本報告書は、17世紀初頭の日本において編纂された画期的な辞書である『日葡辞書』について、その編纂の背景、構成と内容、言語学的および歴史文化史的価値、現存する諸本、後世への影響、そして現代における研究動向を包括的に調査・分析し、その全体像を明らかにすることを目的とする。
『日葡辞書』、正式名称を Vocabulario da Lingoa de Iapam com a declaração em Portugues とし、慶長8年(1603年)に本編が、翌慶長9年(1604年)に補遺が、長崎のイエズス会コレジヨ(学林)において刊行された、日本語を見出し語としポルトガル語で解説を施した対訳辞書である 1 。約3万2千語に及ぶ豊富な語彙を収録し 2 、当時の日本語、特に口語の実態を克明に記録した第一級の言語資料として、また、16世紀後半から17世紀初頭にかけての日本の社会風俗、文化、価値観を映し出す貴重な歴史・文化史資料として、さらにはポルトガル語史研究においても重要な価値を有すると評価されている 4 。
その編纂は、日本におけるイエズス会の布教活動と深く結びついている。宣教師たちが、後進の宣教師の日本語学習に役立てるという直接的な教育・実用目的のもと 1 、日本社会のあらゆる階層の人々と効果的にコミュニケーションを取り、キリスト教の教義を広めるという、より大きな戦略的目標を達成するための手段として進められたと考えられる。収録語彙が、日常会話、文書言葉のみならず、女性語、子供言葉、さらには卑語や仏教語といった広範な領域に及んでいること 3 、そして聴罪師が信徒の告白を正確に理解するために、規範的な日本語よりも実際の話し言葉を重視したという記録 6 は、この辞書が単なる学術的な語彙集ではなく、多様な布教現場での実用性を徹底的に追求した成果であることを示唆している。このような編纂方針は、イエズス会日本管区による組織的かつ戦略的な取り組みの一環であった可能性が高い。
また、『日葡辞書』が日本語の表記にポルトガル語式のローマ字を採用したことは、特筆すべき点である。これは、宣教師の母語がポルトガル語であったという実際的な理由に加え 7 、漢字や仮名では捉えきれない当時の日本語の実際の発音を、表音性の高いアルファベットという文字体系で記録しようとした意識的な選択であったと解釈できる。その結果、「松茸」が「Matçudaqe」(マツダケ)と表記されるなど 7 、現代の発音とは異なる当時の音形が保存され、後世の日本語音韻史研究に対して計り知れない貢献をすることになった。
本報告では、まず『日葡辞書』の編纂背景、編纂者、時期、場所、そして先行資料との関連性を明らかにする。次に、その構成と内容記述の特徴、特に収録語彙の多様性や記述形式、アクセント表記の可能性について詳述する。続いて、『日葡辞書』が記録した当時の日本語の音韻、語彙、文法の特徴を分析し、さらに、戦国・安土桃山時代の社会風俗や文化、キリスト教布教との関連といった歴史的・文化史的価値を考察する。その後、現存する主要な諸本と、それらを基にした影印本・翻刻本・現代語訳の意義、そして『日葡辞書』が後世の日本語研究や辞書編纂に与えた影響を概観する。最後に、現代における『日葡辞書』研究の主要なテーマや学術的評価、デジタルアーカイブの活用状況、今後の研究課題について展望し、総合的な結論を提示する。
『日葡辞書』編纂の直接的な背景には、16世紀後半から日本で活発に展開されたイエズス会によるキリスト教布教活動が存在する。日本での効果的な布教のためには、宣教師自身が日本語を習得し、日本人と円滑なコミュニケーションを図ることが不可欠であった 1 。特に、信徒の告解を聴く聴罪師にとっては、規範的な書き言葉よりも、信徒が日常的に用いる話し言葉を正確に理解することが極めて重要であったとされる 6 。このような実用的な必要性から、宣教師たちの日本語学習を支援し、布教活動の効率を高めるためのツールとして、包括的な日本語辞書の編纂が企図された。
その主たる目的は、後続の宣教師たちが日本語を学ぶ際の助けとなることであった 1 。さらに、日本人信徒の告解を聴く聴罪師や、標準語(当時の中央語である京都方言)を用いて上流階級や知識階級にキリスト教の教義を説く説教師の双方にとって有用であるよう、口語、文語、雅語、俗語、専門用語など、広範囲にわたる日本語語彙を網羅的に収録することが目指された 7 。
『日葡辞書』の編纂は、特定の個人による事業ではなく、イエズス会の複数の宣教師と、彼らに協力した日本人修道士(同宿などと呼ばれた)たちが、4年以上の歳月をかけて共同で行った組織的なプロジェクトであった 3 。これらの日本人協力者は、当時の日本語のネイティブスピーカーとして、語彙の収集、語義の確認、用例の提供など、辞書の質を保証する上で不可欠な役割を担ったと考えられる 7 。具体的な協力者の氏名については詳らかではない点が多いものの、彼らの貢献なくして『日葡辞書』の完成はあり得なかったであろう。
著名な宣教師ジョアン・ロドリゲス(João Rodrigues, 通称ツヅ)の関与については、近年の研究では否定的見解が有力である 3 。ロドリゲスは、ほぼ同時期に『日本大文典』( Arte da Lingoa de Iapam , 1604-1608年刊行)や、後にマカオで『日本語小文典』( Arte Breve da Lingoa Iapoa , 1620年刊行)といった高度な日本語文法書を著しており 11 、これらは『日葡辞書』とは別の著作として区別される。ロドリゲスがイエズス会内部で果たした役割は、高度な文法理論の構築や、通訳官としての政治的交渉などが中心であり 12 、『日葡辞書』のような大規模な語彙収集と実用的な記述を主眼とする辞書編纂プロジェクトとは性質が異なっていた可能性が示唆される。イエズス会内部では、それぞれの専門性や能力に応じた役割分担がなされており、『日葡辞書』は、ロドリゲスのような特定の専門家による単独事業ではなく、より広範な宣教師と日本人協力者からなるチームによって、実用性を重視して推進されたと考えられる。
『日葡辞書』の本編は慶長8年(1603年)に、その補遺は翌慶長9年(1604年)に刊行された 1 。編纂および印刷は、日本の西 Kyushu 地方の中心都市であり、当時イエズス会の日本における活動拠点の一つであった長崎に設置されていた日本イエズス会のコレジヨ(学林、養成機関)で行われた 1 。
『日葡辞書』の編纂は、全くの白紙状態から開始されたわけではなく、イエズス会がそれまでに蓄積してきた日本語研究の成果や、先行するキリシタン版の出版物を活用して行われた。
主要な先行資料としては、まず『羅葡日対訳辞書』( Dictionarium Latino Lusitanicum ac Iaponicum )が挙げられる。これは1595年に天草のコレジヨで刊行された、ラテン語を見出し語とし、ポルトガル語訳と日本語訳を付した三言語対照の語彙集である 9 。この辞書は、ラテン語を共通語とする宣教師たちにとって初期の日本語学習に有用であり、その体裁や記述方法は『日葡辞書』にも影響を与えた可能性がある 10 。
次に重要なのが、1598年に長崎で刊行された『落葉集』( Rakuyōshū )である 10 。これは、日本で用いられる漢字とその読み(字音・字訓)を収録した、キリシタン版としては唯一の国字本漢字字書であった。『日葡辞書』が、印刷上の制約から全編ローマ字表記を採用し、漢字仮名文字を直接使用できなかったため 10 、『落葉集』は『日葡辞書』の利用者が日本語の漢字表記を確認する際の補完的資料として、意図的に準備されたと考えられる。この二つの出版物の関係は、イエズス会が日本語学習教材を段階的かつ戦略的に整備していったことを示唆している。まずラテン語話者向けの基礎的な対訳語彙集(『羅葡日対訳辞書』)、次に漢字学習のための字書(『落葉集』)、そしてその集大成として、より広範な日本語語彙を網羅した本格的な日本語・ポルトガル語辞書(『日葡辞書』)という流れは、計画的な資源配分と教育カリキュラムの構築を意識した結果と言えよう。
さらに、マヌエル・バレト(Manuel Barreto)神父による手稿資料(通称「バレト写本」)の研究は、『日葡辞書』の編纂過程を明らかにする上で重要視されている。この写本は、『日葡辞書』の直接的な稿本ではないものの、その語彙収集や編纂方針に影響を与えた可能性のある、より早期の語彙集の存在を示唆する手がかりとなると考えられている 14 。
これらの先行資料の存在は、『日葡辞書』が、それまでの日本語研究の蓄積の上に成り立っており、既存の知識や資料を戦略的に活用・発展させる形で編纂された大規模プロジェクトであったことを物語っている。
『日葡辞書』は、約32,293語という膨大な日本語語彙を収録しており 2 、17世紀初頭に編纂された辞書としては異例の規模を誇る。この収録語数の多さは、編纂者たちが当時の日本語の広範な領域をカバーしようとした意欲の現れと言える。
特筆すべきはその語彙の多様性である。『日葡辞書』は、単に規範的な書き言葉や雅語に留まらず、当時の日本社会で実際に話されていた「生きた言葉」を積極的に取り入れている。具体的には、日常的な話し言葉、文書言葉、さらには女性語、子供言葉、卑語、仏教に関連する専門語彙などが含まれている 3 。また、能楽に関する専門用語も収録されており 16 、当時の文化に対する編纂者たちの関心の広さを示している。
地域による言葉の違いにも注意が払われており、近畿地方の方言を「Cami」(上方言葉)、九州地方の方言を「Ximo」(下方言葉)として区別して注記している例が見られる 6 。これは、宣教師たちが布教活動を行う上で、中央語である京都方言だけでなく、主要な活動地域であった九州地方の言葉をはじめとする各地の方言にも通じている必要性を認識していたことを反映している。このような語彙収集の方針は、文献ベースの伝統的な日本の辞書とは異なり、多様な話者からの情報収集、あるいはフィールドワークに近い形で語彙を収集していた可能性を示唆する。
以下に、『日葡辞書』における語彙分類の注記例を示す。
表1:日葡辞書における語彙分類の注記例
注記の種類 |
ポルトガル語注記 (推定) |
日本語訳 (推定) |
具体例・説明 |
出典例 |
方言(上方) |
Cami |
上方の言葉 |
近畿地方で用いられる言葉。 |
6 |
方言(下方) |
Ximo |
下方の言葉 |
九州地方で用いられる言葉。 |
6 |
文書語 |
(記載なし) |
文書語 |
主に書き言葉で用いられる表現。 |
3 |
話し言葉 |
(記載なし) |
話し言葉 |
日常会話で用いられる表現。 |
3 |
女性語 |
(記載なし) |
女性語 |
主に女性が用いる言葉や言い回し。 |
3 |
子供言葉 |
(記載なし) |
子供言葉 |
主に子供が用いる、あるいは子供に対して用いられる言葉。 |
3 |
雅語 |
(記載なし) |
雅語 |
上品で洗練された言葉。 |
3 |
卑語 |
B. Baixo |
下品な言葉 |
卑俗な語だけでなく、品位の劣った言い方も含む。「恋 (Coi)」「体 (Carada)」「反吐 (Hedo)」などがこれに分類された例がある 6 。 |
3 |
仏教語 |
(記載なし) |
仏教語 |
仏教に関連する専門用語や概念。 |
3 |
能楽用語 |
(記載なし) |
能楽用語 |
能や狂言に関する専門用語。「アイ (Ai)」など 16 。 |
16 |
この表は、『日葡辞書』が当時の日本語の多様な側面をどのように捉え、記録しようとしていたかを示しており、辞書の編纂方針と網羅性を具体的に理解する一助となる。
『日葡辞書』の見出し語は、ポルトガル語のアルファベット表記法、いわゆるポルトガル式ローマ字を用いて記述され、アルファベット順に配列されている 3 。これは、宣教師たちがポルトガル語を母語としていたため、彼らにとって最も習熟しやすく、また当時の日本語の発音を彼らの聴覚に基づいて記録する方法として合理的であったと考えられる 7 。
各見出し語には、ポルトガル語による語義解説が付されている 3 。この解説は、単に一対一の対応語を示すだけでなく、必要に応じて語のニュアンス、使用される文脈、文化的背景などにも言及しており、当時の日本語の運用実態を深く理解する上で貴重な情報を提供している。
さらに、前述した方言(Cami, Ximo)、文書言葉・話し言葉の区別、女性語・子供言葉、雅語・卑語(例:「B. Baixo」)、仏教語といった、語の使用域や位相を示す様々な注記が付されている 3 。これにより、学習者はそれぞれの語がどのような場面で、どのようなニュアンスで用いられるのかを把握することができた。
また、語の理解を助けるために具体的な用例が付されることもあった 7 。例えば、『日本国語大辞典』が『日葡辞書』からの用例として「Aituzzuqe, ru, eta (アイツヅクル)」を挙げている例がある 7 。
特筆すべき記述方法として「訓釈 (くんしゃく)」の採用が挙げられる 10 。『日葡辞書』は全編ローマ字表記であり、漢字仮名文字が用いられていないため、同音異義語の区別が困難になるという問題が生じた。この問題を解決するため、編纂者たちは、見出し語を構成する漢字の読み(主に字訓)をローマ字で注記するという「訓釈」の手法を導入した。例えば、「イッシン」という見出し語に対して、それが「一親」なのか「一身」なのか「一心」なのかを、それぞれの漢字の訓読みを付すことで区別しようとしたのである。この訓釈の採用は、ローマ字表記のみという制約の中で、日本語の根幹をなす漢字文化の重要性を認識し、可能な限りその情報(漢字表記)を読者に伝えようとした編纂者たちの工夫と努力の現れと言える。これは、異文化間の言語情報伝達における困難さと、それに対する創造的な解決策を示す好例である。
『日葡辞書』の本文中に、現代の辞書に見られるような明確なアクセント記号が付されているという直接的な証拠は乏しい。しかし、そのローマ字表記が当時の日本語の発音を忠実に写し取ろうとしたものであるならば、その表記法自体にアクセントに関する情報が含まれている可能性が指摘されている。
ポルトガル語には明確なアクセント規則が存在し 17 、宣教師たちは自らの母語のアクセント体系を意識しながら日本語の音声を聴取し、記録したと考えられる。そのため、『日葡辞書』のローマ字の綴り方や、特定の母音・子音の選択が、当時の日本語のアクセントのあり方を間接的に反映しているのではないかという観点から、音韻論・アクセント史の研究者によって詳細な分析が進められている。
例えば、豊島正幸氏の研究では、『日葡辞書』におけるオ段拗長音の二様の表記(例:キョウを qieu と qio の両様に表記)が、実際には同音異表記であり、アクセントの型によって使い分けられた可能性などが探られている 14 。このような研究は、『日葡辞書』を単なる語彙集としてだけでなく、失われた中世日本語の音声的特徴、特にアクセント体系を再構築するための貴重な手がかりとして活用しようとする試みである。
ただし、ポルトガル語式のローマ字表記は、あくまでポルトガル語話者の聴覚フィルターを通して記録されたものであり、当時の日本語の音声を完全に客観的に写し取ったものとは言えない側面も考慮する必要がある。ポルトガル語の音韻体系に存在しない日本語の音は、最も近いポルトガル語の音として認識され、記述された可能性がある。この点は、例えばハ行子音のF音表記の解釈などにも関わってくる重要な視点である。
『日葡辞書』は、17世紀初頭の日本語、特に京都を中心とする中央語の口語について、その音韻、語彙、さらには文法の特徴を垣間見ることができる類稀な資料である。
『日葡辞書』のポルトガル式ローマ字表記は、当時の日本語の発音を推定する上で極めて重要な手がかりを提供する。
特に注目されるのは、ハ行子音の音価である。現代日本語のハ行子音 /h/ とは異なり、当時は無声両唇摩擦音 [Φ](ファ、フィ、フ、フェ、フォに近い音)であったと考えられているが、『日葡辞書』ではハ行の語がしばしば F を用いて表記されている(例:Fito(人)、Fune(船)) 3 。これは、宣教師たちが日本語のハ行子音を、ポルトガル語の F の音に近いものとして認識したことを示唆しており、ハ行子音が P→Φ→H という歴史的変化を辿ったとされる日本語音韻史において、Φの段階を具体的に示す強力な証拠となっている。この記録は、文献資料だけでは捉えにくい音声変化の具体的なスナップショットを提供するものであり、『日葡辞書』が持つ一次資料としての価値を際立たせている。
また、濁音の扱いについても興味深い点が見られる。例えば「松茸」は「Matçudaqe」と表記されており 7 、現代語の「マツタケ」とは異なり、「タケ」が濁音化して「ダケ」と発音されていた可能性を示している。このほか、クヮ (qva)、グヮ (gva) のような合拗音や、シェ (xe)、チェ (che)、ジェ (je) などの開拗音の存在も、ローマ字表記から確認することができる。
連声、撥音(ン)、促音(ッ)といった音便現象も、ローマ字表記を通じてその実態が記録されている。例えば、数詞に続く助数詞の語頭子音が、先行する数詞の語末の音韻条件によって変化する様などが観察できる 20 。
『日葡辞書』は、雅語や文語だけでなく、当時の民衆が日常的に用いていた話し言葉を豊富に収録している点が大きな特徴である 3 。
生活に密着した語彙が数多く見られ、特に衣食住に関する言葉が詳細に記録されている 21 。例えば、「バッテラ」(ポルトガル語の bateira 「小舟」に由来)のような外来語が既に日本語として定着していた様子も窺える。
社会制度や文化を反映する語彙も豊富である。武家社会で用いられた言葉、仏教に関連する用語、さらには能楽などの芸能に関する専門用語も収録されている 16 。
特筆すべきは、当時の価値観や道徳観を反映する語彙の扱いであろう。例えば、現代では一般的に用いられる「恋 (Coi)」という言葉が、当時は「男女間の淫らな情欲的なもの」として解説され、「卑語 (Baixo)」に分類されていた 6 。これは、キリスト教における神の愛(アガペー)を至上のものとし、人間の世俗的な情愛をそれとは区別し、場合によっては低いものと見なす当時のヨーロッパの宗教的価値観が、日本語の語彙解釈に影響を与えた可能性を示唆している。同様に、「男色 (Nanshoku)」は「口にすべきでない罪悪に関わるもの」との説明が付されており 6 、当時の日本の武士や僧侶の間に見られた風習と、キリスト教的倫理観との間の緊張関係を浮き彫りにしている。
このほか、「生きがい (Iquigai)」という言葉が既に口語として用いられ、宣教師たちが布教上意味のある言葉として認識していた可能性も指摘されている 8 。
キリスト教の布教に伴い、新たに取り入れられた語彙や、既存の日本語に新たな意味合いが付与された語彙も散見される。例えば、「どちりな・きりしたん」は、ラテン語の doctrina (教義)がポルトガル語経由で日本語に入った際の発音を写したものと考えられ、キリスト教の教義問答書を指す言葉として用いられていた 21 。
『日葡辞書』は主として語彙集であるが、その語釈や用例からは、当時の日本語の文法的な特徴の一端を窺い知ることができる。
品詞の分類については、ポルトガル語の文法体系を念頭に置きつつ、日本語の特性を捉えようとした努力が見られる。動詞の活用形についても、例えば「Aituzzuqe, ru, eta」(相続ける、相続け、相続けた)のように、語幹、終止形・連体形、完了形などが示されている例がある 7 。
接頭語や複合語が独立した見出し語として多く採用されている点も特徴的である 7 。例えば、「あひつづく (Aituzzuqu)」と「つづく (Tuzzuqu)」がそれぞれ別の見出しとして立てられている。これは、日本語を母語としない学習者にとって、接頭語が付加された形態や複合語が、基底形とは異なる独立した語彙単位として認識されやすかったためであり、辞書の編纂方針が学習者(非母語話者)の視点に立っていたことを明確に示している。この編纂原理は、現代の外国人向け日本語辞書にも通じるものがある。
助詞や助動詞の用法についても、具体的な用例を通じて当時の使われ方が記録されており、日本語文法史の研究にとって貴重な情報を提供している。敬語表現については、ロドリゲスの『日本大文典』ほど体系的な記述はないものの、収録されている語彙の選択やその語釈から、当時の敬語使用の実態を部分的に推測することが可能である。
『日葡辞書』は、17世紀初頭の日本語の様相を伝える言語資料としての価値に留まらず、当時の日本の社会風俗、文化、思想、価値観などを映し出す鏡として、歴史学、文化史研究においてもきわめて重要な意義を有している。
『日葡辞書』には、武士階級から庶民に至るまで、当時の様々な階層の人々が日常的に用いていた言葉遣いや表現が豊富に記録されている 1 。これにより、文献資料だけではうかがい知ることの難しい、当時の人々の具体的な言語生活の一端を垣間見ることができる。
例えば、「渡リ合ウ (Vatari au)」という語の解説には、「通行するものが出会う」という意味よりもむしろ「敵に出会って互いに斬りつけ合う」という場合に限って使うのが正しい、といった具体的な使用状況が記されており 6 、戦乱の世の緊張感や武士の日常が反映されている。また、動物の糞の呼び分けが詳細に記録されていること(例:兎の糞は「落シ」、鷹の糞は「ウチ」など) 6 は、当時の人々の自然観察の細やかさや、生活と動物との密接な関わりを示唆している。
さらに、「手を失ふ (Te o ushinau)」という表現が、単に「助けを失う」という意味だけでなく、「戦争において味方であるはずの軍勢が到着しないこと」を本来の意味として解説されている点は 6 、戦国時代特有の裏切りや同盟関係の複雑さを物語っている。
『日葡辞書』に収録されている特定の語彙は、当時の日本社会の文化や思想、価値観を理解する上で重要な手がかりとなる。
表2:日葡辞書における戦国・安土桃山時代の社会文化を反映する語彙例
日本語語彙 (ローマ字表記) |
ポルトガル語による語釈の要約 (推定) |
当時の社会的・文化的背景や思想 |
出典例 |
かぶき者 (Cabvqimono) |
異風を好み、常軌を逸した行動をする者。伊達者。 |
戦国末期から江戸初期にかけて現れた、既成の秩序や価値観にとらわれない人々の存在。当時の社会の流動性や新しい美意識の萌芽。 |
6 ( Engaging the Other における言及 22 ) |
下剋上 (Guecocujo) |
下位の者が上位の者を実力で倒し、その地位を奪うこと。 |
戦国時代の社会秩序の崩壊と実力主義の風潮を象徴する言葉。伝統的権威の失墜と新たな権力構造の形成期。 |
6 |
生きがい (Iquigai) |
生きる張り合い、生きる価値。 |
当時の口語として存在し、宣教師が布教上意味のある言葉と考えた可能性。個人の生きる意味への問いかけ。 |
8 |
恋 (Coi) |
男女間の淫らな情欲的なもの。 |
キリスト教的価値観(神の愛との区別)から「卑語」と分類。当時の日本社会における恋愛観と外来宗教の価値観との接触。 |
6 |
男色 (Nanshoku) |
口にすべきでない罪悪に関わるもの。 |
武士や僧侶の間に見られた同性愛の風習に対するキリスト教的倫理観からの否定的評価。 |
6 |
天道 (Tendo) |
かつてデウス(神)を指すのに用いた語。 |
日本の伝統的観念とキリスト教の神概念との間の語彙的接触と変容。 |
23 |
「かぶき者」や「下剋上」といった語彙が収録されていること自体が、『日葡辞書』が当時の社会のダイナミズムや大きな変動を敏感に捉えようとしていた証左である。これらの語彙は、安定した社会よりも混乱期や変革期に顕著となる現象を指すため、辞書編纂者たちが当時の日本の「生きた姿」を記録し、理解しようとした積極的な意図が窺える。効果的な布教のためには、社会の現実を把握し、人々の関心事や流行語にも通じている必要があったのである。
また、「恋」や「男色」が「卑語」として分類された背景には、単に語彙の品位の問題だけでなく、編纂者である宣教師たちのキリスト教的倫理観や、16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパ社会における道徳的規範が強く影響していると考えられる。これは、辞書が客観的な言語記述の道具であると同時に、編纂者の文化的なフィルターを通して再解釈された世界の反映でもあることを示しており、異文化接触における価値観の相克を如実に物語っている。
『日葡辞書』の編纂は、言うまでもなくイエズス会のキリスト教布教活動と密接不可分である。宣教師たちが日本語を習得し、日本人聴衆の心に響く言葉で教義を説き、また、信徒の告解を正確に理解するためには、詳細かつ実用的な辞書が不可欠であった 1 。
『日葡辞書』は、その意味で、異文化理解と言語習得にかける宣教師たちの並々ならぬ努力の結晶と言える。辞書には、日本の伝統的な宗教である神道、仏教(特に浄土教や禅宗など)に関する語彙や概念の説明も含まれており 24 (イエズス会日本書翰集の記述からの類推)、宣教師たちが日本の精神文化を深く理解しようと努めていた様子がうかがえる。
一方で、言語接触の結果として、ポルトガル語にも日本語の影響が見られることがある。例えば、「ピンからキリまで」という表現の語源として、ポルトガル語の pinta (点、極小)と cruz (十字架、極上)が挙げられることがあるが 21 、これは当時の活発な言語的・文化的交流の一端を示すものと言えよう。
『日葡辞書』の1603-04年長崎刊本は、キリシタン版の中でも特に貴重な文献であり、現存するものは世界でも数点に限られている。主要なものとして以下のものが知られている。
表3:日葡辞書 主要現存諸本一覧と比較
所蔵機関 |
通称 |
刊行年 (推定) |
補遺の有無 |
主な特徴 |
関連する影印・翻刻情報例 |
オックスフォード大学 ボドリアン図書館 |
ボードレー本 |
1603-04年 |
有り |
最も広く知られ、研究に利用されてきた。 |
岩波書店『日葡辞書』(1960年刊、影印) 25 |
フランス国立図書館 |
パリ本 |
1603-04年 |
無し |
補遺を欠く。一部本文にも異同が見られる。 |
勉誠社(現・勉誠出版)から影印刊行 26 |
エヴォラ公共図書館 (ポルトガル) |
エヴォラ本 |
1603-04年 |
有り |
|
|
リオ・デ・ジャネイロ国立図書館 (ブラジル) |
リオ本 |
1603-04年 |
無し |
2018年発見。補遺を欠く点でパリ本と一致するが、Tt折(165-168丁)は他の本と一致 4 。 |
八木書店『リオ・デ・ジャネイロ国立図書館蔵 日葡辞書』(2020年刊、高精細カラー影印・解説付) 4 |
(伝)マニラ |
マニラ本 |
1603-04年 |
(不明) |
ドミニコ会関連の伝来とされる。 |
|
アジュダ文庫 (ポルトガル) |
アジュダ写本 |
(写本) |
(該当なし) |
17世紀後半から18世紀初頭の写本。 |
|
これらの諸本間には、補遺の有無だけでなく、本文の細部においても異同が見られることが指摘されており 4 、それぞれの伝来や利用の歴史を反映している可能性がある。特に2018年にブラジルで発見されたリオ本は、それまでの研究に新たな視点を提供し、諸本比較研究の重要性を改めて示すものとなった 4 。このような諸本の比較研究は、辞書の最終的な編纂過程や、当時の印刷・配布状況、さらにはイエズス会内部での資料管理の実態を明らかにする上で、重要な手がかりを与える。
『日葡辞書』の原本は極めて貴重であり、直接閲覧することが困難であるため、影印本、翻刻本、そして現代語訳の刊行は、研究の進展と普及に不可欠な役割を果たしてきた。
1960年に岩波書店から刊行されたボドリアン図書館蔵本の影印 25 は、多くの研究者が『日葡辞書』の本文にアクセスすることを可能にした画期的な出版物であった。さらに、1980年には同じく岩波書店から、土井忠生、森田武、長南実の三氏による編訳『邦訳 日葡辞書』が刊行された 28 。これは、ポルトガル語で書かれた語釈を日本語に翻訳したものであり、ポルトガル語を解さない研究者や学生にとっても『日葡辞書』の内容を理解する道を開き、日本語史、国語学研究における必携の文献となっている。
近年では、パリ本の影印(勉誠社、現・勉誠出版) 26 や、2020年に八木書店から刊行された『リオ・デ・ジャネイロ国立図書館蔵 日葡辞書』 4 が注目される。後者は、高精細なカラー影印に加え、中野遙氏、白井純氏、エリザ・タシロ氏、岸本恵実氏ら、国内外の専門家による詳細かつ多角的な解説(日本語、英語、ポルトガル語併記)が付されており、最新の研究成果を踏まえた『日葡辞書』理解の新たなスタンダードを提示するものとして高く評価されている 27 。
これらの出版物は、貴重な歴史資料をより多くの人々が利用できるようにし、『日葡辞書』研究の裾野を広げ、その深化に大きく貢献している。
『日葡辞書』が編纂された近世初期において、日本の主流な辞書編纂に直接的な影響を与えた形跡は限定的である。例えば、18世紀末から19世紀初頭にかけて編纂された蘭和辞典である稲村三伯の『波留麻和解』(ハルマ和解、1796年)や本木庄左衛門らの『諳厄利亜興学小筌』(あんげりあこうがくしょうせん、1814年)ほどには、当時の日本の学術界で広く知られ、利用されることはなかった 21 。この背景には、江戸幕府によるキリスト教禁教政策の影響でキリシタン関連文献の流通が厳しく制限されたこと、そして『日葡辞書』が主としてポルトガル語を母語とする宣教師の日本語習得を目的として編纂されたため、当時の日本の学者の主要な関心事であった漢籍読解や古典研究とは必ずしも合致しなかったことなどが考えられる。
しかし、近代に入り、西洋の歴史言語学的な研究方法が導入され、日本語の歴史的変遷や口語史への学術的関心が高まるとともに、『日葡辞書』の資料的価値が再発見されることとなる。特に、新村出をはじめとする国語学者たちによって、室町時代末期から江戸時代初期にかけての口語資料の宝庫として高く評価され、日本語史研究における第一級の資料としての地位を確立した 10 。
現代においては、日本最大の国語辞典である『日本国語大辞典』第二版が、『日葡辞書』から17,000例を超える用例を採録していることからも 7 、その影響力の大きさがうかがえる。また、収録されている複合動詞の扱いなどから、当時の日本語教育の一端を垣間見ることができるとして、日本語教育史の観点からも注目されている 30 。
『日葡辞書』が日本辞書史上において「初の近代的体裁を持つ辞書」と評される 10 のは、それまでの日本の伝統的な辞書(主に字書)が、難解な漢語の和訳や他書からの引用が中心であったのに対し、『日葡辞書』が口語を含む多様な見出し語に対し、独自の語釈を施し、豊富な用例や子見出しを付している点にある。このような近代的体裁を持つ日本語辞書が再び現れるのは、明治期の大槻文彦による『言海』を待たねばならなかったという事実は、『日葡辞書』の先進性と、その後の歴史的断絶を物語っている。歴史資料の評価が、時代背景や研究的視点の変化によって大きく変動することを示す好例と言えよう。
『日葡辞書』は、刊行から400年以上を経た現代においても、日本語学、歴史学、文化史、辞書史など多岐にわたる分野で活発な研究対象であり続けている。特に近年のデジタル技術の発展と国際的な学術協力の深化は、研究に新たな局面をもたらしている。
現代の『日葡辞書』研究は、大きく分けて言語学的研究、辞書史・書誌学的研究、文化史的研究の三つの潮流が見られる。
言語学的研究 の中心は、ポルトガル式ローマ字表記を手がかりとした、室町時代末期から江戸時代初期にかけての日本語の音韻体系の解明である。特にハ行子音の音価、濁音・拗音の扱い、そしてアクセント体系の復元などが重要なテーマとなっている 3 。豊島正幸氏らによる音韻研究は、この分野における重要な貢献の一つである。また、収録語彙の分析を通じた当時の語彙体系、語義の変遷、新語や借用語の研究も活発に行われている 6 。中野遙氏は、語釈の構造や見出し語の選定基準など、辞書記述の詳細な分析を進めている 10 。
辞書史・書誌学的研究 においては、『日葡辞書』の編纂過程、編纂に関わった人物、先行資料との関連性、そして現存する諸本の比較検討などが主要な課題である 4 。白井純氏や中野遙氏の研究は、これらの点について新たな知見を提供している 4 。さらに、『日葡辞書』がポルトガル語の辞書史においてどのような位置を占めるのかという観点からの研究も進められており、岸本恵実氏らの業績が注目される 4 。
文化史的研究 では、『日葡辞書』に記録された語彙やその解説を通じて、当時の日本の社会風俗、文化、人々の思想や価値観を読み解こうとする試みがなされている 6 。
これらの研究成果は、国内外の学会や学術雑誌で発表されており、『日葡辞書』は国際的にも高い学術的評価を得ている。例えば、"Mastering Languages, Taming the World: The Production and Circulation of European Dictionaries of Asian Languages (16th-19th Centuries)" といった海外の出版物においても、『日葡辞書』に関する複数の論考が収録されており、Rui Manuel Loureiro氏やFrançois Lachaud氏といった研究者が健筆をふるっている 36 。
近年の『日葡辞書』研究の飛躍的な進展は、デジタルアーカイブの整備と活用に大きく支えられている。国立国会図書館デジタルコレクション 39 や、海外の主要図書館(オックスフォード大学ボドリアン図書館、フランス国立図書館(Gallica)など) 25 が所蔵する原本の高精細なデジタル画像がオンラインで公開されるようになり、研究者は地理的な制約なしに貴重な一次資料にアクセスできるようになった。また、JLectのようなオンラインデータベースは、『日葡辞書』のフランス語訳へのリンクを提供するなど 43 、関連資料へのアクセスを容易にしている。
豊島正幸氏や中野遙氏らを中心とする研究プロジェクトでは、『日葡辞書』や関連するキリシタン文献の全文テキストデータ化、データベース化が進められており 10 、これにより、従来は手作業では困難であった網羅的な語彙検索、諸本間の厳密な本文比較、統計的な分析などが可能となり、新たな知見が次々と生み出されている。リオ本の発見と高精細デジタル化、そしてそれを活用した国際共同研究 4 は、まさにデジタルヒューマニティーズが古典籍研究に革命をもたらしつつあることを示す象徴的な事例と言えるだろう。
今後の研究課題としては、まず、未だ解明されていない点、例えば日本人協力者の具体的な役割や貢献、アクセント体系のより詳細な復元、特定の語彙の背景にある文化的事象の深掘りなどが挙げられる。また、他のアジア言語に関して宣教師が作成した辞書群との比較研究を通じて、『日葡辞書』の普遍性と特殊性を明らかにすることも重要である。さらに、人工知能(AI)を用いた自然言語処理技術の応用など、新たな分析手法の導入も期待される。
そして何よりも、『日葡辞書』が持つ多岐にわたる価値を、専門の研究者だけでなく、より広範な層に伝え、教育資源として活用していくための努力が求められる。『日葡辞書』研究は、単に過去の言語や文化を解明するに留まらず、異文化接触の本質、言語記述の方法論、翻訳という行為の深層、さらには知識がいかに生成され伝達されるかといった、より普遍的で現代的なテーマへの洞察を提供する可能性を秘めているのである。
『日葡辞書』は、17世紀初頭の日本において、イエズス会宣教師と日本人協力者の共同作業によって編纂された、日本語・ポルトガル語の画期的な対訳辞書である。約3万2千語という豊富な語彙を収録し、ポルトガル式ローマ字による表記とポルトガル語による詳細な語釈、そして多様な注記を通じて、当時の日本語、特に口語の実態を克明に記録した比類なき言語資料としての価値を持つ。その記述は、ハ行子音の音価や濁音の扱いなど、日本語音韻史研究に貴重な情報を提供するだけでなく、当時の生活語彙、社会制度、文化、価値観を反映する語彙を数多く含んでおり、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての日本社会を理解するための第一級の歴史・文化史資料でもある。
編纂の背景には、キリスト教布教という明確な目的があり、宣教師たちが異文化を理解し、効果的なコミュニケーションを図ろうとした並々ならぬ努力の結晶と言える。その編纂方針には、学習者である非母語話者の視点が取り入れられ、また、ローマ字表記の限界を補うための「訓釈」のような独自の工夫も見られる。これらの点は、異文化接触と言語記述のあり方について、現代にも通じる多くの示唆を与えてくれる。
現存する諸本は限られているものの、影印本や現代語訳の刊行、そして近年のデジタルアーカイブ化の進展により、研究環境は飛躍的に向上した。これにより、音韻、語彙、文法、辞書史、書誌学、文化史など、多岐にわたる分野からのアプローチが可能となり、新たな知見が次々と生み出されている。特に、リオ・デ・ジャネイロ国立図書館蔵本の発見と、それを契機とした国際的な共同研究は、今後の研究の進展に大きな期待を抱かせる。
今後の『日葡辞書』研究においては、未解明な点の継続的な調査、特にアクセント体系の完全な解明や、編纂に関わった日本人協力者の具体的な役割の特定などが望まれる。また、デジタル技術を最大限に活用した、より網羅的かつ精密な本文分析、他のキリシタン文献や同時代の国内外の辞書との比較研究、そしてAIなどの新たな技術を用いた分析手法の導入も視野に入れるべきである。
総じて、『日葡辞書』は、単なる古辞書の枠を超え、言語、歴史、文化、そして異文化理解という普遍的なテーマを探求するための尽きせぬ泉である。その多角的な価値を今後さらに掘り下げ、研究成果を広く共有し、次世代に伝えていくことが、現代に生きる我々に課された重要な責務と言えよう。