『尺素往来』研究:室町・戦国期における教養と教育の様相
1. はじめに
本報告書は、室町時代中期に成立したとされる往来物(おうらいもの)『尺素往来(せきそおうらい)』について、その内容、歴史的背景、教育的・文化的意義、諸本、そして研究史を網羅的に調査し、専門的見地から詳細に解説することを目的とします。『尺素往来』は、その名が示す通り「尺素(せきそ)」(手紙の意)の往復、すなわち書簡の形式を取りながらも、単なる手紙の文例集に留まらず、当時の公家や武家社会における実用的知識や広範な教養を伝える教科書として、日本の教育史・文化史において重要な役割を果たしました 1 。日常生活に必要な実用知識や礼儀作法に立脚した往来物は、識字率を高めるなど近世までの日本の高度な庶民教育を支える原動力となったものとして、教育史上高く評価されています 2 。
本報告書では、特にご依頼のあった「戦国時代」という時代設定を念頭に置きつつ、『尺素往来』の成立時期とされる室町時代中期からの連続性と、戦国時代における受容と影響について考察を深めます。多くの学術資料が『尺素往来』の成立を室町時代中期、具体的には文明13年(1481年)以前としていますが 1 、戦国時代にあたる大永2年(1522年)に書写された橋本公夏筆の写本が現存すること 4 、また戦国時代の食文化や社会事象を語る文脈で『尺素往来』が参照されること 6 は、本書が戦国時代においても「生きた書物」として利用され、影響力を持ち続けていたことを強く示唆しています。室町中期に成立した教科書が、なぜ戦国という未曾有の動乱期においてもその価値を失わず、書写・利用され続けたのかという問いは、本書の内容が持つ普遍的な価値、あるいは戦国武将や公家といった支配層が混乱の時代であるからこそ古典的な教養や実用的な知識を希求した可能性を浮き彫りにします。この「継続性」こそが、『尺素往来』の歴史的価値を一層高める要因と言えるでしょう。本報告書は、こうした視点も踏まえつつ、多角的に『尺素往来』の実像に迫ることを目指します。
2. 往来物とは
『尺素往来』を理解する前提として、まず「往来物」そのものについて概観します。
往来物とは、平安時代末期から明治前期に至る長期間にわたり、寺子屋や家庭などにおける初等教育の教科書として広く使用された学習書の総称です 9 。その名称は、もともと「往信来信」、すなわち往復する手紙の文例集として発達したことに由来しています 9 。現存する最古の往来物は、平安時代後期(11世紀後半)に学者・能吏として知られた藤原明衡(ふじわらのあきひら)が著したとされる『明衡往来(めいごうおうらい)』であると言われています 9 。
鎌倉時代に入ると、手紙に使用される単語や短い文章を集めたものも登場し、この時期に成立したとされる『庭訓往来(ていきんおうらい)』は、武家社会の興隆という時代背景にも合致し、江戸時代に至るまで広く普及し、教科書として重用されました 10 。
江戸時代になると、寺子屋の増加と庶民教育の著しい発達に伴い、往来物の種類と数は爆発的に増加しました。その内容は、従来の手紙文例(消息類)に留まらず、子供たちが最初に学ぶ単語や短文を集めた「熟語類」、道徳的教訓を中心とする「訓育類」、歴史上の事件や人物を扱う「歴史類」、地名や各地の風物をまとめた「地理類」、さらには農業・工業・商業といった各種産業に関する知識や心得を記した「実業類」など、社会の多様なニーズを反映して極めて多岐にわたりました 9 。その種類は7000にも及んだとされ、当時の日本社会における教育熱の高まりと、実用的な知識習得への強い志向を物語っています 10 。
往来物は、単に文字の読み書きを習得させるためだけでなく、社会生活に必要な実用知識、礼儀作法、道徳観念、さらには職業的知識に至るまで、広範な内容を網羅的に提供することで、日本人の識字率向上と国民的教養水準の底上げに大きく貢献しました 2 。明治時代に入り、学制発布(1872年)や教科書認可制度の導入など、国家による統一的な教育制度が整備されるにつれて、往来物は次第にその役割を終え姿を消していきましたが 10 、それらが日本の教育史、特に庶民教育の発展において果たした意義は極めて大きいと言えます。
往来物の内容が、初期の書簡文例中心のものから、社会の発展と教育対象の拡大に伴って多様化し、より専門的かつ実用的な知識を含むようになった背景には、それぞれの時代や社会階層が直面する課題と、それに対応するために求められる「知」の質の変化が存在します。公家や僧侶が中心であった初期の教育から、武士、そして商人や農民といった庶民へと教育の裾野が広がるにつれて、抽象的な教養よりも具体的な生活知識や職業技能の重要性が増したことは想像に難くありません。『尺素往来』のような百科全書的な内容を持つ往来物は、こうした多様化する教育ニーズに応えようとする試みの一つであり、特に支配階級や知識人層に向けた、統合的かつ高度な教科書としての性格を有していたと考えられます。
3. 『尺素往来』の成立と背景
『尺素往来』は、室町時代中期という、政治的・社会的に大きな変動期に成立した往来物です。その編纂者とされる一条兼良の人物像、具体的な成立年代、そして執筆に至った動機や当時の社会的・文化的背景について詳述します。
3.1. 著者:一条兼良とその人物像
『尺素往来』の著者は、室町時代中期の公卿であり、当代随一の碩学として知られる一条兼良(いちじょうかねよし、または「かねら」、1402年~1481年)であると広く伝えられています 1 。一部の資料には「後成恩寺関白兼良公(のちのじょうおんじかんぱくかねらこう)」の撰であると明記されており 1 、その権威付けがなされています。
兼良は、摂関家の一つである一条家の出身で、若くしてその才能を現し、関白、太政大臣といった朝廷の最高職を歴任しました 12 。彼の生涯は、応仁・文明の乱(1467年~1477年)という未曾有の大乱の時代と重なります。この動乱期にあって、兼良は朝廷の権威維持と伝統文化の保護に尽力する一方で、精力的な執筆活動を展開し、日本文化史上に多大な影響を与えました。その著作は、『公事根源(くじこんげん)』(有職故実書)、『花鳥余情(かちょうよじょう)』(源氏物語注釈書)、『樵談治要(しょうだんちよう)』(政道書)など、有職故実、和歌、古典注釈、神道、儒教、仏教と極めて広範な分野に及びます 13 。
『尺素往来』の編纂においても、こうした兼良の広範な学識と深い教養が遺憾なく発揮されたと考えられます。例えば、彼自身が関心を寄せていたとされる植物に関する知識 17 や、健康長寿を願う養生法に関する記述 15 が、本書の百科全書的な内容に反映されている可能性も指摘されています。また、兼良は朱子学にも通じていたとされ 16 、その思想的影響が本書の構成や内容選択に及んだことも考えられます。
応仁の乱によって京都は荒廃し、多くの文化財が失われ、公家社会も大きな打撃を受けました。兼良自身も戦乱を避けて奈良や美濃に滞在した経験を持ちます 15 。このような時代背景の中で、彼が『尺素往来』のような実用的知識と伝統的教養を網羅した教科書を編纂した動機には、失われつつあった公家文化の伝統や知識を次世代に確実に伝えたいという強い意志、そして混乱した社会において必要とされる行動規範や実用的知識の体系化への希求があったのではないでしょうか。兼良の多岐にわたる学問的探求と、摂関家の当主としての政治的経験、そして動乱の時代を生きた現実認識が、『尺素往来』という稀有な往来物を生み出す原動力となったと推察されます。彼の著作『樵談治要』において、応仁の乱頃の世情を中国の春秋戦国時代になぞらえたとされる記述 15 は、そのような危機的状況下での知識集約と後世への伝達という使命感を彼に抱かせた一因かもしれません。
3.2. 成立年代:諸説と最新の研究成果
『尺素往来』の正確な成立年代については、複数の説が存在し、研究者の間でも議論があります。
多くの辞書類や概説書では、室町時代中期、具体的には兼良の晩年にあたる文明13年(1481年)以前の成立とされています 1 。また、越前町の資料では1480年頃の成立としています 6 。これらは、兼良の没年(文明13年)から逆算したり、内容や他の著作との関連から推定されたりしたものです。
一方で、より具体的な成立時期と執筆動機に踏み込んだ説として、近年注目されているのが小川剛生氏の研究です。小川氏は、詳細な文献批判と伝本調査に基づき、『尺素往来』の成立を応永30年(1423年)頃とし、当時の将軍であった足利義持(あしかがよしもち)とその子・義量(よしかず)父子を意識して執筆されたと論じています 11 。この説に従うならば、『尺素往来』は兼良が22歳頃という比較的若い時期の著作となり、彼の早熟な才能を示すものとなります。また、称光天皇の在位期間(応永19年(1412年)~正長元年(1428年))は兼良の11歳から27歳の時期にあたり、この時期の著作である可能性が示唆されます 18 。
さらに別の資料では、永享12年(1440年)から寛正5年(1468年)までの約25年間に作られた古往来であると推測するものもあります 5 。
これらの成立年代の差異は、『尺素往来』の執筆動機や初期の読者層、さらにはその歴史的性格を解釈する上で重要な意味を持ちます。応永年間説(小川説)が正しければ、本書は足利将軍家の教育や幕府との関係性の中で、特定の政治的・文化的意図を持って編纂された可能性が高まります。一方、文明年間周辺説では、応仁の乱前後の社会不安や文化復興の気運の中で、より広範な知識の集大成と伝承を目的とした可能性が考えられます。現存する最古の写本が戦国時代初期の大永2年(1522年)のものであること 4 も考慮すると、成立時期の異なる異本系統が存在した可能性や、成立後も時代に合わせて加筆・修正が加えられた可能性も視野に入れる必要があるかもしれません。今後の研究による成立年代のさらなる特定が待たれます。
3.3. 執筆の動機と当時の社会的・文化的背景
『尺素往来』が編纂された動機は、単一ではなく、当時の複雑な社会的・文化的背景と、著者一条兼良自身の立場や思想が絡み合って形成されたものと考えられます。
前述の小川剛生氏の説によれば、執筆動機の一つとして、室町幕府の将軍であった足利義持・義量父子への意識があったとされています 11 。これは、将軍家の子弟教育のための教材として、あるいは幕府への文化的な貢献や関係強化の一環として編纂された可能性を示唆します。当時の武家政権の中心である将軍家に対し、公家文化の粋と実用的知識を兼ね備えたテキストを提示することは、公家の文化的権威を維持しつつ、武家社会との協調関係を築く上で戦略的な意味を持っていたかもしれません。
また、より広い視点から見ると、『尺素往来』の成立は、中世後期における公家社会の変容と深く関わっています。足利時代以降、武家の勢力が著しく増大し、相対的に公家の政治的・経済的基盤は弱体化しました 19 。このような状況下で、公家の子弟教育も従来の中国渡来の深奥な漢籍を中心としたものから、より実用的で、日本の実情に即した内容へと転換する必要に迫られました。『尺素往来』は、先行する武家向けの教科書『庭訓往来』の体裁を踏襲しつつ、公家にも必要な知識を盛り込み、さらに武家社会の動向も視野に入れた内容となっている点は、まさにこの時代の要請に応えたものと言えます 19 。
この動きは、単に教材が日本化されたというだけでなく、教育内容そのものが「国語本位」「日本本位」へと転換し、日本の文化や社会を基盤とした知識体系が確立されたことを意味します。一部の研究者からは、これを「教育の独立」がほぼ完成した画期的な出来事として高く評価する見解も示されています 19 。『尺素往来』は、その象徴的な書物の一つと位置づけることができるでしょう。
さらに、一条兼良自身の学者としての使命感も、執筆の大きな動機であったと考えられます。応仁の乱をはじめとする戦乱は、多くの貴重な文献や文化遺産を灰燼に帰し、伝統的な知識や技術の継承を危うくしました。兼良は、このような時代にあって、失われゆく文化・知識を集大成し、後世に伝えることの重要性を痛感していたはずです。『尺素往来』の百科全書的な性格は、まさにその危機意識と文化継承への情熱の現れと言えるのではないでしょうか。
このように、『尺素往来』の執筆動機は、特定の個人や家への配慮、公家社会の教育改革の必要性、そして文化の保存と継承という、複数の要因が複合的に作用した結果であったと推察されます。
4. 『尺素往来』の内容分析
『尺素往来』は、その形式と内容の両面において、当時の往来物の中でも際立った特徴を持っています。ここでは、その構成と文体、収録語彙の範囲と主題、そして具体的な記述内容について分析します。
4.1. 構成と文体:往復書簡形式の特徴
『尺素往来』は、1巻または上下2巻から構成される往来物です 1 。その最大の特徴は、全体が往復書簡の形式、すなわち手紙のやり取りの体裁で書かれている点にあります 1 。書名にある「尺素」とは、元来一尺(約30センチメートル)四方の絹布に書かれた手紙を意味し、転じて手紙そのものを指す言葉です 1 。
ある資料によれば、『尺素往来』は上下両巻を合わせて一通の新年状の形式を取り、その中に60条目にも及ぶ豊富な語彙群を巧みに織り込んでいるとされています 5 。この新年状という形式は、一年の始まりにあたり、時候の挨拶から始まり、年中行事、社会の出来事、個人の関心事など、多岐にわたる話題を自然な流れで記述するための効果的な枠組みとして機能したと考えられます。
文体に関しては、先行する代表的な往来物である『庭訓往来』の体裁を完全に踏襲していると指摘されています 19 。『庭訓往来』は、漢文の語彙や表現を用いつつも、日本語の語順や文法構造に近づけた、いわゆる擬漢文体で書かれており、当時の武士階級にも比較的理解しやすい文体でした 20 。『尺素往来』も同様の文体を採用したことで、公家だけでなく、武家の子弟にとっても学習しやすい教材となった可能性があります。
このような書簡形式は、単に手紙の書き方の模範を示すという実用的な目的だけでなく、学習者にとってより親しみやすく、具体的な文脈の中で語彙や知識を習得させるという教育的な配慮から採用されたものと考えられます。往復書簡という対話的な構造は、多様な情報を提示し、読者の興味を引きつける上でも有効だったでしょう。この形式が、百科全書的な内容を収める上で、非常に巧みな構成上の工夫であったと言えます。
4.2. 収録された語彙と主題の範囲:百科全書的な性格
『尺素往来』は、単なる書簡文例集の域を遥かに超え、当時の社会生活や文化に関する広範な知識・情報を網羅した、まさに百科全書的な性格を持つ往来物です 1 。その目的は、手紙の作成技術を習得させることと同時に、読者が社会で活動する上で必要となる多岐にわたる教養を身につけさせることにありました。
ある研究によれば、『尺素往来』に収録されている語彙は総計1276語にも及び、これは室町時代後期の往来物『新撰類聚往来(しんせんるいじゅうおうらい)』に次ぐ豊富な語彙数です 5 。これらの語彙は、神祇、仏教、漢学、文学、教養一般、人倫道徳、職分・職業、衣食住、武具、自然現象、その他といったカテゴリーに分類されています。特筆すべきは、全体の3分の1以上にあたる455語が衣食住に関連する生活語彙で占められている点であり 5 、これは本書が日常生活における実用性を重視していたことを明確に示しています。
『尺素往来』の内容は、伝統的な公家社会の知識に限定されず、当時勢力を伸張しつつあった武家社会の生活や慣習にも深く言及している点が重要です 1 。これにより、公家の子弟にとっては武家社会を理解するための手引きとなり、武家の子弟にとっては公家的な教養と武家としての実務知識を同時に学ぶことができる教材となりました。その結果、『尺素往来』は、室町時代の社会の諸相を多角的に映し出す貴重な歴史資料としての価値も有しています。
この百科全書的な性格は、当時の知識人層に求められた教養の範囲の広大さを示すと同時に、社会の複雑化に伴い、より具体的で多岐にわたる知識の必要性が高まっていたことを反映しています。特に「衣食住」に関する語彙が豊富であることは、単に生活の知恵というだけでなく、当時の文化水準、産物の種類、技術の到達点などを具体的に示すものであり、例えば『尺素往来』には「截麦(きりむぎ)」(冷麦やうどんの原型とされる)に関する記述 21 や、武士が食していた猪、鹿、熊などの獣肉に関する言及 7 が見られ、当時の食文化史を研究する上でも重要な手がかりを提供しています。このように、『尺素往来』は、特定の専門分野に偏ることなく、総合的な人間形成を目指した当時の教育理念を体現する書物であったと言えるでしょう。
4.3. 具体的な記述内容の紹介(儀式、武具、学問、芸能、日常生活など)
『尺素往来』に収録された具体的な項目は、当時の支配階級であった公家と武家の生活、文化、学問、社会情勢を詳細に反映しており、その範囲は驚くほど広範です。以下に、主要な記述内容を分野別に紹介します 1 。
これらの具体的な記述内容は、『尺素往来』が単なる知識の羅列ではなく、当時の社会が直面していた現実や、人々の価値観、美的感覚までをも反映していたことを示しています。例えば、「売薬の現出」という記述 19 は、商業の発展や医療への関心の高まりといった、当時の社会経済の変化を捉えたものと言えます。また、「半済事」や「難渋対捍之土民百姓」といった語彙 1 は、教科書でありながらも、室町時代の社会が抱えていた土地問題や階級間の緊張関係といった現実から目を背けていなかったことを示唆しています。さらに、茶、花、香に関する記述の豊富さ 1 は、東山文化に代表される室町時代の洗練された文化の隆盛を物語っており、 8 で指摘されているように、お茶の産地の変遷(栂尾(とがのお)から宇治へ)といった文化的な流行の変化まで記録されている点は、本書の資料的価値を一層高めています。
5. 『尺素往来』の歴史的価値と影響
『尺素往来』は、その成立背景と内容の特質から、日本の教育史および文化史において重要な位置を占めています。特に、公家・武家社会における教科書としての役割、室町時代の社会・文化を映し出す資料としての価値、そして戦国時代における受容と影響について考察します。
5.1. 教育史上の意義:公家・武家社会における教科書としての役割
室町時代において、『尺素往来』は初等教育の教科書として重要な役割を果たしました。一条兼良の作と伝えられる本書は、書簡作成に必要な単語や文例を学ぶための往来物として、特に支配階級の子弟教育に用いられたと考えられています 22 。
先行する代表的な往来物である『庭訓往来』が、主に地下(じげ、昇殿を許されない官人)、侍(さむらい)、そして勢力を増してきた武士や僧侶といった新たな階層の教育を念頭に置いていたのに対し、『尺素往来』は、その内容を公家社会のニーズにも適合させ、より広範な読者層を対象としていました 19 。これは、公家の政治的影響力が低下し、武家の社会的地位が確立する中で、公家の子弟もまた、武家社会の慣習や実務知識を学ぶ必要に迫られたという時代背景を反映しています。同時に、武家の子弟にとっても、支配者階級としての教養や公家的な儀礼に通じることは、その社会的地位を維持・向上させる上で不可欠でした。
戦国時代においても、武将たちは子弟の教育に熱心であり、多くの場合、禅寺などが教育の場となりました。そこでは、基本的な読み書きの習得に加え、往来物を教科書として武家の故実や一般的な教養が教えられました 23 。『尺素往来』の持つ百科全書的な内容と、公武双方の知識を網羅する性格は、このような戦国武将の教育ニーズにも合致したと考えられ、実際に利用された可能性が高いと言えます。
『尺素往来』が公家・武家双方にとって重要な教科書として機能したことは、両階級間に共通の教養基盤が形成されつつあったことを示唆しています。これは、中世から近世へと移行する過程で、身分制度や文化のあり方が大きく変動する中で、支配階級としてのアイデンティティや価値観を共有するための媒体として、本書のようなテキストが重要な役割を担ったことを意味します。戦国時代を経て確立される武家中心の社会構造と、それに伴う文化形成の萌芽を、『尺素往来』の受容の中に見出すことができるかもしれません。
5.2. 文化史上の意義:室町時代の社会・文化を反映する資料としての価値
『尺素往来』は、教育史上の意義に留まらず、室町時代の社会、文化、生活、そして人々の価値観を多角的に映し出す、極めて貴重な文化史資料としての価値を有しています 1 。本書に収録された多種多様な語彙や記述は、当時の「知の集積回路」とも言うべき様相を呈しており、文献資料の少ない室町時代の具体的な様相を今に伝えています。
例えば、前述の通り、食文化に関しては「截麦(きりむぎ)」 21 や武士が食したとされる獣肉の種類 7 、茶の湯文化に関しては宇治茶の勃興といった産地の変遷 8 など、具体的な記述が見られます。また、一条兼良自身の自家花圃に116種類もの植物が栽培されていたという記録 17 や、当時越前で水仙が栽培されていたことを示唆する記述 6 は、園芸文化や地域産物に関する情報を提供します。
さらに重要なのは、『尺素往来』が、日本独自の知識体系に基づく教科書の完成形の一つとして評価されている点です 19 。平安時代以来、日本の学問や教育は中国文化の強い影響下にありましたが、中世を通じて徐々にその受容と消化が進み、日本固有の文化や社会の実情に即した知識体系が形成されていきました。『尺素往来』は、まさにこの「日本化された知」を、公家・武家双方の視点を取り入れつつ体系的にまとめ上げた画期的な書物であり、教育における「国語本位」「日本本位」への転換、すなわち「教育の独立」を象徴する存在として位置づけられます。
このように、『尺素往来』は、政治史や経済史だけでは捉えきれない、当時の人々の日常生活の細部、美的感覚、社会の慣習、そして知のあり方そのものを生き生きと伝える文化史の宝庫と言えるでしょう。
5.3. 戦国時代における『尺素往来』:利用状況や影響に関する考察
『尺素往来』の成立は室町時代中期とされますが、その影響力は戦国時代においても衰えることなく、むしろ広範に受容され、利用されていたと考えられます。その根拠として、まず挙げられるのが、戦国時代まっただ中の大永2年(1522年)に、公家であり能書家としても知られた橋本公夏(はしもときんか)によって書写された写本の存在です 4 。これは、応仁の乱を経てもなお、『尺素往来』が知識人層にとって重要なテキストであり続け、書写という手間のかかる方法で継承されていたことを示しています。
さらに、小川剛生氏の研究によれば、『尺素往来』は16世紀、すなわち戦国時代に急速に流布し、その影響は遠く南九州の大隅国にまで及び、そこでの書写や校合の事跡も確認されています 11 。中央集権体制が弱体化し、地方勢力が台頭した戦国時代において、文化が多様な経路で地方へ伝播し、そこで受容され、時には独自の発展を遂げる様相を、『尺素往来』の伝播は具体的に示していると言えます。
戦国武将たちが、領国経営、家臣団の統率、外交交渉、そして自らの権威付けのために、武芸だけでなく幅広い教養を求めていたことは、近年の研究で明らかになっています 23 。『尺素往来』が提供する、公武の故実、儀礼、法律、さらには和歌や茶道といった文化的素養に関する知識は、まさに彼らのニーズに応えるものであったと考えられます。実力主義が横行した戦国時代にあっても、伝統的な知識や教養は、支配者としての正統性や文化的権威を担保する上で依然として重要な意味を持っていたのです。
また、 37 の指摘するように、京都の文化は応仁の乱を契機として地方へ避難した公家によって伝えられたという側面だけでなく、それ以前から地方の武士団が積極的に京都の文化を摂取しようと努めていた結果、既に地方へ伝播していたという事実は重要です。『尺素往来』のような体系的な教科書は、まさにそのような文化摂取の媒体として機能した可能性があります。
このように、『尺素往来』は戦国時代という動乱期においても、実用的な知識源として、また支配階級の必須教養を伝えるテキストとして、広範な影響力を持ち続けていたと考えられます。
表1:『尺素往来』と主要な先行・同時代往来物との比較
往来物名 |
推定成立年代 |
推定著者 |
主な内容/特徴 |
想定される主な読者層 |
形式 |
『明衡往来』 |
11世紀後半 (平安時代後期) |
藤原明衡 |
現存最古の往来物。1年間の往復書簡形式で、公的・私的な書状の文例を収録 9 。 |
公家、官人 |
書簡文例集 |
『庭訓往来』 |
南北朝時代末期~室町時代前期 (14世紀後半~15世紀初頭) |
玄恵(異説あり) |
擬漢文体。衣食住、職業、法律、武具、教養など武家社会に必要な語彙や知識を網羅。江戸時代まで広く利用された 19 。 |
武士、僧侶、庶民(江戸時代) |
書簡形式、語彙集 |
『新札往来』 |
貞治3年~6年 (1364年~1367年) (南北朝時代) |
素眼 |
『尺素往来』としばしば比較される。書簡形式で多様な語彙を収録。小川剛生氏の研究対象 11 。『尺素往来』が本書の増補版である可能性も 5 。 |
武士、僧侶など |
書簡形式、語彙集 |
『尺素往来』 |
室町時代中期 (15世紀中頃~後半、異説あり) |
一条兼良 (伝) |
往復書簡形式。公家・武家社会の年中行事、儀式、故実、武具、学問、芸能、衣食住など百科全書的な知識を収録。日本本位の教科書の完成形と評価 1 。 |
公家、武家 |
書簡形式、語彙集 |
この比較表から、『尺素往来』が先行する往来物の形式や内容を踏まえつつ、特に公家社会のニーズを取り込み、より広範かつ体系的な知識を提供するものとして登場したことがわかります。『庭訓往来』が武家社会に軸足を置いていたのに対し、『尺素往来』は公武双方の知識を統合しようとする意図が見られ、それが「教育の独立」という評価にも繋がっていると考えられます。また、『新札往来』との関係性は、今後の研究によってさらに明らかにされるべき点です。
6. 『尺素往来』の諸本と研究史
『尺素往来』は、その重要性から数多くの写本や版本が伝存しており、近現代においても活発な研究対象となっています。
6.1. 主要な写本・版本の紹介と比較
『尺素往来』の伝本は、手書きによる写本と、木版印刷による版本に大別されます。これらの存在は、本書が長期間にわたり、広範囲で利用され、その過程で本文にも異同が生じた可能性を示唆しています。
6.2. 近現代における研究動向と主要な論点
『尺素往来』を含む往来物研究は、日本の教育史・文化史研究において重要な分野の一つです。
往来物研究の先駆者としては、石川謙氏およびその子息である石川松太郎氏の業績が挙げられます。彼らは、膨大な数の往来物を収集・整理し、その分類や内容分析を行い、後の研究の基礎を築きました 10 。
近年、『尺素往来』に特化した研究で注目されるのは、慶應義塾大学の小川剛生氏です。小川氏は、徹底した文献批判と伝本調査に基づき、『尺素往来』の成立年代を応永30年(1423年)頃とし、その執筆動機を足利義持・義量父子への意識にあったとする新説を提唱しました 11 。また、諸本の系統分類や、中世における享受層についても詳細な分析を行っており、その研究成果は『尺素往来』理解を大きく前進させるものとして高く評価されています。
最新の研究成果としては、高橋忠彦氏・高橋久子氏による共著『尺素往来 本文と研究』(新典社、2022年)が特筆されます。この著作は、基準本文とされる大永二年橋本公夏筆本の翻字本文、詳細な訓読、現代語訳、そして語釈や背景解説を含む校注を収録し、さらに自立語索引や漢字索引を付すなど、研究者にとって極めて利便性の高い内容となっています 18 。この研究書は、今後の『尺素往来』研究における新たな出発点となることが期待されます。
また、三保サト子氏は、「馬と刀剣の故実」 35 や「武家の教養」 36 といった特定のテーマに焦点を当て、『尺素往来』を含む古往来の内容分析を通じて、中世武士の教育や文化の一端を明らかにしようと試みています。
これらの研究を通じて、『尺素往来』に関する主要な論点としては、以下のようなものが挙げられます。
『尺素往来』研究は、精密な文献学的アプローチによる基礎研究の進展と、その成果を踏まえた歴史的・文化史的な文脈への位置づけの深化という両輪によって推進されています。これにより、本書が単なる古典籍としてではなく、特定の時代と社会の中で能動的に機能した「メディア」として、また、当時の人々の知的水準や価値観形成に影響を与えた文化装置として捉え直されつつあると言えるでしょう。
表2:『尺素往来』の主要な写本・版本一覧
名称(写本/版本) |
年代(書写/刊行年) |
筆者/板元 |
所蔵機関(主なもの) |
形態(巻数、寸法など) |
系統/特記事項 |
写本:橋本公夏筆本 |
大永2年 (1522年) |
橋本公夏 |
内閣文庫 |
1冊 (上下巻合本か)、縦271mm 5 |
現存最古写本とされる。小川氏研究の古態本の一つ 11 。高橋氏校訂本の底本 30 。 |
写本:長享三年書本 |
長享3年 (1489年) |
不明 |
(伝存不明) |
不明 |
古写本として言及あり 5 。 |
写本:国文学研究資料館蔵本 |
不明(刊本か?) |
(鵜飼文庫旧蔵) |
国文学研究資料館 |
2冊 (上下巻)、25.8×18.7cm 大本 26 |
記載書名は「尺素徃来」。刊本として整理されているが、同館は多数の写本も所蔵 26 。 |
版本:安田十兵衛板系統 |
江戸前期 (寛永~明暦頃、無刊記年) |
[京都] 安田十兵衛 |
国文学研究資料館など数カ所 5 |
大本2巻合1冊か、大字6行、稀に付訓 5 |
最古の版本と推定される稀書 5 。 |
版本:武藤某筆本系統 |
寛文8年 (1668年) |
武藤某 (筆) |
宮内庁書陵部、教大、神宮、尊経閣文庫、東書、石川謙旧蔵など 5 |
大字5行、稀に付訓 5 |
[大阪]和泉屋卯兵衛板、[京都]石田治兵衛板など複数の板元から刊行 5 。 |
版本:群書類従所収本 |
寛政5年~文政2年 (1793年~1819年) (群書類従の刊行年) |
(塙保己一編) |
(多数) |
(叢書の一部) |
流布本の一つだが、小川氏によれば改竄された本文系統に属する 11 。『群書類従』消息部に収録 1 。 |
版本:日本教科書大系所収本 |
(大正~昭和初期) (日本教科書大系の刊行年) |
(唐沢富太郎編) |
(多数) |
(叢書の一部) |
『日本教科書大系』第一巻に収録 1 。 |
この表は、『尺素往来』が手書きによる伝承から印刷による普及へと移行する過程を示しており、それぞれの時代の需要や出版状況を反映しています。特に大永二年本や安田十兵衛板は、その学術的価値の高さから、今後の研究においても重要な参照点であり続けるでしょう。
7. 結論
本報告書では、室町時代中期に成立したとされる往来物『尺素往来』について、その成立背景、内容、歴史的価値、諸本、そして研究史を多角的に検討してきた。その結果、以下の点が明らかになった。
『尺素往来』は、公卿であり当代随一の学者であった一条兼良によって編纂されたと伝えられ、伝統的な往復書簡の体裁を取りながらも、その内容は年中行事、儀式故実、武具、学問、芸能、衣食住、さらには当時の社会問題に至るまで、驚くほど広範な知識と教養を網羅した、まさに百科全書的な往来物である。これは、単なる手紙文例集としての機能を超え、当時の支配階級であった公家や武家の子弟が、社会で活動する上で必要とされた「知」の集大成を目指したものであったと言える。
その成立背景には、室町幕府の将軍家への配慮、応仁の乱に象徴される動乱期における公家文化の維持と継承への危機感、そして武家の台頭に伴う新たな教育ニーズの高まりなど、複数の要因が複雑に絡み合っていたと推察される。特に、先行する武家向けの教科書『庭訓往来』の形式を踏襲しつつ、公家社会の伝統的知識と武家社会の実用的知識を融合させようとした点は、中世から近世への移行期における文化の変容と「日本本位」の教育体系確立の過程を示すものとして、教育史上・文化史上で極めて重要な意義を持つ。一部の研究者によって「教育の独立」の完成形の一つと評価される所以である 19 。
戦国時代においても、『尺素往来』は書写され続け、遠く地方にまで流布した事実は 4 、その内容が持つ普遍的な価値と、実力主義の時代にあってもなお教養を重んじた武将層の需要の高さを示している。本書は、室町・戦国期の社会、文化、価値観を具体的に映し出す貴重な歴史資料であり、当時の人々の生活や思想を理解する上で不可欠な文献である。
今後の研究課題としては、まず、一条兼良著者説のさらなる検証や、小川剛生氏が提唱する応永30年成立説の多角的な検討など、成立年代や執筆動機に関する基礎的研究の深化が求められる。また、現存する多数の写本・版本間の詳細な本文比較を通じて、より信頼性の高い本文系統を確立することも重要である。
さらに、戦国時代における『尺素往来』の具体的な受容・利用実態の解明は、大きな課題と言える。武将の日記や書簡、家訓など他の史料との照合を通じて、本書が実際にどのように読まれ、どのような影響を与えたのかを具体的に明らかにすることが期待される。収録されている膨大な語彙の一つ一つについて、その背景にある物質文化、精神文化、社会構造との関連を詳細に分析することも、当時の社会理解を深める上で有益であろう。
『尺素往来』の研究は、中世から近世初期にかけての日本における「知」の構造、教育システムの変遷、そして文化の伝播と受容のダイナミズムを解明する上で、今後も多くの示唆を与えてくれるものと確信する。特に、戦国という激動の時代に、この書物がいかにしてその生命力を保ち続け、人々の知的水準や価値観の形成に寄与したのかを追求することは、戦国時代という時代の多面的な理解に不可欠な作業と言えるだろう。
8. 参考文献
(以上、主要なものを掲載。その他、本文中に引用した各資料も参照されたい。)