『日本書紀』の総合的考察
1. はじめに
『日本書紀』は、奈良時代の720年(養老4年)に完成した、日本に現存する最古の勅撰の正史である 1 。本報告は、この古代日本の歴史と文化を理解する上で不可欠な文献である『日本書紀』について、提供された資料に基づき、その成立の背景、編纂の過程と目的、構成と内容、さらには『古事記』との比較、神話・伝承の記述、歴史記述の史実性を巡る議論、そして後世への影響と研究史に至るまで、詳細かつ徹底的に調査し、その全体像を明らかにすることを目的とする。特に、本報告書では、ユーザーからの注記にもあった通り、『日本書紀』が戦国時代ではなく、奈良時代に成立したという基本的な事実認識を前提として論を進める。
2. 『日本書紀』の成立
編纂の背景と天皇の勅命
『日本書紀』編纂の直接的な契機は、第40代天武天皇がその治世晩年の681年(天武10年)に、川島皇子や忍壁皇子らに「帝紀(ていき)」および「上古諸事(じょうこしょじ)」の編纂を命じたことに遡る 3 。この勅命は、国家による正史編纂への強い意志を示す画期的な出来事であった。7世紀後半の日本は、白村江の戦いにおける敗北後の国際的緊張の中で、天皇を中心とした中央集権的な律令国家体制の確立を急いでいた時期にあたる。このような時代背景において、国家の正統性と歴史的連続性を内外に示すための公式な歴史書の編纂は、喫緊の課題と認識されていたのである 4 。『日本書紀』の編纂にあたっては、天皇家の系譜や事績を記した「帝紀」や、古い時代の神話・伝説をまとめた「旧辞」(「上古諸事」に相当すると考えられる)を基礎資料としつつ、国内の諸氏族に伝わる記録や個人の手記、さらには中国の史書や朝鮮半島の記録(百済三書など)といった海外の文献も広範に参照されたとされている 6 。
天武天皇による編纂の勅命から『日本書紀』の完成までには、約40年という長い歳月が費やされた 3 。この間には、持統天皇、文武天皇、元明天皇、そして完成時の元正天皇へと、複数の天皇の代替わりがあり、編纂事業に携わった人物にも変遷があった可能性が指摘されている 4 。にもかかわらず、この国家的な大事業が中断されることなく継続し、最終的に完成を見たという事実は、単に一代の天皇の個人的な関心に留まらず、律令国家としての体制整備の一環として、その重要性が持続的に認識されていたことを強く示唆している。この継続性は、国家としての歴史編纂への確固たる意志と、それを支える官僚機構や学術的基盤がある程度整っていたことを物語っていると言えよう。
また、「帝紀」と「上古諸事」の編纂命令は、その後の日本の正史である『古事記』および『日本書紀』という二つの歴史書を生み出す直接的な起点となった点でも重要である。これは、天皇を中心とする国家の歴史を構築する上で、皇統の正当性(帝紀の役割)と、国家の起源や神話的背景(上古諸事の役割)の両方を網羅的に記録・整理しようとする明確な意図があったことを示している。この初期段階で既に、後の歴史書の二つの主要な柱となる要素が意識されていたことは、編纂事業が場当たり的なものではなく、ある程度構想された計画に基づいて進められていた可能性を示唆する。
編纂者、編纂期間、完成
『日本書紀』編纂の中心人物として、天武天皇の皇子である舎人親王(とねりしんのう)の名が挙げられる 3 。奈良時代の正史である『続日本紀(しょくにほんぎ)』の養老4年(720年)5月21日の条には、舎人親王らが天皇の命を奉じて『日本書紀』三十巻と系図一巻を撰上したことが明確に記されている 10 。皇族が編纂の責任者を務めたことは、この事業の国家的な権威を高める意味合いがあったと考えられる。舎人親王は、多くの学者や官僚と共に編纂作業を進めたとされ 4 、決して単独の著作ではない。
『日本書紀』は、720年(養老4年)に完成した 1 。これは、同じく天武天皇の命により編纂が開始された『古事記』の成立(712年)から8年後のことである 3 。この時期は奈良時代の初期にあたり、律令制度の整備が進み、国家機構が整いつつあった時代であった。天武天皇の勅命から数えれば、編纂期間は約40年という長期にわたるものであり 3 、これは資料の収集、取捨選択、記述、校訂といった工程の複雑さと、編纂に注がれた慎重さを示唆している。
なお、完成時の書名については、「日本紀(にほんぎ)」であったか「日本書紀(にほんしょき)」であったかについて、古くから議論があり、未だ確定的な結論を見ていないとされる 8 。しかし、『続日本紀』の記録では明確に「日本書紀」と記されており 10 、この書名に関する議論自体が、文献学的な研究の深化を示す一例と言える。現代の研究においても、この書名問題は基本的な論点の一つとして扱われている 11 。
舎人親王が編纂の中心人物として記録されている一方で、その編纂体制は重層的であったと考えられる。舎人親王は編纂事業全体の総裁的な立場にあり、実際の執筆や資料整理には、漢文学や歴史、法制などに通じた多数の専門官僚や学者が分担して関与した、高度に組織化された編纂体制が存在したと推測される 4 。このような重層的な体制は、多様な国内外の資料を効率的に収集・分析し、高度な漢文で国家の公式見解をまとめ上げるという困難な作業を遂行するために不可欠であった。各巻の文体や語彙の偏りから複数の執筆グループの存在を推定する「書紀成立区分論」といった後年の研究も 13 、この編纂体制の複雑さを間接的に裏付けていると言えるだろう。
編纂の目的:国内的および対外的側面
『日本書紀』編纂の目的は、多岐にわたるが、大きく国内的な側面と対外的な側面に分けて考えることができる。国内的には、神話の時代から歴代天皇へと続く歴史を記述することにより、天皇を中心とする国家体制の正当性を確立し、国内の諸氏族に対する天皇の優位性を明確に示すことにあった 4 。日本の歴史を公式に伝え、国家としての正史を記録すること自体が、律令国家のイデオロギー的基盤を強化し、国民意識の統一を図る上で重要であったのである。
対外的には、当時の東アジアにおける国際公用語であった漢文を用いて記述することにより 4 、中国(唐)や朝鮮半島の諸国(特に新羅)といった東アジアの国々に対し、日本が独自の歴史と文化を持つ独立した国家であることを示し、その国際的な地位を向上させるという目的があったとする説が有力である 5 。奈良時代以前からの遣隋使・遣唐使の派遣や朝鮮半島への関与、そして奈良時代に入ってからの東アジアへの進出といった歴史的背景の中で、日本が自国の成り立ちを明らかにし、海外に対して自らの存在を主張する必要性が高まっていたのである 7 。中国の歴史書に倣って本格的な正史を編纂しようという意識も存在した 15 。
この点で、『古事記』が主に国内の読者を対象とし(日本神話や国の成り立ちを後世の日本人に伝えること、天皇家の正統性を物語性豊かに強調することに重点が置かれた) 4 、和文体(より正確には和化漢文)で書かれているのに対し 4 、『日本書紀』はより公式的で、対外的な意識を強く持って、純粋漢文体で編纂されたと考えられる 4 。
『日本書紀』の編纂は、単に過去の出来事を記録するという受動的な行為ではなく、内外に向けて「日本」という国家の輪郭を明確に定義し、その存在意義と正統性を積極的に主張する、極めて戦略的な国家事業であったと言える。国内に向けては天皇支配の正統性を神代から説き起こし、国内の諸氏族を統合する包括的な物語(ナラティブ)を提示する必要があった。対外的には、独自の長い歴史と文化を持つ独立した国家であることを、当時の東アジア世界の共通の書式である漢文編年体で堂々と示す必要があったのである。「『帝国』中国と肩を並べる帝王・天武までの神話・歴史を語る書物であった。だから中国からもたらされた律令を基盤とした、国際的な国家としての『正史』をめざす」 17 という指摘は、この対外的意識と国家としての自負を明確に示している。
『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)が、わずか8年という短期間に相次いで成立したことは注目に値する 3 。両書は、編纂目的、想定読者、文体、内容の重点などが明確に異なっており 4 、これは単なる偶然や編纂者の個性の違いによるものではなく、当時の律令国家が、国内の皇統イデオロギーの強化と国民意識の涵養(『古事記』の役割)、および国際社会における国家の威信確立と外交交渉の基盤整備(『日本書紀』の役割)という、二つの異なる戦略的目標に対し、それぞれに最適化された歴史書を意図的に、かつ並行して編纂した可能性を強く示唆する。この二つの正史の並立は、8世紀初頭の日本が展開した周到な文化戦略の一環として理解することができるだろう 16 。
3. 『日本書紀』の構成と内容
全三十巻と系図一巻の構成
『日本書紀』は、本文三十巻と系図一巻から構成される、極めて大規模な歴史書である 3 。ただし、この系図一巻については現存しておらず、その具体的な内容は不明である 8 。この大部な構成は、国家事業としての力の入れ具合を示すと同時に、古代社会において歴史記述、特に権威の正当化における系譜の重要性を示唆している。この失われた系図の存在と、それがなぜ本文ほど重視されて伝承されなかったのか、あるいはどのような経緯で失われたのかという問いは、古代人の歴史や権威に対する意識の変遷、歴史情報の取捨選択のあり方を反映している可能性を探る上で重要である 11 。本文が国家の「公的」な歴史物語を語るのに対し、系図はより直接的に血縁に基づく権力の正当性や社会秩序を規定するものであったかもしれず、その散逸は後の時代の権力構造の変化や歴史解釈の変容と関連している可能性も考慮されるべきである。
記述範囲:神代から持統天皇まで
『日本書紀』の記述範囲は、天地開闢(てんちかいびゃく)に始まる神代(かみよ)の物語から、第41代天皇である持統天皇の時代までとされている 2 。『古事記』が第33代推古天皇までを記述範囲としているのに対し 9 、『日本書紀』は編纂時点により近い時代までをカバーしており、特に天武・持統朝という律令国家形成の画期を公式記録として重視し、後世に残そうとした編纂者の意図がうかがえる。持統天皇は編纂を命じた天武天皇の皇后であり、夫帝の事業を継承して藤原京への遷都や飛鳥浄御原令の施行など、律令国家体制の確立に大きな功績があった人物である。編纂が完了した元正天皇の視点から見ても、天武・持統朝は律令国家の完成に向けた一つの重要な画期であり、輝かしい安定した時代として認識されていた可能性が高い。したがって、持統天皇の治世までを記述することで、天武朝に始まり持統朝に至る一連の国家形成事業の完成と成功を「正史」として公式に記録し、その成果を内外に宣言する強い意図があったと推察される。
巻一と巻二が神代の物語に充てられており 3 、これは全体の約15分の1に相当する 16 。『古事記』(全体の約3分の1が神話)と比較すると神話部分の量的割合は低いものの、国家の起源を神話に求めるという基本的な構造は共通している。巻三の初代神武天皇以降は、歴代天皇の具体的な事績、皇位継承の経緯、政治的出来事などが記述の中心となる 7 。
以下に、『日本書紀』全三十巻の各巻の内容概要を示す 4 。
巻数 |
内容概要 |
巻第一 |
神代 上(天地開闢、神々の出現、国土形成以前) |
巻第二 |
神代 下(伊弉諾尊・伊弉冉尊の国生み・神生み、黄泉国訪問、三貴子の誕生など) |
巻第三 |
神武天皇(東征、大和建国) |
巻第四 |
綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、孝安天皇、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇(いわゆる欠史八代) |
巻第五 |
崇神天皇(御肇国天皇、四道将軍派遣など) |
巻第六 |
垂仁天皇(倭姫命の伊勢神宮創建、野見宿禰と当麻蹶速の相撲など) |
巻第七 |
景行天皇(日本武尊の熊襲征討・東国平定など)、成務天皇 |
巻第八 |
仲哀天皇(熊襲征討、神功皇后の託宣) |
巻第九 |
神功皇后(三韓征伐、誉田別皇子(応神天皇)出産) |
巻第十 |
応神天皇(大陸文化の受容、百済との交流、誉田天皇) |
巻第十一 |
仁徳天皇(民のかまど、茨田堤の築造など聖帝説話) |
巻第十二 |
履中天皇、反正天皇 |
巻第十三 |
允恭天皇(氏姓の乱れの匡正、玉田宿禰の反乱) |
巻第十四 |
安康天皇(大泊瀬皇子(雄略天皇)による目弱皇子殺害)、雄略天皇(眉輪王の変、諸豪族の討伐) |
巻第十五 |
清寧天皇、顕宗天皇、仁賢天皇 |
巻第十六 |
武烈天皇(暴虐な天皇としての記述) |
巻第十七 |
継体天皇(越前からの即位、磐井の乱) |
巻第十八 |
安閑天皇、宣化天皇 |
巻第十九 |
欽明天皇(仏教公伝、任那滅亡) |
巻第二十 |
敏達天皇(仏教受容を巡る蘇我氏と物部氏の対立) |
巻第二十一 |
用明天皇(蘇我馬子の専横)、崇峻天皇(蘇我馬子による暗殺) |
巻第二十二 |
推古天皇(聖徳太子の摂政、冠位十二階、憲法十七条、遣隋使派遣) |
巻第二十三 |
舒明天皇(犬上御田鍬の遣唐使、蘇我蝦夷・入鹿の専横) |
巻第二十四 |
皇極天皇(乙巳の変、蘇我入鹿誅殺) |
巻第二十五 |
孝徳天皇(大化の改新、難波遷都) |
巻第二十六 |
斉明天皇(重祚、阿倍比羅夫の蝦夷征討、百済救援軍派遣) |
巻第二十七 |
天智天皇(近江令、白村江の戦い、庚午年籍) |
巻第二十八 |
天武天皇 上(壬申の乱) |
巻第二十九 |
天武天皇 下(飛鳥浄御原令の制定、天皇神格化、白鳳文化) |
巻第三十 |
持統天皇(藤原京遷都、飛鳥浄御原令の施行、伊勢行幸) |
文体(漢文、編年体)と歌謡
『日本書紀』は、全編を通じて純粋漢文体で記述されている 2 。当時の東アジアにおける国際公用語であった漢文を使用していることは、対外的な目的を強く意識していたことを示唆する 4 。中国の正史に倣ったこの形式は、国家の文化的水準と権威を示すものであった。この漢文が変体漢文なのか純粋漢文に近いのか、また日本的な漢文の癖である「和習」とは何かといった、より専門的で深い言語学的議論も存在する 11 。
記述形式としては、歴史的出来事を年代順に記述する編年体を採用している 2 。この編年体という形式は、その後の『続日本紀』以下の六国史(りっこくし)と呼ばれる正史群にも一貫して受け継がれていくことになる 3 。時間軸に沿った客観的な記録という体裁を重視し、歴史の連続性と発展を示すのに適した形式であった。
その一方で、本文中には約128首の歌謡が含まれており、これらは日本語の音を表記するために万葉仮名で記されている 5 。格調高い漢文体の中に、日本語の息吹を伝える歌謡が万葉仮名で挿入されていることは、「律令国家にとって歴史は物語であり、時として歌によって歴史を語るということがあった」ことを示し、日本の歌と歴史叙述の不可分性を物語っている 5 。これは、公式な漢文記録という体裁を取りつつも、日本固有の文化的表現や感性を完全に排除せず、むしろ効果的に取り込もうとした編纂者の意識の表れかもしれない。
『日本書紀』における漢文編年体と万葉仮名歌謡の共存は、国際性と固有性の統合を目指した当時の日本の洗練された文化戦略を示唆する。国家の公式な歴史書として、対外的な権威と普遍性を示すために、国際標準であった漢文編年体という中国正史のスタイルを基本として採用した。その一方で、人々の感情や日本固有の文化的ニュアンスを表現する上で不可欠であった歌謡については、その言葉のリズムや響きをできる限り忠実に残すために、日本語の音をそのまま写す万葉仮名で記述したのである。この二つの異なる書記システムの意図的な共存は、国際的な標準に準拠し、他国に理解されることを目指しつつも、自国の文化的アイデンティティを保持し、それを歴史叙述の中に織り込もうとする試みであった。これは単なる記録手法の使い分けではなく、歴史叙述における「語り」の様式として和歌が本質的に重要視されていたことの証左であり、漢文の論理性と和歌の叙情性が融合した独自の歴史世界を構築しようとしたものと見ることができる 5 。
主要な内容と「一書(あるふみ)」に見る多様な伝承
『日本書紀』の内容は、神代の物語から始まる。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)による国生み・神生み、黄泉の国の物語、天照大神(あまてらすおおみかみ)・月読命(つくよみのみこと)・須佐之男命(すさのおのみこと)の三貴子の誕生とその活動、須佐之男命の八岐大蛇(やまたのおろち)退治、大国主命(おおくにぬしのみこと)の国作りと国譲り神話などが、巻一・巻二を中心に詳細に記述されている 4 。
巻三以降は人代の歴史となり、初代神武天皇の東征と即位の物語から始まり、歴代天皇の系譜とその治世における主要な出来事、国家の発展の様子、皇位継承の経緯などが記されている 4 。国内記事だけでなく、朝鮮半島諸国(百済、新羅、高句麗など)や中国(隋、唐)との外交交渉や軍事的な関係、文化交流に関する記録も豊富に含まれている 4 。例えば、遣隋使の派遣や欽明天皇時代の百済との外交などが具体的に言及されている 7 。
『日本書紀』の際立った特徴の一つとして、「一書に曰く(あるふみにいわく)」という形で、本文とは異なる多くの異伝・異説が併記されている点が挙げられる 3 。これは特に神代巻において顕著であり、一つの事柄に対して複数のバリエーションの物語が提示されている。この異伝併記のスタイルは、『古事記』が基本的に単一の物語として構成されているのとは対照的である 16 。この「一書」の存在については、編纂者が史実に対する多角的な視点を残そうとした、あるいは公平性を保とうとした姿勢の表れであるとか、天皇家だけでなく他の有力氏族に伝わる多様な伝承も記録に取り入れ、それらを包摂することでより広範な合意形成や国家統合を目指した、高度な編纂方針であった可能性が指摘されている 3 。一方で、本文と「一書」という形で明確に区別し、序列をつけることで、中心となる皇統の物語の優位性は確保しつつ、周縁の物語も完全に排除しないという巧みなバランス感覚が見られる。この構造は、後の卜部神道による解釈(「一書曰」を本文と同等の価値を持つ神の言葉として認識する考え方)にも繋がるような、解釈の多様性を許容する複雑なテクスト構造を最初から内包していたと言える 20 。
編纂にあたっては、国内の史料である『帝紀』や『旧辞』、諸氏族に伝わる記録や個人の手記などに加え、中国の歴史書(例:『三国志』)や朝鮮半島(特に百済)の関係記録(例:百済三書)などが広範に参照されたと考えられている 6 。このような広範な資料収集は、記述の多角性や詳細さを担保する上で重要であった。これらの国内外の資料が『日本書紀』本文の形成に具体的にどのように影響したかについては、専門的な研究が進められている 11 。
4. 『日本書紀』と『古事記』の比較
『日本書紀』を理解する上で、『古事記』との比較は不可欠である。両書は、日本に現存する最古の歴史書として双璧をなし、ともに天武天皇の時代に編纂が構想されたが、その性格には顕著な違いが見られる。
項目 |
『古事記』 |
『日本書紀』 |
成立時期 |
712年(和銅5年) 4 |
720年(養老4年) 1 |
編纂者 |
太安万侶(稗田阿礼の誦習を筆録) 4 |
舎人親王ら 4 |
編纂目的・対象 |
国内向け。日本神話や国の成り立ちを後世に伝える。天皇家の出自の正当性を強調 4 。 |
国内および対外向け。日本の歴史を公式に伝える。国家としての正史を記録。豪族の伝承も収録 4 。 |
記述形式・文体 |
和化漢文(宣命体に近い)。物語的。紀伝体に近いが厳密ではない 4 。 |
純粋漢文。編年体 4 。 |
構成・内容 |
全3巻。神代が全体の約3分の1。天地初発から推古天皇まで 4 。単一の物語として構成 19 。 |
全30巻(+系図1巻)。神代は巻1・2(全体の約15分の1)。天地開闢から持統天皇まで 4 。本文の他に「一書」として多くの異伝を併記 19 。 |
記述範囲 |
神代~推古天皇 9 |
神代~持統天皇 9 |
『古事記』が天皇家の神聖な系譜と日本の起源をドラマチックに語り、国内の読者に訴えかけることを主眼としたのに対し、『日本書紀』は、より客観的かつ公式な歴史書としての体裁を整え、中国や朝鮮半島諸国といった国際社会に向けて、日本の国家としての成り立ちと威厳を示すことを意識して編纂されたと言える 4 。文体が『古事記』の和化漢文であるのに対し、『日本書紀』が純粋漢文であること、また『日本書紀』が多様な異伝を「一書」として収録している点などは、これらの目的と対象読者の違いを反映していると考えられる。
5. 『日本書紀』の神話・伝承
『日本書紀』の冒頭部分(巻一・巻二)は、日本の起源を語る壮大な神話・伝承によって占められている。これらの物語は、単なる空想の産物ではなく、古代の人々が抱いていた世界観、自然観、社会の成り立ちに関する認識や信仰を反映したものと考えられている 18 。
これらの神話・伝承は、文字通りの歴史的事実として扱われるべきものではないが、古代日本人の宇宙観や自然崇拝、稲作を中心とした祭祀儀礼、祖先崇拝といった信仰体系を背景に形成され、語り継がれてきたものと考えられる 18 。そして、これらの物語は、天皇家の支配の正統性を神代にまで遡って基礎づけるという、重要な政治的・イデオロギー的機能を果たしていた。中世においては、これらの神話はさらに変容し、例えばヒルコがエビス神となったり、壇ノ浦で失われた宝剣が竜宮や八岐大蛇によって取り返されたといった、『日本書紀』本来の記述からは離れた多様な物語世界(「日本紀」と総称される)が展開した 17 。
6. 『日本書紀』の歴史記述と史実性
『日本書紀』に記された内容、特に神代や初期天皇に関する記述の史実性については、古くから議論の対象となってきた。
文献史学者の津田左右吉は、大正時代に『古事記』と『日本書紀』(記紀)の記事内容を比較研究し、応神天皇以前の記述は史実性に乏しく、それ以降の記述にも多くの造作が見られることなどを指摘した。彼の研究は当時の皇国史観と対立し、著作が発禁処分となり不敬罪で有罪判決を受けるという弾圧を経験したが、その後の実証的な記紀研究に大きな影響を与えた 13 。戦後、実証的な研究を主導した坂本太郎は、「記紀で研究する前に、記紀を研究しなければならない」と提唱し、『日本書紀』そのものを批判的に検討する文献学的アプローチの重要性を強調した 13 。
特に問題とされるのが、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代の天皇、いわゆる「欠史八代」である。これらの天皇については、系譜や陵墓の記述はあるものの、具体的な事績の記録がほとんどなく、諡号(しごう)が後代の天皇と類似している点、父子相続という不自然な継承形態が続く点などから、その実在性が疑問視されている 13 。これらは、初代神武天皇と実質的な初代天皇とされる第10代崇神天皇との間を埋め、皇統の連続性を強調するために後から挿入された可能性が指摘されている 13 。
現代の研究においては、様々なアプローチから『日本書紀』の史実性や編纂過程が検討されている。本文の漢文に見られる日本的な語法(和習)の分析 13 、各巻における特定の語句や仮名遣いの偏り、引用された原資料の種類などから、複数の編纂グループや編纂時期の層を推定しようとする「成立区分論」が展開されている 13 。森博達氏による、音韻や用字法に着目したα群・β群区分説もその一つである 11 。また、近年では、木簡などの出土文字資料との比較を通じて、本文の記述の信頼性や、後世の知識による潤色(じゅんしょく)の可能性を検証する試みも行われている 11 。例えば、允恭紀に見える中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)伝承の記事を手がかりに、日本書紀の編集・伝承造作の過程や、藤原氏がその叙述に与えた影響を解明しようとする研究もある 11 。当初、複数の官僚が関与したチームによる編纂であることから客観性が高いと考えられていたが、必ずしもそうとは言えないという見方も存在する 12 。
7. 『日本書紀』の後世への影響と研究史
『日本書紀』は、その成立以来、日本の歴史認識、文化、思想に極めて大きな影響を与え続けてきた。
古代・中世における受容
完成の翌年である養老5年(721年)には、朝廷の公式行事として『日本書紀』を講読・研究する「日本紀講筵(にほんぎこうえん)」が始められ、以後、平安時代前期にかけて数回開催された 5 。これらの講筵の記録や私的な控えは「日本紀私記(にほんぎしき)」として残り、当時の訓読や解釈の様相を伝えている 5 。『源氏物語』の作者である紫式部も『日本書紀』を読んでいたことが『紫式部日記』からうかがえ(「日本紀の御局」というあだ名で呼ばれた逸話)、当時の知識人にとって必読の古典であったことがわかる 5 。また、日本最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の仮名序にも、『日本書紀』所載のスサノオの歌が日本の歌の起源として言及されており、その文化的権威の高さを示している 5 。
中世に入ると、戦乱の時代の中で人々が神仏による救済を求める傾向が強まり、『日本書紀』の読まれ方も、巻第一・巻二の「神代巻」が特に重視されるようになった 20 。神祇官を務めた卜部氏(うらべし)は、『日本書紀』を筆頭に、『古事記』、『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』を「三部の本書」と位置づけ、これらを神道の根本経典とみなす卜部神道(後に吉田神道へと発展)を形成した 20 。特に『日本書紀』は「神書」として神聖視され、この時期に多くの写本が作成されたため、現存する古い写本の多くが卜部氏系統のものである 8 。卜部氏系統の写本では、「一書曰」で始まる異伝部分を、本文と同等の大きさの文字で段を下げて記述する形式が採用された。これは当初、視認性を高めるための工夫であったが、卜部神道の教説と相まって、「一書曰」の異伝もまた神の言葉であり本文と優劣がないとする解釈を生み出すことになった 20 。
近世における国学の興隆と『日本書紀』研究
近世に入ると、出版技術の発達とともに『日本書紀』も版本として刊行されるようになる。慶長4年(1599年)には後陽成天皇の勅命により神代巻が「慶長勅版本」として刊行されたが、これは政治的に重要な書物と認識されていたことを示す 20 。この慶長勅版本の校訂にも卜部吉田家の人物が関与し、巻末の跋文も卜部神道の説に基づいていた 20 。
このような出版の恩恵を受け、国学者たちによる『日本書紀』研究が隆盛期を迎える。契沖(けいちゅう)は『万葉集』研究の中で『日本書紀』所載歌謡の仮名遣いを検討し、荷田春満(かだのあずままろ)は神道と歌学の立場から古典研究を深めた 20 。その後、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)へと国学の研究は継承されていく。本居宣長による『古事記伝』の完成は、『古事記』の価値を再発見させ、相対的に『日本書紀』中心であったそれまでの古典研究の流れに変化をもたらした側面もある 17 。江戸時代には、谷川士清(たにがわことすが)の『日本書紀通証(つうしょう)』や河村秀根(かわむらひでね)の『書紀集解(しょきしっかい)』といった詳細な注釈書も著された 8 。また、垂加神道(すいかしんとう)のような神道流派においても、神代巻を中心とした独自の解釈や注釈が行われた 11 。
近代以降の研究と多様な視点
近代国家の成立以降も、『日本書紀』は日本の歴史と文化を理解するための基本文献として、研究が継続された。國學院大學の母体である皇典講究所のカリキュラムにも『日本書紀』の科目が設けられ、折口信夫や武田祐吉といった国文学者も研究に携わった 20 。
現代においては、歴史学、国文学、考古学、神話学、宗教学、文献学、言語学など、多岐にわたる学問分野から学際的なアプローチによる研究が進められている 5 。『日本書紀』を単なる歴史書としてだけでなく、上代文学作品として、あるいは神道思想の文献として、政治思想史の資料として読むなど、多様な切り口からの解釈が試みられている 5 。『日本書紀』に由来する地名が各地に残されていることから、身近な視点からのアプローチも推奨されている 20 。
2020年の編纂1300年を機に刊行された学術書『日本書紀の誕生―編纂と受容の歴史―』では、その編纂過程、受容史、写本研究、暦日や用字法、国内外の先行資料(百済三書や中国の類書など)との関係、神話形成の過程、古代の講書の実態、中世や近世における解釈の展開など、極めて広範なテーマについて最新の研究成果がまとめられており 11 、『日本書紀』研究の深化と広がりを示している。
8. 結論
『日本書紀』は、奈良時代初期の720年に完成した日本最古の勅撰の正史であり、律令国家形成期の日本が、国内統治のイデオロギー的基盤を確立するとともに、東アジアの国際社会に向けて自国の存在と正統性を示すために編纂した、壮大な国家事業の成果であった。
その編纂目的は多岐にわたり、天皇を中心とする国家の歴史的連続性と正当性を神代から説き起こす国内的側面と、当時の国際標準であった漢文編年体という体裁を採用し、独自の歴史と文化を持つ独立国家としての日本の姿を対外的に示す国際的側面を併せ持っていた。この二重の戦略は、ほぼ同時期に成立した『古事記』との機能分担にも見て取れ、8世紀初頭の日本の高度な政治的・文化的戦略を反映している。
本文三十巻、系図一巻(現存せず)という構成、神代から持統天皇に至る広範な記述範囲、そして本文とは異なる伝承を「一書」として多数併記する独特のスタイルは、『日本書紀』が単一の公式見解を押し付けるのではなく、多様な情報を内包しつつ、天皇中心の歴史観を提示しようとした編纂方針の現れである。漢文という国際性と、万葉仮名で記された歌謡という固有性の共存もまた、当時の日本の文化状況を象徴している。
神話と歴史を連続的に捉え、壮大な物語を構築した『日本書紀』は、その成立以来、日本の歴史認識、文学、思想、宗教(特に神道)に計り知れない影響を与え続け、各時代において多様な解釈と研究を生み出す豊かなテクストであり続けた。古代史研究における根本史料としての価値は今日においても揺るぎなく、史実性を巡る議論を含め、文献学、歴史学、考古学、国文学など多角的なアプローチによる研究が精力的に継続されている。その複雑性と奥深さは、今後も新たな知見を生み出し続けるであろう。