最終更新日 2025-09-21

田中吉政筑後統治着手(1600)

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筑後国主・田中吉政の統治事業―慶長五年、関ヶ原の戦後処理から始まる国家創成の軌跡―

序章:天下分け目の功労者―筑後入国の権利獲得(慶長五年九月)

慶長五年(1600年)九月、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、三河国岡崎十万石の領主であった田中吉政は、徳川家康率いる東軍の主力として参陣した 1 。吉政の部隊は、岐阜城攻めや西軍の将・石田三成の居城であった佐和山城の攻略など、緒戦において重要な武功を挙げ、東軍の勝利に大きく貢献した 2 。しかし、彼の名を戦国史に不滅のものとして刻んだのは、本戦終結後の追撃戦における比類なき功績であった。

合戦に敗れ、戦場から敗走した西軍の事実上の総帥、石田三成を捕縛するという、戦いの帰趨を最終的に決定づける大功を立てたのである 3 。三成が潜伏していたのは、近江国伊香郡古橋村の岩窟であった 6 。吉政自身も近江国湖北地方の出身であり、三成とは旧知の間柄であったと伝わる 6 。この土地勘と、三成の人間性や行動原理に対する深い理解こそが、彼の逃亡経路を正確に予測し、捕縛を成功させた決定的な要因であったと考えられる。それは単なる偶然の幸運ではなく、吉政が持つ固有の背景が生んだ、必然的な戦功であったと言えよう。

捕縛後の三成に対する吉政の処遇については、二つの異なる逸話が伝わっている。一つは、旧交を重んじ、縄を解いて手厚くもてなしたというもので、三成も「自分を捕らえたのが吉政でよかった」と語ったとされる温情ある物語である 1 。もう一つは、助命をちらつかせて三成から武具や財産の隠し場所を聞き出した後、冷徹に家康の前に突き出したという、より策略的な側面を伝える記述である 8 。これらの相矛盾する逸話は、戦国の世を生き抜く武将の多面性と、両者の複雑な関係性を浮き彫りにしている。

いずれにせよ、石田三成捕縛という功績の大きさは計り知れず、徳川家康から絶大な評価を受けることとなる。戦後の論功行賞において、吉政は旧領の岡崎十万石から、一挙に筑後一国三十二万五千石へと加増され、柳川城主として入封することになった 8 。これは石高にして三倍以上という破格の大栄転であった 11

この処遇は、単に吉政個人の戦功に報いるものだけではなかった。それは、家康の巧みな戦後統治戦略の一環として、極めて重要な意味を持っていた。家康は、豊臣恩顧の大名でありながら東軍に与した者たち、すなわち肥後の加藤清正、筑前の黒田長政、そして筑後の田中吉政といった実力者を、西国の要衝に「国持ち大名」として配置した 7 。これは、西軍に与した豊臣系大名への強力な牽制となると同時に、九州地方の安定化を図るための戦略的な布石であった。吉政は、三成捕縛によって家康への絶対的な忠誠を示し、かつ近江八幡や岡崎の統治で証明済みの卓越した行政手腕を持っていた。家康は、戦乱で疲弊した九州の重要拠点・筑後を復興・開発させ、徳川の世の盤石な礎とするために、吉政こそが最適な人材であると判断したのである。したがって、この論功行賞は、過去の功績への報酬であると同時に、未来の国家建設への戦略的な「投資」であった。

第一章:新領主の着任と統治の第一声(慶長六年)

前領主不在の筑後国:立花宗茂改易後の政治状況

田中吉政が筑後国主として入封する以前、この地は豊臣秀吉によってその武功を認められた名将・立花宗茂が十三万石余の領主として治めていた 12 。しかし、関ヶ原の戦いにおいて西軍に与した宗茂は、戦後、徳川家康によって改易され、その領地を没収された 13 。これにより、筑後国は一時的に統治者が不在となる政治的空白状態に陥った。

ただし、この時期の筑後国は、完全な無秩序状態にあったわけではない。豊臣政権下で太閤検地が実施された結果、中世以来の在地勢力であった国人や土豪の力はすでに大きく削がれており、組織的な抵抗勢力は限定的であった 15 。新たな領主が統治を開始する上で、深刻な障害となるほどの在地権力はもはや存在していなかったのである。

柳川入城と「入国法度」三ヵ条の発布

慶長六年(1601年)、田中吉政は五十四歳で筑後国主として、柳川城への入城を果たした 5 。彼は、新領地に着任するや否や、極めて迅速に統治体制の構築に着手する。その第一歩が、入国直後の同年四月十日に発布された「入国法度」三ヵ条であった 16 。その内容は、吉政の統治哲学を明確に示している。

一、家臣が身分の上下を問わず、在々所々で領民に対して不当な要求や言いがかりをつけることを禁じ、違反した者は処罰する。

一、領内の山林の樹木や竹を無断で伐採してはならない。

一、他所へ逃亡した百姓が帰村するのを妨げてはならない。

この法度は、まず第一に領民の生活と財産を保護し、民政の安定を図ることを最優先する姿勢を内外に示したものである。同時に、山林資源の保全と管理、そして農業生産の根幹をなす労働力の確保という、領国経営の基本を固めるための実務的な方針でもあった。これは、武力による威圧ではなく、法と秩序による統治を目指すという、吉政の近世大名としての先進的なビジョンを物語っている。

領国掌握の要:柳川本城と十支城の配置戦略

法によるソフトパワーでの人心掌握と並行して、吉政は物理的な支配体制の確立、すなわちハードパワーの展開も電光石火の速さで進めた。彼は、筑後一国という広大な領地を実効支配するため、まず柳川城を本城と定め、領内の軍事・交通の要衝に十の支城を配置するという、緻密な防衛・行政ネットワークを構築した 17

その配置は、血縁と信頼、そして能力主義を巧みに組み合わせたものであった。最重要拠点である久留米城には次男の吉信を、南の要衝である福島城には三男の吉興を、赤司城には舎弟(弟)の清政を配置し、一族によって領国の骨格を固めた 16 。さらに、本城周辺の鷹尾城と中島城には譜代の家臣である宮川才兵衛を、松延城には元小早川家の重臣であった松野主馬を登用するなど、信頼できる腹心と外部からの有能な人材を適材適所に配した。

この支城網以外の城や砦については、徹底的に破却させ、その跡地を田畑として開墾させた 16 。これは「口分田開き」と呼ばれ、後に江戸幕府が発する「一国一城令」を先取りする政策であった。在地勢力が反乱の拠点としうる物理的な場所をなくし、権力を柳川本城と十支城に集中させることで、支配体制を盤石にするための、極めて合理的かつ効果的な戦略であった。

吉政の統治開始における一連の初動は、単なる場当たり的な対応ではなかった。それは、法による秩序の宣言(ソフトパワー)と、戦略拠点への腹心の配置および反乱拠点の物理的排除(ハードパワー)という三位一体の政策を、周到な計画のもとに実行した「掌握と安定化」戦略であった。これにより、彼は政治的空白期に乗じた混乱を未然に防ぎ、後の壮大な国家改造事業に着手するための、揺るぎない統治基盤を極めて短期間のうちに築き上げたのである。

表1:筑後十支城と配下の城代一覧

支城名

現在の市町村

城代(城番)

備考

久留米城

久留米市

田中吉信

吉政次男

福島城

八女市

田中吉興

吉政三男

赤司城

久留米市

田中清政

吉政舎弟

鷹尾城

柳川市

宮川才兵衛

譜代家臣

中島城

柳川市

宮川才兵衛

鷹尾城と兼務

松延城

みやま市

松野主馬

元小早川家臣

猫尾城

八女市

(重臣)

城島城

久留米市

(重臣)

榎津城

大川市

(重臣)

江浦城

みやま市

(重臣)

第二章:土地と民の掌握―内検地の強行と財政基盤の確立(慶長六年~七年)

「太閤検地」を超える石高設定の野心

統治の物理的基盤を固めた吉政が次に取り組んだのは、領国の経済的実態を把握し、財政基盤を確立するための検地であった。慶長六年(1601年)から、彼は領内全域で独自の検地、いわゆる「内検地」を開始する 18 。この検地は、単なる土地調査にとどまらず、吉政の壮大な領国経営構想の出発点となる、極めて野心的な事業であった。

この検地の最大の特徴は、豊臣政権下で実施された太閤検地(筑後では「山口玄蕃高」として知られる)の基準を大幅に上回る、極めて高い石盛(土地一反あたりの標準収穫量)を設定した点にある。具体的には「田方一反壱石四斗撫、畑方一反壱石撫」という高い評価基準が適用された 18 。その結果、帳簿上の石高は飛躍的に増大した。史料によれば、ある村では石高が実に十倍以上に跳ね上がった例も記録されており 18 、領国全体の総石高は七十五万石と算出されたという 18 。これは、幕府から公認された朱印高三十二万五千石の二倍以上にあたる、驚異的な数値であった。

「田中高」と「玄蕃高」:理想と現実の狭間での年貢徴収

この「田中高」と呼ばれる新しい石高は、そのまま年貢徴収の基準として適用すれば、領民の生活を即座に破綻させるほどの過酷なものであった。吉政もそのことは十分に承知しており、実際の年貢徴収においては、より現実的な旧来の石高である「山口玄蕃高」を基準とすることもあったと見られている 18 。これは、吉政が対外的(幕府や他大名向け)に自らの領国の潜在能力を示すための理想値(田中高)と、対内的(領民向け)に民政を安定させるための現実的な徴税基準(玄蕃高)を使い分ける、二重基準の政策をとっていたことを示唆している。

では、なぜ実行不可能なほどの高い石高を設定したのか。その目的は、短期的な増税にあったのではない。この「内検地」は、過去の生産力を測るものではなく、来るべき大規模開発によって達成されるべき「未来の生産力」を数値化した、壮大な国家建設計画の宣言書であった。吉政は、これから実行する治水・干拓事業によって土地の生産性は飛躍的に向上し、将来的にはこの高い石高が実現可能になると見込んでいた。まず理想の石高という「ゴール」を明確に設定し、そのゴールを現実のものとするために、次章で詳述する大規模な土木事業という「手段」を実行に移したのである。

検地がもたらした領民への影響と社会の再編成

もちろん、この検地はこれまで把握されていなかった隠田や新田を洗い出し、課税対象とすることで、藩の財政基盤を強化するという直接的な目的も持っていた 16 。しかし、その強引な手法は農民に大きな負担を強いたことも事実である。「田畠荒地卜成所多シ」(田畑が荒れてしまう場所が多い)という当時の記録は、検地の苛烈さと、それに伴う農民の窮状を物語っている 18

この検地を通じて、筑後国の土地と人民は名実ともに田中氏の支配下に完全に組み込まれ、近世的な村落構造と支配体制が確立されていった。それは痛みを伴う改革であったが、同時に、筑後国が新たな時代へと踏み出すための、避けては通れない産みの苦しみでもあった。この検地は、吉政の統治が単なる現状維持ではなく、国家のあり方を根本から作り変える「国家改造」を前提としたものであったことを示す、最も重要な証拠と言えるだろう。

第三章:「土木の神」による筑後国改造計画(慶長七年~)

第二章で示された壮大なビジョンを実現すべく、田中吉政は筑後国の自然環境そのものを根本から作り変える、一連の巨大公共事業に着手する。近江八幡城代時代や岡崎城主時代に培った卓越した土木技術と都市計画の手腕 7 を、この筑後の地で最大限に発揮したのである。彼の事業は、個別の問題解決ではなく、水、大地、交通という国家の根幹をなす要素を統合的に再設計する、壮大なグランドデザインに基づいていた。

第一節:水の克服と活用

暴れ川・筑後川の制御:瀬ノ下開削事業の全貌

  • 課題: 筑後国の母なる川、筑後川は、最重要支城である久留米城の北で大きく蛇行しており、ひとたび洪水が起これば城下は壊滅的な被害を受ける危険に常に晒されていた 21
  • 事業: この根本的な問題を解決するため、吉政は慶長六年(1601年)頃から、蛇行部分を短絡(ショートカット)させるため、現在の瀬ノ下付近の丘陵を掘削して新しい川筋を通すという、極めて大胆な工事に着手した 21
  • 影響: この地域は固い岩盤で構成されており、工事は難航を極めたが、多大な労力を投じてこれを貫通させ、慶長九年(1604年)頃に新川を完成させた 5 。これにより川の流れは直流化され、久留米城下の治水能力は劇的に向上した。これは、支城の安全を確保し、城下町の持続的な発展を可能にするための、不可欠な基盤整備であった。

生命線としての水路網:柳川城下の水利体系構築

  • 課題: 一方、本城である柳川は有明海に面した低湿地帯に位置し、城下を網の目のように巡る堀割(クリーク)の水は、流れが滞って水質が悪く、生活用水、特に飲料水としては適さなかった 22
  • 事業: 吉政はこの問題を解決するため、より上流に位置する清流・矢部川から取水し、沖端川、二ッ川といった既存の河川を経由させて、城内の堀に清らかな水を引き込むという、広域的な水利システムを構築した 22
  • 影響: この事業により、柳川城下には安定して上質な生活・農業用水が供給されるようになった。現在、水郷柳川の象徴であり、観光の目玉となっている「川下り」で使われる美しい堀割網と、その豊かな水の流れは、この吉政の先見的な事業にその源流を持つ 22 。この堀割網は、用水路としての機能だけでなく、物資を運ぶ交通路、そして城を守る防御施設という複数の役割を兼ね備えた、極めて優れた都市インフラであった 24

第二節:大地を創り出す

有明海への挑戦:空前の干拓事業「慶長本土居」

  • 背景: 藩の財政基盤を抜本的に強化するためには、既存の土地からの増収だけでは不十分であった。吉政は、耕地面積そのものを増やすという、より積極的な新田開発に乗り出す 9
  • 事業: 慶長七年(1602年)、吉政は日本最大の干満差を誇る有明海の広大な干潟を、豊かな水田へと変える壮大な干拓事業を計画。その核心となったのが、大川の酒見から高田町の渡瀬に至る、総延長約32kmにも及ぶ長大な潮止め堤防、通称「慶長本土居」の建設であった 3
  • 実行: この巨大事業の実行過程は、伝説として語り継がれている。同年八月、潮が大きく引く干潮の時期を狙い、領内から数万人の農民を動員し、第一期工事区間である約25kmの堤防を、わずか三日間で一気に築き上げたとされる 5 。これは、周到な計画と卓越した動員力、そして領民の多大な労苦の結晶であった。
  • 影響: この堤防の内側には、広大な干拓地が生まれ、筑後国の実質的な石高は飛躍的に増大した 27 。これは、第二章で設定した野心的な石高「田中高」を、絵に描いた餅で終わらせず、現実に近づけるための、具体的かつ最大級の施策であった。

第三節:人と物の流れを創る

近世城郭への大改修:柳川城の変貌

  • 事業: 筑後三十二万五千石という大領国の府にふさわしい権威と機能を備えるため、吉政は柳川城の大規模な改修に着手した 13 。彼は国元の奉行に対し、天守台の建造や石垣のための資材調達など、細部にわたる指示を自ら出し、この事業を強力に主導した 29
  • 成果: この改修によって、五層の壮麗な天守閣が聳え立ち、城郭全体が石垣と堀で固められた 19 。中世的な城館であった柳川城は、名実ともに堅固な近世城郭へと生まれ変わったのである 28

領国を結ぶ大動脈:「田中道」の建設と城下町の形成

  • 事業: 領国の一体的な運営のため、本城・柳川と最重要支城・久留米を結ぶ、軍事・経済の大動脈として、新街道「田中道(久留米柳川往還)」を建設した 22
  • 影響: さらに慶長八年(1603年)には、この街道沿いに土甲呂町や津福町といった新しい町を創設し、諸役を免除することで商工業の振興を図った 5 。これにより、領内の物流は活性化し、経済的な一体化が促進された。柳川城下町自体も、商業地区(上町、中町)や行政の中心(札の辻)を計画的に配置するなど、機能的な都市設計が行われた 22

吉政の一連の土木事業は、それぞれが独立したものではなく、相互に連携しあう統合的なシステムとして構想されていた。川を治めることで洪水が減り、干拓地の安全性が高まる。干拓で得た新たな農地からの税収が、次の事業の原資となる。城を改修して権威の象徴とすると同時に、城下に清流を引き込み、商業地区を整備することで、人々が集まる魅力的な都市を創り出す。そして、街道が城と町、新田を結びつけ、領国全体の血流を良くする。これこそ、筑後国という「国家」のOS(オペレーティングシステム)を根底から書き換える、吉政の壮大な国家経営そのものであった。

結章:二十年の治世が遺した礎

田中氏の改易と立花宗茂の奇跡的な復帰

田中吉政は、筑後国の未来を形作る数々の大事業を推進したが、その完成を見届けることは叶わなかった。慶長十四年(1609年)、京都伏見の屋敷にて六十二歳でその生涯を閉じた 5 。家督は子の忠政が継いだが、元和六年(1620年)、忠政が嗣子なくして没したため、田中家は無嗣断絶により改易となった 3 。吉政が心血を注いだ田中氏による筑後統治は、わずか二代、二十年という短い期間で幕を閉じることになったのである。

その後、筑後の地には、歴史の奇跡とも言うべき出来事が起こる。かつての領主であり、関ヶ原の戦いで西軍に与したために改易されていた立花宗茂が、徳川幕府から旧領への復帰を許され、再び柳川藩主として返り咲いたのである 13 。これは、関ヶ原で敗れた西軍の将としては唯一のことであり、宗茂の武勇と人徳がいかに高く評価されていたかを物語る、異例中の異例の措置であった。

後継者・立花氏に引き継がれたインフラという遺産

二十年の時を経て宗茂が戻った柳川、そして筑後国は、彼がかつて治めていた頃の姿とは大きく異なっていた。そこには、田中吉政が築き上げた強固な社会経済基盤が存在していた。制御された河川、安定した水利システム、有明海沿岸に広がる広大な干拓新田、領内を結ぶ整備された街道網、そして近世城郭として生まれ変わった柳川城 31 。宗茂の国づくりは、一度は頓挫したが、結果的に吉政が築いたこのインフラという偉大な「遺産」の上に再開されることになった。立花藩がその後、明治維新に至るまで二百五十年にわたり安定した統治を続けることができた背景には、この田中時代の基盤整備が大きく貢献していたことは疑いようがない。

現代に息づく田中吉政の功績

田中吉政の統治は、統治者個人の家系の存続という点では「失敗」に終わったかもしれない。しかし、領国そのものの価値と持続可能性を高めるという、為政者のもう一つの重要な使命においては、歴史に残る「大成功」を収めたと言える。彼の真の遺産は血統ではなく、大地に刻まれたインフラそのものであった。

吉政が整備した柳川の堀割網は、四百年以上の時を経た現代においても「水郷柳川」の象徴として、人々の生活に深く根付き、多くの観光客を魅了し続けている 24 。筑後川の現在の流路や、有明海沿岸に広がる豊かな農地など、彼が行った大規模な国土改造の痕跡は、福岡県南部の地形や土地利用の中に今なお明確に見て取ることができる 22

名将・立花宗茂の劇的な人生の影に隠れ、その功績は必ずしも広く知られているとは言えない。しかし、田中吉政はわずか二十年の治世で、筑後地方のその後の数百年にわたる発展の礎を築いた、偉大な行政家であり、卓越した経営者であった。彼の死後、立花氏の統治下となっても、田中家の菩提寺である眞勝寺が柳川城下に手厚く残されたという事実は、後継者である立花氏もまた、前任者である吉政の偉大な功績に深い敬意を払っていたことを静かに物語っている 19 。それは、単なる勝者と敗者の関係を超えた、統治と開発の歴史が織りなす、深い物語なのである。

引用文献

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  4. 戦国の出世頭・田中吉政とは?名バイプレーヤーのちょっといい話を紹介! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/165946/
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  6. 14.敗者・石田三成の最期を追う 関が原から古橋へ | 須賀谷温泉のブログ https://www.sugatani.co.jp/blog/?p=3712
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