曜変天目茶碗は、陶磁史上、至高の美術品の一つとして認識されております。その中でも、静嘉堂文庫美術館が所蔵する国宝「曜変天目(稲葉天目)」は、現存する三碗の国宝曜変天目の中でも、特に華麗な輝きを放つ名品として広く知られています 1 。その美しさは「手のひらの宇宙」とも形容され、見る者を魅了してやみません 1 。
本報告書は、この曜変稲葉天目について、その名称の由来、製作の背景、美術的特徴、歴史的伝来、さらには科学的探求や文化的意義に至るまで、現存する資料に基づき詳細かつ徹底的に調査し、その全貌を明らかにすることを目的とします。まず曜変稲葉天目の基本的な情報を整理し、次にその美術的価値を他の国宝曜変天目との比較を交えながら論じます。続いて、徳川将軍家から岩崎家に至る詳細な伝来の経緯を追い、付属品についても言及します。さらに、その神秘的な美しさを生み出す技法の謎に迫る現代の科学的探求や再現の試みを紹介し、最後に日本の茶道文化や美術史、日中文化交流史における意義を考察いたします。
「天目」という名称は、中国浙江省にある天目山に由来するとされています。この山は禅宗の聖地であり、その山中の寺院で用いられていた黒釉の茶碗が、鎌倉時代前期に抹茶の喫茶法と共に日本へ請来され、「天目」と呼ばれるようになったと考えられています 3 。明庵栄西が著した『喫茶養生記』に登場する「茶盞(ちゃさん)」は天目であるとされています 3 。
「曜変」という言葉は、元来「窯変(ようへん)」と記され、窯の中で予期せぬ変化が生じて現れる美しい斑紋を指しました。しかし、この種の天目茶碗に見られる類稀なる輝きは、単なる窯内での変化という言葉では捉えきれず、光り輝く星や太陽を想起させることから、輝きや光を意味する「曜」の字が当てられるようになったと言われています 4 。室町時代に足利義政の同朋衆によって著された『君台観左右帳記』には、「地いかにも黒く、こき(濃き)るり(瑠璃)、うすき(薄き)るりのほしひたとあり。又、き色、白色、こく(極)うすきるりなどの色々ましりて、にしきのやうなくすりもあり」と、その華麗な様が具体的に記述されており、既に当時からその特異な美しさが認識されていたことが窺えます 3 。
本茶碗が「稲葉天目」と通称されるのは、江戸時代に淀藩主であった稲葉家に伝来した史実に由来します 2 。この呼称は、この茶碗が日本において特定の由緒ある家系によって大切に守られてきたことを示唆しており、その歴史的価値を物語る上で重要な要素となっています。
「天目」という名称が器物の種類と中国禅宗との関連、すなわち地理的・機能的起源を示すのに対し、「窯変」から「曜変」への表記の変遷は、単なる偶然の産物としてではなく、その特異な光輝現象に対する人々の認識の深化と評価の高まりを反映していると言えるでしょう。「曜」の字が選択された背景には、その神秘的な美しさをより積極的に捉え、賛美しようとする意図が感じられます。そして、「稲葉天目」という固有名詞は、日本における特定の所有者(大名家)との結びつきを明確にし、その由緒と格を一層高める役割を果たしてきました。これらの名称が時代や文脈に応じて用いられることで、この茶碗の持つ多面的な価値、すなわち美術品としての価値、歴史的遺物としての価値、そして茶道具としての価値が、重層的に強調されてきたと考えられます。
曜変稲葉天目は、中国の南宋時代(12~13世紀)に製作されたとされています 2。
その製作地は、福建省にあった建窯(けんよう)です。建窯で焼かれた天目茶碗は特に「建盞(けんさん)」と称され、当時から高く評価されていました 3。
材質は、鉄分を多く含む、きめが細かく堅く焼き締められた陶胎です。釉薬が施されていない露胎部(ろたいぶ)は、紫色を帯びた灰黒褐色を呈し、鈍い光沢を放っています 2。
寸法は、高さ6.8cm、口径12.0cm、高台径3.8cmと記録されています 2。
器形は、典型的な天目形(てんもくなり)を踏襲しています。すなわち、低く小さい高台を持ち、器体は漏斗状に外へ向かって開き、口縁部が内側に僅かに抱え込むようにすぼまった「鼈口(すっぽんぐち)」と呼ばれる特徴的な形状をしています 6。
全体として引き締まった印象を与える造形であり 6、高台は浅く平らに削り出され、中央部が円く釉薬のかからない「蛇の目高台(じゃのめこうだい)」に仕上げられています 2。
黒釉が器の内面全体と外面の腰部あたりまで厚く掛けられていますが、口縁部では焼成中に釉薬が流れ落ちて薄くなり、素地が透けて見える部分もあります。一方、見込み(内面の底部)や器の裾部分には釉薬が溜まり、厚い釉溜まり(ゆうだまり)が生じています 2。
稲葉天目の器形自体は、上述の通り、建窯製の天目茶碗として典型的な特徴(天目形、鼈口、蛇の目高台、黒釉の流下など)を備えています 6 。これは、特定の窯の様式に則って製作されたことを意味し、ある程度の規格性の中で作られたことを示唆します。しかしながら、その普遍的なフォルムの上に、極めて稀で、その生成メカニズムが未だ完全には解明されていない「曜変」という特異な現象が発現している点に、この茶碗の価値の核心があると言えます。曜変という現象は極めて偶発的であり、現代の技術をもってしても完全な再現は至難の業とされています 9 。つまり、稲葉天目は、量産品としての天目茶碗の様式(型)に乗りながらも、その表面には一点物の奇跡的な美しさが宿っているのです。この「典型性」と「特異性」の共存こそが、多くの人々を魅了し、古来より珍重され、今日に至るまで研究の対象となる所以であると考えられます。
項目 |
内容 |
出典例 |
名称 |
曜変天目茶碗 (ようへんてんもくちゃわん) |
2 |
別名 |
稲葉天目 (いなばてんもく) |
1 |
種別 |
国宝(工芸品) |
1 |
国宝指定年月日 |
1951年(昭和26年)6月9日 |
2 |
重要文化財指定年月日 |
1941年(昭和16年)7月3日 |
2 |
製作年代 |
南宋時代(12~13世紀) |
2 |
製作地 |
中国・福建省 建窯 |
3 |
材質 |
陶器 |
2 |
寸法:高さ |
6.8cm |
2 |
寸法:口径 |
12.0cm |
2 |
寸法:高台径 |
3.8cm |
2 |
現所蔵者 |
公益財団法人静嘉堂(静嘉堂文庫美術館) |
1 |
曜変稲葉天目の最も顕著な美術的特徴は、その釉薬にあります。深く艶やかな漆黒の釉薬を背景として、器の内面全体に大小様々な円形の斑文が不規則に、かつ無数に散らばっています。これらの斑文は、瑠璃色を主調としながらも、青、薄紅色、白色、黄色、さらには紫色といった複雑な色彩を帯び、まるで虹のように妖艶に輝きます 1。この神秘的な輝きは、光の当たる角度や強さによって刻々とその表情を変え、あたかも碗の中に広大な宇宙が凝縮されているかのような印象を与えることから、「手のひらの宇宙」とも形容されています 1。
近代の数寄者として知られる高橋箒庵は、この稲葉天目を実見した際の感動を、「内部は星紋大小群を成して羅布し、紺瑠璃色、銀色、群青、紺碧等の色彩、紋中に散乱して、斑紋恰も豹皮の如く、光線一たび之を照せば、五彩燦爛相映發してチラチラと暈彩の変幻する、其光景如何様曜変の名目に背かず」と、その著書『大正名器鑑』の中で極めて詳細かつ情熱的に記述しており、その美しさが如何に人々を圧倒したかを伝えています 3。
この複雑で美しい虹彩は、釉薬に含まれる顔料による着色ではなく、釉薬表面あるいは釉薬内部の微細な構造によって光が干渉したり回折したりすることで発色する「構造色」であると考えられています 10 。蝶の翅や玉虫の輝きが構造色によるものであることはよく知られていますが、曜変天目の輝きも同様の原理に基づくと推測されています。そのため、十分な光のない暗がりでは、これらの斑文はほとんど目立たず、茶碗全体が黒一色に見えることもあります。しかし、ひとたび光を受けると、まるで内側から光を発するかのように、その華麗な色彩が現れるのです 10 。
そのあまりの美しさ、そして自然界の法則を超越したかのような輝きは、時に「妖しいまでの絢爛さ」 3 と評されるほどです。古の人々が、この不可思議な美しさに対して畏怖の念を抱き、その製法について「七歳の子の血を用いた」あるいは「男女の子供の血を用いた」といった、ある種おぞましい伝説まで生み出したことも、その尋常ならざる魅力の強さを物語っています 3 。
曜変稲葉天目の美が「構造色」に由来し、光の存在とその角度に大きく依存するという科学的な事実は、鑑賞体験そのものに能動的な要素をもたらします。鑑賞者は、茶碗を手に取り、様々な角度から光を当てることで、その都度異なる輝きや色彩の変化を発見し、無限とも思える美の表情に触れることができます。このようなインタラクティブな鑑賞体験は、作品への深い没入感を生み出すでしょう。また、その神秘的な輝きのメカニズムが科学的に解明されていなかった時代においては、この説明のつかない現象は、人々の想像力を大いに掻き立てたに違いありません。超自然的な力や、何か特殊な、あるいは禁忌的な材料や製法を用いたのではないかという憶測が飛び交い、それが「七歳の子の血」のような伝説を生む土壌となったと考えられます。暗闇ではただの黒い碗に過ぎないものが、光を得た瞬間に宇宙のような深遠な輝きを放つ様は、まさに魔術的とも言える劇的な変化であり、人々の心に強烈な印象と畏敬の念を刻み込んだことでしょう。
完全な形で現存する曜変天目茶碗は、世界にわずか三碗のみとされており、その全てが日本に伝来し、国宝に指定されています 2 。これらは、静嘉堂文庫美術館所蔵の「稲葉天目」、大阪の藤田美術館が所蔵するもの、そして京都の大徳寺龍光院に伝わるものです。これら三碗は、それぞれ独自の個性を持ち、曜変の美の多様性を示しています。
本報告の主題である稲葉天目は、三碗の中で最も斑紋がはっきりと、そして華やかに現れていると評されています 2 。斑紋の周囲に見られるぼかしの部分は、白っぽい黄金色のように輝き、全体の印象を絢爛なものにしています。碗の外面にも、僅かながら曜変現象が見られる箇所が存在すると報告されています 8 。作家の宮尾登美子氏は、実物を目にした際の感動を「図録とは全く違って、紅、群青、緑、黄、とさまざまな色に輝いており、思わず息を呑んだほど威風辺りを払う格があった」と記しており、写真では伝わりきらない実物の迫力と色彩の豊かさを証言しています 11 。
藤田美術館所蔵の曜変天目は、三碗の中で唯一、外面にも曜変の斑紋が明確に現れているとされる作品です 1 。見込み(内面)には、縁取られた青く輝く丸い斑紋が稠密に並び、その間を縫うようにオーロラのような青い帯状の輝きが見られるのが特徴で、夜空の星々を彷彿とさせます 1 。ある鑑賞者は、初めて実見した際に、稲葉天目と比較して「地味」という印象を抱いたものの、後に懐中電灯の光を当てて詳細に観察する中で「意外な清冽さだった。星紋は新鮮で美しく、いくら眺めても見飽かぬ魅力がある」とその評価を改めたと述べており、静謐ながらも奥深い美しさを秘めていることが窺えます 11 。
大徳寺の塔頭である龍光院に伝わる曜変天目は、三碗の中で最も「侘びた」雰囲気を有すると評されています 1 。比較的小さめの銀色の斑紋が無数に輝き、その周囲に青、紫、緑、黄色といった光彩が繊細に生じています。斑文自体は他の二碗に比べて小振りで、やや目立たない印象を与えるとされます 11 。その落ち着いた佇まいから、桃山時代の茶人たちが重んじた「冷え枯れたる」美意識と合致し、「妖艶な他のニ碗の曜変よりも評価は高かったかもしれない」という専門家の指摘もあり、当時の茶の湯の価値観の中で特に愛でられた可能性が示唆されています 11 。
上記の国宝三碗とは別に、滋賀県のMIHO MUSEUMにも曜変天目と称される茶碗(重要文化財)が所蔵されています。この茶碗は、窯変現象による独特の輝きを持つ斑紋が見込みを中心に現れ、ピンク色や緑色に発色することから、「四つ目の曜変天目」と評されることもあります 1 。しかし、その分類については専門家の間でも意見が分かれており、曜変天目とするか、あるいは油滴天目の一種と見なすかで見解が一致していません 2 。
国宝に指定されている三碗の曜変天目は、それぞれが光彩の現れ方、斑紋の大きさや形状、色彩の調子、そして碗の内外における景色の有無などにおいて明確な差異を示しています。稲葉天目が「最も華やか」 2 で「威風辺りを払う格」 11 と形容されるのに対し、龍光院のものは「一番侘びた雰囲気」 1 で「斑文は小振りで目立たない」 11 とされ、藤田美術館のものは外面にも顕著な曜変が見られる 1 という独自の個性を有しています。このような個体差は、曜変という現象の生成条件が極めて繊細であり、焼成時のわずかな環境の違いや釉薬の配合の差などが、結果として大きな視覚的差異を生むことを物語っています。この比較を通じて、稲葉天目の特徴である「華やかさ」と色彩の豊かさが、相対的にも際立っていることがより深く理解されるでしょう。それはまた、「曜変」という一つのカテゴリーの中に、多様な美の様相が存在することを示しており、それぞれの作品が独自の価値と魅力を持っていることを明らかにしています。
項目 |
稲葉天目(静嘉堂文庫美術館) |
藤田美術館蔵 |
龍光院蔵(大徳寺) |
所蔵機関 |
静嘉堂文庫美術館 |
藤田美術館 |
大徳寺 龍光院 |
斑紋の特徴 |
大小の円形斑文が鮮明。周囲に白っぽい黄金色の輝き。 |
縁取られた青く輝く丸い斑紋が密集。 |
小さめの銀色斑紋が無数に輝く。 |
光彩の色調 |
瑠璃色主調、青、薄紅、白、黄、紫など多彩で華やか。 |
青い帯状のオーロラのような輝き。 |
青、紫、緑、黄色の光彩が繊細に生じる。 |
外面の曜変 |
僅かに見られる箇所あり 8 。 |
明確に現れる(唯一) 1 。 |
通常言及されない。 |
全体の印象・特記事項 |
三碗中最も華やかで斑紋がはっきりしている。「手のひらの宇宙」。 1 |
内外に景色を持つ。夜空の星々のような印象。 1 |
三碗中最も侘びた雰囲気。「冷え枯れたる」趣。 1 |
曜変稲葉天目は、1951年(昭和26年)6月9日に、文化財保護法に基づく最初の国宝指定の一つとして選定されました 2。ちなみに、それに先立つ1941年(昭和16年)7月3日には、当時の国宝保存法の下で重要文化財(旧国宝)に指定されています 2。
文化財保護法が1950年に制定されて間もないこの時期の国宝指定は、数ある日本の文化財の中でも、その美術的価値、歴史的価値、そして学術的価値が特に傑出しており、異論の余地が少ないと判断されたことを意味します。新しい法律の下での最初の指定には、その法律の権威と意義を国民に示すため、誰もが至宝として納得するような傑作が選ばれる傾向があります。稲葉天目がこの初期段階で国宝に選ばれたという事実は、その時点で既に専門家たちの間で最高の評価が確立しており、日本の文化を代表する宝物としての地位が揺るぎないものであったことの明確な証左と言えるでしょう。
その希少性と比類なき美しさから、「茶道具界のトップスター」4とも称され、日本で最も有名な陶磁器の一つとして、その名は国内外に広く知れ渡っています。
曜変稲葉天目が日本にもたらされた正確な時期や経緯は詳らかではありませんが、一般的には、抹茶を用いた喫茶の習慣が中国から伝わった鎌倉時代前期(13世紀頃)に、他の多くの唐物(中国渡来の品物)と共に舶載されたと考えられています 3 。当時、禅宗の僧侶たちによって喫茶文化が日本に導入され、それに伴い中国製の優れた茶道具も請来されました。明庵栄西が著した『喫茶養生記』(1211年)には「茶盞」という言葉が見られ、これが天目茶碗を指すものとされています 3 。
江戸時代に入ると、この曜変天目は徳川将軍家の所蔵となります。そして、江戸幕府三代将軍・徳川家光(在職1623-1651)から、その乳母として絶大な信頼を得ていた春日局(1579-1643)に下賜されたと伝えられています 2。
この下賜にまつわる有名な逸話として、春日局が病に伏せった際、心配した家光が自らこの曜変天目を用いて薬湯を勧め、春日局に飲ませようとしたという話が語り継がれています。春日局は、家光が幼少期に虚弱であったことを憂い、その健康を願って自身は薬断ちの誓いを立てていたため、家光の心遣いに感謝しつつも、薬湯を飲むふりをして実際には捨てたとも言われています 12。この逸話の史実性については、一部で出典が不明確であるとの指摘もありますが 12、『茶の湯の茶碗』(淡交社刊)をはじめとする近年の研究書や解説書では、この徳川家光から春日局への伝来が記されており、広く受け入れられています 12。
春日局の没後、この曜変天目は彼女の血縁である稲葉家へと伝わりました。具体的には、春日局の孫にあたる稲葉美濃守正則(父・正勝が春日局より早くに亡くなったため、正則が遺産を継いだ)に譲られ、後に正則が藩主となった山城国淀藩(現在の京都府京都市伏見区淀)の稲葉家に代々受け継がれることとなります 5。この稲葉家に伝来したことが、「稲葉天目」という通称の直接の由来です 4。
春日局自身、本姓は斎藤氏(父は明智光秀の重臣・斎藤利三)ですが、母方の祖父が美濃の武将・稲葉一鉄(良通)であり、また夫は稲葉正成(後に小早川秀秋の家老、その後徳川家康に仕える)であるなど、稲葉家とは極めて深い縁戚関係にありました 14。この縁が、曜変天目が稲葉家にもたらされる背景の一つとなったと考えられます。
明治維新を経て大名家が解体された後も、稲葉天目は淀稲葉家に秘蔵されていましたが、やがて同家を離れ、横浜の貿易商であった小野哲郎氏の所蔵となりました 2。小野氏は稲葉家の姻戚であった可能性も指摘されており、何らかの縁故を通じて譲渡されたものと推測されます 12。
特筆すべきは、大正7年(1918年)3月に東京美術倶楽部で行われた稲葉家の売立て(入札会)です。この時、稲葉天目は出品され、関西の道具商たちが共同で高値を提示する中、東京の道具商・中村作次郎がそれを上回る16万8千円という、当時の茶道具取引としては空前の価格で落札しました。この出来事は新聞にも報じられ、大きな話題となりました 3。その後、この茶碗は中村作次郎から小野哲郎氏の手に渡ったとされています。
そして昭和9年(1934年)、この稲葉天目は、三菱財閥の四代目総帥であり、美術品収集家としても知られた岩崎小彌太(1879-1945)が入手するところとなりました 3。
岩崎小彌太は、この比類なき名品である稲葉天目を深く愛蔵しましたが、同時にこれほどの宝物を一個人が私有することの重みを深く認識していたと言われています。そのため、入手後は一度も茶会などで使用することなく、大切に保管したと伝えられています 3 。小彌太は、父・彌之助と共に収集した東洋の古典籍や美術品を広く公開し、研究に資するために、1940年に財団法人静嘉堂文庫を設立しました。小彌太の没後、その遺志に基づき、稲葉天目を含む岩崎家所蔵の多くの美術品が同財団に寄贈され、現在は静嘉堂文庫美術館の至宝として大切に保管・展示されています 3 。
曜変稲葉天目の徳川将軍家以前、すなわち日本に舶載されてから徳川家の手に渡るまでの具体的な伝来の経緯については、残念ながら明確な記録がなく、不明とされています 12。
興味深いことに、稲葉家にはこの曜変天目(稲葉天目)の他にも、美濃の戦国武将・稲葉一鉄(春日局の母方の祖父)ゆかりとされる唐物大海茶入「稲葉大海」(現・五島美術館蔵)が伝来していました 14。また、岩崎家は、小彌太の父である岩崎彌之助の代にも、同じく稲葉家から伝来したとされる唐物瓢箪茶入「稲葉瓢簞」を入手しています 16。このように、奇しくも稲葉家ゆかりの複数の名高い茶道具が、時代を経て岩崎家のコレクションに集ったという事実は、両家の美術品収集における縁の深さを示唆していると言えるでしょう。
曜変稲葉天目の伝来の歴史を概観すると、徳川将軍家という最高の権威、春日局という政治的影響力と個人的物語性を併せ持つ女性、淀藩稲葉家という有力大名家、そして近代の大財閥である岩崎家という、各時代の日本の歴史、権力構造、そして文化のパトロンシップを象徴するような人々や組織の手を経ていることがわかります。このような「名門」を渡り歩いたという事実は、それ自体が茶碗の「格」を証明し、さらに高めていく効果を持っています。特に、春日局という歴史上の著名な女性が介在する薬湯の逸話は、その真偽は別として、国宝という高貴な存在に人間的な温かみや物語性を付与し、作品への親近感と神秘性を同時に高める役割を果たしてきました。1918年の売立てにおける記録的な高額落札は、近代の美術市場においてもその価値が既に最高レベルで確立していたことを示しており、その後の岩崎小彌太による入手と、それを私せずに公共の財産として後世に遺そうとした姿勢は、文化財に対する社会的な意識の高まりを反映しているとも言えるでしょう。これらの要素が複合的に作用し、曜変稲葉天目の単なる美術品としての価値を超えた、文化的なアイコンとしての地位を形成し、強化してきたと考えられます。
年代(時代) |
主な所有者/関連する出来事 |
出典例 |
南宋時代(12~13世紀) |
中国・福建省 建窯にて製作 |
2 |
鎌倉時代前期(13世紀頃) |
日本へ舶載か |
3 |
江戸時代初期 |
徳川将軍家所蔵 |
12 |
江戸時代初期(寛永年間頃か) |
徳川家光より春日局へ下賜 |
2 |
江戸時代 |
春日局より孫の稲葉正則を経て、淀藩主稲葉家へ伝来 |
5 |
明治~大正時代 |
稲葉家より小野哲郎氏へ |
2 |
1918年(大正7年)3月 |
稲葉家売立てにて中村作次郎が16万8千円で落札、その後小野哲郎氏へ |
3 |
1934年(昭和9年) |
岩崎小彌太が入手 |
3 |
1940年(昭和15年) |
財団法人静嘉堂文庫設立 |
(背景情報) |
1941年(昭和16年)7月3日 |
重要文化財(旧国宝)に指定 |
2 |
1945年(昭和20年) |
岩崎小彌太没 |
(背景情報) |
岩崎小彌太没後 |
静嘉堂文庫に寄贈 |
3 |
1951年(昭和26年)6月9日 |
国宝に指定 |
2 |
1992年(平成4年) |
静嘉堂文庫美術館開館 |
(背景情報) |
2022年(令和4年) |
静嘉堂文庫美術館が丸の内に移転 |
9 |
国宝「曜変稲葉天目」には、その高い格式と大切に扱われてきた歴史を物語るように、複数の箱や仕覆(しふく、茶碗を保護し装飾するための袋)が付属しています 8 。これらの付属品は、茶碗本体の価値をさらに高めるとともに、それ自体が美術工芸品としての価値を持つ場合もあります。
具体的には、まず茶碗を直接納める内箱は黒漆塗りで、その蓋の表には、この茶碗の最大の特徴である「曜変」の輝きを象徴するかのように、蒔絵と螺鈿(らでん)細工によって「耀変」の二文字が美しく記されています。この内箱をさらに保護する外箱は、調湿性に優れた桐材で作られています 8 。
仕覆も新旧二つが伝わっており、古い方の仕覆は豪華な金襴(きんらん)地で、緒(お、袋の口を締める紐)は緋色(ひいろ)です。新しい方の仕覆も同じく金襴地ですが、白地を基調とし、緒は青色とされています 8 。これらの仕覆は、茶碗を物理的に保護するだけでなく、茶会などで取り出す際の視覚的な演出効果も担っています。
さらに、これらの箱と、天目茶碗を載せて鑑賞したり喫茶に用いたりするための天目台(てんもくだい)を納めるための箱も別に存在し、それらを全て収納するための、より大きな内外の箱(内箱は春慶塗、外箱は漆塗)も備わっていると記録されています 8 。このように何重にも箱が作られていることは、この茶碗がいかに貴重な宝物として扱われ、厳重に保管されてきたかを如実に示しています。
静嘉堂文庫美術館では、2025年4月から開催が予定されている特別展「黒の奇跡・曜変天目の秘密」において、通常はなかなか見ることができない曜変稲葉天目の高台内部(高台裏)まで鑑賞できるように展示方法を工夫する予定であると発表されています 4 。これは付属品そのものではありませんが、作品の細部をより深く理解する貴重な機会として注目されます。
このような多重の箱構造、蒔絵や螺鈿、金襴といった贅沢な素材の使用、そして「耀変」という品名を明確に記した箱書は、この茶碗が単なる日常の道具ではなく、極めて貴重な宝物として代々の所有者によって厳重に保護され、その価値が明確に認識され、かつ後世に伝えられてきたことを物理的に示しています。付属品の一つ一つが、この茶碗の歴史と格の高さを物語る証人であり、日本の古美術品がどのように保存・伝承されてきたかを示す好例と言えるでしょう。
曜変天目の正確な製作技法は、南宋時代以降途絶えてしまったとされ、文献にも具体的な記述が残されていないため、未だ多くの謎に包まれています。その神秘的な美しさに魅了された数多くの現代の陶芸家や研究者が、失われた技法を解明し、その輝きを自らの手で再現しようと長年にわたり挑戦を続けています 9 。しかし、その再現は極めて困難であり、完全な成功例は未だ報告されておらず、そのことから「幻の名器」とも呼ばれています 17 。
愛知県瀬戸市の陶芸家、九代長江惣吉氏は、父である八代長江惣吉氏の研究を引き継ぎ、親子二代にわたって曜変天目の再現に情熱を注いでいます。氏は、曜変天目が焼かれた中国福建省の建窯の窯跡へ50回以上も足を運び、現地での調査を徹底的に行いました。その過程で、窯周辺で採れる蛍石という鉱物が、焼成中に酸性ガスを発生させ、釉薬の光彩(曜変)の発現に重要な役割を果たすのではないかという仮説を立てました 20 。さらに、建窯から天目茶碗の原料となる粘土や釉石を大量に日本へ運び込み、それらを用いて焼成実験を繰り返しています 20 。長江氏は、学術的な「再現」研究と、その知見を応用した自身の創作「曜々盞(ようようさん)」や「星曜盞(せいようさん)」とを明確に区別し、国内外の学会で研究成果を発表するなど、研究者としても活動しています 20 。
京都の陶芸家、土渕善亜貴(陶あん)氏もまた、曜変天目の再現に精力的に取り組んでいます。氏は、既存の電気窯やガス窯では曜変を生み出すのに必要な高温や微妙な焼成コントロールが難しいと判断し、ガス窯と電気窯を組み合わせた特注のハイブリッド窯を新たに3台開発しました 24 。曜変天目の特徴である瑠璃色の光彩を出すために、釉薬の調合や施釉方法、焼成温度や時間を細かく調整し、一年間に500回から600回もの窯焼きを行うなど、膨大な試行錯誤を重ねていると語っています 24 。
教育機関においても、曜変天目の再現に関する研究が行われています。福島県立会津工業高等学校セラミック化学科では、「曜変へと至る技法の模索」と題した研究報告がなされており、特に「青色」の発色を強めることと、釉薬の「流れ落ちる」模様の再現に重点を置いています。具体的には、基礎釉薬として福島長石、石灰石、マグネサイトを配合し、これに着色剤として酸化第二鉄などを、発色剤として酸化コバルト、酸化クロム、そして結晶の核として酸化チタンを加えています。焼成条件としては、ピーク温度を1250∘Cとする酸化焼成を行い、結晶核の生成と成長を促すために、昇温過程や冷却過程の特定の温度帯で一定時間温度を保持する「ねらし」の工程を設けるなどの工夫を凝らしています 17 。
これらの再現に向けた多様なアプローチ、例えば長江氏の現地原料への徹底したこだわり 20 、土渕氏の窯の改良 24 、そして会津工業高校の科学的データに基づいた焼成管理 17 などは、曜変天目の美が単なる偶然の産物ではなく、極めて特殊で限定された条件下でのみ成立する、非常に微妙なバランスの上に成り立っていることを強く示唆しています。再現の試みがこれほどまでに困難を極めるという事実は、オリジナルの製作者である南宋時代の陶工が、果たして意図してこの複雑な美しさを設計し制御し得たのか、それとも経験則と数えきれない試行錯誤の末に奇跡的な偶然によって到達したのか、という根源的な問いを私たちに投げかけ続けています。
曜変天目の特徴的な色彩は、主に瑠璃色、濃い瑠璃色、黄色、そして白色の4色で構成されており、鮮やかな赤色や緑色は通常存在しないとされています 10。
その神秘的な模様は、高温で溶けた釉薬が冷却過程で流動する際に形成された線条紋(兎毫紋)であり、その線状の模様の周囲に、鉄分を主成分とする微細な玉状の結晶が付着し、立体的に見えると分析されています 10。この現象は、釉薬の成分が高温で一度溶け合った後、冷却に伴って特定の成分が分離・結晶化する「分相ー析晶釉」と呼ばれるメカニズムによるものと考えられています 10。
曜変天目の虹のような光彩がどのようにして生まれるのかについては、長年議論が続いてきましたが、近年の科学技術の進歩により、そのメカニズムに迫る研究が進んでいます。理化学研究所などの研究グループは、国宝の油滴天目茶碗(曜変天目と同様に光彩を持つ天目茶碗の一種)を対象とした研究を通じて、新たな光彩発生メカニズムの仮説を提唱しています。それによると、釉薬の表面に形成されたナノメートルオーダー(1ミリメートルの百万分の1)の周期的なシワ構造(例えば周期600~800ナノメートル、あるいは900ナノメートル)と、その下層にあるとされる金属鉄の薄膜からなる反射層が、一種の「2次元回折格子」として機能し、入射した光がこの微細構造によって回折されることで、特定の波長の光が強調され、青紫色を主とする鮮やかな光彩が生じるというものです 25 。この回折格子説は、従来主流であった、シャボン玉の虹色と同じ原理である薄膜干渉説だけでは説明が難しかった曜変天目特有の複雑な光彩現象を、より包括的に説明できる可能性があるとして注目されています。
曜変の輝きの秘密が、単に釉薬の化学組成の問題だけでなく、ナノメートルという極めて微細なスケールでの表面構造(シワ)と層構造(金属鉄膜の存在の可能性)に起因する物理現象(光の回折)であるという可能性が示されたことは、曜変天目の研究を新たな次元へと進めるものです。この知見は、再現へのアプローチにおいても、単に古文献に記された可能性のある原料や想定される焼成温度を模倣するだけでなく、釉薬が溶融し固化する過程における表面張力や冷却速度、焼成雰囲気などを精密に制御し、結果として形成される釉薬表面のミクロなテクスチャ(肌合いや微細構造)をいかにして作り出すかという、より高度な技術的視点が必要であることを示唆しています。今後、さらに高分解能な電子顕微鏡を用いた構造解析や、光学シミュレーションなどを活用した研究が進むことで、この神秘的な輝きの謎がより一層明らかになることが期待されます。
曜変天目は、室町時代以降の日本の茶の湯文化において、中国から渡来した唐物茶碗の中でも最高峰に位置づけられ、極めて高く評価されてきました。足利将軍家の美術コレクションの指南書とも言える『君台観左右帳記』には、「曜変、天下に稀なる物なり、建盞の内の上々也」と明確に記されており、当時既に最高の格付けが与えられていたことがわかります 3。
その比類なき華麗な美しさは、茶会の格式を高め、主人の権威や美意識を象徴する道具として珍重され、特に時の権力者や大名たちの間で垂涎の的となりました 27。稲葉天目が徳川将軍家から春日局、そして淀藩稲葉家へと伝来した歴史は、まさにその象徴と言えるでしょう。
一方で、茶道文化の変遷の中で、特に桃山時代に千利休らによって大成された「わび茶」の精神が重視されるようになると、華美な唐物よりも簡素で静寂な趣を持つ道具が好まれる傾向も現れました。その文脈において、大徳寺龍光院所蔵の曜変天目に見られるような、比較的落ち着いた「侘びた」趣のものは、わび茶の精神性と響き合い、異なる側面から高く評価された可能性も指摘されています 1。稲葉天目の持つ絢爛豪華な美しさは、わび茶の美意識とは一線を画すかもしれませんが、書院での格式高い喫茶や、大名同士の饗応といった、よりフォーマルで華やかな場においては、その存在感を遺憾なく発揮したと考えられます。
このように、曜変稲葉天目をはじめとする曜変天目は、日本の茶道文化において、日常の「ケ」の美意識である「わび・さび」とは対極に位置づけられる、非日常の「ハレ」の空間を演出し、その場を荘厳にするための最高級の道具として機能したと考えることができます。これは、茶道文化が持つ美意識の幅広さと、茶道具が単なる喫茶の用具としてだけでなく、社会的ステータスや権威を示すための象徴物としての側面も有していたことを浮き彫りにしています。
中国陶磁の最高傑作の一つとして日本に舶載された曜変天目は、その後の日本の美術、特に陶芸分野に大きな影響を与えました。その高度な技術と比類なき美しさは、日本の陶工たちにとって大きな目標となり、技術的な刺激を与え、国産の天目茶碗(いわゆる国焼天目)の生産を促す一因となったと考えられます 27。
また、曜変天目の釉薬に見られる窯変による偶然が生み出す美、自然の力が作用して予測不可能な模様が現れるその魅力は、日本の伝統的な美意識である「侘び寂び」の精神とも深く共鳴したと言えるでしょう。不完全さや非対称性、そして移ろいゆくものの中に美を見出すという日本的な美意識の形成にも、少なからず影響を与えた可能性があります 27。
そして何よりも、製作技法が失われたとされるこの幻の天目茶碗を、現代に至るまで数多くの陶芸家がその再現に情熱を燃やし続けているという事実自体が、日本美術史におけるその影響力の絶大さと、時代を超えて人々を惹きつけてやまない普遍的な美の力を物語っています 18。
曜変天目は、中世における日本と中国の間の活発な文化交流を象徴する、極めて重要な文物のひとつです。鎌倉時代から室町時代にかけて、禅宗の伝播や喫茶文化の隆盛と共に、多くの優れた中国の美術工芸品が日本にもたらされましたが、その中でも曜変天目は最高級品として位置づけられ、珍重されました 3。
特筆すべきは、これらの曜変天目の製作国である中国では、残念ながら完全な形での伝世品は今日まで確認されておらず(近年、浙江省杭州の南宋時代の宮殿跡とみられる場所から曜変天目の陶片が発見されたという報告はありますが 4)、現存する国宝三碗がすべて日本に存在するという事実です 2。これは、日本がこれらの貴重な文化財を戦乱や災害から守り抜き、大切に後世へと伝えてきた努力の賜物であり、日本の文化受容のあり方を示すものと言えます。
曜変天目の伝世の歴史は、日本が外来の文化を単に受動的に受容するだけでなく、独自の価値観と審美眼に基づいてそれらを選択・評価し、時にはその文化を生み出した本国以上にそれを深く理解し、大切に保存し後世に伝え守るという、文化史的にも重要な役割を果たしてきたことを示す顕著な事例です。中国本土では、宋代以降の喫茶方法の変化 30 や度重なる社会変動などにより、建窯で焼かれた建盞、特に曜変のような特殊で希少なものは散逸してしまったか、あるいは当初から極めて数が少なかった可能性があります。一方、日本では鎌倉時代以降、禅宗文化と結びついて喫茶の習慣が社会に深く定着し、特に武家社会を中心に唐物名物が権威の象徴として珍重されました。このような歴史的背景のもと、日本の茶の湯文化という独特の文脈の中で、曜変天目は美術品としての価値を最大限に高められ、最高の評価を受け、結果として今日まで大切に伝えられてきました。この過程は、日本が中国文化の精華を保存する「文化の宝庫」としての役割を担った側面と、同時に、独自の審美眼によってその普遍的な価値を再発見し、世界に冠たる美術品としてその地位を確立した側面の両方を示していると言えるでしょう。
曜変稲葉天目は、その比類なき美術的価値、徳川将軍家という日本の歴史における最高権威から始まる由緒ある伝来の物語、そして未だ完全に解明されるには至らない製作技法の深い謎によって、時代を超えて多くの人々を魅了し続ける、まさに日本の至宝と呼ぶにふさわしい存在です。
漆黒の釉薬の深淵に、あたかも星々がきらめく夜空や、あるいは広大な銀河を凝縮したかのように浮かび上がる幽玄な虹彩の斑紋は、遠く南宋時代の中国の無名の陶工が、おそらくは意図せぬ偶然と、しかし並々ならぬ技術の研鑽の末に生み出した奇跡の造形と言えるでしょう。そして、その奇跡的な美しさをいち早く見出し、幾多の戦乱や社会の変革を乗り越えて大切に守り伝え、今日にその輝きを遺した日本の文化の深さと、美術品に対する高い見識を示すものでもあります。
現代科学の粋を集めた分析や、多くの陶芸家たちによる再現への飽くなき情熱は、この茶碗がまとう神秘性を決して損なうものではありません。むしろ、その謎に迫ろうとする探求の過程そのものが、私たちがこの作品の奥深さをより一層理解し、その価値を再認識する機会を与えてくれていると言えます。
曜変稲葉天目は、単に美しい古美術品であるに留まらず、中世における日中両国の文化交流がもたらした輝かしい成果の一つであり、人類共通の文化遺産として、その重要性は今後ますます高まることでしょう。その美と謎が未来永劫にわたり語り継がれ、大切に研究・保存され、多くの人々に感動を与え続けていくことを願ってやみません。