本報告書は、古代中国の兵法書『孫子』が日本の戦国時代において、いかに伝来し、受容され、そして武将たちの戦略・戦術思想や行動にどのような影響を与えたのかを、関連史料や研究成果に基づいて多角的に調査し、その実像を明らかにすることを目的とします。さらに、日本独自の兵法思想との関連性や、後世の研究における『孫子』の評価についても言及し、戦国時代における『孫子』の意義を総合的に考察します。
『孫子』は、一般的に中国春秋時代の呉の将軍とされる孫武によって著されたと伝えられる兵法書です 1 。しかしながら、孫武が実在したか否かについては古来より議論の対象となっており、その著作の成立時期に関しても春秋時代末期から戦国時代にかけての様々な説が存在しています 5 。
『孫子』は全体として十三篇から構成されており 1 、戦争の準備段階から始まり、具体的な作戦の立案、戦闘の遂行方法、地形の戦略的利用、火攻めの戦術、さらには間諜(スパイ)の活用に至るまで、戦争に関わるあらゆる側面を網羅的に論じています。その思想的根幹には、非好戦的でありながらも徹底した現実主義を貫く姿勢が見られ、特に「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」(謀攻篇)という有名な言葉に代表されるように、無益な戦闘を極力避け、謀略や外交交渉によって勝利を収めることを最上の策とする点が特徴的です 1 。
また、「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」(謀攻篇)という格言が示す通り、情報収集の徹底と多角的な分析、そして自軍と敵軍の状況を客観的に把握することの極めて高い重要性を説いています 1 。
孫武の実在性や『孫子』の正確な成立時期が未だ確定していないという事実は、逆説的に、この兵法書が特定の個人や一時代に限定されることなく、より普遍的な戦略・戦術の知恵の集大成として後世に伝えられてきた可能性を示唆しています。実際に、史書の中には孫武の記述の信憑性を疑う声や、『孫子』の文章に戦国時代の思想である「形名」や「五行」といった概念が登場する点、さらには春秋時代の合戦の様相と『孫子』の記述との間に相違点が多いとする指摘も見られます 7 。これは、『孫子』が単一の著者による一度きりの著作ではなく、春秋時代から戦国時代にかけて、複数の人物の手によって加筆修正が繰り返され、時代ごとの戦訓を取り込みながら洗練されてきた可能性を物語っています。そうであるならば、特定の著者の威光よりも、そこに記された内容そのものの実践的価値が重視された結果として、時代を超えて読み継がれる不朽の古典となったと考えることができます。戦国時代の武将たちが『孫子』に触れた際も、その成立の歴史的背景や詳細な経緯よりも、そこに記された戦略思想そのものが、自らの置かれた厳しい状況下で勝利を掴むために有効であるか否かという実践的な観点から、価値を見出していたと推察されます。
表1:孫子十三篇の概要
篇名 (日本語) |
篇名 (中国語) |
主要内容・戦略思想 |
始計篇 |
計篇 |
戦争開始前の廟算(戦略会議)の重要性。五事七計(道・天・地・将・法、およびそれに基づく敵味方の比較検討)による勝算の分析。戦争の慎重な判断 4 。 |
作戦篇 |
作戦篇 |
戦争遂行の経済的側面。短期決戦の重要性と長期戦の弊害。兵糧の現地調達(因糧於敵) 4 。 |
謀攻篇 |
謀攻篇 |
戦わずして勝つことの最善性。敵の謀略を伐つこと、外交で敵を孤立させることの優先。全きを以て天下に争う 4 。 |
軍形篇 |
形篇 |
不敗の態勢(守り)と勝利を求める態勢(攻め)。兵力の優劣に応じた戦い方。勝利の予見可能性 4 。 |
兵勢篇 |
勢篇 |
軍の勢い(運動エネルギー)の重要性。「正」(正攻法)と「奇」(奇策)の運用による無限の変化 4 。 |
虚実篇 |
虚実篇 |
戦いの主導権の掌握。敵の虚(弱点・手薄な部分)を突き、実(強み・充実した部分)を避ける。敵を奔走させ、自軍は余裕を持って待つ 4 。 |
軍争篇 |
軍争篇 |
有利な戦場や態勢を敵より先に獲得するための競争。迂直の計。風林火山の戦術思想 4 。 |
九変篇 |
九変篇 |
戦況の変化に応じた臨機応変な対応。将軍が陥りやすい五つの危険(必死、必生、忿速、廉潔、愛民) 4 。 |
行軍篇 |
行軍篇 |
軍の行軍における注意点。地形に応じた布陣。敵情視察の方法 4 。 |
地形篇 |
地形篇 |
六種類の地形(通形、挂形、支形、隘形、険形、遠形)とそれぞれの戦い方。地形の利の活用 4 。 |
九地篇 |
九地篇 |
九種類の戦場(散地、軽地、争地、交地、衢地、重地、圮地、囲地、死地)とそれぞれの状況に応じた戦術。死地に陥れて兵士の力を引き出す 4 。 |
火攻篇 |
火攻篇 |
火攻めの種類と方法、実行の条件と注意点。火攻めは慎重に行うべきこと 4 。 |
用間篇 |
用間篇 |
間諜(スパイ)の重要性と五種類の間諜(因間、内間、反間、死間、生間)の活用法。情報収集には費用を惜しまないこと 4 。 |
『孫子』をはじめとする中国の兵法書が日本へもたらされたのは、一般的に遣隋使や遣唐使の時代であったと考えられています 15 。その具体的な証左として、平安時代中期、寛平年間(889年~897年)に藤原佐世らによって編纂された現存漢籍目録である『日本国見在書目録』には、『孫子』二巻の存在が明記されているほか、『司馬法』や『太公六韜』といった他の著名な兵法書も記載されており、この時点で既にこれらの兵法書が日本に将来され、宮中などで閲読可能な状態で存在していたことが確認できます 17 。
奈良時代に活躍した吉備真備は、遣唐使として唐に渡り、多くの典籍を日本に持ち帰ったとされていますが、その中には兵法書も含まれていた可能性が指摘されています 5 。実際に、『続日本紀』の天平宝字四年(760年)十一月の条には、吉備真備が大宰府において、諸葛亮の八陣や『孫子』の九地篇などを人々に習わせたという記録が残っており、これが『孫子』が日本で実戦的に研究・活用されたことを示す最古の史料と見なされています 9 。
平安時代後期には、学者でありながら武勇にも優れた官人であった大江匡房が、後三年の役(1083年~1087年)で苦戦を強いられていた源義家に対し、『孫子』の兵法を授けて勝利に貢献したという逸話が、鎌倉時代に成立した説話集『古今著聞集』巻第九「弓箭・兵法」の条に記されています 17 。この逸話は、『孫子』が一部の知識人や武士の間で読まれ、その戦略思想が師資相承の形で伝承されていたことを示唆するものとして重要です。
しかしながら、平安時代の戦闘様式の主流は、依然として個々の武士の武勇を重んじる一騎打ちであり、大規模な兵員を組織的に運用する集団戦術は未だ発展途上でした。そのため、『孫子』が説くような高度な集団戦術や謀略論が、当時の武家社会で広く実践的に受容されていたかについては疑問が残ります 17 。大江匡房と源義家の逸話は、むしろ知識としての兵法と、実際の戦場での運用との間には隔たりがあったことを示す例外的ケースと捉えるべきかもしれません。
鎌倉時代に入ると、戦闘様式は次第に変化し、集団戦の要素が色濃くなっていきます。『保元物語』や『平家物語』といった軍記物語には、従来の合戦の作法を無視した夜襲や奇襲といった戦術が描かれており、これらは『孫子』的な戦略思想の萌芽を想起させます 17 。このような戦闘様式の変化に伴い、より高度で体系的な戦略戦術理論への需要が高まっていったと考えられます。
中国の宋代(日本の平安時代後期から鎌倉時代に相当)は、「文をもって武を制す」という国策のもと、軍事力の強化と並行して兵法理論への関心が高まった時代でした。その結果、宋の神宗は1080年、国子監司業の朱服と武学博士の何去非らに勅命を下し、『孫子』『呉子』『司馬法』『尉繚子』『三略』『六韜』『唐太宗李衛公問対』という、先秦以来の主要な兵法書七部を校訂・公刊させました。これを機に、これらの兵書は「武経七書」と総称されるようになり、公式に認められた兵法理論の教科書としての地位を確立しました 17 。
当時の日本と宋の間には、正式な国交は存在しませんでしたが、造船技術の進歩や商品経済の発展、そして宗教文化の普及などを背景として、民間レベルでの貿易や、禅僧を中心とした文化交流は活発に行われていました。この国際的な交流の中で、「武経七書」も日本へと伝来し、武家社会や学識を有する人々の間で読まれ、研究されるようになったと考えられます 17 。
室町時代、特に応仁の乱(1467年~1477年)以降の戦国乱世においては、旧来の権威が失墜し、実力主義が社会を覆うようになります。このような下剋上の時代にあっては、戦いにおける勝利こそが勢力拡大と家門存続の唯一の道であり、より現実的で効果的な戦略戦術への渇望は一層強まりました。京都の戦乱を逃れて地方へ下った貴族や禅僧たちが、各地の有力大名や武将に庇護を求める中で、彼らが携えていた学問や文化も地方へと伝播していきました。その結果、戦国時代の大名や武将たちは、以前にも増して漢籍に触れる機会を得るようになり、「武経七書」をはじめとする兵法書もまた、大いに読まれ、研究される素地が形成されたと推察されます 17 。
『孫子』などの中国兵法が伝来する一方で、日本国内では陰陽五行思想や様々な呪術的要素を基盤とした「軍配兵法」が成立し、鎌倉時代から室町時代にかけて重んじられたという事実は注目に値します 15 。これは、外来の合理的・体系的な兵法思想と、日本古来の信仰や思考様式とが融合、あるいは並存していた状況を示しています。例えば、義経の物語に登場する「四十二巻の兵法書」は、中国伝来の兵法と天狗の法が統合されたものとされ、実際には祈祷や卜筮によって勝利を得る秘術を述べたものであったとされています 15 。このような日本独自の兵法思想の潮流は、後の時代に『孫子』が日本で受容され、解釈されていく過程で、中国本土とは異なる日本的な展開を見せる上での一つの伏線となった可能性があります。外来の知恵をそのまま受け入れるのではなく、自国の文化的土壌の中で咀嚼し、変容させていくという日本の文化受容のあり方が、兵法の分野においても見て取れるのです。
戦国時代は、日本各地で群雄が割拠し、絶え間ない戦闘が繰り広げられた激動の時代でした。合戦の勝敗が即座に領国の存亡や勢力図の塗り替えに直結する厳しい現実の中で、戦国武将たちが生き残りをかけて戦略・戦術を練り磨くのは必然の成り行きでした。このような背景のもと、中国の古典兵法、とりわけ『孫子』が、勝利を希求する武将たちの注目を集め、研究されたことは想像に難くありません。
甲斐国(現在の山梨県)を本拠地とした武田信玄は、『孫子』軍争篇の一節、「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山」を引用した「風林火山」の軍旗を用いたことで、戦国武将の中でも特に『孫子』との関連が深い人物として知られています 1 。この旗印は、信玄が『孫子』の兵法に深く通暁し、その戦略思想を自軍の行動規範として明確に掲げていたことを示す、極めて象徴的な事例と言えるでしょう。
「風林火山」の句が示す意味は、軍隊の進退や攻防における理想的なあり方であり、具体的には「行動の迅速さは風の如く、静止する際は林の如く静かに、敵地を侵略する際は燃え盛る火の如く激しく、守備に徹する際は山の如く微動だにしない」というものです 22 。信玄がこの言葉を軍旗に採用した目的は、自軍の戦術思想を内外に明確に示すと共に、将兵に対してこれらの理想的な行動を実践するよう鼓舞することにあったと考えられます 22 。
興味深いことに、『孫子』軍争篇の原文には、「風林火山」の四句に続いて「難知如陰、動如雷霆」(知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆の如し)という二句が存在します。これは、「敵に察知されにくいことは闇のように、一度行動を起こせば雷のように強烈な勢いであれ」という意味です。信玄がこの最後の部分を軍旗に記さなかった明確な理由は不明ですが、その戦略的重要性ゆえに敵に内容を知られたくなかった、あるいは単に軍旗の文字数の制約から省略せざるを得なかった、などの可能性が研究者によって推測されています 22 。
信玄の『孫子』への関心は、軍事面に留まりませんでした。彼が推進したとされる「信玄堤」と呼ばれる大規模な治水事業においても、『孫子』の兵法思想を応用したとされる、当時としては画期的な工法が用いられたと伝えられています 23 。この事実は、信玄が『孫子』の教えを単なる戦闘技術としてではなく、国家経営や領国統治にも通じる普遍的な知恵として捉え、その内政手腕にも影響を及ぼしていたことを示唆しています。
その一方で、信玄の軍師として名高い山本勘助は、『甲陽軍鑑』の中で「孫子の兵法は、そのままでは日本では役に立たない」という趣旨の発言をしたと伝えられています 6 。この言葉は、中国で成立した古典兵法を、日本の地理的条件、社会構造、そして武士の気質といった具体的な実情に合わせて解釈し、応用する必要性を示唆するものとして重要です。
浅野氏の研究によれば、武田家の『孫子』に対する理解度は必ずしも高くなかったと指摘されています 6 。また、歴史学者の山本七平氏も、当時の戦国武将の多くは漢文の読解能力に乏しく、「物読み坊主」と称される学識のある僧侶などに兵法書の講義をさせて内容を理解していたと述べています 6 。これらの事実は、武田信玄が「風林火山」を掲げた背景には、彼自身の教養の高さがあったとしても、その思想が軍全体に深く浸透し、実践されていたかについては慎重な検討が必要であることを示しています。
武田信玄の最大のライバルとして知られる越後の上杉謙信は、自らを戦の神である毘沙門天の化身と称するなど、独特の戦思想とカリスマ性を持った武将でした 1 。謙信が『孫子』をどの程度意識していたかを示す直接的な史料は多くありませんが、彼の行動や思想の中には、『孫子』の精神と通底する可能性のある側面も見受けられます。
有名な逸話として、敵対関係にあった武田信玄が領内での塩不足に苦しんだ際、謙信が「領民を苦しめるのは戦いの本道ではない」として越後から甲斐へ塩を送ったという話があります 25 。この行為は、謙信の義を重んじる精神の現れとして語り継がれていますが、見方を変えれば、『孫子』が説く非好戦的な側面や、民衆の安定を重視する思想と間接的に響き合う部分があるかもしれません。
また、新田次郎氏の著作『武田信玄』では、信玄と謙信の戦に対する考え方の違いが数学的な比喩で表現されており、信玄が『孫子』の「風林火山」を旗印とするほど基本に忠実であったのに対し、謙信は天才肌で常人には思いつかない方法で答えを導き出したとされています 5 。これは、謙信が必ずしも『孫子』の定石に縛られない、独自の戦略眼を持っていた可能性を示唆しています。
さらに、謙信は『孫子』と並び称される中国の兵法書『呉子』を参考にしていたという説も存在します 26 。『呉子』は、国家の和合の重要性、指導者の決断力、兵士の士気高揚といった点を強調しており、これらの思想が謙信の戦の進め方や軍団統率に影響を与えていた可能性も考えられます。
尾張の戦国大名から天下統一を目前にした織田信長は、鉄砲の組織的かつ効果的な運用や、兵農分離の推進など、それまでの日本の合戦の常識を覆す革新的な戦術を用いたことで知られています。信長が『孫子』を直接的に学んだという明確な記録は限られていますが、彼の戦略思想や具体的な戦術展開の中には、『孫子』の合理主義や戦略的思考と通底する要素が数多く見出されます 1 。
その代表例として挙げられるのが、桶狭間の戦いにおける信長の戦略です。圧倒的な兵力差があった今川義元軍に対し、信長は少数の精鋭を率いて本陣を奇襲し、敵将である今川義元を討ち取るという一点集中型の作戦を敢行しました。これは、自軍と敵軍の状況を冷静に分析し(「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」)、兵力差という不利を覆すために、情報戦を制し、奇襲という局地戦に持ち込むという点で、『孫子』の思想、特に虚実篇や計篇の考え方、さらには20世紀に提唱されたランチェスター戦略の第一法則(弱者の戦略)にも通じるものがあります 27 。
長篠の戦い(1575年)における、馬防柵と組み合わせた鉄砲の三段撃ちという戦術は、信長の戦略家としての卓越した能力を如実に示しています。この戦術は、単に新兵器を導入したというだけでなく、『孫子』の複数の篇に記された戦略思想を巧みに応用したものと分析することができます 28 。
その他、計篇(明確な目標設定、自軍の鉄砲の強みと武田軍騎馬隊の弱点の評価)、作戦篇(戦況変化に応じた柔軟な計画)、戦篇(計画の的確な実行と状況に応じた調整)、間諜篇(事前の情報収集と敵意図の把握)といった『孫子』の各篇に通じる戦略思想が、長篠の戦いにおける信長の采配には見て取れます 28 。
織田信長の後継者として天下統一を成し遂げた豊臣秀吉もまた、『孫子』の兵法を戦略決定の重要な参考資料としていたと考えられています 1 。彼の数々の戦いの中でも、特に賤ヶ岳の戦い(1583年)や本能寺の変後の「中国大返し」は、その戦略眼と『孫子』の思想との関連性において注目されます。
賤ヶ岳の戦いにおいて、秀吉は柴田勝家との間で織田家の後継者としての地位を争いました。この戦いにおける秀吉の戦略・戦術は、『孫子』の各篇の原則に照らし合わせて分析することができます 29。
まず計篇に関しては、秀吉は「織田家後継者としての地位確立」という明確な目標を設定し、自軍の強みである機動力と兵站能力を認識する一方で、敵軍の弱点である冬季の気候条件や雪解けを待つ間の脆弱性を見抜いていました。
作戦篇の観点からは、早期決戦を目指し、敵を迅速に包囲する全体戦略を策定し、状況に応じて部隊を柔軟に移動させる計画性を持っていました。
軍形篇および兵勢篇においては、戦況の変化に応じた陣形の調整、偽の退却などによる敵の欺瞞、地形の利用による有利な戦場の選択、そして勝利を重ねることによる士気の高揚と敵の戦意減退といった巧みな戦術が見られました。
さらに虚実篇の原則に従い、偽情報を流して敵を混乱させ、自軍の真の強みを隠し、予測不可能な行動で敵の戦略を狂わせました。
そして間諜篇の重要性を理解し、常に敵の動向を監視・分析し、時には内部情報も活用して戦局を有利に進めました 29。
本能寺の変(1582年)により主君信長が討たれた際、備中高松城で毛利氏と対峙していた秀吉が、驚異的な速さで京へ軍団を移動させた「中国大返し」は、彼の戦略家としての資質を物語るものです。この大強行軍の成功には、毛利氏との迅速な講和、正確な情報収集、周到な兵站準備、そして何よりも将兵の士気を維持しつつの迅速な意思決定が不可欠でした。これは『孫子』の作戦篇で説かれる短期決戦の重要性や、敵の意表を突く迅速な行動を重視する思想、さらには行軍篇で説かれる行軍の原則(例えば、地形に応じた進軍ルートの選定や兵士の疲労管理など)とも深く関連していると考えられます 30 。
二百数十年にわたる江戸幕府の礎を築いた徳川家康もまた、『孫子』を深く重視した戦国武将の一人として知られています 1 。家康の『孫子』への関心は、単に個人的な学識に留まらず、後の日本の兵学研究に大きな影響を与えることになります。
特筆すべきは、家康が慶長11年(1606年)に、当代一流の学僧であった閑室元佶に命じて『孫子』の木活字本(いわゆる伏見版または慶長勅版)を刊行させたことです 6 。これは、それまで写本によって伝えられることの多かった『孫子』が、日本において初めて印刷された画期的な出来事であり、その後の江戸時代を通じて覆刻され、『孫子』の兵法思想がより広範な知識層に普及する上で極めて大きな役割を果たしました。
家康の治世から江戸時代にかけて、戦乱の時代は終焉を迎えましたが、逆説的に、戦国時代に蓄積された膨大な軍事知識や実戦経験を体系化し、学問として研究しようとする動きが活発化しました。これが「兵学(軍学)」と呼ばれる学問分野の隆盛であり、それに伴い、『孫子』は兵法の知識体系の中核として再評価され、深く研究される傾向が強まったのです 6 。家康による『孫子』の出版は、まさにこの兵学研究の興隆の布石となったと言えるでしょう。
『孫子』の中に記された「善く兵を用うる者は、道を修めて法を保つ」(優れた将軍は、道義を重んじ法規を遵守することで戦況を有利に進める)や、「囲師には必ず闕き、窮寇には迫ること勿れ」(包囲した敵には必ず逃げ道を残し、追い詰められた敵を追い詰めすぎるな)といった言葉は、単なる戦闘技術に留まらない、組織運営の要諦や人心掌握術、あるいは追い詰められた敵への対処法など、家康が目指した長期的な安定統治や、彼の慎重かつ現実的な戦略思想にも通底する普遍的な知恵を含んでいると言えます 13 。
『孫子』は、直接的な武力衝突だけでなく、諜報活動(用間篇)や外交戦略・謀略(謀攻篇)の重要性を繰り返し強調しています。これらの思想は、複雑な人間関係と権謀術数が渦巻く戦国時代において、武将たちが生き残りをかけて駆使した重要な手段でした。
用間篇 では、間諜(スパイ)をその任務や出自によって五種類(郷間、内間、反間、死間、生間)に分類し、それぞれの効果的な活用法を具体的に説いています 4 。敵の情報を正確に把握することの重要性を説き、そのためには間諜に対する褒賞を惜しむべきではないとし、「爵禄百金を愛みて敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり」(高い地位や多額の金銭を惜しんで敵の情報収集を怠る者は、この上なく不仁である)とまで述べています 10 。戦国時代の大名たちも、敵国の内部情報を収集し、内部分裂を誘ったり、調略を仕掛けたりするために、伊賀者や甲賀者といった専門的な忍者集団(例えば、北条氏に仕えたとされる風魔一党など)を駆使したほか、様々な手段を用いて諜報活動を展開しました 32 。これらの活動は、まさに『孫子』用間篇の思想を実践したものと言えるでしょう。
一方、 謀攻篇 では、「戦わずして人の兵を屈する」ことを最善の勝利とし、そのためにはまず敵の謀略・戦略そのものを打ち破り、次に外交によって敵の同盟関係を分断して孤立させ、その上で初めて敵の軍隊を攻撃し、そして最後の手段として城を攻めるべきである、という段階的な戦略を示しています 4 。戦国時代においても、複数の勢力が複雑に絡み合う中で、同盟締結や破棄、あるいは敵勢力間の離間策を用いた外交戦略は、合戦の勝敗を左右する極めて重要な要素でした。武力を用いることなく敵を弱体化させ、自国に有利な状況を作り出す試みは、まさに『孫子』謀攻篇の教えを反映したものと言えます。
武田信玄の「風林火山」の旗印、織田信長の長篠における鉄砲戦術、豊臣秀吉の賤ヶ岳の戦いにおける周到な戦略など、著名な戦国武将たちの軍事行動には、『孫子』の思想が色濃く反映されている事例が数多く見受けられます。しかしながら、山本勘助が述べたとされる「孫子の兵法はそのままでは日本では役に立たない」という言葉 6 や、朝鮮の儒学者・姜沆の『看羊録』に見られる当時の武将の漢籍読解能力の限界を示唆する記述 16 は、彼らが『孫子』を盲目的に信奉していたわけではなく、日本の具体的な実情や戦闘様式に合わせて取捨選択し、時には独自の解釈を加えていたことを示しています。つまり、戦国武将にとって『孫子』は、絶対的な教典というよりも、数ある兵法思想の一つとして、実戦に役立つ知恵を引き出すための貴重な源泉であったと考えるのが妥当でしょう。彼らは『孫子』の思想を断片的に、あるいは実用的な範囲で取り入れ、日本の戦闘様式や自身の戦略観に合わせて応用・変容させていったのです。
戦国時代の武将たちが、『孫子』をはじめとする中国の古典兵法をどの程度深く理解し、自らの戦略・戦術に活用できたかは、彼らの漢籍、すなわち古典中国語で書かれた書物を読解する能力に大きく左右されました。
朝鮮の儒学者である姜沆(カンハン)は、文禄・慶長の役(丁酉倭乱)の際に日本に捕虜として連行され、その間の見聞を『看羊録』という記録に残しました。その中で姜沆は、日本の武将(彼が「将倭」と呼ぶ人々)について、「武経七書」(『孫子』を筆頭とする七つの主要な兵法書)を所有してはいるものの、実際にはその内容をほとんど理解しておらず、わずか半行すら満足に通読できない者がいると、手厳しく酷評しています 16 。
姜沆のこの記述の信憑性については、注意深い検討が必要です。彼自身が敵国に抑留され、子を殺害されるといった過酷な状況に置かれていたこと、そして日本人に対するある種の蔑視が含まれている可能性を考慮し、その記述を全て額面通りに受け取ることはできないという指摘があります 16 。しかしその一方で、彼の描写は「当たらずといえども遠からず」であり、当時の日本の武将の学識レベルの一端を反映している可能性もまた否定できません。例えば、学問を好んだとされる徳川家康でさえ、儒学者の藤原惺窩のような専門家の助けを借りて漢籍を学んでいたと伝えられています 16 。これは、最高レベルの武将であっても、漢籍の読解には専門家の補助が必要であったことを示唆しています。
歴史学者の山本七平氏は、戦国武将の多くは兵法書を直接読解する能力に乏しく、「物読み坊主」と称された、漢文の素養がある僧侶などに講義をさせてその内容を理解していたと指摘しています 6 。このことは、兵法知識の伝達が間接的であり、講義を行う僧侶の解釈や理解度、あるいは武将が求める内容によって、伝えられる『孫子』の思想が原典のニュアンスから変容したり、特定の側面のみが強調されたりした可能性を示唆しています。このような「解釈のフィルター」の存在は、『孫子』が日本で受容される過程で、その内容が日本の実情や武将のニーズに合わせて取捨選択されたり、時には単純化されたり、あるいは独自の解釈が付加されたりした背景を理解する上で重要です。山本勘助が「孫子の兵法はそのままでは日本では役に立たない」と述べたとされる言葉も、このようなフィルターを通して日本の実情に適合させる必要性を示唆しているのかもしれません。
扇谷上杉家の当主であった上杉定正は、長享3年(1489年)に養嗣子朝良とその家臣たちに与えた訓戒書の中で、中国兵法の学習について批判的な見解を示しています。彼は、「武経七書を読んでも戦に負ける者がいる」と述べ、さらに「漢籍は(中国のような)大国の政治に関するものであり、(日本のような)粟散辺地の境(小国の意)の実情には合わない」と主張し、漢籍の理論を学ぶことの無益さを説きました 17 。
上杉定正のこの批判は、中国で成立した兵法理論の普遍性と、それが日本の具体的な風土、社会構造、戦闘様式にそのまま適用できるのかという根本的な問いを提示しています。理論と実践の間に存在するであろう乖離、あるいは外国で生まれた理論を自国の特殊な文脈に適合させることの難しさを示していると言えるでしょう。当時の日本で流通していた『孫子』の解釈が、必ずしも原典の持つ深い戦略思想を正確に反映していなかった可能性も、定正のような批判が生まれる一因となったのかもしれません。
戦国時代の武士の行動原理を理解する上で欠かせないのが、武士道に根ざした特有の名誉観です。特に、合戦において敵の首級を挙げることは最大の武功と見なされ、恩賞の多寡を決定する重要な基準となっていました 48 。16世紀後半の日本を訪れたイエズス会宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』にも、「日本人は、敵の首を持ち帰ることに非常な名誉を感じる。スペインでは馬を捕獲したり宝物を奪うことが誇りだが、日本では首級の数が武勲の証となる」といった記述が見られ、当時のヨーロッパ人の目から見ても、日本の武士の首級に対する執着は際立っていたことがうかがえます 48 。
このような名誉を重んじ、個人の武勇を顕彰する価値観は、『孫子』が説く合理主義や実利を重視し、無駄な犠牲を避けるべきであるという思想とは、必ずしも軌を一にするものではありません。『孫子』は謀攻篇において「百戦百勝は善の善なる者に非ず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」と説き、物理的な戦闘による勝利よりも、戦略的な手段によって敵を屈服させることを最上の策として位置づけています 1 。
戦国時代の実際の戦場においては、武士個人の武功(首級獲得)への強い欲求と、軍全体の合理的な戦略目標(実利の確保、損害の局限化)との間で、葛藤や矛盾が生じた可能性が十分に考えられます。名誉を優先するあまり、戦略的には不利な状況下での戦闘に突入したり、逆に合理的な判断に基づく撤退や持久戦が、名誉を損なう行為と見なされたりする場面もあったかもしれません。戦国武将は、個人の武勇や名誉を重んじる伝統的な武士の価値観と、『孫子』に代表されるような合理的・実利的な戦略思考という、二つの異なる価値基準の中で行動していたと考えられます。首級を重視する行動 48 は前者の発露であり、「戦わずして勝つ」 10 という理想は後者の体現です。この二つの価値観が実際の戦闘や戦略決定においてどのように相互作用し、どちらが優先されたのか、あるいは状況に応じて巧みに使い分けられたのかは、戦国時代の武将たちの複雑な精神性を理解する上で極めて重要な論点です。この名誉と実利という二元的な価値観の間に生じる緊張関係こそが、日本独自の兵法思想が形成されていく過程においても、少なからぬ影響を与えた可能性が考えられます。
戦国時代から江戸時代初期にかけて、中国から伝来した『孫子』の兵法思想は、日本の武士社会という特有の土壌の中で、独自の解釈や展開を見せるとともに、日本固有の兵法思想や武士道精神と深く影響し合いました。
武田信玄の言行や武田家の軍略を記したとされる軍学書『甲陽軍鑑』には、『孫子』からの引用やその影響が随所に見られる一方で、日本の実戦経験や武士の価値観に基づいた独自の兵法観も色濃く反映されています 49 。
例えば、『甲陽軍鑑』は「兵は詭道なり」という『孫子』の有名な言葉を引用しつつも、それ以上に武士としての道徳律、主君への忠義、そして家臣団の結束といった日本的な倫理観を強調する傾向があります 49 。また、「合戦に勝利して国を守る」という実利的な目標と、「武士として立派な人間性を追求する」という理想の両立を目指す武士の姿が描かれており、これは『孫子』の純粋な合理主義とは異なる側面を示しています 49 。
「敵に対して勝ち過ごしてはならない。負けなければよいのである」といった『甲陽軍鑑』中の教訓 50 は、『孫子』軍形篇に見られる「先ず勝つ可からざるを為して、以て敵の勝つ可きを待つ」(まず自軍が不敗の態勢を築き、敵が勝利できる隙を見せるのを待つ)という思想に通じるものがあります。
しかしながら、前述の通り、信玄の軍師とされる山本勘助が「孫子の兵法はそのままでは日本では役に立たない」と述べたとされるように 6 、『甲陽軍鑑』に描かれる戦術や武士の心得は、日本の地形、戦闘様式、そして武士の気質といった固有の条件に合わせて、『孫子』の教えを日本的に解釈し、変容させたものと理解するのが適切でしょう。
平安時代末期に、朝廷の書物を管理する家柄であった大江家の人物(大江維時または大江匡房が著者とされる)によって著されたと伝えられる日本独自の兵法書『闘戦経』は、『孫子』や『六韜』といった大陸伝来の兵法書を既に読んでいる、ある程度の兵法知識を持つ者を対象に書かれたとされています 53 。
『闘戦経』の序文には「この書は孫子と表裏する」という記述があり、これは『孫子』で実戦的な戦略や戦術を学んだ上で、さらに『闘戦経』によってその策や術を真に生かすための精神性や実力を養うものと位置づけられていたことを示唆しています 53 。
思想的な特徴として、『孫子』が「兵とは詭道なり」と説き、時には欺瞞や権謀術数を駆使することも奨励するのに対し、『闘戦経』は「誠」と「真鋭」(真実の鋭さ、本質的な強さ)を基本理念とし、日本の国風に合わせた正々堂々とした戦い方を重視する側面が見られます 53 。これは、中国兵法の持つ合理主義的な側面と、日本の武士道精神に代表される道義を重んじる価値観との間の、ある種の対比や緊張関係を示すものと考えられます。
江戸時代初期の剣術家であり、徳川将軍家の兵法指南役を務めた柳生宗矩が著した『兵法家伝書』は、単なる剣術の技術論に留まらず、国家を治め天下を泰平にするための「大なる兵法」にも言及しており、その思想的背景には禅や儒学の教えと共に、『孫子』の影響も指摘されています 56 。
『兵法家伝書』が説く「活人剣」(人を殺す剣ではなく、人を活かす剣)の思想や、争いを避け、戦わずして勝つことの重要性を説く部分は、『孫子』の非好戦的な思想や、謀略による勝利を理想とする考え方と通底するものがあります。また、宮本武蔵が著した『五輪書』も、個人の武芸の極致を目指す中で、兵法全体の深い理解を説いており、その戦略思想は『孫子』と間接的に関連付けて比較研究されることがあります 66 。
江戸時代に成立した『雑兵物語』は、足軽の視点から戦場の実態や心得を具体的に描いたものですが、その中には、敵地での略奪行為である「乱取り」が、敵国を疲弊させ「戦わずして勝つ」ための一つの兵法であったという記述も見られます 49 。これは、『孫子』の思想が、形を変えながらも下級兵士の心得にまで浸透していた可能性を示唆しています。
また、江戸時代初期の軍学者である北条氏長が著した『兵法雌鑑』(『兵法師鑑』、『兵法私鑑』とも呼ばれ、後に『兵法雄鑑』としてリライトされた)も、当時の軍学の一端を示す重要な文献であり、『孫子』を含む中国の古典兵法の影響を色濃く受けていたと考えられます 67 。
『孫子』が説く合理主義や実利主義は、日本の武士社会において、そのままの形で受け入れられたわけではありませんでした。むしろ、武士道精神(義、名誉、忠誠など)と融合したり、時には反発したりしながら、日本独自の兵法思想へと変容していったと考えられます。『闘戦経』における「誠」の強調や、『甲陽軍鑑』に見られる武士の倫理観と実利主義の混在は、その典型的な現れと言えるでしょう。この変容の過程は、単に兵法技術の受容という側面に留まらず、日本の精神文化史における中国思想の日本化という、より大きな文脈の中で捉えることができます。
また、『孫子』のような高度な戦略論を含む古典的兵法書と、『雑兵物語』のようなより実戦的かつ具体的な内容を扱う書物とでは、想定される読者層やその目的が異なっていた可能性も指摘できます。『孫子』が主に大将や軍師といった指導者層に向けられていたのに対し、『雑兵物語』は足軽など比較的下級の兵士の視点も取り入れています。このことは、戦国時代から江戸時代にかけて、兵法に関する知識や情報が、対象とする階層や目的に応じて異なる形で存在し、伝達されていた可能性を示唆しています。『孫子』のような古典は「大将の学」として、より実践的な戦闘の心得は各流派の口伝や『雑兵物語』のような形で、それぞれが異なる役割を担っていたのかもしれません。
徳川幕府による天下統一が成り、泰平の世が訪れると、戦国時代の熾烈な実戦経験は過去のものとなりました。しかし、その一方で、戦乱の時代に蓄積された膨大な軍事知識や実戦の教訓を体系化し、学問として後世に伝えようとする動きが活発化しました。これが「兵学(軍学)」と呼ばれる学問分野の隆盛であり、この流れの中で『孫子』は兵法の知識体系の中核として再評価され、多くの学者によって注釈や研究が行われました 6 。江戸時代には、実に50を超える『孫子』の注釈書が出版されたとされています 6 。
この兵学研究の興隆に大きな影響を与えたのが、初代将軍徳川家康です。家康自身が慶長11年(1606年)に、当代一流の学僧であった閑室元佶に命じて『孫子』の木活字本(いわゆる伏見版または慶長勅版)を刊行させたことは、その後の『孫子』研究の普及に測り知れない貢献をしました 6 。
江戸時代には、中国の明代から清代にかけて著された注釈書、例えば劉寅の『武経七書直解』や趙本学の『孫子校解引類』(趙注孫子)なども日本に伝来し、覆刻されました 6 。
そして、日本人学者による注釈書も多数著されました。その嚆矢とされるのが、寛永3年(1626年)に出版された林羅山の『孫子諺解』です 6 。羅山は朱子学の大家であり、その学識をもって『孫子』を平易に解説しようと試みました。
その後も、著名な学者による優れた注釈書が相次いで出版されました。山鹿素行の『孫子諺義』(寛文13年、1673年)は、素行の兵学思想が最も円熟した時期の著作とされ、「詭道」や「五事」の「道」の解釈、武士の職分論との関連などが論じられています 6 。新井白石の『孫武兵法択』(享保7年、1722年自序)は、『管子』の軍事思想との関連性も指摘される研究対象となっています 6 。古文辞学派の大家である荻生徂徠の『孫子国字解』(寛延3年、1750年序)は、平易な仮名交じり文で書かれたことで広く読まれ、『孫子』の普及に大きく貢献しました 6 。さらに、佐藤一斎の『孫子副註』 6 や、幕末の思想家である吉田松陰の『孫子評註』 6 など、多数の優れた注釈書が著され、それぞれが独自の視点から『孫子』の解釈を深めました。
明治時代に入り、日本は富国強兵のスローガンのもと、西洋式の近代的な軍隊制度と軍事技術の導入を急ぎました。特にプロイセン(ドイツ)流の兵学が重視され、陸軍大学校や海軍大学校といった将校養成機関のカリキュラムも西洋兵学が中心となりました 6 。このような状況下で、『孫子』をはじめとする伝統的な東洋兵学は、軍事教育の主流からは一時的に後退したかのように見えました。
しかし、『孫子』の研究や影響が完全に途絶えたわけではありませんでした。個人レベルでは読み継がれ、その戦略思想は日本の軍事指導者にも影響を与え続けました。その顕著な例として、日露戦争(1904年~1905年)における日本海海戦での連合艦隊司令長官・東郷平八郎提督の丁字戦法が挙げられます。この戦法は、『孫子』軍争篇にある「逸を以て労を待ち、飽を以て飢を待つ」(十分に休息し準備を整えた有利な態勢で、疲労し飢えた不利な状態の敵を待ち受ける)という戦術思想に影響されたものと言われています 6 。
とはいえ、時代が下るにつれて、陸海軍ともに『孫子』が組織的に学ばれる機会は減少し、近代的・科学的な西洋兵学の圧倒的な影響力の下に置かれることになります 6 。昭和初期には、陸軍中佐であった武藤章が1933年に「クラウゼヴィッツと孫子の比較研究」という論考を発表しましたが、その中で彼は、プロイセンの軍事思想家クラウゼヴィッツの『戦争論』の普遍性を高く評価する一方で、『孫子』については中国国内のみを対象とした兵法であり、「普遍性に乏しき憾あり」と述べており、当時の軍部における『孫子』研究が必ずしも盛んであったとは言えない状況を反映しています 6 。
学問の世界では、『孫子』の真の著者や成立年代に関する近代的な文献考証が進められました。特に1972年、中国山東省臨沂県の銀雀山漢墓から、竹簡に書かれた『孫子』(いわゆる竹簡孫子)や、これまで逸失したと考えられていた孫臏の兵法書『孫臏兵法』が発見されたことは、大きな衝撃と共に研究を飛躍的に進展させる契機となりました 6 。この発見により、現存する『孫子』十三篇が孫武の著作であることの確度が高まり、孫武と孫臏を同一人物とする説や、孫臏が『孫子』の著者であるとする説はほぼ否定されるに至りました。
第二次世界大戦後、日本は敗戦という大きな転換点を経験し、それまでの軍事思想に対する反省も生まれる中で、『孫子』は再び注目を集めるようになります。教養ブームの高まりと共に一般読者にも広く読まれるようになり、また、自衛隊においては、第二次世界大戦の敗因分析などを通じて、クラウゼヴィッツの『戦争論』と対比される形でその戦略思想が研究されてきました 6 。現代においては、その普遍的な戦略論や人間洞察は、軍事分野に留まらず、ビジネス戦略や交渉術、リーダーシップ論、さらには個人の生き方や処世術といった多様な分野で応用され、数多くの解説書が出版されています 3 。
『孫子』の日本における受容史を概観すると、興味深い変遷が見て取れます。戦国時代には、まず何よりも実戦に役立つ兵法としての側面が重視されました。しかし、江戸時代に入り泰平の世が訪れると、実戦から離れ、学問・教養としての研究が深まり、多くの注釈書が生まれます。明治以降、西洋兵学の導入により軍事における主流の座からは一時的に後退しますが、その普遍的な戦略思想は完全に忘れ去られることなく、再びその価値が見直され、現代ではビジネスや自己啓発の分野にまでその応用範囲を広げています。この歴史は、『孫子』が持つ多面的な価値、すなわち具体的な戦術論、普遍的な戦略哲学、そして深い人間洞察といった側面が、それぞれの時代の社会のニーズに応じて、異なる角度から光を当てられ、再評価されてきたことを示しています。
特に明治以降、西洋の軍事思想、とりわけクラウゼヴィッツの『戦争論』との比較研究を通じて『孫子』が再評価される動きは重要です。戦前における武藤章による比較研究 6 はその初期の試みであり、戦後の自衛隊における研究もこの流れを汲んでいます。このような比較検討は、異なる文明で生まれた戦略思想の長所や限界を明らかにするとともに、『孫子』の思想が持つ独自の価値(例えば、非好戦性、謀略の重視、経済性の考慮など)を西洋兵学の文脈の中で再発見し、その普遍性を改めて問い直す契機となったと言えるでしょう。
本報告を通じて明らかになったように、『孫子』は平安時代には既に日本に伝来しており、戦国時代に至るまでに武家社会にも徐々にではありますが浸透していきました。武田信玄の「風林火山」の旗印に代表されるように、一部の先進的な武将は『孫子』の戦略思想を自らの軍事行動や組織運営の指針として取り入れようと試みていたことが確認できます。
しかしながら、その受容は決して一様ではなく、全ての武将が『孫子』を深く理解し、忠実に実践していたわけではありませんでした。当時の武将たちの漢籍読解能力には限界があり、また、日本の伝統的な戦闘様式や武士道精神といった独自の価値観との間には、少なからぬ相違も存在しました。そのため、『孫子』の思想は、日本の実情に合わせて取捨選択されたり、時には本来の意図とは異なる形で解釈・変容されたりする側面が強かったと言えます。
『孫子』が説く合理的な戦略論や情報収集の重要性、戦わずして勝つという理想は、戦国時代の過酷な生存競争の中で武将たちに一定の示唆を与え、彼らの戦略思考に深みをもたらしたことは間違いありません。しかし同時に、個人の武勇や名誉を重んじる武士道的な気風との間で、時には緊張関係を生じさせることもありました。
総じて、戦国時代における『孫子』は、絶対的な兵法経典として君臨したというよりも、多様な兵法思想の一つとして、日本の武将たちによって主体的に、そしてある意味で実利的に受容・解釈されたと評価できます。それは、彼らの戦略思考に刺激を与えつつも、日本独自の軍事文化という大きな枠組みの中で、その影響力を行使したと言えるでしょう。
『孫子』の兵法思想は、戦乱の時代を超えて、現代社会においてもなお多くの示唆に富んでいます。その教えは、単に軍事戦略に留まらず、現代のビジネス戦略、組織運営におけるリーダーシップ論、さらには個人の生き方や人間関係における処世術にも通じる普遍的な知恵を含んでいます。
「戦わずして勝つ」という理想は、無用な競争や対立を避け、より賢明な解決策を模索することの重要性を示唆します。「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」という言葉は、ビジネスにおける市場分析や競合分析、あるいは自己分析の重要性を教えてくれます。そして、常に変化する状況に柔軟に対応する思考法は、予測不可能な現代社会を生き抜く上で不可欠な能力と言えるでしょう。
戦国武将たちが、『孫子』という古典の知恵をどのように解釈し、自らの置かれた厳しい状況に活かそうと試みたのか、そしてその過程でどのような限界に直面したのかを考察することは、現代に生きる我々が古典から学びを得て、それを現代的な課題に応用していく上で、いかに主体的な姿勢で臨むべきかという問いに対しても、貴重な教訓を与えてくれます。単に知識として受容するのではなく、批判的な視点を持ち、自らの文脈の中で再解釈し、実践していくことの重要性を、『孫子』と戦国武将たちの関わりは教えてくれるのです。