最終更新日 2025-09-18

江戸町割拡張(1604)

家康、慶長九年に江戸町割を拡張。天下普請で外様大名を動員し、神田山開削と日比谷埋立で新都を創造。防衛と発展を両立する螺旋構造で、徳川長期支配の礎を築いた。
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戦国の終焉、首都の創生:慶長九年「江戸町割拡張」の時系列的徹底分析

序章:慶長九年、江戸拡張の歴史的座標

慶長九年(1604年)、徳川家康の命によって開始された江戸の町割拡張は、単なる都市計画事業ではない。それは、一世紀以上にわたる戦乱の時代、すなわち戦国時代の終焉を物理的に刻印し、新たな二百六十余年の泰平の礎を築くための、壮大な国家創造事業であった。この事業を「戦国時代という視点」で捉えることは、その本質を理解する上で不可欠である。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いによって徳川の覇権は事実上確立されたが、豊臣家は大坂城に依然として強大な影響力を保持し、西国には豊臣恩顧の大名が多数存在していた 1 。天下は未だ完全には平定されていなかったのである。

徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた慶長八年(1603年)のわずか一年後に行われたこの大事業は、平和な時代の幕開けを祝うものではなく、むしろ戦争の継続であった。ただし、それは武力によるものではなく、土木工事という形をとった「静かなる戦争」であった。全国、特に潜在的な敵対勢力となりうる外様大名を動員したこの「天下普請」は、彼らの財力を削ぎ、その力を江戸という新たな政治の中心地の建設へと強制的に転換させる、極めて高度な政治戦略であった 1

本報告書は、この慶長九年の「江戸町割拡張」を、戦国時代から続く権力闘争の最終局面と位置づけ、その計画の背景、具体的な時系列的展開、そして都市設計に込められた思想を徹底的に分析するものである。それは、一人の戦国大名が、いかにして自らの本拠地を日本の恒久的な首都へと変貌させたかの記録であり、戦国の論理が江戸という新たな秩序の器をいかにして創造したかの物語である。

第一部:戦国大名たちの都市創造 — 信長、秀吉、そして家康へ

徳川家康の江戸建設は、決して白紙の状態から生まれたものではない。それは、彼の先達である織田信長と豊臣秀吉という二人の天下人の都市創造を、批判的に継承し、発展させた集大成であった。家康の構想を理解するためには、まず安土と大坂という二つの先行モデルを検証する必要がある。

第一章:経済革命の実験場 — 織田信長の安土城下町

織田信長が天正四年(1576年)から築城を開始した安土城とその城下町は、軍事拠点であると同時に、革新的な経済都市であった。信長の都市政策の核心は「楽市・楽座」令に象徴される 4 。これは、旧来の「座」と呼ばれる同業者組合が持っていた特権を廃し、市場税(市銭)や営業税を免除することで、誰もが自由に商売を行えるようにする画期的な経済自由化政策であった 6

この政策の目的は、商業を活性化させ、城下に人、物、金を集積させることにあった。信長は、強大な軍事力を維持するためには、それを支える豊かな経済基盤が不可欠であることを見抜いていた 5 。楽市・楽座によって商人が集まれば、彼らが扱う商品に関わる農民や職人も集まり、人口が増加する。これは税収の増加と兵力の増強に直結し、さらには敵対国の国力を相対的に削ぐ効果も期待できた 5 。安土は、経済の力がそのまま軍事力に転化する、戦国時代ならではの合理主義を体現した都市であった。

第二章:権威の劇場 — 豊臣秀吉の大坂城下町

信長の後継者である豊臣秀吉は、天正十一年(1583年)から大坂城の築城を開始した。秀吉の都市創造は、信長の経済合理性に加え、「権威の可視化」という要素を極限まで追求した点に特徴がある。大坂城は、壮麗な天守閣、巨大な石垣、幾重にも巡らされた堀を持つ、見る者を圧倒する巨大な城郭であった 8 。その城下町もまた、全国から物資が集まる「天下の台所」として、日本の物流と経済の中心地となるべく設計された 9

秀吉の都市計画は、武家地、町人地、寺社地を明確に区分するゾーニングを特徴とする 9 。特に、大坂城の南西に広がる町人地は碁盤の目状に整然と区画され、「太閤下水」と呼ばれる先進的な下水設備も整備された 11 。水運を最大限に活用するために掘割が張り巡らされ、全国の藩が蔵屋敷を設置する物流拠点として発展した 9 。大坂は、人口の九割以上が町人という、商業が主役の都市であり 9 、その繁栄は秀吉の権威を全国に示すための壮大な舞台装置でもあった。

第三章:家康の構想 — 駿府と江戸

家康は、これら二人の天下人の都市づくりを間近で観察し、その長所と短所を冷静に分析していた。彼自身も、関東移封以前に本拠地とした駿府(現在の静岡市)において、治水事業を中心とした都市計画を実践している 12 。駿府での経験は、後の江戸づくりにおける河川改修や町割の思想に応用された 12

天正十八年(1590年)、秀吉の命により関東へ移封された家康は、荒れ果てた湿地であった江戸の地に、将来の日本の中心地となりうる巨大なポテンシャルを見出していた 13 。良港となりうる地形と、その背後に広がる広大な関東平野は、長期的な国家経営の拠点として理想的であった 13 。家康は、信長の経済重視、秀吉の権威の象徴性という二つの要素を取り入れつつも、それらを凌駕する、より永続的で、より強固な支配体制を物理的に体現する首都を構想していた。安土は信長個人の才能に依存し、大坂は商人の力が幕府の統制を超える可能性を秘めていた。家康が目指したのは、経済的繁栄と権威の象徴性を、武家による盤石な支配構造の中に完全に組み込んだ、新たな形の首都であった。

第二部:天下普請の発動 — 慶長九年、江戸大変革のリアルタイムドキュメント

慶長九年(1604年)は、江戸が地方の一城下町から日本の首都へと変貌を遂げる、決定的な転換点となった年である。この年の出来事を時系列で追うことで、徳川幕府による国家改造のダイナミズムをリアルタイムで感じ取ることができる。

第一章:前夜 — 関ヶ原から幕府開府へ(1600年〜1603年)

関ヶ原の戦いが終結した直後から、家康の江戸改造計画は静かに始動していた。彼はまだ征夷大将軍ではなかったが、江戸を将来の拠点とすることを見据え、インフラ整備に着手していた 15 。道三堀や小名木川といった運河の開削、神田上水の原型となる水道工事など、来るべき大拡張のための基礎工事が、天下の耳目を集めぬよう慎重に進められた 13

そして慶長八年(1603年)、家康が征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開くと、計画は公然のものとなる。江戸城と城下町を、将軍の居城にふさわしい規模へと大拡張する「天下普請」が正式に布告された 1 。これは、徳川の権威を天下に示す最初の、そして最大のデモンストレーションであった。

第二章:慶長九年の胎動(1604年初頭〜春)

年が明けた慶長九年、江戸改造の槌音はまず、象徴的な事業から全国に響き渡った。

  • 二月 : 幕府は、全国の主要街道に一里塚を築くことを命じた 17 。そして、そのすべての道の起点として、江戸の「日本橋」を定めたのである 17 。これは、物理的な距離だけでなく、政治的・経済的な意味においても、江戸が日本の中心であることを宣言する行為であった。
  • : 江戸城と城下町の大普請命令が、全国の諸大名、特に西国の大名に対して発せられた 19 。城郭の基本設計(縄張)は、築城の名手として名高い藤堂高虎が担当した 19 。西国二十九の大名には、伊豆半島で切り出された石垣用の石材を江戸まで運ぶための石船の提供が命じられ、普請の準備が本格化した 19

第三章:大地を動かす — 神田山開削と日比谷入江埋立(1604年夏〜)

夏になると、江戸の地形そのものを根底から作り変える、空前の土木工事が開始された。これは、二つの巨大プロジェクトが有機的に連携した、見事な総合エンジニアリングであった。

第一のプロジェクトは、江戸城の北に位置する神田山(現在の駿河台・御茶ノ水付近)の切り崩しである 1 。この丘陵は、城下町の拡大を妨げ、防衛上の弱点ともなりうる存在だった。

第二のプロジェクトは、江戸城の南東に広がっていた日比谷入江の埋め立てである 1。この広大な干潟と湿地は、都市として利用できる土地を著しく制限していた。

家康の計画の卓抜さは、この二つの問題を一つの解決策で結びつけた点にある。すなわち、神田山を切り崩して得られた膨大な量の土砂を、そのまま日比谷入江の埋め立てに利用したのである 19 。これにより、土砂の確保と処分の問題が同時に解決され、驚異的な効率で土地造成が進められた。当時の記録である『慶長見聞集』は、その規模を「日本六十余州の人夫をよせ、神田山をひき崩して、南の海を四方三十余町埋め立て陸地にし」と記している 19

この普請は、参加する大名ごとに担当区域を割り振る「丁場割」という方式で進められた 25 。各大名は、割り当てられた区域の工事を、資材調達から人夫の動員、食糧の供給に至るまで、すべて自己負担で行うことを義務付けられた 3 。江戸城の石垣に残る、各大名の家紋などを刻んだ「刻印」は、この丁場割の生々しい証拠である 27 。この過酷な負担は、大名の財政を圧迫し、徳川への反抗の芽を経済的に摘み取るという、明確な政治的意図を持っていた 1

こうして生み出された広大な造成地は、大名屋敷や旗本屋敷の用地となり、江戸城の防衛線を固めた 1 。さらに、日本橋、京橋、銀座といった新たな町人地が計画的に配置され、江戸の商業の中心地として発展していくことになる 1

第四章:都市の骨格を築く — 道路・橋梁・水路の整備(1604年)

土地の造成と並行して、新たな都市の骨格となるインフラ整備も急ピッチで進められた。慶長八年に架けられたとされる初代日本橋は、この時期に町人地の中心として、また五街道の起点として、その象徴的な地位を不動のものとした 29

慶長九年に始まった全国的な道路改修事業は、江戸を中心とする交通網を整備するものであった。『慶長見聞集』によれば、この事業は道幅を広げ、屈曲をなくし、並木を植えるなど、人馬の往来を円滑にすることを目的としていた 31 。これにより、江戸は全国のヒトとモノが集中するハブとしての機能を強化し、その支配力を全国へと浸透させていった。

第五章:普請の現場から

当時の江戸は、巨大な建設現場そのものであった。『慶長見聞集』は、整備された大通りが砂利で固められ埃が立たないと称賛する一方で、少し雨が降れば道は泥の海と化し、往来もままならなかったと記している 32 。これは、計画的に整備された幹線道路と、まだ手つかずの脇道が混在する、発展途上の都市のリアルな姿を伝えている。

全国から動員された大名とその家臣、そして無数の人夫たちで江戸の人口は爆発的に増加した。彼らのための住居や食糧、物資の供給は、新たな商業とサービスを生み出し、建設の槌音とともに、江戸の町そのものが生命力に満ち溢れていった。この巨大プロジェクトは、大名にとっては過酷な負担であったが、江戸という都市にとっては、その後の飛躍的な発展の原動力となったのである。

担当大名

藩(領地)

石高(万石)

慶長期天下普請における主な役割

典拠

池田輝政

姫路

52

外郭石壁普請、石材採掘

19

福島正則

広島

49.8

外郭石壁普請

19

加藤清正

熊本

52

外郭石壁普請

19

黒田長政

福岡

52

外郭石壁普請、天守台築造

19

細川忠興

小倉

39.9

外郭石壁普請

19

毛利秀就

36.9

外郭石壁普請、本丸普請

33

前田利常

金沢

119.5

外郭石壁普請

33

浅野幸長

和歌山

37.6

外郭石壁普請

33

山内一豊

高知

20.2

石垣普請

33

藤堂高虎

今治

20.3

縄張(基本設計)、石垣普請

19

第三部:新首都・江戸のグランドデザイン

慶長九年の拡張によって生まれた新たな江戸の都市構造には、徳川による二百六十年間の長期支配を可能にするための、緻密かつ深遠な設計思想が込められていた。それは単に広く、大きいだけの都市ではなく、防衛、統治、経済、そして防災という複数の機能が統合された、一個の巨大なシステムであった。

第一章:「の」の字の思想 — 防衛と発展の螺旋構造

江戸の最も独創的な特徴は、その中心構造が、江戸城本丸から外側へ向かって堀や水路が渦巻状に広がる、平仮名の「の」の字にも似た螺旋構造(渦郭式)をとっている点にある 36 。これは、京都の条坊制のような碁盤の目状の都市計画とは根本的に異なる思想に基づいている。

この螺旋構造は、まず第一に、究極の防衛思想を体現していた。万が一、敵が城下に侵入しても、この渦巻状の街路は敵軍を直進させず、方向感覚を失わせ、城の中心部への到達を困難にする 36 。道は意図的に食い違い(筋違い)や袋小路が設けられ、都市全体が一個の巨大な要塞として機能するよう設計されていた 37

同時に、この構造は都市の発展と拡張に対する驚くべき柔軟性をも備えていた。人口が増加し、市街地を拡大する必要が生じた際には、既存の螺旋の外側に新たな環を追加するように拡張していけばよい 36 。これにより、都市の成長を阻害することなく、無限に拡大していくことが可能であった。防衛という戦国時代的な要請と、将来の発展という平和な時代を見据えた要請を、「の」の字の螺旋構造という一つのデザインが見事に両立させていたのである。

第二章:機能する都市 — 町割に込められた秩序

巨大な螺旋構造の内側では、各地区が明確な機能と秩序を持って配置された。特に、日比谷入江の埋め立てによって生まれた日本橋周辺の町人地は、京間六十間(約120メートル)四方を一単位とする整然とした正方形の街区で構成されていた 30 。この規則正しい区画は、商業活動の効率化と、幕府による管理の容易さを意図したものであった。

都市全体は、厳格な身分制度を反映したゾーニングがなされていた。江戸城を中心に、その周辺の高台(山の手)には、親藩・譜代大名や旗本の広大な屋敷が配置され、城の防衛の第一線とされた 1 。一方、造成によって生まれた低地(下町)には、町人たちの居住区と商業地区が集中した 1 。この物理的な配置は、武士が町人を見下ろすという社会的な序列を視覚的に強化し、人々の意識に徳川の支配秩序を刻み込む効果を持っていた。江戸は、そこに住むだけで身分を意識させられる、階級社会の縮図であった。

第三章:安寧への布石 — 防災都市としての江戸

戦国の世を生き抜いた家康は、人為的な脅威である戦争だけでなく、火災や洪水といった自然災害が都市にとっていかに致命的かを熟知していた。慶長九年の計画には、すでに防災都市としての思想の萌芽が見られる。

螺旋状に張り巡らされた堀や運河は、軍事的な防衛線や物資輸送路としてだけでなく、市街地を区画し、大火の延焼を防ぐ防火帯(ファイアブレイク)としての役割を担っていた 36 。また、神田山の開削とそれに伴う河川の付け替えは、江戸を度々襲っていた水害を抑制するための大規模な治水事業でもあった 1

後の明暦の大火(1657年)以降、両国橋の架橋や広小路の設置といった、より本格的な防火・避難対策が実施されることになるが 40 、その基礎となる都市の骨格、すなわち水路網と幹線道路によって市街地を分断するという思想は、慶長九年のグランドデザインにすでに内包されていた。江戸の都市計画は、戦乱の終結だけでなく、災害を乗り越えて存続するための、長期的な視点に貫かれていたのである 41

終章:戦国の終着点としての江戸

慶長九年の「江戸町割拡張」は、戦国時代の論理と経験が到達した、一つの究極的な帰結であった。それは、徳川家康という稀代の戦略家が、信長と秀吉の遺産を乗り越え、自らの理想とする恒久的な支配体制を、大地そのものに刻み込んだ事業であった。

この事業の本質は、「天下普請」という名の強制力にあった。全国の大名、特に豊臣恩顧の西国大名を動員し、彼らの血と汗と財産を、徳川の新たな首都建設のために注ぎ込ませた。これにより、潜在的な敵対勢力は物理的、経済的に疲弊し、同時に徳川政権の正統性を自らの手で認めさせられるという、二重の支配構造が確立された。江戸城の石垣の一つひとつは、築城技術の結晶であると同時に、屈服した大名たちの力の証でもある。

造成された土地の上に築かれた都市は、戦国の教訓を徹底的に反映した、防御と統制のシステムであった。螺旋状の都市構造は敵の侵攻を阻み、厳格な身分別の居住区画は社会秩序を固定化した。経済は奨励されたが、それはあくまで武家支配という大枠の中でのことであり、大坂のような商人の自由な活気が、幕府の統制を脅かすことは許されなかった。

こうして、慶長九年の江戸は、戦国という時代の終着点となった。百年にわたる動乱、下剋上、そして絶え間ない権力闘争の末に、日本は強力な中央集権体制の下で安定を求めた。その安定を保障する物理的な装置として、江戸は創造されたのである。神田山の土が日比谷の海を埋め、新たな大地が生まれたように、戦国の混沌とした社会は埋め立てられ、その上に徳川の泰平という新たな秩序が打ち立てられた。この大事業こそが、戦国時代の真の終わりを告げ、近世日本の幕開けを象徴する、決定的な一歩だったのである。

引用文献

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  3. 超入門! お城セミナー 第51回【歴史】江戸時代の一大事業「天下普請」って何? - 城びと https://shirobito.jp/article/668
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  5. 楽市楽座とは?簡単に!織田信長の目的、なぜ?政策のメリット - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/rakuichi-rakuza
  6. busho.fun https://busho.fun/column/rakuichi-rakuza#:~:text=%E3%80%8E%E6%A5%BD%E5%B8%82%E3%83%BB%E6%A5%BD%E5%BA%A7%E3%80%8F%E3%81%A8%E3%81%AF,%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
  7. 「楽市楽座」織田信長の政策で築かれた自由市場はココがすごい!! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/201
  8. 大阪城の歴史と史跡・特徴/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/16954_tour_035/
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