京菓子「青柳」は、戦国時代には存在しなかった。餡や精緻な型、土産物としての流通は江戸中期以降の文化を反映。近代の同名和菓子店が、歴史的混同を生んだ。
本報告書は、利用者より提示された一つの京菓子、「青柳」に関する詳細な調査依頼を起点とする。その菓子の特徴は、以下の通り具体的に示されている。
これらの特徴は、洗練された京菓子文化の一端を明確に示しており、調査の出発点として極めて重要である。
本報告書の主題は、この「青柳」を「日本の戦国時代」という特定の歴史的文脈の中に位置づけることにある。ここでいう戦国時代とは、応仁の乱(1467年)に始まり、大坂の陣(1615年)に至るまでの、約150年間にわたる動乱の時代を指す。
しかしながら、予備調査の段階で、『天王寺屋会記』や『言継卿記』といった同時代の一次史料、ならびに後代の編纂物を精査した結果、上記の特徴を持つ「青柳」という菓子の存在を直接的に示す記述は、現時点では確認できなかった。この事実は、本報告書が単なる情報の提示に留まるものではなく、「提示された菓子が、戦国時代という歴史的条件下において、そもそも存在し得たのか」という、より根源的な問いを検証する学術的探求であることを要請する。
この核心的課題に答えるため、本報告書は演繹的なアプローチを採用する。まず第一部では、史料に基づき戦国時代の菓子文化の全体像を「地平」として描き出す。これにより、後の時代考証のための客観的な基準を確立する。続く第二部では、「青柳」を構成する個々の要素、すなわち「押物」という製法、「寒梅粉」という原材料、そして「土産物」という社会的役割を、第一部で設定した基準に照らし合わせ、その時代的整合性を徹底的に検証する。第三部では、なぜ現代において「青柳」という名が和菓子と強く結びつけて想起されるのか、その背景を近代以降の歴史に探り、情報の混同が生じる可能性を考察する。
この構成を通じて、一つの菓子に関する問いを、日本の食文化史、技術史、社会経済史を横断する多角的な分析へと昇華させることを目指す。
利用者情報にある「青柳」の存在可能性を検証する前に、まず戦国時代における「菓子」が、実際にどのようなものであったかを史料に基づいて再構築する必要がある。現代の我々が抱く「甘いお菓子」というイメージとは大きく異なる、当時のリアルな菓子文化の姿を明らかにすることで、後の考察のための堅固な土台を築く。
戦国時代の菓子文化を語る上で、茶の湯の隆盛は不可欠な要素である。茶会は、武将たちにとって単なる喫茶の場ではなく、政治的な交渉や文化的な権威を示す重要な舞台であった。その茶会で供された菓子は、当時の文化水準や価値観を色濃く反映している。
当時の茶会の様子を克明に記録した史料として、津田宗及の『天王寺屋会記』、神屋宗湛の『宗湛日記』、今井宗久の『今井宗久茶湯書抜』、そして松屋三代にわたる『松屋会記』は「四大茶会記」と称され、極めて高い価値を持つ 1 。これらの記録を繙くと、茶席で供された「菓子」が、極めて素朴なものであったことがわかる。
例えば、茶の湯を大成した千利休(1522年~1591年)が催した茶会の記録である『利休百会記』によれば、全88回の茶会のうち68回で「ふの焼」という菓子が用いられている 4 。この「ふの焼」とは、小麦粉を水で溶いて鉄板などの上で薄く焼き、味噌や砂糖、芥子の実などを塗って丸めたものであり、現代のクレープに近い素朴な菓子であった 4 。
その他にも、茶会記には、焼き栗、干し柿、昆布、椎茸の煮物、アワビといった、素材の風味を直接活かしたものが「菓子」として頻繁に登場する 5 。公家であった山科言継(やましな ときつぐ)が記した日記『言継卿記』においても、宮中での贈答品として「枝柿」や「栗」が記録されており、これらが上流階級においても貴重な甘味として扱われていたことが窺える 8 。
この事実は、戦国時代における「菓子」という概念が、現代の「甘味を主体とする嗜好品(Sweet)」とは異なり、「茶席で供される軽食や酒肴を含む広範な食品(Accompaniment)」を指していたことを明確に示している。果物や海産物までもが「菓子」として記録されている点は、この概念の相違を理解する上で極めて重要である。
千利休が確立した「わび茶」の精神は、華美を排し、静寂と質素の中に美を見出すことを旨とする。この美意識は、茶席の菓子にも反映された。利休が豪華絢爛な細工菓子ではなく、自然の恵みである栗や柿、あるいは手作りの「ふの焼」を好んで用いたのは、茶の湯が単なる喫茶ではなく、精神性を追求する場であったことの現れである。過度な甘さや装飾を排し、素材本来の味を尊ぶ姿勢こそが、「わび」の精神に合致していた。
一方で、菓子は政治的な道具としても機能した。織田信長は、安土城において南蛮菓子を茶会で用いたという記録が『信長公記』に残されている 9 。また、豊臣秀吉が天正15年(1587年)に催した北野大茶湯では、おこし米、煎餅、まんじゅうなど、当時としては多様な菓子が用意された 9 。これらは、天下人としての権威と、南蛮貿易ルートを掌握している経済力を誇示する、高度な政治的パフォーマンスであった。
このように、戦国時代の菓子は、利休に代表される「わび」の思想を体現する素朴なものと、信長や秀吉が用いた権威の象徴としての華やかなものという、二つの潮流が存在した。茶の湯の隆盛は、必ずしも一様に菓子の「甘味化」「複雑化」を促したわけではなく、思想や目的によって提供されるものが大きく異なっていたのである。この対照的な二つの潮流の間に、当時の菓子文化のダイナミズムを見出すことができる。
菓子の姿を決定づける最も重要な要素は、その原材料である。戦国時代の菓子を理解するためには、当時の人々がどのような材料、特に甘味料を手にすることができたのかを正確に把握しなければならない。
現代の和菓子に不可欠な砂糖は、戦国時代においては金や香木にも匹敵するほどの超高級輸入品であった。奈良時代に鑑真和上によって日本にもたらされたと伝わるが、その後も長らく薬品として扱われ、食品として用いられることは極めて稀であった 10 。
室町時代の文献『庭訓往来』には「砂糖羊羹」という記述が見られ、将軍・足利義政が禅僧に砂糖羊羹を振る舞ったという記録も存在する 10 。しかし、これは最高権力層の中での例外的な出来事であり、一般の武士や庶民が口にできるものではなかった。菓子名にわざわざ「砂糖」と冠されていること自体が、その希少性と特別性を物語っている 14 。当時の砂糖は主に黒糖であり、その流通量も極めて限られていた 13 。
この状況に劇的な変化をもたらしたのが、16世紀半ばに始まるポルトガル人やスペイン人との南蛮貿易であった。彼らによって、カステラ、金平糖(こんぺいとう)、有平糖(あるへいとう)、ボーロといった、いわゆる「南蛮菓子」が日本にもたらされた 9 。
これらの菓子の最大の特徴は、大量の砂糖と鶏卵を惜しげもなく使用する点にあった 13 。日本の既存の菓子が、米や麦などの穀物を主原料とし、ほのかな甘味しか持たなかったのに対し、南蛮菓子の濃厚で直接的な甘さは、当時の人々に大きな衝撃を与えた。この出会いは、単に新しい種類の菓子が加わったという以上に、日本の食文化における「甘味」のパラダイム自体を覆す「味覚革命」の始まりであったと言える。
この新しい素材と製法は、日本の菓子職人たちに「砂糖を使いこなす」という新たな技術的課題を突きつけた。この挑戦こそが、後の平和な江戸時代において、餡の製法改良や、練り、着色、造形といった和菓子独自の技術が爆発的に発展する直接的な引き金となった。戦国時代は、その壮大な変化の前夜、いわば「助走期間」として位置づけることができる。
では、希少な砂糖に代わり、人々は何を甘味料として用いていたのか。最も一般的だったのは、柿や梨などの果物、蜂蜜、そして蔓草の一種であるアマヅラの樹液を煮詰めて作られたシロップ状の「甘葛煎(あまづらせん)」であった 20 。
これらの穏やかな甘味料を用いて作られる菓子は、必然的に米や麦などの穀類粉を主体とするものが中心となった。饅頭や羊羹も、もとは中国から禅僧によって伝えられた「点心」、すなわち食事の間に摂る軽食であり、当初は甘いものではなかった 17 。室町時代に創業したと伝えられる京都の老舗和菓子店、例えば「とらや」や「川端道喜」なども、こうした歴史的背景の中から誕生したのである 22 。彼らの初期の製品は、宮中や寺社に納める餅や、甘味のない羊羹などが中心であったと考えられる。
第一部で明らかにした戦国時代の菓子文化の地平、すなわち「素朴な素材を中心とし、砂糖は極めて希少で、製法も単純であった」という実態に、利用者より提示された「青柳」の構成要素を一つひとつ照らし合わせる。この検証を通じて、その菓子が戦国時代という歴史的文脈の中に存在し得たのかを、客観的かつ論理的に評価する。
利用者情報によれば、「青柳」は「押物」に分類される。これは、材料を木型に詰めて押し固め、成形する製法を指す。この製法と、そのために不可欠な「菓子木型」の歴史を辿ることは、時代考証の鍵となる。
米粉や麦粉に砂糖や水飴を加えて練り、木型に詰めて打ち出す「打物(うちもの)」や、押し固める「押物(おしもの)」の代表格が落雁である。この種の菓子のルーツは西アジアから中央アジアにあり、中国を経て、室町時代の日明貿易を通じて日本に伝来したとされている 26 。したがって、「型を用いて菓子を成形する」という基本的な技術自体は、戦国時代にも存在した可能性は否定できない。
しかし、ここで重要なのは、技術の「存在」と「発展レベル」を区別することである。伝来当初に用いられた型は、平安時代の菓子「粉熟(ふずく)」で使われたとされる竹筒のように、単純な形状のものであったと推測される 27 。
利用者情報にある「出口の柳」や「傘に提灯」といった、具体的な情景や物語性を描写するような、精緻で芸術的な意匠を彫り込んだ菓子木型が本格的に発展し、広く用いられるようになるのは、戦乱が収まり、町人文化が花開いた江戸時代中期以降のことである。複数の研究によれば、特に明和年間(1764年~1772年)頃が、その大きな転換期であったと指摘されている 27 。この時代になると、京都の専門職人が彫った美しい木型が全国の菓子屋に供給され、日本の菓子文化全体の水準を飛躍的に向上させた 29 。
この事実が示すのは、「型で抜く」という基本技術と、「芸術的な意匠を型で表現する」という応用技術との間には、数百年単位の技術的・文化的隔たりが存在するということである。精緻な菓子木型の発展は、単なる彫刻技術の進歩だけを意味しない。それは、「菓子で季節の移ろいや物語を表現する」という、高度な美意識が社会に広く共有されることを前提としている。この美意識は、茶の湯の深化とともに育まれ、泰平の世となった江戸時代に大衆化したものである。戦乱に明け暮れた戦国時代の武将たちが菓子に求めたのは、そのような繊細な意匠よりも、権威の象徴としての希少性や、実利的な栄養補給であった可能性が高い。「青柳」に施されたとされる意匠は、明らかに後者の、成熟した文化の中で育まれた美意識の産物である。
「青柳」のもう一つの重要な構成要素は、主原料である「寒梅粉」である。この特殊な原材料の性質と歴史を分析することは、経済的・技術的な側面から時代考証を行う上で不可欠である。
寒梅粉とは、単なる米の粉ではない。もち米を一度水に浸し、蒸して餅をつき、それを焦がさないように白く焼き上げた後、粉末状に砕いて作られる、非常に手間のかかる加工品である 31 。その名は、前年の秋に収穫された新米を粉に加工する時期が、ちょうど寒梅の咲く寒い頃であることに由来すると言われている 31 。この製法により、独特の香ばしい風味と、口の中で溶けるような滑らかな食感が生まれる。
その優れた特性から、寒梅粉は主に落雁や押物といった高級な干菓子の原料として用いられてきた 32 。京都の老舗和菓子店でも愛用される、まさに最高級の菓子原料の一つである 35 。
このような特殊な二次加工品が、菓子原料として安定的に生産・供給されるようになるためには、いくつかの社会的・経済的条件が満たされなければならない。まず、原料となるもち米が、兵糧米として徴発されることなく、潤沢に供給される安定した農業基盤が必要である。次に、それを専門に加工する職人や業者が存在し、分業体制が確立している必要がある。そして、その高価な原料を購入できる菓子司と、最終製品である高級菓子を消費する豊かな市民層が存在しなければならない。
これらの条件は、戦乱で米自体が戦略物資であった戦国時代に整っていたとは考え難い。「寒梅粉」という高付加価値の原材料の存在は、和菓子作りが単なる調理から、より専門的で分業化された「産業」へと移行したことを示唆している。このような産業構造が成立するのは、国内の平和が確立し、商業と物流が全国規模で発展した江戸時代以降と考えるのが自然である。
ここまでの分析を統合し、利用者より提示された「青柳」が戦国時代に存在した可能性について、総合的な結論を導き出す。
検証は、以下の三つの側面から行われた。
以上の三つの側面すべてにおいて、利用者情報にある「青柳」の特徴と、戦国時代という時代設定との間には、埋めがたい大きな齟齬が存在する。餡をふんだんに使い、寒梅粉で滑らかな口当たりを実現し、風雅な意匠の型で美しく成形された菓子が、京都の土産物として広く親しまれる――。このような光景は、戦国時代の荒々しい世相とは相容れない。
むしろ、それは江戸時代、特に町人文化が爛熟期を迎えた文化・文政期(19世紀初頭)の京都にこそふさわしいものである。この時代、砂糖の国産化が進んで価格が下がり、菓子作りの技術は飛躍的に向上し、京菓子は芸術の域にまで高められた。利用者より提示された「青柳」は、まさにそのような、平和と文化の成熟が生んだ菓子であると結論づけるのが最も妥当である。
第二部までの検証で、利用者情報にある京菓子「青柳」が戦国時代に存在した可能性は極めて低いと結論づけられた。では、なぜ「青柳」という名が和菓子、特に歴史ある銘菓として想起されるのだろうか。その背景には、近代以降に創業され、全国的な知名度を獲得した同名の和菓子店の存在が大きく影響していると考えられる。本章では、これらの「青柳」の名を持つ和菓子店を概観し、情報の混同が生じる可能性のある源泉を明らかにする。
現代日本で「青柳」の名を冠する和菓子店として、最も広く知られているのが、名古屋の「青柳総本家」であろう。
青柳総本家は、明治12年(1879年)、後藤利兵衛によって名古屋の大須で創業された 36 。当初は蒸し羊羹を製造していたが、数年後からういろうの製造を始め、これが同店の代名詞となっていく 38 。特筆すべきは、その屋号「青柳」の由来である。これは創業者である後藤利兵衛が、旧尾張藩の第17代藩主であった徳川慶勝(よしかつ)公から賜ったものであった 36 。尾張徳川家という、由緒ある大名家から与えられたこの名は、屋号に歴史的な権威と物語性を与えることになった。
青柳総本家のういろうが、一地方の菓子から「名古屋名物」としての地位を不動のものにするまでには、近代の交通網の発達を巧みに利用した、画期的な販売戦略があった。昭和6年(1931年)、三代目の後藤為彦は、国鉄名古屋駅の構内およびプラットホームでの立ち売りを開始する 37 。これが大成功を収め、「青柳ういろう」の名は旅行者を通じて全国に広まり始めた。
決定打となったのは、昭和39年(1964年)の東海道新幹線の開通である。この時、青柳総本家はういろうの車内販売の許可を唯一得た和菓子店となった 37 。高速で日本を縦断する新幹線の中で販売される「青柳ういろう」は、「ういろう=名古屋名物」というイメージを全国的に決定づける上で、計り知れない役割を果たした。さらに、フィルム密封製法の開発によって日持ちが大幅に向上したことも、土産物としての需要をさらに押し上げる要因となった 38 。
「青柳」の名を持つ和菓子店は、東京にも複数存在する。中でも、向島に本店を構える「青柳正家」は、その格式と品質で知られている。
青柳正家は、昭和23年(1948年)に「青柳」として創業した。その菓子に感銘を受けた元公爵で貴族院議員の一條実孝(さねたか)が、その由緒正しさを称えて「正家」の名を贈り、現在の屋号となった 41 。同店の代表銘菓は、大粒の栗が入った「栗羊羹」と、菊の御紋をかたどった「菊最中」である。特にその餡は、手間を惜しまず丁寧に灰汁を取り除くことで生まれる、透明感のある美しい紫色から「藤色」と評され、多くの食通を魅了している 41 。
このほかにも、東京には同名の和菓子店が点在する。例えば、戸越銀座商店街にある「和菓子 青柳」は、大正8年(1919年)創業の老舗であり、明治神宮に奉献された「衣柿(ころがき)」で知られる 44 。また、西麻布の交差点近くにも、長年地元の人々に愛されてきた「青柳」という名の和菓子店が存在し、田舎まんじゅうなどの素朴な味わいを守り続けている 45 。
これらの事例は、「青柳」という屋号が、特定の地域や系列に限定されるものではなく、和菓子店にとって比較的一般的に用いられる、風雅で好ましい名称であったことを示唆している。
ここまでの情報から、「青柳」という名称が、特定の菓子を指す固有名詞としてよりも、複数の和菓子店が用いる「屋号(ブランド名)」として現代では広く認識されていることがわかる。利用者が持つ「青柳」に関する知識は、これら近代以降に有名になった「青柳」というブランド名の認知と、どこかで見聞きした古い京菓子の断片的な情報とが、時間と場所を超えて結びついた結果、生じた混同である可能性が極めて高い。
この複雑な情報の錯綜を解消し、明確な理解を促すため、本報告書で言及した様々な「青柳」の情報を以下の表に整理する。この表は、それぞれの「青柳」が持つ固有の属性(時代、場所、特徴)を視覚的に対比させることで、そのアイデンティティを明確に区別することを目的とする。
名称(通称) |
時代 |
発祥地 |
主な特徴・商品 |
備考 |
典拠 |
京菓子「青柳」 |
不明(江戸中期以降か) |
京都 |
寒梅粉、餡入り、押物、「出口の柳」「傘に提灯」の型 |
利用者提示情報。戦国時代の存在は確認できず。本報告書の考察対象。 |
利用者情報 |
青柳総本家 |
明治12年(1879年)~ |
愛知県名古屋市 |
ういろう、カエルまんじゅう |
尾張徳川家第17代当主・徳川慶勝より屋号を賜る。駅や新幹線での販売で全国区に。 |
36 |
青柳正家 |
昭和23年(1948年)~ |
東京都墨田区 |
栗羊羹、菊最中、うば玉 |
元公爵・一條実孝により「正家」の名を賜る。藤色の餡が特徴。 |
41 |
和菓子 青柳 |
大正8年(1919年)~ |
東京都品川区 |
衣柿(明治神宮奉献銘菓)、季節の生菓子 |
戸越銀座に店を構える老舗。 |
44 |
青柳 |
創業年代不明(老舗) |
東京都港区 |
田舎まんじゅう、茶まんじゅう、典侍 |
西麻布に店を構える、昔ながらの和菓子店。 |
45 |
青柳茶 |
安土桃山時代~ |
熊本県 |
釜炒り茶 |
加藤清正が朝鮮出兵より持ち帰ったものが起源とされる伝説がある茶。菓子ではない。 |
46 |
本報告書は、「戦国時代」という視点から、利用者より提示された京菓子「青柳」について徹底的な調査を行った。その結果、以下の結論に至った。
利用者から提示された「青柳」(寒梅粉を用いた餡入りの押物で、「出口の柳」などの型押しがある)が、戦国時代に存在したことを示す直接的な史料や証拠は見出すことができなかった。
むしろ、その菓子の構成要素を多角的に分析した結果は、それが戦国時代の産物ではないことを強く示唆している。すなわち、①主原料である砂糖と寒梅粉の入手性、②「出口の柳」といった精緻な意匠を可能にする菓子木型の技術、③「土産物」として流通するための社会経済的基盤、これらすべてが、戦国時代の歴史的条件とは合致せず、むしろ文化が爛熟し、経済が安定した江戸時代中期以降、特に19世紀の世相を色濃く反映するものである。
では、なぜこのような時代設定の問いが生まれたのか。その背景には、歴史情報の多層的な重なりと、それによって生じる混同の可能性がある。
第一に、「青柳」という名称が、近代以降に創業された著名な和菓子店、特に名古屋の「青柳総本家」の屋号として全国的に広く知られていること。これにより、「青柳=和菓子」という強力な連想が形成されている。
第二に、「柳」というモチーフが持つ風雅なイメージが、古都・京都の洗練された菓子文化と結びつきやすいこと。これにより、時代や具体的な菓子の特定を離れて、「京都には青柳という名の雅な菓子があった」という伝承が生まれ、変容していった可能性が考えられる。
本件は、こうした近代に形成されたブランドイメージと、断片的な過去の知識とが結びつき、歴史的な誤解や混同が生じる典型的な事例であると考察される。
一つの菓子の名前にまつわる問いは、結果として、我々を日本の文化史の奥深くへと導いた。戦国時代の武将たちが茶席で口にしたであろう素朴な木の実や「ふの焼」の実態、南蛮貿易がもたらした「甘味」の革命、そして泰平の世で花開いた職人たちの精緻な技術と美意識。さらに時代は下り、近代化の波の中で鉄道網を駆使して全国ブランドを築き上げた企業の戦略まで、一本の調査は、日本の菓子文化を貫く壮大で多層的な歴史を浮き彫りにした。
本報告書が、単なる事実の有無の確認に留まらず、和菓子という文化遺産の背後に横たわる、技術、経済、社会、そして人々の美意識の変遷への理解を深める一助となれば、望外の喜びである。