最終更新日 2025-09-29

聚楽第御所返上(1591)

天正19年、秀吉は甥・秀次に聚楽第と関白職を譲り、太閤となる。後継者問題と朝鮮出兵を背景に、豊臣政権の永続性を図るも、秀頼誕生で秀次粛清、聚楽第も破却され、豊臣家滅亡の遠因となる悲劇を招いた。
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天正19年「聚楽第御所返上」の真相:豊臣政権における権力継承の光と影

序章:天正19年、豊臣政権の頂点と潜在的危機

天正19年(1591年)、豊臣秀吉が築き上げた政権は、その権勢の頂点に達していた。前年(1590年)の小田原征伐と奥州仕置をもって、日本国内における対抗勢力は一掃され、名実ともに天下統一が完成した 1 。秀吉は、全国規模での太閤検地や刀狩令、身分統制令といった革新的な中央集権政策を次々と断行し、戦国乱世の統治構造を根底から覆し、新たな時代を切り拓いていた 1 。この輝かしい時代の象徴こそが、京都に造営された壮麗な政庁、聚楽第であった。

本報告書で詳述する「聚楽第御所返上」という事変は、しばしば「秀吉が御所機能を朝廷に返上した」と誤解されがちであるが、その実態は全く異なる。これは、秀吉が保持していた関白の職と、その政庁たる聚楽第を、後継者である甥・豊臣秀次に「譲渡」した、豊臣氏内部における権力継承の一大事業であった 6 。この事象を正確に理解するためには、まず聚楽第そのものが持つ、極めて高度な政治的・象徴的意味を解き明かす必要がある。

聚楽第は、天正14年(1586年)に着工され、翌15年(1587年)に完成した、関白秀吉の政庁兼邸宅である 9 。その立地として選ばれたのは、かつての平安京大内裏の跡地、「内野」と呼ばれる場所であった 11 。京都御所から西へわずか1キロメートル余りというこの地を選んだこと自体に、秀吉の朝廷に対する強い意識が窺える 13 。彼は、天皇の伝統的権威に寄り添い、それを自らの権力基盤に組み込むことで、天下人としての正統性を確立しようとしたのである。

その政治的意図が最も鮮明に現れたのが、天正16年(1588年)4月に行われた後陽成天皇の聚楽第行幸であった。5日間にわたって繰り広げられたこの壮大な饗宴は、秀吉が天皇を「臣下」として迎え入れ、その威光を背景に全国の諸大名に絶対的な忠誠を誓わせるための、空前絶後の政治的演出であった 12 。この時、聚楽第は単なる建築物ではなく、天皇の権威を取り込み、新たな支配秩序を可視化するための巨大な装置として機能したのである 16

興味深いのは、聚楽第が持つ二重性である。その名は「第(てい)」、すなわち貴人の邸宅を意味するが、その実態は堀や石垣、櫓、そして天守まで備えた紛れもない「城」であった 12 。この名称と構造の矛盾は、秀吉の巧みな統治戦略を象徴している。公家の頂点たる関白として、朝廷に対しては融和的な「第」を名乗り、文化的な交流の場としての側面を強調する。一方で、全国の武家に対しては、最新鋭の軍事技術を結集した「城」としての威容を見せつけ、その圧倒的な力を誇示する。聚楽第は、秀吉の二元的な統治姿勢そのものを体現した建築物であり、その存在自体が高度な政治的メッセージを発していたのである。

本報告書は、この聚楽第を舞台に行われた1591年の権力移譲、すなわち「関白職と聚楽第の譲渡」という事象を、その背景から詳細な時系列、そして破局に至るまでの過程を徹底的に分析するものである。それは、豊臣政権の永続性を目指した合理的な戦略が、いかにして一族の悲劇へと転落していったのかを解き明かす試みでもある。

第一部:権力移譲への道程 ― 1591年の政情と後継者問題

天下統一を成し遂げた豊臣政権であったが、その栄華の裏で、政権の根幹を揺るがしかねない深刻な問題が進行していた。それは、後継者問題である。一代で天下の頂点に登り詰めた秀吉にとって、その巨大な権力を誰に、どのように継承させるかは、自らの生涯を懸けた事業の完成を左右する最重要課題であった。1591年、この問題は立て続けに起きた悲劇によって、もはや一刻の猶予も許されない危機的状況へと発展する。

第一章:鶴松の夭逝と豊臣家の動揺

天正19年(1591年)は、秀吉にとって相次ぐ身内の死に見舞われる過酷な年であった。まず、1月22日、実弟であり、政権の重鎮として秀吉を支え続けた大和郡山城主・豊臣秀長が病没する 19 。温厚篤実な人柄で知られた秀長は、秀吉の唯一無二の相談役であると同時に、気性の激しい秀吉と諸大名との間に立つ貴重な調整役でもあった。彼の死は、豊臣一門の層を著しく薄くし、政権の安定に大きな影を落とした。

そして、秀吉個人と豊臣政権に決定的な打撃を与えたのが、同年8月5日の出来事である。唯一の実子であった鶴松が、わずか3歳で夭逝したのである 21 。長年子宝に恵まれなかった秀吉が、晩年にようやく得た待望の嫡男であった。その死は、秀吉に計り知れない精神的衝撃を与えただけでなく、豊臣政権の後継者という席を完全に空白にしてしまった。秀吉自身は既に55歳。当時としては紛れもない高齢であり、新たな世継ぎの誕生を期待するのは困難であった。ここに、豊臣政権は後継者不在という時限爆弾を抱え込むことになった。政権の永続性を内外に示すため、早急に後継者を定め、次代の体制を盤石にすることが、喫緊の課題として浮上したのである。

第二章:後継者としての豊臣秀次

秀長と鶴松の相次ぐ死によって、豊臣一門の中で後継者候補として白羽の矢が立ったのが、秀吉の姉・とも(瑞竜院日秀)の長男、豊臣秀次であった 24 。秀吉にとって最も信頼できる血縁者の一人であり、その経歴もまた、次代を担うにふさわしいものであった。

秀次は若い頃、秀吉の戦略の一環として浅井氏旧臣の宮部継潤、次いで畿内の大勢力であった三好一族の三好康長の養子に出されるなど、政治の駒としての役割を担ってきた 20 。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、突出した味方を止められずに敗戦を喫するという失態もあったが 27 、その後の紀州征伐や四国征伐では汚名を返上する働きを見せる。天正18年(1590年)の小田原征伐では大軍を率いる総大将の一人として参陣し、続く奥州仕置においても反乱鎮圧の総大将を務めるなど、着実に武将としての実績を積み重ねていた 28

さらに特筆すべきは、統治者としての優れた内政手腕である。近江八幡山城主時代には、安土城下から商人を移住させて城下町を整備し、琵琶湖と連結する八幡堀を開削して水運を発展させるなど、卓越した都市計画能力を発揮した 30 。彼は単なる武人ではなく、領国経営にも長けた為政者だったのである。

鶴松の死以前から、秀次は政権内で高い地位を占めていた。天正16年(1588年)の聚楽第行幸の際に諸大名が提出した起請文では、徳川家康らに次ぐ4番目に署名しており、政権のナンバー4と目されていた 29 。秀長と鶴松が世を去った今、彼が唯一かつ最有力の後継者候補となるのは、政治的に必然の流れであった 6

しかし、1591年の権力移譲は、単なる後継者問題の解決という側面だけでは説明できない。そこには、秀吉が構想したより壮大な国家デザインが関わっていた。秀吉は、源頼朝以来の武家政権の伝統であった「征夷大将軍」による幕府体制ではなく、公家の最高位である「関白」として天下を治める道を選んだ 1 。この秀吉独自の統治システム、いわば「武家関白制」を永続的なものとするためには、その地位が平和裏に世襲可能であることを天下に示す必要があった。秀吉の存命中に、儀礼的な手続きを経て円滑に権力が移譲されるという前例を作ることは、新体制の制度化に向けた極めて重要なステップだったのである。

加えて、翌年から計画されていた朝鮮出兵という未曾有の大事業も、この決断を後押しした 32 。秀吉自身が対外戦争に専念するためには、国内の統治を信頼できる後継者に委ね、盤石の体制を築いておく必要があった。鶴松の死という個人的な悲劇は、結果として、後継者問題の解決、朝鮮出兵への体制整備、そして「武家関白制」の世襲化という、三つの戦略的目標を同時に達成するための壮大な政治実験へと昇華されることになったのである。

第二部:権力禅譲のリアルタイム分析 ― 1591年11月~12月

鶴松の死からわずか3ヶ月後、豊臣政権は次代への権力移譲に向けて急速に動き出す。ご依頼の核心である「事変中のリアルタイムな状態」を再現するため、ここでは1591年末の具体的なプロセスを、日付を追って詳細に分析する。この一連の流れは、秀吉の周到な計画性と、朝廷の権威を利用した巧みな政治演出を浮き彫りにする。


表1:天正19年(1591年)主要関連年表

年月日

出来事

備考

1月22日

豊臣秀長、死去。

政権の重鎮を失う。

2月28日

千利休、切腹。

政権内部の緊張を示す。

8月5日

豊臣鶴松、夭逝。

後継者問題が深刻化。

9月頃

秀吉、秀次を養嗣子とする意向を固める。

権力移譲の準備開始。

11月頃

関白譲渡に向けた朝廷との交渉が本格化。

水面下での調整が進む。

12月15日

秀吉、関白辞任を奏上。後任に秀次を推挙。

公式手続きの開始。

12月17日

秀次、内大臣に任官。

関白就任への階梯。

12月28日

秀次、関白宣下を受ける。秀吉は「太閤」となる。

新体制の発足。

12月29日以降

秀次、聚楽第へ移り、新関白としての政務を開始。

権力移譲の完了。


第一章:水面下の調整と公式発表

鶴松の死後、秀吉が秀次を養子とし、関白職を譲る意向を固めてから、それが公式な手続きとして表面化するまでの約3ヶ月間、水面下では周到な根回しが進められていた。徳川家康や前田利家といった政権の宿老たちへの内示はもちろんのこと、最も重要なのは朝廷との事前調整であった。武家による関白職の世襲は前代未聞であり、朝廷の理解と協力を取り付けることは、この権力移譲を円滑に進めるための絶対条件であった。

当時の公家たちの日記、例えば吉田兼見の『兼見卿記』や山科言経の『言経卿記』などを通して、この異例の事態が公家社会に与えた衝撃を窺い知ることができる 10 。彼らにとって、秀吉という規格外の権力者が次に何を仕掛けてくるのかは、大きな関心事であった。驚きと共に、新たな権力者となる秀次との関係をいかに構築していくか、公家たちは慎重に探り始めていた。この時期の静かな、しかし緊迫した交渉こそが、年末の華々しい儀式の土台を築いたのである。

第二章:儀式の詳細と政治的演出(12月15日~28日)

水面下の調整が完了すると、事態は一気に公式の舞台へと移る。

12月15日:関白辞任の奏上

この日、秀吉は朝廷に対し、正式に関白の職を辞したい旨、そして後任として養嗣子である秀次を推挙する旨を記した奏上を行う。これは、あくまで秀吉が自らの意思で退き、後継者を推薦するという形式をとることで、朝廷の権威を尊重しつつ、実質的には豊臣家の決定を追認させるという、巧みな手続きであった。

12月28日:新関白の誕生と「太閤」の出現

全ての段取りが整った12月28日、宮中において秀次は勅使から関白に任じる旨の宣旨(せんじ)を受け、正式に第2代武家関白となった 7。時に秀次24歳(満年齢)、若き後継者の誕生である。

そして、この日、もう一つの重要な政治的称号が生まれる。関白職を退いた秀吉に対し、朝廷は前関白への尊称である「太閤(たいこう)」の号を贈ったのである 23 。これにより、秀吉は公式な官職からは退いたものの、依然として最高の権威を持つ特別な存在として君臨し続けることを天下に示した。この「太閤」という称号の獲得は、単なる引退を意味するものではなかった。それは、秀吉が律令官制という既存のシステムの枠組みから自らを解放し、より超越的な立場から権力を行使するための戦略的選択であった。

「関白」は朝廷の官職であり、良くも悪くも律令制という伝統的秩序の中に位置づけられる 34 。秀吉はこのシステムを利用して天下を掌握したが、同時にその制約下にもあった。しかし、関白職を秀次に譲り、自らは「太閤」となることで、公式な職務責任から解放され、序列の外に立つことが可能となった。それでいて、「太閤」は関白経験者への尊称であるため、その権威は現職の関白を凌駕する。これにより、秀吉は制度の外から制度を支配するという、極めて特異な権力構造を創り出した。1591年の権力移譲は、秀次を後継者として公認すると同時に、秀吉自身を「制度」から「超越者」へと昇華させるための、二重の目的を持った高度な政治的仕掛けだったのである。

関白宣下を終えた秀次は、その日のうちに、あるいは翌日以降、新たな政庁であり邸宅でもある聚楽第へと正式に移徙(いし、移り住むこと)した 8 。金箔瓦が輝く壮麗な御殿の主が、秀吉から秀次へと代わった瞬間である。これは単なる引越しではない。豊臣政権の内政における最高責任者の座が、名実ともに秀次に移ったことを天下に示す、極めて象徴的な儀式であった。この一連の滞りないプロセスは、諸大名や民衆に対し、「豊臣の世は盤石であり、後継者への継承も円滑に完了した」と宣言する、計算され尽くした政治的パフォーマンスに他ならなかった。

第三部:二元政治の成立とその実態

1591年末の権力移譲によって、豊臣政権は「太閤」秀吉と「関白」秀次という二つの権威が並び立つ、いわゆる「二元政治」の時代へと移行した。これは、秀吉が描いた新たな統治体制の姿であったが、その実態は複雑であり、構造的な脆弱性を内包していた。


表2:太閤・関白二元政治体制における役割分担(推定)

項目

太閤・豊臣秀吉(大坂・伏見・名護屋)

関白・豊臣秀次(京都・聚楽第)

最高権威

最終意思決定権、軍事・外交の最高指揮権

形式上の国家元首、内政・朝廷儀礼の統括

主要拠点

大坂城、伏見城、名護屋城

聚楽第

担当領域

朝鮮出兵の計画・指揮、全国大名の改易・転封、重要政策の最終承認

日常的な政務、朝廷との折衝、京の治安維持、公家・大名の饗応

権力基盤

天下統一の実績、絶対的な軍事力、直轄地からの経済力

関白という公的地位、聚楽第という政庁、秀吉からの権限委譲


第一章:「太閤」秀吉と「関白」秀次の役割分担

新体制において、秀吉と秀次の役割分担は比較的明確であった。太閤となった秀吉は、かねてからの計画であった朝鮮出兵の準備と指揮に専念するため、肥前名護屋に巨大な城を築き、そこを拠点とした 32 。全国の大名を動員し、海を渡って大陸へと軍勢を送るという国家の存亡をかけた大事業は、すべて太閤秀吉の指揮下に置かれた。また、大名の改易や転封といった最高の人事権、太閤検地のような国家の根幹に関わる政策の最終決定権も、依然として秀吉が掌握し続けており、その実質的な権力は全く衰えていなかった 23

一方、関白となった秀次は、京都の聚楽第を本拠とし、国内の統治、すなわち内政を統括する役割を担った 29 。秀吉が対外戦争に集中する間、国内の安定を維持することが彼の最大の責務であった。その権威を示すため、天正20年(1592年)1月には、自らが主催者となって後陽成天皇の二度目の聚楽第行幸を実現させている 15 。これは、初代関白秀吉の威光を受け継ぎ、自らが名実ともに政権の後継者であることを天下に示すための重要な行事であった。

第二章:聚楽第における秀次の政務と文化活動

聚楽第に入った秀次は、決して飾りの関白ではなかった。彼の祐筆(秘書役)であった駒井重勝が記した『駒井日記』などの史料からは、秀次が日常的に政務に励んでいた様子が窺える 36 。諸大名から持ち込まれる領地争いの訴訟を裁定し、寺社領の所有権を保証する安堵状を発行し、京都の市政に関与するなど、彼は内政の最高責任者として着実に実務をこなしていた。

さらに、秀次は文化人としての側面も持ち合わせていた。和歌や連歌、茶の湯に深い造詣を持ち、聚楽第に多くの公家や文化人を招いては、頻繁に文芸サロンを催した 20 。これは、武辺一辺倒の人物ではなく、高い教養を身につけた為政者として、伝統と格式を重んじる公家社会とも良好な関係を築こうとする努力の表れであった。武力だけでなく文化的な権威をも身にまとうことは、関白という地位にふさわしい統治者となるために不可欠であると、秀次は理解していたのである。

秀吉が意図したこの二元政治は、一見すると機能的な分業体制であった。自身が最も得意とする軍事と、政権の根幹である大名統制は手放さず、煩雑な日常政務や対朝廷政策は後継者である秀次に委ねる。これは、秀次を次代の統治者として育成するための、実地訓練(On-the-Job Training)としての意味合いも持っていた。

しかし、このシステムは極めて属人的で、致命的な脆弱性を抱えていた。それが機能するための絶対条件は、「関白秀次は太閤秀吉の意向に忠実に従う代理人である」という暗黙の了解と、両者の間に存在する個人的な信頼関係であった。この体制は制度として確立されたものではなく、あくまで秀吉という一個人の絶大なカリスマと権力に依存した、暫定的な統治形態に過ぎなかった。この脆い均衡の上に成り立っていた二元政治は、やがて訪れる「想定外の変数」によって、崩壊の時を迎える運命にあった。

第四部:破局への序曲 ― 権力移譲が内包した時限爆弾

1591年の権力移譲は、豊臣政権の永続性を目指した合理的な戦略であった。しかし、そのわずか4年後、後継者であったはずの秀次とその一族は、秀吉の手によって無残に粛清される。この悲劇は、二元政治という統治システムが内包していた構造的欠陥が、一つの出来事をきっかけに露呈し、破綻した結果であった。

第一章:秀頼の誕生と権力構造の変質

二元政治の脆い均衡を打ち破ったのは、文禄2年(1593年)8月の出来事であった。秀吉が57歳にして、側室の淀殿との間に実子・拾(ひろい、後の豊臣秀頼)が誕生したのである 6 。鶴松を失い、血筋による後継を半ば諦めかけていた秀吉にとって、これはまさに望外の喜びであった 37 。しかし、この喜びは同時に、自らが設計した権力継承プランを根底から覆す、深刻な政治問題をもたらした。

我が子・秀頼に天下を継がせたい。その強い親心、あるいは老境に入った権力者の執着が、秀吉の心を支配し始めると、後継者として立てたはずの甥・秀次の存在は、次第に「邪魔なもの」へと変質していった 19 。太閤と関白の間に徐々に心理的な距離が生まれ、二元政治の前提であった信頼関係は、音を立てて崩れ始めた。この頃から、秀次が残虐な行いを繰り返しているという「殺生関白」の悪評が囁かれ始めるが、これらの噂の多くは同時代の信頼できる史料では確認できず、秀次を失脚させるために意図的に流された政治的な中傷であった可能性が高い 6

第二章:秀次事件と聚楽第の破却

文禄4年(1595年)7月、事態は破局を迎える。秀次に謀反の嫌疑がかけられ、関白の職を罷免されると、高野山への追放、そして切腹が命じられた 6 。悲劇はそれに留まらなかった。同年8月2日、京都の三条河原において、秀次の子(4男1女)と妻・側室ら三十数名が、衆人環視の中で次々と惨殺されるという、常軌を逸した公開処刑が行われたのである 26

そして、この粛清と並行して、秀吉はもう一つの冷徹な命令を下す。秀次が関白として政務を執った栄光の政庁、聚楽第の徹底的な破却である 10 。金箔瓦が輝き、壮麗を極めた御殿や天守は次々と解体され、資材は伏見城の築城などに転用された 38 。完成からわずか8年、日本の政治と文化の中心であった幻の都城は、跡形もなく地上から姿を消した 10

この聚楽第の破却は、単なる建物の解体ではなかった。それは、秀次が関白として君臨したという歴史の記憶そのものを、物理的に抹消しようとする秀吉の凄まじい執念の表れであった 10 。1591年、秀吉は聚楽第を舞台に、秀次への関白職譲渡という「武家関白制の世襲」を華々しく演出した。その時点において、聚楽第は豊臣政権の永続性の象徴であった。しかし、秀頼が生まれ、秀次が「誤った選択」の対象となると、聚楽第の意味は一変した。秀次が政務を執ったその場所は、秀吉にとって消し去りたい過去の象徴となったのである。

秀次一族を根絶やしにした上で、その権威の象徴であった聚楽第を破壊し尽くすこと。それは、秀吉が一度は試みた「関白職の世襲による政権の制度化」という理性的・長期的な国家構想を、自らの手で完全に否定し、放棄したことを意味する象徴的行為であった。この瞬間、豊臣政権は「制度」による統治の道を捨て、秀頼への継承という秀吉個人の感情的な欲望を優先する、極めて脆弱な体制へと回帰し、自らの命運を大きく縮めることになったのである。

結論:1591年「聚楽第御所返上」の歴史的意義

天正19年(1591年)に行われた「聚楽第御所返上」、すなわち豊臣秀次への関白職と聚楽第の譲渡は、豊臣政権の歴史における重大な転換点であった。当初、この権力移譲は、後継者不在という政権の脆弱性を克服し、朝鮮出兵という国家的大事業を前に国内体制を盤石にするための、極めて合理的かつ戦略的な一手であった。それは、秀吉個人のカリスマに依存した支配から、世襲を前提とした「武家関白制」という制度による支配へと、政権を昇華させようとする壮大な試みの第一歩であったと言える。

しかし、その根幹には「太閤」秀吉の絶対的な権力が温存されており、秀次を頂点とする内政機構は、秀吉の意向一つで覆されうる属人的なものであった。この構造的欠陥は、秀頼の誕生という予期せぬ、しかし根源的な変数によって無慈悲に露呈する。政権安定化のためのシステムは、皮肉にも政権を揺るがす火種となり、わずか数年で崩壊に至った。

1595年の秀次事件と聚楽第の破却は、豊臣政権に致命的な傷を残した。豊臣一門から有力な後継者候補を完全に失わせただけでなく、この冷酷な粛清は多くの大名に秀吉への不信感を植え付け、政権内に深刻な亀裂を生んだ 8 。これは、秀吉死後の徳川家康の台頭を容易にし、ひいては関ヶ原の戦いを経て豊臣家が滅亡へと向かう、大きな遠因となった。1591年の希望に満ちた権力継承は、結果として豊臣家崩壊の序曲となったのである。

後陽成天皇を迎え、天下の栄華を一身に集めた幻の都城・聚楽第。その主であった秀次の悲劇と共に、跡形もなく地上から抹消されたその運命は、あたかも豊臣政権そのものの盛衰を象徴しているかのようである。一代で天下を築き上げながらも、その継承に失敗し、夢と消えた巨大な権力。聚楽第の栄光と悲劇は、安土桃山という時代が放った眩いばかりの輝きと、その裏に潜む抗いがたい儚さを、今に雄弁に物語っている。

引用文献

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  2. 全国統一を成し遂げた豊臣秀吉:社会安定化のために構造改革 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06906/
  3. Lesson: "World Trends and the Unification Project III - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=YIEk85VTsWE
  4. 5.3 豊臣秀吉の天下統一 https://www.taira-h.tym.ed.jp/wp-content/uploads/2020/04/c06d5f7f8f8fc6666168060f5b7c306e.pdf
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  7. 豊臣秀次とは?悲劇の関白、その生涯と秀次事件の真相に迫る - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/toyotomihidetsugu2/
  8. 秀次事件の謎 http://kenkaku.la.coocan.jp/juraku/ziken.htm
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  14. 京都 聚楽第 秀吉の栄光と斜陽の豪邸 | 久太郎の戦国城めぐり - FC2 http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-76.html
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  18. 聚楽第(名右衛門) https://naemon.jp/kyoto/jyurakutei.php
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  22. 豊臣秀次|国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=67
  23. 天正19年(1591)12月28日は秀吉が関白を甥の豊臣秀次に譲り太閤を称した日。この年の秀吉は弟秀長と3歳の実子・鶴松を相次いで亡くしており秀次を後継者にした。秀次は関白として聚楽第で政務を執る - note https://note.com/ryobeokada/n/n8086e3ca4520
  24. www.biwako-visitors.jp https://www.biwako-visitors.jp/guide/detail/134/#:~:text=%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89%E3%81%AE%E5%A7%89%E3%83%BB%E3%81%A8,%E3%81%8C%E5%BB%BA%E3%81%A6%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
  25. 豊臣秀次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
  26. 豊臣秀吉の「人の殺し方」は狂気としか呼べない…秀吉が甥・秀次の妻子ら三十数名に行った5時間の仕打ち 結果として関ヶ原につながる家臣の分裂を招いた - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/74863?page=1
  27. 「豊臣秀次」豊臣政権2代目関白、切腹事件の謎を読み解く! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/562
  28. 豊臣秀次は何をした人?「殺生関白の汚名を着せられ世継ぎ問題で切腹させられた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/hidetsugu-toyotomi
  29. 豊臣秀吉の最大の汚点! 豊臣秀次事件の経緯を探る - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2426
  30. 聚楽第の2代目の主・豊臣秀次の生涯 http://kenkaku.la.coocan.jp/juraku/hidetugu.htm
  31. 豊臣政権 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%94%BF%E6%A8%A9
  32. 豊臣秀次の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/88131/
  33. 兼見卿記とその紙背文書 - 東京大学史料編纂所 https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kaneko/kanemishihai.pdf
  34. 戦国・織豊期の朝廷政治 - HERMES-IR https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/9279/1/HNkeizai0003301710.pdf
  35. 聚楽第行幸の奉迎行列と還幸行列のコース http://kenkaku.la.coocan.jp/juraku/sandai.htm
  36. 『豊臣政権における聚楽第の意味』 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/s-kouza/kouza217.pdf
  37. 「豊臣秀頼」家康が恐れた秀吉の血、桁外れの人気 謎に包まれたまま育ち母と自害した豊臣の後継者 - 東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/716869
  38. 聚楽第の見所と写真・900人城主の評価(京都府京都市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/132/
  39. kojodan.jp https://kojodan.jp/castle/132/#:~:text=%E7%A7%80%E5%90%89%E3%81%AF%E9%96%A2%E7%99%BD%E8%81%B7%E3%82%92,%E3%82%92%E7%A0%B4%E5%8D%B4%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
  40. 聚楽第の歴史観光と見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/jyurakudai/jyurakudai.html
  41. 20 聚楽第 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/heiansannsaku/jurakudai/img/20jurakudai.pdf