最終更新日 2025-09-19

宇都宮城改修(1597)

1597年、宇都宮国綱は豊臣秀吉により改易され、宇都宮城は蒲生秀行、本多正純と城主を変え大規模改修。日光社参の宿城として整備され、中世の城から近世の「天下の城」へと変貌を遂げた。
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慶長二年宇都宮城事変の深層:名門の終焉と近世城郭への胎動

序章:慶長二年の宇都宮城 - 「改修」ではなく「激変」の年

慶長二年(1597年)の宇都宮城を巡る事変は、しばしば「関東支配の拠点としての改修」という言葉で要約される。この認識は、宇都宮城が後に大規模な改修を経て、徳川幕府の東国支配における枢要な拠点へと変貌を遂げたという歴史的結果から見れば、その本質の一端を捉えている。しかし、慶長二年に実際に起こった出来事の核心は、物理的な「改修」ではなく、この地を約五百年にわたり支配してきた名門・宇都宮国綱の「改易」、すなわち領地没収という、城の運命を根底から覆す政治的激変であった 1

本報告書は、この慶長二年の政治的事件を全ての起点として捉える。そして、なぜ宇都宮城が、天下人の戦略上、大規模な改修を必要とする城へと変貌を遂げたのか、その全貌を時系列に沿って詳細に解き明かすことを目的とする。宇都宮氏の改易という激震がなければ、その後の蒲生氏や本多氏による近世城郭への大改修はあり得なかった。つまり、1597年の出来事は、城の物理的な改修を行うための、いわば「政治的な整地」であったと解釈できる。この視座に立つことで、単なる事件の羅列ではない、政治と城郭建築が不可分に連動するダイナミックな歴史の構造を明らかにすることができるであろう。

第一部:事変に至る背景 - 豊臣政権下の宇都宮城

慶長二年の激震を理解するためには、まずその7年前に遡り、宇都宮城が日本の歴史の表舞台に躍り出た瞬間から説き起こす必要がある。豊臣秀吉による天下統一事業は、宇都宮城の戦略的価値を飛躍的に高め、同時に城主宇都宮氏を新たな時代の荒波へと投げ込んだ。

第一章:戦略拠点としての浮上 - 秀吉の「宇都宮仕置」

天正十八年(1590年)、小田原北条氏を滅ぼし、事実上の天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、残る奥羽地方の平定のため、会津へと軍を進めた。その途上、秀吉は宇都宮城に約10日間滞在する 4 。この地で、彼は関東・東北地方の諸大名の処遇、すなわち領地の安堵、減封、改易を次々と決定した。これが世に言う「宇都宮仕置」である 4 。この歴史的事件により、宇都宮城は単なる下野国の一大名の居城という地位から、天下人の東国経営を象徴する政治の中枢へと、その性格を劇的に変えたのである。

秀吉が宇都宮をこれほどまでに重視した背景には、明確な戦略的意図と歴史的先例への意識があった。秀吉は、かつて源頼朝が奥州合戦の際、鎌倉を発ち宇都宮二荒山神社で戦勝を祈願して奥州を平定した故事を強く意識していたとされる 5 。頼朝が鎌倉を発った日と同じ7月19日に、秀吉もまた鎌倉を発つという念の入れようであった 4 。秀吉が残したとされる「会津まで行けなくても宇都宮までは必ず行く」という言葉は、彼が宇都宮を関東支配と奥羽平定の双方にとって不可欠な地政学的要衝と見なしていたことの何よりの証左である 4 。この天下人の認識こそが、その後の宇都宮城の運命を決定づける根源となった。

第二章:名門・宇都宮氏の苦悩と中央集権の波

宇都宮仕置の舞台となった宇都宮城の主、宇都宮国綱は、平安時代から続く名門の第22代当主であった 1 。しかし、その栄光ある家名とは裏腹に、戦国時代末期の宇都宮氏は存亡の危機に瀕していた。関東に覇を唱える後北条氏の圧迫は年々激しさを増し、国綱は常陸の佐竹氏など周辺勢力との連携によってかろうじて独立を保っているに過ぎなかった 2 。北条方の壬生氏や皆川氏の離反も相次ぎ、一時は本拠である平城の宇都宮城を維持することさえ困難となり、防御に優れた山城の多気城へ拠点を移さざるを得ない状況にまで追い詰められていた 7

この窮地にあって、秀吉の小田原征伐は国綱にとってまさに救いであった。彼は秀吉軍に馳せ参じ、戦功を認められて下野国18万石の所領を安堵される 2 。これにより、宇都宮氏は滅亡の淵から蘇り、再び宇都宮城を本拠とすることができた。一見すれば、ここに宇都宮氏の安泰は約束されたかのように見える。

しかし、この所領安堵は、宇都宮氏が独立した戦国大名から、豊臣政権という巨大な中央集権体制に組み込まれた一大名へと、その立場を根本的に変えられたことを意味していた。秀吉の政策は、旧来の在地勢力を温存するものではなく、太閤検地、刀狩令、人掃令といった諸政策によって、全国の支配構造を根底から作り変えるものであった 9 。宇都宮氏も例外ではなく、太閤検地の受け入れや、文禄の役(朝鮮出兵)への参陣など、中央からの強力な統制下に置かれることになった 7

秀吉による18万石の所領安堵は、宇都宮氏にとっての「救済」であると同時に、中央政権がいつでも介入し、取り潰すことのできる「執行猶予」付きの支配権でしかなかったのである。宇都宮氏のような、鎌倉以来の伝統と複雑な家臣団を持つ旧来の名門は、秀吉が目指す強力な中央集権体制にとっては、潜在的な「障害」と見なされる危険性を常に孕んでいた。1590年の安堵はゴールではなく、宇都宮氏が豊臣政権の示す新たな秩序に適合できるかを試される、7年間の評価期間の始まりに過ぎなかった。この構造的な緊張関係こそが、7年後の突然の悲劇への伏線となる。

第二部:慶長二年の激震 - 宇都宮国綱、改易の刻

天正十八年(1590年)の安堵から7年、豊臣政権下でかろうじて命脈を保っていた宇都宮氏に、突如として終焉の時が訪れる。慶長二年(1597年)の改易は、宇都宮という一地方領の出来事に留まらず、当時の日本が置かれていた内外の情勢と密接に連関していた。


表1:宇都宮城をめぐる時系列表(1590年~1622年)

年号(西暦)

城主

主要な政治・軍事動向

宇都宮城・城下町の変化

天正18年 (1590)

宇都宮 国綱

豊臣秀吉、小田原征伐。宇都宮城にて「宇都宮仕置」を断行。

宇都宮氏が18万石を安堵され、北条氏の脅威から解放される。中世以来の城郭構造を維持。

文禄元年 (1592)

宇都宮 国綱

文禄の役(第一次朝鮮出兵)勃発。国綱も参陣。

-

文禄3年 (1594)

宇都宮 国綱

国綱、豊臣姓を下賜される 7

-

慶長2年 (1597)

(不在)

慶長の役(第二次朝鮮出兵)再開。10月、宇都宮国綱が突如改易される。

城主不在となり、一時的に浅野長政の管理下に置かれたと推定される。

慶長3年 (1598)

蒲生 秀行

豊臣秀吉死去。蒲生秀行が会津から18万石で入封。

近世城郭への第一歩。城下町の商業整備(日野町造成など)が開始される 10

慶長5年 (1600)

蒲生 秀行

関ヶ原の戦い。徳川秀忠が宇都宮城に在陣 5

東軍の上杉景勝に対する牽制拠点としての役割を果たす 11

慶長6年 (1601)

奥平 家昌

蒲生秀行が会津60万石に復帰。徳川家康の孫・奥平家昌が10万石で入封。

商業振興策が継続され、定期市(大善市)が開かれる 5

元和2年 (1616)

奥平 忠昌

徳川家康死去。日光山に祀られることが決定。

日光社参の宿城としての重要性が生まれる。

元和5年 (1619)

本多 正純

奥平氏が古河へ転封。家康側近の本多正純が15万5千石で入封。

史上最大規模の大改修が開始される。城域の拡張、堀・土塁の強化、街道整備に着手 3

元和8年 (1622)

(不在)

徳川秀忠の日光社参。4月、本多正純が突如改易される(釣天井事件伝説の背景)。

大改修が中断。城は幕府の管理下に置かれ、後に奥平忠昌が再入封。


第一章:運命の日へ - 1597年の国内情勢

慶長二年(1597年)、日本は再び戦時下にあった。前年に破綻した明との和平交渉に激怒した秀吉は、再度朝鮮半島への大軍派遣を命令。慶長の役が始まった 12 。この再度の出兵は、西国大名にさらなる経済的・軍事的負担を強いただけでなく、国内の支配体制を一層厳格化させる空気を醸成した。秀吉は諸将に苛烈な戦果を要求し、戦功の証として敵兵の鼻を塩漬けにして送らせるなど、その統治は凄惨を極めていた 13

このような極度の緊張状態は、国内の支配体制に対しても同様に作用した。豊臣政権の威信をかけた対外戦争を遂行する上で、国内の支配にわずかな揺らぎや非効率が存在することは許されなかった。特に、政権の財政基盤である石高の申告にごまかしがあったり、中央の命令に対する不服従が疑われたりする大名は、見せしめとして厳罰に処される危険性が高まっていた。宇都宮氏の改易は、こうした国際情勢の緊迫化が国内の粛清・再編プロセスを加速させた、その一環として捉えることができる。朝鮮半島の戦況というマクロな国際情勢が、下野国の一領主の運命を左右する直接的な引き金となった可能性は極めて高い。

第二章:改易理由の多角的分析 - なぜ名門は滅びたのか

慶長二年十月十三日、宇都宮国綱は突如として秀吉から改易を命じられた 7 。その直接的な理由については、今日に至るまで複数の説が語られており、単一の理由に帰することは困難である。しかし、これらの説を多角的に分析することで、宇都宮氏が置かれていた危うい立場が浮き彫りになる。

説1:浅野長政の讒言説

最も広く知られているのが、この讒言説である。『宇都宮興廃記』など後世の編纂物によれば、国綱には嫡子がいなかったため、豊臣政権の重鎮である五奉行の一人、浅野長政が自身の三男・長重を養子に送り込もうと画策した。しかし、国綱の弟である芳賀高武をはじめとする家臣団がこれに猛反対し、この縁組は破談となった。これを恨んだ長政が、秀吉に国綱を陥れる讒言を行ったために改易に至った、というものである 7。この説は、個人の感情が引き起こした悲劇として、非常に劇的な物語性を持っている。

説2:太閤検地における石高不正申告説

より現実的な理由として挙げられるのが、石高の不正申告説である。豊臣政権は太閤検地によって全国の生産力を直接把握し、それを基に軍役や普請役を課す中央集権体制を構築しようとしていた 9。この体制下において、大名が石高を実態よりも少なく申告することは、政権の根幹を揺るがす重大な不正行為であった。国綱が検地の際に石高を偽って申告し、それが露見したために秀吉の怒りを買ったというこの説は、当時の政権の性格を考えれば十分にあり得る理由である 2。

説3:秀吉による旧勢力排除・支配体制再編説

近年の研究で有力視されているのが、特定の個人的な理由よりも、豊臣政権全体の政策の流れの中に改易の原因を見る説である。秀吉にとって、宇都宮氏のような鎌倉以来の伝統を持つ名門は、その地域に根差した複雑な支配構造ゆえに、中央集権化を進める上での障害となり得る存在であった。特に、関東・奥羽支配の結節点という戦略的重要性を持つ宇都宮の地を、旧来の勢力に委ねておくことには不安があった。そこで、何らかの口実を設けて宇都宮氏を排除し、息のかかった豊臣系の家臣を直接配置することで、この地域の支配を盤石なものにしようとした、という見方である 5。この説は、宇都宮氏の改易が、個別の事件ではなく、秀吉の天下統一事業の総仕上げの一環として行われた必然的な出来事であったことを示唆している。

これらの説は相互に排他的なものではなく、複合的に作用した可能性も考えられる。養子問題で浅野長政との関係が悪化し、そこに石高不正の嫌疑がかけられ、最終的に秀吉の旧勢力排除という大方針のもとで改易が断行された、という筋書きも十分に想定できるだろう。

第三章:宇都宮氏五百年の終焉

理由が何であれ、慶長二年十月、宇都宮氏の運命は尽きた。平安時代後期に藤原宗円がこの地に根を下ろして以来 16 、約五百年、22代にわたって続いた下野の名門による支配は、天下人の一声によってあまりにも唐突に幕を閉じたのである 1

改易命令は苛烈を極め、国綱が城を去る際に一人の家来も付き従うことを許されなかったと伝えられている 5 。これにより家臣団は離散し、宇都宮氏の庇護を受けてきた地域の寺社も急速に荒廃したという 5 。城主を失った宇都宮城は、五奉行の一人である浅野長政が一時的に管理下に置いたと推測されており 11 、このことからも豊臣政権がこの地をいかに重要視していたかがうかがえる。ここに、宇都宮城は中世以来の領主の居城としての歴史を終え、新たな時代の要請に応えるべく、その姿を大きく変えていく転換点を迎えたのであった。

第三部:新時代への胎動 - 城と城下町の変貌

宇都宮氏の改易は、宇都宮城の歴史における一つの時代の終わりであると同時に、全く新しい時代の始まりを告げる号砲であった。城主の座は豊臣系、そして徳川系の大名へと引き継がれ、彼らの手によって城と城下町は「近世」という新たな時代の要請に応えるべく、大規模な変貌を遂げていく。その過程は、豊臣政権から徳川政権へと移行する時代の思想の変化を色濃く反映していた。


表2:宇都宮氏改易後の主要城主と施策一覧

城主

在城期間

石高

主な施策(城郭)

主な施策(城下町)

歴史的意義

蒲生 秀行

1598年~1601年

18万石

近世的な縄張りの基礎を整備。城下の出入りを厳格化 11

故地近江から商人を招聘し「日野町」を造成。商業都市の基盤を構築 10

豊臣政権的な経済重視政策を反映。近世城下町の原型を形成。

奥平 家昌

1601年~1614年

10万石

-

定期市(大善市)を開くなど商業振興を継続 5

徳川親藩による安定支配期。商業的発展を継承。

本多 正純

1619年~1622年

15万5千石

城域を2倍以上に拡張。四重の水堀と高い土塁で防御を強化。本丸に将軍専用の「御成御殿」を建設 16

日光・奥州道中の付け替えと一体化した大規模な町割りを再編 5

徳川幕府の国家的事業「日光社参」に対応。「天下の城」として完成。


第一章:蒲生秀行の入城と近世城郭への第一歩(1598年〜)

宇都宮氏改易の翌年、慶長三年(1598年)、新たな城主として会津から蒲生秀行が18万石で入封した 3 。彼は、信長・秀吉に仕えた名将・蒲生氏郷の子であり、その統治手法には豊臣政権的な色彩が強く見られた。秀行は早速、宇都宮の城と城下町の抜本的な整備に着手し、これが近世都市・宇都宮の原型となった 19

秀行の施策で特筆すべきは、商業基盤の構築である。彼は自らの故地である近江日野から商人を呼び寄せ、城下に「日野町」と呼ばれる商人町を造成した 10 。これは、兵農分離を進め、城下町に商工業者を集住させて経済の活性化を図るという、織豊政権期に確立された城下町政策の典型であった。また、城の防御においても、不動口、鹿沼橋口といった城下への出入り口を定め、その管理を厳格化するなど、城と町が一体となった防衛都市としての概念を導入した 11 。蒲生秀行によるこれらの整備は、宇都宮城を単なる軍事拠点から、経済活動の中心地としての機能も併せ持つ近世的な城郭都市へと脱皮させる第一歩であった。

第二章:徳川の世と本多正純による大改修(1619年〜)

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、時代は豊臣から徳川へと大きく動く。宇都宮城も、徳川家康の孫である奥平家昌が入城するなど 17 、徳川政権下で譜代大名が治める東国の要衝としての地位を固めていった。そして、元和二年(1616年)に徳川家康が没し、その神霊が日光山に祀られることが決定すると、宇都宮城の戦略的価値は再び飛躍的に高まる。江戸と聖地・日光を結ぶ日光道中の途上に位置する宇都宮城は、歴代将軍が家康の廟所へ参詣する「日光社参」の際の宿城という、新たな国家的役割を担うことになったのである 21

この国家的要請に応えるべく、宇都宮城を史上最大規模の城郭へと変貌させたのが、元和五年(1619年)に15万5千石で城主となった本多正純であった 3 。家康の側近中の側近であった正純は、将軍の宿城にふさわしい威容と防御力を備えた「天下の城」を築くべく、前代未聞の大改修を断行する 16

その改修内容は、蒲生時代のそれを遥かに凌駕するものであった。城域は2倍以上に拡張され、本丸、二の丸、三の丸、そして外郭が幾重にも巡る堅固な縄張りが形成された 14 。防御の要として、深く広大な水堀が四重に巡らされ、そこから掘り上げられた土で高く強固な土塁が築かれた 18 。そして、城の中枢である本丸には、将軍が宿泊するためだけの専用施設「御成御殿」が壮麗に建てられたのである 21 。この大改修は城内にとどまらず、日光道中や奥州道中の街道を城下に引き込む付け替え工事と一体で行われ、城下町全体が軍事・交通の要衝として再設計された 5

蒲生秀行の改修が商業を重視した「富国」的な側面を持つのに対し、本多正純の改修は将軍の権威と軍事力を誇示する「強兵・威光」的な側面が際立っている。宇都宮城は、まず豊臣的な「経済拠点」としての基礎が築かれ、その上に徳川的な「政治・軍事・儀礼の拠点」としての機能が上書きされる形で完成した。それは、二つの時代の思想が重層的に反映された、まさに時代の転換点を象明する城郭であった。

しかし、このあまりに壮大で、石高に不相応とさえ見なされた大改修は、正純自身の悲劇を招くことになる。幕府の許可を得ずに行われたともされるこの普請は、二代将軍秀忠の猜疑心を招き、正純に謀反の噂が立つ一因となった 16 。そしてこれが、後に講談などで有名になる、正純が御成御殿に釣天井を仕掛けて秀忠を暗殺しようとしたという伝説、「宇都宮城釣天井事件」を生む背景となる。この伝説は史実ではないとされているが 18 、正純の改修がいかに当時の人々の目に規格外のものと映ったかを雄弁に物語っている。

第四部:改修後の宇都宮城 - その構造と歴史的意義

本多正純による大改修を経て、宇都宮城は中世の面影を完全に払拭し、関東を代表する近世城郭として完成の域に達した。その構造と、一連の変遷が持つ歴史的意義を考察することで、本報告の結論としたい。

第一章:近世城郭としての縄張り

完成期の宇都宮城は、別名「亀ヶ丘城」とも呼ばれ、東を田川に臨む段丘上に立地していた 5 。その縄張り(設計)は、本丸を中心に二の丸、三の丸、外郭が同心円状に広がる「輪郭式」と呼ばれる形式で、極めて高い防御力を誇っていた 14

城の防御は、石垣を多用する西国の城とは異なり、高く巨大な土塁を主とする点に特徴があった。ただし、郭同士を繋ぐ土橋の基礎など、特に堅固さが求められる要所には効果的に石垣が用いられていた 1

各郭の機能は明確に分化していた。

  • 本丸: 城の中枢でありながら、その中心には藩主の居館ではなく、将軍専用の「御成御殿」が置かれていた点が最大の特徴である 1 。周囲の土塁上には、富士見櫓や清明台櫓など5基の二重櫓が林立し、城の威容を誇っていた 1 。宇都宮城には天守が存在しなかったが、本丸北西隅に位置し、他より一段と高く盛られた土塁上に建つ「清明台櫓」が、事実上の天守の役割(天守代用)を果たしていたと考えられている 1
  • 二の丸: 本丸を囲むように配置され、藩主の日常の政務と生活の場である二の丸御殿が設けられていた 14
  • 三の丸と馬出: 城の北側を守る三の丸には太鼓門が置かれ、その前面には「丸馬出」と呼ばれる半円形の防御施設が備えられていた。これは、敵の侵攻を複雑化させ、側面から攻撃を加えるための高度な設計であった 14
  • 城下町との連携: 城の正門である大手門は、城の北側、全国的な幹線道路である奥州道中に面して開かれていた 14 。これにより、宇都宮城は城下町と一体となって、交通の要衝を抑える巨大な防衛都市を形成していたのである。

第二章:歴史的意義の再評価 - なぜ宇都宮城は変貌したのか

慶長二年(1597年)の宇都宮氏改易から、本多正純による大改修に至る一連の出来事は、宇都宮城の歴史、ひいては日本の近世国家形成史において、極めて重要な意義を持つ。

第一に、それは宇都宮城が、宇都宮氏という特定の一族の利益を守るための「私的な城」から、天下人の支配を代行する譜代大名が預かる「公儀の城」、すなわち公的な性格を持つ城へと、その本質を転換させた決定的な出来事であった。五百年にわたる在地領主の支配が終焉し、中央政権の出先機関としての役割を担う城へと生まれ変わったのである。

第二に、豊臣秀吉によって見出された「関東・奥羽支配の要衝」という地政学的重要性は、徳川の世になって「日光社参の宿城」という新たな国家的付加価値を得て、より強固なものとなった。本多正純による未曾有の大改修は、この国家的要請に応えるための必然的な帰結であり、徳川幕府の権威と支配体制の盤石さを天下に示すための巨大な国家プロジェクトであった。

結論

「宇都宮城改修(1597年)」という事変の本質は、慶長二年の宇都宮氏改易という政治的激変を契機として、中世以来の地域権力の拠点が解体され、その跡地に、天下統一を成し遂げた中央政権の東国支配戦略を体現する、巨大な近世城郭が新たに構築されるプロセスが開始された点にある。それは、単に一つの城の改修物語に留まるものではない。戦国乱世が終焉し、近世という新たな統一国家体制が確立していく時代の大きな転換点を、城郭の変貌という具体的な形で象徴する、日本史における画期的な出来事であったと言えるだろう。

引用文献

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  9. 第38回 文禄・慶長の役と秀吉の政策 - 歴史研究所 https://www.uraken.net/rekishi/reki-jp38.html
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  23. 宇都宮城~歩けば遺構が見えてくる? - 古城巡り 写真館改 https://yamashiro2015.blog.fc2.com/blog-entry-226.html
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