な増税の手段となっていた。また、有力な大藩の中には、城下の商人を「枡座」に指定し、独自の枡を製造・販売させていた例もあった 6 。これらの事実は、秀吉が築いた統一基準が、地方レベルでは必ずしも遵守されていなかった現実を物語っている。

2. 徳川家康と「江戸枡」の登場

秀吉の死後、天下の覇権を握った徳川家康は、江戸に幕府を開くと、京枡とは寸法の異なる独自の公定枡「江戸枡」(または新京枡)を制定した 1 。この江戸枡は、一説には京枡よりもわずかに容量が大きく作られていたとされ、農民の歓心を買いながら実質的な増税を図る狙いがあったとも言われる 8 。この新たな枡の制定は、単なる技術的な改訂に留まらず、前代の天下人である豊臣秀吉の権威を否定し、徳川の新たな治世を象徴しようとする、強い政治的意図の表れであった可能性が考えられる。

3. 寛文九年(1669年)の再統一

こうして、江戸時代初期には、関西を中心とする京枡と、関東を中心とする江戸枡という、二つの基準が並立する状況が生まれた。しかし、平和な時代の到来とともに全国的な商品流通が活発化すると、この二元体制は経済活動の大きな支障となっていった 10 。そこで、江戸幕府はついに政治的な象徴性よりも経済的な合理性を優先する決断を下す。寛文九年(1669年)、幕府は法令を発し、江戸枡を廃して全国の枡を改めて京枡に統一することを命じたのである 1 。この時点をもって、天正十八年に秀吉が開始した京枡統一事業は、約80年の歳月を経て、実質的に完成したと位置づけることができる。一度確立された優れた経済インフラは、為政者の政治的意図を超えて生き残る力を持っていたのである。

4. 「枡座」による独占的管理

江戸時代を通じて、枡の製造・販売・検定は、幕府から特権を与えられた座によって独占的に管理された。京都では福井家などが営む「京枡座」、江戸では「江戸枡座」がその任にあたり、不正な枡が流通しないよう厳しく監督した 1 。特に、京都の京枡座福井家に残された膨大な古文書群「京枡座福井家文書」は、枡の製造・改めに関する記録や経営実態を知る上で唯一無二の史料であり、近世日本の度量衡制度を研究する上で極めて貴重な文化遺産となっている 39


表2:京枡統一に関わる重要年表

西暦(和暦)

出来事

概要・意義

701年(大宝元年)

大宝律令の制定

日本で初めて度量衡制度が法的に定められる 4

1568年(永禄11年)

織田信長、上洛

経済の中心地であった京都で使われていた「京都十合枡」を公定枡として採用。統一への布石となる 6

1582年(天正10年)

太閤検地の開始

豊臣秀吉による全国的な検地事業が始まる 12

1590年(天正18年)

基準枡の下賜

秀吉が播磨の代官に基準となる京枡を下賜し、全国統一を指令。京枡統一が本格的に始動する 22

1669年(寛文9年)

幕府による枡の再統一

江戸幕府が江戸枡を廃止し、全国の枡を京枡に統一する法令を発布。実質的な全国統一が完成する 9

1875年(明治8年)

度量衡取締条例

明治政府が枡座を廃止。枡の製造・販売は民間に委ねられ、検定は政府が行う近代的な制度へ移行する 6

1959年(昭和34年)

メートル法の完全実施

尺貫法が法的に廃止され、京枡は約400年にわたる公定計量器としての役割を終える 6


終章:計量器から縁起物へ ― 京枡が現代に遺したもの

寛文九年(1669年)の再統一以降、京枡は江戸時代を通じて日本の標準計量器としての地位を不動のものとした。その体制は明治維新後も引き継がれ、明治政府も当初は京枡を公定の枡として踏襲した。しかし、近代国家の建設を目指す政府は、旧来の特権的な「座」の制度を解体し、国家による直接的な管理体制を構築する。明治8年(1875年)に発布された度量衡取締条例により、京枡座・江戸枡座は廃止され、枡の製造・販売は民間に開放、検定のみを政府が担うという近代的な制度へと移行した 6

そして、京枡がその長い歴史的使命を完全に終える時が訪れる。昭和34年(1959年)、メートル法が完全に実施され、尺貫法はその法的効力を失った 6 。これにより、豊臣秀吉の時代から約400年にわたり、日本の経済と生活を支え続けてきた京枡は、公的な「物差し」としての役割を終えたのである 1

しかし、制度としての命脈が絶たれた後も、「枡」は日本文化の中から消え去ることはなかった。計量器としての実用的な役割を終えた枡は、新たな文化的価値を見出され、現代に生き続けている。昭和30年代、テレビで日本酒を枡で飲む光景が映し出されたことをきっかけに、酒器としての知名度が高まった 1 。木の香りとともに酒を味わうスタイルは、日本文化の象徴の一つとして定着した。また、節分の豆まきや、結婚式などの祝い事の席で配られる縁起物としても、枡は広く親しまれている 3 。その四角い形は「升」が「増す」に通じるとして、商売繁盛や幸福の増加を願う象徴とされている。

さらに、「一升瓶」や米を炊く際の「一合炊き」といった言葉に、「升」や「合」という単位が今なお日常的に生き続けていることは 1 、この度量衡がいかに深く日本人の生活感覚に刻み込まれているかを示している。

振り返れば、天正十八年の「京枡の統一」は、単なる計量器の規格化事業ではなかった。それは、戦国の混沌から近世の秩序を創出し、恣意的な支配を排除して、データに基づく中央集権的な国家を建設するための、壮大なプロジェクトの一環であった。かつて国家の権力と経済の根幹を支えた道具は、その本来の機能を失った後、人々の祝い事や日々の楽しみといった、より身近で文化的な領域へとその役割を変え、記憶され続けている。権力の象徴から文化の象徴へ。京枡の辿った軌跡は、一つの歴史的遺産が、時代を超えて新たな意味を与えられながら継承されていく姿を、雄弁に物語っている。

引用文献

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  2. 身近な日本文化を学ぶ ~桝~ | 日本文化を探る | いろり - 人と語らうコミュニティサイト - https://1200irori.jp/content/learn/detail/case30
  3. 歴史の中で酒器へ役割を変えた「枡」 - 日本酒 - 長谷川栄雅 https://info.hasegawaeiga.com/blog/1485/
  4. 25 日本最古級の桝の出土 - 松原市 https://www.city.matsubara.lg.jp/docs/page4607.html
  5. 計 量 史 年 表 https://www.shouhiseikatu.metro.tokyo.lg.jp/keiryo/work/documents/chronological-metrology.pdf
  6. 【升(ます)について】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100040/ht011220
  7. 枡について - 国産バレルサウナ、社寺建築材 https://www.tohowood.co.jp/masu/masu_about
  8. 2020年9月15日 お米にまつわるはかる道具「枡」 - 東洋計器 https://www.toyo-keiki.co.jp/shinshu/kawara/2020/0915.html
  9. 日本伝統の道具「枡」の歴史を探ってみよう - MASPACIO https://maspacio.jp/letter/masu-history-1/
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  14. 豊臣秀吉の天下統一/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/127395/
  15. 太閤検地と刀狩り - ホームメイト https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/taikokenchi-katanagari/
  16. 秀吉の太閤検地をどう教えるべきか? | 歴史 | 中学校の社会科の授業づくり https://social-studies33.com/%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E7%A7%80%E5%90%89%E3%81%AE%E5%A4%AA%E9%96%A4%E6%A4%9C%E5%9C%B0%E3%82%92%E3%81%A9%E3%81%86%E6%95%99%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%B9%E3%81%8D%E3%81%8B%EF%BC%9F/
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  28. 豊臣秀吉は、なぜ検地や 刀狩をしたの https://kids.gakken.co.jp/box/syakai/06/pdf/B026109100.pdf
  29. 仙北一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8C%97%E4%B8%80%E6%8F%86
  30. 『東洋計量史資料館』| 枡 https://www.toyo-keiki.co.jp/toyokeiryoushi/collection/liquid/liquid.html
  31. 肥後一揆(ひごいっき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%82%A5%E5%BE%8C%E4%B8%80%E6%8F%86-863139
  32. 【ビジネスの極意】太閤検地、身分統制令、豊臣秀吉に学ぶマネジメントの極意 | サライ.jp https://serai.jp/business/1056571
  33. 太閤検地と刀狩~その時、時代は変わらなかった!? | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/6165
  34. 次へ - 秀吉編 https://contest.japias.jp/tqj1999/20254/hideyoshi/t_92.html
  35. 枡の歴史。昔は悪さするのにも使われていた。 https://www.masu-japan.jp/tips/44
  36. 納枡 https://www.yurihama.jp/town_history2/2hen/3syo/02040402.htm
  37. 計量豆知識 - 高崎市公式ホームページ - Takasaki City Office https://www.city.takasaki.gunma.jp/page/2665.html
  38. 計量制度の歴史 - 一宮市 https://www.city.ichinomiya.aichi.jp/katsuryokusouzou/kankoukouryuu/1044424/1010122/1023269.html
  39. 刊行物のご案内「叢書 京都の史料」 - 京都市 https://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000304751.html
  40. 福井家京枡座関係資料 - 文化遺産データベース https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/213439