最終更新日 2025-09-16

武田信玄死去(1573)

武田信玄は西上作戦中に病死。信長包囲網の一角として上洛を目指したが、三方ヶ原の戦いで徳川家康を破った後、病状が悪化し甲斐への帰途で死去。その死は信長包囲網の瓦解を招き、戦国史の転換点となった。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

武田信玄の死(1573年):西上作戦の頓挫と戦国史の転換点

序章:西上作戦、発動 ― 天下への最後の賭け

元亀3年(1572年)、甲斐の虎・武田信玄がその生涯最後にして最大規模の軍事行動、世に言う「西上作戦」を発動した。この作戦の最終局面で迎えた信玄の死は、単なる一武将の死に留まらず、織田信長による天下統一事業の行方を左右し、戦国時代のパワーバランスを根底から覆す決定的な転換点となった。本報告書は、信玄の死という事変を、その背景となる政治情勢、作戦の真の目的、そして死に至るまでの詳細な軍事行動の時系列を追うことで、リアルタイムの緊迫感と共に多角的に分析するものである。

元亀年間の政治情勢:信長包囲網の形成

西上作戦が開始された当時、畿内では織田信長と室町幕府第15代将軍・足利義昭との対立が先鋭化していた。当初、信長によって擁立された義昭であったが、次第に信長が幕府の権威を凌駕していく状況を危惧し、その影響力を相対的に弱めるべく、各地の有力大名に御内書を下し、反信長勢力の結集を密かに画策していた 1 。この呼びかけに、近江の浅井長政、越前の朝倉義景、摂津の三好三人衆、そして石山本願寺などが呼応し、第二次「信長包囲網」が形成されつつあった。

武田信玄もまた、この包囲網の最重要人物として義昭から大きな期待を寄せられていた。元亀3年(1572年)5月13日には、義昭から信玄に対し「天下静謐」への尽力を求める御内書が送られており、信玄もまた大和の松永久秀と連携し、上洛の際には格別の話をすると伝えるなど、畿内への進出に明確な意欲を示していた 2 。これに対し信長は、元亀2年(1571年)9月の比叡山延暦寺焼き討ちを断行するなど、各地の反抗勢力を各個撃破することで包囲網の切り崩しを図っており、情勢は緊迫の度を増していた 1

信玄の決断:西上作戦の真の目的を巡る諸説

信玄が西上作戦に踏み切った真の目的については、今日に至るまで様々な説が提示されており、単一の目的であったとは考えにくい。

第一に、最も一般的な解釈である「上洛・天下取り説」である。これは、信長を打倒し、将軍義昭を奉じて天下に号令することが最終目的であったとする見方である 4 。当時の武田家の石高は、駿河を併合した後でも約100万石に過ぎず、畿内を抑え約300万石を領する信長の三分の一程度であった 6 。この経済的劣勢を覆すため、上洛によって将軍の後ろ盾という政治的権威を獲得し、経済的限界を打破しようとしたという分析も存在する 6

第二に、「徳川領侵攻・切り取り説」である。上洛はあくまで大義名分であり、主目的は長年の懸案であった徳川家康の領国、遠江・三河を制圧することにあったとする説も有力である 4 。事実、武田軍のその後の動きは、家康の本拠地である浜松城を直接攻撃せず、周辺の支城を一つずつ確実に切り取っていくものであり、この説の合理性を裏付けている 8

これらの説に対し、より複合的な視点も提示されている。歴史家・乃至政彦氏は、信玄が越後(上杉謙信)、美濃(織田信長)、三河(徳川家康)という三つの攻撃目標を巧みに天秤にかけ、対外的には複数の可能性を示唆することで敵の連携を阻害し、最終的に最もリスクは高いが戦略的価値も大きい三河侵攻を選択したと分析している 5 。この決断の背景には、三河国人衆である山家三方衆からの内通の約束があったことも大きい 5

武田と織田・徳川の関係は、当初は同盟関係にあった 3 。しかし、永禄11年(1568年)の信玄による駿河侵攻が、徳川との領地分割の約束を事実上反故にする形で行われたことで両者の関係は悪化 10 。決定打となったのは、信長による比叡山焼き討ちであった。仏門に帰依していた信玄にとって、この暴挙は到底容認できるものではなく、両者の対立はもはや避けられないものとなった 3 。西上作戦の報に接した信長は、信玄を「前代未聞の無道者」と激しく非難し、未来永劫手を結ぶことはないと絶縁を宣言する書状を送っている 2

この作戦は、信玄の健康問題という内的要因によって、成功確率が低くとも実行せざるを得なかった「最後の賭け」であった可能性も指摘されている。信玄は出陣前から健康を害していたとされ、作戦遂行には時間的制約があった 9 。武田家の経済的限界と信玄自身の生命の限界、この二つの内的圧力が、最もリスクの高い徳川領侵攻へと彼を駆り立てたのかもしれない。

出陣:甲斐を発つ武田軍

元亀3年(1572年)10月3日、信玄は遂に決断を下す。総勢3万ともいわれる大軍を率いて、本拠地である甲府の躑躅ヶ崎館を出陣した 2 。軍団は大きく二手に分かれて進軍を開始した。

  • 本隊: 武田信玄自らが率いる約2万2千(うち北条氏からの援軍2千を含む)。信濃国の青崩峠を越え、徳川領の遠江国へと侵攻するルートをとった 12
  • 別働隊: 重臣の山県昌景と秋山虎繁が率いる約5千。信濃国から三河国へ直接侵攻し、徳川領を東西から挟撃する形を整えた 13

この出陣は、信長包囲網を形成する浅井・朝倉氏にも即座に伝えられ、共同作戦を促すことで、信長を東西から牽制する狙いがあった 2 。甲斐の虎による、天下の情勢を揺るがす最後の大遠征が、こうして始まったのである。

【表1】西上作戦から信玄死去までの詳細年表

年月日 (西暦)

場所

主要な出来事

関連勢力の動向

元亀3年9月29日 (1572)

三河・武節城

山県昌景隊、三河侵攻を開始。武節城などを攻略。

徳川家康、領内防衛体制を強化。

元亀3年10月3日 (1572)

甲府

武田信玄、本隊を率いて出陣。青崩峠経由で遠江へ。

織田信長、この時点では信玄出陣を把握せず、上杉との和睦を斡旋 2

元亀3年10月13日 (1572)

遠江北部

信玄本隊、犬居城に入り、天方城など徳川方の諸城を1日で攻略。

北遠江の国人・天野景貫らが武田方に寝返る 14

元亀3年10月14日 (1572)

遠江・一言坂

一言坂の戦い。徳川軍が敗走。

本多忠勝、殿軍で見事な働きを見せる 14

元亀3年10月16日 (1572)

遠江・二俣城

武田軍、二俣城の包囲を開始。

家康、浜松城で籠城の構え。信長に援軍を要請。

元亀3年11月20日 (1572)

(書状)

信長、信玄の侵攻を知り、絶縁状を送る。

信長、佐久間信盛らを援軍として派遣 2

元亀3年12月19日 (1572)

遠江・二俣城

二俣城、水の手を断たれ開城。

遠江の国人の多くが武田方になびく 16

元亀3年12月22日 (1573/1/25)

遠江・三方ヶ原

三方ヶ原の戦い。織田・徳川連合軍が大敗。

家康、命からがら浜松城へ逃げ帰る 9

天正元年1月 (1573)

三河・野田城

武田軍、三河に侵攻し野田城を包囲。

菅沼定盈、500の兵で籠城。

天正元年2月10日頃 (1573)

三河・野田城

野田城開城。しかし、信玄の病状が悪化。

武田軍の進軍が停滞。

天正元年3月 (1573)

三河・長篠城

信玄、療養のため長篠城、鳳来寺へ移る。

武田軍、甲斐への撤退を決定。

天正元年4月12日 (1573)

信濃・駒場

武田信玄、帰国の途上で死去。享年53。

武田家臣団、遺言に従い死を秘匿し、撤退を続ける。

第一章:遠江・三河侵攻の序盤戦 ― 徳川領を揺るがす

西上作戦の火蓋は、徳川家康の領国である遠江・三河で切られた。武田軍は圧倒的な兵力と周到な戦略をもって徳川領を席巻し、序盤戦においてその優位を決定的なものとした。この一連の戦いは、武田軍の総合力の高さと、信玄の戦略目標が徳川軍主力の殲滅にあったことを明確に示している。

一言坂の戦い(元亀3年10月):徳川軍との初戦

信玄率いる本隊の進軍速度は、徳川家康の予測を遥かに上回っていた 14 。家康は、武田軍の天竜川渡河を阻止すべく、自ら3,000の兵を率いて浜松城から出陣した。しかし、偵察のために先行させていた本多忠勝・内藤信成の部隊が、武田軍の先鋒である馬場信春隊と遠江国一言坂(現在の静岡県磐田市)付近で遭遇。徳川軍にとって全く望まぬ形での開戦となった 14

徳川軍3,000に対し、武田軍は先鋒部隊だけで5,000、その後方には信玄本隊が控えるという絶望的な兵力差であった 14 。状況を即座に判断した家康は、全軍に撤退を命令。この極めて困難な撤退戦において、殿(しんがり)を務めたのが本多忠勝であった 14 。忠勝は地形的に不利な坂の下に陣取り、蜻蛉切の槍を振るって獅子奮迅の働きを見せた。馬場信春隊の猛烈な追撃を食い止め、家康本隊を無事に浜松城へと逃すことに成功したのである 18 。この忠勝の武勇は敵である武田方からも高く評価され、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」という有名な落首が生まれたと伝えられている 15

二俣城の攻略(元亀3年10月~12月):遠江の要衝を巡る攻防

一言坂で徳川軍を退けた信玄は、休むことなく次の戦略目標へと駒を進めた。元亀3年10月16日、武田軍は2万7千の大軍をもって、遠江支配の要であり、浜松城と他の支城を結ぶ連絡線上に位置する二俣城を包囲した 16 。城を守る城将・中根正照以下の城兵は、わずか1,200名に過ぎなかった 16

二俣城は天竜川と二俣川の合流点にある断崖上に築かれた天然の要害であり、力攻めは容易ではなかった 16 。信玄は無用な損害を避け、時間をかけて城を攻略する策を選んだ。これは、自軍の兵力を温存すると同時に、家康が支城を見捨てられずに浜松城から救援に出撃してくること、すなわち野戦に誘い出すことを期待した布石でもあった。

信玄が突いたのは、二俣城の唯一にして最大の弱点であった。城内には井戸がなく、天竜川に面した断崖に井戸櫓(いどやぐら)を設け、そこから滑車を使って水を汲み上げていたのである 21 。この情報を掴んだ信玄は、武田軍の工兵技術を駆使した奇策を敢行する。天竜川の上流から大量の筏を組んで流させ、井戸櫓の支柱に激突させて破壊するというものであった 16 。この作戦は成功し、水の手を完全に断たれた二俣城は、籠城を続けることが不可能となった。

元亀3年12月19日、城将・中根正照は、城兵の助命を条件に開城を決断。徳川方の遠江における重要拠点は、約2ヶ月の攻防の末に武田の手に落ちた 16 。この二俣城の陥落は、周辺で日和見を決め込んでいた国人衆の去就に決定的な影響を与え、その多くが武田方へと寝返る結果を招いた 16 。徳川家康は、遠江における支配基盤を大きく揺るがされることになったのである。

第二章:三方ヶ原の激闘 ― 家康、生涯最大の敗北

二俣城の陥落により、遠江北部の支配権を確立した武田信玄は、いよいよ徳川家康の本拠地・浜松城へとその矛先を向けた。しかし、信玄が選択したのは力による攻城戦ではなく、敵将の心理を巧みに操り、自らが望む戦場へと誘い出す、高度な心理戦であった。この結果として引き起こされた三方ヶ原の戦いは、家康にとって生涯で最大かつ最も屈辱的な敗北となり、彼のその後の人生に決定的な影響を与えることになる。

【表2】三方ヶ原の戦いにおける両軍の兵力と主要武将

陣営

総兵力 (推定)

陣形

主要武将

武田軍

約25,000~30,000

魚鱗の陣

総大将: 武田信玄 先鋒・主力: 山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、高坂昌信、穴山信君、小山田信茂

徳川・織田連合軍

約11,000

鶴翼の陣

総大将: 徳川家康 徳川方: 酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政、夏目吉信 (戦死) 織田方援軍: 佐久間信盛、平手汎秀 (戦死)、水野信元

戦いの前夜(元亀3年12月22日):信玄の挑発と家康の決断

二俣城を攻略した武田軍は、南下して浜松城を直接攻撃するかに見せかけ、突如として進路を西に変更した。浜松城を意図的に無視し、その北に広がる三方ヶ原台地を横断して三河方面へ進軍するかのような動きを見せたのである 23 。これは、籠城を決め込む家康を野戦の場に引きずり出すための、信玄による巧妙な挑発であった。

敵の大軍に自らの居城を素通りされるという屈辱は、若く血気盛んな家康のプライドを激しく刺激した。酒井忠次をはじめとする多くの家臣や、織田からの援軍の将たちが、兵力差の大きさから籠城を主張したが、家康はこれを退け、武田軍の背後を突くべく出陣を決意する 23 。徳川軍約8,000、織田からの援軍約3,000を合わせた連合軍の総兵力は11,000。対する武田軍は25,000以上と、その兵力差は倍以上であった 23 。信玄は、家康の若さと気性を完璧に読み切り、戦いの主導権を完全に掌握していた。

両軍の布陣:魚鱗 対 鶴翼

三方ヶ原台地で対峙した両軍は、対照的な陣形を敷いた。信玄率いる武田軍は、軍を複数の隊に分け、魚の鱗のように配置することで、中央突破力と柔軟な波状攻撃を可能にする攻撃的な陣形「魚鱗の陣」を展開した 13 。一方、家康率いる徳川・織田連合軍は、両翼を広げて敵を包囲殲滅することを目指す「鶴翼の陣」でこれに応じた 13 。しかし、鶴翼の陣は自軍が敵よりも兵力で勝る場合に有効な陣形であり、寡兵である連合軍がこの陣形を選択したことは、戦術的には悪手であった。信玄の挑発に乗せられ、冷静な判断力を失っていたことの証左とも言える 27

合戦の経過:徳川軍の総崩れ

元亀3年12月22日の申の刻(午後4時頃)、遂に合戦の火蓋が切られた 2 。武田軍はまず、水役者と呼ばれる投石専門部隊による攻撃で連合軍の陣形を乱し、間髪入れずに魚鱗の陣の第一波が徳川軍の中央へと殺到した 2 。鶴翼の陣は構造的に中央が手薄になる弱点があり、信玄はその弱点を的確に突いたのである 13

武田軍の猛攻は凄まじく、戦闘開始からわずか2時間ほどで徳川・織田連合軍は総崩れとなった。織田からの援将であった平手汎秀は討死。徳川家の重臣たちも次々と倒れ、夏目吉信や鈴木久三郎らは、家康の兜や馬印を身につけて身代わりとなり、敵中に突入して主君の逃走時間を稼いだ 23

敗走と追撃:空城の計と犀ヶ崖の夜襲

家康は、わずか数名の供回りと共に、文字通り命からがら浜松城へと逃げ帰った。この敗走は、後の「伊賀越え」と並び、家康の生涯における最大の危機であったとされている 13 。恐怖のあまり馬上で脱糞したという逸話が残るほど、凄惨な敗走であった。

浜松城にたどり着いた家康であったが、追撃する武田軍の勢いは止まらない。この絶体絶命の状況で、家康は一世一代の賭けに出る。城の全ての城門を開け放ち、各所で篝火を盛大に焚かせ、あたかも大軍が待ち構えているかのように見せかける「空城の計」を用いたのである 13 。追撃してきた山県昌景は、これを伏兵を警戒させるための罠と判断し、城内への突入を断念した。

さらにその夜、家康は一矢報いるため、大久保忠世らに命じて浜松城の北にある犀ヶ崖(さいががけ)付近で野営していた武田軍に夜襲をかけさせた。不意を突かれた武田軍は混乱に陥り、多くの兵が暗闇の中で崖から転落して命を落としたと伝えられている 28

この三方ヶ原での惨敗は、家康に多くの忠臣を失わせるという痛手をもたらしたが、同時に、感情的な判断の危険性と、将としての忍耐の重要性を骨身に染みて教える貴重な教訓となった。信玄は図らずも、自らの手で最大の敵を、後の天下人へと鍛え上げるきっかけを作ったのである。

第三章:野田城包囲と忍び寄る病魔

三方ヶ原で徳川家康に壊滅的な打撃を与えた武田信玄であったが、その後の軍事行動は、それまでの破竹の勢いが嘘のように停滞する。三河国の小城である野田城の攻略に手間取り、そしてついに進軍を停止させた背景には、信玄自身の体を蝕む深刻な病状の悪化があった。戦国最強と謳われた英雄の覇業は、敵ではなく、自らの肉体によってその終焉を迎えようとしていた。

三河への再侵攻(天正元年1月~2月):野田城の包囲

三方ヶ原での大勝の後、武田軍は家康の居城・浜松城を直接攻撃することなく、刑部(おさかべ)で越年した 9 。年が明けた天正元年(1573年)1月、信玄は軍を三河国へと進め、菅沼定盈が約500の兵で守る野田城を包囲した 24

野田城は小城ながらも堅固であり、武田軍の攻撃を約1ヶ月にわたって凌ぎ続けた 30 。攻めあぐねた信玄は、二俣城攻略でも用いた得意の工兵戦術に切り替える。甲斐から呼び寄せた金堀り人夫に命じ、城の地下水脈を探り当てて水を抜くという作戦を実行し、これにより城内の水の手を断つことに成功した 31 。水源を失った野田城はこれ以上の籠城は不可能となり、2月10日頃に開城した 31

しかし、この勝利の裏で、武田軍内部では深刻な事態が進行していた。圧勝の後に小城の攻略に時間をかけ、その後完全に進軍を停止するという一連の不自然な動きは、敵対勢力にとって「武田軍内部に重大な異常事態が発生した」ことを示す強力なシグナルとなった。特に徳川家康は、この武田軍の停滞から、信玄の身に何かがあったのではないかという疑念を抱き始めていた 33

信玄の病状悪化:狙撃説の伝説と真相

野田城攻囲の最中、信玄の病状は急激に悪化したとされている 9 。この病状悪化をめぐっては、後世に一つの有名な伝説が生まれている。

それは「信玄狙撃説」である。夜ごと城内から聞こえてくる美しい笛の音色に聞き惚れた信玄が、本陣を出て堀端に近づいたところを、城兵の鳥居三左衛門が火縄銃で狙撃し、その傷が元で死に至ったという物語である 29 。この劇的な逸話は、黒澤明監督の映画『影武者』で描かれたことで広く知られるようになった 35

しかし、これはあくまで伝説の域を出ない。信頼性の高い史料によれば、信玄の死因は病死であったことが確実視されている。武田氏の軍学書『甲陽軍鑑』には、信玄が西上作戦の6年も前から「膈(かく)」、すなわち胸部や横隔膜周辺の病を患っていたとの記述がある 37 。また、侍医であった御宿監物の書状とされる記録には、信玄が呼吸のたびに苦しみ、吐血を繰り返していたと記されており、これらの症状から、死因は肺結核や胃がん、あるいは寄生虫による肝硬変などが有力な説として挙げられている 37 。そもそも、この西上作戦自体が、信玄が自身の死期を悟り、病をおして敢行したものであった可能性が高い 9

作戦の中断:勝利の後の停滞

野田城を落とした後、武田軍の進軍は完全に停止した。これは総大将である信玄が、もはや軍の指揮を執れる状態ではなかったことを物語っている 31 。一時は歩いて動き回れるほどに容態が回復したとも伝えられるが、それも束の間で、病状は再び悪化の一途をたどった 41

もはや上洛はおろか、これ以上の軍事行動は不可能と判断した信玄は、断腸の思いで西上作戦の中断と、全軍の甲斐への撤退を決断した。天下統一の夢を目前にしながら、甲斐の虎はその歩みを止めざるを得なくなったのである。

第四章:巨星、墜つ ― 信玄の最期

西上作戦の中断を決断した武田信玄の肉体は、もはや回復の見込みがないほどに衰弱していた。天下統一の夢は潰え、残されたのは故郷・甲斐への長く困難な帰路だけであった。そして、天正元年(1573年)4月12日、戦国時代を代表する巨星は、その道半ばで静かに墜ちた。

帰国の途へ(天正元年3月~4月):最後の行軍

全軍撤退の命令が下ると、武田軍は甲斐への帰還を開始した。信玄はまず三河の長篠城に入り、その後、霊山として知られる鳳来寺(ほうらいじ)に移ってしばしの療養を試みた 9 。しかし、病状は一向に上向かず、3月9日には鳳来寺を出立せざるを得なかった 9 。この時、信玄はもはや自力で馬に乗ることもできず、輿(こし)に乗せられての痛々しい行軍であったと記録されている 9

軍勢は、三河と信濃を結ぶ主要街道である三州街道(伊那街道)をひたすら北上した 42 。かつて天下を目指して意気揚々と下った道を、今や死の床にある主君を乗せた輿を中心に、沈痛な雰囲気で引き返していく。その光景は、武田家の栄光と、その終焉の始まりを象徴するものであった。

終焉の地、信濃駒場(天正元年4月12日):巨星墜つ

天正元年4月12日(西暦1573年5月13日) 、信玄の長い旅は終わりを告げた。信濃国伊那郡駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)の陣中にて、武田信玄は波乱の生涯を閉じた。享年53であった 9

信玄が息を引き取った正確な場所については、いくつかの説が存在する。『当代記』などの記述から、この駒場説が最も有力とされているが、同じ三州街道沿いの浪合(なみあい)や根羽(ねば)であったとする説もある 11 。いずれにせよ、彼が目指した京や徳川領の中心地から遠く離れた、自国領の信濃国境で力尽きたという事実は、西上作戦が戦略目標を何一つ達成できずに終わったことを無情にも物語っている。現在、駒場の長岳寺には、信玄を火葬した際の遺灰を納めたとされる供養塔や、ゆかりの遺品が伝えられており、彼の最期の地として歴史に記憶されている 45

遺言:「三年、喪を秘すべし」

死を悟った信玄は、病床に後継者である四男・武田勝頼と重臣たちを呼び寄せ、武田家の未来を託す最後の遺言を残した 41 。その内容は、信玄の深謀遠慮を示すものであった。

  • 死の秘匿: 「我が死を三年の間は秘匿し、決して喪を発してはならぬ」。これは、総大将の死がもたらすであろう家中の動揺を抑え、好機と見た上杉、織田、徳川、北条といった周辺の敵対勢力からの侵攻を防ぐための、最後の情報戦略であった 40
  • 家督相続: 正式な家督は、織田信長の姪を母に持つ嫡孫の信勝(当時7歳)に継がせること。そして、勝頼は信勝が元服する16歳になるまで、後見人である「陣代(じんだい)」として武田家を統率すること 41
  • 領国経営: 喪を秘す3年間は、決して国外へ出兵することなく、ひたすら領内の守りを固めることに専念せよ 41

この遺言、特に勝頼を正式な当主ではなく「陣代」と位置づけたことは、武田家の正統性を重んじる信玄なりの配慮であった。勝頼はもともと信玄が滅ぼした諏訪家の血を引いており、武田宗家の家督を継ぐことへの譜代家臣からの反発を懸念したのである 53 。しかし、この配慮は皮肉にも、勝頼の権威を不完全なものとし、後の家臣団との亀裂を生む構造的な欠陥を内包することになった。偉大な父が残した最後の深慮は、結果として武田家をさらなる苦境へと導く一因となったのである。

第五章:撤退と遺言 ― 統制された甲斐への帰還

総大将・武田信玄の死という、組織にとって最大級の危機に直面しながらも、武田軍の甲斐への撤退は驚くべき統制を保って完遂された。これは、信玄という傑出した個人のカリスマのみに依存しない、武田軍団という組織の成熟度と、歴戦の宿老たちの卓越した統率力の証左であった。しかし、その一方で、「三年喪を秘す」という遺言の実行は、情報戦の限界と、新体制が抱える脆弱性を浮き彫りにした。

全軍撤退:統率された後退戦

信玄の死後、武田軍の指揮権は山県昌景、馬場信春、内藤昌豊といった譜代の宿老たちに引き継がれた 12 。彼らは信玄の死による動揺を微塵も見せることなく、全軍に厳格な軍律を敷き、整然とした撤退作戦を展開した。

撤退ルートとして選ばれたのは、信濃から甲斐へと至る三州街道(伊那街道)であった 43 。この街道は、武田家が長年の信濃経営を通じて関所を設けるなど、完全にその支配下に置いていた交通路であり、敵の妨害を受けることなく安全に軍を移動させることが可能であった 56 。撤退戦において最も重要となる殿(しんがり)部隊が巧みに機能し、徳川軍や織田軍による追撃を一切許さなかったとみられる。この見事な後退戦は、武田軍団が攻撃だけでなく、戦国時代において最も困難とされる撤退戦においても高い能力を有していたことを示している 58

死の秘匿工作:影武者と情報戦

信玄の遺言に従い、その死は厳重に秘匿された。表向きには、信玄は病気療養のために甲斐へ帰国し、隠居したという筋書きが用意された 59 。この情報工作において重要な役割を果たしたのが、信玄の弟であり、容姿が兄に酷似していた武田信廉(逍遙軒)であった 60

後世に伝わる有名な逸話として、信玄の死を怪しんだ相模の北条氏政が、真偽を確かめるために使者として板部岡江雪斎を甲斐に派遣した際、信廉が信玄の影武者として対面し、その堂々とした振る舞いで見事に欺き通した、というものがある 63

しかし、このような工作にもかかわらず、信玄の死という重大な情報が完全に漏洩を防ぐことは不可能であった。そもそも、あれほどの大軍が目的を達成せずに突如として全軍撤退するという異常事態自体が、敵方に信玄の死を推測させるに十分な情報であった 64 。実際、上杉謙信は北条氏政からの通報によって信玄の死を知ったとされ 64 、徳川家康も、撤退する武田軍の行列の中に真新しい櫃(ひつぎ)が一つ加えられていたという報告を受け、信玄の死を確信したと伝えられている 33

このことから、「三年喪を秘す」という遺言の真の目的は、敵を長期間欺き続けるという対外的な情報戦よりも、むしろ当主の交代に伴う家中の動揺や内紛を抑え、新当主・勝頼が権力基盤を固めるための時間を稼ぐという、内部統制にあったと解釈するのが妥当であろう。

甲斐への帰還と動揺:新体制への移行

軍が無事に甲斐へ帰還すると、信玄の遺言に基づき、武田勝頼が「隠居した信玄の陣代」という形で家督を相続した 54 。しかし、偉大すぎる父の死と、自らが「中継ぎ」という不完全な権威しか持たないという現実は、勝頼自身、そして家臣団の間に複雑な動揺を生んだ。特に、信玄と共に武田家の黄金時代を築き上げてきた山県昌景や馬場信春といった宿老たちと、若く実績を焦る勝頼との間には、目に見えない溝が生まれ始めていたとされる 69 。武田家は、最大の支柱を失い、新たな時代の荒波へと漕ぎ出していくことになったのである。

終章:信玄の死がもたらした地政学的激変

武田信玄の死は、戦国時代の地政学的な均衡を根底から覆す、まさに歴史の分水嶺であった。信玄という巨大な重しが取り除かれたことで、それまで膠着していた各地のパワーバランスは一気に流動化し、新たな時代の潮流が生まれた。この事変がなければ、織田信長による天下統一への道は遥かに険しいものとなり、日本の歴史は全く異なる様相を呈していた可能性が高い。

武田家の継承:武田勝頼の苦悩と焦り

父の跡を継いだ武田勝頼は、その生涯を通じて偉大な父の幻影と戦い続けねばならなかった。信玄が遺言で勝頼を正式な当主ではなく「陣代」と定めたことは、彼の権威に構造的な脆弱性をもたらした 52 。譜代の重臣たちからの全面的な支持を得られない中、勝頼は自らの力を証明するため、父の遺言を破って性急な軍事行動へと傾斜していく 70

天正2年(1574年)、父・信玄ですら落とせなかった徳川方の要衝・高天神城を攻略したことは、勝頼の武勇を示す輝かしい戦果であった 70 。しかし、この成功体験が彼の過信を招き、翌天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて、宿老たちの諫言を退けて織田・徳川連合軍との決戦に臨み、壊滅的な敗北を喫する遠因となった。信玄の死は、武田家から戦術的な勝利以上の、戦略的な判断力と家臣団を統率する求心力という最大の強みを奪い去ったのである 71

好機を得た敵対勢力:信長包囲網の瓦解

信玄の死は、敵対勢力にとって千載一遇の好機となった。

  • 織田信長: 西からの最大の脅威が消滅したことで、信長は完全に戦略の主導権を握った。信玄死去の報からわずか4ヶ月後の天正元年8月、信長はかねてからの懸案であった越前の朝倉義景と近江の浅井長政を立て続けに滅ぼし、信長包囲網を事実上崩壊させることに成功した 72 。信玄の死がなければ、この迅速な勝利はあり得なかったであろう。
  • 徳川家康: 三方ヶ原で滅亡の淵に立たされた家康にとって、信玄の死は起死回生の一報であった。彼は直ちに反攻に転じ、武田軍の撤退に乗じて長篠城を奪還するなど、失地の回復を着実に進めていった 75 。この反攻が、後の長篠の戦いへと繋がっていく。

信玄の死は、中部から東日本にかけての広大な地域に「権力の真空」を生み出した。この真空を埋めるべく、織田、徳川、上杉、北条といった諸勢力が一斉に動き出し、戦国時代の勢力図は急速に再編されていったのである。

宿敵・上杉謙信の反応

長年にわたり川中島で死闘を繰り広げた宿敵・上杉謙信の反応は、戦国の世の武士の気風を象徴するものであった。信玄の訃報に接した謙信は、食事中であったにもかかわらず箸を取り落とし、「まことに惜しき大将をなくしたものかな」と涙を流してその死を悼んだと伝えられている 64 。敵でありながらも、互いの力量を認め合うライバル関係がそこにはあった。戦略的には、信玄という背後からの脅威が消えたことで、謙信は越中平定に戦力を集中させることが可能となり 79 、その後、畿内で勢力を拡大する織田信長と対峙していくことになる。

結論:戦国史の転換点

武田信玄の西上作戦中の死は、単なる一合戦の勝敗や一武将の死という範疇を遥かに超え、日本の歴史の流れそのものを変えた決定的な出来事であった。もし信玄が生きて西上作戦を継続、あるいは成功させていたならば、織田信長の権力基盤は大きく揺らぎ、その後の天下統一事業は実現しなかったかもしれない。信玄の死は、信長包囲網の瓦解、長篠の戦い、そして武田家の滅亡へと続く一連の歴史的事件の引き金となり、戦国時代を最終局面へと導くドミノの最初の一枚を倒したのである。この一点の事変がなければ、その後の日本の歴史は全く異なる道を歩んでいたであろう。武田信玄の死は、戦国時代における最も重要な「特異点」の一つとして、歴史に刻まれている。

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