本報告は、戦国時代から安土桃山時代にかけてその名を馳せた茶碗「荒木高麗」について、現存する資料に基づき、その呼称、形態的特徴、製作地、伝来、そして茶道史上の位置付けを多角的に調査・考察することを目的とする。この茶碗は、荒木村重が所持していたとされることから「荒木」の名を冠し、また「高麗」という呼称から朝鮮半島との関連が示唆される一方で、近年の研究では中国南部で生産された染付磁器であるとの説が有力視されている 1 。この名称と実態の間に見られる複雑な関係性は、「荒木高麗」の謎を深めるとともに、その魅力を構成する重要な要素となっている。本報告では、これらの点に光を当て、「荒木高麗」茶碗の総合的な理解を目指す。
戦国時代から安土桃山時代にかけて、茶の湯は単なる喫茶の習慣を超え、武将たちの間で政治的・文化的な意味合いを強く帯びるようになった。特に千利休による侘び茶の確立は、茶道具に対する価値観にも大きな変革をもたらした。それまでの中国渡来の豪華絢爛な「唐物」を至上とする風潮から、朝鮮半島で焼かれた「高麗茶碗」や、日本の窯で生み出された「和物」といった、より素朴で内省的な美意識を反映した道具が重視されるようになったのである 3 。
この時代、「名物」と称される優れた茶道具は、大名間の贈答品や武将の権威を示す象徴として、時には一国の価値にも匹敵すると考えられた 4 。茶道具は、武将たちのステータスシンボルであると同時に、高度な文化的教養の証でもあった。「荒木高麗」もまた、そのような「名物」の一つ、特に格の高い「大名物」として知られている 1 。その評価は、当時の茶の湯文化の動向や美意識を色濃く反映しており、この茶碗を理解することは、戦国・桃山時代の文化の一端を垣間見ることにも繋がる。
「名物」の概念、とりわけ「大名物」という格付けは、主に江戸時代後期に松江藩主であった松平不昧が編纂した『雲州名物帳』によって体系化されたとされる 5 。この格付けにおいて「大名物」とは、千利休の時代以前、特に室町時代の足利将軍家が所持していた東山御物や、利休の時代に最高位と評価された茶入などが該当するとされる 7 。荒木高麗がこの「大名物」に数えられる背景には、その美術的価値のみならず、後述するような著名な武将や茶人の手を経てきたという由緒も大きく影響していると考えられる。侘び茶の流行が、なぜ「荒木高麗」のような特定の様式の茶碗の評価を高めたのか、その美的特質と時代の精神との共鳴関係を分析することは、本報告の重要な視点の一つである。
「荒木高麗」という名称は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将、荒木摂津守村重(1535~1586年)が所持していたことに由来すると広く伝えられている 1 。村重は織田信長の家臣として摂津国(現在の大阪府北部・兵庫県南東部)を治めたが、後に信長に反旗を翻し、有岡城(伊丹城)に籠城したことで知られる人物である。
現在、この「荒木高麗」の本歌、あるいはそのものと考えられているのが、徳川美術館(愛知県名古屋市)に所蔵される「唐草文染付茶碗 銘 荒木」である 9 。この茶碗は、その銘が示す通り、荒木村重との関連を強く示唆している。
一方で、「高麗」という呼称は、この茶碗の出自について複雑な問題を提起する。文字通り解釈すれば朝鮮半島(高麗王朝または李氏朝鮮時代)で焼かれた高麗茶碗の一種ということになるが、多くの研究や資料は、この茶碗が中国南部、特に福建省周辺の窯で16世紀に焼かれた染付磁器である可能性が高いことを示している 1 。例えば、釉薬の下から呉須(ごす)と呼ばれるコバルト顔料による青い絵付けが見える点は染付磁器の特徴であり、その文様や釉調は当時の中国南方系の陶磁器と共通点が多いとされる 2 。
この名称と実態の間に見られる「ねじれ」こそが、「荒木高麗」を理解する上での鍵となる。ある資料では「中国製の染付でありながら、朝鮮半島で生産された焼物の趣を持った碗と理解されていたのかもしれません」と指摘されており 2 、これは当時の茶人たちが、実際の産地以上に器が持つ「趣」や美的特性を重視し、それを既存のカテゴリー(例えば「高麗茶碗」)に引きつけて解釈した可能性を示唆している。桃山時代の茶の湯文化においては、このような柔軟な「見立て」の精神が重要な役割を果たしており、「荒木高麗」の名称もその一例と言えるかもしれない。すなわち、「荒木」は所持者に由来し、「高麗」はその様式や、当時の日本で広義に朝鮮渡来品を指した呼称、あるいは中国産でありながらも高麗茶碗(特に井戸茶碗など)に通じる素朴さや侘びた風情を持つことから名付けられた、という多義的な解釈が可能である。
「荒木高麗」茶碗は、その美術的価値もさることながら、名だたる歴史上の人物の手を経てきたという伝来の由緒によって、さらにその名声を高めている。主要な伝来者として挙げられるのは、荒木村重、千利休、徳川家康、そして尾張徳川家初代藩主の徳川義直である 1 。
伝来の順序については、いくつかの資料で千利休が所持した後に荒木村重の手に渡ったと記されている 1 。その後、村重から再び利休の手に戻ったのか、あるいは別の経路を辿ったのか詳細は不明な点もあるが、最終的には豊臣秀吉の手に渡り、その後、徳川家康が所持することになったとされる。そして、家康の死後、その遺品を分配した「駿府御分物(すんぷおわけもの)」の一つとして、尾張徳川家の初代藩主である徳川義直に伝来したとされている 1 。
以下に、推定される伝来の経緯と関連人物をまとめる。
表1:荒木高麗茶碗の伝来経緯と関連人物
伝来順(推定) |
所有者 |
関連逸話・備考 |
主な典拠 |
1 |
千利休 |
所持。荒木村重への伝来の起点とされることが多い。 |
1 |
2 |
荒木村重 |
所持。有岡城脱出の際に携帯したという逸話が残る。 |
1 |
3 |
(豊臣秀吉) |
一時所持した可能性が示唆される資料もあるが、詳細は不明。 |
4 |
4 |
徳川家康 |
所持。死後、「駿府御分物」として尾張徳川家へ。 |
1 |
5 |
尾張徳川家初代義直 |
徳川家康より拝領。以後、尾張徳川家に伝来。 |
1 |
6 |
徳川黎明会 |
現在の所蔵者。徳川美術館にて保管・展示。 |
11 |
この表は、茶碗の歴史的価値を形成する重要な要素である伝来を一覧化することで、その由緒と、各時代の権力者や文化人とどのように関わってきたかを明確にするものである。特に利休と村重の間の伝来順については諸説あり得るため、有力な説を基に構成したが、今後の研究による再検討の余地も残されている。
前述の通り、「荒木高麗」の本歌とされる「唐草文染付茶碗 銘 荒木」は、現在、公益財団法人徳川黎明会が所蔵し、愛知県名古屋市にある徳川美術館に保管・展示されている 11 。徳川美術館は、尾張徳川家に伝来した大名道具を中心とする膨大なコレクションを有しており、「荒木高麗」もその重要な収蔵品の一つとして大切に管理されている。
徳川美術館の公式ウェブサイトでは、「唐草文染付茶碗 銘 荒木」として作品情報が公開されており、その概要、寸法(高さ7.0cm、口径13.8cm、高台径5.0cm)、製作年代(明時代・16世紀)、製作国(中国)などが明記されている 12 。このような公的機関による適切な管理と情報公開は、本茶碗の学術的研究や文化的価値の普及に大きく貢献している。尾張徳川家という由緒ある大名家、そして徳川美術館という信頼性の高い機関に長らく所蔵されてきた事実は、本茶碗の保存状態の良好さにも繋がっていると考えられる。
徳川美術館が所蔵する「唐草文染付茶碗 銘 荒木」の具体的な寸法は、口径13.8cm、器高7.0cm、高台径5.0cmである 2 。器形は、やや低めの椀なりで、深みを持つ姿をしていると評されることが多い 1 。
ある研究では、この茶碗を大坂城や八王子城の遺跡から出土した同時代の粗製染付碗と比較分析している 2 。それによると、口径はほぼ同じであるものの、「荒木高麗」の方が器高が約2cm高く、その分、胴部に丸みがあり、より深みのある器形を呈しているという。この器形の違いは、「荒木高麗」が他の出土品よりも古い年代に製作された可能性を示唆する要素の一つとして注目される。
「荒木高麗」の最も顕著な視覚的特徴は、その釉薬と文様にある。白い素地の上に、高台を除いて内外全面に乳白色の釉薬が掛けられている 1 。この釉薬の表面には、全体に細かいヒビである貫入(かんにゅう)が見られ、これが独特の景色を生み出している。
文様は、呉須(ごす)と呼ばれるコバルト系の顔料を用いて描かれており、見込み(茶碗の内面底部)と外面側面に施されている。主題は唐草文とされ、抽象的かつ自由闊達な筆致で表現されているのが特徴である 1 。釉薬と貫入の影響により、呉須の青い文様はやや滲んで不鮮明に見える部分もあるが、この滲みこそが「雅味(がみ)」、すなわち趣深い風情として、当時の茶人たちに高く評価されたと考えられている 1 。
外面の文様について、より詳細な分析では、口縁部に二重の圏線が巡らされ、その間に波文と斜線を組み合わせた文様が描かれていると指摘されている 2 。胴部に描かれた唐草文は、類例が少ないものの、太い線で力強く描くという、この時期の中国南方系粗製染付碗に共通する特徴をよく示しているとされる。一方、内面底の文様については、図録などでは一般に唐草文とされているが、前述の研究では、同時期の粗製碗皿に多く見られる「草花文」である可能性も示唆されている 2 。
この「滲み」の美意識は、日本の侘び茶の精神と深く結びついている。完全なものよりも不完全なもの、整ったものよりも自然なものに美を見出す価値観が、この茶碗の評価の根底にあると言えるだろう。
「荒木高麗手(あらきごうらいて)」という言葉は、本歌である「荒木高麗」に似た作風を持つ、あるいはその影響を受けて作られた一群の茶碗を指す際に用いられることがある 1 。これらの「荒木高麗手」の茶碗は、一般的に低い椀なりでやや深みがあり、呉須による絵付けが施されているという共通の特徴を持つ。製作地としては、本歌と同様に中国南部産の呉須絵陶器と見なされることが多い 1 。
16世紀後半の茶会記には「染付茶碗」という名称で茶碗が頻繁に登場するが、これらが本歌の「荒木高麗」そのもの、あるいは同種の様式を持つ「荒木高麗手」の碗であった可能性が指摘されている 1 。茶道具の世界における「〇〇手」という分類は、単に本歌の写しを意味するだけでなく、様式的な共通性を持つ一群の作品群を捉えようとする概念であり、「荒木高麗」が後世の陶磁器生産に何らかの影響を与えた可能性も示唆している。
「荒木高麗」の様式的特徴を語る上で、しばしば比較対象として挙げられるのが、安南茶碗(ベトナム産)と井戸茶碗(朝鮮産)である。絵付けの雰囲気は安南茶碗を彷彿とさせ、釉薬の調子や全体の風合いは井戸茶碗に似ていると評されることが多い 8 。
特に、茶碗の内部に見られる白い釉薬のなだれ(釉薬が溶けて流れた跡)は、井戸茶碗をはじめとする朝鮮半島産の高麗茶碗に顕著に見られる特徴であり、「荒木高麗」にも同様の景色が見られる点が注目される 11 。一部の資料では、「荒木高麗」(別名「大高麗」)を「大井戸の高麗茶碗」と明記しているものもある 14 。
このように、一つの茶碗の中に複数の異なる地域の様式(安南風の絵付け、井戸風の釉調)の特徴が見られることは、当時の陶磁器がいかに広範囲に流通し、また日本の茶人たちがいかに多様な美的要素を柔軟に受容し、独自の解釈を加えていたかを示唆している。中国産染付説が有力視される中で、一部資料が「井戸茶碗」と分類する根拠については、単に釉調の類似性だけでなく、器形や高台の作りといった細部まで含めた総合的な比較検討が求められる。
「荒木高麗」茶碗の製作地については、長らく議論が続いており、主に朝鮮半島説と中国南部説が存在する。
朝鮮半島製作説の最も直接的な根拠は、「荒木高麗」という名称そのものである。「高麗」という語は、歴史的に朝鮮半島を指す呼称として用いられてきた。また、前述の通り、釉薬の雰囲気や茶碗内部に見られる白い釉薬のなだれといった特徴が、井戸茶碗など朝鮮半島産の高麗茶碗に類似している点が指摘されている 8 。
しかし、この説にはいくつかの課題も存在する。呉須を用いた染付の技法や、主要な文様である唐草文は、16世紀当時の朝鮮半島における陶磁器の主流様式とは必ずしも一致しないとされる。また、多くの陶磁史研究者や関連資料が、後述する中国南部製作説を支持している点との整合性をどのように考えるかという問題もある。
近年、より有力視されているのが中国南部製作説である。その根拠として、呉須による染付の技法、特に太い線描で描かれた唐草文などの文様の特徴、そして釉薬の調子が、16世紀後半に中国南部、とりわけ福建省の漳州窯(しょうしゅうよう)周辺で焼かれた、いわゆる「粗製染付磁器」と多くの共通点を持つことが挙げられる 1 。実際に、大坂城跡など、日本の同時代の城郭遺跡からは、この種の染付陶磁器片が多数出土しており、「荒木高麗」も同様のルートで日本にもたらされた可能性が考えられる 2 。
この説の課題は、やはり「高麗」という名称との矛盾である。なぜ中国産である可能性が高い茶碗が「高麗」と呼ばれたのか、その理由を説明する必要がある。これについては、前述の通り、実際の産地よりも器が持つ「趣」や、特定の美的特徴(例えば井戸茶碗に似た釉調)が「高麗」というイメージと結びついた結果である可能性や、当時の「唐物」と「高麗物」の分類の柔軟性などが考えられる。
表2:荒木高麗茶碗の製作地に関する諸説比較
製作地説 |
主な根拠(考古学的証拠、文献的証拠、様式的類似性) |
指摘される点・課題 |
関連典拠 |
朝鮮半島説 |
・「高麗」という名称自体<br>・釉薬の雰囲気、内部の白釉なだれなどが井戸茶碗等に類似 |
・呉須染付技法、唐草文様が当時の朝鮮の主流様式と異なる<br>・多くの専門家が中国産を示唆 |
8 |
中国南部説(福建省等) |
・呉須染付の技法、文様(太い線描の唐草文等)、釉調が16世紀後半の中国南部産粗製染付磁器(漳州窯など)と共通<br>・大坂城跡など日本の同時代遺跡からの類品出土 |
・「高麗」という名称との矛盾<br>・なぜ中国産が「高麗」と呼ばれたかの説明が必要 |
1 |
この製作地をめぐる問題は、「荒木高麗」という茶碗が持つ多層的な性格を象徴している。単に「どこで作られたか」という事実確認以上に、それが当時の日本の茶人たちにどのように受容され、解釈されたのかという文化史的な問いへと繋がっていく。
16世紀は、東アジアの海上交易が活発化した時代であり、中国、朝鮮半島、そしてベトナム(安南)など東南アジア各地で生産された多様な陶磁器が、日本にも盛んにもたらされた 3 。日本の茶人たちは、これらの舶来品の中から、自らの美意識に基づいて独自の見立てを行い、茶の湯の道具として取り入れていった。この「見立て」の精神は、侘び茶の発展と深く関わっている。
「荒木高麗」に見られる様式的特徴、すなわち中国的な染付技法、朝鮮の井戸茶碗を思わせる釉調、そして安南風とも評される絵付けの雰囲気は、まさにこのような国際的な陶磁器交流と、日本の茶人による創造的な受容の産物であった可能性を示唆している。
特に、中国産でありながら「高麗」という名で呼ばれ、井戸茶碗に似た特徴を持つと評される背景には、当時の日本の茶の湯における「唐物」と「高麗物」の受容のされ方の変化が影響していると考えられる。元来、中国渡来の「唐物」は珍重されたが、侘び茶が隆盛するにつれて、朝鮮半島で作られた日常雑器の中から見出された「高麗物」が、その素朴さや作為のなさゆえに高く評価されるようになった 15 。この流れの中で、中国産であっても、高麗茶碗のような侘びた風情を持つものが、実際の産地とは別に「高麗」というカテゴリーで捉えられたり、あるいはそのように名付けられたりしたのではないか。つまり、器の「国籍」や技術的な完成度よりも、それが醸し出す「品格」や「趣」、特に侘び茶の精神に合致するかどうかが、命名や評価においてより重要な要素となった可能性が考えられる。ある資料が「中国製の染付でありながら、朝鮮半島で生産された焼物の趣を持った碗と理解されていたのかもしれません」と述べているのは 2 、この点を的確に指摘していると言えよう。
荒木村重(1535~1586年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将である。はじめ池田氏に仕え、後に織田信長の家臣となり、摂津国(現在の大阪府北部および兵庫県南東部)の大部分を支配する有力大名にのし上がった 16 。しかし、天正6年(1578年)、突如として信長に反旗を翻し、居城であった有岡城(伊丹城)に籠城、一年近くに及ぶ抵抗の末に城を脱出したという劇的な生涯を送った 4 。
村重は武勇に優れた武将であっただけでなく、茶の湯にも深い造詣を持つ文化人としての一面も持っていた。千利休に茶の湯を学び、その高弟の一人として「利休七哲」に数えられることもあるほど、茶道に傾倒していたと伝えられている 17 。
荒木村重と千利休の関係は、師弟として結ばれていたとされる 17 。村重は利休から茶の湯の奥義を学び、その精神性を深く理解していたと考えられている。利休の門下には多くの大名や武将が名を連ねたが、その中でも村重は特に優れた弟子の一人と見なされ、「利休七哲」の一角を占めることもある 17 。
茶道具に対する村重の関心は並々ならぬものがあり、「荒木高麗」茶碗の他にも、「兵庫壺(ひょうごつぼ)」と呼ばれる茶壺や、「寅申壺(とらさるつぼ)」、「桃尻花入(ももじりはないれ)」、そして藤原定家の書と伝えられる「定家色紙」など、数々の名物を所持していたと記録されている 17 。これらの名物は、村重の文化的素養の高さを示すと同時に、彼の権力や財力の象徴でもあった。
師弟関係にあった利休と村重の間で、「荒木高麗」がどのようにして移動したのか、その具体的な経緯は必ずしも明確ではない。しかし、当時の茶の湯の世界では、茶道具の贈答や売買は日常的に行われており、師から弟子へ、あるいは弟子から師へといった形で名物が譲渡されることも珍しくなかった。
荒木村重の生涯で最も劇的な出来事の一つが、有岡城の籠城戦とその後の脱出である。追い詰められた村重は、天正7年(1579年)9月、妻子や多くの家臣を城に残したまま、わずかな供回りの者と共に、愛蔵の茶道具を携帯して密かに城を抜け出したという逸話が広く知られている 9 。この時、彼が持ち出したとされる茶道具の中に、この「荒木高麗」茶碗、あるいは「兵庫壺」が含まれていたと伝えられている 4 。
この行動は、主君に背き、家族や家臣を見捨ててまで自らの命と愛玩物を守ろうとしたとして、後世、特に江戸時代の儒教的道徳観からは厳しい非難の的となった。「妻子を捨ててまで茶道具を大事にした男」という評価は、この逸話に由来するものである 16 。しかし、この脱出行については異説も存在し、毛利氏へ援軍を要請するための戦略的行動であり、携行した茶道具は毛利氏への献上品、あるいは交渉のための重要な手土産であったという見方もある 16 。
この逸話の史実性を完全に検証することは困難であるが、戦国武将の茶道具への執心の深さ、そして茶道具が持つ政治的・経済的価値の大きさを象徴するエピソードとして、今日まで語り継がれている。そして、このようなドラマチックな背景は、「荒木高麗」という茶碗に、単なる美術品としての価値以上の物語性を付与し、その名声を高める一因となったことは間違いないだろう。村重の茶道具への執着は、単なる個人的な趣味を超え、戦国武将としての権威や文化的アイデンティティを示す重要な手段であった可能性も否定できない。信長への反逆という極限状況下で名物を携行した行為は、単なる保身だけでなく、文化的な矜持の保持、あるいは再起への最後の望みを託した行為であったとも解釈できるかもしれない。
「荒木高麗」茶碗は、茶道具の格付けにおいて特に由緒正しいとされる「大名物(おおめいぶつ)」の一つとして高く評価されている 1 。この「大名物」という格付けは、主に江戸時代後期の松江藩主であり、著名な大名茶人でもあった松平不昧(治郷)が編纂した『雲州名物帳』などによって確立された概念である 5 。一般的に「大名物」とは、千利休の時代よりも前、特に室町幕府八代将軍足利義政を中心とする東山文化の時代に既に名声を得ていた茶道具や、利休の時代に最高位と評価された茶入などが該当するとされる 6 。
「荒木高麗」が「大名物」とされる背景には、その優れた造形美や独特の風情に加え、荒木村重、千利休、徳川家康といった歴史上の重要な人物たちの手を経てきたという由緒の確かさが大きく影響していると考えられる。製作年代とされる16世紀後半は、厳密には東山時代よりも後になるが、「利休時代に最高位に評価された」という「大名物」の定義に照らせば、その格付けにふさわしい名品であったと認識されていたことが窺える。
桃山時代は、日本の茶の湯文化が大きな転換期を迎えた時代である。千利休によって侘び茶が大成されると、それまで至上とされてきた中国渡来の豪華な「唐物」中心の価値観から、朝鮮半島で焼かれた日常雑器などから見出された「高麗茶碗」や、日本国内の窯で焼かれた「和物」が主要な茶道具として評価されるようになった 3 。
「高麗茶碗」という呼称が茶会記に初めて登場するのは、天文6年(1537年)のこととされ 19 、その後、侘び茶の隆盛とともに、天正年間(1573~1592年)にはその使用例が増加していく 20 。これらの「高麗茶碗」は、技術的な完成度よりも、むしろ素朴さ、歪み、作為のなさといった点に美が見出された。
一方、「染付茶碗」もまた、この時期に茶の湯の道具として受容され始めている。『天王寺屋会記』によれば、天正3年(1575年)の茶会で「そめつけ茶碗」が使用された記録があり、これが初見とされる 22 。荒木村重自身も、天正5年(1577年)4月13日に染付茶碗を用いた茶会を催した記録が残っている 22 。16世紀後半の茶会記に頻繁に見られる「染付茶碗」が、この「荒木高麗」(本歌)そのもの、あるいは同種の様式を持つ「荒木高麗手」の碗であった可能性が指摘されていることは、既に述べた通りである 1 。
この「高麗茶碗」というカテゴリーが、厳密な朝鮮半島産のものだけでなく、特定の美的感覚、例えば素朴さや歪み、作為のなさといった「侘び」に通じる風情を持つ舶来品全般を指すように、当時の茶人たちの間で拡大解釈されて用いられた可能性も考えられる。また、中国の景徳鎮窯などで生産された精巧な染付磁器とは異なる、いわゆる「粗製染付」が侘び茶の道具として受け入れられた背景には、その不完全さや素朴さが、かえって新鮮な美的価値として評価された可能性があろう。
「荒木高麗」茶碗の美的特質、すなわち乳白色の柔らかな釉薬に呉須の青い文様がほのかに滲む景色や、全体に入った貫入、そして作為を感じさせない大らかな造形などは、千利休が大成した侘び茶の美意識と深く共鳴するものであったと考えられる。侘び茶は、華美を排し、静寂で簡素なものの中に深い精神性を見出すことを旨とする。そのため、技術的に完璧に整ったものよりも、むしろ自然の成り行きや偶然性によって生じた不完全さや、使い込まれることによって生じる「寂び」や「雅味」といった趣が尊ばれた 1 。
ある資料では、「荒木高麗」について「文様は不鮮明で、この趣に当時の茶人が侘を感じ、愛蔵したとみられる」と記されている 2 。この記述は、まさに「荒木高麗」が侘びの美意識の中でどのように評価されたかを端的に示している。技術的には「粗製」と見なされる可能性のある器が、茶の湯という特定の文化的文脈においては、その素朴さや不完全さゆえに高い美的評価を得るという現象は、物質的な完成度よりも精神性や物語性を重視する侘び茶の特性を象徴していると言えるだろう。これは、後年、柳宗悦らが提唱した民衆的工芸品に美を見出す「用の美」の概念とも通底する思想が、既にこの時代に存在していたことを示唆しているのかもしれない 23 。
「荒木高麗」の本歌とされる徳川美術館所蔵の「唐草文染付茶碗 銘 荒木」について、文化財保護法に基づく国宝や重要文化財としての指定は、現在のところ確認されていない。徳川美術館の公式ウェブサイトの作品情報ページにおいても、「文化財指定」の欄は空欄となっている 12 。
「大名物」という呼称は、歴史的な茶道具の格付けであり、現代の法律に基づく文化財指定とは異なる概念である 5 。文化庁の国指定文化財等データベースを検索しても、「荒木高麗」または「唐草文染付茶碗 銘 荒木」が重要文化財等に指定されているという直接的な情報は、提供された資料からは見出すことができなかった。徳川美術館が所蔵する重要文化財指定の茶碗として一部資料で言及されているものは 25 、「白天目茶碗」など、本品とは別の作品である可能性が高い。
歴史的評価(大名物)と現代の法的評価(文化財指定)が必ずしも一致しない事例は他にも存在する。「荒木高麗」の場合、その理由としては、学術的な評価の変遷、保存状態の詳細、あるいは現存する類品の多寡など、様々な要因が考えられるが、現時点では明確な結論を出すことは難しい。
「荒木高麗」茶碗は、古くから茶道具に関する重要な文献や図録にその名が記録されてきた。代表的なものとして、江戸時代初期に成立したとされる『玩貨名物記(がんかめいぶつき)』をはじめ、『古今名物類聚(ここんめいぶつるいじゅう)』、『名物記(めいぶつき)』、そして大正時代に刊行された『大正名器鑑(たいしょうめいきかん)』などが挙げられる 1 。
これらの文献には、「荒木高麗」の寸法、形態的特徴、釉調、文様、そして何よりも荒木村重をはじめとする歴代の所持者に関する伝来の経緯などが記載されている。これらの記述を相互に比較検討することは、「荒木高麗」に関する情報の信憑性を検証し、時代による評価の変遷や、言説がどのように形成されてきたかを理解する上で不可欠である。
例えば、江戸時代初期の『玩貨名物記』と、より近代的な視点から編纂された『大正名器鑑』とでは、同じ「荒木高麗」を記述するにあたっても、その評価の視点や重視する情報に差異が見られる可能性がある。前者が大名家の格付けや由緒を重んじる傾向があるのに対し、後者はより美術史的な観点からの分析が加えられているかもしれない。これらの文献を通じて、「荒木高麗」に関する特定のイメージや情報がどのように伝播し、固定化されていったのかを考察することは、この茶碗の歴史的評価を深く理解するために重要となる。
「荒木高麗」茶碗は、その名称、形態、伝来、そして製作地をめぐる諸説において、多くの謎と複雑な要素を内包しつつも、日本の茶道文化史において特異な魅力と重要な位置を占める名品である。中国南部で生産された染付磁器である可能性が高いにもかかわらず「高麗」の名を冠し、井戸茶碗や安南茶碗の趣をも併せ持つとされるその独特の様式は、桃山時代の茶人たちが持っていた国境や様式の枠にとらわれない自由闊達な「見立て」の精神と、当時の活発な国際的な陶磁器交流の様相を色濃く反映していると言えよう。
摂津の戦国武将・荒木村重という、波乱に満ちた生涯を送った人物の愛蔵品としてのドラマチックな物語性、そして千利休や徳川家康といった歴史上の重要人物の手を経てきたという由緒は、この茶碗に単なる美術工芸品としての価値を超えた重層的な意味を与えている。特に「大名物」としての高い評価は、その美術的価値と歴史的背景が一体となって形成されたものである。
その美的特質、すなわち乳白色の釉に滲む呉須の文様や全体を覆う貫入といった景色は、技術的な洗練さや完璧さよりも、むしろ素朴さ、不完全さ、あるいは自然の作為の中に美を見出そうとする侘び茶の精神性と深く共鳴するものであった。この茶碗が愛好された事実は、桃山時代の茶人たちの美意識の一端を具体的に示すものであり、後世の茶の湯文化や陶磁器に対する美的評価にも少なからぬ影響を与えた可能性がある。
「荒木高麗」茶碗に関する研究は、これまでも多くの専門家によって行われてきたが、未だ解明すべき課題も残されている。
まず、製作地の確定については、さらなる考古学的調査、特に日本国内および中国南部の窯跡から出土する類似の陶磁器片との詳細な比較検討、そして関連する文献史料の博捜が望まれる。科学的な分析手法(胎土分析など)も、産地特定の一助となる可能性がある。
次に、「荒木高麗手」と称される一群の茶碗の実態解明と、本歌である「銘 荒木」の茶碗との具体的な関係性をより明確にすることも重要な課題である。これにより、「荒木高麗」という様式が、どの程度の範囲で認識され、また後世の陶磁器生産にどのような影響を与えたのかを明らかにすることができるだろう。
また、本報告でも触れた『玩貨名物記』や『大正名器鑑』といった主要参考文献における記述の比較検討をさらに深化させ、「荒木高麗」に関する言説が時代とともにどのように形成され、変容してきたのかを詳細に追跡する必要がある。
最後に、「荒木高麗」茶碗を、単に一碗の茶道具として捉えるだけでなく、茶道史、陶磁史、さらには16世紀後半から17世紀初頭にかけての東アジアにおける文化交流史といった、より広範な歴史的・文化的文脈の中に位置づけ直し、その多層的な意義を総合的に再評価することが、今後の研究に期待される展望である。これにより、「荒木高麗」という一つの窓を通して、日本の戦国・桃山時代の文化の豊かさと複雑さを、より深く理解することができるであろう。