神田明神社領安堵(1604)
神田明神は1604年、徳川家康から社領安堵を受け、江戸総鎮守に。武神信仰から幕府の宗教政策に組み込まれ、江戸の繁栄を支える。その役割は大きかった。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長九年 神田明神社領安堵の深層 —戦国から泰平へ、徳川家康の江戸経営と宗教戦略—
序章:戦国乱世における神田明神の存在
徳川家康による慶長九年(1604年)の神田明神社領安堵を歴史的に評価するためには、まず徳川氏が関東の支配者となる以前、すなわち戦国乱世の渦中において、神田明神がいかなる存在であったかを理解することが不可欠である。その歴史は、単なる一地域の産土神に留まらず、関東武士の精神的支柱としての重層的な性格を帯びていた。
第一節:創建と平将門公の合祀
神田明神、正式名称を神田神社と称するこの社は、その起源を遠く奈良時代に遡る。社伝によれば、天平二年(730年)、出雲系の氏族である真神田臣(まかんだおみ)が、武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町付近)に祖神である大己貴命(おおなむちのみこと)を祀ったことを創始とする 1 。この地は古く伊勢神宮の神領である御田(みた)、すなわち「神田」であったとされ、その土地の鎮守として「神田ノ宮」と称されたことが、社の名の由来と伝えられている 1 。当初は五穀豊穣を祈る農耕神としての性格が強かったと考えられる 4 。
しかし、この神社の性格を決定的に変え、後に関東武士の篤い崇敬を集めるに至ったのは、平安時代中期の武将、平将門公の存在である。承平・天慶年間に関東で大規模な争乱を起こし、朝廷に敗れた将門公の首は京都で晒された後、東国へと飛来し、奇しくも神田ノ宮のほど近くに落ちたと伝えられる 1 。その地は「将門塚」として、関東の武士たち、特に平氏の流れを汲む者たちから畏敬の念をもって祀られるようになった 1 。
時代が下り、嘉元年間(14世紀初頭)に江戸一帯で疫病が流行し、天変地異が頻発した際、人々はこれを将門公の祟りであると恐れた 1 。その御霊を鎮めるため、時宗の遊行僧であった真教上人による供養が行われ、延慶二年(1309年)、ついに将門公の御霊は神田ノ宮に相殿神として正式に合祀されるに至った 1 。この合祀により、神田明神は土地の守護神という性格に加え、朝廷の権威に屈せず民衆のために立ち上がった武神、そして祈願すれば「勝負に勝つ」とされる霊験あらたかな神としての神格を確立したのである 1 。
第二節:関東の覇者たちによる崇敬
将門公を祭神とすることで武神としての性格を強めた神田明神は、戦国時代に入ると、関東の覇権を争う武将たちにとって、その武運を祈願し、自らの支配の正統性を担保するための重要な信仰対象となった。
室町時代後期、江戸城を築城した太田道灌は、江戸の鎮守として神田明神を篤く崇敬したと伝えられる 8 。道灌の時代、神田明神は既に江戸という都市の守護神として、その地位を固めつつあった。
その後、関東の支配者となった後北条氏もまた、神田明神への崇敬を継承した。特に二代目当主である北条氏綱は、神田明神を深く信仰した武将として知られている 8 。戦国大名が自らの領国内の有力寺社を保護し、その権威を自らの支配に取り込むことは、領国経営の安定化を図る上で常套手段であった 10 。後北条氏が武蔵国において寺社領を安堵した事例は複数確認されており 12 、神田明神もまた、その庇護下で一定の地位を保っていたと考えられる。徳川家康が江戸に入府する以前から、「神田」という地名が後北条氏配下の武士の知行地として確認されていることからも 5 、この地域と神田明神が後北条氏の支配体制下にあったことは明らかである。
このように、徳川家康が江戸の新たな支配者として登場する以前、神田明神は既に、太田道灌、そして後北条氏という関東の歴代覇者から崇敬を集めるという「実績」を積み重ねていた。家康が数多ある関東の神社の中から特に神田明神を重視したのは、決して偶然や単なる個人的信仰心の発露によるものではない。それは、将門公を祀ることで在地武士の精神的拠り所となっていた神社の権威を巧みに利用し、後北条氏から関東の支配権を継承した自らの正統性を在地社会に示威するという、極めて高度な政治的計算に基づいた戦略的選択であった。前支配者の築いた権威構造を否定するのではなく、それを自らのものとして取り込むことによって、新たな支配を円滑に浸透させるという、家康ならではの統治手法がここにも見て取れるのである。
第一章:徳川家康の江戸入府と神田明神の戦略的価値(天正十八年〜慶長五年)
天正十八年(1590年)の徳川家康の江戸入府は、神田明神の歴史における大きな転換点であった。この時から関ヶ原の戦いを経て江戸幕府を開府するまでの約十年余りの期間は、家康と神田明神の関係が急速に深化し、その後の「江戸総鎮守」としての地位を決定づける重要な時期であった。
第一節:江戸入府と最初の社領寄進(天正十八年〜天正十九年)
天正十八年(1590年)、小田原征伐によって後北条氏が滅亡すると、豊臣秀吉の命により、徳川家康は長年本拠地としてきた三河国などを離れ、関東への国替えを余儀なくされた。新たな本拠地として定められた江戸は、当時、太田道灌が築いた城塞を後北条氏が多少整備した程度のものであり、広大な湿地帯が広がる寂れた地であった 14 。
このような状況下で、家康は新たな領国経営に着手する。その初期の政策の一つとして注目されるのが、在地で影響力を持つ寺社への保護策である。江戸入府の翌年、天正十九年(1591年)十一月、家康は神田明神に対して社領三十石を寄進した 16 。これは、家康が江戸の地で最初期に行った具体的な寺社政策の一つであり、この時点で既に神田明神を関東支配における重要な存在として認識していたことを明確に示している。同時期、家康は他の関東の寺社にも社領の寄進を行っており 17 、これらは新領主として在地勢力の心を掴み、領国支配を安定させるための懐柔策の一環であった。しかし、後北条氏をはじめとする歴代の関東支配者が崇敬してきた神田明神への寄進は、単なる懐柔に留まらず、自らがその正統な後継者であることを宣言する政治的意味合いをも含んでいた。
第二節:関ヶ原合戦と勝利の神(慶長五年)
家康の神田明神に対する認識が、単なる「在地有力社寺の懐柔」から、「自らの覇業を支える守護神」へと質的に変化する決定的な契機となったのが、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いである。
豊臣秀吉の死後、天下の覇権を巡って石田三成ら西軍との対立が避けられない状況となる中、家康は会津の上杉景勝討伐のため江戸を発った。そして、天下分け目の決戦に臨むにあたり、家康は神田明神に戦勝の祈祷を命じたのである 2 。これは、家康個人の、そして徳川家の命運を賭した戦いにおいて、神田明神に祀られる「勝利の神」平将門公の神威を自らの側に引き寄せようとする、切実な願いの現れであった。
同年九月十五日、家康率いる東軍は関ヶ原において西軍を破り、劇的な勝利を収める。そして、この勝利の日は、奇しくも神田明神の祭礼日と一致していた 18 。この偶然の、しかしあまりにも劇的な符合は、家康の勝利が神田明神の神威によるものであり、天命によって徳川家が選ばれたのだという強力な物語性を生み出した。
この出来事以降、神田明神は徳川家にとって比類なき「縁起の良い神社」となり、将軍家代々の篤い崇敬を受けることとなる 18 。家康はこの勝利を記念し、神田祭を徳川家縁起の祭りとして絶やすことなく盛大に執り行うよう命じたと伝えられている 20 。個人的な祈願が「天命」によって聞き届けられたというこの物語の創出こそが、神田明神を単なる庇護対象から、徳川家の支配の正統性を神意によって証明する装置へと昇華させ、後の「江戸総鎮守」への道を開く決定的な一歩となったのである。
第二章:慶長九年(1604年)「神田明神社領安堵」の刻—朱印状発給のリアルタイム分析
関ヶ原の勝利を経て、徳川家康は日本の実質的な最高権力者となった。そして慶長九年(1604年)、家康は神田明神に対して社領の「安堵」を行う。この一事をもって「神田明神社領安堵」と称される事変は、単なる経済的支援の継続ではなく、徳川幕府という新たな国家体制の中に神田明神を正式に位置づける、極めて重要な法的・政治的行為であった。
第一節:征夷大将軍就任と江戸幕府の始動
慶長八年(1603年)、徳川家康は朝廷より征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いた 1 。これにより、家康は関東の一大名から、名実ともに天下人へとその地位を変えた。将軍就任は、徳川氏による武家政権の樹立を内外に宣言するものであり、これ以降、家康は新たな国家秩序の構築を本格化させる。
その一環として、江戸の大規模な都市改造、いわゆる「天下普請」が開始された。全国の諸大名に動員が命じられ、江戸城の拡張工事や市街地の整備が急ピッチで進められた 14 。この都市計画の過程で、神田明神もまたその影響を受ける。江戸城の拡張に伴い、それまで大手町付近にあった社地からの移転を余儀なくされ、慶長八年にまず神田台へと遷座している 1 。この事実は、慶長九年の社領安堵が、江戸全体のグランドデザインと密接に連動した政策であったことを強く示唆している。
第二節:朱印状による「安堵」の法的・政治的意味
慶長九年(1604年)、家康は将軍の名において、神田明神の社領三十石を「安堵」する朱印状を発給した。ここで注目すべきは、天正十九年(1591年)の行為が「寄進」であったのに対し、今回は「安堵」であるという点である。「寄進」が一個人の武将による恩恵的な土地の付与であるのに対し、「安堵」は最高権力者が既存の所領所有権を公式に承認し、保証するという意味を持つ。
この安堵に用いられたのが「朱印状」である。領知朱印状とは、江戸時代において将軍が公家、武家、そして寺社の所領を法的に確定させる際に発給する公式文書であった 22 。家康・秀忠の治世初期においては、黒印状が用いられるなど書式が完全に定まってはいなかったものの、寺社領の安堵や寄進に朱印状を用いるという基本方針は確立されていた 22 。この朱印状の発給を受けることは、対象となる寺社が徳川幕府の支配体制、すなわち幕藩体制の中に正式に組み込まれることを意味した。
なぜ1591年の「寄進」だけでは不十分で、1604年に改めて「安堵」が必要だったのか。その理由は、発給者である家康の立場の変化にある。1591年時点の家康は、あくまで豊臣政権下の一大名に過ぎず、彼が発給する文書は私的な性格を免れなかった。しかし、1603年に征夷大将軍となり江戸幕府を開いたことで、家康は日本の最高統治者となった。彼が将軍として発給する朱印状は、国家の最高法規に準ずる公的な効力を有するのである。
したがって、慶長九年の社領安堵は、戦国大名・徳川家康による神田明神との私的な庇護関係を、征夷大将軍・徳川家康による公的な支配・被支配の関係へと転換させる、画期的な法的・政治的儀式であった。それは、戦国時代以来の旧来の権力関係を一度清算し、すべての土地と権威を将軍の権威の下に再編成するという、江戸幕府の基本的な統治方針の現れに他ならない。神田明神は、この朱印状を受け入れることで、幕府の最高権威を認め、その統制下に入る公認の宗教機関として、新たな時代における自らの地位を再定義されたのである。
第三章:社領三十石の持つ意味と江戸総鎮守への道
慶長九年の朱印状によって安堵された神田明神の社領は三十石であった 16 。この「三十石」という数字は、神田明神の徳川幕府における位置付けを理解する上で、極めて示唆に富んでいる。それは、神社の重要性が必ずしも経済的な規模によって測られるものではなく、江戸という都市における霊的・地政学的な役割にあったことを物語っている。
第一節:社領三十石の経済的価値の定量的評価
まず、社領三十石が持つ経済的価値を定量的に評価する必要がある。一石は成人一人が一年間に消費する米の量に相当し、約150キログラムである。したがって、三十石は約4,500キログラムの米に相当する。これを2003年時点の価値で換算した研究によれば、一石の現在価値は約5万円、現代の賃金感覚から換算すると約27万円とされている 23 。これに基づけば、三十石の社領は年間で現在価値にして150万円、現代感覚では810万円程度の収入に相当する。
この額は、神社の基本的な維持管理や神職の生活を支える上で一定の基盤とはなったであろう。しかし、江戸の総鎮守としての大規模な祭礼の斎行や、壮麗な社殿の維持をすべて賄うには、到底十分な額とは言えない。この事実は、幕府が神田明神に与えた公式な経済的基盤が、その名声や役割に比して限定的なものであったことを示している。
第二節:他の徳川家ゆかりの寺社との比較分析
三十石という社領の持つ意味をより明確にするためには、同じく徳川家から篤い崇敬を受けた他の大寺社との比較が不可欠である。徳川家の菩提寺であった芝の増上寺(浄土宗)と、家康の側近であった天海大僧正が創建し幕府の祈願所となった上野の寛永寺(天台宗)は、その代表格である。
増上寺は、家康が江戸に入府して以来、徳川家の菩提寺と定められ、江戸時代を通じて特別な保護を受けた。その寺領は一万石余りに達し、境内には五十以上の子院が立ち並び、「寺格百万石」とまで称されるほどの隆盛を誇った 24 。一方、寛永寺は江戸城の鬼門鎮護を目的として寛永二年(1625年)に創建され、最盛期には寺領が一万一千七百九十石、寺域は三十万坪を超えていた 26 。
これらの大寺院と神田明神の朱印地石高を比較すると、その差は歴然としている。
寺社名 |
宗旨・宗派 |
徳川家との関係 |
朱印地石高 |
典拠 |
神田明神 |
神道 |
江戸総鎮守、鬼門鎮護 |
30石 |
16 |
増上寺 |
浄土宗 |
徳川家菩提寺 |
10,000石余 |
24 |
寛永寺 |
天台宗 |
徳川家祈願所、菩提寺、鬼門鎮護 |
11,790石 |
27 |
川勾神社 |
神道 |
朝鮮出兵戦勝祈願 |
50石 |
17 |
小野神社 |
神道 |
武蔵国一宮 |
15石 |
29 |
この表が示すように、神田明神の三十石という社領は、幕府の宗教政策の中核を担った増上寺や寛永寺とは比較にならないほど小規模であった。この事実は、幕府が寺社の機能や役割に応じて、経済的支援の規模を明確に区別していたことを物語っている。神田明神の価値は、直接的な経済力ではなく、別の次元にあったのである。
第三節:江戸城の鬼門鎮護と「江戸総鎮守」の完成
神田明神が持つ本質的な価値、それは江戸という都市の霊的な守護という役割にあった。その役割が最終的に完成するのが、社領安堵から十二年後の元和二年(1616年)に行われた遷座である。
この年、神田明神は幕府の命により、江戸城から見て北東、すなわち「表鬼門」の方角にあたる現在の外神田の地へと遷された 2 。これは、陰陽道や風水の思想に基づき、都市の不吉とされる方角に有力な寺社を配置することで、災厄から江戸全体を守護しようとする、幕府の明確な都市計画の一環であった。この遷座によって、神田明神は江戸城、ひいては江戸の街全体を守る「江戸総鎮守」としての地政学的な役割を決定づけられたのである 21 。
幕府はこの遷座に伴い、壮麗な社殿の造営も行っている 18 。そして、その社殿の各所には徳川家の家紋である「三つ葉葵」が飾られた 7 。これは、神田明神の神威が徳川将軍家の権威と一体であり、その守護が幕府公認のものであることを、江戸の万民に対して視覚的に示す強力な象徴であった。
結論として、三十石という朱印地は、幕府による公的な庇護を示す象徴的な意味合いが強かったと言える。神田明神の実質的な経済基盤は、この象徴的な「固定給」よりも、将軍家からの臨時の寄進や、「江戸総鎮守」という幕府が与えた絶大なブランド価値によって集まる江戸庶民からの賽銭、そして門前町の商業活動からもたらされる潤沢な収益によって支えられていたのである。幕府は、寺社をその機能に応じて巧みに使い分け、直接的な経済支援は抑制しつつも、象徴的な権威を与えることで間接的な繁栄を促すという、極めて洗練された宗教政策を神田明神に対して展開したのである。
第四章:社領安堵がもたらした門前町の復興と繁栄
慶長九年の社領安堵とそれに続く「江戸総鎮守」としての地位確立は、神田明神そのものの基盤を安定させただけでなく、その周辺地域に未曾有の繁栄をもたらした。幕府の権威を背景とした神社の隆盛は、人、物、そして資本を磁石のように引き寄せ、江戸有数の賑わいを見せる門前町を形成する原動力となったのである。
第一節:経済的基盤の安定と門前町の形成
社領安堵によって神社の経済的・社会的地位が幕府の公認のもとに安定したことは、神社の周辺に人々が安心して集住し、商いを始めるための大きな前提条件となった。特に、元和二年に現在地へ遷座して以降、神田明神の門前は江戸の都市開発の中で急速に発展を遂げる 3 。
江戸の街は幾度となく大火に見舞われたが、中でも明暦三年(1657年)の「明暦の大火」は、都市構造を大きく変える契機となった。幕府は延焼を防ぐため、市中に密集していた寺社を郊外へ移転させる政策を推進し、その跡地は武家屋敷や町人のための代地として再開発された 35 。神田明神の周辺も例外ではなく、移転した寺社の跡地に新たな町屋が形成され、門前町はさらに拡大していった 36 。神田明神下御台所町や神田同朋町といった町名の成立と変遷は 35 、この地域の人口が増加し、町として成熟していく過程を物語っている。
第二節:『江戸名所図会』に見る門前の賑わい
江戸時代後期の門前町の繁栄ぶりを今日に伝える貴重な資料が、斎藤月岑が企画し、長谷川雪旦が絵を描いた地誌『江戸名所図会』である。天保七年(1836年)に刊行されたこの書物には、「神田明神社」および「神田明神祭礼」の様子が活き活きと描かれている 39 。
雪旦の筆による「神田明神社」の図会を見ると、鳥居から社殿へと続く参道の両脇には、参拝客を相手にする茶屋や商店が軒を連ねている 40 。さらに、境内には楊弓場(弓の射的場)や芝居小屋まで描かれており、神田明神が単なる信仰の場に留まらず、江戸庶民にとっての一大レクリエーション・スポット、すなわち娯楽と商業が一体となった空間であったことが見て取れる 40 。神田明神の大鳥居脇に今も残る甘酒屋の老舗「天野屋」は、弘化三年(1846年)の創業と伝えられ、こうした門前町の賑わいが長きにわたって継続した生きた証左である 41 。
第三節:「天下祭」の隆盛と町人文化
神田明神と門前町の繁栄を象徴するのが、隔年で斎行された神田祭である。この祭礼は、京都の祇園祭、大阪の天神祭と並び称されるほどの規模を誇り、特に江戸城内への行列の乗り入れが許され、将軍が上覧することから「天下祭」という別格の称号を与えられていた 1 。
『江戸名所図会』に描かれた祭礼の行列は、豪華絢爛な山車や練り物が延々と続く壮大なものであった 40 。この壮大な祭りの運営を支えたのは、神田、日本橋、秋葉原などに住む108か町の氏子たち、すなわち江戸の町人たちであった 43 。彼らは自らの財力と労力を惜しみなく注ぎ、祭りを盛り上げた。例えば、天保年間には神田の町火消し「い」「よ」「は」「萬」の四組が、現在も男坂として知られる急な石段を神社に献納しており 39 、町衆の神社に対する篤い信仰心と、それを形にするだけの経済力があったことを示している。
この「天下祭」は、門前町に莫大な経済効果をもたらした。祭りの期間中、江戸中から見物客が押し寄せ、周辺の茶屋や飲食店、宿屋は大いに潤った。それは単なる経済活動に留まらず、町衆の連帯感を育み、江戸っ子の気質を象徴するような粋で華やかな町人文化を開花させる土壌ともなったのである。
このように考察すると、慶長九年の社領安堵が直接的に門前町の繁栄をもたらしたという単純な因果関係よりも、より複合的な構造が見えてくる。幕府による社領安堵は、神田明神の地位を安定させ、「江戸総鎮守」という絶大なブランド価値を付与する出発点であった。この権威と人気が、江戸中から人・モノ・資本を引き寄せる巨大な「生態系」を創出し、その結果として門前町が自律的に発展・繁栄したのである。幕府の政策は、直接的な経済介入ではなく、神社の権威付けを通じた間接的な都市開発・経済振興策として、極めて効果的に機能したと言えよう。
結論:徳川幕府の宗教政策における神田明神の位置付け
慶長九年(1604年)の神田明神社領安堵は、戦国時代の終焉と江戸という新たな泰平の時代の幕開けを象徴する、多層的な意味を内包した事象であった。それは、単に一つの神社が経済的基盤を保証されたという局所的な出来事に留まらず、徳川幕府が目指した新たな国家秩序の構築、すなわち、宗教をも統制下に置き社会の安定と民衆の管理に利用するという、広範な宗教政策の一環として位置づけられるべきものである。
江戸幕府は、キリスト教の禁教を徹底するため、民衆にいずれかの仏教寺院の檀家となることを義務付ける「寺請制度(寺檀制度)」を確立した 44 。また、各宗派の本山に末寺を管理させる「本末制度」や、神職を統制するための「諸社禰宜神主法度」を制定し、国内のあらゆる宗教勢力を幕府の厳格な管理下に置こうと試みた 47 。
このような宗教統制の大きな枠組みの中で、神田明神は特異な位置を占める。幕府は神田明神に対し、増上寺や寛永寺のような巨大な経済的基盤(寺領)を与えることはなかった。その代わりに、「江戸城の鬼門鎮護」という霊的・地政学的に極めて重要な役割を担わせ、「江戸総鎮守」という比類なき権威を付与した。これは、幕府が宗教勢力に対して、弾圧や経済的支配一辺倒ではなく、その伝統的な権威や民衆からの信仰を巧みに利用し、自らの支配の正統性を補強する装置として活用したことを示す好例である。
特に、神田明神が祀る平将門公の「武神」「勝利の神」としての神格は、武力によって天下を平定した徳川家の物語と極めて高い親和性を持っていた。関ヶ原での勝利と祭礼日の一致という劇的な逸話は、徳川の支配が神意によるものであることを民衆に印象付ける上で、この上なく効果的なプロパガンダとして機能した。
慶長九年の社領安堵は、この壮大な構想の起点であった。朱印状という公的な文書によって、神田明神は徳川の国家体制に正式に組み込まれ、その権威は幕府によって保証された。この保証こそが、後の遷座、社殿造営、「天下祭」の隆盛、そして門前町の繁栄へと連なるすべての発展の礎となったのである。戦国の動乱を生き抜いた古社は、徳川の新たな秩序の中でその役割を再定義され、江戸という巨大都市の守護神として、二百六十余年にわたる泰平の世を見守り続けることとなった。その姿は、宗教と政治が密接に絡み合いながら新しい時代を形成していった、日本の近世史の縮図そのものである。
引用文献
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- HISTORY - 神田明神1300年事業 https://1300th.kandamyoujin.or.jp/history/
- 近世までの歴史 ~ 神田 | このまちアーカイブス - 三井住友トラスト不動産 https://smtrc.jp/town-archives/city/kanda/index.html
- 日本史を揺るがした“あの”風雲児を祀る、江戸の総鎮守「神田明神」の知られざる秘密! https://tenki.jp/suppl/mike/2015/12/25/8961.html
- 神田(JY02): 伊勢神宮の領田「神の田んぼ」に由来 | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c13320/
- 神田明神(神田神社) - 美しき日本 全国観光資源台帳 https://tabi.jtb.or.jp/res/130121-
- 境内案内|江戸総鎮守 神田明神 https://www.kandamyoujin.or.jp/keidai/
- 神田明神~平将門を祀る神社~ https://www.yoritomo-japan.com/kanda-myojin.html
- 神田神社(神田明神) / 東京都千代田区 | 御朱印・神社メモ https://jinjamemo.com/archives/kandajinja.html
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