『小笠原流庭乗』は、小笠原流馬術の極意を記した書。鎌倉期に武家故実の宗家として確立。戦国乱世で領地を失うも、文化の力で生き残り、礼法と馬術を統合した庭乗を伝える。
『小笠原流庭乗』。この名は、歴史シミュレーションゲームなどを通じて、小笠原流馬術の極意を記した「家宝」として広く知られている 1 。ゲーム内では、武将の騎馬能力を高める貴重な書物として描かれ、多くの歴史愛好家にとって、その認識は「小笠原流は弓馬の家であり、その奥義を伝える書物」というイメージに集約されるであろう 4 。
しかし、この書物の実体は、ゲーム内の単純な効果で語り尽くせるものではない。その存在は単なる伝説や創作の域に留まらず、京都大学貴重資料デジタルアーカイブには『小笠原流庭乗 巻第2』と題された写本の記録が現存している 5 。この一点の事実が、本書が歴史の潮流の中に確かに存在したことを示唆し、我々をより深い探求へと誘う。
本報告書は、この『小笠原流庭乗』を、特に主題である「日本の戦国時代」という激動の時代背景の中に置き、その真の価値と歴史的意義を解明することを目的とする。単なる一冊の馬術書としてではなく、戦国武将の存亡を懸けた文化戦略の象徴として、本書を多角的に分析し、その実像に迫るものである。
小笠原流の歴史は、遠く鎌倉時代にまで遡る。その起源は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が、甲斐源氏の名門である小笠原家の始祖、小笠原長清に武家の武術と諸儀式を制定させたことに始まるとされる 2 。頼朝は、坂東武者が京の都の貴族たちから礼儀知らずと見なされ、武家の威厳が損なわれることを憂慮していた。このため、長清を武士の作法を司る「糾方(きゅうほう)師範」に任命し、武家社会の規範を確立させようとしたのである 8 。
ここで重要なのは、小笠原流の根幹をなす「糾法」という概念である。これは単に弓を射る技術や馬を操る技術を指すものではない。弓術、弓馬術(流鏑馬など)、そして礼法の三つが不可分に統合された総合的な武士の教養体系であった 6 。戦場における強さの源泉である弓馬の術と、平時における社会秩序の維持と個人の品格を示す礼法は、武士という身分を支える両輪と見なされていた。この三位一体の思想こそが、小笠原流が単なる戦闘技術の流派に留まらず、「弓馬の家」としての特別な地位を築く礎となった。
その権威は室町時代に入るとさらに高まり、足利将軍家の師範としても重用された。特に三代将軍・足利義満の時代には、伊勢流の伊勢憲忠、今川流の今川氏頼と共に、武家故実の集大成ともいえる『三議一統』の編纂に小笠原長秀が携わった 11 。これにより、小笠原流は幕府公認の礼法家として、武家社会全体における弓馬故実の指導的かつ規範的な存在としての地位を確固たるものにしたのである 7 。このようにして確立された権威と伝統は、後に訪れる戦国乱世において、小笠原家が生き残るための最も重要な無形の資産となるのであった。
鎌倉・室町期に築かれた小笠原流の権威は、戦国時代という未曾有の社会変動の中で、深刻な挑戦に直面すると同時に、新たな価値を見出されることとなる。戦場の様相が激変し、小笠原家そのものが存亡の危機に瀕する中で、流派の性格もまた大きな変容を遂げていった。
戦国時代の合戦は、それ以前の時代とは様相を大きく異にしていた。鎌倉・室町期に主流であった、個々の武士の武勇を問う一騎討ちから、足軽による槍の密集隊形を中核とした集団戦へと戦術の主役が移行したのである 14 。さらに鉄砲の伝来は、この傾向を決定的なものにした。
この戦術の変化は、騎馬の役割にも大きな影響を及ぼした。馬上から弓を射る「騎射」の重要性は相対的に低下し、騎馬は指揮官の移動や伝令といった補助的な役割、あるいは槍を装備した騎馬武者による集団での突撃力として、その価値を変化させていった。このような状況下で、小笠原流が伝統としてきた、個人の技量を極めることを主眼とする騎射の技術は、戦場での直接的な実用性という面では、必ずしも時代の最先端とは言えなくなった 7 。
この時代、より実践的な集団戦に向いた馬術として、大坪流などの新興流派が台頭する 11 。大坪流は、小笠原政長に馬術を学んだ大坪慶秀が創始したとされ、小笠原流から派生しつつも、より実戦的な調馬術や乗り方を追求し、多くの武士たちの支持を集めた 15 。
ここに一つの大きな問いが生じる。戦場での実用性という面で他の流派に主役の座を譲りつつあったにもかかわらず、なぜ小笠原流はその権威を失うどころか、むしろ別の形でその価値を高めていったのか。この問いの答えは、戦国時代が馬術に求めた価値が「実用性」と「権威性」に二極化した点に見出すことができる。戦場で直接勝利に貢献する技術が求められる一方で、武将の格式や家柄、統治の正統性を示すための儀礼的な権威もまた、下剋上の世であるからこそ渇望されたのである。小笠原流は、この「権威」という側面において、他の追随を許さない絶対的な地位を保持し続けた。その特性は、同じく弓馬術の名門である武田流と比較することで、より鮮明になる。
表1:小笠原流と武田流の比較
項目 |
小笠原流 |
武田流 |
始祖(伝承) |
小笠原長清 6 |
武田信光 17 |
射法の特徴 |
射手が「イン、ヨー(陰陽)」などの掛け声を発することがある 18 |
射手は声を発しない 18 |
笠 |
藺草(いぐさ)で編んだ綾藺笠(あやいがさ) 19 |
檜(ひのき)で編んだ笠。神事では鬼面を付けることがある 19 |
矢 |
先端に鏃(やじり)の付いた鏑矢(かぶらや)を箙(えびら)に差して用いる 19 |
鏃のない神頭矢(じんとうや)を帯に挟んで用いる 19 |
流派の性格 |
儀礼的、形式的で、故実や礼法を重んじる。武家社会の規範としての性格が強い。 |
実践的、尚武的で、武張った気風が強い。神事としての側面も色濃い 20 。 |
この表が示すように、両者は同じ清和源氏の系譜に連なりながらも、その性格は対照的である 21 。武田流がより実践的で武威を前面に出すのに対し、小笠原流は細やかな所作や用具に至るまで、儀礼的な格式を重んじる傾向が強い。この「権威性」こそが、戦国乱世を生き抜くための小笠原流の最大の武器となったのである。
小笠原流の権威性を象徴するのが、戦国期における宗家当主、小笠原長時と、その子・貞慶の流転の生涯である。信濃守護という名門の当主であった長時は、甲斐の虎・武田信玄(当時は晴信)の信濃侵攻に直面する 20 。天文17年(1548年)の塩尻峠の戦いで武田軍に大敗を喫すると、小笠原家の勢力は急速に衰退し、ついに本拠地である林城・深志城(後の松本城)を追われ、故郷を失うこととなった 24 。
ここから、長時の長く苦難に満ちた流浪の人生が始まる。彼は家名再興を期して、越後の上杉謙信、京の三好長慶、そして会津の蘆名盛氏など、各地の有力大名のもとを転々とした 24 。しかし、旧領回復の夢は叶うことなく、天正11年(1583年)、客将として身を寄せていた会津において、家臣の不行跡が原因で別の家臣に斬り殺されるという悲劇的な最期を遂げた 24 。
一方で、父と共に流浪の旅を続けた三男の貞慶は、父の遺志を継ぎ、不屈の精神で再興の道を探った 26 。彼は織田信長に接近し、本能寺の変後は巧みに徳川家康に臣従する。そして天正壬午の乱という信濃の混乱に乗じ、家康の支援を得て、ついに悲願であった旧領・深志城の奪還を成し遂げたのである 26 。
この父子の対照的な生涯は、戦国時代の過酷さを示すと同時に、ある重要な事実を浮き彫りにする。それは、領地も兵力も失ったはずの長時が、なぜ上杉謙信や三好長慶といった当代一流の戦国大名から客分として厚遇されたのか、という点である 25 。彼らが長時に求めたのは、一人の武将としての軍事力ではなかった。彼らが価値を見出したのは、長時がその身に体現する「信濃守護」という由緒ある家格と、「小笠原流弓馬故実の宗家」という比類なき文化的権威であった。長時自身が、いわば「歩く文化遺産」であり、彼を庇護することは、庇護者自身の権威と文化的ステータスを高める行為だったのである。
表2:戦国期における小笠原長時・貞慶の動向年表
西暦(和暦) |
出来事 |
関連人物(庇護者など) |
典拠 |
1548年(天文17年) |
塩尻峠の戦いで武田晴信に大敗。 |
武田信玄(晴信) |
27 |
1550年(天文19年) |
林城を追われ、信濃を失う。村上義清を頼る。 |
村上義清 |
27 |
1553年頃~ |
越後の上杉謙信を頼る。 |
上杉謙信 |
27 |
1560年代 |
京に上り、将軍・足利義輝に仕え、三好長慶の庇護を受ける。 |
足利義輝、三好長慶 |
27 |
1578年(天正6年) |
上杉謙信が急死。御館の乱の混乱により越後を去る。 |
- |
25 |
1579年頃~ |
会津の蘆名盛氏の客将となる。 |
蘆名盛氏 |
24 |
1582年(天正10年) |
貞慶 が徳川家康の支援を受け、旧領・深志城を奪還。 |
小笠原貞慶 、徳川家康 |
26 |
1583年(天正11年) |
長時 が会津にて家臣に殺害される。 |
- |
24 |
1585年(天正13年) |
貞慶 が徳川氏を離反し、豊臣秀吉方につく。 |
小笠原貞慶 、豊臣秀吉 |
26 |
1590年(天正18年) |
貞慶 が徳川家康の関東移封に従い、下総古河3万石へ移る。 |
小笠原貞慶 、徳川家康 |
26 |
この年表が示すように、小笠原父子の行動は単なる行き当たりばったりの流浪ではない。それは、時代の潮流を読み、自らが持つ文化資本を最大限に活用しながら、家名再興という一貫した目標に向かって続けられた、粘り強い政治活動そのものであった。
小笠原氏が物理的な領地を失ったことは、逆説的に、彼らが持つ無形の資産、すなわち「武家故実」の価値を飛躍的に高める結果となった。長時・貞慶父子は、流浪の苦難の中でこそ、小笠原流礼法の研究と体系化に心血を注いだ 32 。特に、父祖伝来の故実に加え、流浪の先々で接した諸家の故実や礼法をも取り込み、戦国時代の状況に合わせて集大成したことは特筆に値する 11 。この成果が、後に貞慶から子の秀政へと伝えられた『小笠原礼書七冊』に結実したとされている 12 。
この動きの背景には、戦国時代特有の社会状況があった。下剋上によって旧来の権威が失墜し、実力で成り上がった大名たちが、自らの支配を正当化し、家臣団を統制するための新たな秩序を模索していた 11 。彼らは武力だけでなく、自らの家格を高め、統治に威厳を持たせるための「文化的権威」を渇望していたのである 34 。
小笠原氏は、この時代の需要に対して、武家故実という最高の文化的商品を提供できる、数少ない供給者であった。彼らの流浪の旅は、見方を変えれば、信濃という一国に留まっていては決して得られなかったであろう、各地の最先端の文化や故実に触れる絶好の機会であった。京の公家・武家社会の洗練された儀礼、越後や会津といった東国武士の質実剛健な慣習。これらを比較検討し、自らの流派の教えをより普遍的で体系的なものへと昇華させることができたのである。つまり、彼らにとっての「流浪」とは、単なる苦難の道程ではなく、小笠原流を地方の故実から全国区のスタンダードへと押し上げるための、壮大な「フィールドワーク」の期間であったと積極的に評価することができる。武力を失った彼らは、文化の力によって、戦国大名が無視できない存在として再起を果たしたのである。
戦国時代を通じてその価値を変容させた小笠原流。その思想と技術を凝縮したものが、本報告書の主題である『小笠原流庭乗』である。この書物の名称と内容を深く考察することは、小笠原流の本質を理解する上で不可欠である。
「庭乗(にわのり)」という言葉自体が、この馬術の性格を端的に示している。文字通り、庭や馬場といった限定された空間で行われる馬術であり、戦場での駆馳や、流鏑馬のような騎射とは一線を画す 2 。その具体的な意味については、いくつかの解釈が存在する。一つは、将軍や大名といった貴人の御前で披露するための、儀礼的で優美な乗り方を指すという説 4 。もう一つは、馬術の最も基礎的な調馬術や、気性の荒い馬を乗りこなすための矯正技術を指すという説である 35 。
いずれの解釈にも共通するのは、これが射術を伴わず、純粋に馬を精密に、かつ美しく操る技術体系であったという点である。特に「貴人の前での馬の乗り方」という側面は、小笠原流が最も重んじる「礼法」の思想と深く結びついている。それは単なる馬の操作技術ではなく、見る者に対して乗り手の揺るぎない心、優れた技量、そして馬との完璧な一体感を示す、一種の儀礼的パフォーマンスであった。
では、なぜこのような非戦闘的な技術が「極意書」として伝えられたのか。それは、小笠原流において「馬術」が、単に馬に乗って敵を倒すための技術(術)ではなく、馬との対話を通じて自らの心身を律し、合理的な動作の先に生まれる「形」の美しさを追求する、精神修養の道(道)と捉えられていたからに他ならない 10 。馬を意のままに、しかし力むことなく操ることは、乗り手の精神が安定し、かつ身体の使い方が理に適っている証拠である。「庭乗」は、その思想を最も純粋な形で体現する技術であった。したがって、『小笠原流庭乗』という書名は、この流派が戦場で直接役立つ戦術よりも、武士の心身を律する「作法」と、万物の根本をなす「基礎」をいかに重視していたかを象徴している。この書は、単なる技術解説書ではなく、小笠原流の馬術哲学そのものを記した思想書としての側面を色濃く持っていたと推察される。
『小笠原流庭乗』が単なる概念ではなく、物理的な書物として存在したことを示す最も強力な証拠が、京都大学貴重資料デジタルアーカイブに記録されている写本『小笠原流庭乗 巻第2』の存在である 5 。この「巻第2」という記述は、少なくとも複数巻からなる体系的な書物であったことを示唆している。
その具体的な内容については、現存する他の武芸流派の伝書 36 や、現代に伝わる小笠原流の教え 10 から類推することが可能である。おそらく、以下のような項目が含まれていたと考えられる。
この伝書の編纂時期と動機を考える上で極めて重要なのが、天正14年(1586年)に、小笠原貞慶が嫡子・秀政に「糾方伝授」を行ったという記録である 30 。この時期は、貞慶が徳川家康の支援で旧領を回復し、豊臣秀吉との間で微妙な立場に置かれながらも、来るべき新しい時代を見据えていた頃にあたる。このタイミングで伝書を整備した行為は、単なる知識の記録や継承に留まらない、高度に戦略的な意味合いを持っていた。
それは、徳川家康という新たな天下の覇者候補に対し、自らの流派が持つ専門性と文化的価値を「可視化」し、証明するための行為であった。口伝という無形の知識を、『小笠原流庭乗』という有形の「パッケージ」にまとめること。それは、戦国時代を生き抜いた小笠原氏が、来るべき泰平の世に向けて自らの文化資本を「商品化」し、次代の支配者にその価値を売り込むための、いわば「企画提案書」のような役割を担っていたのである。この書物は、戦国武将が文化を武器に生き残りを図った、したたかな戦略の産物であったと言えよう。
戦国末期に小笠原貞慶が投じた一石は、徳川の世において大きな波紋となって結実する。小笠原氏と徳川家の結びつきは、小笠原流の伝統を江戸時代へと繋ぎ、その権威を不動のものとする決定的な要因となった。
貞慶とその子・秀政は、徳川家康に臣従することで大名としての地位を回復し、家名を再興した 26 。この強固な主従関係を背景に、小笠原流は江戸幕府において特別な地位を与えられる。すなわち、徳川将軍家専門の公式な弓馬術礼法、いわゆる「御留流(おとめりゅう)」として、その教えが厳重に管理されることになったのである 6 。これにより、小笠原流の技術や故実は一子相伝の秘儀とされ、その神秘性と権威性は一層高められた。
徳川幕府が小笠原流を重用した理由は、その統治理念と深く関わっている。戦乱を終結させ、二百数十年続く泰平の世を築いた徳川幕府は、武力による支配だけでなく、厳格な身分制度と儀礼に基づいた秩序によって社会を安定させようとした 41 。複雑で格式高い儀礼は、将軍の絶対的な権威を視覚的に示し、大名や旗本を序列の中に組み込むための有効な装置であった。小笠原流が体系化した武家礼法は、まさにこの幕府の政治的ニーズに合致するものであった。
その根底には、単なる形式主義ではない、相手への敬意や思いやりといった精神性が流れていた 41 。この「こころ」と「かたち」の調和を説く思想は、社会全体の秩序と調和を重んじる幕府の理念とも親和性が高かった。
家康をはじめとする徳川の支配者たちは、小笠原流が持つ「鎌倉以来の伝統」という歴史的背景と、「武家故実の宗家」という格式を、自らの政権の正統性を補強し、全国の大名を儀礼によって統制するための、極めて有効な政治的ツールとして認識し、活用したのである。
ここで見えてくるのは、戦国時代における小笠原氏の苦難の歴史が、江戸時代における隆盛の礎となったという、歴史の連続性である。戦国乱世を武力ではなく文化的権威によって生き抜き、その過程で体系化した故実礼法。家康は、その「生き残りの物語」そのものに価値を見出し、苦難の末に磨き上げられた伝統こそが、新しい時代の秩序の礎にふさわしいと考えた。したがって、江戸時代における小笠原流の地位は、戦国期の流浪と研究の末に蓄積された文化資本が、泰平の世でついに花開いた結果であり、戦国と江戸という二つの時代を繋ぐ、文化史的な必然であったと言える。
本報告書で詳述してきたように、『小笠原流庭乗』は、ゲームアイテムとして流布するような単なる「馬術の極意書」ではない。それは、戦国という時代の激しい変化に対応するため、その価値の軸足を「戦場の武術」から「宮廷の儀礼」へ、そして「物理的な武力」から「象徴的な権威」へと戦略的に転換させた、小笠原氏の存亡を懸けた文化戦略の結晶である。
この一冊の書物と、それを伝えた小笠原氏の軌跡は、我々に戦国時代の多面的な姿を提示する。戦国武将とは、単に領地を奪い合う武人であるだけではない。時には文化の継承者、あるいは創造者として、自らの存在価値を証明しようとした知的な存在でもあった。領地という物理的基盤を失ってもなお、伝統という無形の資産を武器に生き抜き、ついには次代の秩序形成に不可欠な役割を担うに至った小笠原氏の生き様は、戦国時代における「力」の意味そのものを我々に問い直させる。
『小笠原流庭乗』という書物の背後には、名門の没落と再興、時代の激変と伝統の継承、そして武力と文化が複雑に交錯する、壮大な歴史ドラマが隠されている。その深遠な物語を理解することこそ、この書物の真の価値に迫る唯一の道程であり、戦国時代という時代をより深く理解するための鍵となるのである。