本報告書は、日本の茶道文化において重要な役割を果たした小堀遠州の作と伝わる、一重切(いちじゅうぎり)の竹花入「雪折(ゆきおれ)」について、現時点で入手可能な情報を整理し、その歴史的および美術的意義を考察することを目的とする。本報告書の出発点となるのは、利用者より提供された「一重切の竹花入。名は雪に折れた竹を切って作ったことにちなむ。小堀遠州の作という」という補足情報である。
「雪折」に関する直接的な一次資料の現存は、本調査の範囲では確認されていない。この現状を踏まえ、本報告書では、作者とされる小堀遠州の人物像とその作品群、竹花入の一般的な歴史、特に「雪折」が属するとされる一重切という様式、そして「雪折」という名称が示唆する背景や素材の特性などを多角的に調査する。これにより、関連する文献資料や類似作例の分析を通じて、「雪折」の具体的な姿やそれが持つ美意識について総合的に迫るアプローチを取る。
「雪折」という名称は、その文字通り、雪の重みによって自然に折れた竹を素材として製作されたことに由来すると伝えられている。実際に、竹林は積雪や凍雨による雨雪氷掛の機械的危害を受け、竹が折損することは珍しくない 1 。このような自然現象によって生じた竹材の入手は十分に可能であったと考えられる。この種の竹材は、通常の伐採によるものとは異なり、自然の力が加わった特異な形状や景色を持つことが期待される。
「雪折竹」や「雪折」といった言葉は、古くから俳句の季語や題材としても詠まれており、冬の厳しい自然の情景や、そこに潜む風情を想起させるものであった 2 。このことは、「雪折」という名称が単に素材の由来を示すだけでなく、詩的な響きや、自然の力に対する畏敬の念、そしてその中に美を見出す日本的な感性と結びついていた可能性を示唆する。
素材の選択において「雪折れ」の竹を用いたことは、単なる材料調達を超えた意味合いを持つ。それは、自然の偶発性によって生じた形や景色を尊び、それを茶道具として取り込むという、日本の茶道における「見立て」の精神に通じる美意識の現れと言えるだろう。千利休が日常的な器や自然物の中に美を見出したように 4 、雪によって折れた竹は、その形状や表面の風合い、さらにはその竹が経験した「雪に耐え、そして折れた」という物語性をも作品に取り込む行為であったと考えられる。このような背景を持つ道具は、茶席における対話や道具の由緒を一層豊かなものにする要素となったであろう。
利用者より提供された情報に基づき、「雪折」は「一重切」の竹花入であると確認される。一重切とは、竹花入の基本的な形式の一つであり、多くは竹の根に近い部分を用い、二節以上を残して、前面に横一文字の窓(花を生けるための切り込み)を一つだけ深く設けたものを指す。通常、上端の口縁部には節を残して作られるのが特徴である 8 。
この一重切の様式は、茶の湯の歴史において重要な位置を占める。千利休が天正10年代(1582年頃)に創始したとされ、特に天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の折、利休が伊豆韮山(にらやま)で竹を切り出して製作した花入(後に「園城寺」や「尺八」などの銘で知られるようになるもの)が、その代表作として名高い 11 。したがって、「雪折」が一重切の形式をとるということは、利休以来の竹花入の伝統に連なるものであることを示している。
「雪折」の作者は、小堀遠州(1579年~1647年)と伝えられている。小堀遠州、名は政一(まさかず)、号は宗甫(そうほ)、孤篷庵(こほうあん)など。江戸時代初期を代表する大名茶人であり、作事奉行として江戸城や駿府城の修築、名古屋城の天守閣の設計などにも関わった武士であった 13 。同時に、茶の湯のみならず、作庭、建築、書、和歌、陶芸の指導など、多岐にわたる分野で卓越した才能を発揮し、当代随一の文化人として「綺麗さび」と称される独自の美意識を確立した 15 。
利用者からの照会には「戦国時代の『雪折』」という記述が見られるが、小堀遠州の主な活躍時期は江戸時代初期(慶長年間から寛永年間にかけて)である。一般的に戦国時代は応仁の乱(1467年)から元和偃武(1615年、大坂夏の陣の終結)までとされることが多く、遠州の活動開始時期と戦国時代の終焉は一部重なる。
この時代区分に関しては、いくつかの可能性が考えられる。第一に、「雪折」の素材となった竹が戦国時代末期、すなわち遠州の青年期以前に見出され、それを遠州が後年、江戸時代初期に花入として製作した可能性。第二に、「戦国時代」という言葉が、織田信長や豊臣秀吉が活躍し、桃山文化が花開いた気風や時代精神を広義に指して用いられている可能性。第三に、後世の伝承の中で、製作時期に関する認識に若干のずれが生じた可能性である。
いずれにせよ、この時期は、茶の湯文化が武野紹鴎(たけのじょうおう)や千利休によって大きく発展し、侘び茶が大成された時代であり 4 、その流れを古田織部(ふるたおりべ)が継承し、さらに小堀遠州へと引き継がれていく、茶道史上極めて重要な過渡期であった 15 。
「雪折」という、自然の力強さや厳しさを内包する素材の選択は、戦国時代の荒々しい気風や、そこから泰平の世へと移行する中で求められた新たな美意識と関連付けて考えることができるかもしれない。過酷な自然現象を乗り越えた竹の姿に、動乱の世の記憶や、それを経てなお存在する生命の力強さ、あるいは静謐な美しさを見出した可能性が考えられる。千利休の「わび」、古田織部の「破格の美」といった先行する美意識を踏まえつつ、小堀遠州が自身の美学「綺麗さび」を形成していく過程で 15 、「雪折」の竹が持つ自然の荒々しさ(「さび」の要素)を、一重切という洗練された形(「綺麗」の要素)に昇華させることで、時代の求める美意識を体現しようとしたのではないだろうか。これは、自然の力と人間の作為(芸術性)との調和を試みる行為とも解釈できる。
小堀遠州(小堀政一、号は宗甫)は、近江国坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)に生まれた。父・正次は豊臣秀吉、次いで徳川家康に仕えた武将である。遠州自身も徳川家康、秀忠、家光の三代に仕え、備中松山藩主、後に近江小室藩主となるなど、武家としての高い地位を築いた 13 。
しかし、遠州の名声を今日に伝えるのは、むしろ文化人としての側面である。彼は千利休の直弟子である古田織部に茶の湯を学び、利休、織部と続く茶道の系譜に新たな展開をもたらした 20 。将軍家の茶道指南役を務め、多くの大名や公家、文化人たちと幅広い交友関係を持ち、茶会を催す中で、当代の文化に指導的な役割を果たした 14 。遠州が確立した茶風は「遠州流」として今日に受け継がれ、その美意識は「綺麗さび」という言葉で象徴される 15 。
「綺麗さび」は、小堀遠州の美意識を最もよく表す言葉として知られている。この「綺麗」とは、単なる華美や装飾性を指すのではなく、洗練され、垢抜けた、調和のとれた明るい美しさを意味する、当時の褒め言葉であった 16 。遠州が生きた寛永年間を中心とする江戸時代初期は、戦国の動乱が終わり、泰平の世へと移行する時期であり、社会全体が安定と豊かさを求め始めた時代であった。このような時代背景の中で、遠州は千利休の「わび」、古田織部の「破格の美」といった先行する美意識を批判的に継承しつつ、それらを再統合し、調和させることで、新たな茶の湯の美学を創造した 15 。
「綺麗さび」の具体的な現れとして、「満つれば欠くる」という不足の美の概念がある。これは、完全無欠なものよりも、わずかに足りない部分や、これから満ちていく過程にこそ美しさや生命力を見出すという考え方である 16 。例えば、遠州流で用いられる袱紗(ふくさ)の寸法は、縦九寸五分、横九寸とされ、二つ折りにした際に意図的に完全には重ならないように作られている。また、遠州好みの茶碗の形とされる「前押(まえおせ)」は、真円形の茶碗の正面をわずかに押し込んで窪ませたものであり、これも完璧な円形を避けることで、動きや変化の可能性を感じさせる工夫と言える 16 。
遠州の「綺麗さび」は、茶道具の選択や製作指導、作庭、建築など、彼の関わったあらゆる分野に貫かれている。特に作庭においては、「自然と人工を調和させる名手」と評され、自然の素材や景観を巧みに取り入れつつ、洗練された構成美を追求した 19 。この自然観は、「雪折」の竹という、自然の偶然が生み出した素材を、一重切という人工の技で花入に昇華させる行為とも深く関連していると考えられる。雪で折れた竹の持つ荒々しさや偶発性(「さび」の側面)を、遠州が一重切という端正なフォルムに整え、花窓を開けるという作為(「綺麗」の側面)を加えることで、素材の持つ自然の力と人間の洗練された美意識が融合し、新たな価値が生まれる。これは、「綺麗さび」の一つの具体的な表現形態と言えるだろう。
小堀遠州の作と伝えられる竹花入は、「雪折」以外にもいくつか知られている。これらの作品と「雪折」を比較検討することは、遠州の竹に対する審美眼や作風を理解する上で有益である。以下に、代表的な作例を挙げる。
表1:小堀遠州作と伝わる主な竹花入一覧
名称(読み) |
種類 |
主な特徴 |
所蔵(判明分) |
関連資料 |
打出(うちだし) |
尺八花入 |
逆竹(根元を上にした竹)を用い、節を真ん中より下に残す。花窓はなく、太い寸胴形。裏に遠州自筆の金泥銘「打出 宗甫(花押)」がある。藪内家伝来。 |
滴翠美術館 |
37 |
再来(さいらい) |
輪無二重切 |
元は二重切であったが、遠州が寸法が悪いとして上の輪を取り再生させたもの。裏に金粉字形銘「再来 宗甫」。遠州が娘婿に贈り、破損後に手直ししたと伝わる。 |
根津美術館 |
28 |
むさし鐙(むさしあぶみ) |
掛花生 |
胴の裏側に『伊勢物語』所収の和歌「むさし鐙」が金文字で書き付けられていることから命名。 |
不明 |
21 |
蓬庇(とまびさし/よもぎひさし) |
輪無二重切 |
さび竹を逆さに用い、花窓は狭く切り込む。口辺の節に擂座(すりざ)の景色。裏面に蒔絵銘「蓬」。小色紙「あれにけり塩くむ海士のとまびさし…」が添う。 |
不明 |
29 |
これらの作品群を見ると、遠州の竹花入製作における多様なアプローチがうかがえる。「打出」は竹の力強い素材感を活かした尺八形であり、「再来」や「蓬庇」は二重切から派生した輪無二重切という独特の形式をとる。「むさし鐙」は和歌という文学的要素を銘の由来としている。
「雪折」は、これらの作品と比較して、まず「雪に折れた竹」という素材の特異性が際立つ。他の作品が通常の竹材を用いているのに対し(「再来」は既存品からの改変)、「雪折」は自然現象によって生じた偶発的な素材を活かしている点が注目される。銘の付け方においても、「打出」や「再来」が形状や由来を、「むさし鐙」が文学を典拠とするのに対し、「雪折」は素材そのものの状態を直接的に示している。形状としては一重切であり、これは利休以来の伝統的な形式を踏襲している点で、「再来」や「蓬庇」の輪無二重切のような遠州独自の新しい造形とは異なるアプローチを示している。
このように比較することで、「雪折」は、遠州の作品群の中で、自然の偶然性を尊び、それを伝統的な形式の中に生かそうとした作例として位置づけられる可能性がある。
小堀遠州は、竹という素材に対して鋭い審美眼を持ち、それを自身の創作活動に積極的に取り入れていたと考えられる。江戸時代後期の大名茶人・松平不昧(まつだいらふまい)が、遠州作と伝わる竹花入を茶会で用いた記録が残っており、後世においても遠州の竹花入が高く評価されていたことがわかる 27 。
遠州の審美眼は、既存の用途や素材の一般的な評価にとらわれない自由な発想に特徴づけられる。例えば、古銅製の水瓶(すいびょう)を花入に見立てたという逸話は、彼の柔軟な美意識を示すものである 7 。「雪折」の竹もまた、通常の竹材とは異なる景色を持つものとして、遠州の審美眼によって見出され、花入としての新たな命を吹き込まれた素材であった可能性が高い。
さらに、「再来」の逸話は、遠州の創作に対する姿勢を端的に示している。門人が製作した二重切花入の出来栄えに満足せず、自ら上の輪を切り落として新たな形を創り出したというこのエピソードは 28 、遠州が既存の形式や他者の作に安住することなく、自身の美意識に基づいて大胆な改変をも辞さない革新的な精神の持ち主であったことを物語っている。このような姿勢は、「雪折」の竹という特殊な素材を前にした際にも、その特性を最大限に引き出し、独自の美を賦与する方向へと働いたであろうと推測される。
茶の湯の道具としての竹花入は、茶人自身の創作によって生まれたものである。特に、室町時代後期から安土桃山時代にかけて活躍した武野紹鴎や千利休らによって、茶の湯における「わび・さび」の精神が重んじられるようになると、竹花入もその精神性を体現するにふさわしい道具として重要視され、従来の金属製(「かね」)や陶磁器製(「焼き物」)の花入と同様に、広く用いられるようになった 4 。
記録によれば、竹筒を花入として最初に取り入れたのは武野紹鴎とされている。これを受けて、千利休が竹筒に花窓(はなまど)と呼ばれる切り込みを設け、「一重切」という新たな様式を創始したのが天正10年代(1582年頃)のことと伝えられる 12 。特に、利休が豊臣秀吉の小田原征伐に随行した際、伊豆韮山(現在の静岡県伊豆の国市)の竹を用いて即興的に製作したとされる花入(「園城寺(おんじょうじ)」、「尺八(しゃくはち)」、「夜長(よなが)」など)の逸話は、竹花入の歴史における象徴的な出来事として語り継がれている 11 。
平安時代から室町時代にかけて茶道が隆盛するにつれ、竹の節を利用した茶入や水指、花入などの竹製の茶道具は、陶磁器と並んで珍重されるようになった。千利休は、高価な唐物道具だけでなく、庶民が日常的に用いていた簡素な器物の中にも美を見出し、竹の茶道具や花器を積極的に茶席に取り入れた。これにより、竹は単なる生活道具としてだけでなく、茶の湯文化における重要な美術品としても目覚ましい発展を遂げることとなった 4 。
前述の通り(2. 器形と様式:「一重切」としての特徴)、一重切花入は、竹の筒に横一文字の窓を一つだけ設けた、簡素ながらも洗練された造形を持つ。この様式は、千利休によって創始されて以来、多くの茶人に好まれ、竹花入の基本的な形の一つとして定着した。利休作とされる「園城寺」や「小田原」といった名品は、その後の竹花入製作における規範となり、現代に至るまでその写しが作られ続けていることからも、その影響力の大きさがうかがえる 9 。
千利休が、ありふれた竹という素材を用い、簡潔な一重切という形で花入を創り出したことは、当時の茶道具に対する価値観を大きく転換させる出来事であった。それまで主流であった中国渡来の華やかな道具(唐物)に対し、国産の、しかも身近な自然素材である竹に新たな美を見出し、それを茶の湯の中心に据えたことは、利休の「わび茶」の精神を象徴するものであったと言える 6 。
一重切の形式は、竹という素材の特性を巧みに活かした、シンプルかつ機能的なデザインである。その簡素さゆえに、生けられる花の美しさを引き立て、また、竹そのものの持つ素朴な風合いや景色(節の具合、シミ、傷など)をも鑑賞の対象とする。このような美意識は、利休以降の茶の湯においても重要な要素であり続けた。
「雪折」がこの一重切の形式を取るということは、千利休以来のわび茶の精神性を継承しつつ、そこに作者とされる小堀遠州ならではの美意識や、素材の持つ特別な物語性を加えたものとして位置づけられる可能性がある。それは、単に伝統的な形式を踏襲するだけでなく、その中に新たな解釈や価値を吹き込む試みであったと推測される。
竹は、日本において古来より様々な用途に用いられてきた身近な植物である。その特性としては、成長が非常に早く、数年で成木となること、幹が中空で軽量でありながら強度があること、そして加工が比較的容易であることなどが挙げられる 32 。茶道具としての竹花入には、主に真竹(まだけ)が用いられ、その竹固有の節の位置や間隔、表面のシミや自然に生じた歪み、あるいは虫食いの跡までもが「景色」として鑑賞の対象となる 8 。
千利休が、高価な舶来品や技巧を凝らした工芸品だけでなく、ありふれた国産の素材や日常的な器物にも美を見出し、それらを茶の湯に取り入れたことは、彼の「わび茶」の核心をなすものであった 4 。竹花入は、まさにこの精神を体現する道具であったと言える。利休は、完璧に整った竹ではなく、時には割れや傷のある竹を選び、そこにこそ竹の本質的な美しさや、日本の美意識における「侘び」や「寂び」、あるいは「枯淡」の境地を見出したとされる 5 。
「雪折」の竹という素材も、この文脈で捉えることができる。雪の重みによって自然に折れた竹は、人工的には作り出せない独特の形状や風合いを持つであろう。それは、完璧さや均整とは異なる、自然の力によって生じた「欠け」や「歪み」を内包する。このような素材に美を見出し、それを花入として活かす行為は、まさに利休以来の侘びの精神に通じるものである。利休作と伝わる竹花入について、「自然の竹の一部を切り取っただけであるが、材料をよく選び、絶妙な寸法で作られており、バランスよく美しく見える」と評されるように 31 、素材の選択と、それを活かすための最小限の作為との調和が、竹花入の魅力の源泉となっている。
本調査の範囲では、小堀遠州作と伝わる一重切竹花入「雪折」の現存を示す直接的な資料や情報は確認できなかった。各種の美術全集や茶道具図録、データベースなどを調査したが、「雪折」という名称で、かつ小堀遠州作とされる竹花入の具体的な作例を見出すことはできなかった 2 。
しかしながら、これは「雪折」が実在しなかったことを直ちに意味するものではない。歴史的な茶道具の中には、特定の所蔵家や寺社に秘蔵され、一般には知られていないものも少なくない。また、記録が散逸したり、名称が変化したりしている可能性も否定できない。今後の調査において、古文書、茶会記、個人の所蔵品目録、あるいは古い図譜などの中から、「雪折」に関する記述や図様が発見される可能性は残されている。
「雪折」という名称は、単に素材の由来(雪で折れた竹)を説明する以上に、豊かな詩情と物語性を内包している。厳しい冬の自然の中で、雪の重みに耐えかねて折れた竹という情景は、儚さ、力強さ、あるいは静寂な雪景色といった多様なイメージを喚起する。
この名称自体が、花入の背景にある物語を雄弁に語り、茶席における道具の取り合わせや会話に深みを与える重要な要素となったと考えられる。茶の湯において、道具の名称(銘)は、その道具の個性や由緒を凝縮して表現するものであり、亭主と客との間で共有されるべき重要な情報となる。
特に「雪折」という名称は、冬という特定の季節感を強く意識させる。茶の湯では、季節の移ろいを敏感に捉え、それを茶席のしつらえや道具組に反映させることが極めて重視される 5 。したがって、「雪折」花入は、とりわけ冬の茶会において、その真価を発揮したと想像される。例えば、雪の情景を詠んだ和歌の掛物や、雪華文様の茶碗、寒中に咲く椿や梅といった花との取り合わせなど、より深い「見立て」の世界を茶席に現出させたのではないだろうか。それは、単に個々の道具を選択するということ以上に、茶室空間全体で一つの詩的な世界観を構築し、客をもてなすという、高度な遊戯的、かつ精神的な営みであったと言える。
「雪折」の竹という、自然の力によって偶発的に生じた、ある意味で荒々しさをも宿す素材を、小堀遠州が一重切という簡潔ながらも洗練された伝統的な形式に仕立て上げたとすれば、それは彼の美意識「綺麗さび」の一つの具体的な現れとして解釈することができる。
「綺麗さび」における「さび」の要素は、雪によって折れた竹の自然な風合い、時間の経過による古色、あるいは素材そのものが持つ素朴さや力強さといった側面に見出すことができる。一方、「綺麗」の要素は、遠州の作為によって施された均整の取れた窓の切り込み、花を生けた際の全体の調和、そして茶席という洗練された空間における道具としての品格といった側面に現れるであろう。このように、「雪折」花入は、自然の偶然性と人間の作為、素材の素朴さと洗練された技巧とが絶妙なバランスで融合した作品であったと推測される。
小堀遠州の他の竹花入作例、例えば「再来」に見られるように、既存の形に対して自身の美意識に基づき大胆な改変を加えるという創作姿勢は 28 、「雪折」の竹という特殊な素材に対しても、その特性を最大限に引き出しつつ、独自の美を賦与するという方向で発揮された可能性がある。それは、単に奇をてらうのではなく、素材の本質を見抜き、それを最も効果的に生かす形を与えるという、遠州の卓越した審美眼と造形力の証左であったかもしれない。
仮に、小堀遠州作と伝わる一重切竹花入「雪折」が現存し、その真作性が確認されるならば、それは茶道史および美術史上、非常に価値の高い作品として評価されるであろう。千利休に始まる竹花入の伝統を継承しつつ、小堀遠州独自の美学「綺麗さび」を体現する作例として、また、江戸時代初期の茶の湯文化の一端を具体的に示すものとして、その意義は大きい。
特に、「雪に折れた竹」という特異な素材の選択は、当時の茶人たちが自然に対して抱いていた深い洞察、美意識、そして素材に対する鋭敏な感覚を現代に伝える貴重な手がかりとなる。それは、単なる花を生けるための器としてだけでなく、その背景にある物語性や、それを選び出し形を与えた作者・小堀遠州の精神性をも含めて総合的に評価されるべき作品と言えるだろう。このような作品は、茶の湯が単なる喫茶の行為を超え、自然観、美意識、人間関係といった多岐にわたる要素を包含する総合的な文化体系であったことを改めて示してくれる。
本報告書では、小堀遠州作と伝わる一重切竹花入「雪折」について、現時点で得られる情報と、関連する背景からの考察を試みた。「雪折」という名称は、雪の重みで折れた竹を素材としたことに由来し、その器形は千利休創始の一重切の様式を踏襲すると伝えられる。作者とされる小堀遠州は、江戸時代初期に「綺麗さび」という独自の美意識を確立した大名茶人であり、その作風は「雪折」にも反映されていたと推測される。
現時点では「雪折」そのものに関する直接的な資料は限定的であるが、小堀遠州の他の竹花入作品や、竹花入の歴史、一重切の様式的特徴、そして「雪折」という名称が持つ詩情や物語性などを総合的に考察することで、その姿や茶道史上の意義について一定の輪郭を描き出すことができた。特に、自然の偶発性と人間の作為、素材の素朴さと洗練された美意識との調和という観点から、「雪折」が小堀遠州の「綺麗さび」を体現する作品であった可能性が示唆された。
「雪折」竹花入に関する研究は、まだ緒に就いたばかりと言える。今後の最も重要な課題は、「雪折」竹花入の現物の発見、あるいは茶会記、古文書、伝書、所蔵目録といった文献資料における具体的な記述や図様の発見である。これらが見出されれば、「雪折」の実像はより明確になるであろう。
また、小堀遠州が製作に関与したとされる他の茶道具、特に竹を用いた作品や、同時代の他の茶人による竹工芸品との比較研究を進めることも、「雪折」の時代的特徴や遠州の作風における位置づけを明らかにする上で有効である。
さらに、「雪折」という名称や、その素材となった「雪に折れた竹」が持つ文化的な含意について、文学(和歌や俳諧など)、思想史、あるいは民俗学的な観点からも研究を深めることで、この花入が当時の人々にどのように受け止められ、どのような意味を担っていたのか、より多角的な理解に至る可能性がある。これらの課題に取り組むことを通じて、日本の茶道文化の豊かさと奥深さを再発見することに繋がるものと期待される。