鬼芦毛は織田信長が最も価値を置いた芦毛の馬で、京都御馬揃えで一番に披露された。信長の権威と美意識の象徴だったが、本能寺の変で信長と共に消息を絶った。
織田信長の愛馬「鬼芦毛」は、一般に「芦毛の荒馬であったことから、そう呼ばれた」と語られ、天下人の数ある駿馬の中でも特に寵愛された一頭として知られている。しかし、この簡潔な説明の背後には、信長の権力構造、独自の美意識、そして戦国時代という時代の価値観が複雑に絡み合った、広大かつ深遠な歴史的文脈が横たわっている。
本報告書は、この「鬼芦毛」という一頭の馬を基点として、歴史の深層へと分け入ることを目的とする。調査の根幹をなすのは、信長の側近であった太田牛一が、その見聞に基づき記した第一級の史料『信長公記』である 1 。この信頼性の高い記録を丹念に読み解き、「鬼芦毛」にまつわる核心的な問いに迫る。すなわち、「なぜ『鬼』の名を冠するのか?」「なぜ信長は、戦場では目立ちやすいとされる『芦毛』の馬をことのほか愛したのか?」「その存在は、信長の天下において何を意味したのか?」そして最後に、「主君の横死という未曾有の事変の後、この名馬はどこへ消えたのか?」である。
これらの問いを解き明かす作業は、単に一頭の馬の来歴を追うにとどまらない。それは、織田信長という稀代の英雄の実像、彼が築き上げた権威の表象、そしてその栄光と悲劇の終焉を、新たな視座から再検証する試みとなるであろう。
「鬼芦毛」が歴史の表舞台にその姿を現すのは、極めて限定された、しかし決定的に重要な一場面においてである。最も信頼性の高い史料である『信長公記』の記述に基づき、この名馬が歴史上いかなる存在として位置づけられていたのかを詳細に分析する。
天正九年(1581年)、織田信長はその権勢の頂点にあった。前年には宿敵であった石山本願寺を屈服させ、武田勝頼の勢力も衰退の一途をたどる中、信長の天下統一事業はまさに最終段階を迎えようとしていた。この時期に京都で挙行された「御馬揃え」は、単なる軍事演習や閲兵式の範疇を遥かに超える、壮大な政治的パフォーマンスであった 3 。
この催しの主たる目的は、正親町天皇に織田軍団の威容を披露し、その権威を背景として、天下万民に自らの支配が盤石であることを知らしめることにあった 5 。『信長公記』には、この馬揃えの壮麗さに「貴賎 耳目を驚かし申すなり」と記されており、都の人々が度肝を抜かれた様子が伝わってくる 7 。さらに重要なのは、この催しが信長からの一方的なデモンストレーションではなく、天皇側からの観覧希望に応える形でもあったという点である 5 。実際に馬揃えの半ばには、天皇から「かほど面白き御遊興、天子、御叡覧・御歓喜 斜ならざる」との賞賛の綸言(りんげん)が信長に下賜されており、信長と朝廷との間に築かれた、単なる威圧や従属ではない、強固かつ複雑な関係性を象徴する出来事であった 7 。
この華々しい政治劇のハイライトとも言えるのが、信長自身が誇る名馬たちの行進であった。『信長公記』巻之十四「御馬揃之事」は、その様子を次のように記している。
「厩別当: 青地與右衛門、御奉行なり。…(中略)… 一番:鬼蘆毛。右御先へ水桶持ち、御幟さし、ひさく持ち、今若。御鞍重ね唐織物、同あおり、同前、雲形は紅の金襴なり。二番:小鹿毛。」 7
この記述が持つ意味は計り知れない。御馬揃えという、信長の権威を誇示するために計算され尽くした一大イベントにおいて、登場する要素の順序や配置は極めて重要な政治的意味を帯びる。現代の式典やパレードにおける序列と同様、そこに偶然が入り込む余地は少ない。『信長公記』が明確に「一番」「二番」と番号を振って馬を列記している事実は、この順番が信長自身によって定められた公式な「価値の序列」であったことを示唆している。
その序列の筆頭、すなわち「一番」に据えられたという事実は、「鬼芦毛」が数多の献上馬や名馬の中で、単なる「お気に入りの一頭」ではなく、名実ともに信長のコレクションの頂点に君臨する「最も価値ある一頭」として公に宣言されたことを意味する。これは、信長が「鬼芦毛」を自己の威光と権威を象徴する存在として位置づけ、天下に知らしめるための、高度な政治的演出であったと解釈できる。
信長が芦毛の馬を公の場で披露したのは、京都御馬揃えだけではない。同年八月一日に、本拠地である安土で行われた馬揃えにおいても、信長は芦毛の馬に騎乗している。
「八月朔日、五畿内 隣国の衆、安土にあり侯て、御馬揃え。信長公 御装束、白き御出立ち。御笠にて、御ほうこう召され、虎皮の御行縢、葦毛御馬なり。」 7
この時の信長の出で立ちは、白を基調とした装束に、虎の皮で作られた行縢(むかばき)という異国の珍品を合わせ、それに「芦毛の馬」を配するという、極めて斬新かつ計算されたものであった。この組み合わせは、信長の常人離れした革新的な美意識と、卓越した自己演出の才能を如実に示している 9 。
戦国時代の軍馬としては、白く目立つ芦毛は敵からの標的になりやすく、隠密性という観点からは不向きであると一般的に考えられていた 11 。しかし、信長はそうした実用的な評価基準を意に介さず、むしろ観衆の耳目を集めるための「舞台装置」として芦毛の馬を積極的に活用した。彼の美意識は、単なる個人的な趣味ではなく、政治的権威と不可分に結びついていた。派手な装束と人目を引く馬という組み合わせは、「見られる」ことを強く意識したものであり、信長が自身のパブリックイメージを構築する上で、馬を単なる移動手段や兵器としてではなく、自らのカリスマ性を高めるための重要な小道具として捉えていたことを物語っている。
「鬼芦毛」という名は、その構成要素である「鬼」と「芦毛」という二つの言葉に、当時の文化的な意味合いや歴史的背景が色濃く反映されている。この名を解読することは、信長がこの馬に与えた(あるいは認めた)価値の重層的な意味を理解する鍵となる。
「鬼芦毛」という名の由来として最も広く知られているのは、「芦毛の荒馬」であったという説である。確かに、「鬼」という接頭辞は、常軌を逸した力や気性の荒さを示す際に用いられることがあった。例えば、武田信玄の父・信虎の愛馬は「鬼鹿毛」と呼ばれ、その勇猛さで知られていた 12 。この文脈に倣えば、「鬼芦毛」もまた、常人には乗りこなせないほどの気性の激しさを持っていたと推測することは可能である。
しかし、「鬼」という言葉が持つ意味は、単なる凶暴さや荒々しさに留まらない。それは同時に、人知を超えた力を持つ存在、畏怖の念を抱かせる超越的な存在をも指し示す。信長が天下人として君臨する中で、その乗馬に求められたのは、単なる乗りやすさ以上に、主の威光を体現する圧倒的な風格や威圧感であっただろう。したがって、「鬼」という名は、その馬が持つ並外れた存在感や神々しさに対する、一種の最大級の賛辞であった可能性も十分に考えられる。
特筆すべきは、「鬼葦毛」という名の馬が、歴史上、信長の愛馬以前にも存在していたという事実である。平安時代末期の武将、木曽(源)義仲の愛馬として、その名が軍記物語の傑作『平家物語』に記されているのだ。
「聞こゆる木曽の鬼葦毛(おにあしげ)といふ馬の、きはめて太うたくましいに、金覆輪(きんぷくりん)の鞍置いてぞ乗つたりける。」 14
この木曽義仲の「鬼葦毛」は、悲劇の英雄と共に戦場を駆け抜けた名馬として、武士階級の間で広く知られた存在であった 16 。信長ほどの教養人が、この有名な故事を知らなかったとは考えにくい。彼が自らの愛馬に同じ名前を冠した(あるいは家臣が付けた名を許した)のは、単なる偶然の一致ではなく、より深い意図に基づいた、高度な文化的戦略であった可能性が指摘できる。
すなわち、信長は自らを木曽義仲のような古の猛将になぞらえ、その勇猛果敢でありながらも悲劇的な英雄のイメージをも、自らの権威の内に取り込もうとしたのではないか。戦国武将は、自らの家系の正当性や武勇を飾るために、過去の英雄や物語を巧みに引用することが常であった。信長は、革新者であると同時に、こうした伝統的な権威の構造を熟知し、それを巧みに利用する人物でもあった。信長の「鬼芦毛」は、木曽義仲の馬へのオマージュであると同時に、その伝説的な武勇と名声を自らが継承するという宣言でもあった。これにより、信長は自身を単なる一代の成り上がりではなく、歴史に根差した正統な覇者として位置づけることを狙ったと解釈することができる。
「芦毛」という毛色もまた、戦国時代において二律背反的な評価を受けていた。一方で、源平の時代から、円形の灰白色のまだら模様を持つ「連銭葦毛」などが武将に好まれ、珍重されてきたという歴史がある 13 。年齢を重ねるにつれて毛色が白く変化していく様子は神秘的であり、その独特の美しさは所有者のステータスを高めるものであった。
他方で、先にも述べた通り、戦場での実用性という観点からは、特に夜襲や奇襲において敵に発見されやすいという致命的な欠点を持っていた 11 。さらに、日本の伝統的な信仰において、白い馬は神の使い(神馬)として神聖視される傾向があった 3 。芦毛の馬が最終的に白馬となることから、ある種の神聖なオーラを帯びた存在と見なされることもあっただろう。
信長は、この芦毛の馬が持つ「戦場での不利」という実用的な欠点を、逆手にとって「天下人の象徴」という政治的・文化的な利点へと昇華させた。彼の時代、特に天下統一が目前となった段階では、馬の価値基準は、戦場での機能性から、主君の権威を華やかに飾る象徴性へと重心が移りつつあった。信長は、人目を引く美しい芦毛の馬をあえて公の場で披露することで、この新しい価値基準を自ら創造し、体現したのである。その「非実用性」こそが、もはや戦の勝敗のみに汲々としない、平時を支配する者の絶対的な権力と余裕、そして洗練された美意識の証となったのだ。
「鬼芦毛」の卓越性を理解するためには、この馬を、信長が所有した数々の名馬という、より広範なコレクションの中に位置づけて考察する必要がある。そこからは、当時の馬が持っていた政治的・経済的価値と、信長の権力構造が見えてくる。
信長は、当代随一の馬好きとして知られ、優れた馬を精力的に収集していた 13 。戦国時代において、馬は単なる趣味の対象ではなかった。それは有力武将の権威を示すステータスシンボルであり、騎馬隊を構成する軍事力の根幹であり、そして同盟関係や主従関係を確認するための重要な外交資産でもあった。贈答品としての名馬の価値は極めて高く、現代の貨幣価値に換算して数千万円から億単位に達することもあったと推測されている 19 。
信長の権威が高まるにつれ、全国の諸大名から名馬が献上されるようになった。これは、信長への服従と忠誠を示す、極めて重要な政治的行為であった 20 。史料からは、以下のような献上の事例が確認できる。
これらの献上馬リストの中に、「鬼芦毛」の入手経緯に関する明確な記録は見当たらない。この事実は、「鬼芦毛」がこうした大名からの献上品ではなく、信長が別の特別なルートで入手した、あるいは元々自身の領内で見出された、より個人的な繋がりの深い存在であった可能性を示唆している。しかし、これはあくまで状況証拠からの推測であり、断定はできない。
京都御馬揃えで「鬼芦毛」に続いて登場した馬たちの存在は、信長のコレクションの層の厚さを物語っている。『信長公記』の記述に基づき、信長が披露した御馬の序列を整理すると以下のようになる。
序列 |
馬名 |
馬装・特徴 |
考察 |
一番 |
鬼芦毛(鬼葦毛) |
唐織物、紅の金襴の雲形文様をあしらった豪華な鞍 7 |
まさに天下人の乗馬にふさわしい筆頭の名馬。その名と序列から、信長の絶対的な寵愛を受けていたことが窺える。 |
二番 |
小鹿毛 |
- |
鬼芦毛に次ぐ高評価。鹿毛は一般的な毛色だが、特に優れた個体であったと考えられる 7 。 |
三番 |
大葦毛 |
- |
複数の芦毛を所有していたことがわかる。鬼芦毛とは異なるタイプの芦毛馬か。一部資料では「大あし毛」と記される 8 。 |
四番 |
遠江鹿毛 |
- |
遠江国(現在の静岡県西部)産、あるいは同地から献上された鹿毛の名馬か。産地が名の一部となる例 8 。 |
五番 |
小雲雀(こひばり) |
- |
後に重臣の蒲生氏郷に下賜される名馬 13 。家臣への下賜品となることからも、その価値の高さがわかる。 |
六番 |
河原毛(かわらげ) |
- |
黄色みを帯びた珍しい毛色の馬。信長の多様なコレクションを示す一例 8 。 |
この一覧は、「鬼芦毛」がいかなる名馬たちの中で「一番」と評価されたのかを客観的かつ相対的に示している。信長が鹿毛、芦毛、河原毛といった多様な毛色の馬を揃え、それぞれに価値を見出していたことがわかる。その中でも「鬼芦毛」が筆頭に置かれた事実は、この馬が信長にとって単なる優れた馬の一頭ではなく、自らの権威を象徴する特別な存在であったことを改めて裏付けている。
栄華を極めた信長とその愛馬「鬼芦毛」の物語は、天正十年(1582年)六月二日、本能寺の変によってあまりにも突然の終焉を迎える。この歴史的事件の混乱の中、「鬼芦毛」の消息は完全に途絶えることとなる。
本能寺の変は、日本の歴史上、類を見ないほど権力の中枢が急襲され、完全に破壊された事件であった 23 。信長はわずかな手勢と共に本能寺に滞在中に明智光秀の大軍に包囲され、奮戦の末に自刃したと伝えられる 24 。その際の混乱と火勢は凄まじく、謀反の首謀者である光秀が躍起になって捜索したにもかかわらず、信長の遺体すら発見できなかった 25 。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの報告書『日本史』は、信長の最期を「諸人がその声ではなく、その名を聞いたのみで戦慄した人が、毛髪も残らず塵と灰に帰した」と記している 27 。
このような状況下で、「鬼芦毛」の最期に関する記録が一切存在しないのは、単なる記録漏れや史料の散逸とは考えにくい。それは、主君の遺体すら灰燼に帰すほどの未曾有のカタストロフィがもたらした、歴史的な必然であった。事件の当事者や目撃者にとっての最大の関心事は、信長の生死と、その後の政治的権力の行方であり、厩に繋がれた一頭の馬の運命を記録する精神的・物理的余裕も、またその動機も存在しなかったであろう。したがって、「鬼芦毛」の消息が不明であるという事実そのものが、本能寺の変がいかに激しく、そして混乱を極めた事件であったかを物語る「物言わぬ証拠」なのである。
史料的な裏付けが一切ないことを前提とした上で、論理的に考えうる「鬼芦毛」の運命については、いくつかのシナリオが想定される。
これらのいずれが真実であったとしても、それを証明する術はもはやない。「鬼芦毛」は、その主君である信長と共に、歴史の舞台から忽然と姿を消したのである。
本報告書における調査の結果、「鬼芦毛」は、単なる伝承上の存在ではなく、『信長公記』という一級史料にその名を明確に刻まれた、実在の馬であったことが確認された。
その存在は、信長の権勢がまさに頂点に達した天正九年、天下人の威光を内外に示すための壮大な政治的パフォーマンス「京都御馬揃え」において、最も重要な象徴として序列第一位の栄誉を与えられた名馬であった。その名に冠された「鬼」の一字は、人知を超えた風格と、木曽義仲という古の英雄の伝説を想起させ、信長の権威をさらに高める役割を果たした。また、信長が実用性よりも象徴性を重んじ、あえて「芦毛」の馬を寵愛した背景には、旧来の価値観を打ち破る彼独自の革新的な美意識と統治哲学が存在した。
しかし、その輝かしい存在は、主君である織田信長の劇的な死と共に、一切の記録を残すことなく歴史の舞台から姿を消した。本能寺の炎は、信長の肉体のみならず、彼が築き上げた権威の象徴であったこの名馬の運命をも呑み込んでしまったのである。
結論として、「鬼芦毛」の物語は、織田信長という人物の栄光の頂点と、そのあまりにも突然の終焉を、鮮やかに象徴していると言える。その存在は疑いようのない史実でありながら、その最期は伝説の領域に属する。この史実と伝説の狭間に立つ一頭の名馬の姿を追うことは、信長の天下とは何であったのか、そしてその権力がいかにして確立され、いかにして脆くも崩れ去ったのかを、改めて問い直すための魅力的な視座を提供してくれるのである。