本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代にかけて茶の湯文化の中で極めて高い評価を得た茶入の一つ、「打曇大海(うちぐもりおおうみ)」について、その詳細を明らかにすることを目的とする。この茶入は、数ある茶道具の中でも最高位に格付けされる「大名物」として知られ、その名称、形態、伝来、そして歴史的評価のいずれにおいても、日本の茶道文化および美術史を考察する上で重要な対象である。本報告では、現存する資料に基づき、「打曇大海」の多角的な側面を徹底的に調査し、その歴史的・美術的価値を詳述する。
「打曇大海」の名称は、その独特な釉景と器形に由来し、茶道具としての格付けは最上位に位置づけられる。
「打曇大海」の名称とその分類は、この茶入が日本の文化の中でいかに受容され、独自の価値観を付与されてきたかを示す好例である。外来の器物が、日本の伝統的な美意識と結びつき、茶の湯という文化装置の中で磨き上げられ、最高の評価を得るに至った過程が、その名と格付けに凝縮されている。
「打曇大海」は、そのおおらかな器形と、作為と偶然が織りなす複雑な釉景によって、他に類を見ない美的個性を有している。
「打曇大海」の寸法と重量については、複数の資料に記載があるが、若干の差異が見られる。主要な数値を以下に一覧表として示す。
項目 |
の数値 |
の数値 |
備考 |
高さ |
7.1cm |
7.4cm |
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口径 |
3.0cm |
6.3cm |
口径の差異が大きい。 1 は内径、 2 は外径の可能性や計測方法の違いが考えられる。 |
胴径 |
10.1cm |
10.1cm |
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底径 |
4.5cm |
4.7cm |
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重さ |
168.75g |
16.5 (匁?) |
2 の単位は「匁」である可能性が高く、その場合約61.875gとなる。あるいは165gの誤記の可能性もあるが、168.75g 1 は他の大海茶入と比較しても一般的な範囲である。 |
この表は、利用可能な情報を整理し、比較検討するためのものである。特に口径と重量における数値の差異は、今後の資料研究において留意すべき点である。詳細な情報を求めるユーザーの要望に応えるべく、現存する記録を可能な限り正確に提示することが重要である。
器形は、「平たいおおらかな姿に、広い口と甑短くおさまり、おおような姿で貫禄を示して」いると評される 1 。底部はやや外に張り出し、その周囲には三条の筋(「三道突出的筋紋」とも表現される)が環繞している 1 。この堂々たる姿は、大海形茶入の典型的な特徴を備えつつ、独自の風格を漂わせている。
「打曇大海」の最大の魅力は、その複雑かつ深みのある釉景にある。
全体は光沢のある柿色の地を基本とし、その上に黒飴釉が豊かに覆いかかっている 1。この二重の施釉が、焼成過程で複雑に溶け合い、流動することで、予測不能な景色を生み出している。
特に注目すべきは、釉薬の流れ(「釉流」)が自然な文様をなし、大きな流れが1箇所、小さな流れが2箇所見られる点である 1。肩の下からは、あたかも「打曇紙」の文様のように濃い釉薬が左右からたなびくように掛かり、これに対して胴以下の釉薬のかかり終わりである置形(おきがた)は鮮明で、晴れやかな印象を与える 1。この器の上部と下部で見られる釉景の対照的な様相は「陰陽」の調和として捉えられ、唐物大海の中でも特に秀でた点と高く評価されている 1。
腰より下の部分には、釉薬が掛かっていない朱泥色の土が見える。この部分には「ひっつき」と呼ばれる、窯内で焼成中に他の器物や窯道具が付着した痕跡も認められる 1 。これは、焼成時の偶然の産物であり、茶の湯の美意識においては、器に個性と侘びた風情を与える「景色」の一部として賞玩される。
手に取った際の感触は軽いとされ 1、これは茶席での扱いやすさという実用的な側面と、薄作りの精巧な技術を示す美的側面の両方に関わる。
底部の糸切(轆轤から切り離す際にできる渦状の痕跡)は鮮やかで、その中央には火裂(ひわれ、焼成時に生じた裂け目)が1箇所見られる。この火裂を挟むようにして2箇所に釉薬が飛んで景色となっている(飛釉)1。
火裂や飛釉、ひっつきといった要素は、通常であれば陶磁器の「欠点」と見なされかねないが、日本の茶道においては、これらが器に唯一無二の個性を与え、時間の経過や自然の作用を感じさせる要素として、積極的に「景色」として見出され、評価の対象となる。この価値観は、「打曇大海」の美的評価の核心をなすものである。
「打曇大海」の形態的特徴は、中国の高度な陶磁技術と、それを受容し独自の価値観で再解釈した日本の美意識との交点に位置する。特に「景色」の概念は、日本の茶道具鑑賞における根源的な要素であり、完成された均整美だけでなく、不完全さや偶然性の中に美を見出す、より包括的で深遠な美的態度を反映している。
「打曇大海」の製作地と年代については、いくつかの手がかりが残されているものの、具体的な窯の特定には至っていない。
「唐物」あるいは「漢作」という呼称が示す通り、この茶入は中国で製作されたものである 1。
製作年代については、三井記念美術館で開催された展覧会「東山御物の美―足利将軍家の至宝―」において、南宋時代・13世紀の作と紹介されており、これが現時点での有力な説と考えられる 9。
具体的な製作窯については、提供された資料からは特定することができない 1。
しかし、南宋時代の13世紀に柿釉と黒釉を用いた陶磁器を生産していた可能性のある窯としては、いくつかの候補が挙げられる。例えば、江西省の吉州窯は、玳玻天目(たいひてんもく)に代表される多彩な釉薬表現で知られ、黒釉や柿釉も用いていた 10。また、福建省の建窯は主に天目茶碗で著名であるが、その周辺の窯では多様な陶磁器が焼かれていた可能性があり、茶洋窯の灰被天目なども知られる 13。さらに、華北に位置する磁州窯系の窯でも、掻き落とし技法が有名であるものの、黒釉や柿釉を用いた製品が存在する 16。
ただし、これらの窯で「打曇大海」に見られるような特有の釉景、すなわち柿色の地に黒飴釉が「打曇紙」のようにかかる景色を持つ作品が焼かれていたかについては、現時点では明確な証拠がない。したがって、製作窯の特定は依然として困難な課題である。
南宋時代は中国陶磁史における一つの頂点であり、高度な技術と多様な様式が生み出された時期であった。この時期に製作された質の高い陶磁器が、活発な日中間の交易を通じて日本にもたらされ、特に禅宗文化の隆盛と結びつきながら、茶の湯の道具として取り入れられていった。「打曇大海」のような優れた作品が日本に渡り、珍重されたことは、当時の日本の文物に対する高い鑑識眼を示すものである。
具体的な窯名が伝わっていない、あるいは当初から不明であったという事実は、当時の日本における唐物の受容が、必ずしも産地や窯名といった情報に厳密に依拠していたわけではなく、個々の器物が持つ美的魅力や「景色」そのものが重視された可能性を示唆している。中国本土での評価軸とは別に、日本独自の審美眼によって「名物」が選び出され、新たな価値が付与されていった過程が、「打曇大海」の製作背景から垣間見える。この茶入の存在は、中世日中文化交流史の一断面を照らし出すと同時に、日本における美術品の評価基準の形成過程を考察する上で、貴重な手がかりを提供するものである。
「打曇大海」の価値を語る上で欠かせないのが、その輝かしい伝来の歴史である。室町時代から江戸時代にかけて、日本の歴史を彩った最高権力者や文化人の手を経てきた事実は、この茶入が単なる美術品を超えた存在であったことを物語っている。
時代区分 |
主要所有者 |
備考 |
室町時代 |
足利義政 |
東山御物として所持、銘の由来にも関わる 1 |
安土桃山時代 |
豊臣秀吉 |
天正11年(1583年)の茶会で使用記録あり 1 |
江戸時代初期~中期 |
京極家 |
詳細な経緯は不明だが、有力大名家を経由 1 |
江戸時代中期 |
紀州徳川家 |
1 |
江戸時代中期以降 |
徳川幕府(柳営御物) → 徳川宗家 |
宝永年間(1704-11)に幕府へ献上され、以来徳川宗家に伝来 1 |
この一覧は、「打曇大海」がいかに日本の歴史の中心的な舞台で、重要な人物たちの間で受け継がれてきたかを示している。「東山御物」や「柳営御物」といった呼称は、それぞれの時代におけるこの茶入の格別の地位を物語る。
足利義政は、東山文化を代表する人物であり、唐物に対する深い造詣と優れた審美眼を持っていた。彼がこの茶入を「東山御物」の一つとして所持し、「打曇」と命名したとされる事実は、この茶入が初期の段階で極めて高い文化的価値と権威を認められたことを意味する 1。
その後、天下人となった豊臣秀吉の手に渡る。秀吉は茶の湯を政治的にも利用し、多くの名物を収集したことで知られる。「打曇大海」もそのコレクションに加わり、天正11年(1583年)には秀吉主催の茶会で用いられたことが、『今井宗久日記』や『津田宗及茶湯日記』といった同時代の茶会記に記録されている 1。これにより、茶入の名声は茶人の間で不動のものとなり、その価値は一層高まった。
江戸時代に入ると、京極家、そして紀州徳川家という有力大名家を経て、宝永年間(1704-1711年)には徳川幕府に献上され、将軍家の什宝である「柳営御物」となった。以降、徳川宗家に代々伝えられることとなる 1。この過程は、茶入が単なる個人の所有物を超え、大名間の贈答品やステータスシンボルとしての役割を果たし、最終的には国家的な宝物としての地位を確立したことを示している。
「打曇大海」の伝来は、日本の権力構造の変遷と、各時代の文化パトロネージの様相を映し出す鏡と言える。足利義政から豊臣秀吉、そして徳川家へと、各時代を象徴する最高権力者の手を経てきたという事実は、この茶入が美術品としての価値のみならず、権威と正統性の象徴としても機能していたことを強く示唆している。このような輝かしい来歴は、後世における「打曇大海」の評価を決定づける上で極めて重要な役割を果たした。器物そのものの美的価値に加え、それにまつわる歴史的物語性が、その価値をさらに増幅させているのである。戦乱の世を幾度も乗り越え、今日までその姿を伝えることができた背景には、各時代の所有者による格別の配慮と、この名品に対する深い敬意があったと推察される。
「打曇大海」は、その誕生から間もない時期より、茶人たちの間で高く評価され、数々の重要な文献にその名が記録されてきた。これらの記述は、この茶入が日本の茶道史において揺るぎない地位を確立した真の名物であることを雄弁に物語っている。
戦国時代の茶の湯を知る上で第一級の史料とされる『山上宗二記』には、「打曇大海」が「代三千貫」という破格の評価を受けていたと記されている 1 。当時の「一貫」が現在の貨幣価値でどれほどに相当するかを正確に換算することは困難であるが、この「三千貫」という数値は、城一つにも匹敵すると言われるほどの莫大な価値を示しており、経済的な側面のみならず、文化的な重要性をも象徴している。同書には高名な大海茶入が複数記載されていることが示唆されており 7 、その中でも「打曇大海」が特筆すべき評価を得ていたことがうかがえる。
江戸時代に徳川将軍家によって編纂されたこの目録には、前述の通り、足利義政(東山殿)による「打曇」の命名の由来が記されている 1 。これは、徳川家における公式な記録として、この茶入の由緒と価値を裏付ける重要な文献である。
安土桃山時代を代表する茶人である津田宗及と今井宗久の日記には、豊臣秀吉が主催した茶会で「打曇大海」が用いられたことや、津田宗及自身がこの茶入を拝見した際の印象などが具体的に記録されている 1 。これらの同時代の茶人による直接的な記述は、歴史的実証性が高く、当時の茶会における「打曇大海」の位置づけや評価を具体的に知る上で極めて貴重である。
上記の史料に加え、「打曇大海」は後代に編纂された数々の名物記にもその名を見ることができる。『宗友記』、『玩貨名物記』、『古今名物類聚』といった江戸時代の名物記、さらには近代における名物研究の集大成の一つである『大正名器鑑』などにも記載されており、時代を超えて一貫して高い評価を受け継いできたことがわかる 1 。
これらの文献記録は、名物の価値を形成し、後世に伝承する上で不可欠な役割を果たしている。「打曇大海」の場合、足利義政による価値の見出しと命名、豊臣秀吉による所持と茶会での披露、そして山上宗二による「代三千貫」という具体的な価値評価、さらには津田宗及や今井宗久といった同時代の茶人たちによる実見の記録が、初期の評価の基盤を築いた。これらの記録と評価が積み重なり、後代の名物記に繰り返し登載されることで、その評価は伝説性を帯び、不動のものとなったのである。これは、茶道具の価値が、単なる物質的な存在を超え、それにまつわる言説や物語によっても構築され、高められていく日本の文化の特質を示している。
「打曇大海」には、その本体の価値と歴史を補完し、一体となってその世界観を形成する数々の付属品が伴っている。これらは単なる保存用具ではなく、茶入の格を示し、茶道文化の洗練された側面を伝える重要な構成要素である。
これらの付属品の質と数は、「打曇大海」が歴代の所有者によっていかに大切に扱われ、高い評価を受けてきたかを雄弁に物語っている。特に、複数の上質な仕覆や、書付を伴う内外の箱は、茶道具を単なる器物としてではなく、それにまつわる歴史や物語、そして用いる際の心配りまでをも含めた総合的な美術品として捉える、日本独自の文化の現れと言えるだろう。「打曇大海」が単なる陶磁器片ではなく、豊かな文化的背景を持つ一つの宇宙を形成していることを、これらの付属品は強調しているのである。
「打曇大海」は、その優れた造形美、類稀な釉景、そして足利義政、豊臣秀吉、徳川宗家といった輝かしい伝来の歴史によって、日本の茶道具の中でも最高峰の一つとして確固たる地位を築いている。その存在は、単に高価な美術品であるに留まらず、日本の美術史、特に茶の湯文化の発展において重要な意義を持つ。
まず、「大名物」としての絶対的な価値は、戦国時代から江戸時代にかけての武将や大茶人たちの間で、垂涎の的であったことを示している。中国(南宋)で製作された「唐物」でありながら、日本の茶人によってその固有の美が見出され、「打曇」という日本的な美的語彙で名付けられたことは、文化受容と変容の好例である。外来の品をそのまま模倣するのではなく、自国の美意識のフィルターを通して再解釈し、新たな価値を創造する日本の文化の特性がここに見て取れる。
資料には「上下陰陽、対称となる景色は、唐物大海中ことに秀でたものです」との評価があり 1、数ある唐物の大海茶入の中でも、その釉薬が織りなす景色の美しさが群を抜いていたことがわかる。この美的特質が、日本の茶人たちの心を捉え、特別な存在へと押し上げた要因の一つであろう。
「大海」という器形は、元来、茶臼で挽いた抹茶を一時的に入れておく水屋道具であったが、侘び茶の精神が深まる中で、その素朴でおおらかな姿が評価され、茶席で用いられるようになったという歴史的変遷がある 6 。「打曇大海」は、この大海形茶入が茶席の主役級の道具へと昇格していく過程において、その代表格として規範的な役割を果たしたと考えられる。その圧倒的な存在感と美的完成度は、大海という器形の地位向上に大きく貢献したであろう。
さらに、「打曇大海」の美的特性、すなわち作為を超えた自然な釉薬の景色や、おおらかで力強い器形は、後の和物茶入の制作や、茶道具全体の美意識にも少なからぬ影響を与えた可能性が考えられる。直接的な模倣品が作られたという記録はなくとも、名物として茶人たちの間で繰り返し鑑賞され、語り継がれる中で、その美意識は共有され、新たな創作のインスピレーションの源泉となったかもしれない。
このように「打曇大海」は、単に中国から舶載された高価な輸入品であったというだけでなく、日本の茶の湯という独自の文化的コンテクストの中で選び抜かれ、新たな美的価値を付与され、さらには茶の湯の美意識そのものを体現する象徴的な存在へと昇華した稀有な例である。その存在は、美術品の価値が固定的なものではなく、文化や時代、そしてそれを受け止める人々の感性によって常に再解釈され、創造されていくダイナミズムを示している。日中文化交流の貴重な産物であると同時に、日本の美意識の成熟と茶の湯文化の発展を象徴する文化遺産として、その美術史的意義は極めて大きいと言える。
「打曇大海」ほどの歴史的価値と美術的価値を兼ね備えた名品が、現在どこに所蔵されているのかは、多くの関心を集める点である。
提供された資料からは、現在の正確な所蔵場所を直接的に特定する記述は見当たらない。しかしながら、その輝かしい伝来の経緯、すなわち足利義政(東山御物)から豊臣秀吉、京極家、紀州徳川家を経て、最終的に徳川幕府(柳営御物)、そして徳川宗家に伝えられたという歴史 1 は重要な手がかりとなる。
また、三井記念美術館で開催された「東山御物の美―足利将軍家の至宝―」展において、「打曇大海」が徳川宗家からの出品として展示されたとの情報がある 9。これらの事実を総合的に勘案すると、「打曇大海」は現在も徳川記念財団、あるいはそれに準ずる徳川家関連の機関によって厳重に管理・所蔵されている可能性が高いと推察される。
なお、資料17には「新田肩衝」が徳川ミュージアム(水戸徳川家関連)に所蔵されているとの記述があるが、これは「打曇大海」の直接の所蔵情報ではないため、混同しないよう注意が必要である。
これほどの名品が特定の美術館の常設展示品として広く公開されているという情報が容易に見当たらない場合、それは個人または財団の秘蔵品として大切に保管されていることを示唆していることが多い。徳川宗家伝来という由緒は、その管理が極めて丁重かつ厳重であることを物語っており、一般の目に触れる機会が限られていることが、かえってその神秘性と絶対的な価値を高めている側面もあるかもしれない。
茶入「打曇大海」は、その類稀なる造形美、特に柿釉と黒飴釉が織りなす「打曇紙」を思わせる幽玄な釉景、そして何よりも室町時代の足利義政による命名と所持に始まり、豊臣秀吉、さらには江戸時代の徳川宗家へと至る輝かしい伝来の歴史によって、日本の茶道具の中でも最高峰の一つとして、時代を超えて評価され続けてきた。
『山上宗二記』における「代三千貫」という破格の評価は、この茶入が単なる美しい器物を超え、当時の武将や大茶人たちにとって、権力や文化の象徴としていかに重要な存在であったかを物語っている。
中国南宋時代に生まれ、遠く日本へ渡り、日本の茶人たちの鋭い審美眼によってその真価を見出され、独自の名称と物語を与えられた「打曇大海」は、日中文化交流の産物であると同時に、日本の茶の湯文化が生み出した独自の価値観を体現する存在である。その形態的特徴、釉薬の景色、そしてそれにまつわる数々の文献記録や付属品は、一体となってこの茶入の宇宙を形成し、我々に深い感銘を与える。
「打曇大海」は、単なる過去の遺物ではなく、日本の歴史、文化、そして美意識を今に伝える貴重な文化遺産として、今後も研究され、語り継がれていくべき対象である。中国における同種の作例の発見や、より詳細な製作窯の特定など、将来的な研究の進展によって、この名品の謎がさらに解き明かされることへの期待も大きい。