利休作「園城寺」は、小田原の陣中に韮山竹の干割れを活かし制作。弁慶の鐘伝説になぞらえ、不完全さや無作為の美を表現。利休の精神を象徴し、現在は東博所蔵。
本報告書は、安土桃山時代に千利休によって作られたと伝わる竹一重切花入、銘「園城寺」について、多角的な視点からその全貌を解明することを目的とする。この花入は、単なる一工芸品としてではなく、戦国末期の緊迫した政治状況、わび茶の思想的成熟、そして日本の美意識における価値観の転換点を凝縮した、極めて重要な文化遺産である。その質素な姿には、作者である千利休の美学の精髄が込められていると同時に、当代随一の権力者であった豊臣秀吉との緊張関係、さらには愛弟子の非業の死という、時代の暗い影が色濃く落とされている。
「園城寺」の誕生は、美と政治、創造と破壊が激しく交錯する時代の坩堝の中からであった。秀吉が黄金の茶室に代表されるような「可視化された権力」を志向したのに対し、利休はありふれた竹の「ひび割れ」という、不完全さの中にこそ宿る「不可視の精神性」を対置させた。この花入は、二人の価値観の対立を象徴する一種の思想的マニフェストであり、その分析は美術史的考察に留まらず、戦国末期の思想闘争を解読する鍵となる。したがって本報告書は、「園城寺」という一つの「モノ」を深く掘り下げることを通して、それが内包する歴史的、哲学的、そして美学的な重層的意味を明らかにしていく。
本章では、まず客観的な事実に基づき、「園城寺」という「モノ」そのものを徹底的に解剖する。その物理的特性、銘の由来、そして伝来の軌跡を明らかにすることで、後続の考察の確固たる土台を築く。
この花入の正式名称は「竹一重切花入 銘 園城寺(たけいちじゅうぎりはないれ めい おんじょうじ)」とされ、安土桃山時代の天正18年(1590年)に千利休が制作したものと伝わる 1 。竹花入の形式分類においては「一重切(いちじゅうぎり)」に属する。これは竹の節を上下に一つずつ残し、その間の胴部分の前面に横一文字の窓を一つだけ切り込む形式で、利休が天正10年代(1582年以降)に創始したとされる代表的な作例である 2 。
法量、すなわち寸法については、資料によって僅かな差異が見られる。東京国立博物館のデータでは高さ33.9cm、口径10.9cm、底径11.2cmとされ 1 、別の資料では高さ33.4cm、太さ10.6cmと記録されている 5 。この僅かな差異は計測基準の違いによるものと考えられるが、いずれにせよ、高さと太さの均衡が取れた、安定感と気品のある姿を呈している。
素材として用いられたのは、伊豆韮山(現在の静岡県伊豆の国市)に産する真竹である 1 。特にこの「韮山竹」は、自然に「干割れ(ひわれ)」または「雪割れ」と呼ばれる縦の亀裂が入りやすいという、極めて特異な性質を持つことで知られる 8 。利休はこの特性を欠点とせず、むしろ作品の最も重要な意匠として取り込んだ。正面に走る一本の大きな縦の割れ目は、この花入の「景色」となり、力強い表情を生み出している 4 。花を生けるための窓は簡素ながら的確に切り込まれ、背面の上部には壁に掛けるための釘穴が穿たれていることから、置き花入としても掛け花入としても使えるよう意図されていたことがわかる 4 。
利休がこの花入を制作するにあたり、単に偶然手に入った竹を用いたのではなく、意図的に「割れやすい」という特性を持つ韮山竹を選んだ可能性は極めて高い。伊豆韮山の江川邸に自生するこの竹は、数十本に一本しか生まれない貴重なものとされ、その特異な性質は当時から知られていたと考えられる 8 。利休がこの竹の存在を知り、陣中に取り寄せたという記録もあり 6 、これは創作の初期段階から「不完全さ」や「自然の変化」を作品の核として組み込むという、極めて自覚的な美的選択であったことを示唆する。つまり、「園城寺」の象徴である「割れ」は、単なる偶然の産物ではなく、利休によって計画された必然であったと解釈できる。
この花入に「園城寺」という銘を与えたのは、利休からこれを贈られた養子の千少庵(せんのしょうあん)であったと伝えられている 1 。少庵は、花入の正面に走る大きな干割れの景色を、近江国(現在の滋賀県)にある園城寺(通称:三井寺)の梵鐘に残る傷跡になぞらえて、この名を付けたとされる 4 。花入の裏側には、「園城寺 少庵」という銘が刻まれており、この由来を裏付けている 4 。
この銘の背景にある「弁慶の引摺り鐘」の伝説は、この花入の持つ意味を一層深いものにしている。園城寺の鐘は奈良時代に制作された国の重要文化財であり、古くから数々の伝説に彩られてきた 12 。最も有名な伝説が、武蔵坊弁慶にまつわるものである。平安時代末期、対立関係にあった比叡山延暦寺と三井寺(園城寺)の間で争いが絶えなかった頃、比叡山の僧兵であった弁慶が三井寺からこの鐘を奪い、怪力をもって比叡山まで引きずり上げたとされる 12 。しかし、比叡山でその鐘を撞いてみると、「イノー、イノー(関西弁で「帰りたい」の意)」と鳴り響いたため、怒った弁慶は鐘を谷底へ投げ捨ててしまったという 12 。この時に付いたとされる引き摺り傷やひび割れが、今なお鐘に残されていると語り継がれている。
さらにこの鐘は、寺に災厄が迫ると汗をかき、吉事の前には自ら鳴り響くといった不可思議な現象を起こす「霊鐘」としても信仰されてきた 13 。少庵による命名は、単に外見の類似性に着目しただけではない。それは、日本の美学における「見立て」という高度な知的遊戯であった。「見立て」とは、あるものを別のものになぞらえることで、その背後にある物語や文脈を呼び覚まし、新たな意味や価値を創造する文化的作法である 17 。花入の「割れ」を鐘の「傷」に見立てることにより、少庵は、静的な工芸品に「寺社間の抗争」「弁慶の暴力」「傷跡の記憶」「望郷の念」、そして「霊性」といった、動的で複雑な物語を重ね合わせたのである。特に、天下分け目の戦である小田原の陣という、まさに「抗争」の現場で作られた花入にこの伝説を重ねる行為は、同時代への批評的な眼差しを含んでいた可能性も否定できない。この巧みな「見立て」によって、「園城寺」は単なる美しい花入であることを超え、鑑賞者の想像力を無限に喚起する、物語を内包した知的な装置へと昇華されたのである。
「園城寺」は、その誕生から今日に至るまで、数々の著名な数寄者の手を経て大切に受け継がれてきた。その伝来の歴史は、この花入が各時代においていかに高く評価されてきたかを物語っている。
最初の所有者は、利休の養子であり、利休亡き後の千家を支えた千少庵である。天正18年(1590年)、利休は小田原攻めから帰陣するにあたり、この花入を少庵への土産として持ち帰ったと伝えられている 5 。
その後、どのような経緯を辿ったか詳細は不明な点もあるが、江戸時代後期には、出雲松江藩の七代藩主であり、大名茶人として天下に名を馳せた松平治郷(不昧)の所蔵するところとなった 1 。不昧は、自身が収集した膨大な茶道具コレクションを厳格な審美眼によって格付けし、『雲州蔵帳』と呼ばれる目録にまとめたことで知られる 21 。文化8年(1811年)にまとめられたこの蔵帳には、「名物之部」の筆頭に「園城寺花入 利休作」として明確に記載されており、不昧がこの花入を極めて高く評価していたことが窺える 5 。
近代に入り、この花入は雲州松平家に代々伝来した。そして昭和13年(1938年)、東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)の新館落成を記念して、松平家当主であった松平直亮氏より同館へ寄贈された 4 。以来、今日に至るまで東京国立博物館の所蔵品として大切に保管・展示されている(機関管理番号 G-4217-1) 4 。
国宝や重要文化財の指定については、収集した資料からは直接的な言及は確認できない 4 。しかし、その由緒、利休作という伝承、そして松平不昧という大コレクターによる評価など、その歴史的・美術史的な価値は、指定文化財に勝るとも劣らない、日本の茶道文化を象徴する至宝の一つであることは疑いようがない。
「園城寺」という一管の竹花入を深く理解するためには、それが生まれた天正十八年(1590年)の小田原という、特異な時空間に焦点を当てる必要がある。天下統一事業の最終局面というマクロな歴史的文脈と、利休個人の周辺で起きたミクロな事件を交差させることで、この花入の誕生がいかに類稀な状況下であったかが浮き彫りになる。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉が敢行した小田原攻めは、単なる一合戦ではなかった。それは、関東に一大勢力を築いていた後北条氏を屈服させ、二百万石ともいわれるその広大な領地を掌中に収めることで、事実上の天下統一を完成させるという、歴史的な画期をなす戦役であった 24 。秀吉はこの戦を、自らの絶大な権威を全国の大名に示すための一大デモンストレーションと位置づけ、20万を超える大軍を動員した。
この巨大な軍事行動において、茶の湯は極めて重要な役割を担った。秀吉は茶頭である千利休を陣中に帯同させ、茶の湯を政治的パフォーマンスとして最大限に活用したのである 1 。その象徴が、小田原城を眼下に見下ろす笠懸山に、わずかな期間で築かせたとされる石垣山城、通称「一夜城」である。秀吉はこの城に天皇の勅使や諸大名を招き、利休に茶を点てさせることで、戦場の緊張の中にあっても雅な文化を享受できる自身の権力と文化的洗練を誇示した 25 。これは、茶の湯を政治支配の道具として用いる「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」の頂点ともいえる光景であった 26 。利休は、この壮大な政治劇における主要な演出家の一人として、否応なくその渦中に身を置いていたのである。
華々しい政治的茶会が繰り広げられる一方で、小田原の陣中では、利休の心を深く抉る悲劇が起きていた。利休の高弟であった茶人、山上宗二の処刑である。宗二はかつて秀吉の勘気に触れて出奔し、北条氏のもとに身を寄せていたが、北条方の皆川広照の投降に伴い、秀吉の陣営に現れた 24 。利休の必死のとりなしによって一度は赦免されたものの、その後の茶席における態度が再び秀吉の逆鱗に触れ、耳や鼻を削がれるという残忍な方法で惨殺されてしまった 24 。
この愛弟子の無残な死を目の当たりにしながら、利休は伊豆韮山から竹を取り寄せ、黙々と花入の創作に没頭していた。同じく陣中にいた高弟の古田織部と交わしたとされる書状には、「竹の花入ができたから、早く茶が飲みたいものだ」といった趣旨の言葉が記されており、創作への情熱が窺える 30 。一見、非情とも受け取れるこの態度の裏にあった利休の心境は、後世の研究者にとって大きな謎となっている。
この極限状況下での創作活動は、複数の解釈を可能にする。一つは、目の前の残酷な現実から精神を守るための、芸術への逃避であったという解釈である。美の創造という純粋な世界に没入することで、自己の精神的平衡を保とうとした心理的防衛機制が働いたのかもしれない。しかし、より深く考察するならば、それは利休による静かな、しかし断固たる抵抗の表明であったとも考えられる。暴力と権力によって人の命までも支配しようとする秀吉に対し、利休は美を創造するという非暴力的な行為によって、自らの精神的優位性と、権力では決して支配できない聖域の存在を静かに主張したのではないか。竹を削る音は、戦場の喧騒と宗二の断末魔を打ち消す鎮魂歌であり、屈しない精神の表明であった。さらに、死と隣り合わせの非情な現実、そして人の世の無常を痛感したことで、利休の美意識は一層研ぎ澄まされ、不完全さや儚さという「わび」の真髄を、一本の竹に刻み込もうとしたとも解釈できる。宗二の死という悲劇が、利休の創作をより根源的で深い境地へと導いた可能性は高い。
「園城寺」の物語は、利休の創作以前、この特異な「韮山竹」という素材との出会いから始まっている。花入の材料となった竹は、当時、伊豆韮山の地を治めていた代官・江川家の邸内に自生していたものであったと伝えられている 8 。江川家に伝わる古文書には、利休に竹を譲った際の記録が残っているとの伝承もあり、この竹が特別なものであったことを示唆している 10 。
この韮山竹の最大の特徴は、前述の通り、成長過程で自然に「雪割れ」とも呼ばれる縦の亀裂が入る点にある 8 。これは数十本に一本しか見られない稀少な現象であり、この竹が持つ固有の性質であった。
利休がこの竹を発見した経緯については、興味深い逸話が残されている。小田原攻めの陣中で、兵士たちが野営の際に竹を枕として使っているのを見た利休が、その竹の風情に心惹かれ、産地を尋ねたところ「韮山竹」であった。そこで早速これを取り寄せ、花入を作ったというのである 10 。この逸話は、利休の美学の本質をよく表している。高価な名木や珍しい素材ではなく、兵士の枕というありふれた日常の道具の中に美を見出すその眼差しは、まさにあらゆるものから価値を見出す「見立て」の精神そのものである 17 。
しかし、そのありふれた用途の竹が、「自然に割れる」という稀有な性質を秘めていたことは、単なる偶然を超えた、運命的な出会いであったと言える。それは、利休が自身の茶の湯において生涯をかけて追求した「不完全の美」や「無作為の美」を、自然そのものが体現している素材との邂逅であった。したがって、「園城寺」の比類なき美は、半分は利休の卓越した作為によって、そしてもう半分は竹そのものが持つ自然の力によって生み出された、「天人合作」の奇跡の産物と解釈することができるのである。
「園城寺」という一つの竹花入は、単に茶席を彩る道具としてだけでなく、日本の美意識全体に革命的な影響を与えた文化史上の大事件であった。それは、それまでの茶道具における価値基準を根底から覆し、新たな美の哲学を世に問う、利休による大胆な試みであった。
千利休が登場する以前、室町時代の茶の湯の世界では、中国(唐物)や朝鮮半島から渡来した道具が至上のものとして珍重されていた。完璧な造形を持つ青磁の花入や天目茶碗、精緻な作りの唐物茶入などは「名物」と呼ばれ、大名や豪商が競って収集する、権威と富の象徴であった 35 。美の基準は、海の向こうから来た、完璧で華やかなものにあったのである。
この唐物至上主義の流れに変化をもたらしたのが、村田珠光や武野紹鷗といった先駆者たちであった。彼らは、粗末で簡素な国産の道具(和物)の中に、新たな美しさを見出す「わび茶」の精神を育んだ 36 。そして、この流れを決定的なものとし、美の革命を完成させたのが千利休であった。
利休は、「園城寺」に代表されるように、国産の、ありふれた素材(竹)で作られ、しかも「不完全」な(割れがある)道具を、臆することなく茶席の中心に据えた。そして、それに唐物の名物に匹敵する、あるいはそれ以上の精神的価値を与えたのである。これは、美の価値基準を「モノの豪華さ」や「来歴の確かさ」から、「それを用いる亭主のココロの豊かさ」や「精神性」へと、180度転換させる革命であった 39 。
この革命の背景には、利休が単なる優れた鑑定家(目利き)であっただけでなく、新たな「価値」そのものを創造する稀代のプロデューサーであったという事実がある。利休が一度「良い」と認めた道具は、たとえ無名のものであっても法外な高値で取引されるようになった 42 。これは、利休の美的権威がいかに絶大であったかを示す逸話である。「園城寺」は、その価値創造の究極の実践例と言える。原価としてはほぼ無価値に等しい一本の竹が、利休の手と精神が加わることによって、天下に知られる名物へと変貌を遂げた。この行為は、「真の価値は素材や金銭に宿るのではなく、亭主の精神と見立ての力によって創造される」という、わび茶の核心的哲学を、天下に証明するものであった 44 。
利休の美学を理解する上で欠かせない概念が「見立て」と「無作為の美」である。「見立て」とは、本来ある用途を持つものを、その文脈から解き放ち、全く別のものとして新たな美と役割を与える創造的な行為である 18 。利休は、漁師が使う粗末な魚籠(びく)を花入に見立てるなど、この手法を駆使して茶の湯の世界に新風を吹き込んだ 17 。「園城寺」もまた、ただの竹筒を、弁慶の伝説という深い物語を背負う花入へと「見立て」た、その精神の産物である。
一方、「無作為の美」とは、作為がないかのように見せながら、その実、高度な計算と美的判断が背後に隠されている状態を指す。これは「無作為の作為」とも呼ばれ、利休の造形に見られる大きな特徴である 47 。一見、ただ竹を切断しただけのように見える「園城寺」の姿は、まさにこの典型例である。ある研究者は、正面の割れ目が作る縦の線と、竹の節が作る横の線が交差する様子まで、利休が計算して切り取ったのではないかと指摘している 4 。自然の力を最大限に生かしつつ、そこに最小限の、しかし決定的な人間の手を加えることで、作為を超えた美を生み出す。これこそが利休のデザイン哲学の神髄であった。
この哲学の根底には、禅の思想が深く流れている 48 。禅では、完璧でシンメトリーなものよりも、不完全でアシンメトリーなものにこそ、発展の可能性や無限性を見出す傾向がある。「園城寺」の「割れ」は、この禅的美学における「不均整」の美を象徴している。それは、完成された静的な美ではなく、常に変化し、朽ちていく可能性を内包した、動的な美である。この「不完全さ」は、鑑賞者に想像の余地を与え、亭主と客が対話し、共同でその場の美を創造することを促す。完璧な道具は一方的に鑑賞を強いるが、不完全な道具は、心と心の対話を生み出すのである 18 。
「園城寺」の美学を最も純粋に体現しているのが、「ひび割れ」と「水漏れ」という二つの「欠点」である。これらは、西洋的な完璧主義の美学とはまさに対極に位置する、わびさびの精神の結晶と言える。
まず、この花入の最大のアイデンティティである正面の大きな割れ目は、隠すべき瑕疵(かし)としてではなく、作品の「景色」であり「表情」として、最も重要な見所とされている 4 。これは、経年変化や自然の作用(さび)の現れを否定せず、むしろそれを積極的に評価し、美しいものとして取り込むという、日本の伝統的な美意識の現れである。不完全さを受け入れ、その中にこそ趣を見出す「わび」の心そのものである 40 。
さらに、この花入にまつわる決定的な逸話として、「水漏れ」の話が伝えられている。実際にこの花入を用いた茶会で、器から僅かに水が漏れ出した。しかし利休はそれを全く意に介さず、むしろ「これこそが、この花入れの命なのだ」と語ったというのである 10 。機能的な欠陥を「命」とまで言い切るこの言葉は、道具を単なる機能充足のためのモノとしてではなく、不完全さも含めて一つの生命的な存在として捉える、利休の深い洞察を示している。それは、自然の摂理に抗うのではなく、むしろそれを味わい尽くそうとする、究極の受容の哲学である。この価値観は、破損した陶磁器を漆と金で修復し、その傷跡を新たな「景色」として楽しむ「金継ぎ」の美学とも深く通底している 51 。ひび割れ、そして水漏れ。この二つの「不完全さ」こそが、「園城寺」を単なる美しい花入から、わび茶の哲学を体現する不朽の名作へと昇華させているのである。
「園城寺」の特異性をより深く理解するためには、同じ天正十八年の小田原の陣中において、同じ韮山竹から生まれたとされる他の花入と比較検討することが不可欠である。利休はこの時、「園城寺」の他に「尺八(しゃくはち)」「よなが」「音曲(おんぎょく)」という、少なくとも三つの花入を制作したと伝えられている 5 。これらの「兄弟」ともいえる作品群を比較することで、「園城寺」の際立った個性を明らかにすると同時に、利休の創作活動の多様性と、それぞれの道具に込めた意図の違いを立体的に浮かび上がらせることができる。
項目 |
園城寺(おんじょうじ) |
尺八(しゃくはち) |
よなが |
音曲(おんぎょく) |
形状 |
一重切 (Ichijūgiri) |
寸切 (Zungiri) |
二重切 (Nijūgiri) |
一重切 (Ichijūgiri) |
受贈者 |
千少庵(養子) |
豊臣秀吉(主君) |
利休自身 |
古田織部(高弟) |
特徴 |
正面の大きな干割れ。「弁慶の引摺り鐘」に見立てた銘。深い物語性を持つ。 |
逆竹。装飾を排した極めて簡素な造形。素材の力強さを前面に出す。 |
節と節の間が長い。二重切という新たな形式の試み。陣中の夜の長さや兵士の枕を想起させる銘。 |
利休の書状や狂歌が付属したと伝わる。織部との知的な関係性を示す。 |
現在の所蔵 |
東京国立博物館 |
今日庵(裏千家) |
藤田美術館 |
石水博物館(三重) |
典拠 |
1 |
5 |
10 |
5 |
この比較から明らかになるのは、利休が贈る相手の身分や性格、そして自身との関係性に応じて、意図的に作風や銘、そして作品に込める意味合いを使い分けていたという事実である。
**豊臣秀吉に献上された「尺八」**は、竹の上下を逆さに用いた「逆竹」で、窓もなくただ切り放っただけの寸胴形(寸切)である 10 。これは装飾を一切排し、竹という素材そのものが持つ力強さを前面に押し出した造形であり、天下人たる秀吉に対して媚びることなく、自身の美学を直球で提示する利休の毅然とした姿勢を象徴している。
**利休自身が所持した「よなが」**は、花を生ける窓が二つある「二重切」という、当時としては新しい形式の作例である 10 。節と節の間、すなわち「よ」が長いことに由来する銘を持つこの花入を自らの手元に置いたのは、新たな造形の可能性を自身で探求しようという、芸術家としての探究心の表れであったのかもしれない。
**高弟であり、後の茶の湯の天下人となる古田織部に贈られた「音曲」**には、利休自筆の書状や狂歌が添えられていたと伝えられる 5 。これは、芸術的盟友ともいえる織部に対して、単なる道具ではなく、よりパーソナルで知的な遊び心に満ちた贈り物をしたことを示しており、二人の親密な関係性を物語っている。
これらと比較して、**養子である千少庵に土産として与えられた「園城寺」**の特異性は際立っている。他の三作が、主に形状の斬新さ(二重切)や素材の力強さ(尺八)、あるいは言葉遊び(よなが、音曲)に特徴があるのに対し、「園城寺」は「自然に生じた傷(割れ)」と「歴史的な伝説(弁慶の鐘)」という、より深く、複雑で、物語的な要素を美の中心に据えている。これは、利休が自身の血縁であり、わび茶の後継者と目した少庵に対して、千家の茶の湯の精神的真髄を伝えようとした、最も私的で、かつ最も思想的な作品であったことを示唆している。他の作品が利休の「技」や「知」を示すものだとすれば、「園城寺」は利休の「心」そのものを託した作品であったと言えよう。
本報告書で詳述してきたように、竹一重切花入、銘「園城寺」は、天正十八年(1590年)の小田原という歴史の転換点において、千利休の美学、哲学、そして時代の緊張関係が奇跡的に結晶化した、比類なき工芸品である。それは単なる竹の筒ではなく、戦国の世の記憶と、わび茶の精神を宿した、一つの小宇宙である。
その誕生の背景には、天下統一を目前にした豊臣秀吉の圧倒的な権勢と、それによって頂点に達した「政治的茶の湯」の存在があった。黄金の茶室に象徴される、金と権威によって価値が規定される秀吉の美学に対し、利休は「園城寺」をもって静かな、しかし最も雄弁な反論を試みた。ありふれた韮山竹を用い、その自然の「割れ」を「景色」として愛で、僅かな「水漏れ」を「命」と呼ぶ。この一連の行為は、物理的な力や富ではなく、精神的な深さ、そして不完全さを受け入れる心こそが真の価値を生むという、利休の思想の最終的な表明であった。その意味で、翌年に秀吉から死を賜ることになる利休が遺した、芸術的遺言と解釈することが可能である。
高弟・山上宗二の無残な死を目の当たりにしながら、戦場の喧騒の中で黙々と竹を削る利休の姿は、暴力的な現実に対する、創造という行為を通じた精神の抵抗であった。そして、その手に生まれた「園城寺」は、子の少庵による「弁慶の引摺り鐘」伝説の「見立て」を経て、単なる美しい道具から、深い物語を内包する文化装置へと昇華した。
今日、「園城寺」が我々に問いかけるものは大きい。効率性、完璧性、そして可視化された成功が至上の価値として追求される現代社会において、この一管の竹が体現する「不完全さの肯定」「ありふれたものへの慈しみの眼差し」「欠点を新たな価値へと転換する創造力」といった思想は、我々が失いつつある豊かさとは何かを、静かに、しかし力強く問い直している。それは、400年以上もの時を超えて響き続ける、利休からのメッセージなのである。