本報告は、日本の戦国時代における「石菖蒲図」という主題の墨画に焦点を当て、その歴史的背景、文化的意義、および美術史上の展開について詳細かつ徹底的な調査結果をまとめることを目的とする。特に、現存する作例が限られている中で、主題としての石菖蒲が持つ多層的な意味合いと、それが当時の美術とどのように関連し得たのかを考察する。
「石菖蒲図」は、植物の石菖蒲(セキショウ)を主題とした絵画を指し、本報告では特に墨画(水墨画)に限定して扱う。石菖蒲は、その清廉な姿や薬効、さらには禅宗との関わりから、東洋美術において特有の象徴性を持つ画題である。
美術史的には、中国元代の禅僧画家・子庭祖柏(していそはく)による作例が知られており、これが日本に伝来し、室町時代以降の水墨画に影響を与えたと考えられている 1 。石菖蒲を描くことは、単に植物の形態を写すに留まらず、その背景にある文化的・思想的な意味合いを表現する行為でもあった。
戦国時代(15世紀後半~16世紀末)は、社会全体が大きく揺れ動いた動乱期であると同時に、大名や有力寺社、豪商といった新たな美術の享受者層が出現し、美術もまた多様な展開を見せた時代であった。水墨画においては、室町時代から続く禅宗文化の影響を受け継ぎつつも、狩野派の台頭や雪舟様式の普及など、新たな動きが活発化した 2 。
この時代に「石菖蒲図」がどの程度制作されたかについては、現存資料からは明確な判断が難しい。しかしながら、石菖蒲の持つ尚武や辟邪といった意味合いは、戦国武将の精神性と共鳴する可能性があり、主題として受容される素地は十分に存在したと考えられる。戦国時代という特殊な時代背景、すなわち武士の価値観の高まりや禅宗の影響の継続が、「石菖蒲」という主題に新たな解釈や需要を生んだ可能性がある一方で、現存作例が少ないという事実は、他の画題、例えばより直接的に武勇を示す武者絵や、権力を象徴する豪華絢爛な金碧障壁画などへの関心が高かったこと、あるいは戦乱による作品の散逸などを示唆しているかもしれない。この「なぜ作例が少ないのか」という問い自体が、戦国時代の美術における優先順位や価値観を反映している可能性があり、本報告における重要な論点の一つとなる。「石菖蒲図」の存在、あるいはその不在は、戦国時代の文化における中国文化受容のあり方や、日本独自の美意識の形成過程を考察する上での一つの指標となり得る。子庭祖柏の作品が室町時代に高く評価された後 1 、戦国時代にその主題がどのように継承または変容したか(あるいはされなかったか)は、まさに時代の精神性を反映する鏡と言えるだろう。
石菖蒲(学名: Acorus gramineus )と菖蒲(ショウブ、学名: Acorus calamus 、あるいはアヤメ科のハナショウブやアヤメを指す場合もある)は、名称が類似し、しばしば混同されるが、植物学的には異なる特徴を持つ。例えば、石菖蒲の葉には中央の明確な筋(中肋)がないのに対し、ショウブの葉には中肋が存在する点が挙げられる 4 。
日本では、両者ともに薬用や邪気払いに用いられてきた歴史があるが、その文化的背景やニュアンスには差異が見られる。石菖蒲は特に禅宗文化との結びつきが強く、その清浄なイメージや精神性が重視された。一方、ショウブは端午の節句の行事と深く関連し、尚武の象徴としての意味合いを強く持つ 4 。
和名である「石菖」は、漢名の「石菖蒲」を略したものであり、「石」という文字が冠されていることからも推察されるように、「葉が硬い菖蒲」あるいは「薬効を持つ菖蒲」といった意味合いが込められているとされる 4 。この「石」の字が持つ硬質さや薬効の強さといったニュアンスは、水墨画が追求する精神性や、主題に込められる象徴性と深く関わってくる。
以下に、石菖蒲と菖蒲の主な特徴と文化的意味を比較した表を示す。
表1:菖蒲と石菖蒲の文化的意味比較
特徴項目 |
菖蒲(ショウブ) |
石菖蒲(セキショウ) |
主な植物学的特徴 |
葉に中肋がある 4 。 |
葉に中肋がない 4 。 |
主な文化的関連 |
端午の節句(菖蒲湯、菖蒲酒、軒菖蒲など) 5 、尚武の象徴 5 。 |
禅宗文化(菖蒲茶など) 6 、薬用(特に開竅・辟穢作用) 10 、庭園植物。 |
象徴的意味・イメージ |
邪気払い、尚武、勝負、勇壮。 |
清浄、精神覚醒、不老長寿、隠逸、薬効。 |
美術作品の主題として |
尚武的な意味合いで武具の意匠などに用いられることが多い。 |
禅的な精神性や清廉さを表現する水墨画の画題として好まれる。 |
この表は、石菖蒲と菖蒲が名称や一部の用途において類似性を持つものの、特に禅宗文化との関わりや薬効のニュアンスにおいて明確な差異があることを示している。戦国時代という文脈で「尚武」と強く結びつくのは主に「菖蒲」であり、石菖蒲がそのイメージとどのように関連付けられたか、あるいは区別されたかを考察する上で、この区別は極めて重要となる。
端午の節句(旧暦5月5日)は、古代中国において邪気を祓うための風習にその起源を持ち、日本へは奈良時代に伝来し、宮廷行事として取り入れられた 5 。この節句において中心的な役割を果たすのが菖蒲(ショウブ)である。その特有の強い芳香が邪気を祓うと信じられ、菖蒲湯に浸かったり、菖蒲酒を飲んだり、菖蒲の葉を軒に挿したり、枕の下に敷いたりするなどの多様な形で用いられてきた 4 。
鎌倉時代に入り武家が社会の中心となると、端午の節句の性格にも変化が生じる。「菖蒲(しょうぶ)」という言葉の音が、武事を尊ぶ「尚武(しょうぶ)」や、戦いの勝敗を意味する「勝負(しょうぶ)」と通じることから、この節句は特に男子の成長と武運長久を祈る行事としての性格を強めていった 5 。このため、菖蒲の葉を刀に見立てて遊んだり、鎧や兜といった武具に菖蒲の意匠を施したりすることが盛んに行われるようになった 5 。
石菖蒲もまた、薬草としての優れた効能や辟邪の力を持つと信じられており 10 、端午の節句における菖蒲を用いた様々な風習の中には、石菖蒲の薬効に対する期待も含まれていた可能性が考えられる。
戦国時代の武将たちは、菖蒲を「勝負」に繋がる吉祥の象徴として特に好み、自らの武具や甲冑の意匠に積極的に取り入れた 11 。彼らにとって、戦場での勝利は何よりも優先されるべきものであり、「菖蒲」が「勝負」や「尚武」に通じるという事実は、強力な験担ぎとして、また自らの武威を示す象徴として機能した。
その代表的な例として、豊臣秀吉が所用したと伝えられる「一の谷馬藺兜(いちのたにばりんかぶと)」(東京国立博物館蔵)が挙げられる。この兜は、菖蒲の葉をかたどった長大な後立(うしろだて)が極めて印象的であり、秀吉の勝利への執着と武威を象徴するものと解釈されている 12 。また、菖蒲の持つ色彩、特に浅黄色なども厄除けの色として武士の衣装などに用いられた記録がある 5 。さらに、「菖蒲作り」と呼ばれる、菖蒲の葉の形に似た刀身の造り込みも存在し、武将たちに愛好された 14 。
このように、菖蒲(そして、それと関連付けられる石菖蒲)は、戦国武将の精神世界と深く結びつき、彼らの武具や装束を彩る重要なモチーフとなっていた。
石菖蒲は、古くから漢方薬としても珍重されてきた。現代の中医学においても、意識や精神を覚醒させる「開竅薬(かいきょうやく)」に分類され、特に湿邪が脳に影響を及ぼして生じる意識障害、耳鳴り、健忘などの症状に効果があるとされる 10 。この「開竅」作用は、精神を清明にし、集中力を高める効果とも解釈でき、禅の修行や武士の精神修養とも通じるものがある。
また、石菖蒲には「辟穢(へきわい)」作用、すなわち邪気を祓い清める力があるとされ、古来より感染症の予防などにも用いられてきた 10 。この辟邪の力への信仰は、端午の節句に菖蒲を用いる風習の根底にある思想と共通しており、戦乱が絶えず、疫病も流行しやすかった戦国時代において、石菖蒲の薬効や辟邪の力は、実利的な価値と共に精神的な支えとしても重要視されたと考えられる。これらの要素が複合的に作用し、菖蒲・石菖蒲は武家社会において広く受容された。そして、この武家社会の強い関心は、これらの植物を画題とする絵画制作への動機付けとなり得た。特に、尚武や辟邪といった意味合いを込めた「石菖蒲図」が、武将やその周辺の禅僧によって求められた可能性が示唆される。これは、単なる花鳥画の枠を超え、精神的な象徴としての意味合いを帯びた作品制作の可能性を開くものであった。
石菖蒲は、禅宗文化においても特別な意味を持つ植物であった。中国の宋代の禅林において、端午の節句に際して、菖蒲(あるいは石菖蒲)の葉を茶に浮かべて飲む「菖蒲茶」という独特の風習が生まれたとされる 6 。これは、飲酒を禁じられていた禅僧たちが、菖蒲酒の代わりに邪気を祓うという民間習俗を取り入れたものと考えられている 6 。
この菖蒲茶の習慣は、禅宗の伝播とともに日本にも伝わり、鎌倉時代以降の日本の禅僧たちの記録にもその名を見ることができる 6 。中世の禅林においては、菖蒲茶は中国の辟邪思想に基づいて、菖蒲の特有の香気によって邪気を祓うという実際的な意味合いで飲まれていた。しかし、時代が下り江戸時代になると、その意味合いも変化し、「祝茶」として節句を祝うためのものへと変容していったとも指摘されている 6 。
石菖蒲が持つ清浄なイメージや、その薬効とされる精神を覚醒させる作用 10 は、禅の修行において重視される精神集中や内省といった価値観と深く親和するものであったと考えられる。禅僧たちが石菖蒲に触れる機会は、菖蒲茶の風習だけでなく、禅宗寺院の庭園にも石菖蒲が好んで植えられたことからも窺える。その簡素でありながら清澄な姿は、禅の美意識に適うものとして愛されたのであろう。
元代末期の禅僧であり、詩文や水墨画に優れた子庭祖柏は、石菖蒲を特に得意な画題としていたことが知られている 1 。彼が水墨で描いた石菖蒲図は、江南の文雅の士たちの間で高く評価され、室町時代には日本にもたらされて、同様に賞賛された 1 。
水墨画は、墨一色、あるいは淡彩を交えながらも、墨の濃淡や筆致の妙によって対象の本質や内包する精神性を表現しようとする絵画形式である。石菖蒲の持つ、華美ではない簡素さ、清らかさ、そして内に秘めた生命力や力強さといった特質は、このような水墨表現の特性と極めて相性が良い主題であったと言える。
禅僧画家たちは、しばしば身の回りの自然物の中に禅的な境地や宇宙の真理を見出し、それを絵画として表現することを試みた。石菖蒲もまた、そうした禅的な観照の対象となり得る植物であった。禅僧画家が石菖蒲を好んで描いた背景には、第一に禅林における日常的な接触(菖蒲茶の飲用や庭園での観賞)、第二に石菖蒲の持つ清浄さや精神覚醒といった性質が禅の理念と深く合致したこと、そして第三に水墨画という表現媒体が石菖蒲の持つ簡素な美や精神性を捉えるのに最も適していたことなどが挙げられる。子庭祖柏の作品が日本で受容されたのも、まさにこうした背景があったからこそと考えられる。この禅宗を通じた石菖蒲の絵画の導入と評価は、戦国時代の武将たち、特に禅宗に帰依した者たちが「石菖蒲図」を求める素地を形成した可能性がある。武将たちは、禅の精神性とともに、石菖蒲の持つ尚武や辟邪といった実際的な意味合いにも価値を見出したかもしれない。これにより、「石菖蒲図」は宗教的な絵画としての側面と、世俗的(武家的)な縁起物としての側面の両義性を帯びる可能性が生じてくる。
現存する「石菖蒲図」の中で、美術史的に最も重要視される作例の一つが、元代の禅僧・子庭祖柏(「柏子庭」とも記される)による「絹本墨画石菖蒲図」である。本作品には作者自身の賛が伴っており、日本の文化財保護法に基づき重要文化財に指定されている 1 。
子庭祖柏は、元代末期(14世紀)に活動した禅僧であり、詩文に優れ、水墨画も巧みであったと伝えられている 1 。彼の画風は、禅の精神性を反映した簡潔かつ気品のあるものであったとされる。
「絹本墨画石菖蒲図」は、その名の通り絹本に墨で描かれており、数株の石菖蒲が岩間か水辺に凛として生えている様子を捉えている。筆致は簡潔でありながら力強く、石菖蒲の生命力と清澄な気品を見事に表現している。余白を効果的に生かした構図は、禅余画(禅僧が余技として描いた絵画)の典型的な様式を示しており、観る者に深い精神性を感じさせる。画面上部には作者自身による賛が記されており、その内容は石菖蒲の清らかさや不屈の生命力を禅的な境地と結びつけたものであったと推測されるが、詳細な解読と分析は専門的な研究に俟つ部分が大きい。
本作品の伝来については、かつて美術収集家として知られた梅沢彦太郎氏が所蔵し、その後、氏のコレクションを基に設立された梅澤記念館の所蔵となったことが記録されている 16 。1956年(昭和31年)6月28日には、その文化財的価値が認められ、重要文化財に指定された 16 。
また、東京文化財研究所のガラス乾板データベースには、本作品が1954年(昭和29年)12月4日に撮影された記録が残っており、当時の所蔵者が梅沢彦太郎氏であったことが確認できる 17 。
以下に、子庭祖柏筆「絹本墨画石菖蒲図」の概要をまとめた表を示す。
表2:子庭祖柏筆「絹本墨画石菖蒲図」概要
特徴項目 |
内容 |
出典 |
作品名 |
絹本墨画石菖蒲図〈子庭祖柏筆/自賛がある〉 |
16 |
作者 |
子庭祖柏(柏子庭) |
1 |
時代 |
元時代(14世紀) |
1 |
材質・技法 |
絹本墨画 |
16 |
員数 |
1幅 |
16 |
寸法 |
(具体的な寸法に関する情報は提供資料中に見当たらない) |
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旧所蔵者 |
梅沢彦太郎 |
17 |
現所蔵者 |
(資料に基づけば梅澤記念館。ただし、記念館の現状や作品の現在の正確な所在については別途確認が必要) |
16 |
文化財指定 |
重要文化財(1956年6月28日指定) |
16 |
主要参考文献 |
島田修二郎「子庭祖柏筆石菖蒲図」(『美術研究』180号、1955年3月) <br> 米沢嘉圃「柏子庭筆石菖蒲図_解説_梅沢彦太郎氏蔵」(『国華』783号、1957年6月) |
17 |
子庭祖柏筆「絹本墨画石菖蒲図」に関しては、日本の美術史研究においていくつかの重要な論考が存在する。
美術史家の島田修二郎氏は、1955年(昭和30年)3月発行の学術雑誌『美術研究』第180号に論文「子庭祖柏筆石菖蒲図」を発表した 17 。この論文は、同号のp.245からp.250にかけて掲載され、巻頭図版1から3に関連図版が掲載されている 18 。島田氏の研究は、子庭祖柏という画家の人物像、作品の様式的特徴、そして日本への伝来の可能性などについて詳細な考察を行ったものと考えられ、本作品の学術的評価を確立する上で大きな役割を果たした。
また、同じく美術史家の米沢嘉圃氏も、1957年(昭和32年)6月発行の美術雑誌『国華』第783号において、「柏子庭筆石菖蒲図_解説_梅沢彦太郎氏蔵」と題する解説文を発表している 17 。これもまた、本作品の美術史上の意義を明らかにする上で重要な文献である。
これらの先駆的な研究は、子庭祖柏の「石菖蒲図」が日本美術史の中でどのように位置づけられ、後世の画壇にどのような影響を与え得るのかを考察する上での基礎となっている。
子庭祖柏の「石菖蒲図」が室町時代に日本へもたらされ、高く評価されたという事実は 1 、その影響を受けて、室町時代から戦国時代にかけて日本の禅僧画家や、狩野派に代表される職業絵師たちによって「石菖蒲図」が描かれた可能性を示唆する。
しかしながら、現存する作品の中で、戦国時代に制作されたと明確に特定できる「石菖蒲図」の墨画作例に関する情報は、提供された資料からは極めて乏しい。例えば、 21 は美濃国における訴訟に関連する文書であり、その内容が宗教関係のものが多く後世に写されたものであるという記述はあるものの、直接的な石菖蒲図の作例を指すものではない。
戦国時代の画壇においては、狩野派が幕府や有力武将の御用絵師として確固たる地位を築き、また、雪舟等楊の画風も大きな影響力を持っていた。
狩野派は、山水画、人物画、花鳥画など幅広い主題を手がけたが、石菖蒲を主要な画題として積極的に描いたかどうかは現時点では不明である。 22 は17世紀後半以降の作とされる菖蒲図(これが石菖蒲であるかは不明)について、狩野派的な岩の表現と琳派を思わせる装飾性について言及している。また、 23 や 24 は狩野元信の花鳥図に触れているが、菖蒲図に関する具体的な記述は見られない。
雪舟(1420年~1506年頃)は、室町時代を代表する水墨画家であり、その力強い筆致と独創的な構図は、戦国時代の画壇にも大きな影響を与えた。雪舟自身が石菖蒲を描いたという直接的な記録は提供資料の中には見当たらない( 25 、 26 は雪舟の山水図に関するものである)。しかし、彼の弟子筋や、その画風に影響を受けた画家たちが、禅的な主題の一つとして石菖蒲を取り上げた可能性は考慮に値する。
27 に見られる室町時代の水墨画における菖蒲やその他の草花の写実的な描写は、石菖蒲もまた同様の関心を持って描かれた可能性を示唆しており、興味深い。
戦国時代の「石菖蒲図」の墨画作例を探索するには、東京国立博物館 12 、根津美術館 29 、京都国立博物館 2 といった主要な美術館の所蔵品情報や過去の展覧会図録などを網羅的に調査する必要がある。ただし、注意すべき点として、 28 で言及されている鳥文斎栄之筆「石菖蒲図」は江戸時代の浮世絵であり、墨画ではない。また、 29 や 29 で触れられている根津美術館所蔵の作例は、円山応挙の「写生画」であり、これも時代が異なる。
「石菖蒲図」という名称で作品を検索した場合、その多くは子庭祖柏の作品か、より広義の菖蒲図(アヤメやハナショウブを描いたもの)、あるいは後代の作品である可能性が高い。戦国時代の墨画に限定して作例を見つけ出すことは、現状では困難を伴うと予想される。
今後の調査においては、「石菖蒲図」という特定の名称に限定せず、「菖蒲図」として記録されている作品群の中に、実際には石菖蒲を描いた墨画が含まれている可能性も視野に入れ、より広範な調査を行う必要がある。石菖蒲が持つ文化的・象徴的意味(尚武、辟邪、禅)は戦国時代の精神性と親和性が高いにもかかわらず、明確な戦国時代の「石菖蒲図」墨画の作例が資料上少ないという現状は、いくつかの可能性を示唆する。第一に、そもそも制作数が少なかったか、あるいは現存していない可能性。第二に、記録に残りにくい小品として制作された可能性。第三に、武者絵や城郭の障壁画など、より時代の要請に合致した主題が優先された可能性。そして第四に、「菖蒲図」というより包括的な名称で記録・分類されている可能性である。子庭祖柏の作品が「名品」として認識されていたからこそ、安易な模倣や多数の制作には繋がらず、むしろその精神性を受け継ぐ形で、より日本的な感性に基づいた草花図へと展開した、あるいは特定の禅刹や数寄者によって秘蔵されたといったシナリオも考えられる。この主題を巡る制作状況の不明瞭さ自体が、当時の美術市場やパトロンの嗜好、絵師の主題選択の力学を考察する上で、逆説的ながら重要な手がかりとなるかもしれない。
戦国時代の武将たちは、単に武勇を競うだけでなく、文化的素養を身につけることや、美術品を通じて自らの権威を示すことにも熱心であった。茶の湯の流行は、彼らの美意識の形成に決定的な影響を与え、わび・さびといった禅的な価値観も浸透していった。
水墨画は、禅宗の精神性と深く結びつき、武士階級の間で広く受容されていた。簡潔さの中に奥深い精神性を求める美意識は、戦国武将の一部にも共有されていたと考えられる。雪舟の示す力強い画風や、狩野派が確立した格調高い様式は、武家の需要に応えるものであった 3 。
花鳥画もまた、戦国武将たちに愛好されたジャンルである。自然の美しさや季節の移ろいを愛でるという純粋な審美的な側面だけでなく、描かれる花や鳥に吉祥の意味合いを込めて、自らの繁栄や武運長久を願うという側面も持ち合わせていた 30 。菖蒲や石菖蒲も、前述の通り「尚武」や「辟邪」といった象徴性を持つことから、花鳥画の画題として取り上げられる素地は十分に存在した。
石菖蒲という植物が持つ、華美ではないが凛とした気品のある姿、そして古来より信じられてきた薬効や辟邪の力、さらには禅宗と結びつく清浄さや深い精神性は、戦国時代という特殊な時代精神と響き合うものであった可能性が高い。当時の武将たちが尊んだ質実剛健の気風や、常に死と隣り合わせの日常の中で精神的な支えを希求する心性に、石菖蒲の持つイメージは合致する部分が多かったと考えられる。
特に、水墨という技法で描かれる「石菖蒲図」は、色彩を極限まで排し、墨の濃淡と筆致の巧みさによって対象の本質に迫ろうとするものであり、これは禅の思想における「不立文字、教外別伝」の精神とも通底する。戦国武将の中には、茶の湯や禅を通じてこうした精神文化に深く親しんだ人物も少なくなく、彼らにとって「石菖蒲図」は、単なる植物画を超えた、深い精神的な意味を担う作品となり得たであろう。
例えば、石菖蒲の剣のように鋭く伸びる葉の形は武の象徴として、岩間や水辺に力強く根を張る姿は不屈の精神の表れとして、そして清らかな花(石菖蒲の花は目立たないが)はその高潔さの象徴として解釈することも可能である。これらは、戦国武将が理想とした姿や価値観と重なり合う要素であり、「石菖蒲図」が彼らに受容されるとしたら、それは石菖蒲の持つ「尚武」「辟邪」といった直接的な意味合いに加え、禅を通じて培われた「精神性」「質実剛健」といった価値観との共鳴によるものが大きいと考えられる。もし戦国時代に「石菖蒲図」が描かれていたとすれば、それは単に中国絵画の模倣としてではなく、戦国時代特有の精神性、例えば乱世を生き抜くための覚悟や、簡素なものの中にこそ真理を見出そうとする禅的な境地を反映した、日本独自の解釈が加えられた作品であった可能性が考えられる。これは、後の桃山文化に見られる豪壮華麗な表現とは異なる、もう一つの美意識の潮流を示唆するものかもしれない。
本報告を通じて明らかになったように、戦国時代に制作されたと明確に特定できる「石菖蒲図」の墨画作例は、現時点の資料からは確認することが困難であった。しかしながら、元代の禅僧画家・子庭祖柏による「絹本墨画石菖蒲図」が室町時代に日本へ伝来し、高く評価されていた事実 1 、そして石菖蒲という植物自体が持つ豊かな文化的・象徴的意味(尚武、辟邪、薬効、禅との関連)を考慮すると、この主題が当時の人々に何らかの形で受容され、描かれていた可能性は十分に考えられる。
特に、武家社会においては「菖蒲」が「尚武」と結びつくことから強い関心を集め、また禅宗文化の影響も武士階級に深く浸透していた。このような背景から、石菖蒲は精神的な象徴性を帯びた画題として、特に水墨画で表現されるにふさわしい対象であったと言えるだろう。
もし戦国時代に「石菖蒲図」の墨画が存在したとすれば、それは中国絵画の単なる模倣に留まるものではなく、戦国時代特有の質実剛健な精神や、禅的な美意識を色濃く反映した、日本独自の解釈や表現が試みられた作品であった可能性が推測される。それは、桃山時代の絢爛豪華な美術とは異なる、もう一つの精神的な深みを追求した美術のあり方を示唆するものかもしれない。
戦国時代の「石菖蒲図」墨画の全貌を解明するためには、さらなる多角的な調査が不可欠である。今後の研究においては、以下の点が重要な課題となるだろう。
第一に、戦国時代の古記録、特に武将や禅僧の日記、茶会記、寺社縁起といった一次史料の中に、「石菖蒲図」あるいはそれに関連する可能性のある「菖蒲図」の記述がないか、より広範かつ詳細な調査を行う必要がある。提供された資料の中には、日記や茶会記の存在を示唆するものはあったが ( 32 など)、直接的に「石菖蒲図」の制作や鑑賞に関する記述は見当たらなかったため、未調査の史料群に光を当てる努力が求められる。
第二に、各地の美術館、博物館、寺社、そして個人コレクションに所蔵されている「作者不詳」あるいは「伝○○筆」とされる室町時代から戦国時代の花鳥図や草花図の中に、「石菖蒲図」として再評価しうる作例が埋もれていないか、実見調査を進める必要がある。
第三に、戦国武将や高僧の肖像画の背景描写や、現存する寺社などの障壁画の一部として、石菖蒲が描かれていないかという視点からの調査も有効であろう。
第四に、子庭祖柏の「石菖蒲図」が、具体的にどのような経路で日本に伝来し、戦国時代の絵師たちにどのような影響を与えたのか、その伝播の具体的な過程をより詳細に解明することも重要な課題である。
現状では、戦国時代の「石菖蒲図」は、いわば「可能性の美術史」の領域に留まっていると言わざるを得ない。今後の研究は、確実な作例の発掘を目指すとともに、もし作例が発見されない場合であっても、石菖蒲というモチーフが同時代の他の文化事象(茶の湯の道具の意匠、武具の装飾、和歌や漢詩における詠題など)とどのように連携し、当時の人々の精神世界にどのような位置を占めていたのかを、文化的背景から再構築していくという方向性が考えられる。
「石菖蒲図」という一見限定的に見える画題の研究を深めることは、戦国時代の美術における中国文化受容の具体的な様相、武家文化と禅宗文化の複雑な相互作用、さらには当時の人々の自然観や精神性をより深く理解するための一助となるであろう。また、美術史研究における「主題」の多義性や、時代による解釈の変遷を明らかにする上でも、示唆に富む事例となり得る可能性を秘めている。