本報告書は、日本の戦国時代に制作・享受された水墨画「瀟湘八景図」について、その起源、日本への伝播、主要な絵師と作例、文化的意義、図像解釈、そして日本独自の展開を詳細かつ徹底的に調査し、分析することを目的とします。具体的には、まず「瀟湘八景」という画題が中国でどのように成立し、日本へともたらされたのか、その初期受容の様相を概観します。続いて、戦国時代にこの画題を手がけた主要な絵師とその代表的な作例を挙げ、それぞれの様式的特徴や美術史上の位置づけを考察します。さらに、戦国時代の武家社会や茶の湯文化、書院造の室内装飾、禅林における受容といった文化的背景の中で、「瀟湘八景図」がどのような役割を果たし、いかなる意味を担っていたのかを多角的に検証します。最後に、各景の図像解釈や、日本における「八景」という形式の変容と定着について論じ、戦国時代の「瀟湘八景図」が持つ歴史的・美術史的価値を総括し、今後の研究課題を展望します。
戦国時代は、政治的・社会的な大変革期であったと同時に、文化的には室町時代からの伝統を継承しつつ、新たな展開を見せた時代です。この時代、中国由来の画題である「瀟湘八景図」は、水墨画の重要なテーマとして引き続き制作され、鑑賞されました。この画題が、動乱の世を生きた戦国武将や禅僧、茶人たちにどのように受け入れられ、彼らの精神性や美意識とどのように関わっていたのかを明らかにすることは、単に一画題の変遷を追うに留まらず、戦国時代の文化史、美術史、さらには思想史を深く理解する上で極めて重要な意義を持ちます。足利将軍家によって確立された室町文化が変容を迫られる中で、「瀟湘八景図」という古典的主題が、新たなパトロンや価値観のもとでどのように解釈され、表現されたのかを探ることは、中世から近世への移行期における日本文化のダイナミズムを捉えることにも繋がります。また、現存する作例や文献資料を丹念に調査・分析することで、これまで必ずしも十分に光が当てられてこなかった戦国期の水墨画の様相を具体的に描き出し、日本美術史におけるこの時代の位置づけを再検討する一助となることも期待されます。
「瀟湘八景」とは、中国・湖南省の洞庭湖(どうていこ)周辺、瀟水(しょうすい)と湘水(しょうすい)という二つの河川が合流する辺りの八つの優れた景観を描いた伝統的な山水画の画題です 1 。この画題は、北宋時代(960年-1127年)の高級官僚であった宋迪(そうてき)が、この地に赴任した際に初めて描いたとされています 2 。具体的に「瀟湘八景」として挙げられるのは、「瀟湘夜雨(しょうしょうやう)」、「平沙落雁(へいさらくがん)」、「煙寺晩鐘(えんじばんしょう)」、「山市晴嵐(さんしせいらん)」、「江天暮雪(こうてんぼせつ)」、「漁村夕照(ぎょそんせきしょう)」、「洞庭秋月(どうていしゅうげつ)」、そして「遠浦帰帆(えんぽきはん)」の八つの景観です 2 。これらは、特定の場所の風景であると同時に、時間、季節、気象といった要素と結びついた情景を描き出すものです。
しかしながら、この伝統的な「瀟湘」の地理的解釈に対して、大阪大学の研究論文 3 は重要な再検討を加えています。この研究によれば、瀟水と湘水は洞庭湖で直接合流しているわけではなく、瀟水は湘江の支流の一つに過ぎないことが指摘されています。さらに、「瀟」という漢字が、名詞として河川名を指す場合だけでなく、形容詞として「清らかなそして深い」という意味を持つことにも着目し、『山海経』や『水経註』といった古い文献の記述を根拠に、「瀟湘」の本来の意味を二つの河川の合流点としてではなく、「清らかな湘江」と捉えるべきであり、「瀟湘八景」の範囲も現在の湖南省を南から北へ流れる湘江全流域として解釈すべきであると提唱しています。この再定義は、従来の通説に一石を投じるものであり、「瀟湘八景図」の理解に新たな視点を提供するものです。
さらに注目すべきは、同論文 3 が指摘する、瀟湘地域に関する中国の文学的伝統の存在です。この伝統は大きく二つのタイプに分類されています。一つは、堯の二人の娘、娥皇と女英が夫である舜の死を悲しみ、湘江に身を投げて女神(湘妃、湘夫人)となったという悲劇的な神話に由来する「離愁別恨」(Aタイプ)の伝統です。これは、閨怨、別離、悼亡といったテーマの詩文にしばしば登場します。もう一つは、戦国時代の楚の官僚であった屈原が、無実の罪で瀟湘地域に流され、最終的に汨羅江(べきらこう)に身を投げたという物語に由来する「貶謫帰隠(へんたくきいん)」(Bタイプ)の伝統です。屈原の作品やその人生は瀟湘文学の重要なテーマとなり、「瀟湘」という言葉に「左遷」「追放」「帰隠」といったニュアンスが付与されるようになりました。
画題成立以前の文学的・図像的土壌の深さ
「瀟湘八景」という画題が宋迪によって確立される以前から、瀟湘地域が詩文に盛んに詠まれ、絵画の主題ともなっていたという事実は、この画題が単なる名所の選定に留まらず、中国文化における長年にわたる詩的・図像的イメージの蓄積の上に成り立っていることを強く示唆しています 3。例えば、杜甫(712年-770年)の詩「奉先劉少府新画山水障歌」には、夕暮れの水面に漁父が乗る小船や水辺の竹林が描かれた瀟湘を題材とした障子絵の存在が詠まれており、視覚芸術としての瀟湘イメージが唐代には既に存在していたことを裏付けています 3。五代の董源による「瀟湘図」が現存最古の瀟湘を描いた作品とされることも、この画題の淵源の古さを示しています 3。
このような文学的・図像的な伝統の深層には、瀟湘地域が持つ「離愁別恨」や「貶謫帰隠」といった詩的な意味合いが横たわっています。これらの情念は、後の「瀟湘八景図」が単なる美しい風景画としてだけでなく、観る者の内面や精神性に深く訴えかける力を持ち得た重要な要因の一つと考えられます。風景に託された感情や思想、あるいは文学的な物語性が、画題としての魅力を高め、知識人層の心を捉えたのではないでしょうか。宋迪による「瀟湘八景」の選定は、全くの新規創出というよりも、むしろ既存の豊かな文化的・図像的伝統を整理・集約し、特定の八つの景観として結晶化させたものと理解することができます。この文化的土壌の深さこそが、「瀟湘八景図」が後世に大きな影響力を持ち、遠く日本にまで伝播し、深く受容される素地となったと言えるでしょう。単に風光明媚な景色というだけでなく、そこに込められた文学的、思想的な含意が、国境や時代を超えて人々の関心を惹きつけたと推察されるのです。
「瀟湘八景」の画題が日本に伝来したのは、一般的には13世紀頃、鎌倉時代に禅僧によってもたらされたとされています 4 。しかしながら、近年の研究、特に大阪大学の論文 3 や、他の学術資料 3 は、この画題が本格的に受容される室町時代よりもかなり早い時期、すなわち平安時代には既に瀟湘地域に対する文化的イメージが日本に伝来し、絵画化されていた可能性が高いことを示唆しています。
特に注目すべきは、前述の大阪大学の論文 3 が明らかにした平安時代における瀟湘イメージの受容実態です。同論文は、平安時代の漢詩文を中心とした文献調査に基づき、中国における瀟湘地域の文学的伝統、すなわち湘妃伝説に由来する「閨怨」(Aタイプ)や、屈原の故事に由来する「謫居・帰隠」(Bタイプ)といったテーマが、日本の宮廷貴族の間でも共有され、彼らの作る詩文に盛んに詠まれていたことを具体的に明らかにしています。例えば、嵯峨天皇の漢詩「洞庭葉落秋已晩」は、帰らぬ人を待つ女性の悲しみを秋の洞庭湖の情景に重ねており、中国の「湘夫人」の詩的伝統が日本でも理解されていたことを示しています。また、菅原道真の「敍意一百韻」には、自らの不遇を屈原に重ね合わせる表現が見られ、政治的失意の感情が瀟湘のイメージと結びつけて詠まれています。
さらに同論文は、これらの詩文が絵画の主題となった可能性を、「漁父詞屏風(ぎょふしびょうぶ)」、「坤元録屏風(こんげんろくびょうぶ)」、「和漢抄屏風(わかんしょうびょうぶ)」といった具体的な作例(現存はしないものの文献記録に残るもの)を挙げて検討しています。例えば、菅原道真が9世紀末に著した「漁父詞」は屏風絵の題詩であり、その内容から、よもぎが茂る水辺に孤舟と月夜が描かれた唐絵の山水屏風画の存在が推測され、これは後の瀟湘八景にも通じるモチーフを含んでいます。また、『古今著聞集』などに記される坤元録屏風は、中国の地理書に基づいて中国の名所を描いたものであり、『江談抄』によれば洞庭湖の景色を詠んだ詩が記されていたことから、瀟湘地域が描かれていた蓋然性が高いとされています。これらの分析は、中世における「瀟湘八景図」の流行に先立ち、平安時代において既にその文化的な基盤が形成されていたことを強く示唆するものです。
日本における「瀟湘」イメージの重層的受容
平安時代に「瀟湘」が「閨怨」や「謫居・帰隠」といった特定の文学的テーマと深く結びついて受容されていたという事実は、後の室町時代以降に禅宗文化の中で水墨画としての「瀟湘八景図」が本格的に受容される際に、それが単なる目新しい中国の風景画としてではなく、より深い精神性や文学的な含意を伴って理解される素地が日本側に既に存在していたことを示唆しています。
平安貴族が漢詩文を通じて中国の古典文化を熱心に摂取する中で、瀟湘の詩情に触れ、それを自らの作品にも反映させていたことは、鎌倉時代から室町時代にかけて禅僧たちが水墨画としての「瀟湘八景図」を請来した際に、それが日本の知識人社会に比較的スムーズに受け入れられる一因となった可能性があります。つまり、全く未知の画題としてではなく、既存の知識やイメージの枠組み、いわば「予備知識」とでも言うべき文化的素地があったからこそ、新しい画題も定着しやすかったのではないでしょうか。日本人が「瀟湘八景図」という具体的な画題に接する以前から、「瀟湘」という地域名やそれに関連する情景に対して、一定の詩的・文学的イメージを抱いていたことは、その後の受容のあり方に大きな影響を与えたと考えられます。この「予備知識」の存在が、室町時代以降の「瀟湘八景図」の本格的な受容と、さらにはその後の日本独自の展開、例えば日本各地の景勝地を「八景」として選び出す文化の創出などを促したと推測されます。単に目新しい中国の画題としてではなく、既に親しみのある文学的イメージと重ね合わせながら、あるいはそれを下敷きにしながら受容されたことで、「瀟湘八景図」は日本文化の中に深く根を下ろすことができたと言えるでしょう。
室町時代は、足利将軍家による手厚い庇護のもと、禅宗文化が社会の各層、特に武家社会や知識人層に深く浸透し、隆盛を極めた時代です 5 。この禅宗文化の興隆と軌を一にして、水墨画もまた飛躍的な発展を遂げました。中国からもたらされた水墨画は、当初は禅宗寺院を中心に受容されましたが、次第に禅の精神性を表現するのに最も適した絵画形式と見なされるようになり、如拙、周文、雪舟といった優れた画僧を輩出しました 5 。
このような文化的背景の中で、「瀟湘八景図」は、禅の精神性と高い親和性を持つ画題として、特に禅僧を中心に盛んに制作され、鑑賞されました 4 。この画題が描き出す、霧や雨にかすむ山水、静寂に包まれた自然、あるいは広漠とした水景といった幽玄な雰囲気は、禅が追求する内省的な精神世界や、万物の中に仏性を見出そうとする思想と深く共鳴したと考えられます。 4 では、「瀟湘八景」が禅宗文化に受け入れられたことで大きな影響力を持ったと明確に指摘されています。
禅宗の精神性と「瀟湘八景図」の親和性
「瀟湘八景図」が特に禅林において好まれた背景には、単に描かれた風景の美しさだけではなく、画題そのものが内包する無常観や、自然と一体化し、自己を超越しようとする禅の境地を暗示する要素があったと考えられます。例えば、「煙寺晩鐘」の景は、夕靄の中に響く鐘の音を通じて、万物流転の真理や、世俗を離れた静寂を想起させます。また、「瀟湘夜雨」の景は、もの寂しい夜雨の情景の中に、自己の内面と向き合う内省的な時間を示唆していると解釈できます。さらに、「平沙落雁」の景に見られる広々とした砂州とそこに舞い降りる雁の姿は、一切の執着から離れた自由な境地や、自然の摂理への帰依といった禅的なテーマと結びつきやすい要素を含んでいます。
水墨画という技法自体が、余白を重視し、墨の濃淡という限られた要素で万物の本質を表現しようとする点で、華美を排し簡素を尊ぶ禅の精神性と深く通底しています。禅僧たちは、自らの修行の過程や悟りの境地を、この「瀟湘八景図」という画題に投影し、あるいはそれを観想の対象としました。さらに、絵画に詩文を添える「画賛」という形式を通じて、その解釈を深め、禅的な思想や哲学を表現する媒体としての役割も「瀟湘八景図」に与えました。これにより、「瀟湘八景図」は単なる風景画を超え、禅の教えや精神性を語るための重要な文化的装置となったのです。この深い精神的結びつきこそが、室町時代以降、戦国時代に至るまで「瀟湘八景図」が広く流行し、多くの優れた作品が生み出された根源的な理由の一つと言えるでしょう。
戦国時代(1467年頃 - 1600年頃)は、室町時代からの水墨画の伝統を継承しつつも、社会の変動に伴い新たなパトロン層の出現や価値観の多様化が見られ、絵画制作においても新しい動向が生まれた時期です。この時代に活躍した主要な絵師たちも「瀟湘八景図」を重要な画題として取り上げ、それぞれに特色ある作品を残しました。
室町幕府の足利将軍家に仕えた同朋衆(どうぼうしゅう)の中でも、芸事に秀でた阿弥派の絵師たちは、唐物(からもの)と呼ばれる中国渡来の美術品の鑑定や管理、座敷飾りなどを担当し、室町水墨画の様式形成に大きな影響を与えました。特に能阿弥(のうあみ、1397年-1471年)とその子または孫とされる相阿弥(そうあみ、?-1525年)は、「瀟湘八景図」の受容と展開において重要な役割を果たしました。
能阿弥筆「瀟湘八景図巻」とその影響
能阿弥は、相国寺の画僧であった周文(しゅうぶん)に水墨画を学んだと伝えられています 6 。彼の作とされる「瀟湘八景図巻」は、応仁2年(1468年)に雪舟の師ともされる松雪全果(しょうせつぜんか)が明に渡った際に携えられ、明の文人たちによる題詩が付されたという記録が残っています 6 。この事実は、能阿弥の「瀟湘八景図」が当時高く評価され、日中文化交流の一翼を担うほどの作品であったことを示しています。残念ながらこの図巻の現存は確認されていませんが、その存在は能阿弥がこの画題に深く関わっていたことを物語っています。
また、能阿弥は足利義政に仕え、「東山御物(ひがしやまごもつ)」と呼ばれる将軍家コレクションの管理や鑑定にも深く関与しました。その中で特筆すべきは、中国・南宋時代の画家、玉澗(ぎょくかん)の筆とされる「瀟湘八景図巻」を、義政の命により八幅の掛軸に改装したという記録です 7 。この改装作業は、中国由来の長大な巻物を、日本の書院造の床の間などで鑑賞しやすい掛軸形式へと変化させるものであり、鑑賞形態の日本化を促した点で重要です。この時用いられた表装裂は「東山梨(ひがしやまぎれ)」と呼ばれ、義政時代の特徴的な表具として知られています 7 。現在、京都国立博物館や出光美術館、個人蔵などに分蔵される伝牧谿(もっけい)または玉澗筆の「瀟湘八景図」の断簡(例えば「遠浦帰帆図」 8 など)は、元々一つの巻物であったものが、この時に改装されたものの一部と考えられています。
相阿弥筆「瀟湘八景図」(大徳寺大仙院蔵)の様式と評価
相阿弥は、能阿弥の画業を継ぎ、同じく足利将軍家の同朋衆として活躍しました。彼の代表作として名高いのが、京都・大徳寺大仙院の方丈(重要文化財)の襖絵として描かれた「瀟湘八景図」です 9 。この襖絵は、現在は保存のために掛軸に改装されていますが 10 、室町時代水墨画の最高傑作の一つとして、また現存する数少ない相阿弥の基準作として極めて重要です。
この大仙院の「瀟湘八景図」は、永正10年(1513年)頃、相阿弥が50歳代後半の円熟期に制作されたと推定されています 10 。16幅からなる壮大な画面には、陰陽五行説に基づいて春夏秋冬の四季と八つの景観が巧みに対応させて配置されています 10 。例えば、東側の夏にあたる4面の襖には、「山市晴嵐」「瀟湘夜雨」「遠浦帰帆」「漁村夕照」が描かれています 10 。技法的には、南宋の画僧・牧谿の湿潤な大気を表現する水墨技法を意識しつつも、モチーフはより単純化され、平面的に描かれているのが特徴です 10 。また、やまと絵に通じるような柔軟で流麗な行体の描線や、米法山水(べいほうさんすい)と呼ばれる点描技法も用いられ、中国的な主題でありながら日本の自然観や日本人の感覚に馴染むような、独自の様式が生み出されています 10 。
学習院大学人文科学論集に掲載された研究 14 では、相阿弥の様式について詳細な分析がなされています。それによれば、相阿弥の画風は、特定の先行画家の様式を忠実に模倣する「筆様制作」の段階から、牧谿、玉澗、さらには夏珪(かけい)といった宋元画の巨匠たちの図様や技法を巧みに取り込み、それらを再構成することで自己の独自の様式を確立する段階へと進んだものと評価されています。具体的には、大仙院の「瀟湘八景図」では牧谿や玉澗の図様が比較的直接的に引用されているのに対し、メトロポリタン美術館所蔵の相阿弥筆「四季山水図屛風」では、それらの要素がより変容・再構成され、一層相阿弥独自の工夫が凝らされていると指摘されています。
阿弥派による「瀟湘八景図」の様式化と日本化の基盤形成
能阿弥による玉澗作品の掛軸への改装や、相阿弥による大仙院襖絵における「瀟湘八景」と四季・陰陽五行説との対応付けといった事実は、単なる制作活動に留まらず、「瀟湘八景図」という中国由来の画題を、日本の空間認識や美意識、さらには思想的枠組みに合わせて再編し、提示しようとする明確な意図の表れと見ることができます。
阿弥派の絵師たちは、足利将軍家の側近として、中国渡来の美術品の鑑定や選定、そしてそれらを用いた座敷飾りのプロデュースという重要な役割を担っていました。この過程で、彼らは中国絵画の様式や精神性を深く理解し吸収する一方で、それを日本の書院造といった生活空間や、日本人の美的感覚に適合させる必要性を強く感じていたはずです。この必要性こそが、「瀟湘八景図」が単なる中国絵画の模倣を超え、日本的な解釈や表現が加えられる素地を形成する原動力となったと考えられます。相阿弥の作品に見られる「やまと絵に通じる」と評される柔らかな筆致や、日本の自然観との調和を目指したとされる表現 10 は、まさにその具体的な現れと言えるでしょう。
能阿弥が中国の長大な巻物であった玉澗筆「瀟湘八景図巻」を、日本の書院造の空間で鑑賞しやすい複数の掛軸へと改装した行為 7 は、物理的な形態変化に留まらず、画題の日本的受容における重要な一歩でした。それは、中国文化をそのまま受け入れるのではなく、日本の生活様式や鑑賞習慣に合わせて取捨選択し、再構成するという姿勢の表れです。
続く相阿弥は、大徳寺大仙院の襖絵という、より大規模な空間装飾において、「瀟湘八景」を日本の伝統的な季節感(春夏秋冬)や宇宙観(陰陽五行思想)と結びつけて構成しました 10 。これは、中国の画題を日本の文化的な枠組みの中に積極的に取り込み、意味付けを行おうとする、より一歩進んだ日本化の動きと評価できます。さらに、相阿弥の画風自体も、牧谿様を基調としながらも、平面的で装飾的な要素や、やまと絵に通じる温和で柔軟な描線を加えることで、中国水墨画の持つ峻厳さとは異なる、日本人の感性に馴染みやすい独自の表現へと昇華させています 10 。
これらの阿弥派の絵師たちによる一連の活動は、後の狩野派や雪村といった戦国時代の絵師たちが「瀟湘八景図」を制作する際に、既に日本化された手本や解釈の枠組みを提供するという、重要な基盤形成の役割を果たしたと考えられます。彼らは、阿弥派が築き上げたこの文化的土壌の上で、さらに多様な「瀟湘八景図」の世界を展開していくことになるのです。
戦国時代に入ると、室町幕府の権威は失墜し、各地の戦国大名が実力で覇を競う時代となります。このような社会変動の中で、武家社会の支持を背景に画壇での地位を確立し、その後の日本絵画に大きな影響を与えたのが狩野派です。狩野派の絵師たちもまた、「瀟湘八景図」を重要なレパートリーの一つとして制作しました。
狩野元信筆「瀟湘八景図」(東海庵蔵など)の分析
狩野派の基礎を築いた狩野正信(まさのぶ)の子である狩野元信(もとのぶ、1476年-1559年)は、父の画業を継承し発展させ、漢画の力強さとやまと絵の装飾性を融合させた独自の画風を確立し、その後の狩野派様式の規範を作った極めて重要な絵師です。元信も「瀟湘八景図」を手がけており、その代表作の一つとして知られるのが、京都・妙心寺の塔頭である東海庵(とうかいあん)に所蔵される「瀟湘八景図」(霊雲院旧蔵、現在は京都国立博物館に寄託)です 9 。
この東海庵蔵の「瀟湘八景図」は、元信の行体(ぎょうたい、楷書と草書の中間の書体になぞらえた画体)の代表作とされています 15 。元々は、前述の相阿弥筆「瀟湘八景図」が描かれた大徳寺大仙院方丈の障壁画群の一部として、相阿弥の作品を取り囲むように設えられていたものが、後に4幅の掛軸に改装されたと伝えられています 15 。この作品では、一幅に二つの景観が描かれるという構成が取られています 15 。
元信の「瀟湘八景図」は、相阿弥の様式と比較すると、より明晰で力強い筆致、整理され構築的な画面構成が特徴とされます 11 。 15 の部分図解説では、元信の筆遣いを「まったく迷いのない明晰な筆遣い」と評し、その画面構成も「完璧」で「一分の隙もない」と絶賛しています。これは、相阿弥の作品に見られるような、鑑賞者の想像力をかき立てる「もあもあとイメージが湧いてくる」 10 といった柔和で詩的な雰囲気とは対照的です。このような元信の画風は、実力主義が支配する戦国時代の武家社会の気風や美意識に合致したものであったと考えられます。
興味深いことに、 9 の記述によれば、大徳寺大仙院の方丈においては、中央の最も格式の高い室中に相阿弥の「瀟湘八景図」が描かれ、それを取り囲むようにして元信の「四季花鳥図」などの障壁画が配置されていたとされています。これは、二人の巨匠の作品が一つの空間で見事に共存し、それぞれの画風が響き合っていたことを示唆しており、当時の絵画制作や室内装飾の一端を垣間見ることができます。
狩野派による「瀟湘八景図」の様式確立と武家社会への適応
狩野元信が「瀟湘八景図」を行体で描き、一幅に二景を収める構成を採用したことは、単なる様式の選択に留まらず、当時の絵画の需要や鑑賞形態と深く関わっていたと考えられます。限られたスペースで多様な景色を効率的に見せるという工夫は、書院造の襖や屏風といった大画面制作を得意とし、多くの注文に応える必要があった狩野派の工房における制作スタイルとも関連があるでしょう。
元信は、相阿弥ら同朋衆の洗練された画風を学びつつも、そこに漢画の力強さや構築性を加えることで、より明快で力感あふれる独自の画風を確立しました。この画風は、下剋上が常であった戦国時代の武将たちの気質や、彼らが好んだ書院造の荘重で厳格な空間にもよく調和するものでした。「瀟湘八景図」という古典的な画題においても、元信様式は、従来の阿弥派の作品に見られた柔和さや詩的な朦朧さとは異なる、ある種の秩序感、明晰さ、そして力強さを持ち込みました。これは、武家社会という新たな主要パトロンの趣味や要求に的確に応えるものであり、「瀟湘八景図」における新たなスタンダードを提示したと言えるでしょう。
狩野派による「瀟湘八景図」の様式は、阿弥派が築いた日本的受容の基盤を受け継ぎつつも、それを武家社会の美意識に合致するように、より構築的で力強いものへと転換させた点で重要です。この転換は、単に画風の変化というだけでなく、絵画の社会的機能やパトロン層の変化を反映したものであり、後の桃山時代における豪壮華麗な障壁画へと繋がっていく大きな流れの一端を形成したとも評価できます。狩野派は、この「瀟湘八景図」のような古典的主題を通じて、武家社会における「正統的」な絵画様式を確立し、その後の画壇に絶大な影響力を及ぼしていくのです。
戦国時代、中央の画壇から離れた関東・東北地方を拠点に活躍した画僧・雪村周継(せっそんしゅうけい、生没年不詳、16世紀に活躍)は、室町水墨画の巨匠である雪舟等楊(せっしゅうとうよう)に私淑し、その画風を学びながらも、極めて個性的で力強い独自の画風を確立したことで知られています。雪村もまた、「瀟湘八景図」を繰り返し描いており、その作品群は他の絵師とは一線を画す特色を示しています。
雪村周継筆「瀟湘八景図」(仙台市博物館蔵など)の特色
雪村による「瀟湘八景図」の代表的な作例として、まず仙台市博物館所蔵の作品(伊達家旧蔵)が挙げられます 16 。この作品は、元々は襖絵として制作されたものを、後に6幅の掛軸に改装したものであり、室町時代末期(16世紀)の作とされています。八景の全てが揃っているわけではなく、一部が失われた可能性も指摘されています 17 。画面には「継雪村老翁図筆」という落款が見られ、雪村の晩年の作であることを示しており、濃淡を巧みに使い分けた筆墨による描写が、雪村独自の画境を示すものとして高く評価されています 17 。
文献資料に目を向けると、 41 には、雪村が82歳の時に「瀟湘八景図屏風」を描いたという記録や、江戸時代の画譜である谷文晁の『集古十種』に、雪村が永禄6・7年(1563・1564年)に牧谿や玉澗の様式に倣って「瀟湘八景図巻」を制作したという記載があることが紹介されています。慶應義塾大学の学術論文 1919 は、この永禄6年の図巻を、現在アメリカのウォルターズ美術館に所蔵されている「倣牧谿瀟湘八景図巻」と特定しており、具体的な作例の同定に貢献しています。
さらに、郡山市立美術館にも雪村筆と伝えられる「瀟湘八景図屏風」が所蔵されており 20 、これは雪村が奥州(東北地方)で活動していた時期の作とされています。
雪村の「瀟湘八景図」に共通する特色としては、まず奇抜とも言える山水の形態表現が挙げられます。鋭角的に切り立つ岩山や、うねるような樹木の姿は、他の絵師の穏やかな山水表現とは大きく異なります。また、ダイナミックで力強い筆致や、墨の濃淡のコントラストを極端に強調した表現も雪村ならではのものであり、画面に強烈な印象を与えます。これらの特徴は、中央の洗練された画壇の様式とは異なる、独自の個性を強く示しており、一説には、雪村を庇護した東国武将たちの質実剛健な気風や、斬新なものを好む嗜好に合致したものであったとも考えられています 18 。
雪村周継による「瀟湘八景図」の地方的展開と革新性
雪村が「瀟湘八景図」という古典的な画題を繰り返し描いていること、そしてその作風が特に晩年に向けて、より一層自由闊達で大胆なものになっているという事実は、彼がこの画題に対して終生深い関心を持ち続け、自己の画風を探求し、深化させるための重要な媒体としていたことを強く示唆しています。
雪村が主に活動した関東・東北地方は、京都を中心とする中央の画壇とは異なる独自の文化圏を形成しており、彼のパトロンであった地方の戦国武将たちの嗜好も、必ずしも中央の洗練された趣味と同一ではなかった可能性があります。むしろ、より力強く、個性的で、時には奇抜とも言えるような斬新な表現を求めたかもしれません。雪村の特異な造形感覚や、墨の濃淡を劇的に対比させる大胆な筆墨表現は、こうした地方武士の需要に応えつつ、彼自身の内面から湧き出る強烈な表現欲求とも深く結びついていたのではないでしょうか。「瀟湘八景」という、ある意味で定型化された古典的な画題を用いながらも、そこに独自の解釈と革新的な表現を大胆に盛り込むことで、雪村は他の誰にも模倣できない、彼ならではの芸術世界を切り開いたと言えます。
雪村の作品は、中央画壇の様式とは異なる、地方における「瀟湘八景図」の独自の受容と展開を示す好例です。それは、古典的画題が、絵師の個性と、その活動地域の文化的土壌と相互に作用し合う中で、いかに多様な貌(かたち)を見せ得るかということを如実に物語っています。雪村の「瀟湘八景図」は、戦国時代の水墨画における表現の多様性と、地方文化の独自性を示す上で、極めて重要な作例群として位置づけられるべきでしょう。
室町時代の水墨画壇において、相国寺の画僧であった周文(しゅうぶん、15世紀前半に活躍)は、その後の水墨画の発展に絶大な影響を与えた巨匠とされています。しかしながら、周文自身の確実な真筆とされる作品は今日まで一点も確認されておらず、「幻の画家」とも称されています 22 。それにもかかわらず、「伝周文(でんしゅうぶん)」とされる作品群は数多く現存しており、その画風がいかに後世の絵師たちにとって規範とされたかを物語っています。周文派の画家としては、岳翁蔵丘(がくおうぞうきゅう、15世紀後半に活躍)などが知られています。
伝周文筆「瀟湘八景図」諸作例の検討
東京国立博物館には、伝周文筆とされる「四季山水図屏風」が複数所蔵されています 22 。これらの屏風絵は、四季の景物の中に「瀟湘八景」の図様を巧みに取り込んで構成されていると考えられています 23 。
広島市立大学の紀要論文 23 は、東京国立博物館所蔵の伝周文筆「四季山水図屏風」(東博本)の左隻に、「平沙落雁」や「漁村夕照」といった瀟湘八景の図様が見られることを具体的に指摘しています。さらに、この東博本と、真宗大谷派名古屋別院所蔵の伝周文筆「四季山水図屏風」(名古屋別院本)、そして岳翁筆「瀟湘八景図屏風」(香雪美術館蔵、香雪本)との間に、図様や画面構成における共通性や関連性があることを論じています。これらの作品群は、周文を中心とする工房、あるいは周文の画風を継承した複数の工房で制作され、共通の図様集や構成パターン(手本)を共有しながら描かれた可能性を示唆しています。また、 40 の記述は、伝周文の作例における真・行・草といった筆法の使い分けについても言及しており、様式の多様性を示しています。
岳翁筆「瀟湘八景図屏風」(香雪美術館蔵など)
周文派の重要な画家である岳翁蔵丘も、「瀟湘八景図」の優れた作例を残しています。特に香雪美術館が所蔵する岳翁筆「瀟湘八景図屏風」は、岳翁の代表作の一つとして高く評価されています 23 。前述の広島市立大学の紀要論文 23 では、この香雪本が、岳翁自身が描いた掛幅の瀟湘八景図の図様を再構成して屏風絵として構想された可能性が指摘されています。
東北芸術工科大学紀要に掲載された論文 26 は、この香雪美術館本について、描かれたモチーフを近接的に捉える描写法、一部に彩色を施している点、金泥を用いて霞を表現している点などを特徴として挙げています。そして、岳翁の画風が完成された時期の作であり、桃山時代以降の近世的な雰囲気さえ感じさせると評しています。また、同紀要の別論文 26 は、香雪美術館本を岳翁の作とすることに異論がないとしつつ、その様式や位置づけについて論じた中島純司氏や庄司淳二氏といった研究者の先行研究に言及しており、この作品が学術的にも注目されてきたことを示しています。
周文様式の継承と工房制作の実態
「伝周文」とされる多くの山水図屏風や、岳翁のような周文派の画家の作品に、共通の図様や構成パターンが観察されるという事実は、当時の絵画制作の実態を考察する上で非常に興味深い点です。これは、周文工房、あるいは周文の様式を継承した複数の工房において、手本となる図様集や、ある種の制作マニュアルのようなものが存在し、それに基づいて複数の絵師が関与しながら集団的に制作が行われていた可能性を強く示唆しています。
周文の画風は、室町時代の水墨画における一つの規範となり、その影響は弟子や後続の画家たちに広く及びました。「瀟湘八景図」のような人気の高い画題は、多くの注文に応えるために、工房において効率的に、かつ一定の品質を保って制作する必要がありました。そのため、標準化された図様や技法が用いられ、それらを組み合わせて多様なバリエーションが生み出されたと考えられます。岳翁の作品に見られるような、掛幅画のモチーフを屏風絵へと再構成するという手法も、そうした工房内での図様の共有や再利用の一環であった可能性があります。
このような工房制作のシステムは、周文派に限らず、後の狩野派においても顕著に見られるものです。戦国時代においても、こうした工房制作の伝統は継続し、一定の様式と品質を保った「瀟湘八景図」が量産され、武家社会や寺社などの需要に応えていたと考えられます。これは、個々の絵師の独創性だけでなく、工房という集団的な制作体制が、美術作品の生産と流通に大きな役割を果たしていたことを示しています。
戦国時代から江戸時代初期にかけては、阿弥派、狩野派、あるいは雪村といった主要な流派や画僧だけでなく、多様な背景を持つ絵師たちも「瀟湘八景図」を手がけています。その中でも特筆すべき存在として、岩佐又兵衛(いわさまたべえ、1578年-1650年)が挙げられます。
岩佐又兵衛筆 陳元賛「瀟湘八景図巻」
岩佐又兵衛は、戦国時代の武将・荒木村重の子として生まれ、波乱の生涯を送った絵師であり、その作風は狩野派や土佐派といった既存の流派の枠に収まらない、極めて個性的で力強いものです。彼は主に風俗画や物語絵で知られていますが、晩年には漢画系の古典的主題にも取り組んでおり、その一つとして陳元賛(ちんげんぴん、明末清初の渡来文人)の賛がある「瀟湘八景図巻」(個人蔵)が確認されています 27 。この作品は、又兵衛が江戸に出府した寛永15年(1638年)以降の晩年の作例とされ、彼が枯淡な味わいを持つ漢画系の主題にも関心を寄せていたことを示しています 27 。
27 の資料では、この図巻の各景(「瀟湘夜雨」「煙寺晩鐘」「洞庭秋月」「江天暮雪」「山市晴嵐」「遠浦帰帆」など)の図様が詳細に解説されています。それによれば、又兵衛の「瀟湘八景図巻」は、水墨を基調としながらも、人物描写においては極めて繊細な筆致で顔貌まで描き込み、楼閣や船舶の表現には謹直な描線を用いるなど、水墨画というよりはむしろ白描画(はくびょうが、墨線だけで描く画法)に近い指向性を持っていると分析されています。また、X字状に伸びる松樹の表現や、地面に食い込むような四角張った樹根の描写など、又兵衛特有の表現要素も随所に見られると指摘されています。
この岩佐又兵衛筆「瀟湘八景図巻」は、戦国時代の終焉から江戸時代初期へと移行する時期における、「瀟湘八景図」という古典的主題の受容の一つの様相を示す作例として非常に重要です。伝統的な水墨画の技法に捉われず、又兵衛独自の解釈と表現方法で描かれたこの作品は、画題の新たな可能性を示唆していると言えるでしょう。
戦国末期から江戸初期への移行期における「瀟湘八景図」の多様化
岩佐又兵衛のような、既存の主要な画派の枠組みからはやや離れた位置にいる、あるいはそれらを横断するような活動を見せた絵師も「瀟湘八景図」を手がけていたという事実は、この古典的な画題が特定の流派の専有物ではなく、広く当時の画壇全体に浸透し、多様な絵師たちにとって魅力的な制作対象であり続けていたことを示しています。
又兵衛の「瀟湘八景図巻」に見られる、白描画を思わせる細緻な描線や、個性的で時には異様とも言える人物・樹木の表現は、伝統的な水墨画の技法や様式に必ずしも捉われず、より物語的、あるいは装飾的な要素を大胆に取り込もうとする又兵衛の革新的な作風の表れと考えられます。これは、中世的な水墨画の価値観から、より多様で世俗的な関心にも応える近世的な絵画への移行期における、表現の幅の広がりと多様化の一例として捉えることができるでしょう。
戦国時代が終わり、徳川幕府による泰平の世へと移行する中で、絵画の主要なパトロン層や彼らが求める価値観も徐々に変化しつつありました。又兵衛の作品は、こうした時代の変化を背景に、古典的な主題に対して新たな生命を吹き込み、独自の芸術世界を構築しようとする試みの一つとして位置づけることができます。これは、水墨画の伝統が、新たな時代精神や美意識と交錯しながら、近世絵画へと継承され、そして変容していくダイナミックな過程の一端を示すものと考えられます。
戦国時代に「瀟湘八景図」を手がけた主要な絵師とその代表作、所蔵先、推定制作年代、形態、様式的特徴を以下に一覧表としてまとめます。この表は、当時の「瀟湘八景図」制作の全体像を把握し、各絵師の様式的変遷や作品の伝来経緯などを比較検討する上での基礎資料となることを目指すものです。
絵師名 |
代表作名 |
所蔵先 |
推定制作年代 |
形態(襖絵、掛軸、巻物など) |
様式的特徴・備考 |
能阿弥 |
瀟湘八景図巻 (明人題詩) |
(現存不明だが記録) |
応仁2年(1468)頃 |
巻物 |
明に渡り高評を得る 6 |
伝 玉澗 (能阿弥改装関与) |
瀟湘八景図 (遠浦帰帆図など) |
京都国立博物館、出光美術館、個人蔵など |
南宋 (改装は室町中期) |
掛軸 (元巻物) |
東山御物、義政の命で能阿弥が改装 7 |
相阿弥 |
瀟湘八景図 |
大徳寺大仙院 |
永正10年(1513)頃 |
掛軸 (元襖絵) |
牧谿様基調、平面的、やまと絵風の柔軟な線 10 |
狩野元信 |
瀟湘八景図 |
妙心寺東海庵 (京博寄託) |
16世紀前半 |
掛軸 (元障壁画) |
行体、明晰な筆致、一幅二景構成 9 |
雪村周継 |
瀟湘八景図 |
仙台市博物館 |
16世紀後半 (晩年) |
掛軸 (元襖絵) |
個性的山水、濃淡の対比、力強い筆致 16 |
雪村周継 |
倣牧谿瀟湘八景図巻 |
ウォルターズ美術館 |
永禄6年(1563) |
図巻 |
「継雪村鶴船老」款記 19 |
伝 周文 |
四季山水図屏風 (瀟湘八景図様含む) |
東京国立博物館など |
15世紀後半-16世紀前半 |
屏風 |
周文派工房作の可能性、定型図様の利用 22 |
岳翁蔵丘 |
瀟湘八景図屏風 |
香雪美術館 |
15世紀末-16世紀前半 |
屏風 |
周文派、近接描写、一部彩色、金泥霞 23 |
岩佐又兵衛 |
瀟湘八景図巻 (陳元賛) |
個人蔵 |
寛永15年(1638)以降 |
巻物 |
晩年作、枯淡な漢画系、白描画的描線 27 |
この一覧表を通じて、ユーザーは戦国時代の「瀟湘八景図」に関する主要な情報を一目で把握することができます。絵師、作品名、所蔵、年代、形態、特徴といったキー情報をコンパクトに整理することで、各絵師の作風の違い、時代による表現の変化、あるいは同じ絵師の異なる時期の作品比較など、より深い分析や考察へと進むための出発点となり得ます。例えば、能阿弥や相阿弥といった室町幕府の御用絵師の作例と、雪村のような地方で活躍した絵師の作例を比較することで、中央と地方の画壇の交流や様式的差異を考察する手がかりになります。また、狩野派の台頭が「瀟湘八景図」の様式にどのような影響を与えたか、あるいは岩佐又兵衛のような個性派の絵師がこの古典的主題にどのように取り組んだかを見ることもできます。したがって、この表は本報告書の理解を助け、さらなる研究への関心を喚起する上で非常に価値が高いと言えます。
「瀟湘八景図」は、戦国時代において単に美術品として鑑賞されるに留まらず、当時の社会や文化の中で多様な役割を果たし、深い文化的意義を担っていました。戦国大名による所蔵と鑑賞、茶の湯文化における位置づけ、書院造の室内装飾としての機能、そして禅林における受容と画賛の文化など、様々な側面からその重要性を見ることができます。
戦国時代、各地に割拠した戦国大名たちは、武力による覇権争いを繰り広げる一方で、文化的な権威や教養を身につけることにも熱心でした。「瀟湘八景図」のような由緒ある画題の作品、特に名高い絵師によるものや「東山御物」として足利将軍家が旧蔵していた名品は、彼らにとって権威の象徴であり、高い教養の証として珍重されました 7 。これらの名品は、大名間で贈答の対象となったり、時には戦利品として争奪されたりすることもあったと考えられます。
その代表的な事例として、織田信長に関する逸話が挙げられます。信長は、宿敵であった越前の朝倉義景を滅ぼした後、天正元年(1573年)に催した茶会において、朝倉氏が所蔵していた「瀟湘八景図」を戦利品として披露し、自らの勝利と権勢を誇示したと伝えられています 34 。この行為は、単なる美術品の展示を超え、「瀟湘八景図」が政治的なメッセージを発信する媒体としても利用されたことを示す興味深い事例です。
また、 42 の資料によれば、伝牧谿筆とされる「遠浦帰帆図」は、室町時代の茶人・村田珠光から織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人、さらには松平不昧のような大名茶人に至るまで、錚々たる人物たちに伝来したことが記されています。この事実は、「瀟湘八景図」の名品がいかに時の権力者たちに愛好され、その価値を認められていたかを如実に物語っています。
戦国大名による「瀟湘八景図」の戦略的利用
戦国大名が「瀟湘八景図」を熱心に収集し、鑑賞した背景には、単なる美術愛好という動機を超えた、より戦略的な意図が存在したと考えられます。それは、文化的な権威の獲得や、他者への示威といった、彼らの政治的・社会的地位を強化するための手段としての側面です。
「瀟湘八景図」、特に牧谿や玉澗といった中国の名僧の筆による作品や、足利将軍家旧蔵品(東山御物)といった由緒ある伝来を持つものは、それ自体が高い文化的価値と権威をまとっていました 7 。これらを所有することは、大名自身の文化的素養の高さを示すと同時に、その経済力や影響力を周囲に誇示することにも繋がりました。
織田信長が朝倉氏から奪った「瀟湘八景図」を、多くの有力者が集まる茶会の席で披露したという逸話 34 は、この戦略的利用を端的に示しています。これは単なる戦勝の誇示に留まらず、敵対勢力の文化的な権威をも自らの支配下に置いたという象徴的な意味合いを持っていました。さらに、茶会という情報伝達の場を通じて、その事実を堺の商人たち(彼らは諸大名とも通じていた)に拡散させることで、信長の覇権をより効果的かつ広範囲に印象づける狙いがあったと考えられます。
このように、戦国大名にとって「瀟湘八景図」の名品を所有し、それを適切な場で活用することは、自身の教養や風雅を示すだけでなく、政治的・軍事的な勝利を文化的な勝利へと昇華させ、自らの権威を確立するための重要な戦略的道具としての意味も持っていたと言えます。これは、名物と呼ばれた茶道具の収集や贈答が政治的な意味合いを帯びたこととも共通する、戦国時代特有の文化と権力の緊密な結びつきを示す現象の一つと評価できるでしょう。
戦国時代に千利休らによって大成された茶の湯の文化は、武士階級を中心に広く浸透し、単なる喫茶の習慣を超えて、精神修養、社交、さらには政治的な交渉の場としても重要な役割を果たしました。この茶の湯の空間において、「瀟湘八景図」は特に珍重され、茶室の床の間を飾る掛物として愛好されました 33 。
35 の資料には、明智光秀が織田信長から拝領したとされる「瀟湘八景図尾垂釜(おだれがま)」の存在が言及されています。これは絵画そのものではなく、釜の意匠に「瀟湘八景」が取り入れられた例であり、この画題がいかに広く当時の人々に知られ、様々な工芸品のデザインにも影響を与えていたかを示唆するものです。
織田信長が茶会で「瀟湘八景図」を用いた事例 34 は、前述の通り、茶の湯が単なる趣味の場ではなく、政治的な駆け引きや情報伝達の手段としても機能していたことを示しています。また、 33 の資料は、伝牧谿筆「洞庭秋月図」が「大名物(おおめいぶつ)」として、足利将軍家から織田信長、豊臣秀吉といった天下人、そして多くの茶人たちによってもてはやされたと記しており、その高い価値を裏付けています。
茶の湯における「瀟湘八景図」の多義性
茶の湯の席で「瀟湘八景図」が用いられた際、それは単なる美しい装飾品として存在したわけではありませんでした。むしろ、亭主の美意識、教養の深さ、さらには社会的地位や時には政治的なメッセージまでもを伝えるための、多義的な記号として機能していたと考えられます。
茶の湯は、戦国時代において武将たちが日常の緊張から離れ、精神的な安らぎや自己の内面と向き合うための重要な場でもありました。「瀟湘八景図」が持つ禅的な含意、例えば自然への帰依や無常観といったテーマは、茶の湯の精神性、特に「わび・さび」といった質素で静寂な中に美を見出す価値観と深く共鳴しやすかったのではないでしょうか。水墨で描かれた幽玄な山水の景は、茶室という凝縮された空間に無限の広がりと奥行きを与え、客をもてなす亭主の心遣いを表現するのに適していました。
また、「東山御物」に由来するような由緒正しい「瀟湘八景図」は、「名物」として極めて高い文化的・経済的価値を持っていました。そのような名物を所蔵し、茶会で披露することは、亭主の権威や影響力を示す道具ともなりました。信長の例に見るように、特定の「瀟湘八景図」を特定のタイミングで用いることは、言葉以上に雄弁な政治的メッセージを発信する効果さえ持ち得たのです。
したがって、茶の湯における「瀟湘八景図」は、美的鑑賞の対象であると同時に、亭主の精神性、社会的地位、そして時には政治的意図までをも反映する、多層的な意味を担う存在であったと言えます。それは、戦国時代の文化と社会の複雑な様相を映し出す、一つの象徴的なアイテムであったと言えるでしょう。
戦国時代に武家住宅の標準的な様式として確立した書院造は、床の間、違い棚、付書院などを備えた座敷を中心とする建築様式です。これらの空間は、対面儀礼や客の饗応、あるいは主人の私的な書斎や思索の場として機能しました。このような書院造の室内において、「瀟湘八景図」は襖絵や掛軸として、空間を荘厳し、その格式や用途に応じた雰囲気を演出する主要な装飾となりました 28 。
前章で触れた相阿弥筆「瀟湘八景図」(大徳寺大仙院蔵)や狩野元信筆「瀟湘八景図」(東海庵蔵)、そして雪村周継筆「瀟湘八景図」(仙台市博物館蔵)などは、元々は広大な書院の空間を飾る襖絵として制作されたものが、後の時代に保存や鑑賞の便宜のために掛軸に改装された代表的な例です 10 。
室町時代の座敷飾りの指南書である『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』の記述を引用した 36 の資料には、大きな八景の八幅(おそらく牧谿筆の大軸を指す)を、床の間の原型とも言える押板(おしいた)に飾るという壮大なスケールの飾り方が紹介されています。また、 28 の資料は、足利義政が元は巻物であった玉澗作の「瀟湘八景図」を掛軸に表装し直し、壁面に掛けて鑑賞したことを指摘しています。これらの事例は、鑑賞形態が時代とともに変化し、「瀟湘八景図」が書院造における室内装飾として定着していく過程を示しています。
「瀟湘八景図」と書院造空間の相互作用
「瀟湘八景図」が襖絵や掛軸として書院造の空間に取り入れられる際、単に絵画が空間を飾るという一方向的な関係ではなく、絵画の内容や形式と、建築空間の特性とが相互に影響し合っていたと考えられます。
例えば、襖絵として用いられる場合、連続する広大な画面に「瀟湘八景」の多様な景観を展開することで、部屋全体をあたかも理想的な山水空間であるかのように変容させる効果がありました 10 。鑑賞者は、部屋の中にいながらにして、四季折々の、あるいは一日の中の様々な時間の自然の移ろいを体験することができたでしょう。これは、書院造の座敷が持つ、儀礼や接客といった公的な機能と、主人の私的なくつろぎや思索の場としての機能を、より豊かで奥行きのあるものにしたと考えられます。
一方、掛軸として床の間という特定の場所に飾られる場合は、選ばれた一景または数景が、その空間の精神的な焦点となりました。床の間は、書院造において最も格式の高い場所であり、そこに掛けられる絵画は、亭主の美意識や教養、さらにはその場の雰囲気を決定づける重要な役割を担いました。「瀟湘八景図」の持つ禅的な含意や詩的な情趣は、床の間の静謐な空間と調和し、鑑賞者の思索を促したり、客との会話のきっかけとなったりしたことでしょう。義政による玉澗作品の改装事例 28 や、『君台観左右帳記』に見る押板への飾り方 36 は、まさにそのような意図を反映したものと考えられます。
このように、「瀟湘八景図」は、書院造という日本独自の建築空間の特性(連続する壁面としての襖、特定の展示スペースとしての床の間など)と深く結びつきながら、その装飾的機能と精神的機能の両方を果たしました。そして、絵画の形式(襖絵、掛軸、あるいは屏風)もまた、この建築空間との関係性の中で選択され、発展していったと言えるでしょう。
「瀟湘八景図」は、その画題が持つ自然への深い観照や、墨の濃淡で万物を表現しようとする水墨画の技法が、禅宗の精神性と高い親和性を持っていたため、特に禅宗寺院(禅林)において深く受容され、多くの作品が禅僧によって制作されたり、禅僧たちの鑑賞の対象となったりしました。そして、禅林においては、絵画に詩文を書き添える「画賛(がさん)」の文化が非常に盛んであり、「瀟湘八景図」もまた、この画賛文化と深く結びついていました 37 。
37 の資料は、五山文学を代表する禅僧の一人である天隠龍澤(てんいんりゅうたく)が「平沙落雁図」に寄せた賛を例に挙げ、この画題が単なる風景描写を超えて、禅的な含意を持つことを論じています。例えば、賛の中で「平沙落雁のような俗な図は作ってはならないのだ」という解釈に対して疑問を呈し、「胡乱(うろん)」(曖昧模糊としていること、はっきりしないこと)といった語が、平沙落雁図の持つ「糢糊(もこ)」とした、言葉では捉えきれない幽玄な特質を指しているのではないかと考察しています。これは、禅が論理や言葉による分別を超えた境地を目指すことと通じるものがあり、「瀟湘八景図」が禅的な思索の対象とされていたことを示唆します。
また、 38 の資料は、画賛研究会の活動を紹介しており、その中で雪舟の画賛や、中国・南宋の画僧である玉澗の「瀟湘八景」に関する詩画などが重要な研究対象となっていることを示しています。これは、画賛が「瀟湘八景図」の理解において不可欠な要素であることを物語っています。
さらに、 37 の資料は、芳澤勝弘氏による天隠龍澤の賛の解釈として、「落」という字に単に「落ちる」という意味だけでなく、「落ち着く」「安住する」といった意味を見出し、雁が安住の地を見つけて静かに舞い降りる様を、禅的な心の平静や悟りの境地と結びつけて解釈しています。
画賛文化による「瀟湘八景図」の解釈深化と多層化
禅林における「瀟湘八景図」の鑑賞は、単に絵画の視覚的な美しさを楽しむだけでなく、そこに添えられた画賛(詩文)を読み解くことを通じて、絵画の持つ意味を多層的に解釈し、禅的な思索を深めるという、知的かつ精神的な営みであったと考えられます。
画賛は、絵画という視覚的な情報に、詩文という言語的な情報を加えることで、鑑賞者の想像力を刺激し、絵画の解釈の幅を大きく広げます。禅僧たちは、自らの悟りの境地や禅の教え、あるいは公案に対する独自の解釈などを画賛に託すことで、「瀟湘八景図」を禅的な思想を表現し、伝達するための有効な媒体として活用しました。これにより、同じ「瀟湘八景」という画題の作品であっても、添えられた賛の内容によって異なる意味合いが付与され、作品の価値がより一層深められたのではないでしょうか。
例えば、「平沙落雁図」に天隠龍澤が寄せた賛の解釈を巡る議論 37 は、画賛がいかに絵画解釈の鍵となり得るかを示しています。「俗な図」という表面的な評価への疑問や、「胡乱」という語が指し示す「糢糊」とした画趣への着目は、鑑賞者が賛を通じて絵画のより深い本質に迫ろうとする姿勢を明らかにしています。
禅僧たちは、瀟湘八景の各情景を、単なる風景としてではなく、自らの修行の段階や悟りの境地、あるいは禅の重要な概念などと結びつけて解釈し、それを凝縮された言葉である画賛として表現しました。その結果、「瀟湘八景図」は、視覚的な美しさだけでなく、詩文を通じた知的・精神的な深みを持つ複合的な芸術作品として、禅林の中で高度に受容されたのです。画と賛が一体となることで、作品は多層的な意味をまとい、鑑賞者はより深い思索へと誘われたと考えられます。これは、単なる風景画の受容とは質的に異なる、禅林特有の高度な鑑賞文化の現れと言えるでしょう。
「瀟湘八景図」は、中国で成立した当初から、単なる風景描写に留まらず、各景が特定の主題や象徴性を担っていました。日本に伝来した後も、これらの基本的な図像解釈は踏襲されつつ、日本の文化や美意識の中で独自の展開を見せました。
「瀟湘八景」を構成する八つの景、すなわち「瀟湘夜雨(しょうしょうやう)」、「平沙落雁(へいさらくがん)」、「煙寺晩鐘(えんじばんしょう)」、「山市晴嵐(さんしせいらん)」、「江天暮雪(こうてんぼせつ)」、「漁村夕照(ぎょそんせきしょう)」、「洞庭秋月(どうていしゅうげつ)」、そして「遠浦帰帆(えんぽきはん)」は、それぞれ特定の時間帯(夜、夕暮れ、日中など)、季節(秋、冬、春など)、気象条件(雨、晴れ、雪、霧など)における情景を描き出しており、単なる風景の美しさを超えた、より深い象徴的な意味合いを持つと考えられています 2 。
例えば、「平沙落雁」は、秋の広々とした砂州に雁の群れが舞い降りる様を描き、一般的には旅愁や寂寥感、あるいは故郷への帰還を願う心情などを象徴すると解釈されます。「煙寺晩鐘」は、夕靄にかすむ遠くの寺から聞こえてくる鐘の音を通じて、静寂や無常観、あるいは郷愁といった感情を呼び起こします。「洞庭秋月」は、広大な洞庭湖の上に皓々と照る秋の月を描き、清澄な美しさとともに、宇宙的な広がりや人間の存在の小ささを感じさせるとも言われます。
しかし、これらの象徴性は一義的に固定されたものではなく、描く絵師の解釈や、鑑賞する側の知識・感性によって多様な読み解きが可能です。その好例として、名古屋大学の論文 39 が分析する、雪舟筆「山水長巻」における「漁村夕照」の場面が挙げられます。この研究によれば、中国の伝統的な「漁村夕照」の図様が持つ「追放」や「隠逸」といったテーマを踏まえつつも、雪舟はそこに自身の庇護者であった大内氏による海上交易の繁栄の暗示や、自らの中国旅行の記憶といった、より個人的で具体的な意味合いを込めて描いた可能性が指摘されています。これは、「瀟湘八景」の各景が持つ主題や象徴性が、決して固定的なものではなく、絵師の意図や制作された時代背景、さらにはパトロンの要望などによって、柔軟に変化し、再解釈され得ることを示しています。
以下に、「瀟湘八景」の各景の名称、主な図様・モチーフ、そして一般的に考えられる象徴的意味やキーワードをまとめた表を提示します。これは、個々の「瀟湘八景図」作品を鑑賞する際の基本的な手引きとなることを意図しています。
表2:「瀟湘八景」各景の名称と主題
景の名称(日本語) |
景の名称(中国語) |
主な図様・モチーフ |
象徴的意味・キーワード |
瀟湘夜雨 |
瀟湘夜雨 (xiāoxiāng yèyǔ) |
夜、雨、寂しい風景 2 |
静寂、愁い、内省 |
平沙落雁 |
平沙落雁 (píngshā luòyàn) |
秋、干潟、雁の群れ 2 |
旅愁、寂寥、帰郷願望、隠逸 2 |
煙寺晩鐘 |
煙寺晩鐘 (yānsì wǎnzhōng) |
夕霧、遠寺、鐘の音 2 |
無常観、静寂、郷愁 2 |
山市晴嵐 |
山市晴嵐 (shānshì qínglán) |
山里、市場、霞 2 |
賑わい、生活感、春の気配 2 |
江天暮雪 |
江天暮雪 (jiāngtiān mùxuě) |
日暮れ、川、雪 2 |
清冽、静寂、冬の厳しさ 2 |
漁村夕照 |
漁村夕照 (yúcūn xīzhào) |
夕焼け、漁村、帰漁 2 |
平穏、生活の営み、隠逸 2 |
洞庭秋月 |
洞庭秋月 (dòngtíng qiūyuè) |
洞庭湖、秋の月 2 |
清澄、広大、宇宙観 2 |
遠浦帰帆 |
遠浦帰帆 (yuǎnpǔ guīfān) |
夕暮れ、遠くの浦、帰る帆船 2 |
安堵、帰郷、旅の終わり 2 |
この表は、「瀟湘八景図」という画題の核心を理解し、多様な作例を読み解くための基本的なツールとして価値があります。各景の「約束事」を把握することで、絵師がどのように定型を踏襲し、あるいは逸脱して独自の表現を試みているのかを分析する際の基準となります。
各景の主題の多層性と絵師による再解釈の可能性
「瀟湘八景」の各景は、一見すると特定の情景を描写しているように見えますが、その背後には、中国の古典文学や思想、歴史的背景など、複数の文学的・思想的伝統が複雑に重なり合っており、それゆえに解釈の幅が非常に広いと考えられます。
2 は瀟湘八景の各景の名称とごく簡単な説明を提示しており、これらは最も基本的な情景描写を示しています。しかし、より深く掘り下げると、例えば 3 の研究が明らかにしたように、瀟湘地域そのものが中国の文学的伝統において「離愁別恨」や「貶謫帰隠」といった特定の詩的テーマを色濃く背負っていることがわかります。これらの伝統は、当然ながら個々の景の解釈にも影響を与え、単なる風景以上の意味を付与する可能性があります。
前述の雪舟の「漁村夕照」に関する 39 の分析は、この主題の多層性を示す好例です。そこでは、単に夕焼けの美しい漁村というだけでなく、中国の伝統的な「隠逸」のテーマや、さらには「桃源郷」的な理想郷のイメージ、あるいは庇護者であった大内氏の海上交易の繁栄といった現実の経済活動の反映まで、多様な意味が読み込まれる可能性が示唆されています。
これは、絵師が「瀟湘八景」という定型的な画題を用いつつも、それを自らの経験や思想、あるいは注文主の意向などを反映させて「再解釈」し、新たな意味を付与していたことを強く示唆しています。したがって、各景の主題や象徴性は、決して一義的に固定されたものではなく、制作された時代、絵師の個性や力量、そして鑑賞者の知識や感性によって、多層的かつ動的に変化しうるものと捉えるべきです。特に戦国時代という、価値観が激しく揺れ動き、武将たちが自らの存在意義を模索した激動の時代においては、彼らの抱いた願望や理想、あるいは現実認識が、これらの景の解釈に少なからぬ影響を与えた可能性も十分に考えられます。
中国で成立した「瀟湘八景」は、日本に伝来すると、その画題や形式が大きな影響力を持ち、日本各地の景勝地を「八景」として選定し、それを絵画や和歌・漢詩の題材とする文化が生まれ、流行しました 4 。これは、外来文化を受容し、自国の文脈に合わせて変容させていく日本文化の特質を示す興味深い現象です。
4 の資料によれば、この日本版「八景」の流行は古く、14世紀前半の禅僧・鉄庵道生(てつあんどうしょう)による「博多八景」がその嚆矢(こうし)とされています。その後、各地で「〜八景」が設定され、江戸時代初期には、安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)の仮名草子『醒睡笑(せいすいしょう)』の中に、「煙寺晩鐘」の意味も分からずに知ったかぶりをする人物の逸話が見られることや、17世紀初頭に出版された『日葡辞書』に「瀟湘八景」そのもの及び八景のそれぞれの語彙が収録されていることなどからも、この「八景」という概念がいかに広く社会に浸透していたかが窺えます。
神奈川大学の研究紀要 4 は、この日本における「八景」の展開について、特に「近江八景(おうみはっけい)」や「金沢八景(かなざわはっけい)」といった代表的な例を挙げつつ、重要な指摘をしています。それは、これらの日本版「八景」が、中国の「瀟湘八景」が湖南省全域にわたる広大な「面」としての風景を捉えているのに対し、それぞれが極めて限定的な場所、すなわちほぼ「点」としての風景を指し示しているという、風景観における根本的な転換です。そして、この転換の背景には、中国の明代から清代にかけて流行した「西湖十景(せいこじっけい)」(杭州西湖周辺の十の名所)の影響があった可能性を示唆しています。「西湖十景」は、瀟湘八景と比較してより具体的で身近な名所を選んでおり、その風景観が日本の「八景」のあり方に影響を与えたというのです。
日本的「八景」創出に見る風景観の変容と文化的アイデンティティの模索
日本各地で「八景」が設定され、それが絵画や詩歌の題材として愛好されたことは、単に中国文化の表面的な模倣に留まるものではありませんでした。むしろ、それは自国の風景の美を再発見し、それを中国の古典的で権威ある「八景」という枠組みに当てはめて価値づけようとする、日本独自の文化的な営みであったと考えられます。
「瀟湘八景」という、既に確立された権威ある手本に倣うことで、日本の風景もまた普遍的な美の基準に照らして評価され得るという意識が、当時の知識人や文化人の間に働いたのではないでしょうか。しかし、 4 が鋭く指摘するように、風景の捉え方が広大な「面」から特定の「点」へと変化し、さらに「西湖十景」のような、より身近で具体的な名所選定の形式の影響が見られることは、中国文化をただそのまま摂取するのではなく、それを日本の風土や日本人の感性に合うように「日本化」していく過程を明確に示しています。
興味深いのは、日本の「八景」が風景の選び方や捉え方において中国の「瀟湘八景」から変化し、「西湖十景」に近づきながらも、「落雁」や「帰帆」といった「瀟湘八景」由来の語彙は依然として踏襲されたという点です 4 。これは、外来文化を受容し変容させるという、日本文化の複雑で重層的な特質の一端を反映していると言えるでしょう。言葉の響きや古典的な詩情は保持しつつも、その実質的な内容は自国の現実に合わせてアレンジするという、巧みな文化の編集作業が行われたのです。これは、外来の進んだ文化システムを導入しつつも、それを自国の文脈に合わせて再構築し、独自の文化的アイデンティティを模索しようとする姿勢の表れとも解釈できます。戦国時代から江戸時代にかけて、日本独自の文化が力強く形成されていく過程の一側面を、この「八景」の流行と変容の中に見ることができるのです。
戦国時代の「瀟湘八景図」は、単一の様式に留まらず、それを手がけた絵師や画派の個性、そして彼らが活動した時代や地域の特性を反映して、多様な表現が見られました。室町時代からの伝統を継承しつつも、新たなパトロン層の出現や価値観の変化に伴い、様式や技法においても様々な試みがなされました。
阿弥派、特に相阿弥の「瀟湘八景図」は、牧谿様を基調とした柔和で詩的な水墨表現を特徴とし、やまと絵に通じるような柔軟な描線や平明な画面構成が見られます 10 。これは、禅的な精神性や貴族的な洗練を重んじる美意識を反映したものと言えるでしょう。
これに対し、戦国時代に武家社会の圧倒的な支持を得て画壇の主流となった狩野派、特に狩野元信の「瀟湘八景図」は、より力強く構築的な様式を示しています 15 。明晰な筆致、整理された画面構成、そして時には一幅に二景を収めるような合理的な工夫が見られ、これは実力主義の戦国武将の気質や、書院造の荘重な空間に調和するものでした。元信は、楷・行・草の三体の画風を使い分けたとされますが、「瀟湘八景図」においては行体の作例が知られています 15 。
一方、関東・東北地方で独自の画境を切り開いた雪村周継の「瀟湘八景図」は、奇抜な山水の形態、ダイナミックな筆致、墨の濃淡の劇的な対比といった、極めて個性的で大胆な表現を特徴としています 17 。これは、中央画壇の洗練された様式とは一線を画し、地方武士の質実剛健な気風や、斬新なものへの関心を反映していた可能性があります。
また、「伝周文」とされる作品群や、岳翁のような周文派の絵師による「瀟湘八景図」は、室町時代以来の伝統的な図様や構成を踏襲しつつ、屏風絵という大画面形式の中で、真・行・草の筆法を使い分けるなど 40 、工房的な制作体制の中で多様なバリエーションが生み出されたことを示唆しています。
これらの作品は、多くが襖絵や屏風といった、建築空間と一体となった大画面形式で制作されました。これは、絵画が単独で鑑賞されるだけでなく、空間全体を演出し、その場の雰囲気や格式を高めるという役割を担っていたことを示しています。後にこれらの大画面作品が掛軸に改装された例が多いことは、鑑賞形態の変化や、作品の部分的な保存・伝承の歴史を物語っています。
技法的には、墨の濃淡のグラデーション、渇筆(かっぴつ)と潤筆(じゅんぴつ)の使い分け、筆致の緩急、そして何よりも余白の巧みな活かし方といった、水墨画特有の表現技法を駆使しつつ、それぞれの絵師が独自の解釈と創意工夫を凝らして「瀟湘八景」の詩情豊かな世界を画面上に現出させました。
戦国時代における「瀟湘八景図」の様式の多様化と、時代精神の反映
戦国時代に「瀟湘八景図」の様式がこのように多様化した背景には、単に絵師個人の創意工夫や技術の差異だけでなく、より大きな時代の動き、すなわちパトロンである武将たちの趣味や価値観の多様化、そして社会全体のダイナミックな変化が深く影響していたと考えられます。
戦国時代は、室町幕府の権威が失墜し、旧来の秩序が崩壊する一方で、各地の戦国大名が実力でのし上がり、新たな価値観が生まれる流動的で多極的な時代でした。このような時代背景は、美術のパトロン層を、従来の公家や禅林中心から、力を持った武家階級へと大きくシフトさせました。そして、これらの新たなパトロンたちは、必ずしも均一な美意識を持っていたわけではなく、それぞれの出自や教養、あるいは政治的立場によって、多様な様式の絵画を求めました。
例えば、狩野派の確立した明快で力強く、構築的な画様式は、実力主義でのし上がり、天下統一を目指す戦国武将たちの合理的で剛健な気風に合致したでしょう。彼らは、自らの権勢を示すために、荘重で秩序ある空間を好み、そこに飾る絵画にも同様の質を求めたと考えられます。
一方で、雪村周継に見られるような、奇抜で大胆、既成の枠にとらわれない個性的な表現は、中央の伝統的な権威に必ずしも従属しない新興の地方武士や、あるいは雪村自身の反骨精神のようなものを反映していたかもしれません。彼らは、洗練された美よりも、より直接的で力強い表現に魅力を感じた可能性があります。
そして、相阿弥に代表される阿弥派の様式は、戦国時代にあってもなお、禅的な精神性や、東山文化以来の貴族的な洗練された美意識を求める層、例えば一部の大名や有力な禅僧などに支持され続けたと考えられます。
このように、戦国時代の「瀟湘八景図」に見られる様式の多様性は、単に絵師の個性の発露というだけでなく、当時の多極的で流動的な社会状況、パトロン層の多様な要求、そしてそれらが複雑に絡み合った時代精神そのものを映し出す鏡であったと言えるのではないでしょうか。古典的な画題である「瀟湘八景図」が、この激動の時代の中で、いかに多様な貌(かたち)を見せ、それぞれの絵師やパトロンの精神と共鳴し得たかを示す、興味深い事例と言えます。
戦国時代における「瀟湘八景図」は、中国伝来の由緒ある画題が、日本の文化的土壌の中で深く根を下ろし、多様な様式と豊かな意味合いをもって展開したことを示す、極めて重要な美術遺産です。この画題は、室町時代に阿弥派の絵師たちによって日本的な解釈が深められ、その様式が洗練されました。戦国時代に入ると、狩野派が武家社会の美意識に適応した新たなスタンダードを確立し、画壇の主流となりました。一方で、雪村周継のような絵師は、中央の様式とは異なる個性的かつ地方的な展開を見せ、画題の表現に新たな息吹を吹き込みました。これらの主要な絵師や画派だけでなく、伝周文とされる作品群や、戦国末期から江戸初期にかけて活躍した岩佐又兵衛のような個性派の絵師もこの画題を手がけ、それぞれが独自の解釈と技法で「瀟湘八景」の世界を現出させました。
これらの「瀟湘八景図」は、単に美術作品として鑑賞されるに留まらず、当時の政治、社会、文化の中で多岐にわたる役割を担いました。戦国大名にとっては、その所蔵が権威の象徴であり、時には政治的なメッセージを発信する媒体ともなりました。また、勃興した茶の湯文化においては、茶室の床の間を飾る掛物として珍重され、亭主の精神性や美意識を表現する重要な要素となりました。さらに、書院造の建築様式が確立される中で、襖絵や屏風として室内空間を荘厳し、その場の雰囲気を演出する役割も果たしました。特に禅林においては、「瀟湘八景図」は禅の精神性と深く結びつき、画賛という詩文を伴う独自の鑑賞文化を育みました。これにより、作品には深い思想的背景が付与され、鑑賞のあり方はより豊かで多層的なものとなりました。
このように、戦国時代の「瀟湘八景図」は、単なる美しい風景画としてではなく、当時の政治状況、社会構造、人々の思想や美意識を映し出す鏡であり、日本美術史における水墨画の展開と、外来文化を受容し変容させていく日本文化のダイナミズムを理解する上で、不可欠な存在と言えます。それは、古典的な主題が、激動の時代の中でいかに多様な貌を見せ、人々の心と共鳴し得たかを示す、貴重な証左なのです。
戦国時代の「瀟湘八景図」に関しては、依然として多くの研究課題が残されており、今後のさらなる調査・分析によって、その多面的な価値が一層明らかになることが期待されます。具体的な課題としては、以下の点が挙げられます。
これらの研究課題に多角的に取り組むことを通じて、戦国時代という日本史における大きな変革期に花開いた「瀟湘八景図」の豊かな世界が、より一層鮮明に、そして深く理解されるようになることが期待されます。それは、日本美術史の研究を深化させるだけでなく、戦国時代の文化や精神性を多角的に捉え直す上でも、大きな貢献を果たすことでしょう。