宇都宮仕置(1597)
1597年、宇都宮国綱は継嗣問題と石高隠匿嫌疑、浅野長政との対立、中央政争に巻き込まれ改易。秀吉の東国再編戦略の一環で名門宇都宮氏は滅亡し、近世支配体制への移行を象徴した。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長二年「宇都宮仕置」の真相:関東の名門・宇都宮氏改易事件の時系列分析
序章:二つの「宇都宮仕置」―歴史的文脈の再定義
日本の戦国時代史において、「宇都宮仕置」という言葉は、特定の歴史的文脈の中で用いられる。しかし、ご依頼のあった慶長2年(1597年)の事変を正確に理解するためには、まずこの言葉が指し示す二つの異なる出来事を明確に区別し、その関連性を解き明かす必要がある。一つは豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げとして行われた天正18年(1590年)の大規模な政治的裁定であり、もう一つが本稿の主題である1597年の名門・宇都宮氏の改易事件である。
1590年の「宇都宮仕置」:天下統一の画期
一般に歴史用語として知られる「宇都宮仕置」は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼした後、下野国の宇都宮城に約10日間滞在して執行した、関東・奥羽地方の諸大名に対する大規模な領土再編を指す。この名称は、かつて源頼朝が奥州合戦の際、宇都宮で戦勝を祈願した故事に秀吉が倣ったことに由来し、彼自身が頼朝に比肩する新たな天下人として東国支配を確立する、極めて象徴的な意味合いを持っていた。
この時、宇都宮城には伊達政宗をはじめとする東国の名だたる大名たちが参集し、秀吉の裁定を待った。長年、後北条氏の圧迫に苦しんできた宇都宮氏当主・国綱にとって、この「仕置」は北条氏という脅威から解放され、下野国18万石の所領を安堵されるという、一見すると栄光の瞬間であった。しかし、この出来事の本質は、宇都宮氏が旧来の地域秩序から解放されると同時に、豊臣中央政権という、より強力で直接的な権力構造へと完全に編入されたことを意味していた。戦国時代的な地域勢力間の水平的な関係性が終わりを告げ、秀吉を頂点とする一元的で垂直的な支配ピラミッドが構築されたのである。この構造変化こそが、7年後の悲劇を生む遠因となる。
1597年の「宇都宮氏改易事件」:栄光から転落へ
本報告書が主題とするのは、この栄光からわずか7年後の慶長2年(1597年)に突如として下された、宇都宮国綱の改易処分である。小田原征伐を乗り越え、豊臣大名として朝鮮出兵にも参陣した関東の名門が、なぜ歴史の表舞台から姿を消さねばならなかったのか。この謎を、事件に至るまでの構造的要因、複雑に絡み合う人間関係、そして事件発生の具体的な時系列を再構築することによって、徹底的に解明することを目的とする。1597年の改易は突発的な事件ではなく、1590年に始まった新しい政治秩序の力学の中で、必然的に起こり得た悲劇であったという視点から、その真相に迫る。
第一章:栄華と内憂―豊臣政権下の宇都宮氏が抱えた構造的脆弱性
宇都宮氏の突然の改易を理解するためには、豊臣政権下に組み込まれた同氏が、その栄華の裏で抱えていた構造的な脆弱性を分析する必要がある。その脆弱性は、名門としての長い歴史と、その歴史の中で形成された特異な家中構造に深く根差していた。
関東の名門、その実像
宇都宮氏は、平安時代後期の藤原宗円を祖とし、以来約500年にわたり下野国を支配してきた名家である。鎌倉時代には幕府の有力御家人として重きをなす一方で、京都の文化とも深い繋がりを持ち、5代当主・頼綱は百人一首の成立にも関わったとされる文化的な側面も有していた。その本拠である宇都宮城は、関東平野の北端に位置し、奥州への玄関口という地政学的な要衝でもあった。このように、宇都宮氏は武門としての家格、文化的権威、そして戦略的重要性という三つの要素を兼ね備えた、関東屈指の名族であった。
宿痾としての家中構造:「紀清両党」と芳賀氏の存在
しかし、その長い歴史は、複雑で統制の難しい家中構造をも生み出した。特に、宇都宮氏の重臣の中でも筆頭格である芳賀氏の存在は、宇都宮氏の統治における最大の「内憂」であった。清原氏を祖とする芳賀氏は、益子氏と共に「紀清両党」と称される宇都宮家中の最強武士団であり、単なる家臣という立場を超えて、時には主家の実権を掌握し、当主の擁立や排除にさえ深く関与するほどの強大な勢力を保持していた。宇都宮氏の歴史は、この芳賀氏との協調と対立の繰り返しであり、当主の権力基盤は常に不安定な要素を内包していた。この「宇都宮氏と芳賀氏」という二重権力構造に近い状態は、戦国時代を通じて宇都宮氏の迅速な意思決定と内部統制を著しく困難にし、後の内紛の温床となったのである。
豊臣政権への臣従と安堵
天正18年(1590年)の小田原征伐に際し、宇都宮国綱は佐竹義重らと連携し、豊臣方として参陣した。この時、石田三成や増田長盛の仲介を経て秀吉に臣従を認められ、下野国18万石の本領を安堵されることに成功する。その後、文禄の役(朝鮮出兵)にも従軍し、帰還後には豊臣姓を賜り従五位下に任じられるなど、表面的には豊臣大名として順調な道を歩んでいるかのように見えた。
しかし、この所領安堵には、宇都宮氏の運命を決定づける重大な意味が隠されていた。国綱が得た18万石という所領は、旧来の支配権を単に「追認」されたものではなく、豊臣政権という新たな最高権威によって改めて「再授与」されたものであった。これにより、宇都宮氏の権力基盤は、自家の伝統的権威から、秀吉個人の恩恵へとその性質を根本的に変化させた。この権力基盤の質的変化は、彼らの脆弱性を決定的に増大させた。かつては一族内の問題であった芳賀氏との内紛は、新体制下では秀吉から与えられた領地の統治能力の欠如、すなわち豊臣政権に対する「御不奉公」と見なされかねない、致命的な欠陥へと変質したのである。
第二章:破局への序曲(1590年~1597年)―張り巡らされた蜘蛛の糸
宇都宮国綱の改易は、単一の原因によるものではなく、豊臣政権の統治システム、宇都宮家中の内部対立、そして中央の政争という三つの要素が複雑に絡み合った結果であった。1590年の所領安堵から1597年の改易までの7年間は、破局へと向かう蜘蛛の糸が静かに、しかし着実に張り巡らされていく期間であった。
豊臣政権の東国支配システム:「取次」浅野長政の権能
天下を統一した秀吉は、広大な領国、特に遠隔地である東国の大名を直接統治するのではなく、「取次(とりつぎ)」と呼ばれる担当大名を介して管理するシステムを構築した。宇都宮氏を含む関東・奥羽の多くの大名を担当したのが、五奉行の一人でもある浅野長政であった。
「取次」は単なる連絡役ではない。大名からの上申を秀吉に取り次ぎ、政権の命令を現地で伝達・執行する絶大な権限を有していた。大名たちは「取次」を通じてしか秀吉と意思疎通ができず、その生殺与奪は担当の「取次」の意向に大きく左右された。宇都宮氏の運命は、浅野長政という一本の糸によって、豊臣政権の中枢に繋がれていたのである。この関係性は、宇都宮氏にとって中央とのパイプであると同時に、長政の個人的な思惑一つで断ち切られかねない、極めて危ういものであった。
火種①:継嗣問題と浅野長政との対立
破局の直接的な引き金の一つとなったのが、宇都宮国綱の継嗣問題である。国綱には嫡子がおらず、この状況に目を付けたのが「取次」である浅野長政であった。長政は自身の次男・長重を国綱の養子として送り込み、宇都宮家を事実上、自らの影響下に置こうと画策したとされる 1 。
この動きに激しく反発したのが、国綱の弟であり、宇都宮家中で絶大な力を持つ芳賀氏を継いでいた芳賀高武であった。高武は「宇都宮家に嗣子なき場合は、分家である芳賀氏から後継者を迎えるのが古来の慣例である」と主張し、長政の介入を断固として拒絶した。この芳賀高武の抵抗は、宇都宮家の伝統を守るための行動であったが、結果として豊臣政権の重臣であり、自らの「取次」である浅野長政の顔に泥を塗る行為となった。この一件で個人的な恨みを抱いた長政が、宇都宮氏に対して厳しい姿勢で臨むようになったことは想像に難くない。
火種②:太閤検地と「石高隠匿」の嫌疑
豊臣政権は、全国の支配を盤石にするため、統一された基準で田畑の面積と生産量を調査する「太閤検地」を強力に推進した。これにより、大名の経済的基盤は「石高」として数値化され、それに応じた軍役が課されることになった。この検地は、単なる測量ではなく、大名の領国支配の実態を中央が完全に把握し、統制下に置くための政治的行為であった。
この過程で、宇都宮氏が領内の石高を意図的に少なく申告した、すなわち「石高隠匿」の罪を犯したとして、浅野長政によって告発されたという説が、改易の理由として有力視されている 2 。実際に不正があったか否かは定かではないが、石高の過少申告は、豊臣政権に対する重大な不忠義と見なされ、大名を取り潰す際の常套手段でもあった。継嗣問題で面目を潰された長政が、宇都宮氏を追い落とすための格好の口実として、この嫌疑を利用した可能性は高い。
火種③:中央政争の影―浅野長政と石田三成
当時の豊臣政権内部は一枚岩ではなく、浅野長政ら尾張出身の武断派と、石田三成ら近江出身の文治派(官僚派)との間で、主導権を巡る対立があったとされる。宇都宮国綱は、小田原征伐の際に石田三成や増田長盛の仲介で秀吉への臣従を果たしており、本来は三成の派閥に近い大名と見なされていた。
しかし、皮肉なことに、関東・奥羽の「取次」は政敵である浅野長政であった。このねじれた関係が、宇都宮氏を政争の渦中に巻き込む要因となった。三成と親しい宇都宮氏を排除することは、長政にとって個人的な恨みを晴らすだけでなく、政敵の勢力を削ぐという政治的な意味合いも持っていた。宇都宮家中で起きた内紛という地方的な問題は、豊臣政権の統治システムと中央の権力闘争という二つのフィルターを通して増幅され、国家への反逆というレベルにまで拡大解釈されていったのである。
第三章:慶長二年、その刻―宇都宮氏改易の時系列再構築
慶長2年(1597年)、それまで水面下で進行していた対立と疑惑は、ついに宇都宮氏の改易という破局的な結末を迎える。ここでは、現存する史料を基に、事件の発生から執行までの過程を可能な限りリアルタイムに近い形で再構築し、そのダイナミズムを明らかにする。
【表1:宇都宮氏改易に関連する時系列年表】
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年月日 (西暦) |
出来事 |
主要関係者 |
関連史料・根拠 |
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~慶長2年 (1597) |
宇都宮国綱の継嗣問題を巡り、浅野長政と芳賀高武が対立。 |
宇都宮国綱、浅野長政、芳賀高武 |
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太閤検地に関連し、宇都宮氏に石高隠匿の嫌疑がかけられる。 |
宇都宮国綱、浅野長政 |
1 |
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慶長2年 (1597) 中 |
継嗣問題が武力衝突に発展。芳賀高武が養子縁組賛成派の重臣(今泉氏・菊池氏)を攻撃。宇都宮家中が内戦状態に陥る。 |
芳賀高武、今泉氏、菊池氏 |
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「取次」浅野長政がこの内紛を「統治能力の欠如」として豊臣秀吉に報告。 |
浅野長政、豊臣秀吉 |
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慶長2年10月 (1597.11) |
秀吉、宇都宮国綱の改易を決定。公式な理由は「御不奉公」。同時に那須衆の千本氏・伊王野氏も処分される。 |
豊臣秀吉、宇都宮国綱 |
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宇都宮氏と姻戚関係にある佐竹義宣にも連座の危機が迫るが、石田三成の取りなしにより処分を免れる。 |
佐竹義宣、石田三成 |
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慶長2年10月13日 (1597.11.22) 以降 |
改易命令が執行され、宇都宮城は収公される。浅野長政が城代として入城。副官として真田昌幸も派遣される。 |
浅野長政、真田昌幸 |
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改易直後の10月13日付で、旧臣の名を記した「宇都宮氏旧臣姓名書」が作成される。 |
宇都宮家臣団 |
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慶長2年10月~ |
国綱は備前岡山城主・宇喜多秀家にお預けの身となる。 |
宇都宮国綱、宇喜多秀家 |
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慶長3年 (1598) |
宇都宮氏の旧領12万石(一部は18万石とも)が、会津から減封された蒲生秀行に与えられる。 |
蒲生秀行 |
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発端:内紛の武力衝突化
慶長2年、浅野長政主導の養子縁組を巡る対立は、ついに一線を越えた。宇都宮家の伝統を盾に強硬に反対していた芳賀高武は、実力行使という最も致命的な手段に訴えた。彼は、養子縁組に賛成していた重臣の今泉氏や菊池氏の領地に兵を送り、これを攻撃したのである。この行動は、宇都宮家が自浄能力を失い、内戦状態に陥ったことを天下に露呈するものであった。豊臣政権が最も嫌う「私戦」であり、秀吉から与えられた領国を統治する能力がないと自ら証明するに等しい行為であった。
介入と報告:浅野長政の動き
この内紛は、「取次」である浅野長政にとって、宇都宮氏を断罪するための決定的な口実となった。長政は、この事態を単なる家中の揉め事としてではなく、豊臣政権の秩序に対する挑戦であり、当主・国綱の統率力欠如の表れ、すなわち「御不奉公」であると秀吉に報告したと考えられる。宇都宮氏側からの弁明や釈明が中央に届く前に、事態は長政の報告というフィルターを通して、一方的に断罪される方向で進んでいった。
裁定:非情なる改易命令
慶長2年10月、秀吉は長政の報告を全面的に受け入れ、宇都宮国綱の改易という非情な裁定を下した。この時、宇都宮氏だけでなく、那須地方の国衆であった千本氏や伊王野氏も同時に処分されており、秀吉が北関東の支配体制を一掃する意図を持っていたことがうかがえる。
注目すべきは、この改易の公式な理由である。国綱の従兄弟にあたる佐竹義宣が父・義重に宛てた書状によれば、その理由は具体的な罪状ではなく、「御不奉公」という極めて抽象的なものであった。これは、特定の法を犯したことよりも、天下人である秀吉の意向に沿わず、その支配体制に混乱をもたらしたこと自体が罪とされたことを示している。秀吉の絶対的な権威の前では、中世以来の名門の家格や伝統も、何ら意味をなさなかった。
執行:宇都宮城の明け渡し
改易命令は直ちに執行された。宇都宮城は豊臣政権によって収公され、城の受け取りと一時的な管理のために、当事者である浅野長政が城代として入城した。さらに、この重要な任務の副官として、知将として名高い真田昌幸が秀吉の命令によって付け加えられている。これは、豊臣政権が改易後の処理と、北関東の要衝である宇都宮の安定化をいかに重要視していたかを示す証左である。主を失った家臣団の混乱は大きく、改易直後の10月13日付で作成されたとされる「宇都宮氏旧臣姓名書」には、1400名を超える旧臣の名が記されており、彼らの行く末の不安を物語っている。
連座の危機と回避:佐竹氏のケース
宇都宮氏の悲劇は、周辺大名にも波及した。国綱の母は佐竹義昭の娘であり、国綱と佐竹義宣は従兄弟という極めて近い姻戚関係にあったため、佐竹氏にも連座による改易の危機が迫った。しかし、ここで運命を分けたのが「取次」の存在であった。佐竹氏の担当「取次」は、浅野長政の政敵である石田三成だったのである。三成は佐竹氏を庇護し、秀吉に懸命に取りなした結果、佐竹氏は改易を免れることができた。この一件は、豊臣政権下において、大名の運命が、自らの行動以上に、中央のどの権力者に繋がっているかという政治力学によって左右された現実を、残酷なまでに見せつけている。
第四章:名門の終焉と新たな支配体制の構築
慶長2年の改易処分は、宇都宮氏という一つの大名家の歴史に終止符を打っただけでなく、下野国、ひいては東国全体の支配構造を大きく変容させる契機となった。名門の終焉は、豊臣政権による新たな支配体制構築の序章であった。
流浪の当主・宇都宮国綱
改易を申し渡された宇都宮国綱は、備前岡山城主・宇喜多秀家にお預けの身となり、下野国から追放された。翌慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、国綱は旧領回復の望みをかけて奔走する。慶長の役への参陣を許されたのも、その一環であった。しかし、彼の願いが叶うことはなかった。徳川家康の時代になっても家名再興は認められず、諸国を流浪した末、慶長12年(1608年)、江戸浅草の石浜で40年の生涯を閉じた。22代、約500年にわたって関東に君臨した名門・宇都宮宗家は、当主の失意の死とともに、事実上滅亡したのである。国綱の子孫は後に水戸藩士として存続するが、大名としての宇都宮氏が歴史の表舞台に戻ることは二度となかった 1 。
空白地への新たな領主:蒲生秀行の入封
宇都宮氏が去った下野国の統治は、一時的に城代の浅野長政と真田昌幸によって行われた。そして慶長3年(1598年)、新たな領主として宇都宮に入封したのが、蒲生秀行であった。彼は、父・氏郷の急死後、会津92万石という広大な領地を継いだが、若年であったために家中の統制に失敗し、「蒲生騒動」と呼ばれる深刻な御家騒動を引き起こしていた。
秀吉は、この騒動の責任を問い、秀行を会津92万石から宇都宮12万石(一説には18万石)へと大幅に減封し、移封させた。宇都宮氏の改易と蒲生氏の減転封は、一見すると別個の事件のようであるが、豊臣政権の東国支配戦略という大きな文脈の中では、密接に連動していた。宇都宮氏の改易によって生じた北関東の戦略的空白地は、問題を起こした別の大名(蒲生氏)を処罰し、再配置するための格好の受け皿として利用されたのである。
さらに、この人事にはより大きな政治的意図が隠されていた。秀吉は、蒲生氏が去った後の会津に、越後の上杉景勝を120万石という破格の石高で入封させた。これは、関東で巨大な勢力を持つ徳川家康や、奥州の雄・伊達政宗を牽制するための、極めて戦略的な配置であった。つまり、宇都宮氏の悲劇は、秀吉が①問題大名(宇都宮・蒲生)を処分し、②徳川・伊達への牽制を強化するという、複数の政治目的を同時に達成するための、巨大な政治的パズルの一ピースとして消費されたと言える。
近世宇都宮の胎動
新たな宇都宮城主となった蒲生秀行は、わずか4年弱の在城期間であったが、近世宇都宮の基礎を築く上で重要な役割を果たした。彼は、自らの出身地である近江国日野から商人を呼び寄せて「日野町」を創設し、城下町の商業発展を積極的に促した。この政策は、宇都宮が単なる軍事拠点から、経済的な中心地へと変貌していく第一歩となった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、蒲生秀行は旧領の会津に60万石で復帰し、宇都宮には徳川家康の外孫である奥平家昌が10万石で入封する。これ以降、宇都宮城は徳川譜代の大名が城主を務めることとなり、日光東照宮への将軍社参の際の宿城として、江戸幕府にとって極めて重要な拠点となっていく。宇都宮氏の滅亡は、下野国における中世の終わりと、徳川の治世下での近世の始まりを告げる画期的な出来事だったのである。
結論:宇都宮氏改易が示す戦国終焉期の現実
慶長2年(1597年)の宇都宮氏改易事件は、単に一つの大名家が滅びたという局地的な出来事ではない。それは、戦国という時代が終わり、豊臣政権、そして徳川幕府へと続く中央集権的な近世国家が形成されていく過渡期において、地方の伝統的権力が如何に無力であったかを象徴する悲劇であった。その原因は一つに集約されるものではなく、複数の要因が複合的に絡み合った結果であった。
【表2:宇都宮氏改易の諸原因に関する比較分析】
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原因とされる説 |
説の概要 |
関連する人物 |
信憑性・重要度の考察 |
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① 継嗣問題と内紛 |
浅野長政の次男・長重の養子縁組を巡り、芳賀高武が反対し武力衝突に発展。当主・国綱の統率力不足が露呈した。 |
宇都宮国綱、浅野長政、芳賀高武 |
【極めて高い】 改易の直接的な引き金となった。宇都宮家が抱える構造的脆弱性が、豊臣政権下で致命傷となったことを示す。 |
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② 石高隠匿の嫌疑 |
太閤検地に際し、石高を過少申告したとして「取次」の浅野長政に告発された。 |
宇都宮国綱、浅野長政 |
【高い】 豊臣政権が大名を取り潰す際の常套手段。①の内紛と結びつき、改易を正当化する格好の口実として利用された可能性が高い。 |
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③ 中央政争への巻き込まれ |
宇都宮氏が石田三成に近かったため、対立する浅野長政によって意図的に排除された。 |
浅野長政、石田三成 |
【高い】 佐竹氏が三成の取りなしで助命された事実が、この説を裏付ける。大名の運命が中央の派閥争いに直結していたことを示す。 |
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④ 秀吉の東国再編戦略 |
宇都宮氏の改易は、蒲生氏の減封と上杉氏の会津移封を連動させ、対徳川・伊達包囲網を強化する秀吉の戦略の一環であった。 |
豊臣秀吉、蒲生秀行、上杉景勝 |
【高い】 宇都宮氏の悲劇が、より大きな政治的・戦略的文脈の中で決定されたことを示唆する。地方大名が中央の都合で駒として扱われた現実を物語る。 |
総括:戦国から近世への移行期における悲劇
以上の分析から、宇都宮氏の改易は、これら四つの要因が相互に作用し合った結果であることが明らかとなる。宇都宮家が長年抱えてきた家中統制の甘さという**内部要因(①) が、「取次」浅野長政との個人的な対立を生み、それが石高隠匿という 嫌疑(②) と結びつけられた。そして、この一連の動きは、豊臣政権内部の 派閥抗争(③) というフィルターを通して増幅され、最終的には秀吉による 東国全体の再編戦略(④)**の中で、改易という最も厳しい処分として結実した。
この事件は、戦国終焉期の権力構造の現実を浮き彫りにしている。第一に、大名の存続が、領国経営の手腕以上に、中央の権力者、特に「取次」との個人的な関係に大きく依存していたこと。第二に、秀吉という一個人の絶対的な裁量によって大名の運命が決定される、属人的な統治の危うさ。そして第三に、中央の政争の余波が、地方大名の存亡に直接的な影響を及ぼすという、新たな政治力学の到来である。
平安時代から続いた関東の名門・宇都宮氏の終焉は、中世的な地域秩序と価値観が完全に解体され、より強固で中央集権的な近世的支配体制へと日本社会が移行していく過程における、一つの象徴的な画期として歴史に刻まれている。彼らの悲劇は、時代の大きな転換点において、新たな秩序に適応できなかった者が淘汰されていく、歴史の非情な法則を我々に示している。
引用文献
- 宇都宮氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%B0%8F
- 宇都宮国綱(うつのみやくにつな)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9B%BD%E7%B6%B1-1058076