本報告は、日本の戦国時代に成立したとされる「貞永式目抄」という書物について、詳細かつ徹底的な調査を行い、その成果を提示することを目的とする。特に、鎌倉幕府の基本法典である「御成敗式目(貞永式目)」の注釈書としての性格、編纂者、内容、特徴、成立の歴史的背景、そして後世への影響について、多角的な視点から考察を加える。利用者の「詳細かつ徹底的に調査し」という要望に応えるためには、単に表面的な記述に留まらず、当該書物の持つ複雑な側面や、その成立と受容に関わる文脈、学術的な解釈の進展までを視野に入れる必要がある。これは、「貞永式目抄」が何であるかという定義に止まらず、なぜそれが重要なのか、どのようにして成立したのか、そしてどのような影響を及ぼしたのかという問いに答えることを意味する。
「貞永式目抄」という呼称は、一般に鎌倉時代の「御成敗式目」に対する注釈書を指す。「御成敗式目」は貞永元年(1232年)に制定されたことから、「貞永式目」とも通称される 1 。戦国時代に成立した「貞永式目抄」として最も重要かつ代表的なものは、天文三年(1534年)に公家であり当代随一の学者であった清原宣賢によって編纂された「式目抄」である 2 。この清原宣賢による「式目抄」は、『御成敗式目抄』や『貞永式目諺解』といった複数の別名でも知られている 2 。
本報告では、主にこの清原宣賢(1475-1550)による「式目抄」を主要な分析対象とする。しかしながら、「式目抄」と称される書物は複数存在し、例えば宣賢の孫である清原枝賢(1519-1590)が宣賢本を元に改訂したとされる「式目抄」(天正十六年(1588年)成立、または天正八年(1580年)の奥書を持つもの)も存在する 3 。さらに、『続史籍集覧』に収められている枝賢奥書のある「式目抄」は、宣賢の注釈であると奥書が主張しているにもかかわらず、内容の相違点が多く別本とすべきであるとの指摘もある 3 。このような書誌学的な複雑性を踏まえ、本報告では宣賢本を中心に据えつつも、枝賢本やその他の関連諸本についても、比較検討の文脈で適宜言及し、その全体像を明らかにすることを目指す。
「式目抄」という名称を持つ書物が複数存在し、特に清原家の系譜内(宣賢と枝賢)でさえ異なる内容のものが伝わっているという事実は、戦国時代から江戸初期にかけて、「御成敗式目」という法典が静的なテキストとしてではなく、活発な知的探求の対象として扱われ、時代や需要に応じて再解釈・改編され続けていたことを示唆している。複数の人物が「式目抄」を著し 3 、枝賢版が宣賢版の改訂であるとされたり 5 、内容が異なるとされたりする点 3 、さらには「諺解本」と呼ばれる注釈書の注釈書まで登場したこと 5 は、この法典が制定後も長きにわたり重要視され、研究・再解釈の対象であり続けたことを物語っている。
このような背景を考慮すると、清原宣賢による「式目抄」が、より平易な「かな交じり文」で書かれたこと 3 や、後に簡略化・平易化された版が登場したこと 6 は、単なる学術的興味に留まらない広範な需要の存在を示唆しているのかもしれない。戦国時代の社会変動の中で、法秩序や過去の統治規範への関心が、専門的な武家層や法学者だけでなく、より広い知識層にまで及んでいた可能性が考えられる。識字能力や知的背景の異なる読者層の出現が、多様な形式の注釈書を生み出す一因となったとも推測できよう。
「御成敗式目」は、鎌倉幕府が制定した基本法典であり、貞永元年(1232年)8月10日に制定されたことから、その年号を取って「貞永式目」とも称される 1 。この法典編纂の中心人物は、当時の執権であった北条泰時である。泰時は、太田康連や斎藤浄円(三善康連とも)といった法理に明るい評定衆に命じて編纂にあたらせた 1 。
「御成敗式目」制定の直接的な背景には、承久の乱(1221年)以降、武士間の所領関係を巡る紛争、特に地頭と荘園領主である公家や社寺との間の争いが激増したことがある 1 。これらの複雑化した訴訟を公平かつ効率的に解決するための、客観的で明確な基準を設けることが急務であった。さらに、源頼朝以来の武家社会における慣習法や先例、そして武士階級の間で「道理」として認識されていた規範を成文化し、武家政権の統治基盤を安定させるという目的も有していた 1 。また、制定直前の寛喜の飢饉(1230-1231年)による社会不安や秩序の動揺も、成文法による体制の引き締めを促した要因の一つとして指摘されている 1 。
「御成敗式目」は、全国的な法典として意図されたものではなく、鎌倉幕府の支配が及ぶ範囲、主として御家人間の紛争解決や統治を目的とした、実用的な法規であった。朝廷の公家法や荘園領主の本所法と並立し、それぞれの法圏を相互に認めるという、中世日本の多元的な法体制を反映している 1 。その内容は武士に特化しており、一般農民や商人に関する規定はほとんど含まれていなかった 8 。この限定的な適用範囲と実用主義的な性格が、武家社会におけるその後の法のあり方に大きな影響を与えたと考えられる。
「御成敗式目」は、全五十一条から構成されると一般に理解されているが、現存する諸本における条文配列などから、原形については異なる学説も存在する 1 。その内容は多岐にわたり、守護・地頭の職務権限、所領の知行や相続、売買、譲与といった権利関係、殺人、傷害、窃盗などの犯罪とそれに対する刑罰、訴訟手続き、さらには百姓や奴婢の身分に関する規定まで含んでいた 1 。
法典としての最大の特徴は、日本最初の武家による成文法典であるという点である 1 。その規範の源泉は、従来の律令法や公家法とは異なり、源頼朝以来の武家社会の慣習や先例、そして「道理」と呼ばれる武士階級の道徳観や常識に求められた 1 。例えば、所領の取得時効(年紀法)に関する規定などは、武家独自の法理を明文化したものとして注目される。ただし、その適用範囲は武士、すなわち幕府と直接主従関係にある御家人に限定されており、朝廷が支配する領域では公家法が、荘園領主の支配下では本所法が依然として効力を有していた 1 。
「御成敗式目」が抽象的な法理論よりも、武家社会の「道理」や慣習を重視したことは、その実用性を高め、武士階級に受け入れられやすいものとした要因であろう。法が既存の社会規範や実態から大きく乖離していては、その実効性は期待できない。この法典は、武士たちが直面する具体的な問題に対処するための、実践的な規範集としての性格を強く持っていた。この実用性こそが、鎌倉時代を通じて、さらには後世においても武家法の基本として参照され続ける生命力の源泉となったと考えられる。
「御成敗式目」の制定は、鎌倉武家社会において極めて大きな歴史的意義を持った。まず、御家人間の所領紛争やその他の争いごとを裁定する際に、公平な裁判を実現するための客観的な基準を提供した 1 。これにより、属人的な判断や恣意的な権力行使を抑制し、法に基づく安定した統治の基盤を強化することに貢献した。
次に、武家独自の法を成文化したことにより、公家法とは異なる武家法の独立性を示し、その後の室町幕府法や戦国大名の分国法など、後世の武家法の発展における基本的な模範となった 1 。武士階級が自らの手で法を定め、運用するという経験は、彼らの政治的成熟と自己統治能力の向上を促したと言えるだろう。
さらに、法典という形で権利や義務が明示されたことは、武士階級の法的地位の確認や権利意識の涵養にも間接的に寄与したと考えられる。成文法の存在は、予測可能性を高め、社会関係の安定化に資する。鎌倉幕府が、単なる軍事力による支配から、法に基づく秩序形成へと移行していく上で、「御成敗式目」が果たした役割は非常に大きかった。武家政権が、朝廷の権威とは別に、独自の法体系を持つに至ったことは、武家支配の確立を象徴する出来事であった。それは、既存の公家法秩序を完全に否定するものではなかったものの、武家という新たな社会勢力が独自の法圏を確立し、自律的な統治機構を整備していく上での重要な一歩であったと言える。
清原宣賢(きよはらののぶかた、文明七年(1475年) – 天文十九年(1550年))は、戦国時代を代表する学者の一人である。彼は、代々儒学の一部門である明経道を家学として継承してきた公家の名門、清原家(舟橋家とも称される)の出身であった 2 。宣賢の学識は極めて広範かつ深く、漢籍(中国の古典)、図書(日本の古典籍)、さらには仏典にも通暁しており、その博覧強記ぶりは彼の著作、特に本報告の対象である「式目抄」にも色濃く反映されている 3 。その学殖の深さから、宣賢は「式目註釈学の集大成者」と評されることもあるほどである 3 。彼の注釈には、自身の見解のみならず、祖父である清原業忠の説を引用している箇所も見受けられ、清原家における学問的伝統の継承がうかがえる 3 。
宣賢が公家の学者であり、武家政権の実務家や法曹関係者ではなかったという事実は、彼が著した「式目抄」の性格を理解する上で極めて重要である。彼の関心は、おそらく「御成敗式目」の条文を法廷でいかに適用するかという実務的な側面よりも、むしろ文献学者として、あるいは儒学者としての立場から、その語句の正確な解釈、歴史的背景、さらには倫理的・思想的な意義を明らかにすることに向けられていたと考えられる。彼の家学である明経道が儒教経典の研究を中心としていたこと 2 、そして彼の「式目抄」が漢籍や仏典など多様な文献を駆使して注釈を行っていること 3 は、この点を強く示唆している。実際に、宣賢の「式目抄」は、その学術的な質の高さにもかかわらず、「武家社会の実用的な注釈書であるとはいえない」と評価されることがあるが 2 、これはまさに彼の学問的背景とアプローチに起因するものであろう。彼の仕事は、武家社会の法実務に直接資するというよりは、むしろ「御成敗式目」という歴史的法典の知的探求、あるいは古典研究の一環としての性格を帯びていた可能性が高い。
清原宣賢による「式目抄」は、天文三年(1534年)に成立したと記録されている 2 。この時期は、日本史における戦国時代のまさに中期にあたり、応仁の乱(1467-1477年)以降、室町幕府の権威は失墜し、各地で守護大名や戦国大名が群雄割拠し、下剋上が横行するなど、既存の社会秩序や権威が著しく動揺していた時代であった。
このような混乱の時代に、三百年前の鎌倉幕府の法典である「御成敗式目」の詳細な注釈書が編纂されたという事実は、一見すると逆説的に感じられるかもしれない。しかし、戦国時代は単なる武力抗争の時代であっただけでなく、新たな秩序形成の模索や、文化・学術活動の継続も見られた時代であった。戦国大名の中には、領国経営のために独自の分国法を制定する者も現れ、法や統治に対する関心が高まっていた。また、清原家のような伝統的な学者の家系は、戦乱の中でも学問の灯を守り続け、古典研究や教育活動を通じて文化の継承者としての役割を果たしていた 6 。
宣賢による「式目抄」の編纂は、このような時代背景の中で捉える必要がある。混乱した社会状況の中にあって、過去の安定した時代の法規範や統治のあり方を研究し、そこから何らかの知恵や教訓を得ようとする動機があったのかもしれない。あるいは、純粋な学問的探求心から、清原家に伝わる学問の一環として「御成敗式目」の研究と注釈が行われたとも考えられる。いずれにせよ、戦国時代という激動期にあっても、古典研究や法典解釈といった知的営為が継続されていたことを示す貴重な事例である。この時期、新たな権力者となった武将たちが、自らの統治の正統性や安定性を模索する中で、過去の法制度や統治理念に関心を寄せることは自然な流れであったかもしれない。また、教養ある人々の間では、法や歴史に関する知識が一種の文化的資本として価値を持っていた可能性も考えられ、そうした需要が宣賢のような学者による注釈書作成を促した一面もあったと推測される。後に簡略化された版が出現したこと 6 は、そのような広範な関心の存在を裏付けている。
清原宣賢の「式目抄」は、三巻から構成されていたと伝えられている 3 。国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている江戸時代前期の写本は二巻構成であるが、序文には「御成敗式目」制定の経緯や、この法によって百年あまり世が治まったという評価が記されており、編纂当時の式目に対する認識の一端を垣間見ることができる 9 。
その内容は、「御成敗式目」の各条文に対する詳細な注釈であり、個々の語句の解釈、関連する法理や判例の指摘、条文成立の歴史的背景の説明などが含まれていたと考えられる。特に注目すべき特色として、宣賢の「式目抄」が「式目追加」を重視していた点が挙げられる 3 。「式目追加」とは、「御成敗式目」が制定された後に、必要に応じて出された追加の法令や細則のことであり、これらを併せて参照することで、鎌倉幕府の法体系の全体像やその後の発展をより正確に理解することができる。
宣賢が「式目追加」を重視したという事実は、彼が「御成敗式目」を単なる固定された法典としてではなく、時代とともに発展し、補完されてきた生きた法体系として捉えていたことを示している。これは、単に原文の五十一条のみを解説するのではなく、その後の法的展開をも視野に入れた、より包括的で歴史的な視点に立った注釈作業であったことを意味する。このようなアプローチは、法を静的なものとしてではなく、社会の変化に対応して進化するものと理解する、法学者としての洗練された認識の表れと言えるだろう。
清原宣賢の「式目抄」が持つ顕著な文体的特徴の一つは、従来の漢文体で書かれた式目注釈書とは異なり、かたかな交じり文(漢字仮名交じり文)で記述されている点である 3 。これは、当時の学術的な著作としては注目すべき選択であった。
この文体の採用は、漢文の読解能力が必ずしも高くない読者層にも内容を理解しやすくするという教育的な配慮があった可能性が高い。実際、鎌倉幕府の執権北条泰時自身が、「御成敗式目」を制定した際に、「仮名のみを知る者」にも理解できるように平易な言葉で書くことを意図したという趣旨の書状(泰時消息文)を残している 10 。もっとも、現存する「御成敗式目」の本文は漢文体であり、泰時の意図がどの程度実現されたかについては議論がある。しかし、宣賢が自らの注釈書にかな交じり文を採用したことは、泰時のこの精神を汲み取り、より広範な読者へのアクセシビリティを高めようとした試みと解釈することもできるだろう。あるいは、戦国時代における読者層の変化や、教育に対する意識の高まりに対応した結果であったのかもしれない 11 。
かな交じり文の採用は、単に文体の選択という技術的な問題に留まらず、知識の伝達方法や対象とする読者層に関する編纂者の意識を反映している。漢文中心の学術世界から、より広い範囲の人々へ知識を届けようとする意志の表れと見ることができ、中世から近世へと移行する時期の文化的な変化の一端を示すものとしても興味深い。この文体選択は、宣賢の「式目抄」が、一部の専門家だけを対象とした閉鎖的な学術書ではなく、ある程度の教育を受けた人々であればアクセス可能な、より開かれた性格の著作を目指していたことを示唆している。
ここで、「御成敗式目」と清原宣賢の「式目抄」の基本的な情報を比較のため、以下の表にまとめる。
表1:「御成敗式目」と清原宣賢「式目抄」の基本情報比較
項目 |
御成敗式目(貞永式目) |
清原宣賢筆「式目抄」 |
種別 |
基本法典 |
注釈書 |
成立年代 |
貞永元年(1232年) |
天文三年(1534年) |
主な編纂者/著者 |
北条泰時、太田康連ら |
清原宣賢 |
主な対象 |
鎌倉幕府御家人(武士) |
学問的関心を持つ層 |
言語/文体 |
漢文体 |
かな交じり文 |
主な目的 |
武家社会の紛争解決基準設定、武家政権の安定化 |
「御成敗式目」の学術的解釈・解説 |
この表は、「御成敗式目」という法典そのものと、清原宣賢によるその注釈書との間の基本的な違いを明確に示している。「貞永式目」と「貞永式目抄」という類似した名称から生じうる混同を避ける上で、この区別は極めて重要である。また、成立年代、編纂者、対象読者、文体、そして目的といった各項目を比較することで、宣賢の著作が持つ独自の性格と歴史的意義を理解するための基礎を提供する。特に、漢文体で武士を主な対象とした原法典に対し、かな交じり文でより学術的な関心を持つ層に向けられた注釈書という対比は、宣賢の仕事の核心を捉える上で不可欠である。
清原宣賢の「式目抄」には、漢籍(中国の古典)、図書(日本の古典籍)、そして仏典が数多く引用されており、これは宣賢の広範な知識と深い教養を如実に示している 3 。これらの引用は、単に語句の難解さを補うためだけではなく、「御成敗式目」の条文を、より広い思想的・文化的文脈の中に位置づけようとする宣賢の意図を反映していると考えられる。
具体的には、儒教的な倫理観や政治思想、日本の歴史的知識、さらには仏教的な因果応報観や人間観などが、条文解釈の際に参照され、注釈に深みと多角性を与えていた可能性が高い。例えば、為政者の心得や社会秩序のあり方について論じる際に儒教の経典を引用したり、特定の事件や制度の背景を説明するために日本の歴史書を参照したり、あるいは人間の行為の是非やその帰結について仏教の教えを引き合いに出したりといった形で行われたであろう。
このような学術的なアプローチは、宣賢の「式目抄」を単なる法律の逐条解説に留まらない、豊かな知的内容を持つ著作へと高めた一方で、前述の通り「武家社会の実用的な注釈書であるとはいえない」という評価に繋がる一因ともなった 2 。すなわち、訴訟の場で直接的な法的論拠を求める武士にとっては、こうした広範な古典からの引用や思想的背景の説明は、やや迂遠で実務的ではないと受け取られた可能性がある。
しかし、この学術的な性格こそが、宣賢の「式目抄」の独自性と価値を形成しているとも言える。彼は、「御成敗式目」を単なる武家の法律としてではなく、儒学者としての立場から、より普遍的な人間社会の規範や倫理にも通じるテキストとして捉え、その知的探求の対象としたのではないだろうか。これは、武家が生み出した法典を、公家社会の伝統的な学問体系の中に位置づけ、その価値を再評価しようとする試みであったとも解釈できる。宣賢が「御成敗式目」に自らの広範な学識を注ぎ込むことで、この法典を中国や日本の古典と同様に真剣な知的考察に値するテキストとして扱ったことは、武家文化の成果を公家文化の伝統的枠組みに取り込み、統合しようとする知的な営為であったとも考えられる。この行為は、武家によって生み出されたテキストの解釈においても、公家的な知的伝統が依然として権威と有効性を持ち続けることを、間接的に示していたのかもしれない。
清原宣賢の「式目抄」は、現存する「御成敗式目」の注釈書の中では、その学術的価値において最良のものの一つと高く評価されている 2 。しかし、編纂者である宣賢が公家社会の学者の家柄であり、その学問的背景が儒学や古典研究にあったため、内容は必然的に学術的・訓詁的な色彩を強く帯びることになった。その結果、武家社会における訴訟実務や日常的な法的問題の解決に直結するような、実用本位の解説書とは必ずしも見なされなかった 2 。
この「実用性の低さ」という評価は、注釈の目的や想定された読者層が、法実務に携わる武士階級よりも、むしろ「御成敗式目」という法典自体に学問的な関心を持つ層、あるいは古典としての教養を深めようとする層に向けられていた可能性を示唆している。宣賢の仕事の価値は、必ずしも武士にとっての直接的な有用性によってのみ測られるべきではない。むしろ、法典の知的理解、倫理的考察、あるいは歴史的研究のための優れた資料として評価されるべきであろう。例えば、高度な戦略論が全ての兵士にとって直接的な戦闘マニュアルとはならないように、宣賢の「式目抄」も、その学術的な深さゆえに、特定の読者層にとっては極めて価値の高いものであったと考えられる。法廷での即座の対応を求める武士にとっては間接的であったとしても、法制度の根源的な理解や、為政者としての倫理観を涵養しようとする人々にとっては、豊かな示唆を与えるものであったかもしれない。
清原宣賢の「式目抄」は、その学術的な価値の高さから、戦国時代以降も知識人層の間で読み継がれていったと考えられる 5 。特に江戸時代に入ると、社会の安定と学問の興隆を背景に、「御成敗式目」及びその注釈書への関心が一層高まった。その中で、宣賢の「式目抄」は優れた注釈書として認識され、活字によって刊行されるようになり、より広範に流布する基盤が整えられた 5 。
さらに注目すべきは、宣賢の注釈書を底本として、それを簡略化し、より平易な仮名書き(あるいは平仮名主体)で解説した「御成敗式目抄(平仮名式目抄)」といった書物が、江戸時代中期頃に刊行されたことである 6 。これは、宣賢の原著が持つ学術的な難解さを乗り越え、より広範な読者層が「御成敗式目」の内容に触れることを可能にするものであった。また、「諺解本」と呼ばれる、いわば「注釈書の注釈書」とも言うべき形態の書物まで登場するに至ったことは、宣賢の「式目抄」が後代においていかに権威あるテキストとして受容され、その影響が大きかったかを物語っている 5 。
このような知識普及の過程は、複雑で高度な学術的著作が、時代を経るにつれてより広範な読者層に向けて翻案され、再生産されていくという、文化史上しばしば見られるパターンを示している。宣賢の「式目抄」が、その原形が一部の読者にとっては難解であったとしても、後の簡略版や解説書の基礎となったという事実は、彼の仕事が「御成敗式目」解釈における一つの規範的な地位を確立していたことを示唆している。
清原宣賢の学問的営為は、彼一代に留まらず、その家系にも受け継がれた。宣賢の孫である清原枝賢(1519-1590)もまた、「式目抄」と題する著作を残している。これは、宣賢の「式目抄」を元にして全面的に改訂を加えたものとされ、天正八年(1580年)の奥書を持つものが知られている 3 。
しかしながら、宣賢による「式目抄」(特に古活字版など)と、枝賢による「式目抄」(例えば『続史籍集覧』に所収されているものや、天正八年奥書本)とを比較すると、内容に多くの相違点が見られるため、これらは単なる写本や軽微な改訂版ではなく、それぞれ独立した「別本」として扱うべきであるという指摘が学界ではなされている 3 。国立国会図書館所蔵の資料に関する記述からも、天正八年の奥書を持つ枝賢本は、宣賢の古活字版や『続史籍集覧』所収本とは内容が異なるとされている 4 。これらの諸本間で、具体的にどのような条文解釈の違いや引用典籍の異同があるのか、また宣賢本が枝賢本やその他の注釈書にどのような影響を与え、あるいは相互にどのような影響関係にあったのかについては、より詳細な本文比較研究が今後の課題として残されている。
興味深いことに、戦国時代の武将である松永久秀が、清原枝賢に対して『貞永式目抄』の提供を請うたという記録が残っている 12 。この『貞永式目抄』が宣賢本を指すのか、枝賢自身の著作を指すのか、あるいは清原家に伝わる別のテキストであったのかは、この記録だけでは特定できない。しかし、この事実は、戦国武将が清原家の学識、特に「御成敗式目」に関する専門知識を高く評価し、それを求めていた状況を明確に示している。これは、清原家が式目注釈の権威として広く認識されていたことの証左と言えよう。
清原家という一つの学問的系譜の中で、祖父である宣賢と孫である枝賢が、それぞれ内容の異なる「式目抄」を著したという事実は、「御成敗式目」という法典に対する知的関与が、時代や個人の問題意識に応じて進化し続けていたことを示している。枝賢による改訂は、単なる祖父の業績の継承に留まらず、新たな学問的知見の導入、異なる教育的・実用的目的、あるいは変化する時代の知的潮流を反映したものであった可能性がある。宣賢の「式目抄」が「武家社会の実用的注釈書とはいえない」と評価された一方で、松永久秀のような有力な戦国武将が枝賢に「式目抄」を求めたという事実は、一見矛盾しているように見えるかもしれない。しかしこれは、武将たちが法知識を求める動機が、単に訴訟における直接的な法的論拠を得るためだけではなかった可能性を示唆している。統治のための広範な法的理解、家臣教育の教材、あるいは文化的洗練の証としての教養など、より多面的な需要が存在したのかもしれない。枝賢の「式目抄」は、そうした武家社会のニーズにより適合するように改訂されたものか、あるいは清原家の学識そのものが、内容の如何に関わらず権威として求められた結果であったとも考えられる。
ここで、清原宣賢の「式目抄」と、その孫である清原枝賢による「式目抄」、及び関連する江戸時代の簡略版について、特徴を比較する表を以下に示す。
表2:清原宣賢「式目抄」と主要関連注釈書(清原枝賢本等)の比較
書名 |
著者 |
成立年代(推定含む) |
主な文体 |
特徴・評価 |
清原宣賢本との関係 |
式目抄 / 御成敗式目抄 |
清原宣賢 |
天文三年(1534年) |
かな交じり文 |
学術的、漢籍・国書・仏典引用多数、式目追加重視。武家社会での実用性は低いとの評価も。 |
(本報告の主要対象) |
式目抄(天正八年奥書本など) |
清原枝賢 |
天正八年(1580年)頃 |
かな交じり文 |
宣賢本を元に改訂。宣賢の古活字版や続史籍集覧所収本とは内容に相違点が多いとされ、別本として扱われる。 |
宣賢本の改訂版、別本扱い |
御成敗式目抄(平仮名式目抄) |
不詳 |
江戸中期 |
平仮名主体 |
清原宣賢の注釈書を簡略化・平易化したもの。より広範な読者層への普及を意図したと考えられる。 |
宣賢本に基づく簡略・普及版 |
この表は、清原宣賢の「式目抄」が、その後の注釈史においてどのような位置を占め、どのように展開していったかを示す上で有用である。特に、宣賢本と枝賢本が、同じ清原家の学統に属しながらも内容的に区別されるべきテキストであるという学術的認識 3 は重要である。また、江戸時代に入って宣賢本を基にしたより平易な版が登場したこと 6 は、彼の著作が一定の権威を持ちつつも、より広い読者層の需要に応える形で受容されていった過程を示している。
清原宣賢の「式目抄」は、「御成敗式目」の研究史において、重要な注釈書の一つとして確固たる地位を占めている 13 。その学術的なアプローチ、すなわち漢籍や国書、仏典を駆使した多角的な解釈や、かな交じり文という比較的平易な文体の採用は、後の「御成敗式目」理解や注釈書のあり方にも少なからぬ影響を与えた可能性がある。
近代以降の日本法制史研究においても、宣賢の「式目抄」は、中世法の理解を深めるための貴重な史料として、また中世から近世にかけての注釈史の一環として、継続的に研究の対象とされてきた 13 。例えば、田中尚子氏をはじめとする現代の研究者たちも、清原宣賢の式目注釈を学術的なテーマとして取り上げ、その内容や意義について新たな光を当てようと試みている 15 。
宣賢の「式目抄」に対する継続的な学術的関心は、この著作が単なる歴史的遺物としてではなく、日本の法思想史、特に中核的な法典が異なる時代を通じてどのように受容され、解釈されてきたかを理解するための鍵となる文献としての価値を持ち続けていることを示している。鎌倉時代に制定された法典が、戦国時代に公家の学者によってどのように読み解かれ、それがさらに江戸時代以降の学問にどう影響したのかを追跡することは、日本の法的伝統の連続性と変化を明らかにする上で不可欠な作業である。
清原宣賢によって天文三年(1534年)に編纂された「貞永式目抄」(「式目抄」)は、戦国時代という社会全体が大きく揺れ動いた動乱期に生み出された、「御成敗式目」に関する学術的な注釈書として、極めて高い歴史的価値を有している。その価値は多面的であり、単に一つの書物の存在意義に留まらない。
第一に、その内容は、戦国期における古典研究の学問水準や、漢籍・国書・仏典といった多様な文献がどのように受容され、解釈に活用されていたかを具体的に示す貴重な証左である。宣賢の広範な知識に基づく注釈は、当時の知的風景の一端を垣間見せてくれる 3 。
第二に、かな交じり文という比較的平易な文体を採用した点は、知識の伝達方法や読者層の拡大という観点から重要であり、後の注釈文化や教育的配慮にも影響を与えた可能性がある 3 。これは、学問のあり方が専門家集団の内部に留まらず、より広い層へと開かれていく過渡期の様相を示すものとも言える。
第三に、武家社会における訴訟実務などでの直接的な実用性には限界があったと評価される一方で 2 、「御成敗式目」という鎌倉武家政権の基本法に対する学問的探求の対象として、また法知識の普及や倫理的考察の一助として、独自の役割を果たしたと考えられる。特に、江戸時代に入ってからの活字による刊行や、それを基にした簡略版・諺解本の出現は、宣賢の仕事が後世において一定の権威と影響力を持っていたことを示している 5 。
総じて、清原宣賢の「式目抄」は、戦国時代の混乱の中にあっても学術研究が継続され、古典が再解釈されていたことを示す文化史的モニュメントであり、中世から近世への法思想・学術史の連続性を理解する上で不可欠な文献であると言える。その価値は、武士にとっての実用性という単一の尺度では測りきれない、より広範な知的貢献と文化史的意義に求められるべきである。
清原宣賢の「貞永式目抄」に関する研究は、これまでにも一定の蓄積があるものの、なお探求すべき課題は残されている。今後の研究の進展が期待される点をいくつか挙げる。
第一に、清原宣賢による「式目抄」の諸本(古活字版、写本など)と、彼の孫である清原枝賢が改訂したとされる「式目抄」の諸本(天正八年奥書本、『続史籍集覧』所収本など)との間で、より詳細かつ網羅的な本文比較研究が求められる。これにより、両者の具体的な相違点、枝賢による改訂の意図や方法論、そしてそれぞれの著作が持つ独自の価値がより明確になるであろう。現時点では「内容が異なる」という指摘に留まっている部分 3 について、具体的な条文解釈や引用文献レベルでの比較分析が不可欠である。
第二に、「式目抄」が戦国時代の武士や知識人層に具体的にどのように読まれ、受容されたのかについての実証的な研究が一層望まれる。例えば、当時の日記、書簡、その他の記録類から、「式目抄」の読書痕跡や影響関係を具体的に見出す試みである。松永久秀が枝賢に「式目抄」を求めた事例 12 は示唆に富むが、このような個別の事例を積み重ね、より広範な受容の実態を解明する必要がある。
第三に、清原宣賢の注釈に色濃く見られる儒教的あるいは仏教的な思想や倫理観が、「御成敗式目」の法文解釈に具体的にどのような影響を与え、どのような独自の解釈を生み出しているのかを詳細に分析することも重要な課題である。これにより、宣賢の学問的背景が彼の法解釈にどのように作用したのか、そして彼が「御成敗式目」をどのようなテキストとして捉えようとしたのかという、彼の知的営為の核心に迫ることができるだろう。
これらの研究課題に取り組むことを通じて、戦国期における「貞永式目抄」の歴史的意義はさらに深く理解され、日本中世・近世の法制史および思想史研究に新たな知見がもたらされることが期待される。
(本報告書作成にあたり参照した学術論文、専門書等を記載する箇所。本課題の性質上、具体的な文献リストの作成は省略する。)