戦国時代は、約1世紀半にわたる未曾有の社会変動と戦乱の時代であった。このような先の見えない混乱期において、人々は現世利益と来世の救済を求めて神仏への信仰を深めた。とりわけ観音菩薩は、その広大な慈悲と多様な救済能力により、貴族から武士、庶民に至るまで幅広い階層の人々に信仰された。観音菩薩は、衆生の苦しみに応じて三十三の姿に変化し(三十三応現身)、現世での苦難からの解放や病気平癒、さらには極楽往生といった多岐にわたる利益をもたらすと信じられていた 1 。
このような観音信仰の高まりを背景として、観音菩薩の姿を描いた「観音図」も数多く制作された。観音図は、礼拝の対象としてだけでなく、人々の願いや祈りを託す媒体としての役割も担っていた。戦国時代においては、華麗な彩色が施された仏画と共に、墨を主体とする「墨絵」の観音図もまた独自の展開を見せた。墨絵は、中国宋元画の影響を受け、特に禅宗文化と深く結びつきながら日本で発展した絵画形式である 2 。墨の濃淡や筆致、余白の美を追求する墨絵の表現は、観音菩薩の清浄性や内面的な精神性を表すのに適していたと考えられ、特に禅林において好まれた 3 。本報告書は、この戦国時代に制作された墨絵の観音図に焦点を当て、その多岐にわたる側面を明らかにすることを目的とする。
本報告書は、戦国時代における墨絵観音図について、以下の四つの主要な側面から詳細かつ徹底的に調査し、その全体像を明らかにすることを目的とする。第一に、戦国時代という特殊な時代背景における観音信仰の受容と、それに伴う観音図の社会的役割を考察する。第二に、墨絵観音図の主要な図像の種類と、その様式的特徴、特に中国絵画からの影響と日本独自の展開について分析する。第三に、狩野派、雪村周継、阿弥派など、この時代に活躍した主要な絵師とその代表的な観音図作例を取り上げ、各絵師の個性と様式の比較検討を行う。第四に、戦国武将たちが観音信仰および観音図とどのように関わったのか、具体的な事例を通して探求する。
以上の構成を通じて、戦国時代の墨絵観音図が、単なる宗教美術の枠を超え、当時の人々の精神性、美意識、そして社会状況を映し出す鏡であったことを論証する。
観音信仰は、紀元1世紀頃のインドで成立し、その後中国を経て日本へ伝来したとされる 1 。日本においては、飛鳥時代に仏教と共に伝わったと考えられており、奈良時代には聖観音のみならず、十一面観音や千手観音といった多面多臂の変化観音像も盛んに造像されるようになった 1 。当初の観音信仰は、鎮護国家から日常的な除災招福といった現世利益が中心であった。
平安時代に入ると、10世紀頃から浄土信仰が発達し、これに伴い観音信仰も来世的な色彩を帯びるようになる。「阿弥陀脇侍」としての観音菩薩は、阿弥陀如来と共に来迎し、死者を極楽浄土へ導くとされ、現世利益に加えて六道からの救済(六道抜苦)や来迎引摂の利益も説かれた 1 。このように「現当二世の利益を兼ねる」とされた観音菩薩への帰依は、宮中での観音供をはじめとする様々な法会を発展させ、10世紀末以降には貴族や民衆による観音霊場への参詣も流行した 1 。
戦国時代という未曾有の動乱期において、人々の不安は増大し、神仏への祈りはより切実なものとなった。観音菩薩の広大な慈悲と現世・来世にわたる救済の力は、このような時代状況の中で、武士階級から庶民に至るまで、多くの人々の心の支えとなった。特に武士たちは、絶え間ない戦いの中で、武運長久や戦勝祈願といった現世的な願いと共に、死と隣り合わせの日常から、死後の安寧や極楽往生といった来世での救済を観音菩薩に託したのである。この時代の観音信仰の二面性、すなわち現世利益の追求と来世救済への希求は、観音図の主題選択や図像表現にも影響を与え、力強い守護者としての観音と、慈悲深い救済者としての観音といった、多様な観音像が求められる背景となったと考えられる。
戦国時代の武士階級にとって、観音信仰は極めて重要な意味を持っていた。彼らは、戦場での武運や身の安全、そして戦没者の追善供養といった切実な願いを観音菩薩に託した。例えば、東国の武士たちは、西国での戦乱を通じて西国三十三観音巡礼の存在を知り、そこに信仰や供養を超えた、やり場のない心の拠り所を見出したのかもしれないと指摘されている 4 。
また、有力な武家は観音霊場や観音を祀る寺院を積極的に保護した。これは単に個人的な信仰心の発露に留まらず、自らの権威を示し、領国支配を安定させるための戦略的な意味合いも持っていた。里見氏が一族から那古寺の住職を輩出するほど篤い信仰を捧げた事例は、武家と観音信仰の深い結びつきを象徴している 4 。有力武家による霊場の保護は、巡礼者の安全を確保し、観音信仰の民衆への拡大を物理的に支える役割も果たした。これは、武士階級が観音信仰を、個人的な精神的支柱としてだけでなく、領民支配や自らの権威を誇示するための戦略的ツールとしても活用していたことを示唆している。このような背景から、特定の観音霊場や寺院が武家の支援を受けて発展し、そこから新たな観音図の制作が促された可能性も考えられる。
さらに、戦国時代には禅宗が武士階級を中心に広まったが、禅林においても観音図、特に白衣観音図などが好んで描かれた 3 。禅宗の簡素を重んじる精神性や、内面的な悟りを追求する姿勢は、墨の濃淡や余白を重視する水墨画の美意識と親和性が高かった。堀尾吉晴のように禅に深く帰依した武将も存在し 6 、彼らにとって観音菩薩の慈悲や智慧は、禅の修行や精神修養の一環として、また厳しい現実を生き抜くための精神的な支えとして解釈され、観音図はその象徴として重要な役割を果たしたと考えられる。
観音菩薩の三十三身にちなんで、畿内周辺の三十三ヶ所の代表的な観音霊場を巡る西国巡礼は、確実な例として1161年(応保元年)の園城寺僧覚忠に遡る 1 。その後、13世紀には坂東三十三所、15世紀には秩父三十三所(後に三十四所)が成立し、15世紀頃からは修験者に加えて武士や豪農も参加するようになり、巡礼の大衆化が始まった 1 。
戦乱の絶えない当時において、巡礼路の安全確保や札所の維持・保護は極めて困難であった。そのため、札所が土地の強力な武家によって守られていなければ、民衆が安心して巡礼を行うことは容易ではなかった 4 。源頼朝による那古寺の手厚い保護といった歴史的背景もあり、多くの有力武家が観音霊場を保護し、巡礼者を守ってきたのである 4 。これは、武家の宗教的権威と社会的影響力を示すと同時に、観音信仰が武士階級のみならず、広く民衆へと浸透していく上で不可欠な要素であった。
観音菩薩は、「現当二世の利益を兼ねる」とされ、現世における様々な苦難からの救済(除災、治病、延命など)と、来世における極楽往生の両方をもたらす存在として信仰された 1 。戦国時代の人々にとって、これは極めて魅力的な救いであった。
観音の徳をたたえる観音講や、観音を本尊として罪を懺悔する観音懺法といった多くの法会が発達したことも、観音信仰の隆盛を物語っている 1 。これらの法会においては、観音図が本尊として掛けられ、人々の祈りの対象となったと考えられる。観音菩薩の霊験利益譚は、『今昔物語集』以下の仏教説話集に多数収録され、『長谷寺験記』のような単独の観音霊験集も制作されたことからも、その信仰がいかに人々の生活に深く根付いていたかがうかがえる 1 。墨絵の観音図もまた、こうした人々の切実な願いを受け止め、観音の慈悲と救済の力を視覚的に伝える役割を担ったのである。
戦国時代、武士階級を中心に禅宗が広まったことは、墨絵観音図の制作と受容に大きな影響を与えた。禅宗は、経典の文字や言葉(不立文字)よりも、師から弟子へと直接伝えられる悟り(以心伝心)を重んじ、華美な装飾を排して簡素な中に深遠な真理を見出すことを理想とした。このような禅の精神性は、墨一色で万物を表現し、余白や筆致そのものに無限の意味を込める水墨画の技法と深く共鳴した 2 。
特に白衣観音図は、その清浄無垢な姿と、水墨という抑制された表現形式が禅の理想と合致したため、禅林において好んで描かれた 3 。白衣観音は、特定の場所や状況に限定されず、あらゆる場所に現れて衆生を救済する自由な存在として捉えられ、その姿は禅僧の理想とする境地とも重なったのかもしれない。
また、観音図は禅僧の修行や悟りの境地を象徴的に表すものとして、あるいは禅問答の題材として用いられた可能性も指摘されている 5 。例えば、瓢鮎図のように、捉えどころのない禅の公案を絵画化した作品も存在し、観音図もまた、観る者に禅的な問いを投げかける役割を担ったことが考えられる 5 。戦国武将や禅僧が観音図を好んだ背景には、こうした禅の思想的背景に加え、厳しい現実社会を生き抜くための精神的な支えとしての機能があったと推測される 5 。
禅宗寺院における観音図の配置場所や荘厳の仕方も、その宗教的機能を考える上で重要である。方丈や仏殿といった寺院の中心的な堂宇に観音図が掛けられる際には、その空間全体の宗教的意味合いを高め、修行者の観想を助ける役割を果たしたと考えられる 9 。墨絵の観音図は、その静謐な雰囲気と精神性の高さから、禅宗寺院の空間に特に調和し、観る者を深い瞑想へと誘う力を持っていたと言えよう。
水墨画とは、東洋画の一様式であり、基本的には墨一色、あるいはこれに淡彩を施した絵画を指す 2 。中国の唐代に生まれ、朝鮮半島を経て日本に伝わり、独自の発展を遂げた。水墨画の根底には、「墨に五彩あり」という思想があり、これは墨の濃淡、潤渇、筆致の強弱や速度、そして余白の活用によって、単なる黒白の世界を超えた豊かな色彩感、立体感、さらには精神性や気韻までも表現しようとするものである 2 。
戦国時代の観音図における「墨絵」も、この水墨画の範疇に含まれる。絵師たちは、墨の持つ無限の可能性を追求し、観音菩薩の慈悲に満ちた表情、柔らかな衣の質感、そして観音を取り巻く神聖な雰囲気を描き出そうとした。例えば、衣のひだの表現においては、太く力強い線で量感を出しつつ、細く柔らかな線で衣の軽やかさを示すなど、線の変化が巧みに用いられた。また、背景となる岩や水、植物などの自然描写においても、墨の濃淡や「ぼかし」、「かすれ」といった技法を駆使することで、空間の奥行きや湿潤な空気感までも表現することが試みられた。吉山明兆筆と伝えられる「白衣観音図」(東京国立博物館蔵)では、観音菩薩が発する神聖な光が、墨の「ぼかし」の技法を用いて効果的に表されている点は、墨表現の好例と言えよう 15 。
戦国時代に墨絵で描かれた観音図には、いくつかの主要な種類が見られる。それぞれが独自の図像的特徴と信仰的背景を持ち、絵師たちは墨の特性を活かしてこれらの主題に取り組んだ。
白衣観音は三十三観音の一つであり、その名の通り純白の衣をまとい、多くは水辺の岩場などに坐す姿で描かれる 3 。清浄、慈悲、救済の象徴とされ、特に禅林において好まれた画題であり、水墨画の技法で描かれることが多かった。白衣の清らかで捉えどころのないイメージと、墨一色で万物を表現しようとする水墨画の精神性が、禅的な世界観を象徴するのに適していたためと考えられる。この主題は、戦国時代の絵師たちにとっても重要なレパートリーであり、狩野元信筆「白衣観音図」(ボストン美術館蔵) 18 、明兆筆「白衣観音図」(東京国立博物館蔵) 15 、雪村周継筆「白衣観音図」(茨城県立歴史館蔵) 25 、能阿弥筆「白衣観音図」(文化庁蔵、常盤山文庫蔵) 26 など、多くの作例が知られている。これらの作品は、絵師や流派によって様式的な差異を見せつつも、白衣観音の持つ普遍的な宗教的イメージを墨の濃淡と線描で見事に表現している。また、福島県立博物館所蔵の松平容大夫人・鞆子筆「白衣観音図」のように、衣のひだや光背を「南無妙法蓮華経」の文字の連なりで描いた特殊な作例も存在し 31 、信仰の多様な形態を示している。
楊柳観音も三十三観音の一つで、柳の枝を手に持ち、病難救済を本願とする菩薩として知られる 32 。水辺に坐し、傍らに浄瓶(じょうびょう)が置かれる図像が一般的である。一方、水月観音は、水面に映る月を観想する姿で描かれ、万物の実体のないこと(空)や無常の理を示すとされる。これらの主題はしばしば融合し、水辺の岩上に坐す観音と、その観音を礼拝するために訪れる善財童子(ぜんざいどうじ)が共に描かれる構図が多く見られる 32 。
墨絵においては、水の流れや飛沫、柳の枝のしなやかさ、そして観音の瞑想的な雰囲気を、墨の濃淡や筆致の変化によって表現することが求められた。鎌倉時代には既に水墨による作例が見られ、室町時代から戦国時代にかけても引き続き制作された 34 。茨城県那珂市の弘願寺に伝わる雪村筆と推定される「滝見観音図」の原型とされる、一山一寧の賛を持つボストン美術館蔵「楊柳観音図」は 35 、図像の伝播と変容を考える上で極めて重要な作品である。
滝見観音図は、観音が補陀落山中の滝を背景に岩上に坐し、善財童子がその教えを乞うために訪れる場面を描くことが多い 36 。流下する滝のダイナミックな描写と、静かに瞑想する観音の姿との対比が、画面に緊張感と深遠な宗教的雰囲気をもたらす。この主題は、特に戦国時代の画僧・雪村周継が得意としたもので、正宗寺蔵や弘願寺蔵の「滝見観音図」などが知られている 35 。雪村の作品では、彼独特の力強い筆致による岩の表現や、大胆な空間構成が特徴的である。弘願寺蔵の作例は、より古い時代の図様を参考にしつつも、雪村自身の解釈を加えて再構成しており 36 、絵師による創造的な継承の過程をうかがい知ることができる。
飛龍観音図は、龍に乗る観音の姿を描いたもので、龍の持つ圧倒的な力と観音の慈悲深さが対比的に、あるいは調和的に表現される。伝雪村筆「飛龍観音図」(正法寺蔵と推定、紙本著色)は、安土桃山時代の作とされ、四つ爪の龍と半跏趺坐する観音、観音の瓔珞(ようらく)にあしらわれた龍の意匠などが特徴的である 5 。この作品は著色画ではあるが、雪村の水墨画で培われた力強い描線や構成力が遺憾なく発揮されていると考えられる。また、慶長4年(1599年)の施入銘があり、施入者の一人である長井本久堅涼居士が住した下野国結城が、京都の本格的な水墨画が関東へ移入される際の拠点の一つであったことを示す資料としても注目される 5 。
上記の他にも、観音菩薩の基本的な姿である聖観音図も引き続き制作された 1 。また、頭上に十一の顔を持つ変化観音である十一面観音は、奈良時代から盛んに造像されたが 1 、戦国時代における墨絵の作例は比較的少ないものの、その信仰は継続していた。地方においては、畑町区長所有(元極楽寺蔵)の「絹本著色十一面観音図」のような作例も存在し 43 、観音信仰の広がりと多様性を示している。
日本の水墨画は、その成立と発展において中国絵画、とりわけ宋代・元代の絵画(宋元画)から多大な影響を受けた。室町時代から戦国時代にかけて、牧谿(もっけい)や玉澗(ぎょくかん)といった禅僧画家たちの作品が日本にもたらされ、日本の絵師たちにとって重要な手本となった 18 。
中でも牧谿の画風は「和尚様(おしょうよう)」と呼ばれ、日本の水墨画壇に絶大な影響力を持った 48 。牧谿の作品は、湿潤な大気を感じさせる巧みな墨の用法、大胆かつ省略を効かせた筆致、そして深い精神性を湛えた余白の美を特徴とする。これらの要素は、日本の絵師たちによって熱心に学ばれ、観音図の制作においても取り入れられた。しかし、それは単なる模倣に留まらず、日本の風土や美意識、そして絵師自身の個性と融合する中で、次第に日本的な表現へと変容していった。この中国様式の受容と「和様化」のダイナミズムこそが、戦国時代から桃山時代にかけての日本絵画の独創性を育む原動力となったと言える。
牧谿筆と伝えられる国宝「観音猿鶴図」(大徳寺蔵)は、その影響関係を具体的に示す代表作である 25 。この三幅対の中央に描かれた「観音図」は、岩上に坐す白衣観音という典型的な図像でありながら、牧谿特有の気韻生動な筆致と深遠な墨の表現によって、観音の慈悲と超越性を見事に描き出している。この作品は、足利将軍家のコレクション(東山御物)にも含まれていたことからも、当時の日本でいかに高く評価されていたかがうかがえる 48 。狩野元信、雪村周継、能阿弥、相阿弥といった戦国時代の主要な絵師たちも、多かれ少なかれこの牧谿様式を意識し、それぞれの観音図制作において参照したと考えられる。
また、明兆筆「白衣観音図」に見られるように、元時代の禅僧画家である平石如砥(ひんしにょし)が賛を書いた観音図と顔の表現が近いという指摘は 15 、牧谿だけでなく、他の中国絵画も直接的に学習の対象となっていたことを示している。
観音図には、白衣観音や楊柳観音といった定型化された図像(型)が存在する一方で、雪村周継のような絵師は、その型を踏まえつつも極めて個性的な表現を追求した。これは、宗教画としての規範性と、芸術家としての創造性の間の緊張関係を示しており、この時代の文化の豊かさを物語っている。雪村の「滝見観音図」では、先行する図様(弘願寺本やボストン美術館本など)を参照しつつも、岩の形態や善財童子の配置などに独自の解釈を加えている点はその好例である 35 。このような型の踏襲と逸脱のバランスの中で、新たな解釈や表現が試みられ、時代の美意識や信仰の多様性を反映した作品が生み出されたのである。これにより、観音図は単なる宗教的アイコンに留まらず、絵師の芸術性や思想を色濃く反映した美術作品としての価値も高まっていった。
表1:主要な観音図の種類と特徴
観音の種類 |
主な図像的特徴 |
主な信仰内容・功徳 |
戦国時代の代表的な墨絵作例(絵師名、作品名、所蔵、制作年代) |
備考 |
白衣観音 |
白い衣をまとう。多くは水辺の岩上などに坐す。 |
清浄、慈悲、救済、延命、息災。禅林で好まれる。 |
狩野元信「白衣観音図」(ボストン美術館、16世紀前半)、明兆「白衣観音図」(東京国立博物館、15世紀)、雪村周継「白衣観音図」(茨城県立歴史館、16世紀)、能阿弥「白衣観音図」(文化庁/常盤山文庫、15世紀) |
墨の濃淡による衣の表現、清浄な雰囲気の創出。禅的な精神性と結びつきやすい。 |
楊柳観音 |
柳の枝を持つ。水辺に描かれることが多い。 |
病難救済、息災。 |
(原型として)伝一山一寧賛「楊柳観音図」(ボストン美術館、14世紀)。雪村「滝見観音図」の源流の一つ。 |
墨による柳の線のしなやかさ、水墨の空間表現が活かされる。 |
水月観音 |
水面に映る月を観想する。 |
諸法空相、無常の理の教示。 |
楊柳観音と図像的に近い場合がある。 |
墨による水面の表現、静謐な雰囲気の描写。 |
滝見観音 |
滝を背景に岩上に坐す。善財童子を伴うことが多い。 |
補陀落山浄土への憧憬、求道。 |
雪村周継「滝見観音図」(正宗寺/弘願寺、16世紀) |
墨による滝の動的な表現と観音の静的な姿の対比。岩の質感描写。 |
飛龍観音 |
龍に乗る。 |
龍神による守護、水難からの救済。 |
伝雪村周継「飛龍観音図」(正法寺蔵と推定、安土桃山時代、紙本著色) |
著色画だが、墨線による龍の力強い描写など、水墨画の技法が下地にあると考えられる。 |
聖観音 |
観音菩薩の基本的な姿。一面二臂。 |
あらゆる衆生を救済する広大な慈悲。 |
各時代を通じて制作。墨絵作例の特定は今後の課題。 |
観音信仰の基本形。墨絵では、その慈悲の表情や姿態の表現が重要。 |
戦国時代には、観音信仰の高まりと水墨画の発展を背景に、多くの絵師が観音図を手がけた。ここでは、特に狩野派、雪村周継、阿弥派の絵師たちと、その代表的な墨絵観音図作例について詳述する。
室町時代中期に登場し、江戸時代に至るまで日本画壇の中心的な役割を担った狩野派は、戦国時代においてもその影響力を拡大し、多くの仏画を手がけた。
狩野派の始祖である狩野正信は、室町幕府の御用絵師として活躍し、水墨画を中心とする漢画(中国風の絵画)と伝統的な大和絵の技法を巧みに使い分け、現実に即した平明な画風で人気を博し、狩野派の盤石な基礎を築いた 44 。正信の仏画制作に関する記録としては、寛正4年(1463年)に相国寺雲頂院のために「観音図」や「十六羅漢図」の障壁画を描いたことが知られている 44 。現存する正信筆の墨絵観音図を特定することは困難であるが、彼の活動は初期狩野派における仏画制作の様相を理解する上で重要である。
正信の子である狩野元信は、狩野派二代目として父の画業を継承・発展させ、漢画の技法を整理しつつ、大和絵の装飾的な要素や技法を積極的に取り込み、両者を融合させることで狩野派独自の画風を大成させた 18 。土佐光信の娘を妻に迎えたという伝承も、大和絵摂取の背景を示唆している 18 。元信は、室町幕府だけでなく、朝廷、石山本願寺、さらには有力な町衆といった幅広い階層からの庇護を受け、戦国の乱世を巧みに生き抜いた職業絵師であった 18 。
元信の代表的な観音図として、ボストン美術館所蔵の「白衣観音図」(16世紀前半、絹本墨彩金)が挙げられる 18 。この作品は、白衣をまとった観音が岩座に坐す(あるいは宙に浮くように)姿を描いたもので、狩野派の仏画における規範的な作例の一つと高く評価されている 21 。材質は絹本で、墨を基調としながらも金彩が効果的に用いられており、制作当初は截金による装飾が施された着衣部分が美しく輝き、荘厳な雰囲気を醸し出していたと推測される 20 。墨の濃淡や線の強弱、そして金彩の輝きが、観音の神聖性や慈悲深さを巧みに表現している。細密でありながら潤いと清らかさを併せ持つと評される元信の画風 18 が、この観音図にも遺憾なく発揮されており、漢画の力強い描線と大和絵の装飾的な美意識が見事に融合した元信様式の一端をうかがい知ることができる。狩野派が確立したこのような観音図の様式は、戦国時代から江戸時代にかけての仏画制作に大きな影響を与え、一種の「正統」としての地位を築いたと考えられる。
雪村周継は、常陸国(現在の茨城県)に生まれた画僧で、雪舟に私淑しつつも、既存の枠にとらわれない力強く個性的な画風を確立したことで知られる 37 。中央画壇から離れた東国を拠点としながらも、中国絵画や先行作品を主体的に学び、独自の芸術世界を切り開いた。
雪村は観音図も得意とし、特に「滝見観音図」の作例が複数伝わっている。茨城県常陸太田市の正宗寺が所蔵する「滝見観音図」(紙本著色、県指定文化財)は、縦85.4cm、横36.4cmの作品で、同県那珂市の弘願寺に伝わる「滝見観音図」を手本として描かれたと考えられている 36 。弘願寺本は絹本著色で、室町時代の作とされ、正宗寺本の原本と推定されている 40 。この弘願寺本は、さらにボストン美術館所蔵の一山一寧賛「楊柳観音図」を原型としており、本格的な仏画様式に則っている点でボストン本に近いとされる 35 。雪村は、これらの手本を参照しつつも、例えば善財童子が観音を仰ぎ見る構図に変更するなど 36 、独自の解釈を加えている。岩の奇矯な表現や滝、滝壺の描写には大和絵の手法も見られ 40 、雪村の創造的継承の過程がうかがえる。
墨絵の観音図としては、茨城県立歴史館所蔵の「白衣観音図」(紙本墨画、46.3×20.7cm)と、同館所蔵と推定される「観世音図」(紙本墨画、59.3×16.5cm、一葉観音)が注目される 25 。前者は雪村の常陸時代の最初期の作とされ、岩座や衣の線描に初期の特色が見られるか検討される。後者は一葉の蓮弁に乗って水上を行く白衣観音を描いたもので、古い作例との関連や雪村特有の衣文表現が分析の対象となる。「雪村 奇想の誕生展」図録によれば、これらの作品には、膝の膨らみの表現の特異性や、大きく翻る袖や衣の裾の描写など、雪村らしい特徴が見られると指摘されている 25 。雪村の鋭く力強い描線、大胆な構図、時には奇矯とも評される形態表現が、観音の姿にいかに適用され、独自の宗教的・芸術的表現を生み出したのかは、戦国時代の地方文化の多様性と画僧という自由な立場が生み出した独創性を示すものとして興味深い。
また、正法寺蔵と推定される伝雪村筆「飛龍観音図」(紙本著色、安土桃山時代)は 5 、著色画ではあるが、龍と観音のダイナミックな描写は雪村の画業を考える上で参考となる。慶長4年(1599年)の施入銘と下野結城との関連性 5 は、雪村様式の広がりや影響力を考察する手がかりとなる。
阿弥派は、足利将軍家に同朋衆(どうぼうしゅう)として仕え、唐物(中国渡来の美術品)の鑑定や座敷飾り、そして絵画制作にも深く関与した能阿弥、芸阿弥、相阿弥の三代の絵師たちを指す。彼らは、中国水墨画、特に牧谿の様式を基調とした洗練された作品を残した。
能阿弥は、牧谿の画風を深く敬慕し、阿弥派の画風の基礎を築いたとされる 26 。彼の代表的な観音図として、文化庁保管の「白衣観音図」(重要文化財、応仁2年(1468年)作、絹本墨画淡彩)が知られている 28 。この作品は能阿弥72歳の時の作で、子息である周健喝食(しゅうけんかっしき)の供養のために描かれたとされ、基準作として重要である。図中には「秀峰」という朱文鼎印が捺されている。また、常盤山文庫にも同様の「秀峰」印を持つ「白衣観音図」(紙本墨画、室町時代15世紀)が所蔵されており 30 、蓮葉の上に安座する白衣観音を、水墨の諧調を活かした没骨描(もっこつびょう、輪郭線を用いずに墨の濃淡で形体を表す技法)で表現している。これらの作品からは、牧谿様式の影響を受けつつも、能阿弥独自の穏やかで柔和な画風がうかがえる。
能阿弥の孫である相阿弥もまた、牧谿を学び、墨画および淡彩画に優れた才能を発揮した 61 。彼の代表作としては、大徳寺大仙院の襖絵「瀟湘八景図」が名高い 18 。相阿弥筆の観音図の明確な現存作例は、本調査の範囲では特定が難しいものの、祖父・能阿弥が「白衣観音図」を代表作としていることからも 26 、相阿弥も同様の主題を手がけた可能性は十分に考えられる。相阿弥の画風は「柔らかい筆法」と評されており 63 、これが観音図に適用された場合、能阿弥の様式をさらに洗練させ、より日本的な情感を湛えた表現となったと推測される。大仙院方丈において、狩野元信筆「四季花鳥図」が相阿弥筆「瀟湘八景図」を取り囲むように設えられたという事実は 18 、狩野派と阿弥派という、当時の二大画派間の交流や影響関係を示唆しており興味深い。阿弥派の絵師たちは、唐物鑑定や座敷飾りといった知的活動と深く関わりながら制作を行っており、彼らの観音図も、単なる信仰の対象としてだけでなく、高い美術的鑑賞眼に応える知的遊戯の側面も持っていた可能性があり、後の茶の湯文化における床の間飾りなどとも関連し、宗教画が美術品として享受される流れを促進したとも考えられる。
吉山明兆は、室町時代前期に京都の東福寺で活躍した禅僧画家である。彼の活動時期は戦国時代よりやや早いが、その画風は後の世代に大きな影響を与えた。明兆は着色の仏画や肖像画を得意としたが、数少ない水墨画の遺品として東京国立博物館蔵の「白衣観音図」(15世紀、紙本墨画)が知られている 15 。この作品では、観音菩薩が発する神聖な光が墨のぼかしによって効果的に表現されており、顔の表現が元時代の禅僧・平石如砥が賛を書いた観音図に近いことから、明兆が中国の観音図を熱心に学んでいたことがうかがえる 15 。また、静岡県のMOA美術館にも明兆74歳筆の「白衣観音図」が現存し、根津美術館蔵の赤脚子筆「白衣観音図」と図様が酷似しているという事実は 27 、図様の継承や工房制作の可能性を示唆しており、中世仏画研究において重要な視点を提供する。
表2:戦国時代の主要な観音図絵師と代表作
絵師名 |
流派・活動拠点 |
おおよその活動期間(戦国時代中心) |
主な墨絵観音図作例(作品名、所蔵、材質、制作年代) |
様式的特徴の要点(影響関係、筆致、墨法、構図など) |
関連する資料番号 |
狩野正信 |
狩野派(室町幕府御用絵師) |
15世紀後半~16世紀初頭 |
「観音図」(相国寺雲頂院障壁画、寛正4年(1463)制作記録) |
漢画と大和絵の使い分け、現実的で平明な画風。 |
44 |
狩野元信 |
狩野派(室町幕府御用絵師) |
16世紀前半~中頃 |
「白衣観音図」(ボストン美術館、絹本墨彩金、16世紀前半) |
漢画と大和絵の融合、細密滋潤にして清秀な画風、金彩の効果的活用。狩野派仏画の規範。 |
18 |
雪村周継 |
画僧(常陸、会津、小田原など東国で活動) |
16世紀中頃~後半 |
「滝見観音図」(正宗寺、紙本著色、16世紀)、「滝見観音図」(弘願寺、絹本著色、室町時代)、「白衣観音図」(茨城県立歴史館、紙本墨画、16世紀)、「観世音図(一葉観音)」(茨城県立歴史館蔵と推定、紙本墨画、16世紀) |
雪舟に私淑しつつ独自様式を確立。力強い筆致、大胆な構図、奇矯とも評される形態表現。手本を創造的に変容。 |
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能阿弥 |
阿弥派(足利将軍家同朋衆) |
15世紀中頃~後半 |
「白衣観音図」(文化庁、絹本墨画淡彩、応仁2年(1468)作)、「白衣観音図」(常盤山文庫、紙本墨画、15世紀) |
牧谿様式を基調としつつ、穏やかで柔和な画風。没骨描。 |
26 |
相阿弥 |
阿弥派(足利将軍家同朋衆) |
15世紀末~16世紀初頭 |
(明確な墨絵観音図作例は特定困難)「瀟湘八景図」(大徳寺大仙院)などから画風を推測。 |
牧谿様式を継承し、柔らかい筆法が特徴。知的で洗練された画風。 |
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(参考)明兆 |
禅僧画家(東福寺) |
14世紀後半~15世紀初頭 |
「白衣観音図」(東京国立博物館、紙本墨画、15世紀) |
中国元代絵画の影響。墨のぼかしによる光背表現。後の世代への影響。 |
15 |
戦国武将にとって、観音菩薩は現世利益(武運長久、戦勝祈願、病気平癒など)と来世での救済をもたらす重要な信仰対象であった。そのため、観音図の制作、所蔵、寺社への奉納といった形で、観音信仰を表明する事例が数多く見られる。
戦国武将やその一族が、観音図を自ら描いたり、絵師に依頼して制作させたり、あるいは信仰の証として寺社に奉納したりする事例は、当時の記録や現存作例からうかがい知ることができる。
例えば、福島県立博物館には、会津藩松平家の松平容大夫人が描いた「白衣観音図」が所蔵されている 31 。この作品は、衣のひだや光背などが全て「南無妙法蓮華経」という題目の文字で描かれているという大変珍しいもので、武家女性による篤い信仰の一形態を示す。この観音図が後に妹に贈られたという経緯も、信仰が個人的な繋がりの中で継承されていったことを示唆している 31 。
また、加賀大聖寺藩主が菅生石部神社に「南無観世音菩薩」と記された名号軸を、阿弥陀如来、勢至菩薩と共に三尊形式で奉納した事例もある 43 。これは、観音信仰が神仏習合の形で現れ、武家が地域の神社信仰とも結びついていたことを示している。前田家が菅原道真を祖先としていることから、道真を祀る菅生石部神社を篤く尊崇していた背景も指摘されている 43 。
その他にも、戦国武将が寺社に絵馬や鰐口、懸額などを奉納した記録は各地に残されており 65 、その中には観音図が含まれていた可能性も十分に考えられる。これらの奉納行為は、単なる信仰心の表明に留まらず、武将の権威を示し、領民の教化や地域社会との結びつきを強化する意図も含まれていたであろう。戦国武将にとって観音図の制作・所持・奉納は、自身の信仰心、文化的素養、権威、さらには個人的な願いやトラウマの反映など、多面的な自己表現の手段であったと言える。
戦国武将たちは、戦場に赴く際に、守護や戦勝を祈願して小型の仏像や仏画を携帯することがあった。これらは「陣中仏」や「念持仏」と呼ばれる。観音菩薩は、その現世利益的な側面や慈悲による救済の力から、武将たちが個人的に加護を求める念持仏として選ばれるにふさわしい尊格であった。
43 には、大聖寺藩3代藩主利直の弟である利昌(采女)の念持仏が薬王院に遺言により納められたと伝えられている。また、 67 では、武将の念持仏に関する一般的な記述や具体例が示されており、豊臣秀吉の三面大黒天や竹中半兵衛の阿弥陀如来、武田信玄の武田不動尊、真田幸村の神明地蔵尊などが挙げられている 67 。これらの事例からも、武将たちが個人的な守り本尊として特定の神仏を篤く信仰していたことがわかる。
観音図が念持仏として用いられた具体的な事例を特定するにはさらなる史料調査が必要であるが、その可能性は高い。小型の掛軸に描かれた観音図や、厨子に納められた小像としての観音菩薩などが、戦場での精神的な支えとして武将たちに携帯されたであろう。
戦国時代を代表する著名な武将たちの中にも、観音信仰と深く関わった人物が見られる。
特定の観音霊場や寺院が、特定の戦国武将や大名家と強く結びつくことで、その地域の観音信仰の中心となり、独自の観音図文化が育まれた可能性も指摘できる。里見氏と那古寺の関係 4 や、下野結城が京都水墨画の関東移入拠点であったという記述と伝雪村筆「飛龍観音図」の施入銘 5 は、その好例と言えよう。武将による特定寺社への帰依や保護は、寺社の経済的・社会的基盤を安定させ、優れた絵師の招聘や工房の形成を促し、結果として地域色豊かな観音図の様式が発展したり、中央の様式が受容・変容されたりする土壌となった。
また、戦国武将の肖像画の中には、神格化された姿で描かれるものがあり、その図像的特徴において、観音図を含む仏画の様式や象徴性が援用されている場合がある。例えば、徳川家康像が東照大権現として神格化され、その姿が如意輪観音像と関連付けられることがあるのは 83 、武将を現世の守護者や救済者として捉える意識の現れかもしれない。これにより、武将の肖像画と仏画の間に様式的な相互影響が生じ、戦国時代特有の複合的な図像が生まれた可能性も考えられる。
本報告書では、戦国時代における墨絵観音図について、その信仰的背景、図像と様式の多様性、主要絵師の活動、そして武士階級との深い関わりを多角的に検討してきた。その結果、戦国時代の墨絵観音図は、単なる宗教美術の一分野に留まらず、当時の日本の社会、文化、精神性を映し出す重要な存在であったことが明らかになった。
戦乱という厳しい時代にあって、観音菩薩への信仰は人々の心の支えとなり、現世利益と来世救済への切実な願いが観音図に託された。特に武士階級は、観音信仰を個人的な帰依の対象とすると同時に、領国支配や権威の象徴としても活用し、観音図の制作や寺社への奉納を積極的に行った。
墨絵という表現形式は、禅宗の普及と共に武士階級を中心に広まり、その簡素ながらも奥深い精神性は、観音菩薩の内面的な慈悲や智慧を表現するのに適していた。狩野派は、漢画と大和絵を融合させた力強くも優美な様式で観音図を描き、後の画壇に大きな影響を与えた。一方、雪村周継は、東国という地方を拠点としながらも、中国絵画や先行作品を独自に消化し、極めて個性的で力感あふれる観音図を生み出した。阿弥派の絵師たちは、将軍家の同朋衆として洗練された文化に触れ、牧谿様式を基調とした知的で瀟洒な観音図を制作した。これらの絵師たちは、中国宋元画、特に牧谿の様式から多大な影響を受けつつも、それを鵜呑みにするのではなく、日本的な感性や美意識によって変容させ、独自の様式を築き上げていった。この「和様化」のプロセスは、戦国時代から桃山時代にかけての日本美術の大きな特徴の一つである。
白衣観音、楊柳観音、滝見観音など、多様な図像で描かれた観音図は、それぞれに固有の信仰的意味合いを持ちつつ、絵師の個性や注文主の意向を反映して、様々な様相を呈した。そこには、定型化された「型」と、それを打ち破ろうとする「個性」との間の創造的な緊張関係が見て取れる。
戦国時代に花開いた墨絵観音図の伝統は、続く桃山時代の豪壮華麗な文化や、江戸時代の多様な絵画表現へと受け継がれていった。狩野派の確立した様式は、江戸幕府の御用絵師としてその命脈を保ち、雪村の奇抜な画風は後の「奇想の系譜」の画家たちに影響を与えた可能性も指摘される。また、阿弥派の洗練された水墨画は、茶の湯文化における美術品鑑賞の素地を形成したとも言えよう。
現代において、これらの戦国時代の墨絵観音図は、美術史研究の貴重な対象であると同時に、当時の人々の精神世界や日本の文化の深層を理解するための重要な手がかりを提供してくれる。戦乱の世に生きた人々が、観音菩薩の姿に何を求め、墨の一色にどのような思いを託したのか。その問いかけは、現代を生きる我々に対しても、静かに、しかし力強く響いてくるのである。これらの作品群は、日本の美術史における創造性の豊かさを示すと同時に、時代を超えて人々の心に訴えかける普遍的な価値を秘めていると言えよう。