最終更新日 2025-09-18

幕府禁教令公布(1612)

幕府、慶長十七年に禁教令を公布。信長・秀吉の政策を経て、家康はキリスト教を国策の脅威と見なし弾圧。岡本大八事件を機に全国へ拡大し、鎖国体制と寺請制度の礎を築いた。
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慶長十七年 禁教令への道程 ― 戦国から続く宗教摩擦の帰結

序章:禁教前史 ― 戦国時代におけるキリスト教の受容と摩擦

慶長17年(1612年)に徳川幕府が公布したキリスト教禁教令は、日本の近世史における画期的な出来事であった。しかし、この政策は決して突発的なものではなく、天文18年(1549年)のフランシスコ・ザビエル来日以来、半世紀以上にわたって日本の中央権力とキリスト教世界との間に蓄積されてきた複雑な関係性の必然的な帰結であった。戦国時代の為政者たちにとって、キリスト教は単なる「宗教」としてではなく、常に政治、経済、軍事と不可分の存在として認識されていた。その受容から摩擦、そして対立へと至る過程を理解することなくして、1612年の禁教令の本質を捉えることはできない。

織田信長の合理的政策

天下統一への道を突き進んだ織田信長は、キリスト教に対して保護的な姿勢を取ったことで知られる 1 。しかし、彼の政策は信仰心に根差したものではなく、極めて合理的な政治的判断に基づいていた。信長自身はキリスト教を信仰しなかったが、宣教師たちがもたらす南蛮文化、特に鉄砲や火薬といった最新の軍事技術、そして南蛮貿易がもたらす莫大な経済的利益に強い関心を示した 2

さらに重要なのは、信長がキリスト教を国内の政敵を牽制するための強力なカードとして利用した点である。当時、比叡山延暦寺や石山本願寺の一向一揆など、強大な武力と経済力を有する仏教勢力は、信長の天下統一事業における最大の障害の一つであった 3 。信長は、これらの伝統的権威に対抗する新たな勢力としてキリスト教を保護し、京都に南蛮寺の建設を許可するなど、その布教を容認した 2 。この政策は、仏教勢力への憎悪の裏返しであったとも言われ、信長の権力闘争の一環として、キリスト教は戦略的に活用されたのである 2

豊臣秀吉の警戒と政策転換

信長の後を継いだ豊臣秀吉も、当初はその対キリスト教政策を継承していた。しかし、天正15年(1587年)の九州平定を機に、その態度は一変する。秀吉は、キリシタン大名であった大村純忠が、要港である長崎をイエズス会に寄進していた事実を目の当たりにし、日本の領土が外国の宗教団体の管理下に置かれることに対して強い危機感を抱いた 6

この警戒心は、同年に発布された「伴天連追放令」として結実する 8 。この法令の背景には、複合的な要因が存在した。第一に、日本の神々を絶対視する「神国思想」と、唯一神を掲げるキリスト教とのイデオロギー的対立 10 。第二に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買が横行していることへの道義的な嫌悪感 12 。そして第三に、信仰の下に団結するキリシタン大名や信徒の存在が、自らの支配体制を脅かす政治的・軍事的脅威となり得ることへの深い懸念であった 6

秀吉の疑念を決定的なものとしたのが、慶長元年(1596年)のサン・フェリペ号事件である。土佐浦戸に漂着したスペイン船の乗組員が、「スペイン国王は、まず宣教師を派遣して信者を増やし、しかる後に軍隊を送ってその国を征服する」と発言したとの報告が秀吉の耳に入ると、彼は激怒した 6 。この事件は、布教が侵略の尖兵であるという秀吉の危惧を確信へと変え、宣教師6名と日本人信徒20名(少年も含む)を長崎の西坂の丘で処刑するという「日本二十六聖人殉教」へと繋がった 6 。これにより、日本におけるキリスト教弾圧は、新たな段階へと突入したのである。

戦国時代を通じて、日本の為政者にとってキリスト教は「信じるか否か」という宗教的問題ではなく、「利用できるか、危険か」という地政学的リスク管理の問題であった。信長はそれを国内の敵対勢力を弱体化させる「利用価値のあるツール」と見なし、秀吉は天下統一後にそのツールが自らの権力を脅かす「危険な外部勢力」へと変質したと認識した。したがって、徳川家康が直面した課題は、この秀吉の認識を継承しつつ、いかにしてリスクを最小化し、利益(貿易)を最大化するかという、より洗練された統治の問題だったのである。1612年の禁教令は、この長年の課題に対する徳川幕府の最終的な回答であった。

年代(西暦/和暦)

主要な出来事

関係人物

政策の方向性

1549年(天文18年)

ザビエル、キリスト教を伝来

フランシスコ・ザビエル

受容開始

1587年(天正15年)

豊臣秀吉、伴天連追放令を発布

豊臣秀吉、高山右近

警戒・制限へ転換

1600年(慶長5年)

リーフデ号漂着、関ヶ原の戦い

徳川家康、W・アダムス

宥和・実利主義(選択肢の増加)

1609年(慶長14年)

オランダ、平戸に商館を開設

徳川家康

カトリック依存からの脱却開始

1610年(慶長15年)

マードレ・デ・デウス号事件

有馬晴信、A・ペソア

不信感の増大

1612年(慶長17年)

岡本大八事件発覚、幕府禁教令公布(幕領限定)

徳川家康、岡本大八

政策の決定的転換

1613年(慶長18年)

禁教令を全国に拡大、「伴天連追放之文」公布

徳川秀忠、金地院崇伝

禁教の国策化・思想的正当化

1614年(慶長19年)

高山右近ら、マニラ・マカオへ追放

高山右近

弾圧の本格化

1637年(寛永14年)

島原の乱

天草四郎

禁教政策の破綻と強化

1639年(寛永16年)

ポルトガル船の来航を禁止(鎖国の完成)

徳川家光

対外関係の最終的整理

第一章:徳川家康の対キリスト教政策の変遷 ― 容認から警戒へ

関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603年)に江戸幕府を開府した徳川家康は、当初、秀吉の禁教政策を実質的に棚上げし、貿易による利益を優先する宥和的な姿勢を取った 16 。しかし、その水面下では、カトリック勢力への依存から脱却し、幕府の絶対的な支配体制を確立するための布石が着々と打たれており、その政策は実利主義的な容認から、イデオロギー的な警戒へと徐々に、しかし確実に移行していった。

初期の宥和政策と実利主義

家康は、秀吉の政策を継承する形で朱印船貿易を積極的に奨励し、日本人の商船が東南アジア各地へ進出するのを後押しした 17 。この時代、日本の貿易商は各地に日本人町を形成するほどの活況を呈した 19 。この時点において、ポルトガルやスペインとの南蛮貿易は依然として日本の経済にとって重要であり、家康は貿易の仲介役を担う宣教師たちの活動を黙認していた 16

この宥和的な政策の下、日本のキリスト教徒の数は増加を続け、その最盛期には30万人から37万人以上に達したと推定されている 7 。家康は宣教師が持つ貿易仲介能力を利用して経済的利益を確保することを期待し、キリスト教の布教を容認していたのである 19

ゲームチェンジャーの到来 ― オランダとイギリス

家康の対ヨーロッパ戦略を根底から変える画期的な出来事が、関ヶ原の戦いの直前、慶長5年(1600年)4月に起こる。オランダ船リーフデ号が豊後臼杵(現在の大分県)に漂着したのである 21 。家康は、同船の航海士であったイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)やオランダ人ヤン・ヨーステンらを外交顧問として重用し、彼らからヨーロッパにおけるカトリックとプロテスタントの深刻な対立という、それまで日本には十分に伝わっていなかった国際情勢の実態を学んだ。

家康にとって決定的だったのは、オランダやイギリスといったプロテスタント国が、カトリック国であるポルトガルやスペインとは異なり、貿易と布教活動を一体化させていないという事実であった 19 。これは、幕府にとって「布教という政治的リスクを負うことなく、貿易という経済的利益のみを享受できる」という、まさに理想的な選択肢の出現を意味した。

この新たな選択肢は、慶長14年(1609年)にオランダが、そして慶長18年(1613年)にはイギリスが平戸に商館を開設したことで現実のものとなった 19 。これにより、幕府はポルトガルやスペインに代わる安定した貿易ルートを確保し、カトリック勢力に依存せずとも南蛮貿易を継続できる体制を整えた。家康の政策転換は、単なる心変わりではなかった。それは、貿易相手の多様化による「カトリック勢力の戦略的価値の低下」と、国内統治体制の確立に伴う「キリスト教義のイデオロギー的危険性の増大」という、二つの大きな歴史的潮流が交差した必然的な帰結だったのである。

幕藩体制とキリスト教義の根本的矛盾

家康が築こうとしていた幕藩体制は、将軍を頂点とし、大名、武士、農民、職人、商人という厳格な身分制度と、主君への絶対的な忠誠を基盤とする封建的な秩序であった。しかし、キリスト教の教義は、この幕府の統治イデオロギーと根本的に相容れない要素を含んでいた。「神の前では全ての人間は平等である」という教えは、幕府が規定する身分制度の根幹を揺るがしかねない 22

さらに深刻なのは、信徒が領主や将軍よりも上位の権威、すなわち唯一神デウスやローマ教皇に服従することを教える点であった。これは、主君への忠誠を絶対とする武士の道徳に反するだけでなく、幕府の支配体制そのものへの挑戦と受け止められた。かつて家康自身が三河一向一揆で、宗教的結束の下に家臣にまで背かれた苦い経験を持つことも、この問題への警戒心を強めさせた一因であろう 23

当初、家康にとってカトリック勢力は「唯一の欧州貿易窓口」として戦略的価値が高かった。しかし、オランダとイギリスの登場でその価値は相対的に低下し、「代替可能な貿易相手」の一つに格下げされた。時を同じくして、幕藩体制の整備が進むにつれ、キリスト教の教えが持つ反封建的な側面が、看過できない統治上のリスクとして顕在化した。価値が低下し、リスクが増大したカトリック勢力を排除することは、家康にとって合理的な政策判断となり、禁教への道が整えられていったのである。

第二章:導火線 ― マードレ・デ・デウス号事件と岡本大八事件

徳川家康の宥和的な対キリスト教政策を、不可逆的な弾圧へと転換させる直接的な引き金となったのが、慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)にかけて連鎖的に発生した二つの重大事件である。肥前国(現在の長崎県・佐賀県)のキリシタン大名・有馬晴信が深く関わったこれらの事件は、幕府内に渦巻いていたキリスト教への不信感を一挙に爆発させ、全国的な禁教という強硬策への移行を決定づけた。

【慶長13年-15年】発端から報復へ ― マードレ・デ・デウス号事件

事件の発端は、慶長13年(1608年)、有馬晴信がチャンパ(ベトナム南部)に派遣した朱印船が、帰途にマカオへ寄港した際に起こった 24 。船の乗組員がポルトガル人との間で騒擾事件を起こし、晴信側の水夫に多数の死者が出るという事態に発展したのである 26

この報告を受けた家康は激怒し、事件の責任者であったポルトガル船隊司令官アンドレ・ペソアの捕縛と、彼が乗船するマードレ・デ・デウス号(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号とも呼ばれる)の拿捕を、報復として有馬晴信に命じた 25

慶長14年(1609年)12月、ペソアが乗る同号が長崎に入港すると、晴信は幕府の許可を盾に軍船を率いてこれを包囲した 24 。長崎奉行・長谷川藤広と、家康が派遣した目付役の岡本大八が見守る中、4日4晩にわたる激しい海戦が繰り広げられた 26 。追い詰められた司令官ペソアは、船が拿捕されることを潔しとせず、船の火薬庫に火を放ち、積載されていた巨万の富と共に自爆を遂げた 25 。この事件は、家康の命令によるものでありながら、結果としてポルトガルとの外交問題に発展し、キリシタン大名が絡む国際紛争の扱いにくさを幕府に痛感させることとなった。

【慶長16年-17年】汚職と欺瞞 ― 岡本大八事件

マードレ・デ・デウス号撃沈という大手柄を立てた有馬晴信は、その恩賞として、かつて失った旧領(肥前三郡)の回復を強く望んでいた 24 。そこに目をつけたのが、家康の側近中の側近であった本多正純の与力(配下)であり、自身もパウロという洗礼名を持つキリシタンであった岡本大八である 28

大八は晴信に近づき、「旧領回復が実現するよう、主君の正純を通じて大御所家康公に働きかけましょう」と持ちかけ、その運動資金と称して晴信から6000両にもおよぶ巨額の賄賂を騙し取った 26 。さらに、事を信用させるため、家康の朱印状(許可証)まで偽造して晴信に渡すという大胆な詐欺行為に及んだ 26

しかし、いつまで経っても恩賞が実現しないことを不審に思った晴信が、慶長17年(1612年)の春、本多正純に直接問い合わせたことで、大八の全ての虚偽が白日の下に晒された 26 。事態を重く見た家康は、駿府町奉行に命じて大八を捕縛 26 。厳しい尋問の末、大八は朱印状偽造の罪を認めたが、自己保身のためか、「有馬晴信が長崎奉行の長谷川藤広を暗殺しようと計画していた」と逆告発したのである 26

この事件が幕府に与えた衝撃は、単なる一役人の汚職の露見に留まらなかった。問題の本質は、当事者であるキリシタン大名の有馬晴信と、幕府の中枢に近い幕臣の岡本大八が、共にキリシタンであったという事実である 28 。家康の側近の配下が、キリシタン大名と結託して将軍の朱印状を偽造し、幕政を欺いて私腹を肥やす。これは、信仰を介した「見えざるネットワーク」が、幕府の公式な指揮命令系統を蝕み、腐敗と陰謀の温床となっている証左と見なされたのである。この「内部からの脅威」は、これまで漠然と抱かれていた「外部からの脅威」よりも遥かに深刻であり、家康にキリスト教コミュニティそのものを根絶やしにすべきだという最終的な決断を促すのに、十分すぎるほどの根拠を与えたのであった。

第三章:慶長十七年三月二十一日 ― 禁教令公布のリアルタイム

慶長17年(1612年)3月21日。この日は、岡本大八事件の裁決が下されると同時に、徳川幕府がキリスト教に対する基本政策を不可逆的に転換させた、日本の宗教史における運命の一日となった。この日に駿府で起こった出来事を時系列で再構成することで、幕府が示した断固たる意志とその周到な政治的演出を浮き彫りにすることができる。

午前~午後:駿府安倍川河原にて

この日、朱印状偽造と収賄の大罪を犯した岡本大八は、駿府の市中を引き回された上、安倍川の河原において火刑に処せられた 26 。火刑は、罪人に対して与えられる最も重い刑罰の一つであり、その公開処刑は、幕府の権威に逆らう者への見せしめとして、諸大名や民衆に強烈な印象を与えることを目的としていた 34 。この残酷な処刑方法の選択自体が、幕府の揺るぎない意志を可視化するものであった。

同日:駿府城にて

岡本大八の処刑が執行された、まさにその同日、大御所・徳川家康の居城である駿府城において、キリスト教を禁止する法令が公式に発布された 26 。この「処刑」と「法令公布」の同時性は、決して偶然ではない。幕府は、「岡本大八のようなキリシタンによる国家を揺るがす悪事を防ぐために、この宗教そのものを禁じるのだ」という明確な物語を構築し、禁教政策を正当化するための高度な政治的演出を行ったのである。個人の罪を、その者が属する宗教全体の罪へと意図的に転嫁・拡大させたのだ。

直後の執行と初期の適用範囲

注目すべきは、この時点での禁教令が全国一律のものではなかった点である。その適用範囲は、まず幕府の直接支配が及ぶ 天領(直轄地)と、将軍直属の家臣である直参旗本 に限定されていた 19 。これは、まず自らの足元を固め、外様大名などからの直接的な反発を避けつつ、政策を段階的に浸透させていこうとする、家康らしい周到な手際であった。これにより、「将軍のお膝元ですら許されないのだから、いずれは諸藩も同様になる」という無言の圧力をかける効果も意図されていた。

法令の公布と同時に、幕府の重要拠点である駿府、江戸、京都において、教会の破壊が即座に命じられた 30 。また、幕臣やその領民の中からキリシタンが摘発され、棄教が厳しく強制された。信仰を捨てない者は、改易(領地没収)などの厳しい処分を受けた 26 。家康の側室であったジュリアおたあでさえ、信仰を貫いたために伊豆大島へと流罪に処せられており 26 、禁教の意志がいかに固いものであったかを示している。この一連の流れは、禁教という強硬策を、単なる宗教弾圧ではなく、国家の綱紀粛正の一環であるかのように見せるための、計算され尽くした政治行動だったのである。

第四章:禁教令の拡大と「伴天連追放之文」― 思想的背景と全国への浸透

慶長17年(1612年)に幕府直轄地と直参旗本に限定して発布された禁教令は、翌年には全国規模へと拡大し、徳川幕府の揺るぎない国策として確立される。この過程において幕府は、単なる武力による弾圧に留まらず、キリスト教を「邪宗」と断罪する強固なイデオロギーを構築し、禁教政策に思想的な正当性を与えた。その中核をなしたのが、家康の政治的ブレーンによって起草された「伴天連追放之文」であった。

【慶長18年(1613年)】禁教令の全国拡大

前年の限定的な禁教令から一年、幕府は満を持して、その適用範囲を全国の諸大名領にまで拡大することを布告した 19 。これにより、キリシタン禁制は一部地域の法令から、日本の全ての領民を対象とする普遍的な国策へとその性格を変えた。各藩は、幕府の厳命に従い、領内でのキリスト教の取り締まりを開始せざるを得なくなった。

【慶長18年12月】「伴天連追放之文」の起草と公布

政策の永続性を担保するためには、岡本大八事件という特定の事件だけでなく、より普遍的で高次な理由付けが必要であった。この思想的基盤を構築する役割を担ったのが、家康の側近であり、「黒衣の宰相」とも呼ばれた臨済宗の僧・金地院崇伝であった 36

慶長18年12月(西暦1614年1月)、家康の命を受けた崇伝は、「伴天連追放之文」として知られる布告文を起草した 30 。この文書は、二代将軍・徳川秀忠の名で全国の大名に通達され、幕府がなぜキリスト教を禁じるのか、その思想的根拠を内外に明確に示した 26

追放文の論理構成 ― なぜキリスト教は「邪宗」なのか

「伴天連追放之文」は、巧みな論理構成によってキリスト教を断罪し、その追放を正当化している。その骨子は以下の三点に集約される。

  1. 神国論: 文書の冒頭で「夫日本者神國也(それ、日本は神国なり)」と宣言し、日本の伝統的な神仏習合の価値観を絶対的なものとして位置づける 11 。これは、異質な外来思想を排除するための文化的・思想的防衛線を張ることを意味した。
  2. 正邪二元論: 日本古来の神道と仏教を「正宗」と規定し、それに対してキリスト教を、人々を惑わし、国を乱す「邪法」「邪宗」であると明確に断定する 30 。これにより、両者を対等な宗教としてではなく、善と悪、正統と異端という非対称な関係に位置づけた。
  3. 侵略論: キリスト教の布教活動は、単なる宗教行為ではなく、「日本の政治を改変し、国家を簒奪するための手段」であると断じる 30 。これは、サン・フェリペ号事件以来、為政者が抱き続けてきた警戒心を公式に明文化したものであり、キリシタンを「信仰者」から「侵略の尖兵」へと再定義するものであった。

これらの論理に基づき、追放文は、キリスト教を禁圧することは、国家の安寧と伝統的秩序を守るための当然の措置であり、「後之禍(のちのわざわい)」を未然に防ぐための国策であると結論付けている 38

この「伴天連追放之文」は、禁教政策を単なる「政治的判断」から、「思想的・文化的防衛」という崇高な次元へと昇華させるための、極めて効果的なプロパガンダ文書であった。これにより、幕府はキリシタンへの苛烈な弾圧に道徳的・思想的な大義名分を与え、二百数十年続く禁教体制のイデオロギー的基盤を盤石なものとしたのである。

第五章:追放と殉教 ― 高山右近の国外退去と国内における弾圧の激化

全国禁教令と「伴天連追放之文」の公布を受け、徳川幕府はキリスト教を根絶するための具体的な弾圧行動を本格化させた。その象徴的な出来事が、大名の地位を捨ててまで信仰を貫き、全国のキリシタンから精神的支柱として仰がれていた高山右近の国外追放であった。彼の追放と並行して、国内に残った信徒への弾圧は凄惨を極め、日本の地は殉教者たちの血で染められていくことになる。

【慶長19年(1614年)】追放と教会の破壊

慶長19年(1614年)、幕府は全国の宣教師と、棄教を拒む有力な日本人信徒を国外へ追放する命令を下した 15 。その最大の標的とされたのが、加賀藩主・前田利長の庇護下にあった高山右近であった 42 。右近は幕府の棄教命令を断固として拒否。これを受け、一族と共に身柄を拘束され、長崎へと送致された 43

同年9月、右近をはじめとする宣教師や信徒たちはマカオやマニラへと追放された 26 。右近は11月に長崎を出航し、フィリピンのマニラに到着したが、長旅の疲労と慣れない気候のため熱病にかかり、翌慶長20年(1615年)2月、異郷の地でその生涯を閉じた 43 。彼の追放は、幕府が「もはやこの国にキリシタンの居場所はない」という絶望的なメッセージを全信徒に送る、精神的な斬首ともいえる措置であった。また、この追放劇の背景には、同年に勃発する大坂の陣を前に、豊臣方とキリシタン勢力が結びつくことを家康が強く警戒していたという、政治的・軍事的思惑も存在した 30

追放と時を同じくして、長崎や京都などに残っていた教会は徹底的に破壊された 14 。その跡地には、キリスト教の記憶を抹消するかのように、仏教寺院などが次々と建立されていった 48

弾圧システムの構築と深化

指導者を失った国内のキリシタンに対する弾圧は、組織的かつ残忍なものへとエスカレートしていった。幕府の目的は、単に殺害することではなく、棄教を強制し、信仰共同体を内側から崩壊させることにあった。

そのために、人間の尊厳を砕くための様々な拷問が考案され、実行された 14 。柱に縛り付けて遠火で長時間炙る「火あぶり」、棄教を誓えば縄を解くと囁きながら逆さ吊りにする「穴吊り」、そして雲仙地獄の熱湯を浴びせかける責め苦など、肉体的な苦痛を極限まで長引かせることで精神を屈服させようとする、残忍な手法が用いられた 23

幕府の厳命を受け、各藩も宗門改めを強化した。特に、かつて有馬氏や大村氏といったキリシタン大名の領地であった九州地方では、凄惨な弾圧が繰り広げられた 23 。弾圧は次第に大規模化・公開化し、元和8年(1622年)には長崎で宣教師や信徒55名が一斉に火刑や斬首に処される「元和の大殉教」が発生 26 。これらの見せしめは、他の信徒に恐怖を植え付け、「転ぶ(棄教する)」か「殉教する」かの過酷な二者択一を迫るものであった。この物理的・心理的弾圧の体系化は、後の寺請制度や鎖国へと繋がる、徳川幕府の社会統制システムの萌芽であったと言える。

終章:禁教令が遺したもの ― 寺請制度、鎖国、そして潜伏キリシタン

慶長17年(1612年)の禁教令は、単発の法令として歴史に埋もれることはなかった。それは、その後の日本の社会構造、宗教観、そして対外関係のあり方を決定づける巨大な分水嶺となった。禁教を徹底するために生み出された制度は二百数十年にわたって人々を縛り、キリスト教の脅威を理由に断行された外交政策は、日本を世界の潮流から隔絶させる「鎖国」体制を完成させたのである。

禁教政策の制度化

幕府は、一度きりの弾圧ではなく、キリシタンを恒久的に社会から排除するためのシステムを構築した。その根幹をなしたのが「宗門改」と「寺請制度」である。

  • 宗門改と寺請制度: 幕府は、全国の民衆を宗教的に把握・管理するため、定期的に宗門改(宗旨人別改)を実施した 52 。さらに、すべての人々がいずれかの仏教寺院の檀家となることを義務付け、その寺院が檀家の一人ひとりがキリシタンではないことを証明する「寺請証文」を発行する
    寺請制度 を確立した 52 。これは事実上、仏教を国教化すると同時に 55 、寺院を幕府の末端行政機関として利用する、巨大な宗教的戸籍制度であった。これにより、人々の移動、結婚、就職といった生活のあらゆる局面が寺院の管理下に置かれた。
  • 絵踏(踏絵): 特にキリシタンが多く潜伏していると見なされた長崎をはじめとする九州地方では、キリストや聖母マリアが描かれた板や金属製の像(踏絵)を踏ませることで信仰を炙り出す、 絵踏 という手法が導入された 7 。これは、信徒にとって最も過酷な信仰の試練であり、日本の禁教政策を象徴する制度として後世に知られることとなる。

島原の乱と鎖国の完成

禁教令がもたらした最大の悲劇であり、また幕府の対外政策を最終的に決定づけたのが、寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱であった。島原・天草地方における領主の過酷な年貢の取り立てと、苛烈なキリシタン弾圧が引き金となり、多くのキリシタン信徒を含む農民たちが大規模な一揆を起こした 57

幕府はこの鎮圧に約半年を要し、多大な犠牲を払ったことで、キリスト教が持つ潜在的な抵抗力と団結力への脅威を改めて認識した 58 。そして、この乱を「キリシタンの反乱」と断定し、その背後にカトリック国であるポルトガルの存在があるとして、これを口実に外交関係の最終的な整理に乗り出した。寛永16年(1639年)、幕府はポルトガル船の来航を完全に禁止し、貿易相手をプロテスタント国のオランダと、キリスト教とは無関係の中国のみに限定する、いわゆる「鎖国」体制を完成させたのである 19

二百数十年の潜伏

幕府による徹底的な弾圧と監視体制によって、表向きキリスト教は日本から根絶されたかに見えた。しかし、一部の信徒は、表面的には仏教徒として振る舞いながら、密かにキリスト教の信仰を世代から世代へと受け継いでいった。彼ら「潜伏キリシタン」は、宣教師も聖書もない中で、口伝えの祈り(オラショ)や独自の信仰形態を守り続けた。彼らの信仰が再び歴史の表舞台に現れるのは、幕末の開国によって欧米の宣教師が再来日する、二百数十年後を待たねばならなかった 32

1612年の禁教令は、日本の「内」と「外」を再定義する画期であった。国内的には、宗教を介した国民監視システムを創出し、対外的には、特定の国との関係を断絶して管理貿易体制を完成させる直接的な原因となった。この一連の政策は、徳川幕府の長期安定と引き換えに、日本の社会を内向きにし、世界史の大きな潮流から長期間にわたって隔絶させるという、巨大な歴史的遺産を残したのである。

引用文献

  1. 織田信長が行った政策の狙いは?政治や経済への影響をわかりやすく紹介 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/odanobunaga-policy/
  2. 織田信長は、なぜキリスト教を保護したの https://kids.gakken.co.jp/box/syakai/06/pdf/B026109050.pdf
  3. 織田信長(おだのぶなが)の政治について - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/~gakusyuu/rekisi/odanobunagaseizi.htm
  4. 授業「世界の動きと統一事業Ⅱ~キリスト教・織田信長~」|社会|中1|群馬県 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=7qowDb4xNew
  5. ①ヨーロッパ人との出会い ②織田信長の統一事業 - 群馬県ホームページ https://www.pref.gunma.jp/uploaded/attachment/41464.pdf
  6. キリシタン史 秀吉の伴天連追放令 https://www.collegium.or.jp/~take/christi/rekisi2.html
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