本報告書は、日本の戦国時代に存在したとされる「青磁松本(青磁茶碗)」について、詳細かつ徹底的な調査を行い、その結果をまとめることを目的とする。調査対象は、「青磁松本」そのものに加え、利用者より関連情報として提示された「大和国の三輪休雪が松本で製陶し始めた『松本萩』の1つ」という記述の真偽を検証するため、「松本萩」、「三輪休雪」、そして「大和国松本」というキーワードについても深く掘り下げる。
調査における主要な論点は、史料における「松本茶碗」と「松本萩」が、名称こそ類似する部分があるものの、時代、産地、製作者、器の性格において、明確に区別されるべきものである可能性が高いという点である。本報告書では、この区別を明確にすることを主要な論点の一つとする。また、「青磁松本」という呼称が、具体的にどのような茶碗を指すのか、史料に基づいて特定を試みる。特に、戦国時代の著名な茶道具「松本茶碗」との関連性を中心に考察する。さらに、利用者提示の「大和国の三輪休雪が松本で製陶し始めた『松本萩』」という情報について、現存する資料との整合性を検証し、その妥当性を評価する。
本報告書を読む上での留意点として、本報告書は、提供された調査資料を主要な情報源として構成されている。記述にあたっては、不自然な英単語の使用を避け、マークダウン記述の不統一が生じないよう細心の注意を払った。
安土桃山時代の茶人である山上宗二が記した茶の湯に関する伝書『山上宗二記』は、当時の茶道具に関する記述を含み、一級史料としての価値が高い 1 。この史料における「松本茶碗」の記述は、本報告書の核心部分となる。
『山上宗二記』には「一、松本茶碗(中略)様子五つきさうたるせいじの茶碗に、上にふきすみあり。」との記述がある 1 。これは、「五つ花(いつつばな)」と呼ばれる五弁花形の口縁を持ち、青磁釉が施され、さらに「吹墨(ふきずみ)」という装飾技法が用いられた茶碗であったことを示している。
「五つ花」の形状は、中国の龍泉窯青磁などに見られる特徴的な意匠であり 2 、この記述は「松本茶碗」が中国産青磁であった可能性を強く示唆する。
「吹墨」は、呉須(藍色の顔料)を霧状に吹き付けて文様を表す技法で、中国の古染付などに見られる 3 。青磁と吹墨の組み合わせは非常に珍しく、この点が「松本茶碗」の際立った特徴であった可能性がある。青磁は通常、釉薬そのものの美しさや刻花・印花文様で評価されることが多い。ここに「吹墨」という染付系の加飾技法が加わることは、当時の茶人にとって斬新で、高い評価に繋がったと考えられる。この組み合わせが中国陶磁の作例として一般的なのか、あるいは特注品のような特殊なものであったのかは、さらなる研究の余地がある。提供された資料からは、青磁に直接吹墨を施す明確な作例は見当たらない。灑藍釉や吹青釉といった技法は存在するが、これらは青磁とは異なる釉薬である 6 。このことから、「松本茶碗」の「青磁に吹墨」という組み合わせは、非常に珍しいものであった可能性が考えられ、後述する五千貫という高額な評価の一因となった可能性も推測される。
『山上宗二記』には「口五寸二分、高さ一寸八分、いとぞこ一寸七分」との具体的な寸法が記録されている 1 。当時の尺寸(曲尺)で換算すると、口径約15.8 cm、高さ約5.5 cm、高台径約5.2 cmとなり、抹茶碗として標準的な大きさであったと推測される。
「代五千貫」と記されており 1 、これは当時の貨幣価値として破格の評価額である。戦国時代において、優れた茶道具は一国の価値にも匹敵すると言われたが 8 、「松本茶碗」はその中でも最高級の評価を受けていたことがわかる。津田宗及が「松本茶碗」を手に入れるために父譲りの名物を質に入れたという逸話も、その価値の高さを裏付けている 10 。
『山上宗二記』には他の名物茶碗の評価額も散見される。例えば、珠光青磁は千貫文と記されている 11 。曜変天目茶碗は現存品が国宝であり、現代では数十億円の価値があるとされる 7 。「松本茶碗」の五千貫という評価は、これらと比較しても極めて高いものであり、当時の茶道具の中でも最高峰の一つであったことがうかがえる。この高額な評価は、単に美術的価値だけでなく、所有者の権威やステータスを象徴するものであったと考えられる。この価値は、茶碗そのものの希少性、美しさ、そして有力な所蔵者を経たことによる「物語性」や権威性が複合的に作用した結果と考えられる。
『山上宗二記』には「惣見院殿御代に火に入り失い申し候」とあり 1 、「惣見院殿」とは織田信長を指すことから、信長の時代に焼失したことがわかる。一般的には本能寺の変(天正10年、1582年)の際に焼失したと解釈されている 1 。名物茶入「松本茄子」も信長所蔵後、大坂夏の陣で焼失し、後に破片が修復されたという経緯があるが 8 、「松本茶碗」に関しては焼失したまま現存しないとされる。
『山上宗二記』は「善き茶碗とはこの事なり。なお口伝あり。」と締めくくっており 1 、山上宗二自身がこの茶碗を極めて高く評価していたことがわかる。「口伝あり」という記述は、この茶碗に関してさらに語り継がれるべき逸話や詳細な情報が存在したことを示唆しており、その全貌が完全に記録されているわけではないことを暗示している。茶の湯の世界では、道具の来歴や特徴、扱い方などが師から弟子へと口伝で伝えられることが重視された。「口伝あり」という記述は、「松本茶碗」が単なる美術品ではなく、茶の湯の精神性や秘伝と結びついた特別な存在であった可能性を示唆する。また、焼失してしまったが故に、その記憶や評価が伝説化し、口伝によって語り継がれた側面もあるかもしれない。文字情報だけでは伝えきれない、あるいは秘すべきとされた情報があったことを示唆し、これは茶碗の真の価値、特定の茶会でのエピソード、あるいは特別な鑑賞の仕方など、多岐にわたる内容であった可能性がある。
室町時代の武士であり、村田珠光門下の茶人であった 14 。「松本茶碗」の名称は、この松本珠報が所持していたことに由来すると考えられる 14 。珠報は「松本茶碗」以外にも、「松本茄子(茶入)」「松本肩衝(茶入)」「呂紀筆蓮鷺図」「舟の花入」など、数多くの名物を所蔵していたことで知られる 14 。松本珠報が複数の「松本」と名の付く名物を所持していたことは、彼が当時の茶道具収集において重要な役割を果たした人物であったことを示す。これらの名物が珠報の審美眼によって見出されたのか、あるいは彼の手を経ることで価値を高めたのかは興味深い点である。一人の人物がこれほど多くの名物、特に自身の名を冠する道具を複数所持することは、その人物が優れた目利きであり、かつ相応の財力や社会的地位を有していたことを示唆する。「松本」という名称がブランドのように機能し、珠報旧蔵品であることが一つの価値基準となっていた可能性も考えられる。
周防国の戦国大名である大内義隆は、京都まで出向いて「松本茶碗」など数多くの名器を買い集めたとされ、これらの名器は後に織田信長や豊臣秀吉の手に渡ったとされる 1 。内閣文庫所蔵本『大内物語』には、相良武任が天下に隠れなき茶碗・茶壺・天目を京・堺まで尋ねて手に入れ、その中に「松本茶碗」の名があったと記されている 1 。
『山上宗二記』に「惣見院殿御代に火に入り失い申し候」とあるように 1 、「松本茶碗」を所持していた。信長は茶の湯を政治的に利用し、名物狩りを行ったことでも知られる 7 。津田宗及が信長の命により「松本茶碗」を手に入れようとした可能性も指摘されている 10 。
大内義隆旧蔵の「松本茶碗」が信長を経て秀吉の手に渡ったとされる資料も存在する 18 。しかしながら、『山上宗二記』の記述では信長の代で焼失したとされており、この伝来には矛盾が生じる。この矛盾は、(a) 『山上宗二記』の記述が正確で、秀吉に渡ったとされるのは別の「松本」と名の付く道具か、あるいは情報が混同している可能性、(b) 焼失を免れたか、あるいは同名の別の「松本茶碗」が存在した可能性、などが考えられる。本報告書では、『山上宗二記』の記述を一次史料として重視しつつ、この矛盾点についても言及する。現時点では、一次史料に近い『山上宗二記』の記述を優先し、焼失説を採るのが妥当と考えられるが、異なる伝承が存在することも付記すべきである。
堺の豪商茶人であり、『天王寺屋会記』などの茶会記を残した津田宗及は、「松本茶碗」を手に入れるために父祖伝来の道具を質入れしたという記述がある 10 。これは「松本茶碗」の価値と、それを手に入れることの困難さを示している。『天王寺屋会記 津田宗及他会記』は、当時の茶会の様子や道具を知る上で重要な史料である 10 。
『山上宗二記』の記述「五つきさうたるせいじの茶碗」や、室町時代から戦国時代にかけての茶の湯における唐物(中国渡来品)尊重の風潮から 21 、「松本茶碗」は中国、特におそらくは龍泉窯で焼かれた青磁であった可能性が極めて高い。龍泉窯青磁は、宋代から明代にかけて日本に大量に輸入され、茶道具としても珍重された 23 。「五つ花」の意匠も龍泉窯青磁によく見られるものである 2 。
「珠光青磁」と呼ばれる、村田珠光が愛用したとされる青磁も存在し、これらは必ずしも鮮やかな青色ではなく、灰黄色や褐色を帯びたものも含まれた 21 。「松本茶碗」がどのような色調の青磁であったかは不明だが、当時の青磁に対する多様な評価軸が存在したことがわかる。
「吹墨」の加飾については、中国陶磁の文脈で考察する必要がある。青磁に吹墨を施した現存する作例は極めて稀であり、もし「松本茶碗」がそのようなものであったとすれば、特注品であったか、あるいは非常に特殊な窯で焼かれた可能性も考えられる。吹墨技法自体は17世紀の中国古染付に見られるが 4 、「松本茶碗」はそれ以前の戦国時代の道具であるため、技法の時代考証も重要となる。あるいは「吹墨」という言葉が、現代の我々が理解する吹墨技法とは異なる何かを指していた可能性も皆無ではない。
『山上宗二記』の「吹墨」が、具体的にどのような状態を指すのかは慎重な検討を要する。現代的な意味での呉須の吹付け技法であれば、青磁との組み合わせは異例である。可能性としては、(1) 本当に青磁釉の上に呉須で吹墨が施されていた、(2) 青磁釉の窯変による斑文(例えば飛青磁のような)を「吹墨」と表現した、(3) あるいは青磁ではなく、白磁胎に吹墨を施し、その上に透明釉ではなく薄い青磁釉をかけたもの、などが考えられる。謝明良氏の論文では「口沿切削成㈤花式的青瓷碗」とあるのみで、「吹墨」の具体的な技法については詳述されていない 2 。龍泉窯の「飛青磁」は鉄斑文であり、吹墨とは異なる 27 。景徳鎮窯では青花(染付)と青磁釉を組み合わせることはあるが 31 、それが「吹墨」として「松本茶碗」に合致するかは不明である。したがって、『山上宗二記』の「吹墨」が具体的にどのような装飾であったかは、現物がない以上断定は難しいが、当時の茶人が何らかの斑点状、あるいは霧状の装飾を指して「吹墨」と呼んだ可能性を考慮する必要がある。これが龍泉窯の飛青磁のような鉄斑を指すのか、あるいは本当に呉須を用いた特殊な加飾だったのかは、今後の研究課題とも言える。
「松本萩」は、長門国(現在の山口県萩市)の陶器である萩焼の一種である 32 。寛文年間(1661年~1673年)頃に、大和国三輪出身の大吉兵衛(後に三輪姓を名乗り、休雪の号を賜る)が萩に来て、藩主毛利氏に仕え製陶に従事したのが始まりとされる 32 。大吉兵衛は松本の地に窯を築き、楽焼と萩焼を兼製した。その作品は「松本焼」「松本萩」と呼ばれた 32 。
その作風は、土質は緻密で、釉色は淡白で青みを帯びたものがあるとされる 32 。この「青みを帯びた」という点が、利用者の質問にある「青磁松本」との混同の一因となった可能性がある。また、釉薬が止まる部分に必ず釉溜まりができるのが特徴とされる 32 。一般的には、松本焼・松本萩も萩焼と総称される 32 。
「松本萩」の釉薬に見られる「青み」は、萩焼特有の白萩釉などが焼成条件によって青みがかって見える現象を指す可能性が高い。これは、鉄釉を還元焼成して緑色や青緑色を発色させる本格的な「青磁」とは異なる。しかし、「松本」という共通の名称と「青」という色調の連想が、時代や産地の異なる「松本茶碗(青磁)」と「松本萩」を結びつけてしまう誤解を生んだ可能性がある。萩焼には、藁灰釉などが還元焼成されることで淡い青色を呈する「白萩」や「青萩」と呼ばれるものがあるが、これは青磁とは釉薬の種類も発色原理も異なる。一方、「松本茶碗」は『山上宗二記』で明確に「せいじの茶碗」と記述されており、これは中国産の青磁を指す可能性が高い。「松本」という地名(あるいは人名由来の名称)の共通性と、「青」という色(青磁の青と、松本萩の釉の青み)の共通性が、時代も場所も異なる二つのものを混同させる要因となったと推測される。
初代休雪(大吉兵衛)以降、三輪家は代々休雪を襲名し、萩焼の発展に大きく貢献した 32 。特に十代三輪休雪(後の休和、人間国宝)は、「休雪白」と呼ばれる独自の白釉を完成させ、伝統的な萩焼に新境地を開いた 33 。三輪休雪家は、江戸時代から現代に至るまで、萩焼を代表する窯元の一つとして高い評価を得ている 33 。資料 33 には、八代から十三代に至る三輪休雪の略歴や受賞歴が詳細に記されており、萩焼の伝統継承と革新への努力がうかがえる。
利用者の質問には「大和国の三輪休雪が松本で製陶し始めた」とあるが、提供された資料において、三輪休雪(初代大吉兵衛)は「大和三輪」の出身ではあるものの、製陶を始めたのは「長門国(山口県)萩の松本」である 32 。
「大和国松本」という地名に関連する窯業遺跡としては、岡崎市(愛知県、旧三河国)の「松本古窯跡」(鎌倉~室町時代の無釉陶器) 35 や、松本市(長野県、旧信濃国)の塩倉池遺跡(縄文~平安、古墳時代の遺物) 36 、上ノ山窯跡群・菖蒲平窯跡群(7世紀末~9世紀の須恵器窯) 37 などが見られるが、これらは大和国(奈良県)ではなく、また、三輪休雪や萩焼、あるいは戦国時代の青磁茶碗とは直接的な関連性を見出すことは困難である。
利用者の前提にある「大和国の松本」で三輪休雪が松本萩を始めたという点について、提供資料からはこれを裏付ける情報は得られない。初代休雪の出身地が「大和三輪」であること 32 と、萩で窯を築いた場所が「松本」であったこと 32 が組み合わさり、さらに「大和国」という情報が付加されたことで、誤解が生じた可能性がある。報告書では、この点を明確に指摘する必要がある。結論として、三輪休雪が「大和国松本」で「松本萩」を始めたという証拠は提供資料にはない。この誤解は、「大和三輪出身」と「松本の地名」が混同され、さらに「大和国」という特定の地域情報が誤って付加された結果と考えられる。
戦国時代の名物「松本茶碗」と、江戸時代以降の「松本萩」は、その名称に「松本」という共通の語句を含むものの、時代、産地、材質、特徴において明確に異なるものである。
松本茶碗(戦国時代の名物)
松本萩(江戸時代の萩焼)
これらの混同が生じた要因としては、第一に名称の類似性、第二に色調の表面的な類似性(「松本茶碗」の「青磁」と、「松本萩」に見られる「青みを帯びた釉薬」。ただし、前者は本格的な青磁、後者は萩焼の釉調であり、質的には異なる)、そして第三に情報の錯綜が考えられる。利用者が「大和国の三輪休雪が松本で製陶し始めた」という情報を得た経緯は不明だが、これが混乱の元となっている可能性が高い。
以下の表に両者の比較をまとめる。
表1:「松本茶碗(戦国時代)」と「松本萩(江戸時代以降)」の比較
項目 |
松本茶碗(戦国時代の名物) |
松本萩(江戸時代以降の萩焼) |
備考(史料根拠など) |
時代 |
室町時代末期~戦国時代(15~16世紀) |
江戸時代前期(寛文年間、17世紀後半)以降 |
松本茶碗: 1 など。 松本萩: 32 。 |
産地 |
中国(龍泉窯などの可能性が高い) |
日本・長門国萩(現 山口県萩市松本) |
松本茶碗: 形状・材質から推定。 松本萩: 32 。 |
製作者/関連人物 |
松本珠報(最初の所持者か)、大内義隆、織田信長、津田宗及など |
初代三輪休雪(大吉兵衛)およびその子孫 |
松本茶碗: 10 。 松本萩: 32 。 |
材質・釉薬 |
青磁 |
陶器、白釉、淡く青みを帯びた釉薬など(萩焼特有の釉薬) |
松本茶碗: 1 。 松本萩: 32 。 |
形状・装飾 |
五つ花口縁、吹墨の可能性 |
萩焼の様式、釉薬の景色(釉溜まりなど)が特徴 |
松本茶碗: 1 。 松本萩: 32 。 |
評価・位置づけ |
天下の大名物、五千貫の価値、茶の湯における最高級品の一つ |
萩焼の一派、茶陶として評価 |
松本茶碗: 1 。 松本萩: 32 。 |
現存 |
織田信長の代に焼失(本能寺の変か) |
現存、三輪休雪家が伝統を継承 |
松本茶碗: 1 。 松本萩: 33 。 |
この表は、利用者の質問の根底にある「青磁松本」と「松本萩」の混同を解消するために不可欠である。二つの対象を、時代、産地、製作者、材質、特徴、評価といった複数の観点から明確に対比することで、両者が全く異なるものであることを視覚的かつ論理的に示すことができる。これにより、報告書の結論への説得力を高める。
利用者が探求する戦国時代の「青磁松本(青磁茶碗)」とは、史料、特に『山上宗二記』に記された名物「松本茶碗」を指す可能性が極めて高い。これは中国産の青磁で、五つ花形の口縁を持ち、吹墨の加飾があったとされ、五千貫という破格の価値で評価され、織田信長の代に焼失したとされる。
一方、利用者が言及する「大和国の三輪休雪が松本で製陶し始めた『松本萩』」という記述は、提供された史料とは合致しない。三輪休雪(初代大吉兵衛)は「大和三輪」の出身であるが、彼が「松本萩」を創始したのは江戸時代前期の「長門国萩の松本」であり、これは青磁ではなく萩焼の一種である。
したがって、「青磁松本」と「松本萩」は、名称や色調(青磁の青と松本萩の釉の青み)に表面的な類似点が見られるものの、時代、産地、材質、製作者、そして器の性格において明確に異なるものである。利用者の前提は、これら二つの異なる陶磁器に関する情報が混同された結果生じたものと推察される。
「大和国松本」という地名での三輪休雪による製陶活動や、戦国時代の青磁生産を示す確たる証拠は、提供された資料からは見出せなかった。
最終的に、戦国時代の「青磁松本」は、中国渡来の極めて貴重な青磁茶碗「松本茶碗」のことであり、「松本萩」とは別系統の文化財であると結論づける。