最終更新日 2025-05-28

自鳴鐘

自鳴鐘

戦国時代の「自鳴鐘」に関する詳細調査

1. 序論

本報告書は、日本の戦国時代に伝来し、あるいは製作が試みられた「自鳴鐘」、すなわち機械時計について、その伝来の経緯、構造的特徴、当時の社会における受容と影響、そして日本の伝統的な時間観念との関わりを、現存する史料および研究成果に基づいて詳細かつ徹底的に調査し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。単に技術史的側面に留まらず、文化交流史、社会史的観点からも多角的に光を当てることを目指す。

「自鳴鐘」とは、広義には機械仕掛けで時を知らせる鐘、すなわち機械時計を指し、特に定時になると自動的に鐘を打つ機構を持つものを指すことが多い。戦国時代においては、主にヨーロッパからもたらされた先進技術の象徴であり、大名などの支配者層にとって異国文化への関心と権威を示す貴重な品であった。この時代の「自鳴鐘」は、実用的な計時具としての普及には至らなかったものの、後の和時計開発の技術的源流の一つとなり、また、当時の日本人の世界観や時間意識に間接的な影響を与えた可能性が考察される。

本報告書では、以下の主要な問いに答えることを試みる。戦国時代の日本人は、どのようにして機械時計という新たな技術と出会い、それをどのように理解し、受容しようとしたのか。伝来した機械時計は、日本の伝統的な時刻制度や計時方法とどのような関係にあったのか。そして、自鳴鐘の伝来は、その後の日本の技術発展や文化にどのような影響を及ぼしたのか。

2. 戦国時代の時刻制度と計時

2.1. 不定時法:太陽と共にあった日本の時間

戦国時代、日本では「不定時法」と呼ばれる独自の時刻制度が用いられていた。これは、日の出から日没まで(昼)と、日没から日の出まで(夜)をそれぞれ6等分し、その一単位を「一刻(いっとき)」とするものであった 1 。したがって、一刻の長さは季節によって変動し、夏は昼の一刻が長く夜の一刻が短くなり、冬はその逆となった。例えば、京都を例に取ると、夏至の昼の一刻は約2時間30分、冬至では約1時間40分程度であったと推定される 1 。この点は、現代の1時間を常に60分とする「定時法」とは根本的に異なる時間感覚であった。

時刻の呼称には十二支が用いられ、「十二辰刻(じゅうにしんこく)」または「十二時辰(じゅうにじしん)」と呼ばれた 1 。例えば、子の刻(ねのこく)は夜中(午後11時頃~午前1時頃)、卯の刻(うのこう)は日の出頃(午前5時頃~午前7時頃)、午の刻(うまのこく)は正午頃(午前11時頃~午後1時頃)、酉の刻(とりのこく)は日没頃(午後5時頃~午後7時頃)とされた 1 。時間をさらに細かく表す場合は、一刻の2時間を3つに分け、「上刻(じょうこく)・中刻(ちゅうこく)・下刻(げこく)」と呼んだり、「半刻(はんとき)」(約1時間)、「四半刻(しはんとき)」(約30分)といった表現も用いられた 1

江戸時代に入ると、時刻を鐘の数で知らせる「時の鐘」が普及し、数字の9から4までを当てはめた「鐘/数読み法」も併用された 1 。子の刻を「九つ」、卯の刻を「六つ」と呼ぶのはこれに由来する。戦国時代後期にも、この習慣の萌芽が見られた可能性が示唆される。

不定時法は、自然のリズム、特に太陽の運行と密接に結びついた生活様式を反映しており、農業を中心とした当時の社会に適した時間感覚であったと言える。しかし、この不定時法の存在が、定時法を前提とする西洋の機械時計が日本社会にそのまま実用的に普及する上での大きな障壁となった。これは単に技術的な問題だけでなく、生活文化に深く根差した時間意識の違いが背景にあったと考えられる。そして、この不定時法という社会基盤があったからこそ、後に日本独自の「和時計」という、不定時法に対応する複雑な機構を持つ時計が発明されるに至ったのであり、外来技術をそのまま受容するのではなく、自国の文化に合わせて変容・発展させる日本の技術受容の一つのパターンを示すものと言えよう。

2.2. 機械時計伝来以前の多様な計時方法

機械時計が伝来する以前、日本では様々な方法で時刻が計られていた。最も基本的な計時具は日時計であり、太陽の影の位置によって時刻を知るものであった。構造は単純であるが、天候に左右され、夜間は使用できないという限界があった 1 。携帯用の日時計も存在したが、当時は方位磁針がまだ普及していなかったため、正確な方位を知る手段が限られており、設置には工夫が必要であった 3

日時計の欠点を補うものとして、水時計(漏刻)が用いられた。これは、水が一定の速度で容器から流れ落ちる量や、容器に溜まる量を利用して時間を計る装置である。特に夜間や屋内での計時に利用され、中国から伝来し、日本でも古くからその存在が知られていた 2 。構造によっては、鐘を鳴らすなどの報時機能を持つものもあったとされる 5

砂時計も水時計と同様の原理で、砂が細い管を通過する量で時間を計るものであり、比較的簡便なため、特定の時間を計るのに用いられた記録がある 2 。また、香盤時計(香時計)は、香が燃える長さや、灰の上に置かれた抹香が燃え進む距離で時間を計るもので、寺院などで儀式の時間を計るのに用いられたという記録が残っている 7

これらの計時方法は、いずれも不定時法に沿ったものであったり、特定の時間を区切るための補助的な手段であったりした。機械時計以前にも多様な計時技術が存在したものの、精度や利便性、天候への依存性といった点で限界があったことは否めない。しかし、これらの道具の存在は、戦国時代の人々が時間を意識し、それを管理しようとしていたことを明確に示している。ただし、それは現代のような秒単位の厳密なものではなく、生活や儀礼に合わせた、より大まかな時間区分であった。そして、これらの既存の計時方法の限界が、より精密で自律的に時を刻む「自鳴鐘」という未知の技術に対する関心や期待感を生む一因となった可能性も考えられる。

表1:戦国時代の時刻制度と機械時計(定時法)の比較

比較項目

不定時法(日本)

定時法(舶来機械時計)

基準

太陽の運行

機械的等時性

1日の分割

昼夜各6刻

24時間

1単位時間の長さ

季節で変動

常に一定

主な計時手段

日時計、水時計、香盤時計など

歯車、脱進機など

特徴

自然との調和、生活リズムとの一致

普遍性、精密性

戦国時代の機械時計との整合性

低い(時刻制度の変革が必要)

高いが、日本の生活習慣との間に齟齬が生じる

この表は、戦国時代の日本人が直面した「時間の概念の衝突」を視覚的に理解する上で重要である。なぜ舶来の機械時計がそのまま普及しなかったのか、そしてなぜ後に「和時計」という独自の発展を遂げたのか、その根本的な理由を明確に示すことができる。

3. 自鳴鐘の伝来と初期の受容

3.1. フランシスコ・ザビエルと大内義隆:日本最古の機械時計伝来の記録

日本へヨーロッパの機械時計がもたらされた最も古い確実な記録は、天文20年(1551年)に宣教師フランシスコ・ザビエルが周防山口(現在の山口県山口市)の戦国大名、大内義隆に謁見した際に献上したものとされている 8 。当時の記録である『大内義隆記』には、この時計について「琴を自動演奏し1日を24等分する定時法の時刻を示す時打ちの機械時計と思われるもの」と記述されており 8 、自動演奏機能と時打ち機能(自鳴機能)を備えた、当時としては非常に精巧なものであったと推測される。この献上は、キリスト教布教の許可を得るための外交的手段の一環であり、当時のヨーロッパの先進技術を披露することで、日本の支配者層の関心を惹きつけようという意図があったと考えられる。残念ながら、このザビエルが献上した時計は現存していない 9

機械時計の伝来は、キリスト教布教という宗教的動機と密接に結びついていた。宣教師たちは、高度な西洋技術を「見せる」ことで、その背後にある文化や宗教への関心を喚起しようとしたのである。大内義隆のような有力大名は、中央の公家文化だけでなく、明や朝鮮、さらにはヨーロッパからもたらされる新しい文物にも強い関心を示していた。機械時計は、そうした異国趣味や先進性を象徴するアイテムとして、彼の目には魅力的に映ったであろう。「自鳴鐘」という呼称が示す通り、自動で音を発して時を知らせる機能は、当時の日本人にとって特に驚異的であり、一種の「からくり」として認識された可能性がある 11

3.2. 戦国大名と機械時計:権力者たちの眼差し

ザビエルの献上以降も、機械時計は主に支配者層の間で知られる存在となった。

織田信長 は、永禄12年(1569年)にルイス・フロイスと会見した際に小型の目覚まし時計を見せられたが、調整の難しさなどを理由に受け取らなかったとされる 1 。信長は新しいものへの関心は強かったものの、実用性や維持管理の観点から冷静な判断を下した可能性が示唆される 12

豊臣秀吉 は、天正19年(1591年)、聚楽第でヴァリニャーノに伴われた遣欧少年使節から機械時計を献上されている 1 。秀吉もまた、異国の珍しい品々を収集しており、時計もその一つとして彼のコレクションに加えられたと考えられる。

徳川家康 は、新しい物への関心が非常に強く、洋時計をはじめ、日時計や砂時計など様々な時計を収集していたことが知られている 14 。慶長16年(1611年)、スペイン国王フェリペ3世から、前年に発生したスペイン船サン・フランシスコ号の海難救助の返礼として洋時計が贈られており、これは静岡県の久能山東照宮に現存する国内最古級の機械式時計とされている 8 。家康はこの時計を、当時の日本の暦との違いから実用的な時計としては使用しなかったものの 1 、その技術的価値や外交的意義を理解していたと考えられる。

これらの事例から、機械時計は単なる珍品ではなく、国際的な知識や交渉力を持つことの証であり、権力者にとっては自らの権威を高めるための象徴的アイテムであったことがわかる。また、外交儀礼における贈答品としても重要な役割を果たした。信長の事例に見られるように、新しい技術への好奇心と、それを自国で維持・活用することの難しさとの間で、当時の権力者たちも評価が分かれた可能性がある。定時法という根本的な違いが、実用化を躊躇させた大きな要因であったろう。家康が時計を多数収集し、また後述する津田助左衛門に修理・製作させたことは、単なる収集趣味を超えて、将来的な技術導入や国内生産への関心があった可能性を示唆する。

表2:戦国大名と自鳴鐘・機械時計の関わり

大名

関連年(西暦/和暦)

出来事の概要

時計の種類/特徴(判明する場合)

関連史料

大内義隆

1551年(天文20年)

フランシスコ・ザビエルより機械時計を献上される

時打ち・自動演奏機能付きか

『大内義隆記』 8

織田信長

1569年(永禄12年)

ルイス・フロイスより目覚まし時計を見せられるも受領せず

小型目覚まし時計

フロイス『日本史』 1

豊臣秀吉

1591年(天正19年)

遣欧少年使節より機械時計を献上される

詳細不明

1

徳川家康

1598年(慶長3年)頃~

津田助左衛門に時計を修理・製作させる。1611年(慶長16年)スペイン国王より洋時計を拝領、複数の時計を収集

朝鮮からの献上時計、スペイン製置時計(久能山東照宮蔵)など

『尾張誌』、久能山東照宮資料 8

3.3. 伝来の経路と16世紀ヨーロッパにおける機械時計の技術水準

戦国時代の日本へ機械時計をもたらしたのは、主にポルトガルやスペインの宣教師、商人であった 9 。彼らは、布教活動や貿易の傍ら、自国の進んだ技術や文化を伝える役割も担っていた。

14世紀頃にヨーロッパで発明された機械時計は、16世紀には技術的に成熟期を迎えつつあった。主な構造としては、錘(おもり)やゼンマイを動力源とし、歯車の組み合わせで動きを伝え、冠型脱進機(ヴァージ・アンド・フォリオット・エスケープメント)などの脱進機で調速を行い、時刻を表示するものであった 5 。時打ち機構を備えたものも一般的であった。16世紀中頃には、携帯可能な時計において重要な役割を果たす調速機であるテンプが発明され、懐中時計も登場し始めていた 18 。材質は、鉄や真鍮などの金属が主に使用されていた 19 。これらの時計は、修道院での厳格な時間管理の必要性から発展し、都市の時計塔などを経て、次第に小型化し、王侯貴族や富裕層へと普及していった 5

宣教師や商人が、意図的・非意図的にかかわらず、文化や技術の媒介者として重要な役割を果たしたことは論を俟たない。彼らの活動なくして、機械時計のような高度な技術が当時の日本に伝わることはなかったであろう。16世紀の機械時計は、当時のヨーロッパにおいても最先端技術の結晶であり、その複雑な機構は日本の職人たちにとって驚異であったと想像される。しかし、日本には、機械時計を構成する精密な歯車や脱進機を製作するための金属加工技術や設計思想がまだ十分に育っていなかったため、初期の段階では模倣や修理が中心とならざるを得なかった。

表3:戦国時代における主要な自鳴鐘関連年表

西暦(和暦)

関連人物(献上者/受領者・製作者)

出来事(献上、謁見、修理、製作等)

時計の概要(判明している場合)

典拠史料

1551年(天文20年)

フランシスコ・ザビエル/大内義隆

ザビエル、山口にて義隆に機械時計を献上

時打ち、自動演奏機能付きか

『大内義隆記』 8

1569年(永禄12年)

ルイス・フロイス/織田信長

フロイス、信長に目覚まし時計を見せるも信長は受け取らず

小型目覚まし時計

フロイス『日本史』 1

1591年(天正19年)

遣欧少年使節/豊臣秀吉

使節、聚楽第にて秀吉に機械時計を献上

詳細不明

1

1598年(慶長3年)

津田助左衛門/(徳川家康)

朝鮮からの献上時計を修理、模倣製作し家康に献上。尾張徳川家の時計師となる

詳細不明

『尾張誌』 8

1611年(慶長16年)

スペイン国王フェリペ3世/徳川家康

海難救助の返礼として家康に洋時計を贈呈

ゼンマイ動力置時計(現存、久能山東照宮蔵)

久能山東照宮資料 8

4. 日本における自鳴鐘製作の萌芽

4.1. 津田助左衛門:国産時計製作の先駆者

日本における機械時計製作の最も初期の記録として、津田助左衛門(つだ すけざえもん)の功績が挙げられる。天保15年(1844年)に深田正韶が編纂した『尾張誌』によると、徳川家康に朝鮮から献上された時計が破損した際、京都の津田助左衛門がこれを修理し、さらにそれを手本として新たに一台の時計を製作して家康に献上したと記されている 8 。この功績により、助左衛門は慶長3年(1598年)に尾張徳川家の御用時計師として召し抱えられたとされ、『尾張誌』の編者は彼を日本の機械時計製作の嚆矢(こうし:物事の始まり)と称している 8

このエピソードは、単なる修理に留まらず、舶来品を分解・研究し、模倣製作するという、日本の技術導入における初期の重要なステップを示している。津田助左衛門の仕事は、未知の機械に対する驚嘆から一歩進んで、その構造を理解し、自らの手で再現しようとする能動的な技術的アプローチの現れである。これは、日本の職人文化における「写し」の精神とも通じるものがあると言えよう。家康のような最高権力者が時計に関心を持ち、助左衛門のような職人を保護・登用したことが、日本における時計技術の初期の発展にとって不可欠であった。もし舶来品が単に珍重されるだけで、その内部構造への探求がなされなければ、技術はブラックボックスのまま終わってしまった可能性がある。助左衛門の試みは、そのブラックボックスを開けようとする意志の表れと評価できる。

4.2. キリスト教宣教師による時計製作技術の伝習

16世紀末期から17世紀初頭にかけて、イエズス会などのキリスト教宣教師たちは、布教活動の一環として、九州や京都などに神学校(セミナリヨ)やコレジオといった教育機関を設立した 8 。これらの学校では、キリスト教の教義だけでなく、語学、歴史、音楽などの一般教養に加え、付属の実業学校で油絵、銅版彫刻、印刷技術、オルガン製作、天文機器製作、そして時計製作の技術も教えていた 8

『イエズス会日本報告』の「1601-2年の日本の諸事」には、長崎のセミナリヨで製作指導された太陽と月の運行を示す天文時計が家康や主要な大名に贈られたこと、また生徒の中には単純な機構の時打ち時計を製作して生計を立てる者さえいたことが記されており、17世紀初頭には職業としての時計師が誕生していた可能性を示している 8 。日本の鍛冶職人などが、宣教師の指導を受けながら時計を製作したことが、日本の機械時計製作の始まりの一つとされている 9

宣教師による技術教育は、単発的な文物のもたらしとは異なり、より体系的かつ持続的な技術移転の試みであったと言える。これにより、日本人の間に時計製作の知識と技術が広まる素地が作られた。セミナリヨでの教育は、西洋の知識体系全体を伝えようとするものであり、時計製作もその一部として位置づけられていた。これは、技術を単なる道具としてではなく、学問や教養と結びつけて捉える視点があったことを示唆する。しかし、慶長17年(1612年)のキリスト教禁止令とその後の鎖国政策により、これらの学校は間もなく廃止され、ヨーロッパからの新しい技術との直接的な交流は大きく制限された 8 。この断絶がなければ、日本の時計技術はまた異なる発展を遂げていたかもしれない。この点は、日本の技術史における大きな転換点の一つであった。

5. 戦国時代に伝来した自鳴鐘の構造的特徴

5.1. 現存する徳川家康所蔵の洋時計(久能山東照宮蔵)の構造と機構

徳川家康がスペイン国王フェリペ3世から贈られたとされる洋時計は、静岡県の久能山東照宮に現存し、日本国内に現存する最古級のヨーロッパ製機械時計として極めて貴重な資料である 8 。この時計は、高さ約21.5センチメートル、幅・奥行き各約10.6センチメートルの金銅製の箱形で、ドーム状の屋根を持つ置時計である 21 。ゼンマイを動力源とし、時打ち機構、目覚まし機構を備えている 21 。機構部分は基本的には鉄製で、真鍮製の天板と底板を4本の鉄柱で支える四本柱フレーム構造を持つ 19 。文字盤は1から12までのローマ数字で時刻を示し、定時法に基づいている。

2012年に行われた分解調査により、当初取り付けられていた銘板の下から別の製作者名とより古い製作年(1573年、ニコラウス・デ・トロエステンベルク作)が発見され、その来歴に新たな謎を投げかけている 8 。この時計には、携帯用の革製でガラス窓付きのケースも付属している 19

この時計は、16世紀末のヨーロッパにおける比較的小型の置時計の典型的な構造(ゼンマイ駆動、時打ち、目覚まし)を具体的に示しており、材質(金銅、鉄、真鍮)や装飾技法も含め、当時の工芸品としての側面も持つ。銘板の謎は、この時計が日本に渡るまでの複雑な経緯や、当時のヨーロッパにおける時計の流通、あるいは外交上の何らかの意図を示唆している可能性があり、さらなる研究が待たれる。現存する「モノ」は、文献史料だけでは知り得ない具体的な技術情報や製作背景を雄弁に物語る。この時計の存在は、戦国末期から江戸初期にかけての国際交流の一端を具体的に示す証拠である。

5.2. 当時の記録から推測される自鳴鐘の一般的な構造

戦国時代に日本に伝来した「自鳴鐘」は、その名の通り、定時になると鐘などを打って時刻を知らせる「時打ち機構」を備えていたものが多かったと考えられる 8 。動力源としては、大型のものは錘(おもり)を、小型のものはゼンマイを利用していた 5 。久能山東照宮の時計はゼンマイ駆動である 21

時計の心臓部である調速機構には、初期の機械時計に広く用いられた「冠型脱進機(ヴァージ・アンド・フォリオット・エスケープメント)」や、それに類する棒テンプなどが使われていたと推測される 5 。振り子時計は17世紀半ばの発明であり、戦国時代に伝来した時計はそれ以前のタイプである。歯車は、主に鉄や真鍮などの金属で製作されていた。当時の日本の職人にとっては、これらの精密な歯車を製作・調整することが大きな課題であったことが窺える 23

また、機械時計に用いられる歯車やカムの技術が、後にからくり人形に応用されたとの記述もあり 11 、これらの部品が当時の機械時計の主要な構成要素であったことを示している。フランシスコ・ザビエルが大内義隆に献上した時計は、「琴を自動演奏」する機能があったとされ 8 、これは時計機構と連動した複雑なオートマタ(自動人形)の一種であった可能性を示唆する。

音で時を知らせるという機能は、視覚だけでなく聴覚にも訴えかけるものであり、当時の人々にとっては非常に印象的で、神秘的ですらあったかもしれない。脱進機や多数の歯車からなる機構は、当時の日本の伝統的な工芸技術とは異なる原理に基づいており、その理解と模倣には多大な困難が伴ったであろう。特に、硬い金属を精密に加工する技術は、刀鍛冶などの技術とはまた別の熟練を要した。しかし、時計の歯車やカムといった機構が、日本の伝統的な「からくり」の技術と結びつき、江戸時代の精巧なからくり人形の発展に影響を与えた可能性は非常に興味深い 11 。これは、外来技術が既存の文化素地と融合して新たな展開を見せる好例と言える。

6. 自鳴鐘が戦国社会に与えた影響と意義

6.1. 権力者のステータスシンボルとしての自鳴鐘

戦国時代に日本にもたらされた自鳴鐘は、極めて希少で高価な輸入品であり、主に大名や天下人といった最高権力者層によって所有された。これらの時計は、実用的な計時具としてよりも、所有者の富、権力、そして異国文化へのアクセス能力を示すステータスシンボルとしての性格が強かった 11 。珍しい舶来品を所有し、それを客人に披露することは、文化的な先進性や国際的な視野を持つことをアピールする手段でもあった。

戦国時代は下剋上の時代であり、実力で成り上がった武将たちは、自らの権威を可視化するための様々な手段を求めた。自鳴鐘のような異国の珍品は、そのための有効なツールの一つであった。舶来の時計を所有していることは、宣教師や南蛮商人といった、海外からの情報や文物をもたらすネットワークと繋がっていることをも意味した。これは、情報が戦略的に重要であった戦国時代において、間接的な力の誇示にもなったと考えられる。

6.2. 日本の伝統的時刻制度(不定時法)と舶来時計(定時法)の相克

ヨーロッパから伝来した機械時計は、1日を24等分し、1時間の長さが常に一定である「定時法」に基づいて設計されていた。これは、太陽の運行に合わせて昼夜の刻の長さが変わる日本の「不定時法」とは根本的に異なるものであった 1 。このため、舶来の時計をそのまま日本の日常生活の計時に用いることは困難であり、徳川家康も暦の違いから時計としては使用しなかったと伝えられている 1 。この「時間の概念のズレ」が、機械時計が戦国時代に実用的な道具として広く普及しなかった最大の理由の一つと考えられる。

新しい技術が社会に受容されるためには、既存の社会システムや文化との適合性が重要となる。自鳴鐘の場合、この適合性が低かった。長年にわたり人々の生活に根付いてきた不定時法という時間感覚を、舶来の機械が刻む定時法に合わせることは容易ではなかった。これは、単なる習慣の変更ではなく、世界観の変革にも関わる問題であった。そして、この相克があったからこそ、江戸時代に入り、日本の時計師たちは舶来の技術を応用しつつ、不定時法に対応するための複雑な機構(割駒式文字盤、二丁天符など)を持つ日本独自の「和時計」を開発するに至ったのである 8 。これは、異文化受容における創造的適応の典型例と言える。

6.3. 後の和時計開発への技術的基盤としての可能性

戦国時代に伝来した自鳴鐘は、数は少なかったものの、その機械的構造(歯車、カム、脱進機、ゼンマイなど)を日本の職人が目にし、研究する機会を提供した 8 。津田助左衛門による修理と模倣製作の試みや、セミナリヨでの技術教育は、日本における時計製作技術の萌芽であり、これが後の江戸時代の和時計職人たちへと繋がる技術的素地の一部を形成した可能性がある 8 。和時計は、基本的な機械構造は西洋の時計を踏襲しつつ、不定時法に対応するための独創的な機構を付加したものであり、その意味で戦国時代の技術的接触がなければ生まれ得なかったと言える 20

戦国時代の自鳴鐘の伝来は、すぐに大きな花を咲かせることはなかったが、日本の技術史という土壌に新たな「種」を蒔いたと評価できる。鎖国による直接的な技術導入の途絶はあったものの、一度もたらされた知識や、国内で製作された初期の時計は、細々とながらも技術の継承に寄与したと考えられる。特に、大名家お抱えの職人などを通じて技術が保持された可能性もある。時計の機械技術が、元々日本に存在した「からくり」の技術や発想と結びつき、和時計やからくり人形といった独自の分野で花開いた点は注目に値する 11

6.4. 時間意識への影響に関する考察

戦国時代に自鳴鐘が広く普及しなかったため、社会全体の時間意識に直接的かつ大きな変革をもたらしたとは考えにくい。しかし、一部の支配者層や知識人の間では、機械が刻む均質な時間という概念に触れることで、従来の自然時間に支配された感覚とは異なる、より抽象的で客観的な時間への意識が芽生えた可能性は否定できない 24

江戸時代初期の武士の心得である「学問は朝飯前に」といった記述 25 は、直接自鳴鐘の影響とは言えないが、時間を区切って計画的に行動するという意識の萌芽を示している。機械時計の存在が、こうした意識を間接的に後押しした可能性も考えられる。都市部では、商業活動の活発化などとともに、より正確な時間管理の必要性が高まりつつあり、そうした中で機械時計の概念が知られることは、緩やかな時間意識の変化に繋がったかもしれない 24

まずは時計を直接目にする機会のあったエリート層において、新たな時間概念への気づきが生まれた可能性がある。機械時計は、「誤差の少ない正確な時間」という、それまでの日本の計時方法ではあまり意識されなかった価値観をもたらした。これがすぐには社会に浸透しなくとも、後の近代化における時間意識の変容の遠い伏線となったかもしれない。自鳴鐘の直接的な影響は限定的であったとしても、それがもたらした「機械が時間を刻む」というアイデアは、人々の知的好奇心を刺激し、後の技術発展や社会の変化の中で、徐々に新たな時間観念を育んでいく上で、間接的かつ長期的な役割を果たしたと推測される。

7. 結論

戦国時代の「自鳴鐘」は、日本が初めて本格的に接触した西洋の高度な精密機械技術の象徴であった。その伝来は、キリスト教布教や外交と深く結びついており、主に支配者層の間で権威の象徴や知的好奇心の対象として受容された。日本の伝統的な不定時法と、舶来時計の定時法との間には大きな隔たりがあり、実用的な計時具としての普及には至らなかった。しかし、津田助左衛門による修理・模倣や、宣教師による技術教育を通じて、日本における時計製作技術の萌芽が生まれた。これらの初期の技術的接触と経験は、江戸時代における日本独自の「和時計」の発展、さらには「からくり」文化の洗練へと繋がる重要な基盤を形成した。自鳴鐘は、戦国時代の日本社会に直接的な大変革をもたらすには至らなかったものの、異文化理解、技術受容、そして新たな時間意識の萌芽という点で、無視できない歴史的意義を持つと言える。

今後の展望としては、現存する史料の再検討や、考古学的発見(例えば、当時の工房跡など)を通じて、自鳴鐘の具体的な構造や製作技術に関する知見を深めることが期待される。また、自鳴鐘に触れた当時の日本人が、それをどのように認識し、自らの知識体系の中に位置づけようとしたのか、思想史・文化史的側面からの研究も重要である。戦国時代から江戸初期にかけての技術移転の具体的なプロセスや、職人たちのネットワークに関する研究を進めることで、和時計への連続性をより明確にすることができるであろう。さらに、比較史的観点から、同時期の他の非西洋地域における西洋時計技術の受容と比較検討することも、日本の事例の特質を明らかにする上で有益である。

引用文献

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  14. 徳川家康はどんな人?徳川家康の性格は? - 戦国武将一覧 ... https://www.touken-world.jp/tips/78168/
  15. 黄金の輝き放つ“国内最古”の「家康公の洋時計」を特別公開 静岡 ... https://www.youtube.com/watch?v=iYZTY8ezA0k
  16. "家康の洋時計"平和外交の歴史ひもとく絵本 小学校などに絵本寄贈 ... https://rkb.jp/article/37661/
  17. F.H誌を読む(栄光時計株式会社会長 小谷年司) https://www.e-tkb.com/t-fh/tkb.cgi
  18. 時計進化年表(機械式時計編) | THE SEIKO MUSEUM GINZA ... https://museum.seiko.co.jp/history/mechanical/
  19. 久能山東照宮に保存されている 1581年ハンス・デ・エバロ銘置時計の機構と由来 https://www.kahaku.go.jp/research/publication/sci_engineer/download/39/L_BNMNS_E39_1.pdf
  20. 和時計とは | THE SEIKO MUSEUM GINZA セイコーミュージアム 銀座 https://museum.seiko.co.jp/knowledge/relation_15/
  21. 徳川家康の洋時計 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%81%AE%E6%B4%8B%E6%99%82%E8%A8%88
  22. hij-n.com https://hij-n.com/memberpage/magazine/57_208/57-208-p01-32.pdf
  23. 時計師の思いが、つくり手と使い手の時間を結ぶ。 - 土屋鞄 https://tsuchiya-kaban.jp/blogs/journal/20201203
  24. クロック技術の系統化調査 https://sts.kahaku.go.jp/diversity/document/system/pdf/112.pdf
  25. 吉川英治 宮本武蔵 二天の巻 - 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52401_49791.html