最終更新日 2025-09-28

名古屋城巨石普請(1610)

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慶長十五年の天命:名古屋城巨石普請、徳川覇権の礎を築いた男たちのリアルタイム・ドキュメント

序章:天下泰平への布石

慶長15年(1610年)の名古屋城巨石普請は、単なる一城郭の建設事業ではない。それは、関ヶ原の戦いを経てなお天下に燻る戦乱の火種を完全に消し去り、徳川による盤石な治世、すなわち「天下泰平」を現出させるための、徳川家康による深謀遠慮の結晶であった。この巨大プロジェクトの背景には、戦国の世を終わらせ、新たな時代を築こうとする覇者の冷徹な国家戦略が横たわっている。

関ヶ原後の政治情勢と家康の深謀遠慮

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いから9年の歳月が流れても、徳川の天下は未だ完成してはいなかった 1 。大坂城には豊臣秀頼が依然として君臨し、その周囲には加藤清正や福島正則といった、豊臣恩顧の有力大名が西国を中心に多数存在していた 2 。征夷大将軍の座を秀忠に譲り、駿府に隠居した家康の最大の関心事は、この豊臣家という最後の政治的対抗勢力をいかにして無力化し、名実ともに徳川の世を確立するかにあった 3

この最終目標を達成するため、家康が選んだ戦略的要衝が尾張国名古屋であった。この地は、江戸と京・大坂を結ぶ東海道のほぼ中間に位置し、交通と軍事の結節点であった 1 。ここに一大拠点を築くことは、西国大名に対する強力な睨みとなり、大坂方への軍事的圧力をかける上で絶大な効果を持つ 2

名古屋城の構想には、家康の老獪な戦略眼が二重に張り巡らされていた。第一に、来るべき豊臣家との決戦において、江戸から出陣する徳川軍の最前線基地、すなわち「攻め」の拠点としての役割である。しかし同時に、家康は万が一の事態、すなわち大坂方が蜂起し、西国大名を率いて東海道を江戸へ向かって進軍する可能性も想定していた。その場合、名古屋城は彼らの進軍を阻む巨大な障壁、関東防衛の最後の砦という「守り」の拠点として機能することになる 2 。大軍を長期間にわたって足止めさせるに足る、難攻不落の巨城。この攻守両面を兼ね備えた設計思想こそが、慎重かつ周到な家康の性格を色濃く反映したものであった。

清洲から名古屋へ:新時代の都市計画

当時の尾張国の中心は清洲城であったが、この地は低湿地帯にあり、たびたび水害に見舞われるという地理的な弱点を抱えていた 2 。また、城下町も手狭であり、徳川御三家筆頭となる尾張徳川家の拠点としては、その発展に限界が見えていた 5

そこで家康は、かつて織田信長の父・信秀が那古野城を築いた、より標高が高く地盤も強固な名古屋台地を新たな中心地として選定した 1 。この決定は、単なる城の移転に留まるものではなかった。家臣団や町人、さらには100を超える寺社仏閣まで、約6万人もの人々を清洲から丸ごと移住させる「清洲越」と呼ばれる、壮大な都市計画を伴うものであった 2

家康は、城という軍事拠点と、城下町という経済・行政基盤を不可分一体のものとして捉えていた。天下普請によって全国から莫大な資材、労働力、そして資金が名古屋に集中することは、新たな城下町の初期発展を強力に後押しする起爆剤となる 1 。つまり、名古屋城の巨石普請は、石を積み上げる築城作業であると同時に、来るべき徳川の治世におけるモデル都市をゼロから創造する国家プロジェクトであり、その過程で生まれる建設特需という経済効果すらも、家康の計算のうちにあったのである 1

第一章:動員令下る - 慶長十五年 正月~閏二月

慶長15年(1610年)の年明けと共に、徳川家康の壮大な計画は実行に移された。天下の情勢は、一本の命令によって大きく動き出す。全国の大名たちは、否応なくこの巨大プロジェクトに巻き込まれ、名古屋の地に集結していくこととなる。

【慶長15年1月9日】運命の日:築城命令

慶長15年正月9日、徳川家康は清洲城にて、集まった諸大名に対し名古屋城の築城を正式に命令した 5 。この命令は「天下普請(てんかぶしん)」、あるいは各大名が幕府の事業を「手伝う」という形式をとることから「御手伝普請(おてつだいぶしん)」と呼ばれた 1 。しかし、その実態は「手伝い」という言葉の穏やかな響きとは全く異なっていた。

普請にかかる石材や木材の調達、人夫の動員、そしてそれらに関わる莫大な費用は、すべて命令を受けた大名の自己負担とされた 1 。これは事実上、拒否権の存在しない絶対命令であった。この普請に参加すること自体が、徳川家への忠誠を天下に示す公的な儀式であり、もしこれに応じなければ、即座に謀反の意思ありと見なされかねない無言の圧力が各大名にのしかかっていた。安芸広島49万8千石の太守・福島正則が、度重なる普請の負担に「こうも度々城造りに駆り出されては身代がもたぬ」と不満を漏らした際、普請総大将格の加藤清正から「お手伝いが嫌ならすぐに国へ帰って謀叛を起すがよい。それが出来ぬなら、軽はずみな事を言うな」と一喝されたという逸話は、この命令が各大名にとって一種の「踏み絵」であったことを象徴している 7 。武力ではなく「普請」という経済的・労役的負担を強いることで大名を統制する、新たな時代の支配様式がここに確立されようとしていた。

助役大名の選定:狙われた豊臣恩顧の有力者たち

家康が助役(普請の分担)を命じた大名の顔ぶれは、極めて政治的な意図をもって選ばれていた。加賀の前田利常、肥後の加藤清正、安芸の福島正則、筑前の黒田長政、豊前の細川忠興など、西国・北国の外様大名を中心とする20家がその対象となった 2

彼らの多くは、かつて豊臣秀吉に仕え、その恩顧を受けた武将たちであった 2 。関ヶ原の戦いでは東軍に与したとはいえ、家康にとって彼らは依然として潜在的な脅威であり、その動向を注視すべき存在であった。天下普請の隠された目的の一つは、まさにこれら有力大名の財力を、城造りという形で合法的に削ぎ落とすことにあった 8 。江戸城や駿府城の普請に続き、息つく間もなく課せられた名古屋城の普請は、大名たちの財政を著しく圧迫した 3 。つまり、この助役大名のリストは、徳川の「警戒リスト」そのものであり、来るべき大坂の陣を前に、豊臣方に味方する可能性のある勢力の力を物理的に削いでおくための、巧妙かつ冷徹な事前工作だったのである。

【慶長15年閏2月】普請開始:名古屋台地の変貌

正月9日の命令を受け、諸大名は準備を急いだ。慶長15年閏2月には、普請奉行である牧長勝らによって城地の縄張り(設計)が実施され、いよいよ築城工事の火蓋が切られた 5 。大工頭には、当代随一の宮大工とされた中井正清、作事奉行には後に茶人として名を馳せる小堀政一(遠州)が任命されるなど、徳川幕府が誇る最高の技術者集団が投入された 3

当初は普請を免除される予定であった中国・四国の大名も追加で動員されるなど、計画は壮大なスケールで進行した 6 。そして、工事が始まると、名古屋台地は驚異的な速度でその姿を変えていく。わずか3ヶ月ほどで天守台の石垣が完成し、城郭全体の石垣も1年足らずでその威容を現したのである 2

この驚くべきスピードの源泉は、徳川幕府の卓越したプロジェクトマネジメント能力にあった。特に、各大名に担当工区を割り振る「割普請(わりぶしん)」または「丁場割(ちょうばわり)」と呼ばれる分業システムは絶大な効果を発揮した 8 。各大名は自らの担当区画の完成に全責任を負う。もし隣の工区に比べて見劣りするような仕事をすれば、それは末代までの恥となり、大名家の威信に関わる。この封建領主としての面子をかけた競争原理が、品質とスピードを競い合わせる強力なインセンティブとして機能した。徳川幕府は、金銭的な報酬ではなく、大名たちの「名誉」と「恐怖」を巧みに利用し、この国家プロジェクトを猛烈な速度で推進させたのであった。

【表1:名古屋城天下普請 助役大名一覧】

以下に、慶長15年の名古屋城天下普請において助役を命じられた主要20家の大名と、判明している担当工区を示す。この一覧は、徳川家康が動員した権力の大きさと、その戦略的意図を明確に物語っている。

大名名

官職名/通称

本拠地

石高(万石)

主要担当工区(丁場)

前田利常

松平筑前守

加賀金沢

119.2

本丸西側

加藤清正

加藤肥後守

肥後熊本

52

天守台・本丸東南部

池田輝政

羽柴三左衛門

播磨姫路

52

本丸北側

黒田長政

黒田筑前守

筑前福岡

52.5

本丸南東部

福島正則

羽柴左衛門大夫

安芸広島

49.8

本丸北東部・堀川開削

細川忠興

羽柴越中守

豊前小倉

39.9

本丸西南部

浅野幸長

浅野紀伊守

紀伊和歌山

37.6

本丸北西部

毛利秀就

松平長門守

長門・周防

36.9

本丸南西部

鍋島勝茂

鍋島信濃守

肥前佐賀

35.7

二之丸西側

田中忠政

田中筑後守

筑後柳川

32.5

二之丸北側

加藤嘉明

加藤左馬助

伊予松山

20

西之丸

山内忠義

松平土佐守

土佐高知

20.3

西之丸

蜂須賀至鎮

蜂須賀阿波守

阿波徳島

18.6

西之丸

生駒正俊

生駒左近大夫

讃岐高松

17

西之丸

寺沢広高

寺沢志摩守

肥前唐津

12

二之丸南側

金森可重

金森出雲守

飛騨高山

3.8

三之丸

稲葉典通

稲葉彦六

豊後臼杵

5

御深井丸

木下延俊

木下右衛門大夫

豊後日出

3

御深井丸

竹中重利

竹中伊豆守

豊後高田

2

御深井丸

毛利高政

毛利伊勢守

豊後佐伯

2

御深井丸

(池田利隆)

(松平武蔵守)

(播磨姫路)

-

(父・輝政と共に参加)

出典: 10

第二章:巨石、動く - 慶長十五年 閏二月~夏

普請開始の号令と共に、名古屋城周辺は巨大な建設現場へと変貌した。中でも普請の根幹をなす石垣の構築は、壮絶な労働と当時の最先端技術が交錯する一大事業であった。各地から巨石が動き出し、名古屋を目指す様は、まさに徳川の権力が日本全土の資源を動かし始めたことを象徴する光景であった。

石材調達の最前線:各地の石切丁場

名古屋城の石垣を構成する膨大な石材は、一つの場所から供給されたわけではない。小牧市の岩崎山、三重県の尾鷲、岐阜県の養老山系、そして三河湾沿岸の島々など、広範囲にわたる石切丁場(いしきりちょうば)から調達された 12 。特に、加藤清正が担当したとされる知多半島沖の篠島は主要な供給地の一つで、現在でも約300もの「矢穴石」が残り、当時の面影を伝えている 13

巨大な岩盤から石を切り出す作業には、高度な技術が要求された。石工たちは、まず岩の目に沿って割りたいラインを定め、そこに「矢穴(やあな)」と呼ばれる深さ十数センチほどの長方形の穴を、鑿(のみ)と槌(つち)を使って等間隔にいくつも掘っていく 14 。そして、その穴に鉄製の楔(くさび)、通称「矢」を差し込み、大勢で息を合わせて大槌を振り下ろす。すると、岩は凄まじい音と共に、狙ったラインに沿って綺麗に割れるのである 14

この一連の作業は、戦国時代までの城造りの常識を覆すものであった。従来、石垣の石材は基本的に各大名が自らの領国内で調達するのが原則であった 17 。しかし、名古屋城の天下普請では、徳川幕府という中央権力の命令の下、複数の藩の領地をまたいで最適な石材が選定され、動員された大名によって切り出された。これは、城造りの概念が、一個の領主による事業から、徳川幕府が日本の資源を自由に差配できる国家事業へと質的に変化したことを物理的に示すものであった。他国の領地から戦略物資である石材を調達できるという事実そのものが、徳川の支配権が全国に及んでいることの何よりの証明であり、普請に従事する大名たちにその現実を痛感させたに違いない。

陸路と海路の輸送劇:修羅と堀川

切り出された巨石を建設現場まで運ぶ作業は、困難を極めた。陸上輸送の主役は、「修羅(しゅら)」と呼ばれる巨大な木製の橇(そり)であった 14 。樫などの硬い木材で組まれた修羅に数トンから数十トンもの巨石を載せ、その下に丸太をコロとして敷き、数百人、時には千人を超える人足が「エンヤ、エンヤ」という掛け声と共に綱を引き、少しずつ前進させた 17 。修羅に載せられた巨石の上では、音頭取りが采配を振るい、時には楽師が笛や太鼓を奏でて人足たちの士気を鼓舞したという 14

しかし、陸路での輸送はあまりに非効率であった。この巨大プロジェクトの成否を分ける最大の課題が輸送にあることを見抜いていた家康と幕府の技術者集団は、画期的なインフラ整備を断行する。それが、福島正則に命じて開削させた運河「堀川」である 18 。この運河は、熱田の湊から名古屋城のすぐ西まで、約6キロメートルにわたって掘られた 18 。これにより、三河湾や伊勢湾の各地から船で運ばれてきた石材や、木曽の山々から切り出され、木曽川を下ってきた良質な木材などを、城のすぐ近くまで直接運び込むことが可能となった 4

この堀川の開削は、単なる土木工事ではない。プロジェクト全体の効率を最大化するために、まず基盤となるインフラを先行投資するという、極めて合理的かつ近代的な戦略的思考の表れであった。それは、名古屋城の西側を守る外堀としての軍事的な機能も兼ね備えており 19 、まさに一石二鳥の妙手であった。

所有権の証明と品質管理:「刻紋」システム

普請現場には、20家もの大名家から派遣された家臣や人足たちが入り乱れて作業に従事した。このような状況で混乱や資材の盗難、所有権を巡る争いを防ぐため、極めて合理的な管理システムが導入された。それが、石の一つ一つに各大名家独自の印を刻む「刻紋(こくもん)」である 22

名古屋城の石垣には、現在でも確認できるだけで2000以上、種類にして300から400種にも及ぶ多様な刻紋が残されている 9 。単純な丸や三角、四角の図形から、家紋を模したもの、家臣の名を刻んだ「刻銘」まで、その意匠は様々である 9

しかし、この刻紋は単なる所有権を示す荷札としての機能に留まるものではなかった。石垣は、城が存続する限り未来永劫残り続ける。そこに自家の紋を刻むことは、その仕事の品質を大名家が保証するという「署名」であり、幕府に対して「この仕事は我が家が責任を持って成し遂げた」と表明する恒久的な証拠でもあった。他家よりも大きく立派な石を運び、寸分の狂いもない見事な石垣を築くことは、大名家の威信と技術力を天下に示す絶好の機会であった 24 。したがって、刻紋は、現場を管理するロジスティクス上のシステムであると同時に、封建社会における武家の「名誉」と「責任」の文化が色濃く反映された、心理的な装置としても機能していたのである。

第三章:天守台、聳え立つ - 慶長十五年 夏~九月

夏の盛りを迎え、名古屋城普請は最大のクライマックスに差しかかっていた。城の心臓部であり、権威の象徴でもある天守。その土台となる天守台石垣の構築である。この最重要工区を任されたのは、当代随一の築城の名手と謳われた加藤清正であった。彼の指揮の下、現場は熱狂と疲弊が渦巻く中で、驚異的な速度で天守台を組み上げていく。

普請総大将・加藤清正のリーダーシップ

肥後熊本52万石の太守、加藤清正は、自ら望んでこの最も困難な天守台の石垣普請を請け負ったと伝えられる 3 。蔚山城での籠城戦の経験から、堅固な城の重要性を誰よりも熟知していた清正にとって、その技術を天下に示すまたとない機会であった 25

現場における清正の存在感は絶大であった。普請の過酷な負担に不満を漏らす福島正則を一喝した逸話は、彼の厳格なリーダーシップを物語っている 7 。この行動は、単に現場の士気を引き締めるだけでなく、豊臣恩顧の大名たちの間で不満が噴出し、それが徳川への不信と受け取られることを未然に防ぐという、極めて高度な政治的判断に基づいていた。

清正の行動の根底には、豊臣恩顧の大名としての厳しい現実認識があった。彼は豊臣家への忠誠心が篤い武将であったが、天下の趨勢が徳川にあることも冷静に理解していた 3 。この新しい時代の中で自らの家を存続させるためには、誰よりも率先して徳川へ忠誠の形を示し、圧倒的な成果を出す以外に道はない。最も目立ち、最も困難な天守台普請を完璧に成し遂げることは、自らの能力と忠誠心を家康に証明する絶好の機会であった。彼の行動は、忠義と現実の間で揺れ動く戦国武将の、必死の生存戦略そのものであったと言える。名古屋城二の丸に現存する「清正公石曳きの像」は、彼が自ら巨石に乗り音頭を取ったという伝説を形にしたものであり 26 、普請における彼の功績を後世に伝えている。

石垣普請の技術的詳細:慶長年間の集大成

清正が指揮した天守台をはじめ、名古屋城の石垣には、慶長年間に頂点を迎えた日本の築城技術の粋が集められていた。

石材の加工法は、石の接合面をある程度平らに加工して隙間を減らし、強度を高める「打込接(うちこみはぎ)」が基本とされた 12 。石と石の間にできる隙間には「間詰石(まづめいし)」と呼ばれる小石を詰めて固定し、安定性を確保した 15 。さらに重要な箇所では、石材を完全に四角く加工し、隙間なく組み上げる「切込接(きりこみはぎ)」という、より高度な技術も用いられている 28

石垣で最も崩れやすい角の部分には、「算木積(さんぎづみ)」という画期的な技法が採用された 12 。これは、直方体に加工した石の長い辺と短い辺を、互い違いになるように積み上げることで、角の強度を飛躍的に高める技術である 29 。この算木積の導入により、より高く、より急勾配な石垣の構築が可能となった。

興味深いことに、名古屋城の石垣は、すべての箇所が均一の技術で造られているわけではない 31 。担当する大名家によって、石材の加工精度や、横のラインを揃える「布積(ぬのづみ)」と揃えない「乱積(らんづみ)」の使い分けなどに微妙な差異が見られる 12 。これは、天下普請の現場が、全国の有力大名家が抱える石工集団の技術を披露し、その優劣を競い合う「技術見本市」のような場として機能したことを示唆している。各大名は、自家の威信をかけて、最高の技術で担当工区を仕上げようとしたのである。

【慶長15年9月】驚異の竣工と大名たちの帰国

昼夜を問わず続けられた突貫工事の末 7 、普請開始からわずか半年後の慶長15年9月には、本丸、二之丸、西之丸、御深井丸といった城の中核部分の石垣がほぼ完成した 5 。この驚異的なスピードに、家康も満足したと見え、助役大名たちに帰国が許された。

しかし、その裏で大名たちが支払った代償は計り知れないものであった。莫大な普請費用は彼らの藩財政を著しく逼迫させ、領民には重税が課せられた。「尾張普請は迷惑千万」という悪口が、普請に従事した人々の間で囁かれたという記録も残っている 7

家康の真の狙いは、単に城を完成させること以上に、それを「ありえないほどの短期間で」完成させることにあった。全国の有力大名を意のままに動員し、これほど巨大な構造物を瞬く間に築き上げるという事実そのものが、徳川の支配体制の効率性と絶対性を天下に示す、何より雄弁なパフォーマンスとなった。諸大名は、自らが疲弊しきった末に聳え立った巨大な石垣を目の当たりにし、徳川の圧倒的な権力と組織力を肌で感じたはずである。物理的な城の完成と同時に、徳川による心理的な支配体制の構築も、この瞬間に完了したのである。

【表2:名古屋城天守台石垣に見られる主要な刻紋と担当大名(加藤家臣団)】

城造りの最前線では、大名という大きな主語の裏で、個々の家臣たちが自らの印を石に刻みながら作業に従事していた。特に加藤清正が担当した天守台周辺には、彼の家臣団のものとされる特徴的な刻紋が数多く残されている。

刻紋の図・名称

使用者(推定)

確認場所(例)

備考

椙村与次兵衛

大天守南壁東側

椙村氏の姓に由来すると考えられる。

鳥居

新美八左衛門

大天守南壁東側(隅石)

加藤家臣団の中でも特徴的な紋として知られる。

軍配団扇

小野弥兵衛

大天守南壁東側(隅石)

同時に「加藤肥後守 内 小野弥兵衛」の刻銘も確認されるが、この人物は分限帳に名がなく謎が多い。

平仮名「わた」

和田氏

橋台東壁

加藤家の分限帳に記載のある和田氏のどちらかと推測される。

刻銘「加藤肥後守 内 小代下総」

小代下総守

天守台北東隅部

名古屋城の刻銘の中でも代表的なもの。清正の重臣の一人。

出典: 9

終章:石垣に刻まれた新たな秩序

慶長15年の巨石普請によって、名古屋城の骨格はわずか半年で完成した。この物理的な城の誕生は、戦国の世の終焉と、徳川による新たな政治・社会秩序の始まりを告げる画期的な出来事であった。石垣の一つ一つに刻まれた紋は、各大名の労苦の証であると同時に、徳川の覇権の下に日本が統一されたことを物語る、静かなる記念碑となった。

普請の完了と徳川覇権の確立

石垣の完成後も工事は続き、天守は慶長17年(1612年)、藩主の居館となる本丸御殿は元和元年(1615年)に完成を迎えた 2 。そして、この名古屋城の完成は、歴史の転換点となる大坂の陣(1614-15年)の直前という、絶妙なタイミングであった 4

江戸と大坂の中間に、徳川御三家筆頭の尾張徳川家が拠る、この壮大かつ堅牢な要塞が存在することは、豊臣方に味方しようとする西国大名への強力な牽制となった。もし西国大名が兵を挙げても、背後には名古屋城が控え、東海道を進軍することは事実上不可能となる。結果として、豊臣方は戦略的に孤立させられた 1 。名古屋城は、実際に一戦も交えることなく、その存在自体が豊臣方を追い詰める「戦わずして勝つ」ための最終兵器として機能したのである。巨石普請は、大坂の陣の勝敗を、開戦前にほぼ決定づけてしまったと言っても過言ではない。

一方で、普請に参加した大名たちの未来は過酷であった。莫大な財政負担は彼らの国力を蝕み、幕府による巧みな統制策の中で、多くが改易や減封の憂き目に遭った。普請に参加した20家のうち、明治維シンまで家名を保つことができたのは、わずか12家であったという 7 。彼らが築いた石垣は、徳川の礎であると同時に、戦国大名としての自らの時代の終焉を刻む墓標でもあった。

経済的・社会的帰結:巨大城下町・名古屋の誕生

巨石普請がもたらしたものは、政治的な秩序だけではなかった。普請と並行して断行された「清洲越」により、名古屋には碁盤割の整然とした新たな城下町が形成された 2 。全国から集められた労働者と物資は、この新興都市に爆発的な経済効果をもたらし、商業を活性化させた 1 。福島正則が開削した堀川は、その後も名古屋の物流を支える大動脈として機能し続け、この地が日本有数の商工業都市へと発展する礎を築いたのである 18

結論として、名古屋城巨石普請は、単なる城造りという枠を遥かに超えた、歴史的な意義を持つ一大事業であった。それは、全国の大名を一つの目標の下に動員し、彼らの力(財力、軍事力、技術力)を徳川という新たな中央権力のために結集させることで、新しい時代の到来を天下に知らしめる、壮大な国家的「儀式」であった。この普請を通じて、かつて独立した領主であった大名たちは、幕府という巨大な統治システムの一部に組み込まれていった。完成した名古屋城は、徳川の威光を永続的に示す象徴となり、その後260年にわたる泰平の世を見守り続けることになる。名古屋城の石垣は、武力による制圧ではなく、「普請」という巨大な共同作業によって天下統一が完成したことを物語る、歴史の証人なのである。

引用文献

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  10. 名古屋城石垣の刻印を見に行こう! Vol.00 はじめに – 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/14192
  11. 【完全ガイド】名古屋城の石垣を築いた20家大名と持ち場をまとめました https://www.explore-nagoyajo.com/stone-wall-stamp20/
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  25. 築城名人の哲学① 熊本城を造った加藤清正の「体験」と「経験」|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-089.html
  26. 銅像もある!加藤清正と名古屋城の関わりとは? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1877
  27. お城の「石垣」に秘められた技術 - 日本伝統文化検定 https://denken-test.jp/culture_industry/1726/
  28. 令和の石垣積直し | お城note | 名古屋城公式ウェブサイト https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/oshironote/2024/03/20240329_4345.html
  29. 城の石垣の種類/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/japanese-castle/castle-isigaki-shurui/
  30. 肥前名護屋城跡の石垣 ―文禄・慶長期の城郭石積みとその修理 http://hizen-nagoya.jp/nou_cha_ishigaki/ishigaki.html
  31. 「こんなに凄かった名古屋城の石垣」 https://www.fukkatu-nagoya.com/reikai/files/20240518resume.pdf
  32. 【第25回】凸名古屋城 前編~ここだけの話~ - 城びと https://shirobito.jp/article/2058