本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代にかけて茶の湯の世界で至宝とされた茶入、「宗無肩衝(そうむかたつき)」について、その歴史的背景、美術的価値、そして茶道文化における深遠なる意義を、現存する多様な資料に基づき詳細に考究するものである。「宗無肩衝」は、桃山時代に活躍した堺の豪商であり、当代随一の茶人として知られた住吉屋宗無(すみよしや そうむ、別名 山岡宗無)が所持したことにその名を由来し、「大名物」として茶道史上に不滅の名を刻む逸品である。本報告では、その呼称の起源、優美かつ力強い形状、用いられた土や釉薬の特性、精密な寸法といった基本的な情報から、数奇な運命を辿った歴代の所有者の変遷、茶会記などの古記録に残された記述、さらには茶入を彩る荘厳な付属品に至るまで、多角的な視点から情報を丹念に整理し、その全貌を明らかにすることを試みる。特に、学術的な品位を損なうことのないよう、不自然な外国語の混入や部分的なマークダウン表記の乱れを避け、格調高い日本語による記述を徹底することを旨とする。
「宗無肩衝」という名称は、この茶入を最初期に所持し、その価値を見出したとされる堺の著名な茶人、住吉屋宗無にちなんで名付けられたものである 1 。また、宗無が住吉屋という屋号を用いていたことから、「住吉肩衝(すみよしかたつき)」という別名でも知られている 1 。茶道具の銘が、その所有者の名、屋号、あるいは所縁の深い地名に由来することは、当時の茶の湯の世界における慣習であり、例えば「鳥丸大納言家」に伝来したことから「鳥丸肩衝」と呼ばれたものが、後に豊臣秀吉の目にとまり「北野肩衝」の名を得た例 5 や、金森出雲守可重の所持に由来する「出雲肩衝」、安国寺恵慶が所持したことから「安国寺肩衝」と称された例 6 など、数多くの実例がそれを裏付けている。これらの命名は、道具そのものの美術的価値に加え、それにまつわる人的な由緒を重視する茶道文化の特性を色濃く反映していると言えよう。
「宗無肩衝」は、茶道具の格付けにおいて最高位の一つである「大名物(おおめいぶつ)」に分類される 2 。「大名物」とは、一般に千利休以前、特に室町幕府八代将軍足利義政が東山に隠棲した時代、いわゆる東山時代にその名声を得た茶道具を指し、数ある名物の中でも特に由緒が深く、貴重とされる品々に与えられる称号である 9 。具体的には、『山上宗二記』をはじめとする利休以前および利休同時代の茶書にその名が記載されているほどの茶器が、この「大名物」に該当すると考えられている 10 。この茶入が「大名物」として認識されていたという事実は、室町時代後期から桃山時代にかけての茶の湯の価値観において、既に最高級の評価を確立していたことを雄弁に物語っている。その価値は、単に美術品としての美的完成度のみならず、それにまつわる由緒や伝来の歴史、そしてそれらを見出した茶人たちの審美眼によっても重層的に形成されていたのである。
さらに、「宗無肩衝」は「漢作唐物(かんさくからもの)」の肩衝茶入として知られている 2 。「唐物」とは、広く中国からの輸入品を指す言葉であるが、茶道具の世界では特に宋代から元代にかけて製作されたものを指すことが多い。その中でも「漢作」と称されるものは、宋代を中心とした比較的初期の輸入品であり、用いられている土の味わい(土味)、釉薬の調子(釉調)、そして全体の作風において、後の時代の唐物よりも一段と優れたものと評価されている 11 。現存する漢作の茶入は、そのほとんど全てが「大名物」の格付けを受けているとされることからも 13 、その希少性と美術的価値の高さが窺える。「漢作唐物」という分類は、すなわちその製作年代が古く、かつ品質が極めて高いことを意味する。当時の日本において、中国大陸の先進文化に対する深い憧憬が存在した背景と、勃興期にあった茶の湯文化の中で、これらの舶載品が希少価値の高い道具として珍重されたことが、その評価を不動のものとした主要な要因と考えられる。
「宗無肩衝」の製作年代は、中国の南宋時代から元時代(おおよそ13世紀から14世紀)にかけてと推定されている 7 。その産地は中国である 7 。南宋から元時代は、中国陶磁史において、喫茶文化の隆盛に伴い、天目茶碗に代表されるような優れた茶道具が数多く製作された時期にあたる。「宗無肩衝」もまた、この時代の高度な陶芸技術と美的感覚が生み出した名品の一つと考えられる。この時期の中国陶磁器が、日本の茶の湯文化の形成と発展に測り知れないほど大きな影響を与えたことは、歴史が証明するところである。
「宗無肩衝」の初代所有者として名を残す住吉屋宗無(生年は天文3年(1534年)とされるが、没年には慶長8年(1603年)説 14 と文禄4年7月15日(1595年8月20日)説 15 がある)は、安土桃山時代に活躍した堺の豪商であり、当代を代表する高名な茶人であった 14 。本名は久永、通称を捨十郎、道号は南渓と称した 15 。
その出自については、戦国時代の梟雄として知られる松永久秀の庶子であるという説があり、堺の酒造業を営む山岡宗瑞(住吉屋)に養育されたと伝えられている 15 。この出自が事実であれば、宗無が幼少期から名物や武家文化に触れる機会に恵まれていた可能性が考えられ、彼の審美眼や武人的な風格と評される一面 15 の形成に影響を与えたかもしれない。堺の豪商としての経済力は、高価な唐物茶入をはじめとする名物を入手する上での大きな基盤となったであろう。
茶人としての宗無は、千利休よりも6、7歳年少であったと推定され、利休とは莫逆の友、すなわち極めて親しい間柄であったと記録されている 15 。茶の湯は武野紹鴎に学び 14 、剣術を上泉伊勢守秀綱に学んだという伝承も残る 15 。織田信長には早くからその才能を認められて仕え、豊臣秀吉の時代には御伽衆、さらには茶頭八人衆の一人に抜擢されるなど 14 、時の天下人の側近としても重用された。
『茶事集覧』には、宗無の茶風を伝える貴重な記述が残されている。「住吉屋宗無は古風にて真手なる茶人なり、たとへば此茶入は此茶盌この水指と、日頃は吟味ありて定めおき、飾おき合も常住一様にせられし、扨其日其夜の興によりて、一段思入深かりけり。人によりては宗無は茶湯しめり過ぎてしといへるもありき、されど休居士は譽められしなり」 2 。この記述からは、宗無が道具の取り合わせに対して確固たる独自の美意識を持ち、それを日常的に、かつ一貫して実践していたことが窺える。「古風にて真手なる茶人」という評価は、奇をてらうことなく、道具の本来の美質や格を重んじる正統的な茶風を指すものと考えられる。一方で、「茶湯しめり過ぎてし」という一部の批判は、その厳格さや格式を重んじる姿勢が、やや堅苦しいと受け取られた可能性を示唆する。しかしながら、千利休が宗無の茶風を賞賛したという事実は、彼の茶の湯が単なる形式に留まらず、わび茶の精神に通底する深い理解と、道具に対する真摯な愛情に裏打ちされたものであったことを物語っている。これは、当時の茶の湯において、流行や表面的な華やかさを追うのではなく、物事の本質を見抜く個人の審美眼がいかに重要視されていたかを示す好例と言えよう。
住吉屋宗無は、「宗無肩衝」以外にも数々の名物を所持していたことが知られている。記録によれば、「背高肩衝(せいたかかたつき)」 14 、「松本茶碗」 14 、「飯銅の茶壺(はんどうのちゃつぼ)」 15 などが挙げられる。これらの名物を複数所有していた事実は、宗無の卓越した審美眼と、それを支える経済力の豊かさを物語っている。
宗無の茶人としての力量を示す逸話としては、天正15年(1587年)の九州征伐の折、豊臣秀吉が博多の箱崎松原において、千利休に松葉を燻べて湯を沸かし茶を点てさせた際の出来事が伝えられている。秀吉はこの利休の働きを大いに賞賛し、同道していた住吉屋宗無と津田宗及に対しても、同様に「フスベ茶ノ湯」を出すよう求めたという 15 。この逸話は、宗無が当代一流の茶人として、秀吉のような天下人からもその技量を高く評価され、信頼されていたことを明確に示している。
住吉屋宗無の没年については、いくつかの説が伝えられており、確たる結論を見るには至っていない。
主要な説としては、以下の二つが挙げられる。
これらの説の史料的確実性について考察すると、『朝日日本歴史人物事典』が慶長8年説を「史料的に認めがたい」と評価し、文禄4年説を採っている点は重要である。これは、編纂の過程でより信頼性の高い史料に基づいて判断が下された可能性を示唆している。
さらに、 3 の「SACA學會」の記事では、住吉屋山岡宗無の没年を1612年としており、これは上記のいずれの説とも異なる。この記事は徳川美術館所蔵の「宗無肩衝」を主題とし、その来歴を詳細に記述しているため、何らかの独自の典拠に基づいている可能性が考えられるが、提供された資料群からはその具体的な典拠を特定することはできなかった。
このような没年の不一致は、近世初期における人物記録の多様性や、編纂物が参照する基本史料の違いに起因する可能性が高い。特に商人や文化人の場合、武家や公家ほど公式かつ詳細な記録が残りにくいという事情も影響していると考えられる。各事典や研究論文が依拠する一次史料(古文書、日記、寺社の過去帳など)が異なれば、没年に差異が生じることは十分にあり得る。また、後世の編纂物において、どの史料を優先的に採用するかの判断が編者によって異なることも、説の多様性を生む一因であろう。「史料的に認めがたい」という評価は、具体的な反証史料の存在、あるいは伝承レベルの情報であることを示唆しているのかもしれない。
SACA學會による1612年説は、他の主要な人名事典の記述と大きく異なるため、特に注目に値する。この説が徳川美術館の所蔵品情報と密接に関連しているのであれば、尾張徳川家に伝わる記録など、特定の史料群に基づいている可能性も否定できない。美術品の来歴を研究する過程で、所蔵者に関する新たな情報や従来とは異なる説が発見されることは珍しくない。もし1612年説に確たる史料的根拠が存在するのであれば、宗無の晩年の活動や、彼と「宗無肩衝」との関わりについての理解が、より一層深まる可能性がある。この没年の違いは、「宗無肩衝」が宗無の手を離れた時期やその経緯の解釈にも影響を与えうる重要な論点である。
結論として、現時点では文禄4年(1595年)説が比較的多くの典拠によって支持されているものの、慶長8年(1603年)説も依然として存在し、さらに1612年説のような異説も見られることから、住吉屋宗無の正確な没年については、今後のさらなる史料の発見と綿密な検証が待たれる状況と言わざるを得ない。本報告書においては、これらの諸説を併記し、それぞれの典拠を示すに留めることとする。
「宗無肩衝」は、その姿形、用いられた土や釉薬、そして細部の作行きに至るまで、当時の茶人たちを魅了し、後世にまでその名声を伝えるに足る優れた造形美を備えている。
「宗無肩衝」は、その名の通り、典型的な「肩衝(かたつき)」の形状を成している。肩衝とは、茶入の口のすぐ下に位置する肩の部分が角張って張り出し、あたかも肩が衝(つ)いているように見える器形に由来する名称である 6 。この力強く端正なフォルムは、桃山時代以降、特に武士階級の茶人たちに好まれた。
その寸法については、複数の記録が残されているが、概ね一致している。『大正名器鑑』には詳細な実測値が記載されており 2 、徳川美術館の公式データ 3 もこれに準じている。これらの情報を総合すると、以下の通りとなる。
表1:「宗無肩衝」寸法一覧
項目 |
『大正名器鑑』記載値 (尺貫法) |
『大正名器鑑』記載値 (メートル法換算近似値) |
徳川美術館記載値 (メートル法) |
高さ |
弐寸九分八厘 |
約9.03cm |
9.0cm |
胴径 |
弐寸七分弐厘 |
約8.24cm |
8.2cm |
口径 |
壱寸四分五厘 |
約4.39cm |
4.2cm 3 |
底径 |
壱寸五分五厘 |
約4.70cm |
4.7cm 3 |
甑高 |
参分強 |
約0.9cm強 |
1.0cm |
肩幅 |
五分 |
約1.52cm |
1.5cm |
重量 |
四拾参匁 |
約161.25g |
161.3g |
この寸法表から、「宗無肩衝」が高さ約9cm、胴径約8.2cmと比較的大ぶりな茶入であることがわかる。しかしながら、特筆すべきは「大型の肩衝茶入ながら、全体が薄造りとなっており、手取りは軽い」という記述である 3 。これは、単に寸法だけでは把握できない、実際に手に取った際の感触や使用感に関わる重要な情報である。薄造りの技術は高度な轆轤(ろくろ)の技を要し、特にこれほどの大きさの器物を薄く、かつ均一に成形することは容易ではない。この技術的な洗練が、見た目の堂々とした風格と、持った際の意外な軽やかさという、二つの魅力を両立させていると言えよう。このような特徴は、茶入を単なる置物としてではなく、茶事の中で実際に手に取り、扱う道具として捉えた場合、その評価を一層高める要素となる。
「宗無肩衝」の材質、すなわち用いられた土の質感(土味)についても、古記録には興味深い記述が見られる。『津田宗及茶湯日記』の永禄七年(1564年)の条には、「惣じて土あらく、惣ての地藥の心ある也」と記されている 2 。また、『宗湛日記』の天正二十年(1592年)の記録には、「土靑めに黒く」とある 2 。
これらの記述から、「宗無肩衝」の土質は、現代の洗練された磁器とは異なり、やや粗く、素朴な風合いを持っていたことが推察される。「土あらく」という表現は、必ずしも否定的な意味合いではなく、むしろ土そのものが持つ力強さや自然な風合い、粒子感を指していると考えられる。このような土の表情は、特に漢作唐物の評価において重要な要素とされ 13 、作為のない、ありのままの美しさとして捉えられたのであろう。これが釉薬のかかり具合や経年による変化と一体となり、茶入の「景色」を構成する上で欠かせない要素となったことは想像に難くない。
一方、「土靑めに黒く」という記述は、胎土の色調が青みがかった黒色であったことを示している。このような暗色の胎土は、上に施される釉薬の色を引き締め、深みを与える効果がある。また、釉薬が施されていない「土見せ」の部分においては、この青黒い土の色自体が鑑賞の対象となり、釉薬との対比によって独特の景色を生み出す。この土の色は、鉄分を比較的多く含む土である可能性を示唆しており、それが焼成時の釉薬の発色や窯変に何らかの影響を与えたことも考えられる。茶の湯の美意識においては、このように土と釉薬が相互に作用しあって生まれる複雑な表情が、高く評価される傾向にある。
「宗無肩衝」の釉薬は、その色調、そして窯の中で偶然が生み出す「景色」によって、この茶入に比類なき個性を与えている。古記録には、当時の茶人たちがその釉景を詳細に観察し、記録していた様子が克明に記されている。
『津田宗及茶湯日記』の永禄七年の記録には、「右壺は面なだれ二筋あり、一筋は中程まであり、一筋は底まであり、かけ出候、藥面のかたより出候、なだれの露先通りてゆがみとなり、裾細そにあり、地藥黒み候か、口の内へは上藥かゝらず、上藥黒くあり」とある 2 。また、『宗湛日記』の天正二十年の記録には「肩衝は藥黒く濃くかかる、土靑めに黒く、口付の筋一つ、藥くゝみてかゝる、土の間一二分程なだれ無し、そゝろ高池」とあり 2 、さらに文禄二年(1593年)の記録では「肩衝は口筋一つ、高大にして胴張る、藥濃く黑し、土の間二三分、底つくりかけ」と記述されている 2 。徳川美術館の解説にも、「黒褐釉が底部の際近くまでかかり、正面には釉のなだれが三筋ほどあり、肩衝茶入の優品として知られる」とある 16 。
これらの記述を総合すると、「宗無肩衝」の釉薬の最も顕著な特徴は、その「黒く」「濃い」色調であったことがわかる。そして、器表を流れ落ちる「なだれ」の存在が、重要な鑑賞ポイントであったことが強調されている。なだれの筋の数(二筋、三筋)、長さ(中程まで、底まで)、そしてその形状(かけ出候、露先通りてゆがみとなり)に至るまで、詳細に記録されていることは、当時の茶人たちが、窯の中で釉薬が溶融し自然に流れ落ちることで生まれる偶発的な文様、すなわち「景色」をいかに熱心に観察し、評価の対象としていたかを如実に示している。このような「なだれ」は、二つとして同じものが存在しない一点物の魅力を高め、茶入に生命感を与える。
また、「口の内へは上藥かゝらず」や「土の間一二分程なだれ無し」といった記述は、釉薬の施釉範囲や、釉薬が掛かっていない「土見せ」の部分の存在を示しており、これらもまた景色の一部として認識されていたことがわかる。施釉の技術や意図、そして土見せのバランスは、茶入全体の印象を大きく左右する。特に漢作唐物においては、土そのものの味わいも重視されたため 13 、釉薬との対比や調和が重要な鑑賞のポイントとなったと考えられる。「なだれの露先通りてゆがみとなり」という表現は、釉薬が流れた先端部分が景色となり、器形に微妙な変化、あるいはアクセントを与えている様子を示唆している。この「ゆがみ」は、単なる欠点としてではなく、作為のない自然な変化、あるいは計算された破調の美として肯定的に捉えられていた可能性が高い。茶の湯の美意識においては、完全な均整よりも、こうした「景色」によってもたらされる変化や意外性が好まれることがある。
「宗無肩衝」の作行き、すなわち器を形作る各部分の造作についても、古記録はいくつかの手がかりを提供している。
これらの記述から、「宗無肩衝」は、口縁に一本の筋が通り、胴は大きく張り出し、裾はきゅっと締まっているという、肩衝茶入の典型的ながらも力強く、メリハリの効いた造形であったことが浮かび上がる。
「宗無肩衝」には、「大疵繕いがある」と伝えられている 4 。しかしながら、その傷や修繕がありながらも、この茶入の評価が揺らぐことはなく、むしろ「気宇雄大で桃山時代の茶入にふさわしい」とまで評されている点は極めて重要である。これは、茶の湯の世界に特有の美意識の現れと言える。すなわち、単なる器物としての完全性や無傷であることよりも、その道具が経てきた歴史的経緯や、それに伴う傷や修繕の痕跡すらも「景色」や「味わい」として受容し、そこに新たな価値を見出すという、深い精神性に基づいた評価軸が存在することを示している。
名物とされる茶道具の多くは、長い年月の間に数々の戦乱を潜り抜け、多くの所有者の手を経て伝世してきたため、何らかの傷や修繕が伴うことは決して珍しいことではない。その傷をどのように繕うか(例えば、漆を用いた丁寧な繕い 17 など)、そしてその繕いが新たな景色としてどのように評価されるかという点もまた、茶人の審美眼や教養が問われるところであった。「宗無肩衝」の場合、大きな傷があったとしてもなお、その堂々とした風格は些かも損なわれることなく、むしろ桃山時代の豪壮闊達な気風にふさわしいとまで賞賛されている。この事実は、元の作行きの素晴らしさはもちろんのこと、それを愛し、大切に伝えてきた人々の歴史をも雄弁に物語っている。
さらに、「桃山時代の茶入にふさわしい」という評価は、この茶入が単に古い時代の中国からの輸入品であるというだけでなく、日本の桃山時代の美意識と深く共鳴し、その時代を代表する茶道具として日本の文化の中に完全に受容されていたことを意味する。桃山文化は、豪壮華麗な側面と、わび・さびの精神がより深化し洗練された側面を併せ持つ時代であった。「宗無肩衝」の「気宇雄大」な姿は前者の気風に通じ、そして「大疵繕い」という歴史の痕跡を受け入れる精神は後者の美意識に通じるものがあると言えよう。このように、舶来品が日本の文化の中で再解釈され、新たな価値を付与されていく過程が、「宗無肩衝」の評価の中にも明確に見て取れるのである。
「宗無肩衝」は、その初代所有者である住吉屋宗無の手を離れた後も、数奇な運命を辿り、時の権力者や大名家、そして将軍家へと受け継がれていった。その輝かしい伝来の歴史は、この茶入の価値を一層高めるものとなっている。
「宗無肩衝」の伝来を時系列で整理すると、以下のようになる。
表2:「宗無肩衝」歴代所有者と関連年表
時期(年号) |
所有者 |
関連事項 |
典拠 |
桃山時代(16世紀後半) |
住吉屋山岡宗無 |
初代所有者。永禄・天正・文禄年間(1558-1596)の茶会で使用。 |
2 |
桃山時代末期~江戸時代初期 |
佐竹義宣(出羽久保田藩初代藩主) |
宗無の後、所持。『玩貨名物記』に「宗む肩つき 佐竹修理殿」と記載あり。 |
2 |
江戸時代初期(寛永10年・1633年) |
佐竹義隆(出羽久保田藩2代藩主) |
佐竹義宣の死後、相続。 |
3 |
寛永10年(1633年)2月26日 |
徳川家光(江戸幕府3代将軍) |
佐竹義隆より襲封御礼として献上される(義宣の遺物として)。 |
3 |
寛永10年(1633年)5月8日 |
佐竹義隆 |
徳川家光より返還される(相続後の初帰国許可の際)。 |
3 |
江戸時代中期 |
幕府(柳営御物) |
再び幕府の所有となる。佐竹義隆、佐竹義処(久保田藩3代藩主)を経た後か。 |
3 |
江戸時代中期 |
徳川家綱(江戸幕府4代将軍) |
所持。 |
3 |
江戸時代中期 |
徳川綱吉(江戸幕府5代将軍) |
家綱より伝わる。 |
3 |
宝永6年(1709年) |
徳川吉通(尾張徳川家4代当主、中納言) |
徳川綱吉の死後、遺品分けにより拝領。以後、尾張徳川家に伝来。 |
2 |
現代 |
徳川美術館 |
尾張徳川家伝来品を収蔵・展示。 |
3 |
この伝来の過程は、「宗無肩衝」が単なる美術工芸品の域を超え、大名間の贈答品、忠誠を示す証、あるいは将軍家の権威を象徴する品物として、政治的な文脈の中で極めて重要な役割を担っていたことを明確に示している。佐竹家から徳川将軍家への献上と、その後の返還、そして最終的に尾張徳川家という御三家筆頭への下賜という一連の流れは、当時の武家社会における厳格な儀礼や複雑な権力関係を色濃く反映していると言えるだろう。特に、一度将軍家の所有となったという事実は、その道具の格を一層高め、他の大名垂涎の的とする効果があったと考えられる。
また、一度将軍家に献上された名物が、再び元の所有者や他の有力大名家に下賜されるという事例は、茶道具が恩賞や外交の手段として巧みに活用されていたことを示唆している。これは、茶の湯そのものが、武家社会におけるコミュニケーションや人間関係の構築において、不可欠な要素となっていたことの証左に他ならない。「宗無肩衝」のような大名物は、その経済的価値もさることながら、それに付随する由緒や物語が何よりも重要視された。有力な武将や大名家の間を移動することで、その物語はさらに豊かで魅力的なものとなり、道具自体の価値を一層高めていったのである。尾張徳川家に伝来したという事実は、この茶入が徳川幕府の権威と文化を象徴する重要な品の一つとして、後世にまで大切に受け継がれるべきものとして位置づけられたことを意味している。
現在、「宗無肩衝」は、愛知県名古屋市に所在する徳川美術館に収蔵されている 3 。徳川美術館は、尾張徳川家に伝来した数多くの大名道具を収蔵・展示する日本有数の美術館であり、「宗無肩衝」もその至宝の一つとして大切に保管されている。同館の収蔵品データベースにも「唐物肩衝茶入 銘 宗無」として正式に登録されており、その詳細な情報が公開されている 7 。
徳川美術館では、過去に開催された特別展などで「宗無肩衝」が一般に公開された記録がある。例えば、2015年(平成27年)に開催された開館80周年記念秋季特別展「茶の湯の名品」においては、図録No.43として展示されたことが確認されている 8 。また、それ以前にも「大徳川展」といった大規模な展覧会で展示されたことがある 19 。このように、徳川美術館に所蔵されていることにより、「宗無肩衝」は適切な環境下で厳重に保存され、専門家による研究の対象となるとともに、展覧会を通じて広く一般の人々がその美しさと歴史的価値に触れる機会が提供されている。これは、この茶入が持つ文化財としての重要性が広く認識され、後世へと確実に継承されていくための基盤となっていると言えるだろう。
「宗無肩衝」の姿や評価、そして茶会での扱われ方については、幸いなことに複数の同時代の茶会記や後世の記録類にその名が記されており、当時の茶人たちがこの茶入に寄せた深い関心を窺い知ることができる。
堺の豪商であり、千利休、今井宗久と並び称された大茶人・津田宗及(つだ そうきゅう)の日記には、「宗無肩衝」に関する最も古い記録の一つが残されている。永禄七年(1564年)十二月八日の朝、住吉屋宗無が催した茶会に、宗達、宗久が同席した際の記述である 2 。この茶会で「宗無肩衝」は床の間に「かたつき」として飾られていた。
その形状の特徴については、「面なだれ二筋あり、一筋は中程まであり、一筋は底まであり、かけ出候、藥面のかたより出候、なだれの露先通りてゆがみとなり、裾細そにあり」と、釉薬の「なだれ」の様子や、それが器形に与える微妙な「ゆがみ」といった景色、そして裾が細く締まった姿が具体的に描写されている。また、釉薬と土については、「地藥黒み候か、口の内へは上藥かゝらず、上藥黒くあり、惣じて土あらく、惣ての地藥の心ある也」と記されており、黒みがかった釉薬、口内部には施釉されていないこと、上薬の黒さ、そして土の粗い質感と、土そのものが持つ味わいが指摘されている。
この記録は、「宗無肩衝」が実際に茶会という場で用いられ、その造形的な特徴が、宗及のような当代一流の茶人によって詳細に観察され、記録されていたことを示す極めて貴重な一次史料である。「なだれ」の様子や「ゆがみ」といった偶然が生み出す景色、土の持つ粗野とも言える質感、釉薬のかかり具合などが具体的に記述されていることは、当時の茶人たちが、完成された均整美だけでなく、素材の特性や焼成過程で生じる自然な変化にも深い美的価値を見出していたことを示している。特に「惣ての地藥の心ある也」という表現は、作為のない、土本来の持つ力や味わいを高く評価していた当時の審美眼を端的に表していると言えよう。
博多の豪商であり、千利休に師事した神屋宗湛(かみや そうたん)の日記にも、「宗無肩衝」に関する記述が二度にわたり見られる。
一度目は、天正二十年(1592年)十一月十七日昼、文禄の役の陣中であった名護屋(現在の佐賀県唐津市にあった豊臣秀吉の本陣)において、住吉屋宗無が宗湛一人のために催した茶会の記録である 2 。この時、「宗無肩衝」は袋に入れられた状態で「つり棚」に飾られていた。その特徴として、「肩衝は藥黒く濃くかかる、土靑めに黒く、口付の筋一つ、藥くゝみてかゝる、土の間一二分程なだれ無し、そゝろ高池」と、釉薬の黒く濃い様子、青黒い土の色、口縁の一筋の線、そして釉薬が部分的にかからず土が見えている景色などが記されている。さらに、「袋はケウロク純子、緒あさぎ、形に委あり、底はつくりかけ也」と、仕覆の裂地(ケウロク純子)や緒の色(浅葱色)、そして底の仕上げについても言及されている。
二度目は、文禄二年(1593年)正月十七日昼、同じく名護屋における住吉屋宗無の茶会(これも宗湛一人の客)の記録である 2 。この時は「手水の間に肩衝、袋に入て云々」とあり、茶室に入る前の待合のような空間に飾られていたことがわかる。「肩衝は口筋一つ、高大にして胴張る、藥濃く黑し、土の間二三分、底つくりかけ、蓋新なり、つくは柿のへた也、袋は純子小紋から草也、緒つがり紫也」と、やはり釉薬の黒く濃い様子、口縁の一筋、胴の張った堂々たる姿、底の「つくりかけ」といった特徴が記されている。加えて、蓋が新しいものであったこと、その材質が柿の蔕(へた)であったこと、そして仕覆の裂地(純子小紋唐草文様)と緒の色(紫色)についても詳細な記述が見られる。
『宗湛日記』のこれらの記述は、異なる時期、異なる設えの中で「宗無肩衝」がどのように扱われ、鑑賞されていたかを具体的に伝えている。釉薬の黒く濃い調子、青黒い土、口縁の一筋の線、そして「つくりかけ」と表現される底の仕上げといった特徴は、『津田宗及茶湯日記』の記述とも共通する点が多く、これらが「宗無肩衝」の基本的な造形的特徴であったことを裏付けている。また、仕覆の裂地の種類や緒の色、蓋の材質といった付属品に関する具体的な記述は、茶入本体だけでなく、それを取り巻く道具組全体がいかに重要視され、茶会の趣向に合わせて吟味されていたかを知る上で、極めて貴重な情報を提供している。
江戸時代初期に成立したとされる茶道具の伝来書『玩貨名物記』には、「宗む肩つき 佐竹修理殿」という簡潔な記述が見られる 2 。これは、「宗無肩衝」が佐竹修理大夫、すなわち佐竹義宣の所持であったことを示すものであり、その伝来を補強する重要な史料である。
また、江戸時代中期の茶書『茶事集覧』には、住吉屋宗無の人物像と茶の湯に対する姿勢について、「住吉屋宗無は古風にて真手なる茶人なり、たとへば此茶入は此茶盌この水指と、日頃は吟味ありて定めおき、飾おき合も常住一様にせられし、扨其日其夜の興によりて、一段思入深かりけり。人によりては宗無は茶湯しめり過ぎてしといへるもありき、されど休居士は譽められしなり」と記されている 2 。この記述は、「宗無肩衝」の初代所有者である宗無が、日常的に道具の取り合わせを深く吟味し、一定の美意識に基づいて茶の湯を行っていたことを伝えている。そして、その姿勢が千利休によって賞賛されていたという事実は、「宗無肩衝」が単なる美しい器物であるだけでなく、宗無という優れた茶人の精神性や美意識と深く結びついていたことを示唆している。
近代における茶道具研究の金字塔とも言える高橋箒庵編『大正名器鑑』には、「宗無肩衝」が「漢作大名物 一名住吉肩衝 侯爵徳川義親氏藏」として、詳細な記述と共に収載されている 2 。このことは、近代に至るまで「宗無肩衝」の美術的・歴史的価値が一貫して高く評価され続けてきたことを示すものである。
同書では、まず名称の由来として住吉屋山岡宗無が所持したことによる旨を記し、続いて宗無の人物紹介(『古今茶人系譜』からの引用)、そして宗無の茶風(『茶事集覧』からの引用)を掲載している。さらに、詳細な寸法、そして蓋、御物袋、袋(仕覆)、袋箱、挽家、内箱、外箱といった付属品に関する極めて詳細な記述がなされている 2 。雑記として、『津田宗及茶湯日記』、『宗湛日記』、『玩貨名物記』からの関連記述を引用しており、この茶入に関する情報を網羅的に集めようとする編者の熱意が感じられる。
箱書情報については、総合研究大学院大学の研究報告に掲載された『大正名器鑑』における箱書の調査結果一覧に「宗無肩衝」が含まれており、それによれば、「挽家」に「金粉字形」で「宗無肩衝」という書付が存在し、その書付者は「記載なし」とされている 20 。挽家に施された金粉による銘は、その品格を一層高める要素であり、伝来の確かさを示すものと言える。書付者が不明であるという点は、今後の研究によって解明される可能性を残している。
「宗無肩衝」には、茶入本体を保護し、その品格をさらに高めるための数々の付属品が伝来している。これらの付属品は、茶入がいかに丁重に扱われ、大切に受け継がれてきたかを物語るものであり、それ自体もまた美術的価値を持つ場合が多い。
『大正名器鑑』には、「宗無肩衝」の付属品について、以下のような詳細な記録が残されている 2 。
表3:「宗無肩衝」付属品一覧と詳細
種類 |
詳細 |
典拠 |
蓋 |
一枚 |
2 |
窠(巣) |
一つ (茶入を保護する詰め物か) |
2 |
御物袋 |
白縮緬 一つ |
2 |
袋(仕覆)1 |
茶地角龍金襴 裏玉虫 緒つがり紫 |
2 |
袋(仕覆)2 |
納戶地丸龍純子 裏玉虫 緒つがり紫 |
2 |
袋箱 |
桐製 金粉銘 鐶付金具銀梅之花 一つ |
2 |
挽家 |
花琳(カリン)製 額彫 金粉字形「宗無肩衝」 一つ |
2 |
挽家付属の袋 |
蜀紅錦 片身替(片面が黄地、片面が青地) |
2 |
内箱 |
桐白木 金粉字形「宗無肩衝」 一つ |
2 |
外箱 |
黒塗 金粉字形「宗無肩衝」 一つ |
2 |
3 の「SACA學會」による情報も、これらの付属品について概ね同様の内容を伝えているが、仕覆の裂地の記述に関しては、「茶地角竜金襴、納戸地丸龍緞子」と若干の表現の違いが見られる。
これらの付属品の中で特に注目されるのは、複数の箱(挽家、内箱、外箱)が存在し、そのそれぞれに金粉で銘が記されている点である。これは、「宗無肩衝」が極めて丁重に扱われ、その由緒が箱書きによっても保証され、代々受け継がれてきたことを明確に示している。特に、花梨という高級材を用いた挽家や、銀製の梅花文様の金具といった素材は、付属品自体の質の高さを物語っている。茶道具の世界において、箱書きは伝来の経緯や真贋を証明する上で極めて重要な役割を果たす。金粉による銘は格調の高さを演出し、複数の箱が存在することは、時代ごとの所有者によるものか、あるいは特別な扱いを示すためのものである可能性が考えられる。
また、仕覆が複数(『大正名器鑑』の記述では二つ、挽家付属の袋を含めると三つ)存在し、それぞれに異なる種類の裂地(角龍文様の金襴、丸龍文様の純子、蜀紅錦の片身替)が用いられていることは、茶会や季節、あるいは取り合わせる他の道具によって、これらの仕覆が使い分けられていた可能性を示唆している。仕覆の裂地は、それ自体が「名物裂」として珍重されることも多く 1 、茶入本体の格をさらに高める重要な要素となる。角龍や丸龍といった文様は、中国由来の格調高い伝統的なモチーフであり、金襴や純子といった織物の種類もまた高級品である。これらの豪華な仕覆は、「宗無肩衝」という茶入本体だけでなく、それを取り巻く茶の湯文化全体の豊かさと洗練を象徴していると言えよう。
『大正名器鑑』とSACA學會の記述の間で、仕覆の裂地の表現に若干の差異(例えば、「角龍金襴」と「角竜金襴」、「丸龍純子」と「丸龍緞子」など)が見られる点については、記録時の表記の揺れや、時代による呼称の変化、あるいは実見に基づく詳細度の違いなどが原因として考えられる。織物の名称や分類は専門的な知識を要するため、記録者によって認識や表現が僅かに異なることはあり得る。しかしながら、基本的な文様や材質については両者の記述は一致しており、これらの仕覆が「宗無肩衝」の重要な付属品として、長年にわたり大切にされてきたことは疑いのない事実である。
「宗無肩衝」は、その美術的な完成度の高さ、初代所有者である住吉屋宗無という傑出した茶人の旧蔵品であるという由緒、そしてその後の輝かしい伝来の歴史によって、日本の茶道史および美術史上において極めて重要な位置を占めている。
「宗無肩衝」は、その初代所有者である住吉屋宗無の名と共に、桃山時代から江戸時代初期にかけての茶の湯文化において、他の追随を許さない高い評価を得ていた 1 。永禄、天正、文禄年間(1558年から1596年)の茶会で実際に用いられたという記録は 1 、この茶入が当時の茶人たちの間で現実に使用され、熱心に鑑賞されていたことを物語っている。
「大疵繕いがあるが気宇雄大で桃山時代の茶入にふさわしい」 4 と評されるように、その堂々たる風格は、いささかの傷があっても損なわれることなく、むしろ高く評価されている。室町時代後期から江戸時代初期にかけては、本作のような大型の肩衝茶入が特に尊重されたという背景もあり 3 、その価値は揺るぎないものであった。
「宗無肩衝」の価値は、まず第一に、その美術的な出来栄え、すなわち漢作唐物としての質の高さ、威風堂々とした姿、そして変化に富んだ美しい釉景にある。しかし、それと同等、あるいはそれ以上に重要なのは、初代所有者である住吉屋宗無という著名な茶人の旧蔵品であるという「物語性」、そしてその後、佐竹家、徳川将軍家、尾張徳川家といった一流の所有者たちの手を経てきた輝かしい伝来の歴史である。茶道具の評価においては、単に「モノ」としての物理的な質だけでなく、それにまつわる「コト」、すなわち由緒、伝来、そして関連する逸話が極めて重要な要素となる。「宗無肩衝」は、まさにこの「モノ」と「コト」が一体となってその価値を形成し、高められてきた典型的な事例と言えるだろう。
桃山時代に大型の肩衝茶入が尊重された背景には、当時の武将たちの豪放磊落な気風や、書院造の広間で行われる大人数の茶会といった、社会的・文化的な要因が影響していた可能性が考えられる。桃山時代は、茶の湯が武士階級に広く普及し、時には政治的な駆け引きの道具としても用いられた時代である。そのような状況下において、存在感のある大型の肩衝茶入は、権力や富、そして文化的な教養を象徴するのに適した器物であったのかもしれない。「宗無肩衝」の「気宇雄大」という評価もまた、こうした時代の好みを色濃く反映していると言えよう。
日本の茶道史において、特に名高い肩衝茶入として「天下三肩衝(てんかさんかたつき)」が知られている。これは、「初花(はつはな)」、「新田(にった)」、そして「楢柴(ならしば)」という三つの大名物の唐物茶入を指す呼称である 11 。これらの名品と比較することで、「宗無肩衝」の位置づけをより明確にすることができる。
「宗無肩衝」の高さは約9.0cmであり 2 、「初花」や「新田」と比較しても遜色のない、堂々たる大きさを誇っている。
「宗無肩衝」は、この「天下三肩衝」には数えられていない。しかしながら、同じく「大名物」の格付けを持つ漢作唐物の肩衝茶入として、これらに匹敵する高い評価と価値を有していたと考えられる。その評価は、寸法や作行きの素晴らしさのみならず、初代所有者である住吉屋宗無の名声や、その後の輝かしい伝来の由緒によってもたらされた部分が大きいと言えるだろう。「天下三肩衝」が選ばれた背景には、それぞれの茶入が持つ特別な物語や、時の権力者との深い関わりがあったと考えられる。「宗無肩衝」もまた、住吉屋宗無という当代一流の茶人が見出し、その後も名だたる武将や大名家に大切に受け継がれたという点で、他の追随を許さない独自の価値と物語性を有しているのである。
これらの名物肩衝は、いずれも中国の南宋時代から元時代にかけての作と推定されており、この時期の中国陶磁が日本の茶の湯文化の形成と発展において、いかに重要視されていたかを如実に物語っている。また、戦国時代から江戸時代初期にかけて、これらの名物が時の権力者たちの間を移動したという事実は、茶道具が単なる美術品としてだけでなく、政治的・経済的な価値をも併せ持つ、極めて重要な存在であったことを示している。「一国一城に値する」とまで言われた名物茶入 11 は、まさに権力、富、そして文化資本の象徴であった。これらの名物を所有することは、自身の社会的地位を高め、他者との関係において優位に立つための有効な手段でもあったのである。
「漢作唐物」は、その土味、釉調、作風のいずれにおいても優れていると評価される 13 。「宗無肩衝」に関して古記録に見られる「土あらく」 2 、「藥黒く濃くかかる」 2 といった特徴は、この時代の中国陶磁に見られる素朴さと力強さ、そして釉薬の豊かな表情を反映している可能性がある。肩が堂々と張り、胴が豊かに膨らみ、裾がきゅっと締まるという肩衝茶入の基本的なフォルムは、中国大陸で古くから作られていた小壺にその起源を持つと考えられる 11 。
南宋時代から元時代にかけての中国では、福建省の建窯(けんよう)(天目茶碗の主要な産地として名高い)などで、茶の湯に関連する陶磁器(茶陶)が盛んに生産された 27 。「宗無肩衝」が具体的にどの窯で焼成されたかについては現在のところ不明であるが、この時代の中国における高度な陶芸技術と美的感覚を現代に伝える貴重な作例の一つであることは間違いない。
「宗無肩衝」のような漢作唐物は、日本の茶人たちによって「見出され」、日本独自の価値観の中で高く評価されてきたという側面を持つ。中国では元々、薬壺や日用の雑器として作られたものが、日本の茶の湯という特殊な文化的文脈の中で新たな美的価値を付与され、至宝として珍重されるようになった事例も少なくない 11 。日本の茶人たちは、中国陶磁の技術的な完成度のみならず、そこに現れる土の表情や釉薬の自然な変化、すなわち「景色」に深い美を見出した。これは、中国本土における陶磁器の評価軸とは必ずしも一致しない、日本独自の審美眼の現れと言えるだろう。「宗無肩衝」もまた、そうした日本の茶人たちの厳しい眼を通して選び抜かれ、大切に守り伝えられてきたと考えられる。
特に、「宗無肩衝」の薄造りの技術 3 は、当時の中国の陶工が有していた轆轤技術の高さと、土を扱う熟練の技を雄弁に物語っている。大型の器でありながら手に取った際に軽いという特徴は、実用性と美的洗練を高い次元で両立させていたことを示唆する。陶磁器の薄造りは高度な技術を要し、特にこれほどの大きさの器物を薄く、かつ均整を保って成形することは容易ではない。この技術的な卓越性が、「宗無肩衝」の評価を一層高める一因となった可能性は十分に考えられる。また、茶入は茶事の中で実際に手に取って鑑賞される道具であるため、その軽さは扱いやすさにも繋がり、機能美としても高く評価されたであろう。
「宗無肩衝」は、桃山時代を代表する傑出した茶人・住吉屋宗無の旧蔵品として、また、中国南宋から元代にかけて製作された「漢作唐物」の「大名物」として、日本の茶道史および美術史上において、燦然と輝く重要な位置を占めている。その堂々たる風格を備えた造形、黒褐色の釉薬が織りなす変化に富んだ景色、そして何よりも、住吉屋宗無から佐竹家、徳川将軍家、そして尾張徳川家へと、名だたる所有者たちの手を経てきた輝かしい伝来の歴史は、この茶入に比類なき価値と深い物語性を与えている。
『津田宗及茶湯日記』や『宗湛日記』といった同時代の茶会記に残された詳細な記述は、当時の茶人たちがこの「宗無肩衝」をいかに熱心に鑑賞し、その釉薬の「なだれ」や土の質感、細部の作行きに至るまで、深い愛情と鋭い審美眼をもって美を見出していたかを、現代の我々に生き生きと伝えてくれる。また、数々の荘厳な付属品は、この茶入がいかに丁重に扱われ、大切に守り伝えられてきたかを物語っている。
現在、「宗無肩衝」は徳川美術館の至宝の一つとして収蔵され、適切な管理のもとでその姿は未来へと確実に受け継がれ、今後も展覧会などを通じて多くの人々に深い感銘を与え続けるであろう。
本報告書において検討した内容が、「宗無肩衝」という一つの茶入を通じて、日本の豊かな茶道文化、そしてそれ育まれた独自の美意識への理解を僅かでも深める一助となれば、望外の喜びである。なお、住吉屋宗無の正確な没年に関する異説や、箱書の書付者の問題など、未だ研究の余地が残されている点については、今後のさらなる史料の発見と、専門家による研究の進展に大いに期待したい。