最終更新日 2025-09-27

安土城下瓦舗装導入(1578)

天正六年、織田信長は安土城下で「瓦舗装」を導入。これは瓦屋根の壮麗な建築群と石畳の道が織りなす革新的な都市景観を指し、信長の絶対的権力と新時代の秩序を象徴する、天下布武の舞台装置であった。
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天正六年の都市革命:安土城下「瓦舗装」の真相と織田信長のグランドデザイン

序章:天下布武の舞台装置―安土城下町整備の歴史的意義

天正6年(1578年)、織田信長が近江国安土において推進したとされる「城下の瓦舗装」は、日本の都市史における画期的な出来事として語られることがある。しかし、この事象は単なる街路の美化やインフラ整備という一面的な理解に留まるものではない。それは、長きにわたる戦国の乱世を終焉させ、新たな天下の秩序を構築しようとした信長の、壮大かつ野心的な政治的ビジョンが投射された国家的プロジェクトの象G徴であった。本レポートは、この「瓦舗装」というキーワードを手がかりに、文献史料と最新の考古学的知見を駆使し、1578年の安土で具体的に何が行われ、それがどのような思想的背景を持っていたのかを徹底的に解明することを目的とする。

信長が安土を新たな本拠地として選定した理由は、その卓抜した地政学的重要性にある。京都に近接し、日本最大の湖である琵琶湖の水運を完全に掌握できる安土は、政治・経済・軍事のあらゆる側面において理想的な立地であった 1 。当時、信長は北陸の一向一揆や大坂の石山本願寺といった強大な敵対勢力と対峙しており、安土はこれらの勢力を分断する戦略的要衝でもあった 2 。しかし、信長の狙いは単なる軍事拠点や政治の中心地の建設に留まらなかった。彼は、安土城とその城下町を、自らが目指す新たな社会構造そのものを体現するシンボルとして構想したのである 3 。壮麗な天主を頂点とし、その麓に計画的に配置された家臣団の屋敷と城下町が広がる求心的な都市構造は、信長を絶対的な支配者とする新しい時代の到来を、誰の目にも明らかな形で可視化する装置であった。

本レポートの中心的な問いは、ユーザーによって提示された「瓦舗装」の実態である。それは文字通り、街路を瓦で敷き詰めた舗装を意味するのか。それとも、壮麗な瓦葺きの建築群が立ち並ぶ、革新的な都市景観全体を象徴する言葉なのか。この問いを解き明かすため、本レポートはまず、この事業が推進された天正6年という激動の時代背景を時系列で再構築する。次に、発掘調査によって明らかになった安土城下町の具体的な構造を分析し、最後に、同時代の他の城下町との比較を通じて、その歴史的な革新性を浮き彫りにする。この多角的な検証を通じて、幻と消えた天下人の都が、後世に遺した確かな足跡を明らかにしていく。

第一章:天正六年(1578年)の織田信長と天下の動静

安土城下の壮大な整備事業は、決して平穏な状況下で進められたわけではない。天正6年(1578年)は、信長が天下統一事業の総仕上げに向けて、政治、軍事、文化のあらゆる戦線で極めて精力的に活動した、まさに激動の一年であった。城下町の建設は、これら天下布武の動きと分かちがたく結びついており、むしろその司令部として、また達成されるべき新秩序のプロトタイプとして、同時並行で進行していた。この年の信長の動向を時系列で追うことは、安土の都市建設が持つ真の意味を理解する上で不可欠である。

時系列で見る天正六年の信長

1月:文化と権威の誇示、そして中央集権化の加速

新年は、安土城における大規模な茶会で幕を開けた。元旦、信長は嫡男の信忠をはじめ、明智光秀、羽柴秀吉、丹羽長秀といった方面軍の司令官クラスの重臣たちを安土城に招集した 4 。この場で「松島」や「三日月」といった天下の名物茶道具が披露され、信長自らが茶を振る舞った。これは単なる祝賀行事ではない。武力のみならず、文化の最高権威者としても天下に君臨するという信長の強い意志の表明であり、家臣団に対する威光の誇示であった。

この文化戦略と並行して、信長はより直接的な支配体制の強化に着手する。1月29日、彼は国元に残っていた家臣たちの妻子を安土へ強制的に移住させる命令を下した 5 。中世の武士は「一所懸命」という言葉に象徴されるように、土地との強い結びつきによってそのアイデンティティと経済基盤を維持していた。信長は、家臣団をその土地から引き剥がし、安土城下に集住させることで、彼らを封建領主から信長個人に仕える専門官僚、あるいはサラリーマン的な軍事専門家集団へと変質させようとした。同時に、安土に集められた妻子は、事実上の人質として機能し、家臣団の忠誠を確保する強力な担保となった。この政策の受け皿として、計画的な城下町の建設は急務だったのである。

2月~4月:支配網の構築と朝廷との距離

年明け以降も、信長の軍事行動に一切の緩みはなかった。2月には近江の旧浅井家臣・磯野員昌を追放し、その所領に自身の甥である津田信澄を配置。明智光秀に命じて大溝城を築城させ、安土城、坂本城、長浜城と連携した琵琶湖の水運ネットワークを完全に掌握した 4 。4月には、滝川一益、明智光秀、丹羽長秀に丹波の園部城を攻略させ、畿内周辺の平定を着実に進めていく 4

こうした軍事・領国経営の成功を背景に、信長は驚くべき政治行動に出る。4月9日、朝廷から与えられていた右大臣・右近衛大将という最高位の官職を突如辞任したのである 4 。これは、既存の権威の枠組みから自らを解き放ち、官位や官職といった伝統的な価値序列を超越した、絶対的な存在としての地位を確立しようとする野心的な試みであった。もはや朝廷の権威に頼らずとも天下を支配できるという、圧倒的な自信の表れに他ならなかった。

5月~7月:対毛利戦線と新兵器の衝撃

西国では、中国地方の覇者・毛利氏との全面対決が激化していた。羽柴秀吉が播磨戦線で苦戦を強いられる中、信長は自らの出陣を計画するが、5月の畿内を襲った記録的な豪雨により、主要な河川が氾濫し、物理的に進軍が不可能となる 4 。しかし、この事態でさえ信長の威光を示す逸話となる。淀や鳥羽の舟運業者たちが数百艘の船を繰り出し、三条油小路まで信長を迎えに来たという記録は、彼が水運を完全に掌握していたことを物語っている。信長は播磨へは赴かず、秀吉に対しては戦術的に重要度の低い上月城の放棄を命じ、主目標である三木城の兵糧攻めに戦力を集中させるという、極めて合理的かつ冷徹な戦略的判断を下した 4

そして6月26日、信長の技術革新への傾倒が戦局を大きく動かす。彼が九鬼嘉隆に命じて建造させていた「大船」、すなわち鉄甲船が初めて実戦に投入された。大坂湾に姿を現した6隻の巨大な鉄甲船は、毛利方の雑賀・阿波水軍の無数の小舟を全く寄せ付けず、搭載された大砲の一斉射撃によって敵船団を粉砕した 4 。この勝利は、毛利氏の生命線である瀬戸内海の制海権を揺るがし、石山本願寺への補給路を脅かす上で決定的な意味を持った。

10月~12月:側近の謀反と新たな包囲戦

天下統一が目前に迫る中、信長の足元で予期せぬ事態が発生する。摂津一国を任されていた重臣・荒木村重が突如として謀反を起こしたのである。これに対し信長は迅速に反応し、自ら軍を率いて村重の居城・有岡城へ進軍。しかし、12月の初戦において、信長が寵愛していた小姓の万見仙千代が討死するという痛手を被る 4 。信長は力攻めを避け、有岡城の周囲に複数の砦(付城)を築いて完全な包囲網を敷き、兵糧攻めによる長期戦へと移行した。

この一連の出来事は、安土城下の建設が単なる平時の都市計画ではなかったことを明確に示している。信長は、茶会で文化的な権威を示し、家臣団の家族を集めて中央集権化を推し進め、各地で激しい戦闘を指揮し、時には信頼する家臣の裏切りに直面しながら、その一方で、安土において前代未聞の壮麗な都市を建設し続けていた。この建設事業は、彼の多岐にわたる活動の起点であり、彼の不在時にも家臣団を物理的・心理的に掌握し、天下統一事業の進行を支える恒久的な司令部として構想されていたのである。さらに、敵対勢力が各地で血を流し消耗していく中で、安-土で壮大な都市が着々と築かれているという情報は、信長の圧倒的な経済力と動員力、そして揺るぎない支配を天下に示す、何より強力なプロパガンダであった。それは物理的な城壁以上に、敵の戦意を挫く強固な「心理的な城壁」を築く行為でもあったのだ。

第二章:安土城下町の建設:思想と構造

安土城下町は、それまでの日本の都市が持っていた常識を根底から覆す、革新的な思想に基づいて設計された。防御を最優先し、道を複雑に折り曲げることで敵の侵入を阻むという従来の城郭都市の考え方とは一線を画し、安土は支配者の権威を「見せる」ための壮大な舞台装置として構想された。発掘調査によって明らかになりつつあるその具体的な構造は、信長の政治思想がいかに空間設計に反映されていたかを雄弁に物語っている。

直線の大路「大手道」の思想

安土城の構造を最も象徴するのが、城の正面入口である大手門跡から山上に向かって一直線に伸びる、壮大な石段の道「大手道」である 6 。発掘調査によれば、この道は幅約6メートル、直線部分の長さは約180メートルにも及ぶ、当時としては破格の規模を誇っていた 8

これは、日本の城郭史における一大転換点であった。例えば、朝倉氏の一乗谷では、敵の侵入速度を削ぐために道を意図的に屈曲させる「矩折(かねおれ)」が多用されていたように 10 、道を複雑にすることは防御の基本であった 12 。しかし、安土の大手道は、その基本原則を完全に無視している。この道の主目的は防御ではなく、儀式と演出にあった。信長は、天皇を安土に迎える「行幸」を想定しており、この大手道はそのための儀礼的な空間として設計されたと考えられている 7

それだけではない。大手道を登るという行為そのものが、来訪者に信長の構築した新しい秩序を体感させるための、計算され尽くしたプロセスであった。従来の迷路のような城道が侵入者の方向感覚を狂わせ、時間を浪費させることを目的としていたのに対し、安土の直線的な大手道は、登城者の視線を常に山上の天主に向けさせる。一歩一歩進むごとに天主が大きく荘厳に姿を現し、来訪者は自らが絶対的な権力の中心へと近づいていることを物理的に、そして心理的に実感させられるのである。

さらに、この道の両脇には、羽柴秀吉や前田利家といった織田家中の最有力家臣たちの屋敷が、序列に従って整然と配置されていた 6 。登城者は、この屋敷群を左右に見ながら進むことで、信長を頂点とする厳格なヒエラルキー構造を空間的に認識させられた。大手道を歩くという体験は、まさに信長の秩序を身体に刻み込むための儀式として機能するよう、巧みに設計されていたのである。

発掘調査が語る都市インフラ

近年の継続的な発掘調査は、安土城下町が単なる見かけ倒しではなく、高度な計画に基づいた都市基盤を備えていたことを明らかにしている。大手道の発掘では、石敷きの路面だけでなく、雨水を効率的に排水するための側溝も確認されており 9 、計画的なインフラ整備が行われていたことがわかる。

城下町遺跡の発掘調査は現在も進行中であり、その全容解明には至っていないが、弥生時代から近世に至るまでの重層的な遺構が確認されている 14 。今後の調査によって、安土城下町時代の道路網や区画割、市民の生活の痕跡がさらに明らかになることが期待されている 13 。これらの地道な調査は、信長のグランドデザインが、壮大な理念だけでなく、それを支える具体的な都市工学の技術に裏打ちされていたことを示している。

特権としての「瓦葺き」

安土城下町の景観を考える上で、極めて示唆に富む事実がある。それは、城下において、瓦葺きの屋根を持つことが厳しく制限されていたことである。当時の記録によれば、城下で唯一、瓦を葺くことを公式に許可されたのは、イエズス会の宣教師たちのために信長が与えた3階建ての邸宅、すなわち神学校(セミナリヨ)であった 16

この事実は、当時の日本において「瓦葺き」が、単なる建築様式ではなく、富と権威、そして特別な地位を示す極めて重要なステータスシンボルであったことを物語っている。信長は、その使用を自らの裁量でコントロールすることにより、城下における身分や特権を視覚的に規定したのである。

そして、なぜその唯一の例外がキリスト教の施設であったのか。これは、信長の巧みな対外戦略の現れと解釈できる。壮麗な天主と、特権を与えられた教会が並び立つ景観は、宣教師たちを通じてヨーロッパ世界に、信長が日本の伝統的な権威(特に仏教勢力)とは一線を画し、国際的な視野と先進性を持つ新しいタイプの支配者であることをアピールする、強力なメッセージとなった。ここでは、瓦という建築部材が、文化的な象徴であると同時に、国際政治の舞台における高度な外交ツールとして機能していたのである。信長は、安土という都市空間の隅々にまで、自らの政治的意図を織り込んでいたのだ。

第三章:「瓦舗装」の実態解明:考古学的知見と文献史料の再検討

本レポートの核心的な問いである「安土城下の瓦舗装」の実態について、ここでは文献史料が描くイメージと、考古学的調査が示す物理的な証拠を突き合わせることで、その真相に迫る。この検証を通じて、「瓦舗装」という言葉が何を意味していたのかを再定義する。

文献史料に見る安土の景観

安土の壮麗な姿を伝える最も鮮やかな記録の一つが、信長と親交のあったイエズス会宣教師ルイス・フロイスの『日本史』である。フロイスは、安土の城下町について、「広く真直ぐに延びた街路」を持ち、「人々の往来がさかんなために、毎日二回、午前と午後に清掃が行なわれていた」と記し、その計画性と清潔さを絶賛している 17

また、安土城の象徴である天主に関しては、その屋根が「我らの知る限りの最も華美な瓦で覆われている。それらは、青に見え」と描写している 18 。この「青に見える瓦」が何を指すのかは議論があるが、釉薬瓦(ゆうやくがわら)の一種であった可能性が考えられる。いずれにせよ、フロイスの目に、安土の瓦が極めて印象的で美しいものであったことは間違いない。

一方、信長の一代記である太田牛一の『信長公記』は、天主内部の狩野永徳による障壁画や各階の構造について詳細な記述を残しているが 17 、意外にも街路の舗装材料については明確な言及が見当たらない。ただし、天主の瓦については特筆しており、「瓦ハ唐様(からよう)に、唐人(とうじん)之一官(いっかん)ニ被仰付(おおせつけられ)被焼(やかれ)候」と記している 20 。これは、中国人の瓦職人である一観を招聘し、特別な様式の瓦を焼かせたことを意味しており、信長が瓦という部材に並々ならぬこだわりを持っていたことを示している 21 。これらの文献は、安土が壮麗な瓦屋根と整備された美しい街路を持つ、画期的な都市であったことを示唆するが、「瓦で道を舗装した」という直接的な記述は見出すことができない。

考古学的調査の成果

文献史料が描くイメージに対し、考古学的調査は物理的な証拠を提供する。安土城跡で実施されてきた長年の発掘調査の結果、大手道を始めとする城内の主要な道は、自然石を巧みに組み合わせた「石敷き」や「石段」で堅固に整備されていたことが確認されている 8 。現在までのところ、道路の舗装材として意図的に瓦が敷き詰められた遺構は発見されていない。

その一方で、城跡からは文字通り膨大な量の瓦が出土している。特に注目すべきは、天主や本丸といった城の中枢部から、金箔で装飾された特殊な「金箔瓦」が集中して発見されている点である 23 。これらの金箔瓦は、後の豊臣秀吉の時代に見られるような文様の全面に金箔を貼る豪華絢爛なものとは異なり、文様の凹んだ部分にのみ繊細に金箔を施すという、信長時代特有の様式を持っている 26 。このことは、安土城の屋根が、まさに文献の記述通り、他に類を見ない華麗なものであったことを裏付けている。平成10年には、搦手口(からめてぐち)の調査で、金箔が非常に良好な状態で残る軒丸瓦(のきまるがわら)が発見され、大きな話題となった 27

城下町遺跡の調査においても、建物の倒壊跡などから瓦片は出土しているが、これらは屋根材として使用されたものが後世の撹乱などによって散乱したものと考えられ、道路舗装としての使用を示す証拠とはなっていない 14

「瓦舗装」仮説の再検討と結論

以上の文献史料と考古学的証拠を総合的に勘案すると、次のような結論が導き出される。すなわち、「安土城下の瓦舗装」とは、 文字通り「瓦を敷き詰めた道路」を指すのではなく、「壮麗な瓦葺きの建築群が立ち並び、美しく整備された石畳の道が続く、革新的な都市景観」そのものを総称し、象徴的に表現した言葉 である可能性が極めて高い。

この「瓦舗装」という言葉が、なぜ生まれたのか。その生成のメカニズムは、人間の記憶と伝聞の特性から推察できる。安土を訪れた人々にとって、最も強烈な視覚的印象を与えたのは、間違いなく二つの要素であった。一つは、天主の頂で金色に輝き、あるいは青く見えたであろう、見たこともないほど「華美な瓦」。もう一つは、それまでの日本の都市には存在しなかった、広く、どこまでも真っ直ぐに続く「石畳の道」。この二つの圧倒的なイメージが、人々の間で語り継がれるうちに融合し、「きらびやかな瓦(の屋根)の街」と「見事に舗装された道」という情報が、「瓦で舗装された道」という、より簡潔でインパクトのある一つの言葉へと集約されていったのではないか。それは、安土という都市の革新性を端的に表現する、ある種の「伝説」として形成されたと考えられる。

さらに踏み込むならば、信長にとって瓦は、地面を覆うための普遍的な素材ではなかった。むしろ、それは天と地、聖と俗を分かつ「天空の境界線」としての意味を持っていた。地面、すなわち路面は、誰もが踏みしめる共有空間であり、石という普遍的かつ堅牢な素材で整備された。一方、屋根は建物の格式を示し、天に近い場所である。信長は、その最も重要な空間である城の中枢部にのみ、金箔瓦という特別な瓦の使用を許すことで、自らの権威が天にまで達しているかのような視覚効果を演出した。瓦は地面を舗装するためのものではなく、信長が創造した新しい世界の「空」を画定するための、極めて象徴的な装置だったのである。

第四章:戦国期における都市景観の革新性:他の城下町との比較分析

安土城下町が日本の都市史においていかに特異で革新的であったかを理解するためには、同時代に存在した他の主要な戦国大名の城下町と比較することが不可欠である。ここでは、防御思想、都市計画のコンセプト、そして政治的象徴性の観点から、越前の「一乗谷」、相模の「小田原」、周防の「山口」を事例として取り上げ、安土の先進性を浮き彫りにする。

比較対象1:一乗谷(朝倉氏)―谷地形に依存した防御都市

越前国を支配した朝倉氏の本拠地・一乗谷は、山間の谷という閉鎖的な地形を最大限に利用して築かれた計画都市である 11 。谷の両端を土塁と巨石で塞ぐ「城戸(きど)」を設け、谷全体を一つの巨大な城郭としていた 10 。発掘調査により、朝倉氏の館跡、武家屋敷、町屋、寺院が整然と配置されていたことが判明しているが、その道路網は防御を最優先に設計されていた。敵の侵攻速度を遅らせるため、道は意図的に直角に曲げられ(矩折)、T字路や行き止まりが多用されている 10 。一乗谷は経済的にも文化的にも繁栄した高度な都市であったが、その根本思想はあくまで地形に依存した「守り」の都市であった。

比較対象2:小田原(北条氏)―総構に守られた巨大要塞都市

関東の雄、北条氏の本拠地であった小田原は、全く異なるアプローチで防御を徹底した都市である。北条氏は、城だけでなく城下町全体を、全長約9kmにも及ぶ長大な空堀と土塁で囲い込む「総構(そうがまえ)」を構築した 30 。これにより、町全体が一つの巨大な要塞と化し、豊臣秀吉による20万を超える大軍の包囲にも長期間耐え抜いた。城下の町筋は比較的計画的で、直線的な部分もあったと記録されているが 32 、その都市構造の根底にあるのは、籠城を前提とした徹底的な防御思想である。都市の門は敵の侵入を困難にする「喰違(くいちがい)」構造になっており 30 、開放性よりも閉鎖性を重視していた。

比較対象3:山口(大内氏)―京を模した西国の文化都市

「西の京」と称され、室町時代に文化的な繁栄を極めたのが、周防国を拠点とした大内氏の城下町・山口である 33 。大内氏は京都の都を模倣し、碁盤の目状の道路網(条坊制)を導入した。その館跡からは壮麗な庭園遺構も発見されており、山口が単なる政治・軍事拠点ではなく、西国随一の文化の中心地であったことを物語っている 34 。しかし、山口の都市計画は、あくまで既存の最高の権威であった「京」をモデルとするものであり、旧来の価値観の延長線上にあった。信長が安土で試みたような、旧秩序を破壊し、全く新しい天下人の秩序をゼロから創造するという革命的な思想は見られない。

安土の革新性

これらの城下町と比較して初めて、安土の持つ真の革新性が明らかになる。安土は、一乗谷や小田原のような防御一辺倒の思想から脱却し、山口のような旧来の権威の模倣も拒否した。信長が目指したのは、自らの絶対的な権力を可視化し、天下に示すための、全く新しい都市モデルの創造であった。幅広の直線道路である大手道や、天高くそびえる壮麗な天主の存在は、防御よりも「見せる」こと、すなわち権力の演出を優先するという、価値観の根本的な転換を示すものであった。それは、もはや敵の侵入を恐れる段階にはないという絶対的な自信と、新しい時代の到来を告げる高らかな宣言に他ならなかった。

表1:主要戦国城下町の街路構造比較表

比較項目

安土(織田氏)

一乗谷(朝倉氏)

小田原(北条氏)

山口(大内氏)

立地・地形

湖上の独立峰

山間の谷

丘陵と沖積低地

盆地

都市コンセプト

天下人による新秩序の象徴

谷地形を利用した防御的生活拠点

城下町全体を要塞化する籠城拠点

「西の京」としての文化・政治中心地

主要街路の構造

幅広・直線の儀礼的空間(大手道)

防御を重視した矩折・T字路

比較的直線だが、虎口は喰違構造

京都を模した条坊制

防御施設の特色

城郭本体は堅固だが、大手道は見せる構造

城戸による谷の封鎖、山城との一体化

全長9kmに及ぶ巨大な総構(堀と土塁)

背後に山城(高嶺城)を置く

象徴的建築物

巨大な天主(権威の象徴)

当主館、庭園

(天守は後代)巨大な総構そのもの

大内氏館、瑠璃光寺五重塔

終章:安土城下町整備が後世に与えた影響

織田信長が心血を注いだ安土城とその城下町は、天正10年(1582年)の本能寺の変、そしてそれに続く山崎の戦いの後の混乱の中で炎上し、その歴史的役割をわずか数年で終えることとなった 23 。しかし、物理的には幻と消えたこの都が、その後の日本の歴史に与えた影響は計り知れないほど大きい。信長が安土に込めた思想は、後継者たちによって形を変えながらも確実に受け継がれ、近世日本の社会と都市のあり方を規定していくことになる。

信長の都市計画が示した最も重要な点は、新たな時代の権力者が、もはや単なる軍事力によってのみ天下を支配するのではない、ということであった。安土城と城下町は、圧倒的な経済力、最新の技術力、そして旧来の価値観を凌駕する壮大な構想力こそが、天下人の条件であることを天下に示した。それは、武力による支配から、権威と秩序のシステムによる支配への移行を象徴するものであった。

また、家臣団とその家族を城下に強制的に集住させる政策 5 は、武士を土地の束縛から解放し、大名に仕える官僚的な存在へと変質させる上で決定的な一歩となった。この政策は、後の豊臣政権における大名の配置転換や、江戸幕府による武家諸法度、そして参勤交代制度へと繋がる、近世的な武士支配の源流となったのである。

安土が示した壮麗な城郭と計画的な城下町というモデルは、信長の後継者たちに強烈なインスピレーションを与えた。天下を継いだ豊臣秀吉が築いた大坂城や聚楽第、そして新たな天下人となった徳川家康が江戸に建設した巨大な城郭と城下町は、その規模や様式において違いはあれど、権力者がその威光を示すために壮大な都市を建設するという思想において、安土の直接的な延長線上にある。日本の近世城郭都市の原型は、安土において創造されたと言っても過言ではない。

本レポートが検証してきた「瓦舗装」という言葉は、結局のところ、文字通りの事実ではなかった可能性が高い。しかし、その言葉が象徴する、壮麗な瓦屋根の建築群と美しく整備された石畳の道が織りなす革新的な都市景観の記憶は、信長が目指した新しい時代の輝きと、旧来の権威を否定し絶対的な権力者が支配する新たな秩序を都市空間として具現化するという彼の野心的なビジョンを、400年以上の時を超えて今なお我々に伝えている。安土は、炎上によってではなく、その革新的な思想によって、日本史に不滅の足跡を刻んだのである。

引用文献

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  2. 織田信長が戦国きっての”引っ越し魔”だったのは何故?安土に城を築き、京に築かなかった理由【後編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/236088
  3. 安土城の構造から読み解く信長の意思とは?|城郭考古学の冒険|千田嘉博 - 幻冬舎plus https://www.gentosha.jp/article/17691/
  4. 1578年 – 79年 御館の乱 耳川の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1578/
  5. 【信長、家臣の妻子を安土へ】1578年1月29日|Mitsuo Yoshida - note https://note.com/yellow1/n/nbb4d7aa50504
  6. 織田信長の理想と狂気が交差する安土城跡へ(日本100名城) - note https://note.com/sekitomomi/n/n96aae9398c63
  7. 信長と安土城 http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/aduti/
  8. 発掘が進む「幻の安土城」を知り体験する【八清の自由研究2024 その15】 https://www.hachise.jp/blog/hachise/202504/kensyu2024-15.html
  9. 信長と安土城 http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/aduti/index.html
  10. 遺跡散策 - 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 https://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/site/walk
  11. 遺跡のご紹介 - 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 https://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/site/
  12. 始まりの開始 -- 道路建設 http://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/canal16/urbanization_japan.htm
  13. 「幻の安土城」復元プロジェクトについて https://www.shigaken-gikai.jp/voices/GikaiDoc/attach/Nittei/Nt16750_01.pdf
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  24. 安土城跡から出土した鯱瓦について知りたい。 - レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000250925&page=ref_view
  25. 幻の安土城探訪 - 滋賀ガイド! https://www.gaido.jp/clickalbum/112560.html
  26. 安土城跡出土金箔瓦 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/46038
  27. 調査員のおすすめの逸品 No.11 金箔瓦-特別史跡安土城跡出土 - 滋賀県文化財保護協会 https://www.shiga-bunkazai.jp/shigabun-shinbun/recommended-relics/%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%93%A1%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81%E3%81%AE%E9%80%B8%E5%93%81%E3%80%80no-11/
  28. 「幻の安土城」復元プロジェクト https://www.shigaken-gikai.jp/voices/GikaiDoc/attach/Nittei/Nt19426_13.pdf
  29. 一乗谷朝倉氏遺跡とは?日本のポンペイと呼ばれる貴重な遺跡は、大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場しました - 福いろ https://fuku-iro.jp/feature/11
  30. 総構【小田原城街歩きガイド】 https://www.scn-net.ne.jp/~yanya/daigaikaku.htm
  31. 小田原城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/eastern-japan-castle/odawarajo/
  32. 小田原城とその城下 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/units/573897/1-20230323161444_b641bfc64a3d59.pdf
  33. 5分でわかる、「都市(城下町)」の映像授業 - 高校日本史B - Try IT https://www.try-it.jp/chapters-12583/lessons-12741/point-2/
  34. 大内氏館跡(おおうちしやかたあと) - 大路ロビー https://www.ojilobby.jp/yakata/
  35. 大内氏館跡(山口県山口市大殿大路)の歴史、観光情報、所在地、アクセス - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/oouchi-palace/
  36. 大内氏館跡:中国エリア - おでかけガイド https://guide.jr-odekake.net/spot/14502
  37. 安土城 - 滋賀県文化財保護協会 https://www.shiga-bunkazai.jp/wp-content/uploads/2023/06/kyoushitsu-063.pdf
  38. 「幻の安土城」復元プロジェクト・歴史セミナー:安土城築城450年記念・安土城跡発掘調査85周年記念・滋賀県立安土城考古博物館令和7年度秋季特別展連携事業「シンポジウム 天下人織田信長と安土城」|滋賀県ホームページ https://www.pref.shiga.lg.jp/kensei/koho/e-shinbun/oshirase/346126.html