最終更新日 2025-05-31

金平糖

金平糖

戦国時代の金平糖:その起源、伝来、そして日本文化への影響

1. 序論:戦国期における金平糖という存在

本報告は、日本の戦国時代においてポルトガルからもたらされた南蛮菓子「金平糖」について、その語源、伝来の経緯、当時の製法、価値、そして文化的・社会的意義を、現存する史料や研究に基づいて詳細かつ徹底的に調査し、明らかにすることを目的とする。特に、異文化接触の象徴として、また希少な嗜好品として、金平糖が当時の日本社会にどのような影響を与えたのかを多角的に考察する。

金平糖は、カステラや有平糖などと共に、戦国時代から安土桃山時代にかけてポルトガルやスペインからもたらされた「南蛮菓子」の一つとして広く認識されている 1 。これらの菓子は、当時の日本には存在しなかった製法や、特に砂糖を豊富に使用する点において際立っており、異文化の象徴として大きな驚きをもって迎えられた。南蛮菓子は単に新しい味覚の到来を意味するだけでなく、日本が世界との接点を持ち始めた時代の文化的な象徴であり、外交や宗教といったより広範な社会的文脈と深く結びついていた。金平糖もその一つとして、当時の日本の国際関係や文化受容のあり方を反映する貴重な存在であったと言える。これらの菓子は、当時の日本における国際交流と文化変容の最前線を示す指標であり、金平糖の伝来と受容は、その文脈の中で理解されるべき事象である。

2. 金平糖の語源と名称の変遷

金平糖という菓子の名称は、その異国的な響きからもわかるように、外来の言葉に由来する。そして、その音に対して様々な漢字が当てられ、日本独自の解釈が加えられてきた経緯がある。

ポルトガル語「コンフェイト」からの派生

金平糖の語源は、ポルトガル語で「砂糖菓子」を一般的に意味する「confeito(コンフェイト)」、あるいはその複数形である「confeitos(コンフェイトス)」であるというのが定説である 1 。この「confeito」という言葉自体は、ラテン語で「用意された」「調合された」といった意味を持つ「confectu(コンフェクトゥ)」に遡ることができる 1

興味深いのは、ポルトガル語における「confeito」が特定の種類の菓子を指すのではなく、糖菓全般を指す広範な概念であったのに対し、日本では今日我々が知る特有の形状と製法を持つ「金平糖」という特定の菓子を指すようになった点である 3 。これは、カステラ(Castella)やパン(pão)など、他のポルトガル語由来の食品名にも見られる現象であり、外来の概念や物品が日本文化に取り込まれる過程で、元々の広範な意味が特定の具体的な事物に結び付けられ、意味が特殊化・限定化されて定着する一例と言えるだろう。金平糖の場合、数ある南蛮菓子の中でも、その特徴的な突起を持つ形状や製法が際立っていたため、「コンフェイト」の代表として認識され、その名を受け継いだと考えられる。

漢字表記の多様性とその背景

「コンペイトウ」という音に対して、日本では様々な漢字表記が試みられてきた。「金平糖」という表記が最も一般的であるが、その他にも「金米糖」 1 、「金餅糖」 1 、「糖花」 1 、「渾平糖」 7 といった表記が歴史的な文献に見られる。

これらの漢字表記の由来については、いくつかの説が存在する。「金平糖」については、「金色」「平ら」「糖」の文字から「平らな金色の糖」を意味するという説があるが、実際の金平糖が多様な色彩を持つことから、この説には疑問も呈されている 5 。また、「糖」が甘味を、「平」が均一さを、「金」が価値を示すという解釈や、単に音に漢字を当てた「当て字」であるという説もある 4 。中国の菓子である「金餅糖」が日本に輸入され、それが転じて「金平糖」になったという説も存在する 5

「糖花」という表記は、江戸時代の百科事典ともいえる『和漢三才図会』にも「渾兵糖(俗稱)」と共に記載されており 8 、その星のような形状が花を想起させることから名付けられた可能性が考えられる。実際に、現代でも花をモチーフにした商品名が見られる 9

戦国時代まではカタカナで「コンペイトウ」と表記され、江戸時代以降に日本独自の菓子として発展するにつれて「金平糖」という漢字表記が一般的になったとする指摘もある 11 。これは、外来の菓子が日本の文化に根付き、変容していく過程を言語表現の面からも示唆している。

これらの多様な漢字表記は、単なる音写に留まらず、当時の人々が未知の菓子「コンペイトウ」を既存の漢字知識や文化的背景と照らし合わせ、その形状、価値、あるいは異国的な響きから連想されるイメージを漢字によって表現しようとした試みの表れと言えるだろう。特に「金」の字が多く用いられている点は、当時の砂糖の希少性や金平糖そのものの美しさ、そして何よりもその価値の高さを反映していると考えられる 5 。これは、異文化の産物を自文化の語彙体系の中に位置づけようとする、文化的な受容と解釈のプロセスの一端を示している。

表1:金平糖の漢字表記と語源に関する考察

漢字表記

読み

語源説・由来説

主な典拠・備考

金平糖

こんぺいとう

ポルトガル語「confeito」の音写、または「金」「平」「糖」の各漢字の意味からの解釈

1 金色で平たい砂糖菓子、あるいは価値があり均一な甘さの砂糖菓子といった解釈。当て字説も有力。

金米糖

こんぺいとう、こんべいとう

ポルトガル語「confeito」の音写

1 「米」の字は、米粒のような形状からの連想、あるいは単なる音の当て字の可能性。

金餅糖

こんぺいとう、きんぺいとう

ポルトガル語「confeito」の音写、または中国の菓子「金餅糖」からの影響

4 中国の祝い菓子「金餅糖」が日本に伝来し、それが金平糖の名称や形態に影響を与えたとする説。

糖花

とうか、こんぺいとう

形状が花に似ていることから。または『和漢三才図会』の記述。

1 『和漢三才図会』では「糖花(こんぺいとう) 渾兵糖(俗稱)」と記載。

渾平糖・渾兵糖

こんぺいとう

ポルトガル語「confeito」の音写

7 「渾」の字は音を写したものか。

この表は、金平糖の名称に関する多様な情報を整理し、語源と漢字表記の複雑な関係性や、当時の人々がこの新しい菓子をどのように捉えようとしたかの文化的背景を浮き彫りにすることを意図している。

3. 日本への伝来と初期の受容

金平糖が日本の歴史に登場するのは戦国時代であり、その伝来にはポルトガル人、特に宣教師が深く関わっていた。しかし、具体的な伝来時期については複数の説が存在し、その受容の初期段階は長崎を中心とした西日本であったと考えられる。

伝来時期に関する諸説の検討

金平糖が日本に初めてもたらされた正確な時期については、いくつかの説が提示されている。

一つは 1546年(天文15年)説 である。この説は、戦国時代の1546年にポルトガルから金平糖がもたらされたとするもので、複数の資料で言及が見られる 1 。京都の老舗金平糖専門店である緑寿庵清水も、自社のウェブサイトでこの年を伝来年として紹介している 14 。しかしながら、この説を裏付ける具体的な一次史料や詳細な論証が常に伴っているわけではなく、「言われている」といった形で伝えられることも少なくない 13

もう一つ有力なのが 1569年(永禄12年)説 である。これは、ポルトガル人のイエズス会宣教師ルイス・フロイスが、京都において織田信長に謁見した際に、献上品の一つとして金平糖を贈ったという出来事に基づいている 1 。この出来事は、フロイス自身が著した『日本史』に記録されており、献上の場所(二条城、当時の足利将軍邸)や他の献上品(ろうそく)といった具体的な状況も伝えられているため、歴史的事実としての確度は比較的高いと考えられている 8

農畜産業振興機構のウェブサイトでは、1546年頃にフランシスコ・ザビエルが室町幕府第13代将軍足利義輝に金平糖を献上したという記録に触れつつ、1569年のフロイスによる信長への献上についても言及しており、複数の伝来経路や時期の可能性を示唆している 11

これらの説が存在する背景には、史料の性質の違い(一次史料か二次史料か、具体的な記述の有無など)や、「伝来」という言葉の定義の差異(単に物品が初めて日本に到達した時点を指すのか、あるいは歴史上の著名な人物に献上されるなどして社会的に認知された時点を指すのか)が影響している可能性がある。1546年が、記録には残りにくい形でポルトガル船によって初めて金平糖が日本にもたらされた年(あるいはそう信じられている年)であり、1569年が、歴史上の重要人物である織田信長への献上という形で、より明確な記録として残った最初の出来事であるという解釈も成り立つ。ザビエルによる献上説(1549年以降)も、有力者への献上という点では1569年の事例と共通する。いずれにせよ、戦国時代中期に金平糖が日本に到来したことは確実視されている。

ポルトガル宣教師の役割:ルイス・フロイスと織田信長への献上を巡る記録

金平糖の日本への伝来において、ポルトガル人宣教師、特にイエズス会のルイス・フロイスが果たした役割は大きい。永禄12年(1569年)4月16日とも伝えられる日、フロイスは京都の二条城(当時の足利義輝の御所、あるいは建設中の織田信長の宿舎)において織田信長に謁見し、その際に献上品の一つとして、フラスコ(ガラス製の瓶)に入れられた金平糖を、ろうそく数本と共に差し出したと記録されている 1

この献上は、フロイスが信長に対してキリスト教布教の許可を求めるという、極めて重要な外交交渉の一環であった。当時の日本において金平糖は極めて珍しく高価なものであり、信長の関心を惹き、良好な関係を築くための「切り札」とも称されるほど、戦略的な意味合いを持つ贈物であった 15 。新しいものを好み、西洋文化にも強い関心を示したとされる信長は 17 、この異国の菓子を見て大いに喜び、あるいはその珍しさに驚いたと伝えられている 15 。信長が金平糖を最初に口にした日本人であるという説も広く知られている 16 。献上の後、フロイスは信長と約1時間半から2時間にわたり陪席したとされ 8 、これは単なる儀礼的な献上以上の、実質的な会談が行われたことを示唆している。

この出来事は、ルイス・フロイス自身が編纂した『日本史』に詳述されており、その内容は村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』や、松田毅一・川崎桃太編訳『回想の織田信長 フロイス「日本史」より』といった翻訳を通じて現代に伝えられている 8 。信長への金平糖献上は、単なる贈答行為を超え、当時の国際政治や宗教交渉の一断面を映し出すものであり、金平糖という「モノ」が持つ物質的価値や異国情緒が、外交交渉における潤滑油、あるいは相手の歓心を得るための有効な手段として機能した顕著な事例と言えるだろう。

伝来経路と初期の製造地(長崎を中心として)

金平糖は、ポルトガル船によって海路で日本にもたらされ、当初は九州地方、特に長崎を中心とした西日本に伝えられたと考えられている 1 。長崎は、その後江戸時代を通じて日本の対外貿易の唯一の窓口となるため、南蛮文化や南蛮菓子の導入拠点として重要な役割を果たした。

金平糖の国内製造に関しては、元禄元年(1688年)頃には長崎で盛んに作られるようになったとの記録がある 2 。その後、製法は大坂(現在の大阪)、そして江戸へと徐々に伝播していった 4 。しかし、長崎に金平糖の製法が伝えられてから、それが江戸で知られるようになるまでには百数十年もの長い年月を要したとされており 7 、その間、製法は一種の秘伝として扱われ、容易には広まらなかったことがうかがえる。

このような製法伝播の遅さの背景には、単に技術の秘匿性だけでなく、江戸時代の鎖国体制下における情報流通の制約や、長崎という特定の地域が持っていた対外窓口としての独占的な地位が影響していた可能性が考えられる。海外由来の高度な技術は、それを有する職人や地域にとって経済的な優位性をもたらすため、積極的に他地域へ流出させる動機は薄かったかもしれない。また、藩を越えた技術者の移動や情報交換が容易ではなかったことも、伝播を遅らせた一因であろう。

表2:金平糖伝来に関する主要年表

西暦(和暦)

主な出来事

関連人物

関連史料・備考

1546年(天文15年)

ポルトガルより金平糖伝来説

-

1 諸説あり。この年を伝来とする明確な一次史料の特定は今後の課題。

1549年(天文18年)

フランシスコ・ザビエル来日

フランシスコ・ザビエル

ザビエルが足利義輝に金平糖を献上したとの説もあるが、時期や詳細は要検証 11

1569年(永禄12年)

ルイス・フロイスが織田信長に金平糖を献上

ルイス・フロイス、織田信長

1 フロイス『日本史』に記録。献上物はフラスコ入り金平糖とろうそく。

江戸時代初期(17世紀中頃)

『南蛮料理書』に金平糖の記述

-

8 当時の製法を示唆する記述が含まれる。

1688年(元禄元年)

長崎で金平糖製造が盛んになる

井原西鶴

2 井原西鶴『日本永代蔵』に長崎での金平糖製造に関する記述。

1712年(正徳2年)

『和漢三才図会』に「糖花(こんぺいとう)」として記載

寺島良安

8 製法や長崎が名産地であることなどが記される。

1718年(享保3年)

『古今名物御前菓子秘伝抄』に金平糖の製法記載

-

23 芥子の実を芯とする製法。

この年表は、金平糖が日本に伝来し、初期に受容され、そして国内での製造が広まっていく歴史的経緯を概観するものである。

4. 戦国・江戸初期における金平糖の価値と製法

戦国時代から江戸時代初期にかけて、日本にもたらされた金平糖は、その主原料である砂糖の希少性ゆえに極めて貴重な存在であり、その製法もまた当時の日本の菓子作りとは一線を画すものであった。

砂糖の希少性と金平糖の貴重性

当時の日本において、砂糖は極めて貴重な輸入品であり、甘味料としてだけでなく、時には「薬」としても扱われるほどであった 11 。砂糖が日本に初めて伝来したのは奈良時代、唐から渡来した鑑真和上によってもたらされたとされ、当初は薬として珍重されたという記録がある 11 。その後も、国内での生産は限定的であり、多くを輸入に頼っていた。

16世紀半ばにポルトガル人宣教師らによって金平糖などの南蛮菓子が伝えられた頃も、砂糖は依然として高価で入手困難な品であった 11 。江戸時代に入ってもその状況は大きく変わらず、例えば宝永4年(1707年)のオランダからの輸入品目を見ると、その約3割を砂糖が占めていたという記録もあり、いかに砂糖が高価であったかがうかがえる 15

このような背景から、砂糖を主原料とする金平糖は、必然的に極めて高価な菓子となった。その価値は、単に甘い嗜好品というだけでなく、富や権力の象徴ともなり得るほどであった。一般庶民が日常的に口にすることは到底不可能であり、主に大名への献上品や、身分の高い人々が催す特別な茶会などで用いられる、まさに「高嶺の花」であった 2 。織田信長のような最高権力者への献上品として金平糖が選ばれたという事実は、その並外れた価値を何よりも雄弁に物語っている 15 。金平糖を味わうという行為は、単なる味覚の享受を超え、希少な富を手にし、それを贈与できる社会的地位にあることを示す行為でもあったのである。

当時の製法に関する考察:井原西鶴『日本永代蔵』の記述を中心に

戦国時代から江戸初期にかけての金平糖の製法については、断片的な記述がいくつか残されているが、その中でも井原西鶴の浮世草子『日本永代蔵』(元禄元年/1688年刊)は注目に値する。この作品の巻五「廻り遠きは時計細工」には、長崎の町人が金平糖の製造に成功して財を成す物語が描かれており、その中で当時の製法に関する興味深い記述が見られる 4

『日本永代蔵』に記された製法は、「まづ胡麻を砂糖にて煎じ、幾日も干し乾(かわらげ)て後、煑鍋(いりなべ)へ蒔(まき)てぬくもりのゆくにしたがひ、胡麻より砂糖を吹き出し、自から金餅(平)糖となりぬ」というものである 23 。この記述は、金平糖の芯として胡麻が用いられていたことを示唆しており、他の資料でも当時の金平糖の芯に胡麻やケシの粒が使われたという言及がある 4

しかし、「胡麻より砂糖を吹き出し、自から金餅(平)糖となりぬ」という表現は、現代知られている金平糖の製法(核に糖蜜を徐々に掛けて結晶を成長させる)とは大きく異なる。この点について、専門家からは西鶴の想像が加わった文学的表現である可能性が指摘されている 23 。実際に砂糖が胡麻から「吹き出す」という現象は考えにくく、むしろ貴重な砂糖が魔法のように生成されるといった、当時の人々の金平糖に対する驚きや神秘的なイメージを反映した誇張表現と解釈するのが妥当であろう。

一方、17世紀中頃に成立したとされる『南蛮料理書』には、金平糖の製法について「ごまか肉桂を芯として用意する。肌のなめらかな鍋にこの芯を入れ、砂糖を飴の時より早めに冷ましたものを少しずつこの芯にかけながら熬る。花がついたら三つに分ける。一つは赤く、一つは青く染め、一つは白のままとする。でき上がったら以上の三色を混ぜる。口伝がある」という、より具体的な記述が見られる 8 。これは、核となる素材に糖蜜を掛けていくという、現代の製法にも通じる基本的な原理を示している。また、同時期の別の箇所では鶏卵素麺の製法に続けて「引き上げて金平糖をかける」という記述もあり 22 、これは金平糖がトッピングとして用いられた可能性、あるいは異なる種類の砂糖菓子を指す可能性も示唆する。

さらに時代が下り、享保3年(1718年)刊行の『古今名物御前菓子秘伝抄』には、芥子の実に煮詰めた砂糖を少量ずつ掛け、茶筅でかき混ぜて作るという金平糖の製法が記されている 23

これらの史料に見られる製法の記述の差異は、江戸初期の金平糖製造技術がまだ発展途上にあり、地域や職人によって様々な試みがなされていたこと、あるいは口伝や伝聞に基づく情報が混在していたことを示しているのかもしれない。井原西鶴の記述は、そのような時代背景の中で、文学的な脚色と実際の製法に関する知識が入り混じったものとして捉える必要があるだろう。

特徴的な突起(角)の形成と技術的側面

金平糖の最も顕著な外見的特徴は、その表面に見られる多数の凹凸状の突起、いわゆる「角(つの)」あるいは「イガ」である。この独特の形状は、核となる小さな粒(ケシの実、胡麻、あるいは現代ではザラメ糖やイラ粉など)を回転する銅鑼(どら)と呼ばれる釜に入れ、加熱しながら糖蜜を少量ずつ繰り返し掛けていく過程で、自然に形成される 1

美しい角を均一に、そして数多く形成するには、極めて高度で繊細な技術が要求される。釜の傾斜角度、回転速度、糖蜜の濃度や温度、そして掛ける量やタイミングなど、多くの要素を職人の経験と勘によって精密に制御する必要がある 7 。これらの条件がわずかでも狂うと、角のないただの丸い砂糖の塊になってしまうという 7

興味深いことに、金平糖の原型とされるポルトガル本国の「コンフェイト」には、日本の金平糖に見られるような鋭く多数の突起はあまり顕著ではないとされている 5 。このことから、金平糖の象徴とも言えるこの「角」は、日本に伝わった後に、日本の職人たちの手によって独自に改良され、洗練された技術の成果である可能性が高い。これは、外来の文化や技術を単に模倣するのではなく、日本人の繊細な美意識や高度な職人技をもって、より精緻で美しいものへと昇華させていくという、日本文化の特質の一端を示しているのかもしれない。金平糖の角は、機能的な必要性から生まれたというよりも、見た目の美しさや愛らしさ、そして製造技術の高度さを示す象徴として、日本で特に重視され、発展したと考えられる。

5. 歴史的文献に見る金平糖

戦国時代から江戸時代にかけての金平糖の姿は、当時の宣教師の記録や、国内の様々な文献を通じて垣間見ることができる。これらの記述は、金平糖が当時の社会でどのように認識され、扱われていたかを具体的に示している。

ルイス・フロイス『日本史』における記述の分析

イエズス会宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』は、戦国時代の日本の社会、文化、そして主要な出来事に関する極めて貴重な一次史料である。既述の通り、この『日本史』には、永禄12年(1569年)にフロイス自身が織田信長に金平糖を献上した際の詳細な記録が含まれている 1

この記録によれば、献上された金平糖は「フラスコ(ガラス瓶)」に入れられており、ろうそく数本と共に信長へ贈られた 1 。ガラス瓶という容器は、金平糖が貴重品として丁寧に扱われていたことを物語っている。信長の反応については、後世の解説や逸話では「たいそう喜んだ」 15 、「驚いた」 14 などと様々に伝えられている。フロイス自身の記述が、信長の感情をどの程度具体的に描写しているかについては、翻訳によってニュアンスが異なる可能性があり、慎重な解釈が求められる 16 。宣教師側の視点からの記録であるため、献上の成果を肯定的に記述する傾向も考慮に入れる必要があるだろう。

しかしながら、フロイスの記録は、金平糖が16世紀後半の日本に確かに存在し、かつ外交儀礼という重要な場面で役割を果たしたことを示す動かぬ証拠である。この献上という行為自体が、金平糖の当時の価値と、宣教師たちの戦略的意図を如実に物語っていると言える。

その他の古記録に見る金平糖の姿

ルイス・フロイスの記録以外にも、江戸時代に入ると国内の文献にも金平糖に関する記述が現れ始める。これらの記録は、金平糖が日本の社会や文化に徐々に浸透していく様子を伝えている。

寺島良安によって正徳2年(1712年)に成立した百科事典『和漢三才図会』には、「糖花(こんぺいとう) 渾兵糖(俗稱)」という項目があり、その製法として「大白沙糖〔前法と同様に卵をつかって製する〕に麪(こむぎこ)〔少し〕を入れ、ほぼ煎(い)って膏のようにする」と記されている。また、長崎が金平糖製造の名産地であったことにも言及しており、京や大坂でも作られていたが長崎のものにはやや劣ると評価されている 8 。これは、江戸時代中期における知識人の金平糖に対する認識を示す貴重な記録である。

また、享保3年(1718年)刊行の製法書『古今名物御前菓子秘伝抄』には、芥子の実を芯にして煮詰めた砂糖を少量ずつ掛けて作るという、より具体的な金平糖の製法が記されている 23 。これは、金平糖の製造技術が専門的な知識として確立され、伝承されようとしていたことを示唆している。

これらの江戸時代の文献に見られる金平糖の記述は、製法のバリエーションの存在(例えば芯の違いや糖蜜の扱い方)、生産地による品質の差異、そして知識人による分類や記録の試みなど、多岐にわたる情報を提供している。戦国時代に異国の珍しい菓子として伝来した金平糖が、江戸時代を通じて日本の社会や文化の中に徐々に根付き、知識として体系化され、また製造技術としても定着していく過程を、これらの古記録は映し出しているのである。

6. 戦国時代における金平糖の文化的・社会的意義

戦国時代に日本にもたらされた金平糖は、単なる甘い菓子という存在を超え、当時の社会状況や文化の中で特有の意義を持っていた。それは贈答品としての役割、茶の湯文化との関わり、そして薬としての認識の可能性といった側面に見て取ることができる。

贈答品としての役割と政治的背景

前述のルイス・フロイスによる織田信長への金平糖献上の事例が示すように、金平糖は当時の日本において極めて価値の高い贈答品として機能していた 15 。戦国時代は、群雄が割拠し、武力による抗争が絶えない一方で、外交交渉や情報収集もまた活発に行われた時代であった。特に、織田信長のような先進的な気風を持ち、新しい文物や海外の情報に強い関心を示す武将にとっては、南蛮渡来の珍品は魅力的なものであったろう 17

イエズス会をはじめとするキリスト教宣教師たちは、日本での布教活動を進めるにあたり、信長のような有力な大名の保護や許可を得ることが不可欠であった。そのため、彼らは日本の権力者の歓心を得るべく、ヨーロッパの珍しい品々を献上した。金平糖もまた、その希少性と異国情緒から、有力者への効果的な贈物として選ばれたと考えられる 15

このように、戦国時代の緊迫した政治状況下において、金平糖のような異国の珍品は、単に文化的好奇心を満たすだけでなく、相手の心証を良くし、交渉を有利に進めるための「ソフトパワー」として機能した側面があったと言える。高価で美しい金平糖は、相手に対する敬意を示すと同時に、献上者側が持つ文化水準の高さや、もたらし得る利益(例えば、さらなる珍しい物品や海外の情報など)を間接的にアピールする手段ともなった。これは、現代の外交儀礼における贈答にも通じる、人間関係構築のための普遍的な戦術の一環と見なすことができるだろう。

茶の湯文化における受容の可能性

戦国時代は、茶の湯が武士階級を中心に大きく発展し、千利休らによってその精神性や様式が深化・確立された時期でもある。このような時代背景の中で、南蛮菓子である金平糖が茶席でどのように受容されたかについては、興味深い論点である。

一般的に、金平糖が茶席菓子として広く用いられるようになるのは江戸時代以降であるとする記述が多い 11 。しかし、千利休自身が新しいものや珍しいものを積極的に茶の湯に取り入れたという逸話も残されており 11 、当時の茶人たちの間に南蛮文化への関心が高まっていたことを考慮すると、一部の先進的な茶人の間で金平糖が試みられた可能性は完全に否定することはできない。

農畜産業振興機構のウェブサイト掲載の記事では、18世紀中頃の京都の菓子屋「亀屋清永」の記録に、千利休が茶席で金平糖を用いたという逸話が残されていると指摘している 11 。ただし、この記録が戦国時代の利休の実際の行為を指すものなのか、あるいは後世に形成された伝承であるのかについては、慎重な検討が必要である。他の資料では、利休が茶会で頻繁に用いた菓子として「ふの焼き」などが挙げられることが多く 15 、金平糖に関する直接的かつ同時代の記録は少ないのが現状である。

茶席で用いられる菓子には、単に味が良いということだけでなく、茶との調和、季節感の表現、菓子の由来や銘(菓子の名前に込められた意味や背景)などが重視される。金平糖が、戦国時代の時点でこれらの要素をどの程度満たし得たのかは定かではない。また、その極めて高い価格と入手困難さを考えれば、日常的な茶会で頻繁に用いられることは難しかったと推測される。

したがって、戦国時代の茶の湯における金平糖の受容については、史料的に確たる証拠は乏しいものの、当時の茶の湯が持っていた革新性や、一部の茶人が抱いていた南蛮文化への関心の高さを踏まえれば、非常に特別な機会や、特に先進的な気風を持つ茶人に限って試用された可能性は残されている。しかし、本格的な茶席菓子としての定着は、砂糖の供給がより安定し、国内での金平糖生産が広がりを見せる江戸時代以降を待つ必要があったと考えるのが自然であろう。

薬としての認識はあったか

金平糖の主原料である砂糖は、日本に伝来した当初、甘味料としてよりもむしろ「薬」として扱われていた歴史的背景がある 11 。この事実は、金平糖が戦国時代において薬として認識されていた可能性を考察する上で重要な視点となる。

文化庁の資料に引用されている橋爪伸子氏の論考によれば、江戸時代中期の金沢藩の御膳方であった舟木伝内包早が著した『料理無言抄』(享保14年/1729年)において、金平糖、有平糖、金花糖などが、中国の薬学書『本草綱目』における「饗餹(きょうとう)」の日本の例として解釈されていることが指摘されている 30 。『本草綱目』は慶長12年(1607年)に日本に伝来しており、江戸時代の医学や本草学に大きな影響を与えた。この「饗餹」という項目で砂糖菓子が言及されていることは、砂糖や砂糖菓子が薬学的な文脈で捉えられていたことを示唆している 30

また、時代は下るが、金平糖が滋養強壮の目的で帝国陸軍の携行食である乾パンに添えられていたという事例もあり 31 、栄養補給としての側面が後世には明確に認識されていたことがわかる。

戦国時代に金平糖が具体的にどのような病気や症状に対する「薬」として処方されたか、といった直接的な記録は見当たらない。しかし、主原料である砂糖が持つ薬としての歴史的背景や、希少で高価な「甘味」が持つ滋養強壮的なイメージから、金平糖が間接的に健康や活力に良いものと捉えられた可能性は十分に考えられる。甘味はエネルギー源であり、疲労回復などに効果があることは、当時の人々も経験的に理解していたであろう。

したがって、戦国時代において金平糖が明確な薬効を期待されて用いられたというよりは、貴重な砂糖を摂取することによる滋養強壮的な効果や、珍しい美味なものを食することによる気分の高揚などが、広義の「健康によいもの」「活力の源」といった認識に繋がったのではないかと推測される。

7. 結論:戦国時代の金平糖が後世に遺したもの

戦国時代に日本にもたらされた金平糖は、単なる異国の菓子という枠を超え、当時の社会や文化に多大な影響を与え、その後の日本の菓子文化の発展にも寄与した。

歴史的意義の総括

戦国時代の金平糖は、まず第一に、日本と西洋との初期接触における文化交流の具体的な象徴であったと言える。ポルトガル人宣教師を通じて伝えられたこの菓子は、未知の製法と味わいを持ち、当時の日本人にとっては驚きと好奇心の対象であった。その希少性と価値の高さは、当時の日本の経済状況、特に砂糖の入手が困難であったこと、そして国際関係の一端を如実に反映している。

特に、織田信長への献上という出来事は、金平糖が歴史の表舞台に登場した象徴的な瞬間であった。これは、金平糖が単なる嗜好品ではなく、外交や交渉の場で重要な役割を果たすほどの価値を認められていたことを示している。この出来事はまた、その後の日本における南蛮菓子の受容と発展の端緒を開いたと言えるだろう。

日本の菓子文化への影響

金平糖の伝来は、日本の菓子文化にいくつかの重要な影響を与えた。最も大きな影響の一つは、「砂糖を多量に使用する」という新しい菓子の概念をもたらしたことである 26 。それまでの日本の伝統的な甘味料は飴や甘葛(あまづら)などが主であり、砂糖をふんだんに使った菓子は目新しいものであった。この新しい甘味の体験は、後の和菓子の多様化と洗練に繋がる一つの契機となった。

金平糖の製法技術は、当初は秘伝とされ、長崎を中心とした限られた地域でのみ知られていたが、時間をかけて徐々に京都や江戸など各地へ広まっていった。そして、江戸時代には庶民にもその名が知られる菓子へと発展していく礎が築かれたのである。

さらに、金平糖の持つ独特の突起のある形状や、色とりどりの美しさは、日本人の繊細な美意識と結びつき、単なる模倣に終わらない日本独自の発展を遂げた。特に、あの象徴的な「角」の形成は、日本の職人の高度な技術と美意識の結晶であり、外来の文化を巧みに取り込み、自国の文化として昇華させる日本の文化受容のあり方を示す好例と言える。

総じて、戦国時代に伝来した金平糖は、一過性の異国の珍品として消え去ることなく、その後の日本の菓子文化に対し、砂糖の利用法、菓子の種類の多様化、そして製菓技術の発展という点で、長期的かつ深遠な影響を与える萌芽となったのである。それは、日本の食文化が外来の要素を柔軟に受け入れ、独自のものへと変容させていくダイナミズムを象徴する存在として、今日に至るまで語り継がれている。

引用文献

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