最上義光所用「三十八間総覆輪筋兜」は、室町後期の技術と桃山文化が融合。信長拝領説や慶長出羽合戦の弾痕が物語る。義光の武と文を体現し、実用性と美意識を刻んだ歴史的遺産。
戦国時代の武将、最上義光。その名を冠する一領の兜は、単なる頭部を守る防具としての機能を超え、時代の技術、美意識、そして所有者個人の物語を雄弁に語る「歴史の証言者」である。山形市最上義光歴史館に収蔵されるこの兜は、室町時代の伝統的な甲冑製作技術を基盤としながら、戦国の気風と桃山文化の華やかさを取り入れた、極めて多層的な文化遺産として存在する。織田信長からの拝領という権威ある伝承、慶長出羽合戦で敵弾を受けたという武勇の逸話、そして所有者自身の手による改変の痕跡は、この兜に比類なき個性を与えている。本報告は、この「三十八間総覆輪筋兜」を多角的に分析し、その来歴、構造と意匠、戦場での逸話、そして兜に込められた最上義光の思想と美学を徹底的に解き明かすことを目的とする。
一領の兜が経てきた歴史的変遷を、公式な記録から人口に膾炙した伝承までを網羅的に追跡し、その出自と価値がいかに形成されてきたかを明らかにする。
この兜は、長らく「三十八間金覆輪筋兜(さんじゅうはちけんきんぷくりんすじかぶと)」の名で知られてきた。しかし、平成20年(2008年)11月に山形市の有形文化財に指定される際、その構造をより正確に反映した「三十八間総覆輪筋兜(さんじゅうはちけんそうふくりんすじかぶと)」へと正式名称が変更された 1 。この変更は、単なる呼称の修正ではない。「総覆輪」とは、兜の筋だけでなく、鉢の下部全周を飾る金具(斎垣)にも覆輪(金属の薄板による縁取り)が施された、より格式の高い豪華な仕様を指す言葉である 3 。文化財指定という公的な評価の過程で兜の構造が再検討され、美術工芸品としての価値がより正確に定義されたことを示しており、この兜の格式が一層明確になったと言える。
現在、この兜は山形県山形市にある最上義光歴史館に収蔵され、同館を象徴する中心的な展示品として、その威容を伝えている 4 。
この兜の来歴を語る上で欠かせないのが、天下人・織田信長から拝領したものであるという伝承である 1 。この伝承は、最上家に家宝として代々受け継がれる中で、兜の権威性を高める重要な要素として機能してきた。天正年間、信長が中央の覇者として絶大な影響力を行使していた時代、出羽の有力大名であった最上家にとって、信長との結びつきを可視化する拝領品を持つことは、周辺勢力に対する大きな権威付けとなった。この兜は、その関係性を象徴する「政治的シンボル」としての役割を担っていた可能性がある。
ただし、この拝領説はあくまで「伝えられる」ものであり、同時代の一次史料によって裏付けられたものではない。しかし、伝承の真偽を問う以上に、なぜそのような伝承が生まれ、語り継がれたのかを考察することに意義がある。戦国時代から江戸時代にかけて、武具の価値はその性能だけでなく、「誰から与えられたか」という来歴によっても大きく左右された。この伝承の存在自体が、当時の武家社会における価値観を色濃く反映しており、兜の物語性を豊かにしている事実は重要である。
信長拝領説の真偽はともかく、この兜が最上家の家宝として代々伝えられてきたことは確かである 6 。そして近代に至り、第47代当主最上公義氏から山形市へ寄贈された 7 。これにより、兜は一個人の所有物から市民共有の文化財へとその位置づけを変え、永く後世に伝えられる道が開かれた。
寄贈された当時、兜は本来の姿を一部失っていた。兜の顔とも言うべき前立(まえだて)の、左右に広がる「鍬形(くわがた)」と中央の「利剣(りけん)」が欠失していたのである 6 。この失われた部分を復元し、義光が用いた往時の姿を取り戻すべく、寄贈を機に平成20年(2008年)3月、復元作業が開始された 1 。作業は東京国立博物館内の工房で行われ、厚紙で型紙を起こし、それに基づいて銅板で三鍬形を製作、表面には消鍍金(けしめっき)という伝統技法を用いて鍍金加工が施された 8 。この学術的考証に基づいた復元作業によって、兜はかつての勇壮な姿を取り戻し、文化財としての価値を一層高めることになった。これは、単に失われた部分を補うだけでなく、兜が本来持つ美意識と格式を現代に蘇らせる、積極的な文化財保護の実践例として高く評価される。
兜を構成する各要素を詳細に分析し、そこに込められた技術と美意識を解き明かす。室町後期の伝統的な様式を基礎としながら、戦国末期から桃山時代にかけての革新的な気風を取り入れた、ハイブリッドな造形美に迫る。
兜の本体である鉢は、38枚の細長い鉄板を鋲で留め合わせて構成される「三十八間筋兜」である 9 。筋兜は、平安時代から続く星兜(ほしかぶと)の鋲の頭を大きく見せる重厚な造りとは異なり、鋲の頭を表面に出さず、鉄板の縁(へり)を立てて筋とすることで軽量化と製作の効率化を図った形式で、南北朝時代頃から普及した 3 。本兜の鉢は室町時代後期の作とされ、当時流行した様式に則っている 6 。
この兜の最大の特徴の一つが、その名の由来ともなった「総覆輪」という豪華な装飾技法である。鉢の表面は黒漆で仕上げられ、その上に走る38本の筋の一本一本に、金の覆輪が施されている。覆輪とは、金属の薄板で器物の縁を装飾的に縁取る技法で、美観を高めると同時に補強の役割も果たした 12 。本兜が「総覆輪」と称されるのは、この筋の部分だけでなく、鉢の裾(こしまき)の部分にも「斎垣(いがき)」と呼ばれる装飾金具と覆輪が巡らされているためであり 3 、これは上級武将が用いる格式の高い兜であったことを明確に示している。
表1:三十八間総覆輪筋兜の物理的仕様
項目 |
詳細 |
典拠 |
正式名称 |
三十八間総覆輪筋兜(さんじゅうはちけんそうふくりんすじかぶと) |
1 |
文化財指定 |
山形市指定有形文化財(工芸品)、平成20年(2008年)11月指定 |
1 |
所用者 |
最上義光(もがみ よしあき) |
4 |
時代 |
兜鉢:室町時代後期(16世紀)、仕立て直し:桃山時代 |
6 |
所蔵 |
最上義光歴史館(山形県山形市) |
4 |
構造 |
鉄黒漆塗三十八間総覆輪筋兜鉢 |
9 |
法量(寸法) |
鉢高:13.2 cm、鉢前後径:22.0 cm、鉢左右径:20.3 cm、𩊱丈:14.3 cm |
9 |
重量 |
3.1 kg |
16 |
前立 |
菊透三鍬形(きくすかしみつくわがた)(平成20年復元) |
1 |
特徴 |
慶長出羽合戦時の弾痕、最上家家紋「竹に雀」の金具 |
6 |
平成20年(2008年)に復元された前立は、この兜の格式と美意識を象徴する部分である。その形式は、左右に大きく広がる一対の鍬形と、中央に天を突く利剣を配した「三鍬形」であり、室町時代末期の兜に見られる典型的な様式である 15 。
鍬形を据える「鍬形台」には、枝菊文様の精巧な高肉透彫が施されている 15 。菊は古来、高貴さや長寿、邪気払いを象徴する吉祥文様であり、その優美な意匠は桃山時代の刀装具などにも好んで用いられた 18 。武具でありながら、極めて高い芸術性をも併せ持っていることがわかる。
さらに注目すべきは、中央に配された利剣である。これは不動明王などの仏尊が持つ、衆生の煩悩や魔を断ち切る智慧を象徴する法具である。その柄の部分は、密教法具である「三鈷杵(さんこしょ)」の片側をかたどった「三鈷柄(さんこえ)」の形状をしており 15 、この兜が単なる武威の象徴ではなく、所有者である武将の敬虔な信仰心と、破邪顕正の願いが込められた護符としての役割も担っていたことを示唆している。武威の象徴たる鍬形、芸術性を示す菊の透かし彫り、そして宗教的な祈願を込めた利剣という三つの要素の融合は、戦国武将の複雑な精神世界を見事に体現している。
なお、この前立の復元にあたっては、鹿児島神宮所蔵の国指定重要文化財「色々威胴丸(兜・大袖付)」や、長崎県の松浦史料博物館が所蔵する「紺糸肩取威総覆輪筋兜」など、同時代の現存する優品が参考にされており、その歴史的考証に基づいた再現性の高さも特筆される 9 。
この兜は、単一の時代に作られた完成品をそのまま使用したものではない。室町時代後期に作られた兜鉢を元に、所有者である最上義光自身が、自らの好みと時代の要請に応じて手を加えた「編集(キュレーション)された作品」である点に、極めて大きな価値がある。
第一に、首周りを防御する「𩊱(しころ)」の仕立て直しが挙げられる。室町時代後期の筋兜には、本来、肩を広く覆うように扁平に広がった「笠𩊱(かさじころ)」が付けられるのが通例であった 9 。笠𩊱は、弓矢が主体の騎馬戦において高い防御力を発揮したが、槍や刀を用いた徒歩での近接戦闘が主流となると、腕の動きを阻害するため不利になった 22 。義光は、この古い様式の𩊱を、より軽量で首の動きを妨げない、戦国末期に流行した「当世風の上品で機能的なもの」に付け替えている 15 。これは、合戦様式の変化という時代の潮流を的確に捉えた、実用性を重視する義光の合理的な判断を示す物理的な証拠である。
第二に、アイデンティティの刻印である。義光は、兜の顔の一部である「眉庇(まびさし)」を黒漆で塗り直し、さらに鍬形台の中央を留める鋲を、最上家の家紋の一つである「竹に雀」をあしらった特注の金具に付け替えた 15 。ちなみに最上家は、この「竹に雀」の他に、足利将軍家の一族であることを示す清和源氏由来の「丸に引両」も家紋としている 16 。既存の名品をそのまま使うのではなく、最新の機能性を付与し、自らの出自の証を明確に刻み込むことで、義光はこの兜を唯一無二の「自身の兜」へと昇華させたのである。これは、戦国武将が武具をいかにパーソナルな自己表現の道具として捉えていたかを示す好例と言える。
この兜が持つ数多の魅力の中でも、最も劇的な物語を宿しているのが、その表面に生々しく残る「弾痕」である。この痕跡は、兜が単なる儀仗品ではなく、死線を潜り抜けた実戦の道具であったことを何よりも雄弁に物語る。
この弾痕が刻まれた舞台は、天下分け目の関ヶ原の戦いと連動して、慶長5年(1600年)に出羽国で勃発した「慶長出羽合戦」、特にそのクライマックスである長谷堂城の戦いである 1 。東軍に属した最上義光は、西軍の名将・上杉景勝とその家宰・直江兼続が率いる大軍を相手に、絶望的な兵力差の中で籠城戦を戦い抜いた。
伝承によれば、この戦いの最中、富神山周辺での乱戦において、義光は敵将・直江兼続が率いる鉄砲隊による狙撃を受けた 2 。放たれた弾丸は義光の兜に命中するも、その堅牢さによって貫通を免れ、義光は九死に一生を得たとされる 1 。この時の衝撃は、兜鉢の筋の上に装飾的に取り付けられていた「篠垂(しのだれ)」という金物の一条が失われるほど凄まじいものであった 2 。
この逸話は、単なる言い伝えではない。兜鉢の正面右側には、今なおその時のものとされる弾痕が生々しく残っており 16 、この兜が経験した激戦の苛烈さを現代に伝えている。
美術工芸品において「傷」は通常、その価値を損なう欠点と見なされる。しかし、この兜においては、弾痕という「傷」こそが、その価値を飛躍的に高める最大の魅力となっている。この文化的メカニズムは、傷が単なる損傷ではなく、歴史的物語を証明する「物証」として機能している点に起因する。
この弾痕は、第一に、当時の火縄銃の威力を受け止め得た筋兜の防御性能を具体的に示す、貴重な物理的証拠である。重量3.1 kgにも及ぶ鉄の塊が 16 、実際に所有者の命を救ったという事実は、この兜が単なる美術品ではなく、信頼に足る武具であったことを証明している。
第二に、この「被弾」というエピソードは、兜に「義光の命の恩人」という強力な物語性を付与した。特に、その一撃を放ったのが、義光の宿敵であり、当代きっての智将として知られる直江兼続の精鋭部隊であったという点が、物語に劇的な緊張感と高い価値を与えている 2 。もし無名の足軽による一撃であったならば、逸話の魅力は大きく異なっていたであろう。武具の価値は、その所有者だけでなく、対峙したライバルの格によっても高められるという、興味深い関係性が見て取れる。この弾痕は、最上義光の武勇、慶長出羽合戦という歴史的大事件、そして直江兼続という好敵手という三つの要素を結びつける「物語の結節点」として機能し、兜を静的な「モノ」から、歴史のダイナミズムを内包した動的な「語り部」へと昇華させているのである。
兜は、所有者である最上義光の人物像、彼が生きた時代の価値観、そして同時代の武将たちとの比較を通じて、その思想的・美学的な側面を深く映し出す鏡となる。
戦国時代、兜は単なる防具ではなかった。広大な戦場で自らの存在を誇示し、部隊を統率し、敵味方に識別させるための重要な「記号」であった 24 。特に、武将の兜はその人物の象徴(アイコン)そのものであり、討ち取った際には手柄の証明である「兜首」として主君に献上された 24 。
このような背景から、戦国末期には武将たちが自らの個性や思想、信仰を反映させた奇抜な意匠の「変わり兜」を競って製作する流行が生まれた 25 。本兜は、動植物などを直接的に模した奇抜な造形ではない。しかし、義光による積極的な改変、すなわち実用性を追求した錣(しころ)への変更や、自らの出自を示す家紋の追加は、この「自己表現としての武具」という大きな潮流の中に明確に位置づけることができる。伝統的な筋兜という格調高いフォーマットを尊重しつつ、そこに自らのアイデンティティを刻み込むという手法は、奇抜さとは異なる、洗練された自己表現と言えよう。
最上義光の人物像は、勇猛な「武」の側面だけで語ることはできない。彼は当代一流の「文」を修めた文化人でもあった。特に和歌の下の句に上の句を付けて詠み継いでいく「連歌」の腕前は高く評価されており、連歌界の第一人者であった里村紹巴(さとむら じょうは)をはじめ、細川幽斎、黒田如水といった錚々たる大名・文化人たちと席を共にしている 30 。現在確認されているだけでもその作品は33巻、約250句にのぼり、質・量ともに同時代の諸侯の中で群を抜いている 31 。
また、義光自身やその一族が茶の湯に深く通じていたことも史料からうかがえる 16 。茶の湯は、当時の武将にとって重要な政治・外交の舞台であり、自身の美意識を磨く場でもあった 34 。義光のこうした文化的素養が、本兜の洗練された意匠選択に影響を与えたことは想像に難くない。例えば、前立に採用された「菊透し」のような繊細な金工の美を評価する審美眼や、室町時代の伝統的な兜を基盤としながらも、当世風に仕立て直すという絶妙なバランス感覚は、彼の文化人としての一面と無関係ではないだろう。この兜は、義光の「武」と「文」の両面を見事に体現する存在なのである。
この兜が持つ思想性をより深く理解するため、同時代を生きた二人の重要な武将、甥の伊達政宗と宿敵の直江兼続の兜と比較考察する。
甥・伊達政宗の兜との比較
義光の妹・義姫を母に持つ甥の伊達政宗。彼らの兜には、興味深い共通点と対照的な相違点が見られる。共通点として、義光が仕立て直した𩊱の形状が、政宗が好んだ兜の𩊱と類似している点が指摘されている 9。これは、伯父と甥という血縁関係を超え、当時の奥羽地方の有力武将の間に共通した「当世風」の美意識が存在したことを示唆している。
一方で、兜の思想性を最も雄弁に物語る前立において、両者は全く異なるアプローチを見せる。政宗の兜は、黒漆塗の鉢に、巨大で非対称な金色の三日月を掲げるデザインが象徴的である。この三日月は、彼が深く信仰した「妙見信仰」(北極星や月を神格化する信仰)と、既存の権威に頼らず自らの力で天下を目指すという強烈な「個」の野心を象徴している 25 。対照的に、義光の兜は、三鍬形という伝統的な形式を踏襲し、その中心に自らの「家」の出自を示す家紋「竹に雀」を据えている 15 。これは、足利一門という伝統的権威を自らの力の源泉とする、家門を重んじる姿勢の表れである。流行のスタイル(𩊱)は共有しつつも、兜の中心思想において、義光は「家」を、政宗は「個」をそれぞれ表現しており、奥羽の覇権を争った二人の武将の思想的スタンスの違いを鮮やかに浮き彫りにしている。
宿敵・直江兼続の兜との比較
慶長出羽合戦で義光と死闘を繰り広げた直江兼続の兜は、前立に大きく「愛」の一文字を掲げる、極めて観念的でイデオロジカルなデザインで知られる 26。この「愛」の文字が、軍神である「愛宕権現(あたごごんげん)」を指すのか、あるいは仁愛の精神を示すものかについては諸説あるが 38、いずれにせよ抽象的な理念を兜のデザインの中心に据えている点で、義光の兜とは好対照をなす。
義光の兜が「伝統と格式、そして家の出自」という具体的な権威を表現しているのに対し、兼続の兜は「信仰と理念」という抽象的な精神性を表現している。この比較を通じて、戦国武将の自己表現がいかに多様であったか、そしてそれぞれの兜が独自の思想的背景を持っていたかがより明確になる。
最上義光所用「三十八間総覆輪筋兜」は、単なる一武将の遺品という範疇を遥かに超える、重層的な価値を内包した文化遺産である。その分析を通じて見えてきたのは、この兜が、室町後期から桃山時代へと至る甲冑製作技術と美意識の変遷、騎馬戦から徒歩戦へという合戦様式の変化、そして火縄銃の登場という、戦国時代の大きな歴史的ダイナミズムを一身に体現しているという事実である。
さらにこの兜は、所有者である最上義光という一人の人間の、複雑で多面的な肖像を見事に描き出している。慶長出羽合戦の弾痕は彼の武人としての勇猛さを、実用性を重視した𩊱の改変は統治者としての現実主義を、そして洗練された菊透しの前立や伝統と革新を両立させた全体の構成は、連歌や茶の湯を嗜んだ文化人としての高い感性を、それぞれ物語っている。彼は伝統を尊重しつつも、時勢を読んで革新を取り入れる「保守的革新」とも言うべきバランス感覚の持ち主であり、この兜はその思想を体現する鏡であった。
弾痕の残る武骨な兜鉢、復元によって蘇った壮麗な三鍬形、そして所有者の手によって丹念に仕立て直された各部の意匠。その全てが一体となり、戦国という時代の熱気と、最上義光という稀代の武将が生きた確かな証を、現代に力強く伝えているのである。