最終更新日 2025-06-02

遠眼鏡

遠眼鏡

日本の戦国時代における「遠眼鏡」に関する調査報告

序論

  • 本報告の目的と対象:「戦国時代の遠眼鏡」というテーマ設定の意義と課題
    本報告は、日本の戦国時代における「遠眼鏡」と呼ばれる道具、特に望遠鏡に焦点を当て、その伝来、実態、呼称、影響について詳細に調査し、論じることを目的とする。
    「戦国時代」の定義については、本報告では概ね15世紀後半から慶長年間(1596年~1615年)、特に豊臣政権の終焉までを念頭に置く。しかしながら、望遠鏡のヨーロッパにおける発明が1608年であり、日本への伝来がそれ以降であるため、本報告の対象期間は必然的に戦国時代の最末期から江戸時代初期に及ぶこととなる。この時代的制約は、「戦国時代の遠眼鏡」というテーマを考察する上で極めて重要な点であり、史料の解釈には慎重な検討が求められる。望遠鏡の発明時期を考慮すると、戦国時代を通じて「遠眼鏡=望遠鏡」が存在したわけではないという基本的な事実認識が不可欠である。
  • 「遠眼鏡」の定義と本報告における範囲
    「遠眼鏡」という語は、江戸時代においては望遠鏡を指す一般的な呼称として用いられた 1 。しかし、それ以前の時代や文脈によっては、眼鏡や他の種類の光学機器を指した可能性も考慮に入れる必要がある。本報告では、主として望遠鏡としての「遠眼鏡」の歴史的経緯を追うが、その前史として、日本における眼鏡の受容状況についても言及する。
  • 16世紀末から17世紀初頭のヨーロッパにおける望遠鏡発明の背景
    1608年、オランダの眼鏡職人ハンス・リッペルスハイが望遠鏡を発明したとされる 4。この初期の望遠鏡は、レンズを用いて光を集める屈折式望遠鏡であった 4。この発明の報は急速にヨーロッパ各地に広まり、天文学の分野ではガリレオ・ガリレイによる月の凹凸や木星の衛星の発見など、従来の宇宙観を覆すような観測結果が次々ともたらされた 7。同時に、遠方の敵情を視察する軍事利用への期待も高まった。
    望遠鏡の発明とその迅速な伝播は、大航海時代以降のヨーロッパにおける情報伝達の速度と、新しい技術に対する強い関心を示すものである。日本への伝来も、このグローバルな技術拡散の文脈の中に位置づけられる。1608年の発明からわずか数年で日本にもたらされたという事実は 6、当時の航海技術、国際交易ネットワークの存在、そして何よりも新しい道具に対する人間の普遍的な好奇心や実利への期待が背景にあったことを物語っている。特に軍事や航海における優位性を確保する観点から、各国がこの新技術に注目したことは想像に難くない。

第一章:戦国日本における光学的知識と「遠見」の諸相

  • 眼鏡の伝来と初期の普及
    日本におけるレンズを用いた道具の初期の例として、眼鏡の伝来が挙げられる。16世紀中頃、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが日本にもたらした品々の中に眼鏡が含まれていたとされる。1551年(天文20年)、ザビエルは周防国の大名大内義隆に謁見した際、献上品の一つとして眼鏡を贈ったという記録がある 9 11 の記述によれば、ザビエル一行が二度目に山口を訪れた際、大内義隆に大時計や眼鏡、双眼鏡など13品目を献上したとされている。また、 12 も同様に献上品の中に眼鏡を挙げている。
    ここで重要なのは、一部資料 10 でザビエルが大内義隆に「望遠鏡」や「双眼鏡」を献上した可能性が示唆されている点である。しかし、前述の通り望遠鏡の発明は1608年であり、ザビエルの日本滞在時期(1549年~1551年)とは半世紀以上の隔たりがある。岩波文庫『聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 上巻』の解説によれば、サビエルの書簡中に大内義隆への献上品として望遠鏡を具体的に記した箇所はないとされている 13 。この矛盾点を考慮すると、ザビエルが献上した光学機器は主として「眼鏡」であり、「望遠鏡」の献上は時代的に不可能であったと判断するのが妥当である。 11 12 に見られる「望遠鏡」「双眼鏡」の記述は、後世の記録による混同や脚色、あるいは眼鏡やその他の珍しいガラス製品が拡大解釈された結果である可能性が高い。
    当時の日本では眼鏡は極めて珍しいものであり、大内義隆が日本で最初に眼鏡をかけた人物であるとも言われている 10 。その後、室町幕府第12代将軍足利義晴や、江戸幕府を開いた徳川家康も眼鏡を使用していたとされ、家康が愛用したとされる眼鏡は現存している 9 。16世紀後半にはポルトガル商人によって眼鏡の輸入が本格化し、17世紀にはオランダ東インド会社を通じて相当数の眼鏡が日本にもたらされた記録がある 14
    眼鏡の伝来は、日本人がレンズという新しい素材と、視力矯正という具体的な機能を持つ西洋の科学技術に初めて触れる機会を提供した。有力な大名や将軍がこれらの舶来の道具を使用したという事実は 9 、異文化の製品に対する関心の高さを示している。16世紀後半から眼鏡の輸入が始まり、17世紀には一般的な交易品の一つとなるなど 14 、一定の需要が存在したことがわかる。レンズという素材とその光学的効果(拡大、矯正)への理解が深まることは、後の望遠鏡という、より複雑な光学機器の受容に向けた素地を形成した可能性が考えられる。
  • 水晶やガラス製品の利用状況
    戦国時代(室町時代末期)において、レンズの素材となりうるガラス玉や水晶玉は、主に寺院の荘厳具や装飾品として存在していた 15。これらは美術工芸品としての価値は高かったものの、光学的な「遠見」の道具として利用されたわけではなかった。
    39では、ビニールハウスの上に溜まった雨水が凸レンズと同様の効果を示し太陽光を集めて発火させる事例を挙げているが、これは現代の科学的知見に基づくものであり、戦国時代にこの原理が認識され、遠見の道具に応用されたという直接的な証拠は見当たらない。
    戦国時代において、レンズの素材となり得るガラスや水晶は存在したが、それらを精密に加工し、組み合わせて「遠くを見る」という明確な目的を持った光学機器(望遠鏡以前の原始的な形態のものを含む)が、日本独自に開発されたという証拠は乏しい。望遠鏡のような高度な光学機器の製造には、レンズの精密な研磨技術と光学設計の知識が不可欠であり、当時の日本の技術水準では、そのような製品は海外からの輸入に頼らざるを得なかったと考えられる。
  • 「遠見」のための伝統的手段
    望遠鏡が伝来する以前の日本では、遠方の情報を得るために様々な伝統的手法が用いられていた。城郭建築においては、敵の動きを早期に察知するために高所に「遠見櫓」と呼ばれる見張り台が設けられた。例えば、米子城の絵図には本丸に遠見櫓が記載されている 16。
    また、遠隔地への情報伝達手段としては、狼煙(のろし)が重要な役割を果たした。その他、斥候や間諜といった人的な偵察活動も、敵情視察や地理的情報の収集に不可欠であった 17。
    江戸時代に入ると、幕府は国防上の観点から沿岸部に「遠見番所」を設置し、異国船の監視体制を強化した 19。これは、戦国時代から続く遠距離監視の重要性が、新たな国際環境の中で継続・発展したことを示している。
    望遠鏡が登場する以前の「遠見」は、地形の戦略的利用、高所建造物の設置、烽火による信号伝達、そして何よりも人間の視覚と機動力に大きく依存していた。これらの伝統的手段は、望遠鏡が舶載され、徐々に普及していく江戸時代以降も、新しい技術と併用される形で存続したと考えられる。既存の遠距離監視システムが、望遠鏡という新たな技術によって補完され、強化されていくという形で、技術の受容と変容が進んだと推測される。

第二章:「遠眼鏡」(望遠鏡)の日本への伝来

  • 望遠鏡発明(1608年)以降の日本への到達
    1608年にオランダで発明された望遠鏡は、驚くべき速さで日本にもたらされた。記録によれば、発明からわずか5年後の1613年(慶長18年)には、イギリス東インド会社のジョン・セリスによって日本に持ち込まれている 6。
    この迅速な伝来は、当時の日本がヨーロッパを中心とする国際的な交易ネットワークに組み込まれていたこと、そして日本の支配者層が海外の新しい文物に対して強い関心を持っていたことを示している。当時の航海日数や情報伝達の速度を考慮すると、発明から5年という短期間での到達は特筆に値する。これは、南蛮貿易という直接的な接触ルートが存在したこと 1、そして最高権力者である徳川家康自身がこれらの舶来品に接見し、受領する機会があったことが大きな要因と考えられる 6。家康の知的好奇心や新しい技術の実用性への関心が、その受容を促進したと言えるだろう。
  • 徳川家康への献上記録
    日本における望遠鏡の存在を確実に示す最初期の記録として、徳川家康への献上が挙げられる。1613年(慶長18年)9月(旧暦8月)、イギリス東インド会社の船隊司令官ジョン・セリスは、通商許可を得るため駿府城で徳川家康に謁見し、その際に銀台鍍金の望遠鏡を献上した 6。この出来事は、『駿府記』や『駿府政事録』、『止戈談叢』といった同時代の記録にも記されている 6。
    家康はこの望遠鏡を試用し、「六里見之、云々」(約24キロメートル先まで見えた、などの意)と述べたと伝えられている 6。この家康への望遠鏡献上は、日本の最高権力者がこの革新的な新技術に直接触れたという点で、極めて象徴的な出来事である。家康の「六里見えた」という反応は、望遠鏡の性能に対する驚きと強い関心を示唆しており、単なる物珍しさだけでなく、その実用的な価値(遠方視認能力の向上)を日本の支配者が認識した瞬間と捉えることができる。
  • 「戦国時代」末期と江戸時代初期の境界における伝来の様相
    ジョン・セリスによる望遠鏡献上(1613年)は、大坂冬の陣(1614年)の前年であり、豊臣氏が大坂城にまだ健在であった時期にあたる。「戦国時代」の終焉をどの時点と見なすかによって解釈は分かれるが、まさにその最末期、あるいは江戸時代初期の出来事と言える。
    オランダ東インド会社も、1622年以降、日本へ望遠鏡を輸入した記録が残っている 14。また、伊達政宗によって派遣された慶長遣欧使節(1613年出発)がヨーロッパから様々な文物を持ち帰ったとされるが、その多くは江戸幕府のキリスト教禁令強化の方針により没収されたと伝えられている 23。使節が持ち帰った品々の中に望遠鏡が含まれていたか、またそれが政宗の手に渡ったかについては具体的な史料に乏しい。しかし、国宝「慶長遣欧使節関係資料」には、ビロード地や金糸など中国産の素材が用いられた品も含まれており 24、ヨーロッパ経由で多様な文物がもたらされたことは確かである。
    望遠鏡の日本への初期伝来は、戦国時代の終結と徳川幕府による全国統一が完成へと向かう過渡期に起こった。この時期は、対外関係がまだ比較的開かれており、新しい技術や文物が流入しやすい状況にあったと言える。しかし、その後の禁教令の発布やいわゆる鎖国体制への移行といった国内の政治・宗教的統制の強化が、望遠鏡を含む西洋技術の広範な普及や日本国内での独自の発展に影響を与えた可能性は否定できない。オランダ東インド会社による長崎出島を通じた限定的な窓口からの継続的な輸入は確認されるものの 14 、これが全国的な技術普及に直結したか否かは、別途慎重な検討が必要である。
    戦国末期~江戸初期における望遠鏡関連年表

西暦

和暦

ヨーロッパでの出来事

日本での出来事

関連人物

備考

1543年

天文12年

鉄砲伝来(種子島)

新技術受容の一例

1549年

天文18年

フランシスコ・ザビエル来日

フランシスコ・ザビエル

1551年

天文20年

ザビエル、大内義隆に眼鏡などを献上(望遠鏡ではない)

大内義隆

レンズ製品の初期伝来

1600年

慶長5年

関ヶ原の戦い

徳川家康

戦国時代の終焉期

1603年

慶長8年

江戸幕府開府

徳川家康

1608年

慶長13年

オランダでハンス・リッペルスハイが望遠鏡を発明

ハンス・リッペルスハイ

屈折望遠鏡

1609年

慶長14年

ガリレオ・ガリレイが望遠鏡を製作、天体観測を開始

ガリレオ・ガリレイ

月のクレーター、木星の衛星などを発見

1613年

慶長18年

ジョン・セリス、徳川家康に望遠鏡を献上 6

ジョン・セリス、徳川家康

日本への望遠鏡伝来の確実な記録

1613年

慶長18年

慶長遣欧使節出発

支倉常長、伊達政宗

帰国時に文物を持ち帰るも詳細は不明

1614年

慶長19年

大坂冬の陣

徳川家康、豊臣秀頼

戦国時代の最終局面

1615年

元和元年

大坂夏の陣、豊臣氏滅亡

元和偃武

1620年頃

元和6年頃

西川如見『長崎夜話草』に浜田弥兵衛による遠目鏡製作の記述(刊行は1720年) 6

浜田弥兵衛

国産化の初期の可能性(江戸時代中期)

1622年

元和8年

オランダ東インド会社が日本に望遠鏡を輸入開始か 14

1645年

正保2年

アントン・マリア・シルレがシルレ式望遠鏡の原理を発表

アントン・マリア・シルレ

凸レンズ4枚構成、正立像

1650年頃

慶安3年頃

徳川義直所蔵のシルレ型望遠鏡(中国製か)入手時期の上限 25

徳川義直

現存最古級の望遠鏡の一つ


第三章:戦国時代における「遠眼鏡」の実態と呼称

  • 史料に見る「遠眼鏡」の記述とその解釈
    望遠鏡が日本に伝来した当初、その呼称は一様ではなかった。「遠眼鏡(とおめがね)」という言葉は、江戸時代に入ると望遠鏡を指す一般的な呼称として定着し、帆船での航海時に島や灯台、浅瀬などを確認するために珍重されたり、陸上での目印確認などに用いられたりした記録がある 1。
    しかし、それ以前や同時期には様々な呼称が存在した。関西大学の谷口直之教授の研究によれば、江戸時代初期に望遠鏡が日本へ渡来した際の名称の一つは「遠目金(とおめがね)」であったとされる 3。その他にも、「千里鏡(せんりきょう)」、「遠鏡(えんきょう/とおみのかがみ)」、「遠目鏡(とおめきょう)」、「遠めがね」といった多様な呼称が用いられていたことが史料から確認できる 2。例えば、1642年(寛永19年)刊行の『異国往復書翰集』には「遠目かね」という記述が見られ、1709年(宝永6年)の『唐蠻貨物帳』には「遠めがね」という記載がある 2。
    「望遠鏡」という熟語が日本の文献に初めて登場するのは、1712年(正徳2年)に刊行された寺島良安の類書『倭漢三才図会』においてであると指摘されている 3。それ以前は、上記の「遠目金」や「千里鏡」、「遠眼鏡」、「遠鏡」などが混在して使用されていた。特に「千里鏡」という名称は、その性能に対する人々の期待感、すなわち「千里先までも見通せる鏡」という驚異をよく表している。伊能忠敬が測量に用いた望遠鏡の収納箱にも「千里鏡」と記されたものが現存しており 26、専門的な道具の名称としても用いられていたことがわかる。
    これらの呼称の多くが、「遠くを見るための眼鏡(または鏡)」といった構成要素から成り立っていることは注目に値する。これは、望遠鏡がレンズを用いた光学機器であるという基本的な認識が、呼称の形成において共通して存在していたことを示唆している。新しい道具が社会に導入される際、その名称が定まるまでには一定の時間を要し、多様な表現が試みられるのは自然な過程であり、「遠眼鏡」を巡る呼称の変遷もその一例と言えるだろう。
    「遠眼鏡」関連呼称一覧表

呼称(読み)

漢字表記

使用が確認される主な時代

意味・対象(推定含む)

主な史料・文献

備考

とおめがね

遠眼鏡

江戸時代全般

望遠鏡

『石川県立歴史博物館収蔵品』(江戸時代) 1 、葛飾北斎の浮世絵 27

最も一般的な呼称の一つ。

とおめがね

遠目金

江戸時代初期

望遠鏡

谷口直之「「望遠鏡」の語誌について」 3

渡来当初の呼称の一つか。

せんりきょう

千里鏡

江戸時代初期~後期

望遠鏡

谷口直之「「望遠鏡」の語誌について」 3 、伊能忠敬関連資料 26

「千里を見渡す鏡」の意。性能への期待感が表れている。中国でも同様の呼称あり 3

えんきょう/とおみのかがみ

遠鏡

江戸時代初期~後期

望遠鏡

谷口直之「「望遠鏡」の語誌について」 3

天文方などで使用された例がある 3 。中国でも「遠鏡」の語が使われた 2

とおめきょう

遠目鏡

江戸時代中期

望遠鏡

西川如見『長崎夜話草』(1720年) 2

とおめかね

遠目かね

江戸時代初期(1642年頃)

望遠鏡

『異国往復書翰集』(1642年) 2

めがね

眼鏡、目鏡

16世紀後半~

眼鏡(視力矯正用)

『パリミキ お客様相談室 メガネの歴史』 9 、ヴォルフガング・ミヒェル論文 14

望遠鏡伝来以前から存在。望遠鏡の呼称の基礎となった可能性。

ぼうえんきょう

望遠鏡

江戸時代中期(1712年~)

望遠鏡

寺島良安『倭漢三才図会』(1712年) 3

当初は「とおめがね」と訓読されることもあったが、次第に音読が定着 3 。近代以降、標準的な呼称となる。中国から再輸入された語との説もある 3

戦国時代(特に1608年の望遠鏡発明以前)の史料において「遠眼鏡」や「千里鏡」といった記述が見出された場合、それが直ちに望遠鏡を指すと断定することはできない。それらが眼鏡を指していたり、あるいは単に「遠くを見渡す場所」や「遠望する行為」を指す比喩的な表現であったりする可能性も十分に考慮する必要がある。例えば、「鏡」という言葉自体が古くから日本に存在し、金属製の鏡や、さらには餅の名称(しとき=御鏡)としても用いられるなど [28]、多義的な性格を持っていた。したがって、戦国時代の文献にこれらの語が登場したとしても、その文脈と時代背景を慎重に吟味し、安易に望遠鏡の存在と結びつけることは避けるべきである。

  • 戦国武将と「遠眼鏡」
  • 伊達政宗に関する伝承と史実の検証
    奥州の戦国大名である伊達政宗が遠眼鏡を所持し、活用したという話は広く知られている。しかし、その多くは後世の逸話や、近年のゲームなどの創作物における描写 29 に基づくイメージであり、史実として確認できる記録は限定的である。
    仙台市博物館には伊達家伝来の品々が多数収蔵されているが 31、現在公開されている収蔵品リストや展示情報の中に、伊達政宗所用と明確に特定される「遠眼鏡(望遠鏡)」の記述は、提供された資料からは確認できない。31に記載されている2025年春の常設展の展示予定品には、政宗所用の黒漆五枚胴具足や山形文様陣羽織などは含まれているが、遠眼鏡に関する言及はない。
    政宗が派遣した慶長遣欧使節がヨーロッパから望遠鏡を持ち帰った可能性は否定できないが、仮に持ち帰ったとしても、それが禁教政策下の幕府によって没収されず政宗の手に渡ったか、そしてそれを政宗が実用したかを示す確たる史料は現在のところ見当たらない 23。
    これらの状況を総合的に判断すると、伊達政宗と遠眼鏡(望遠鏡)を結びつける具体的な一次史料は、現時点では明確ではないと言わざるを得ない。政宗の先進性や海外文化への強い関心といった人物像から、後世の人々が彼と新しい技術である望遠鏡を結びつけて語るようになった可能性や、何らかの逸話が誇張されて広まった可能性が考えられる。
  • その他の武将に関する記録の有無
    徳川家康以外で、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将が望遠鏡を具体的に所持・使用したという記録は、提供された資料の中では極めて乏しい。
    40には、江戸幕府の将軍側近であった牧野親成などの老中がオランダ人から贈物を受け取った事例が記されているが、この贈物が望遠鏡であったかは明示されていない。また、同資料には老中たちが部下に対し、原則として何人からの贈物も受け取らないよう指示していたという記述もあり、舶来品、特に高価な品物の入手が一様ではなかった可能性を示唆している。
    フランシスコ・ザビエルに謁見した宣教師フランシスコ・カブラルが眼鏡をかけていたのを岐阜城下の人々が見て大変驚いたという記述があるが 10、これはあくまで眼鏡であり、望遠鏡ではない。織田信長自身が遠眼鏡(望遠鏡)を使用したという明確な記録も、提供資料の中には見当たらない。6にある「羽扇」に関する記述は、遠くを見るための何らかの道具について触れている可能性があるが、これが望遠鏡であるとは断定できず、詳細は不明である。
    これらの状況から、戦国時代末期から江戸時代初期において、望遠鏡は極めて希少で高価な輸入品であり、その所持は徳川家康のような最高権力者や、それに準じるごく一部の人物に限られていた可能性が高い。一般の武将が容易に入手し、日常的に使用できるような状況ではなかったと考えられる。望遠鏡の初期の記録が家康への献上品であること 6、オランダ商館からの贈答品としての性格が強かったこと 14、そして国産化が江戸時代に入ってから徐々に進展すること 6 を考慮すると、初期の流通量は極めて限られていたと推測される。
  • 合戦における利用の可能性と限界
    望遠鏡が発明された当初から、その軍事的な利用価値は高く評価されていた。遠方の敵情を早期に察知し、味方の部隊配置や戦況を的確に把握することは、合戦の勝敗を左右する重要な要素である。
    しかし、日本の戦国時代の合戦、特に望遠鏡が発明される1608年以前の主要な戦いにおいて、望遠鏡が戦況に影響を与えるような形で使用されたという具体的な史料は、提供された資料からは見出すことができない。41は戦国期の合戦における笛の軍事的役割について述べているが、遠眼鏡とは直接関連しない。
    仮に、日本への確実な伝来記録がある1613年以降の戦い、例えば大坂の陣(1614年~1615年)で望遠鏡が使用された可能性を考慮したとしても、その数は極めて少なく、ごく一部の指揮官による限定的な偵察や状況把握に用いられた程度であったと推測される。
    さらに、初期の望遠鏡の性能も、実戦での効果的な運用には制約があったと考えられる。ガリレオが天体観測に用いた望遠鏡でさえ、倍率は14倍や20倍程度であり、視野は非常に狭かったと報告されている 7。7によれば、復元されたガリレオ式望遠鏡(14倍)の視野角はわずか8分角であり、アイポイントをずらして視野の端を覗いても15分角程度の視界しか得られなかったという。このような狭い視野は、広範囲を迅速に索敵する必要がある戦場の状況下では、必ずしも扱いやすいものではなかった可能性がある。
    これらの点を総合すると、戦国時代の合戦において、望遠鏡が戦術的に重要な役割を果たしたという証拠は現状では確認できない。日本への伝来時期の遅さ、初期の性能的限界、そして何よりもその希少性を考慮すれば、合戦における影響は極めて限定的であったか、あるいは実戦投入に至らなかった可能性が高いと結論付けられる。

第四章:初期の「遠眼鏡」(望遠鏡)の構造と性能

  • 伝来した望遠鏡の種類
    日本に初期に伝来した望遠鏡は、1608年にオランダで発明された屈折望遠鏡、特にガリレオ式またはそれに近い構造のものであったと考えられる。ガリレオ・ガリレイが製作し、天体観測に用いた望遠鏡は、対物レンズに凸レンズ、接眼レンズに凹レンズを用いたもので、正立像が見えるものの視野が狭いという特徴があった 7。
    現存する日本最古級の望遠鏡として知られる徳川美術館所蔵品(尾張徳川家初代藩主・徳川義直所蔵、義直の没年である1650年以前に入手)は、詳細な調査の結果、1645年にヨーロッパでアントン・マリア・シルレ・ド・レティンによって原理が発表された「シルレ型望遠鏡」であることが判明している 21。このシルレ型望遠鏡は、対物レンズと接眼レンズの間に2枚の凸レンズを配置した4枚構成で、正立像を得ることができ、倍率は3.9倍と測定されている 21。特筆すべきは、この望遠鏡の材質や製法、装飾などから、ヨーロッパ製ではなく中国で製作された可能性が高いとみられている点である 21。
    この事実は、日本に初期に伝来・存在した望遠鏡が、ヨーロッパからの直接の輸入品だけでなく、中国を経由したもの、あるいは中国で製造されたものも含まれていた可能性を強く示唆する。シルレ型望遠鏡の存在は、ヨーロッパの最新技術が比較的早期にアジア地域にも伝播し、そこで模倣や独自の改良が行われた可能性を示しており、当時の東アジアにおける技術交流の一端を垣間見せる。
  • 材質、レンズ、倍率に関する推定
    初期の望遠鏡の材質に関して、鏡筒は主に紙を何層にも貼り重ねて漆で固めた一閑張り 36 や、木製、あるいは革張りなどで作られていたと考えられる。石川県立歴史博物館所蔵の江戸時代の遠眼鏡は、寸法が直径6.0cm、長さ40.0cm(最長伸展時108.0cm)と記録されている 1。徳川義直所蔵のシルレ型望遠鏡は、口径5.2cmの4段式で、伸ばした際の全長は109cmに及ぶ 25。
    レンズはガラス製であったが、その品質は現代の光学ガラスの基準から見れば未熟であり、気泡や不純物を含むなど、解像度や明るさに影響を与えた可能性が高い。35の論文には、徳川義直の望遠鏡の対物レンズと接眼レンズのガラス材を背後から光を当てて撮影した写真が掲載されており、当時のレンズの質感を知る手がかりとなる。
    倍率については、伝来品によって様々であったと推測される。ガリレオが製作した天体観測用の望遠鏡は14倍や20倍といった比較的高倍率のものであった 7。一方、徳川義直所蔵のシルレ型望遠鏡の倍率は3.9倍と測定されている 21。ジョン・セリスが徳川家康に献上した望遠鏡の正確な倍率は不明であるが、「六里見えた」という記述 6 から、ある程度の性能は有していたと考えられる。
    これらの情報から、初期に日本に伝わった望遠鏡の性能は一様ではなく、必ずしも高性能なものばかりではなかったことがわかる。特に倍率が比較的低いものは、遠方の詳細な識別よりも、大まかな物体の存在確認や全体像の把握に主眼が置かれていた可能性がある。それでも、肉眼では到底見ることのできない遠方の対象を視認できるというだけで、当時の人々にとっては画期的な道具であったに違いない。
  • 現存する可能性のある初期の「遠眼鏡」とその特徴
    日本国内には、江戸時代初期から中期にかけて製作または輸入されたと考えられる望遠鏡がいくつか現存している。
    代表的なものとして、前述の徳川美術館が所蔵する徳川義直旧蔵のシルレ型望遠鏡(17世紀中頃、中国製と推定)が挙げられる 21。これは、現存する日本最古級の望遠鏡の一つとして学術的にも価値が高い。
    佐賀県の武雄市図書館・歴史資料館には、「御遠眼鏡」と称される江戸時代の一閑張りの屈折望遠鏡が所蔵されている 36。
    また、神戸市立博物館には、江戸時代中期の望遠鏡製作者として名高い森仁左衛門が製作した「牡丹に唐草文望遠鏡」が収蔵されている 6。森仁左衛門は、8代将軍徳川吉宗の命により多数の望遠鏡を製作したことで知られる人物である 6。
    ただし、これらの現存品の多くは、江戸時代に入ってから製作または入手されたものであり、「戦国時代」にまで遡るものは極めて稀であるか、あるいは現存していない可能性が高い点に留意が必要である。徳川義直の望遠鏡も、義直の没年(1650年)やシルレ型望遠鏡の発明年(1645年)から判断して、戦国時代の終焉(一般的には1600年または1615年)からはやや時代が下る。望遠鏡の日本への確実な伝来自体が戦国時代の最末期から江戸時代初頭にかけてであるため、それ以前の時代のものが現存する可能性は極めて低いと言える。

第五章:日本における「遠眼鏡」(望遠鏡)受容の初期段階

  • 異文化の道具としての「遠眼鏡」への関心
    日本に初めてもたらされた望遠鏡は、その実用的な価値と共に、珍奇な舶来品としての側面も強く持っていた。そのため、大名や知識人といった層の知的好奇心を大いに刺激したと考えられる。徳川家康がジョン・セリスから献上された望遠鏡を自ら試用したという記録は 6、その関心の高さを物語っている。時代は下るが、江戸時代後期には葛飾北斎の美人画のシリーズ「風流無くてななくせ」の一図として、若い娘が朱塗りの遠眼鏡を覗き込む姿が描かれており 27、この新奇な道具が人々の間で話題となり、ある種の娯楽の対象にさえなっていたことを示唆している。
    九州大学のヴォルフガング・ミヒェル名誉教授の研究によれば、眼鏡や望遠鏡は、長崎のオランダ商館から日本の幕府高官や有力大名への重要な贈答品として扱われていた 14。これは、日本側がこれらの光学機器に対して高い関心を持っていたことの現れであると同時に、オランダ側が日本との良好な関係を維持・強化するための外交戦略の一環としてこれらの品々を活用していたことを示している。
    望遠鏡の初期受容においては、軍事利用や航海術への応用といった実用的な側面だけでなく、未知の物事への知的好奇心、異国趣味、そして先進的な道具を所有することによるステータスシンボルとしての意味合いも含まれていた。これらが複合的に作用し、一部の支配層や知識層の間で望遠鏡への関心を集めた要因の一つと考えられる。
  • 国産化への試みの萌芽(江戸時代初期から中期にかけて)
    舶来品であった望遠鏡の国産化が、いつ、どのようにして始まったのかについては、不明な点が多いとされている 6。しかし、江戸時代中期頃から、徐々に日本国内でも望遠鏡を製作しようとする試みが現れ始める。
    1720年(享保5年)に刊行された西川如見の『長崎夜話草』には、長崎の眼鏡細工師であった浜田弥兵衛という人物が、鼻眼鏡や虫眼鏡などと共に「遠目鏡」も製作していたという記述が見られる 6。これは、国産化の比較的初期の事例として注目される。
    さらに時代が進み、享保年間(1716年~1736年)には、森仁左衛門という職人が徳川吉宗の命を受けて多数の望遠鏡を製作し、献上したことが記録されている 6。これは、幕府の需要に応える形での本格的な国産化の一つの画期と言えるだろう。
    その後、幕末に近い天保年間(1830年~1844年)には、近江国友村の鉄砲鍛冶であった国友藤兵衛(一貫斎)が、当時の西洋の望遠鏡にも匹敵するような高性能なグレゴリー式反射望遠鏡を独自に製作したことが知られている 36。
    これらの事例から、望遠鏡の国産化は、日本への伝来から一定の時間を経て、江戸時代中期頃から本格的に始まったと考えられる。初期には、海外との唯一の窓口であった長崎など、舶来技術に触れる機会の多い場所で試みがなされ、そこで得られた知識や技術が徐々に国内の他の地域にも広まっていったと推測される。その過程では、輸入された実物を分解・研究するリバースエンジニアリング的なアプローチや、既に存在した眼鏡製作の技術基盤が応用された可能性も考えられる。輸入依存から国内生産への移行は一朝一夕になされたわけではなく、数十年の期間を要したことが窺える。
  • 「遠眼鏡」がもたらした視覚の変化と認識への影響(推測を含む)
    遠くにあるものが、あたかも手元にあるかのように詳細に見えるという望遠鏡による視覚体験は、当時の人々の空間認識や世界観に少なからず影響を与えた可能性がある。
    6には、「羽扇」(団扇状の何かで遠くを見る道具か、詳細は不明だが遠見の道具の一種を示唆)を用いて遠方を眺めた際の記述として、「南は品川北は板橋、西は四ッ谷東は千住の外までも、手に取るごとく見えわたり、しらみの足音蟻の咡くまで聞ゆれば」とある。これは明らかに誇張された文学的表現であり、実際の望遠鏡の性能とは異なる。しかし、このような表現が生まれる背景には、遠くのものをより詳細に知りたいという人間の根源的な欲求や、新しい視覚体験に対する驚きと感動があったことを反映しているのかもしれない。
    徳川家康が献上された望遠鏡で「六里見えた」と述べたという記録 6 も、肉眼の限界を超える新しい視覚体験への驚きを端的に示している。このような体験は、それまでの距離感や空間に対する認識のあり方に、静かな揺さぶりをかけたであろう。
    望遠鏡は、物理的な視界を拡張するだけでなく、それまで不可視であった遠方の情報を可視化することで、人々の知的好奇心を刺激し、世界に対する認識の仕方に変化をもたらす萌芽となった。これは、後の蘭学の隆盛など、西洋の科学技術に対する関心の高まりとも無関係ではなかったと推測される。新しい情報取得手段の登場は、常に人間の認識や思考の枠組みに影響を与えるものであり、望遠鏡もまた、その例外ではなかったと考えられる。

結論

  • 戦国時代における「遠眼鏡」(望遠鏡)に関する調査結果の総括
    本報告における調査の結果、日本の「戦国時代」における「遠眼鏡」(望遠鏡)に関して、以下の点が明らかになった。
    第一に、「戦国時代」として一般的に認識される期間の大部分において、望遠鏡としての「遠眼鏡」は日本に存在しなかった。その確実な伝来は、戦国時代の最末期にあたる1613年(慶長18年)、イギリス人のジョン・セリスによる徳川家康への献上が最初期の記録である。
    第二に、伝来当初の呼称は一様ではなく、「遠目金」や「千里鏡」といった名称も用いられ、その後徐々に「遠眼鏡」という呼称が一般的となり、さらに江戸時代中期以降には「望遠鏡」という語が登場し定着していった。
    第三に、伝来当初の望遠鏡は極めて希少な輸入品であり、主に最高権力者である徳川家康やその周辺の人物への贈答品として扱われた。一般の武将が容易に入手できるものではなかった。
    第四に、戦国時代の合戦において望遠鏡が戦術的に活用されたという明確な史料的証拠はなく、仮に使用されたとしても、その影響は極めて限定的であったと考えられる。伝来時期の遅さ、初期性能の限界、希少性がその理由である。
    第五に、日本に初期にもたらされた望遠鏡には、ヨーロッパ製だけでなく、中国で製作されたか、あるいは中国を経由したものも存在した可能性が高い。徳川義直所蔵のシルレ型望遠鏡はその代表例である。
    第六に、望遠鏡の国産化の試みは、江戸時代に入ってから徐々に始まり、長崎の眼鏡職人などを経て、江戸時代中期には森仁左衛門のような専門の職人が登場するに至った。
  • 史料的制約と今後の研究課題
    本報告の調査過程で明らかになったのは、戦国時代に特化した「遠眼鏡」(望遠鏡)に関する一次史料が極めて少ないという史料的制約である。今後の研究課題としては、以下の点が挙げられる。
    まず、当時の武将や公家、僧侶などの日記や記録類をより広範に調査し、望遠鏡あるいはそれに類する光学機器に関する記述を発掘する必要がある。
    次に、考古学的な発見、例えば城郭跡や有力者の邸宅跡などからレンズや鏡筒の一部が出土するようなことがあれば、新たな知見が得られる可能性があるが、その期待は現状では薄いと言わざるを得ない。
    さらに、「遠眼鏡」という言葉が、望遠鏡伝来以前の戦国時代において、具体的にどのような意味合いで使われていたのか、あるいはほとんど使われていなかったのかといった点について、国語史的な観点からのさらなる詳細な調査も有効であろう。
  • 「遠眼鏡」の伝来が日本の歴史に与えた初期の影響
    戦国時代末期から江戸時代初期にかけての「遠眼鏡」(望遠鏡)の伝来は、その影響が広範なものとなるには時間を要したものの、日本の歴史に対していくつかの初期的な影響を与えたと考えられる。
    限定的ではあったが、日本の支配者層や一部の知識人に対して、肉眼の能力を拡張する新しい視覚技術の存在を知らしめ、遠方世界への関心を喚起し、世界への窓をわずかながら開く一つの契機となった。
    また、航海術、測量術、さらには天文学といった実用的な分野への関心を刺激し、後の日本の科学技術の発展にとって遠いながらも一つの布石となった可能性も否定できない。
    そして、異文化の先進技術との接触は、人々の国際認識の形成や世界観の変容にも、たとえ微力であったとしても、何らかの影響を与えたと考えられる。それは、近世日本が世界の中で自らを位置づけていく上で、小さな、しかし無視できない一歩であったと言えるかもしれない。

引用文献

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