本報告書は、日本の戦国時代に制作された「白鷺図」と呼ばれる水墨画に焦点を当て、その美術史的背景、主題の象徴性、主要な作例と絵師、そして表現技法について詳細かつ徹底的に調査し、分析することを目的とする。対象とする時代は、概ね15世紀後半から16世紀末までとするが、様式の連続性や影響関係を考慮し、必要に応じて室町時代後期や桃山時代初期の作品にも言及する。
戦国時代は、社会構造が大きく変動し、それに伴い文化や美術のあり方も変容を遂げた時期である。この時代に描かれた「白鷺図」を研究することは、当時の人々の自然観、美意識、さらには社会的価値観を理解する上で重要な手がかりとなる。また、水墨画という表現形式が、この動乱の時代にどのように継承され、あるいは革新されたのかを探る上でも意義深い。白鷺という、清らかさや吉祥のイメージを伴う主題が、戦乱の世に生きた人々にどのように受容され、表現されたのかを明らかにすることは、戦国時代の文化的多様性と精神性を深く理解することに繋がるであろう。
戦国時代は、応仁の乱(1467-1477年)以降、約1世紀にわたり日本各地で武将たちが覇を競った動乱の時代であった。この時代、美術は単なる慰みや装飾にとどまらず、武将たちの権威の象徴、外交における贈答品、あるいは精神的な支柱として重要な役割を担った 1 。京都で成熟した室町文化は、戦乱を避けて地方へ下った公家や僧侶、あるいは武将自身によって各地へもたらされ、それぞれの地域文化と融合しながら新たな展開を見せた 1 。
この時代の武将たちの美意識は、一様ではなかった。彼らは、鎌倉時代以来武家社会に深く浸透していた禅宗文化に由来する、簡素枯淡(かんそこたん)や幽玄(ゆうげん)といった美意識を継承し、水墨画や茶の湯などを嗜んだ 2 。一方で、実力でのし上がってきた新興勢力として、自らの武力や経済力を誇示するような、豪壮華麗な表現も好むようになった。これは、続く桃山時代に開花する絢爛(けんらん)たる文化の萌芽とも言える。戦国時代になると、それまでの禅僧や幕府御用絵師といった伝統的な絵画の担い手に加え、地方武士や在野の絵師たちの活動も目立つようになり、より多様で個性的な美術が生まれる土壌が形成された 4 。
武家社会における美意識のこのような重層性は、戦国時代の美術の大きな特徴である。禅宗的な精神性を重んじる内省的な美意識と、実力主義の世を生き抜く武将たちの力強さや、新たに獲得した権威を示すための華やかさを求める志向が併存していた。この二面性は、水墨画の主題選択や様式展開にも影響を与えたと考えられる。例えば、下剋上が常であったこの時代、武将たちは従来の足利将軍家や公家が育んできた文化の要素を取り入れつつも、自身の力を視覚的に示す新たな文化表現を模索した 1 。禅宗は引き続き武士階級にとって重要な精神的基盤であり、水墨画はその深遠な精神性を表現する主要な手段の一つであり続けた 3 。しかし同時に、城郭建築が各地で盛んに築かれるようになると、その広大な内部空間を飾るための大規模な障壁画や、権力を象徴する金碧(きんぺき)の豪華な絵画も求められるようになったのである 6 。こうした背景のもと、「白鷺図」のような画題は、その清廉なイメージが禅的な価値観と結びつく一方で、吉祥性を通じて武将たちの現世的な成功や繁栄への願いにも応えるものとして、好まれた可能性が考えられる。
日本の水墨画は、鎌倉時代に禅宗の本格的な導入と共に中国から伝来し、特に中国の宋・元時代の絵画の影響を強く受けて成立した 3 。室町時代には、如拙(じょせつ)や周文(しゅうぶん)といった画僧たちによって、詩画軸などの形式を中心に日本独自の水墨画様式が確立されていった 3 。戦国時代においても、この室町水墨画の伝統は基盤として引き継がれた。
主要な技法としては、まず「没骨描(もっこつびょう)」が挙げられる。これは、明確な輪郭線を用いずに、墨の濃淡や滲(にじ)みによって対象の形体や質感を表現する技法である 9 。この技法は、水墨特有の潤いのある柔らかな表現を保つ上で重要であった。また、墨の濃淡、ぼかし、滲み、そして筆致や筆圧の微妙なコントロールによって、山水、人物、花鳥など、あらゆるモチーフが描かれた 10 。特に、対象の本質を捉えるために、無駄を削ぎ落とした簡潔な筆致で描く手法が尊ばれた 5 。
さらに、日本水墨画において極めて重要なのが「余白の活用」である。「白紙も模様のうちなれば心にてふさぐべし」という言葉に象徴されるように、画面上の何も描かれていない白い部分は、単なる空白ではなく、大気、霧、水、あるいは無限の空間などを暗示し、見る者の想像力を喚起する積極的な構成要素として意識された 11 。例えば、雪村周継(せっそんしゅうけい)筆と伝わる「雪中白鷺図」では、画面上部に大きく取られた余白が、雪景色の静寂や深遠さを効果的に生み出していると評されている 13 。
戦国時代の水墨画は、室町時代に確立されたこれらの技法を基礎としつつも、新たなパトロン層である戦国武将の出現や、それに伴う社会状況の変化に応じて、表現の幅を広げていった。室町時代の水墨画は、主に禅院を中心に発展し、掛軸として床の間などで鑑賞され、内省的、精神性を重視する傾向があった 3 。しかし戦国時代になると、武将が主要なパトロンとなり、彼らが築いた城郭の広大な壁面を飾るための大規模な障壁画(襖絵や屏風絵)の需要が急速に高まった 1 。これにより、従来の掛軸中心の鑑賞形態に加え、建築空間と一体化した、よりパブリックな性格を持つ絵画が求められるようになったのである。狩野派などの絵師集団は、こうした需要に応えるべく、大画面に対応できる力強い描線や大胆な構図(後に「大画様式」と呼ばれる 7 )を発展させた。一方で、例えば相阿弥(そうあみ)の系譜を引く単庵智伝(たんあんちでん)のような画家は、伝統的な水墨の技法を継承しつつ、鋭利な筆致など独自の表現を追求した 14 。このように、戦国期の水墨画は、伝統の継承と革新、精神性と装飾性といった複数の志向が交錯する中で、ダイナミックに展開したと言える。
花鳥画は、文字通り花や鳥を主要なモチーフとし、草木や虫、時には小動物なども含めて自然の生命の営みを描く絵画ジャンルである 15 。単に自然の美しさを写し取るだけでなく、季節の移り変わりを繊細に表現し、さらには特定のモチーフに吉祥的な意味や寓意を込めて、人々の幸福や繁栄を願う媒体としても機能した 5 。
花鳥画の起源は中国の唐時代(618-907年)に遡り、当初は人物画の背景の一部として描かれていた花や鳥が、次第に独立した主題として扱われるようになり、宮廷絵画の重要なジャンルとして確立された 15 。日本へは奈良時代頃から部分的に伝来し、平安時代には日本の豊かな四季の自然を反映したやまと絵の中で花鳥のモチーフが愛された。室町時代に入ると、禅宗の思想と深く結びついた水墨画として花鳥画が洗練され、墨の濃淡と余白を生かした、簡素でありながら精神性の高い作品が多く生み出された 5 。この時代には、鶴や松竹梅といった長寿や節操を象徴する吉祥的なモチーフが好んで描かれた。
戦国時代から桃山時代にかけては、花鳥画のあり方も変化を見せる。狩野派は、室町水墨画の技法を基盤としながらも、やまと絵の伝統的な色彩感覚や装飾性を取り入れ、金箔や鮮やかな岩絵具を多用した豪華絢爛な金碧花鳥画(きんぺきかちょうが)の様式を確立した 17 。これらは城郭や寺院の大広間を飾る障壁画として、新興大名の権勢を象徴する役割を果たした。一方で、水墨による花鳥画も引き続き制作され、より個人的な空間や、禅的な精神性を求める場においては重要な位置を占め続けた。
戦国時代の花鳥画、特に本報告書の主題である「白鷺図」は、単なる自然描写を超え、吉祥性(例えば「一路連科」に象徴される立身出世 19 )や高潔さといった寓意を込めることで、武将たちの精神的・社会的な希求に応える役割を果たしたと考えられる。中国文化の影響下で、特定の動植物に吉祥的な意味が付与されるようになり 15 、白鷺もその白い姿から清らかさや高潔さを、また「路」との音通から立身出世を象徴する鳥として 19 、武将にとって魅力的な画題となった。これは、絶え間ない争乱と社会変動の中で、秩序の回復や家門の繁栄、そして自らの武運長久を切実に願った当時の人々の心情の現れとも解釈できるだろう。
白鷺は、その純白の羽毛と優雅な佇まいから、古来より清らかさ、高潔さ、そして優美さの象徴として人々に愛されてきた。特に水墨画においては、墨の黒と紙の白というモノクロームの世界の中で、白鷺の「白」は際立った存在感を示し、その清浄なイメージを一層強調する効果があった。中国の文献では、蓮の花と同様に、泥中の蓮池に生息しながらもその汚れに染まらない姿から、高潔な人格の比喩としてしばしば言及されている 21 。日本においても、例えば姫路城がその白く美しい姿から「白鷺城」と称されるように、白鷺は白くて優美なものの代表格と見なされてきた 19 。
また、直接的な長寿の象徴である鶴ほどではないものの、白鷺が長寿と関連付けられる場合もあった。例えば、頭頂部が白い鳥である白頭翁(はくとうおう)と鷺を共に描いた図は「一路功名(いちろこうみょう)」と呼ばれ、立身出世と共に長寿を願う意味合いも含まれると解釈されている 20 。
白鷺は、その姿の美しさだけでなく、中国語における発音の類似(語呂合わせ)から、様々な吉祥的な意味が付与され、絵画の好画題として定着した。これらの吉祥句は、主に立身出世や成功に関連するものであり、戦国武将たちにとっても魅力的なものであったと考えられる。
これらの吉祥句は、元々は中国の科挙制度と深く結びついたものであった。戦国時代の日本には科挙制度は存在しなかったが、これらの図様が受容された背景には、武士階級における立身出世や家門の繁栄といった普遍的な願いがあったと考えられる。特に「一路」という言葉は、「一筋の道」や「ひたすら(目標に)進む」という意味合いを持ち、武士が自身の信じる道や主君への忠義の道を一途に貫く姿と重ね合わせることができたのではないだろうか。また、戦国大名にとっては、自らの家名を存続させ、領国を安定させ、子孫が引き続き高い地位を得ること(「連科」に通じる)は最大の関心事であり、こうした吉祥図案にその願いを託した可能性は十分に考えられる。このように、中国由来の吉祥句が、日本の武家社会の文脈の中で、新たな解釈や意味合いを付与されながら受容されていった過程は興味深い。
白鷺は、吉祥図案としての意味だけでなく、日本の文化の中で様々な形で親しまれてきた。その一つが、各地に残る白鷺伝説である。特に有名なのは、岐阜県の下呂温泉に伝わる伝説で、文永2年(1265年)に一度枯渇した温泉が、翌年、傷ついた一羽の白鷺が舞い降りた場所から再び湧出したというものである 23 。この伝説は、白鷺が温泉のありかを教える神聖な存在、あるいは幸運をもたらす鳥として捉えられていたことを示唆している。
また、白鷺は鶴ほど高貴で手の届かない存在とは見なされず、比較的人里近くの水辺にも飛来するため、人々にとってはより身近な鳥であったとも言われている 20 。その美しい姿は、和歌や俳句の題材としても詠まれ、日本の自然観や美意識の中に深く根付いてきた。このような文化的背景も、白鷺が絵画のモチーフとして好まれた理由の一つと言えるだろう。
戦国時代およびその前後の時代には、多くの絵師たちが白鷺を画題として取り上げ、多様な水墨画作品を生み出した。以下に主要な作例を挙げ、各絵師の様式的特徴や、白鷺という主題へのアプローチについて考察する。
主要作例一覧表
作品名 (Work Title) |
作者 (Artist) |
時代 (Period) |
所蔵 (Collection) |
技法・材質 (Technique/Material) |
備考 (Notes) |
鷺図 (Sagi-zu) |
単庵智伝 (Tan'an Chiden) |
室町時代 (15-16世紀) |
東京国立博物館 |
紙本墨画 |
相阿弥の弟子、鋭い筆致 14 |
蓮鷺図 (Rensagi-zu) (伝) |
狩野元信 (Kanō Motonobu) |
戦国時代 (16世紀) |
泰巖歴史美術館 (伝) |
不明 (伝承作品) |
夏の画題、蓮との組み合わせ 26 |
花鳥図屏風 (Kachō-zu Byōbu) |
雪村周継 (Sesson Shūkei) |
室町時代 (16世紀) |
ミネアポリス美術館 |
紙本墨画 六曲一双 |
独特の構図、鯉と白鷺 27 |
雪中白鷺図 (Setchū Shirasagi-zu) (伝) |
雪村周継 (Sesson Shūkei) |
室町時代 (16世紀) |
不明 (伝承作品) |
不明 |
余白の活用 13 |
松に鴉・柳に白鷺図屏風 |
長谷川等伯 (Hasegawa Tōhaku) |
桃山時代 (16世紀) |
出光美術館 |
紙本墨画 六曲一双 |
対比表現、鴉と白鷺 29 |
松に叭叭鳥・柳に白鷺図屏風 |
狩野永徳 (Kanō Eitoku) |
室町~安土桃山時代 (16世紀) |
九州国立博物館 |
紙本墨画 六曲一双 |
大画様式、紙の白さを活かす 30 |
双鷺図 (Sōro-zu) (伝) |
狩野尚信 (Kanō Naonobu) |
江戸時代初期 |
京都国立博物館 (伝) |
紙本墨画 |
輪郭線なし、雪中白鷺は極限表現 (時代は戦国期から下るが、狩野派の白鷺図の参考として) 32 |
室町時代後期から戦国時代にかけての15~16世紀に制作されたとみられる単庵智伝筆「鷺図」は、紙本墨画の掛幅である 8 。作者の単庵智伝は、尼崎の塗物下絵師の子として生まれ、室町幕府8代将軍足利義政に仕えた同朋衆(どうぼうしゅう)であり、水墨画の名手であった相阿弥(1525年没)に弟子入りして画を学んだと伝えられる 14 。しかし、その生涯は短く、喧嘩によって若くして命を落としたという逸話が残っており、血気盛んな職人気質の画人であったことがうかがえる 33 。
東京国立博物館所蔵の「鷺図」は、水辺で魚を狙う一羽の鷺を、極めて少ない筆数で捉えた作品である。特に、鷺の頭部に見られる鋭利で力強い筆遣いは印象的であり、対象の生命感を見事に表現している 14 。単庵の現存作品は、師である相阿弥の画風を忠実に踏襲したものが多いとされているが 33 、この「鷺図」にも、東山文化の中で育まれた阿弥派の洗練された水墨画の様式が色濃く反映されている。この作品は、室町後期に確立された水墨画の伝統が、戦国という動乱の時代においても一部の画人によって継承されていたことを示す貴重な作例である。その鋭利な筆致は、水墨画における「減筆体(げんぴつたい)」の精神、すなわち最小限の筆数で対象の本質を捉えようとする意図の表れであり、同時に、作者自身の剛直な気質が反映された結果とも解釈できるかもしれない。戦国という不安定な社会の中で、才能を開花させながらも夭折した一画人の存在は、当時の美術界が抱えていた多様な側面と、個人の資質が作風に与える影響の大きさを物語っている。
狩野元信(1477~1559)は、狩野派の二代目として、父・正信が築いた基盤をさらに発展させ、室町時代後期から戦国時代にかけての画壇に大きな影響力を持った絵師である。泰巖歴史美術館には、元信筆と伝えられる「蓮鷺図」が存在するが、これは同館所蔵の「四季花鳥図屏風」の一部である可能性も指摘されている 26 。伝承によれば、この「蓮鷺図」は夏の情景を描いたもので、降りしきる雨の中、水面に舞い降りようとする白鷺と、その下で散りゆく蓮の花が描かれ、しっとりとした詩情豊かな画面が構成されているという 26 。
狩野元信は、水墨画の技法に加えて、やまと絵の伝統的な色彩表現や構図法も積極的に取り入れ、漢画(中国風の絵画)とやまと絵(日本風の絵画)の融合を図ったことで知られる 17 。また、多様な画題に対応できる工房体制を確立し、後の狩野派の隆盛の基礎を築いた。この伝元信筆「蓮鷺図」が水墨画であるとすれば、元信が確立したとされる明快な構図、力強い筆致、そして巧みな空間表現が、白鷺と蓮という伝統的な吉祥画題(「一路連科」に通じる)にどのように適用されたのかを考察する上で重要な手がかりとなる。画面に描かれたとされる「雨」という気象現象は、単なる背景描写に留まらず、画面全体の情緒や季節感を高め、白鷺の生態や蓮の花の儚(はかな)さを際立たせる効果を狙ったものと考えられる。元信の作品は、戦国時代の武将たちからの需要にも応え、力強さと装飾性を兼ね備えたものが多かったとされ、この「蓮鷺図」もそうした特徴を反映している可能性がある。
雪村周継(1504頃~1589頃)は、戦国時代に主に東国(関東地方や会津など)で活動した画僧であり、中央の画壇とは一線を画した個性的で力強い水墨画を数多く残した 28 。彼は特定の流派に属さず、中国の宋・元時代の絵画、特に禅僧画家・牧谿(もっけい)の作品に深く傾倒し、独学でその画法を習得したとされる 28 。
ミネアポリス美術館が所蔵する「花鳥図屏風」は、16世紀に制作された紙本墨画の六曲一双屏風である 28 。右隻には梅の古木に集う白鷺の群れと、その視線の先に水面から巨大な二匹の鯉が躍り出る様が描かれ、左隻では柳の木を背景に白鷺と燕が飛び交う様子が描かれている 27 。この作品は、雪村の奇抜とも評される大胆な構図感覚と、生き物たちの表情や動きを巧みに描き分ける卓越した技量を示している 27 。特に、牧谿が得意とした「没骨描」の技法を駆使し、明確な輪郭線に頼らず、墨の濃淡と滲みによって対象の質感や量感を表現している点が注目される 28 。
また、雪村筆と伝えられる「雪中白鷺図」は、雪の積もった枯れ木に一羽の白鷺が佇む姿を描いた作品で、画面上部に大きく取られた余白が、雪景色の静寂と白鷺の孤高な雰囲気を効果的に醸し出していると評されている 13 。
雪村の白鷺図は、中央の狩野派などの様式とは異なる、独自の力強さと精神性に満ちている。牧谿からの影響を深く受け止めつつも、それを単なる模倣に終わらせることなく、自らのフィルターを通して昇華させ、時にはユーモラスでさえある大胆な発想によって、独自の画境を切り開いた。白鷺というモチーフは、彼の鋭い自然観察眼と、それを水墨という画材で自在に表現する高度な技術を示す好例と言える。「花鳥図屏風」における鯉と白鷺という異質な取り合わせは、静と動、あるいは日常と非日常の劇的な対比を意図したものであり、見る者に強烈な印象を与える。白鷺の描写には、その生態を的確に捉えつつも、どこか擬人化されたような親しみやすさが感じられ、雪村の自然や生命に対する温かい眼差しがうかがえる 27 。
長谷川等伯(1539-1610)は、能登(現在の石川県)出身の絵師で、戦国時代末期から桃山時代、さらに江戸時代初期にかけて活躍し、狩野派と対抗しうる一大勢力を築いた巨匠である。出光美術館所蔵の「松に鴉・柳に白鷺図屏風」は、桃山時代の16世紀に制作された紙本墨画の六曲一双屏風である 29 。
この屏風は、右隻に力強い松の大木とそこに巣くう鴉の家族を描き、左隻には風になびくような繊細な柳の枯木と数羽の白鷺を描いている 29 。太く逞(たくま)しい松と細くしなやかな柳、そして羽毛の黒い鴉と純白の白鷺という、形態、色彩、さらには象徴性の点でも好対照をなすモチーフを左右隻に配することで、画面全体に緊張感と調和を生み出している 29 。等伯は、中国絵画の伝統では黒い鳥を描く際にしばしば用いられた叭々鳥(ははちょう)ではなく、あえて日本でも日常的に見られる鴉を描き、その巣で雛を慈しむ親鳥の姿を通して、生きとし生けるものが持つ普遍的な情愛を表現しようとしたと解釈されている 29 。
この作品における白鷺は、左隻の静謐(せいひつ)な空間の中で、柳の枯淡な風情と響き合い、清澄で優美な存在として描かれている。鴉との鮮やかな対比によって、その白さや象徴性が一層際立っていると言えるだろう。等伯は、水墨画の伝統的な技法を踏まえつつも、対象の内面や情感に深く迫ろうとする姿勢を見せており、それは新しい時代の気風を反映したものと考えられる。この屏風は、戦国末期から桃山期にかけての、武将たちの実質的で人間的な価値観への関心の高まりや、より日本的な情感を重視する美意識の転換期を象徴する作品の一つとして位置づけられる。
狩野永徳(1543-1590)は、祖父・元信、父・松栄(しょうえい)の跡を継ぎ、織田信長や豊臣秀吉といった天下人に仕えて安土城や聚楽第などの壮大な障壁画制作を指揮した、桃山画壇を代表する巨匠である。九州国立博物館が所蔵する「松に叭叭鳥・柳に白鷺図屏風」は、室町時代末期から安土桃山時代にあたる16世紀に制作された紙本墨画の六曲一双屏風である 31 。
この屏風もまた、左右隻で対照的な構成をとっている。右隻は「動」のパートとされ、力強い松の木と黒々とした叭々鳥が描かれ、春から夏にかけての生命力あふれる季節感が表現されている。一方、左隻は「静」のパートとされ、葉を落とし冬の佇まいを見せる柳の木と白い白鷺が描かれ、背景は雪景色へと移り変わり、秋から冬への季節の推移と静寂な雰囲気が漂う 30 。永徳は、この左隻の白鷺を描くにあたり、紙の地の色である「白」を効果的に活かして、その姿を表現していると指摘されている 30 。
この作品は、永徳の比較的初期の作例の一つと考えられており、祖父・元信から受け継いだ室町時代の水墨画の技法と、来るべき桃山時代の豪壮でダイナミックな美意識とが交錯する、過渡期の様相を示すものとして重要である 41 。中国・宋元の禅僧画家である牧谿が描いたとされる松と叭々鳥、柳と鷺という伝統的なモチーフを参照しつつも 41 、永徳はそれを日本の屏風という大画面形式へと展開し、より空間全体を意識した構成へと昇華させている。白鷺の表現において「紙の白さを活かす」という技法は、水墨画の本質的な特徴の一つであるが、永徳はそれを大画面の中で、墨の黒との対比を強調し、白鷺の存在感を際立たせるとともに、画面全体に緊張感と広がりを与える効果として用いている。これは、後の金碧障壁画に見られるような、壮大なスケール感と空間支配力への志向の萌芽とも言えるだろう。この屏風は、永徳が古い様式をまとめ上げ、そこから新しい桃山時代の画風へと展開していく出発点に位置づけられる作品である 41 。
狩野尚信(1607-1650)は、江戸時代初期に活躍した狩野派の絵師で、永徳の孫にあたり、兄である狩野探幽(たんゆう)と共に江戸幕府の御用絵師として重きをなした。彼の作品は戦国時代からは年代が下るものの、狩野派における白鷺図の技法的な展開や、水墨画表現の深化を知る上で非常に参考となる。
京都国立博物館に伝わる尚信筆「双鷺図」は、特にその卓越した水墨技法で知られている 32 。この作品の最大の特徴は、明確な輪郭線を用いずに、薄墨の濃淡や「塗り残し」といった技法(いわゆる「没骨法」に近い)だけで白鷺の柔らかな形態や羽毛の質感を表現している点である 32 。特に、左軸に描かれたとされる雪中の葦原に佇む白鷺の図は、「雪中白鷺の画題は、絵画としての極限表現である」と高く評価されている 32 。背景の雪も白、鷺自体も白という、色彩的には極めて限定された条件の中で、尚信は鷺の嘴(くちばし)、目、足、そして周囲の葦の茎などにのみ効果的に濃墨を用い、それ以外の鷺の体躯や葦の葉の上の雪などは、ごく淡い墨の調子や紙の白地そのものを活かして巧みに描き出している 32 。
尚信のこの技法は、対象の形態を捉えるだけでなく、雪のしんしんと降る情景や冷たく澄んだ空気感までも表現しようとするものであり、水墨画の持つ表現の可能性を極限まで追求した結果と言える。これは、永徳らが用いた「紙の白さを活かす」技法をさらに推し進め、より洗練させ、内省的で詩情豊かな境地へと高めたものと解釈できる。戦国・桃山時代のダイナミックな力強さとは異なる、江戸初期の狩野派に見られる知的で洗練された美意識が、この「双鷺図」には顕著に表れている。
戦国期から桃山期にかけて描かれた「白鷺図」は、水墨画の伝統的な技法を基盤としつつ、絵師たちの個性や時代の要請に応じて様々な表現の工夫が見られる。特に、白鷺という白い鳥を描くという主題の特性上、墨の扱い方や余白の活かし方が重要なポイントとなった。
水墨画の根幹をなすのは、墨一色でありながら無限の階調を生み出す墨の濃淡と、描線の質を決定づける筆致である。白鷺図においても、これらの要素が巧みに駆使された。
元時代の水墨画に見られるような、墨の潤いを豊かに保った表現は、一部の作品で継承されていた 9 。これは、墨に含ませる水分量を調整し、滲みやぼかしを効果的に用いることで、対象の柔らかさや瑞々しさを表現する技法である。
一方で、単庵智伝の「鷺図」に見られるように、対象の本質を鋭く捉えるために、極めて簡潔なタッチと鋭利な筆遣いが用いられることもあった 14 。こうした表現は、白鷺の精悍な一面や、一瞬の動きを捉えるのに適していたと考えられる。
また、「没骨描(もっこつびょう)」、すなわち明確な輪郭線を用いずに墨の濃淡だけで形体を表す技法も、白鷺図において効果的に用いられた 9 。雪村周継は、彼が私淑した中国の画家・牧谿に倣い、この没骨描を多用して、白鷺の柔らかな羽毛の質感や丸みを帯びた体躯を表現した 28 。時代は下るが、狩野尚信の「双鷺図」も、輪郭線に頼らない描法で白鷺を描き、水墨ならではの諧調の美しさを示している 32 。
白鷺の白い羽毛やしなやかな体躯は、墨の濃淡や滲み、そして筆致の妙を駆使する水墨画の技法と非常に親和性が高い。絵師たちは、墨と水と筆という限られた画材を用いながら、白鷺の視覚的な特徴である白さ、その質感や量感、さらには清澄な気配や生命感までも表現しようと試みた。その技法の選択は、単に写実的に対象を再現することを超えて、絵師が白鷺という主題にどのようなイメージ(例えば、孤高、優美、力強さ、あるいは親しみやすさなど)を託そうとしたのかという、内面的な意図と深く結びついていたと考えられる。
東洋絵画、特に水墨画における「余白」は、単に何も描かれていない空間を意味するのではない。それは、大気、霧、水、あるいは無限の空間の広がりなどを暗示し、描かれた対象と響き合いながら画面全体に奥行きや詩情をもたらし、見る者の想像力を豊かに刺激する積極的な構成要素である 11 。
白鷺図においても、この余白の活用は極めて重要な意味を持った。白鷺そのものの「白」と、画面上の「余白」とは視覚的に連続しやすく、両者が互いに作用し合うことで、独特の美的効果を生み出す。例えば、雪村周継筆と伝えられる「雪中白鷺図」では、画面上部にたっぷりと取られた余白が、雪景色の静寂さや深遠さ、そして白鷺の孤高な存在感を強調していると評されている 13 。
また、狩野尚信の「双鷺図」においては、大きな余白空間が、効果的に配置された濃墨のアクセント(鷺の嘴や足、葦の茎など)によって巧みに引き締められ、画面に緊張感と静謐さをもたらしている 32 。
白鷺図における余白は、白鷺の清浄なイメージと共鳴し、画面に清澄さや静寂感、あるいは無限の広がりといった印象を与える効果がある。特に「雪中白鷺図」のような、背景も主題も「白」を基調とする画題においては、余白と描かれた雪、そして白鷺の白が一体となり、高度に洗練された詩的な空間が現出される。この場合、鑑賞者は描かれていない部分にも、しんしんと降り積もる雪の広がりや、凍てつくような寒気を感じ取ることができるのである。余白はまた、白鷺の孤独感や精神性、あるいは禅的な「無」の境地を暗示するためにも用いられた可能性があり、水墨画の奥深い表現力を示す要素と言える。
戦国期から桃山期にかけての白鷺図、特に城郭の広間などを飾るために制作された屏風絵においては、単に白鷺の姿を描くだけでなく、他のモチーフとの組み合わせや画面全体の構成を通じて、より複雑な空間性や物語性を追求する傾向が見られた。
長谷川等伯の「松に鴉・柳に白鷺図屏風」や狩野永徳の「松に叭叭鳥・柳に白鷺図屏風」は、その代表例である 29 。これらの作品では、六曲一双という屏風の形式を活かし、左右隻でモチーフ(松と柳、鴉や叭々鳥と白鷺)、季節感(春夏と秋冬)、あるいは画面の雰囲気(動と静)などを対比させる構成が巧みに用いられている。こうした対比は、画面全体にダイナミズムと視覚的な面白みをもたらすと同時に、それぞれのモチーフの持つ象徴性を際立たせる効果も生んでいる。白鷺は、対となるモチーフや背景との関係性の中で、その美しさや意味合いがより豊かに浮かび上がるのである。
水墨画における奥行きの表現は、墨の濃淡のグラデーション(手前を濃く、奥を薄く描くことで空気遠近法的な効果を出す)、モチーフの大小や重なりの配置、そして余白の効果的な活用などによって達成される。狩野元信の「四季花鳥図屏風」(大仙院旧蔵、現在は掛幅に改装)では、S字状に力強く曲がりながら伸びる松の巨木が画面全体の骨格を形成し、横長の画面に安定感とリズムを与えている 42 。
また、狩野尚信の「双鷺図」では、右軸では蓮池に舞い降りようとする白鷺をやや上方から見下ろす俯瞰的な視点で捉え、左軸では雪中の葦原に佇む白鷺を側面から水平的に捉えるという、視点の異なる構図の対比が見られる 32 。これにより、鑑賞者は異なる角度から白鷺の様々な姿態や表情を味わうことができる。
これらの大画面作品において、白鷺はしばしば広大な自然の一部として、より大きな世界観の中に位置づけられる。絵師たちは、近景・中景・遠景の巧みな配置や、墨の濃淡による空間表現、あるいは金雲などを用いた場面の転換や空間の分節によって、二次元の平面である画面に三次元的な広がりや奥行きを創出しようと試みた。このような空間意識の発展と表現の追求は、戦国・桃山時代の城郭建築に見られるような物理的な空間の拡大や、当時の人々の世界観の広がりとも無縁ではなかったであろう。それは、パトロンである武将たちの権勢を飾るという社会的な機能と、絵師自身の芸術的な野心の両方を反映した結果と言えるかもしれない。
戦国時代の「白鷺図」は、室町時代から受け継がれてきた水墨画の豊かな伝統を基盤としながらも、新たな時代の息吹を反映して多様な展開を見せた重要な画題であった。禅宗文化の影響下で育まれた清浄さや高潔さといった白鷺の伝統的な象徴性に加え、戦乱の世を生きる武家社会の価値観を色濃く反映した吉祥性(立身出世、家運隆盛、武運長久など)が付与され、武将をはじめとする幅広い層に受容されたと考えられる。
本報告書で概観したように、室町後期の阿弥派の系譜を引くとされる単庵智伝から、狩野派の基礎を固めた狩野元信、東国で独自の画境を切り開いた雪村周継、そして桃山画壇を領導した長谷川等伯や狩野永徳に至るまで、多くの優れた絵師たちが白鷺を主題として取り上げ、それぞれ独自の様式と卓越した技法でその優美な姿や精神性を描き出した。
技法的には、墨の濃淡や筆致の妙、滲みやぼかしといった水墨画固有の表現特性が深く追求されると同時に、屏風絵などの大画面化に対応するための大胆な構図やダイナミックな空間表現も発展した。特に、白鷺の「白」を表現するために、紙の地の色をそのまま活かすという技法は、この主題ならではの挑戦であり、絵師たちの創意工夫が見られる点である。
総じて、戦国時代の「白鷺図」は、当時の日本美術が、中国絵画の伝統と日本独自の美意識、禅的な精神性と現世的な願望、そして旧時代の様式と新時代の様式といった、複数の異なる要素を内包し、時にはそれらを融合させながらダイナミックに展開した様相を具体的に示す、貴重な作例群であると言える。これらの作品群を研究することは、戦国という激動の時代を生きた人々の美意識や世界観を理解する上で、極めて大きな美術史的意義を持つ。
本報告書で触れることができたのは、戦国期の「白鷺図」の限られた側面に過ぎない。今後の研究においては、以下のような点が課題として挙げられるだろう。
これらの課題に取り組むことで、戦国時代の「白鷺図」に対する理解は一層深まり、ひいては日本美術史全体におけるこの時代の意義をより豊かに描き出すことが可能となるであろう。