本報告書は、五島美術館に所蔵される伝徽宗皇帝(きそうこうてい)筆「鴨図」について、その作品的特徴、筆者と目される徽宗皇帝の芸術、様式的検討、そして日本、特に戦国時代における伝来と受容の様相を詳細に調査し、美術史的な意義を明らかにすることを目的とする。中国北宋末期の皇帝でありながら、芸術に深い理解と才能を示した徽宗の名は、日本においても早くから知られ、その作品や様式は珍重されてきた 1 。本作品は「伝」の冠辞が示す通り、徽宗の真筆とするには制作年代にずれがあるものの 2 、室町時代には足利将軍家のコレクション「東山御物(ひがしやまごもつ)」の一つとして数えられ 1 、さらに戦国時代の茶人・津田宗及(つだそうぎゅう)の茶会記『天王寺屋会記(てんのうじやかいき)』に本図と思われる記述が見られる可能性が指摘されるなど 2 、日本の文化史、特に中国絵画受容史において重要な位置を占める作品である。本報告では、これらの点を踏まえ、多角的な分析を試みる。
伝徽宗筆「鴨図」に関する基本的な作品情報は以下の通りである。
【表1:「鴨図」作品基礎データ】
項目 |
内容 |
出典 |
作品名 |
鴨図(かもず) |
2 |
伝承筆者 |
徽宗皇帝筆と伝わる |
1 |
制作年代 |
南宋時代・13世紀 |
1 |
材質・技法 |
絹本著色(けんぽんちゃくしょく)、一幅 |
2 |
寸法 |
縦37.8cm 横25.7cm |
2 |
所蔵 |
五島美術館蔵 |
1 |
この基礎データは、本作品が中国南宋時代に制作された絹地に彩色を施した絵画であり、掛軸として表装され、現在は五島美術館に収蔵されていることを示している 2 。伝承筆者とされる徽宗皇帝(1082年~1135年)は北宋末期の人物であり、制作年代とされる13世紀(南宋時代)とは時期的な隔たりがある点に留意が必要である 2 。この年代のずれは、本作品が徽宗の直接の筆によるものではなく、徽宗の画風を継承した南宋の宮廷画家、あるいは画院周辺の画家によって制作された可能性が高いことを示唆している。それにもかかわらず「伝徽宗筆」とされる背景には、徽宗自身の芸術家としての名声や、彼が奨励した院体画様式の影響力、そして日本における唐物、特に高名な皇帝や画家の作品に対する憧憬があったと考えられる 1 。
本作品は、後方を振り返り、丁寧に羽繕いをする一羽の雄鴨の姿を描いている 1 。雄鴨は画面中央やや下寄りに配され、その緻密な描写が目を引く。墨を基調とした落ち着いた色彩で描かれており、羽毛の質感や量感が巧みに表現されている 1 。
花鳥画における鴨という主題は、水辺の情景や季節感を想起させるとともに、時に吉祥的な意味合いを込めて描かれることもある。徽宗自身も写生に基づいた精緻な花鳥画を得意としたとされ 5 、本作品の雄鴨の写実的な描写は、その系譜を引くものと考えられる。羽繕いという日常的な、しかし一瞬の動きを捉えたポーズは、動物の生態に対する深い観察眼と、それを的確に表現する描写力を示している。徽宗が画院の画学生に対して制作指導も行ったという記録もあり 5 、このような動物の生態観察と写実表現の重視は、当時の画院における重要な課題であった可能性がうかがえる。このポーズの選択は、単に形態を写すだけでなく、生き物としての鴨の自然な姿、ひいては生命感そのものを画面に捉えようとする意図の表れと解釈できよう。
「鴨図」の筆者と伝えられる徽宗(1082年~1135年、在位1100年~1125年)は、中国北宋末期の第八代皇帝である 2 。彼は為政者としての評価は必ずしも高くない一方で、芸術の世界に深く傾倒し、詩文、書、絵画のいずれにおいても卓越した才能を示したことで知られる 1 。自ら絵筆を執り、多くの美術品を収集し、宮廷内に画院の制度を整備拡充して、画学生の試験の出題や制作指導にもあたったと伝えられる 1 。その芸術への熱意と才能から「風流天子」とも称された 5 。
徽宗の芸術庇護政策は、当時の中国絵画、特に院体画の発展に大きな影響を与えた。皇帝自らが芸術の規範を示し、高い水準を要求したことは、画院全体の質の向上に繋がったと考えられる。また、徽宗が編纂させた『宣和書譜』や『宣和画譜』といった大規模な書画目録は、当時のコレクションの壮大さを示すとともに、後世の書画鑑定における重要な典拠となった。これらの活動は、中国美術史における徽宗の特異な位置を確立し、その作品や様式は後代の画家たちにとって規範の一つとなった。日本においても、徽宗の名は早くから知られ、その作品は東山御物をはじめとするコレクションの至宝として珍重された 3 。
徽宗は特に花鳥画に優れ、写実に基づいた精緻な描写を得意とした 5 。彼の指導のもと、北宋の画院では写実的で装飾性の高い院体画が隆盛した。院体画とは、宮廷に所属する画家たちによって制作された絵画の総称であり、皇帝や宮廷の需要に応えるため、主題の明確さ、技巧の高さ、そして品格のある様式が求められた 8 。
徽宗の画風について、後代の文献では主題が鮮明であること、平面的に展開されること、細緻な筆致を用いること、構図において余白を巧みに生かすこと、そしてある種の人為的な美意識が特徴として挙げられている 9 。一方で、遠近感や空間の奥行き表現は希薄で、対象そのものの形態や色彩の精密な再現に重点が置かれたとも指摘される 9 。
「鴨図」は、このような徽宗の画風を受け継ぎつつ、南宋時代に「発展した描法」を示す作品とされている 2 。北宋が滅亡し南宋に移行すると、院体画も変化を遂げる。南宋の院体画は、北宋の写実性を基盤としながらも、より詩情豊かな表現や、画面の一部を切り取ったような「小景」と呼ばれる構図、あるいは対角線を意識した構図などが特徴として現れる 10 。また、墨そのものの美しさや、墨面と色面の効果的な組み合わせも追求された 10 。「鴨図」が南宋13世紀の作であるならば、徽宗様式の厳格な写実性に加え、こうした南宋的な感性や技法が融合している可能性が考えられる。
徽宗筆と伝わる作品はいくつか現存しており、それらとの比較は「鴨図」の様式的特徴を理解する上で有益である。
【表2:徽宗皇帝伝承主要花鳥画比較】
作品名 |
所蔵 |
伝承制作年 |
材質・技法 |
主題 |
様式的特徴(「鴨図」との比較点) |
出典 |
鴨図 |
五島美術館 |
南宋時代・13世紀 |
絹本著色 |
羽繕いする鴨 |
墨を基調とした丁寧な描写。南宋院体画の発展した描法。 |
1 |
桃鳩図(国宝) |
個人蔵 |
北宋・大観元年(1107年) |
絹本著色 |
桃の枝に鳩 |
没骨描を多用。痩金体の款記。工筆技法重視、主題の細緻な捉え方。「平面的でありながら立体的」と評される。東山御物。 |
3 |
翠竹双禽図巻 |
メトロポリタン美術館 |
北宋・12世紀初頭 |
絹本墨画着色 |
竹と二羽の鳥 |
写実的な花鳥画の代表作。徽宗の画院で取り入れられた様式。鳥は平面的だが正確な描写。 |
11 |
五色鸚鵡図巻 |
ボストン美術館 |
北宋・12世紀前半 |
絹本着色 |
杏の枝に鸚鵡 |
鉤勒の植物と没骨的な禽鳥。気品のある花鳥画。徽宗が鳥を描き、画院の画工が他を描いた可能性も指摘される。 |
12 |
日本で最も著名な徽宗伝称作品の一つである国宝「桃鳩図」は、徽宗26歳(1107年)の作と伝えられ、足利義満の鑑蔵印「天山」を持つ東山御物である 6 。桃の枝に一羽の鳩がとまる様を描き、鳩や桃の枝の多くは輪郭線を用いない没骨(もっこつ)描で表現されている 6 。その様式は、主題のみを細緻に捉え、工筆技法を重視したものと評される 9 。
「桃鳩図」が徽宗の比較的若い時期の作風を伝える可能性があるのに対し、「鴨図」はそれから100年以上後の南宋13世紀の作とされる。両者はともに東山御物として日本に伝来したが、制作年代の大きな隔たりは様式的な比較において重要な視点となる。「桃鳩図」の没骨主体の柔らかな表現や、ある種の装飾性と比較して、「鴨図」の墨を基調としたより引き締まった写実表現は、時代の様式の違いを反映している可能性がある。また、徽宗の作品にしばしば指摘される「平面性」と「立体感」の共存 3 が、「鴨図」においてどのように現れているかも比較検討の対象となる。
「鴨図」の様式を詳細に分析すると、その筆致は極めて丁寧であり、特に雄鴨の羽毛は一本一本が描き分けられているかのような精密さを見せる 1 。これは徽宗の得意とした「繊細な筆タッチ」 9 を想起させるが、単なる細密描写に留まらず、羽毛の柔らかさや量感をも的確に捉えている。輪郭線は対象によって使い分けられていると推測され、鴨の身体の丸みや羽の重なりを表現するために、墨線の太さや濃淡に変化がつけられていると考えられる。
彩色は「墨を貴重とした色彩」 1 と評されるように、華美な色彩を多用するのではなく、墨の濃淡や階調を基本としつつ、効果的に限定された色彩が用いられている。これにより、画面全体に落ち着いた調和と気品がもたらされている。このような墨と色彩の関係は、南宋院体画が追求した「墨自体の美しさ、墨面、色面の効果」 10 と通じるものがある。墨線が形態を明確に示し、淡墨や淡彩が質感や陰影、そして画面の雰囲気を醸成する上で重要な役割を果たしている。
構図においては、画面中央やや下寄りに配された雄鴨が主要なモチーフとして明確に示されている。背景は簡潔に処理され、余白が効果的に用いられていると見られる。これは徽宗の画風の特徴として指摘される「構図上は留白が多く、基本的要素の線で構図上の美感を作り出し」 9 という点と共通する可能性がある。しかし、単なる平面的な配置ではなく、鴨の振り返るポーズや羽繕いの動きによって、画面に奥行きと動感が与えられている。
「鴨図」は、五島美術館の解説によれば「徽宗の画風を受け継ぐ『院体画』の発展した描法を示す」作品とされている 2 。南宋時代の院体画は、北宋の写実主義を継承しつつも、より詩情的で情趣豊かな表現へと展開した 8 。例えば、自然の一部を切り取ってクローズアップする「小景」と呼ばれる構図や、対象への深い観察眼に裏打ちされた精緻な描写、そして画面全体を覆う気品などが特徴として挙げられる。
「鴨図」に見られる写実性と丁寧な描写は、まさに院体画の基本的な性格を示すものである。徽宗様式からの「発展した描法」という点については、例えば、北宋のやや硬直的とも評される写実性に対して、より自然な動感や生命感が加わっている点、あるいは構図における洗練度などが考えられる。南宋の著名な院体画家である李迪(りてき)の作品(例:東京国立博物館蔵「紅白芙蓉図」 17 )などと比較すると、写実の精度や対象への迫り方において共通する要素が見出せるかもしれない。ただし、「鴨図」の具体的な制作背景、例えば南宋画院のどの工房や系統に属する画家によるものかまでは、現時点の資料からは特定困難である。しかし、その質の高さから、画院の中でも高度な技術を持つ画家の手になるものと推測される。
前述の通り、「鴨図」は徽宗(1082年~1135年)の作と伝えられるものの、実際の制作年代は南宋時代の13世紀とされている 1 。この100年以上の年代差は、様式的な検討において重要な意味を持つ。仮に徽宗本人の様式を色濃く反映しているのであれば、それは北宋末期の画風ということになるが、13世紀の制作であれば、当然ながら南宋の時代様式が顕著に現れているはずである。
ある評では「真筆ではないという説が有力だが、写実的でありながらも、どこか精神的高潔さを感じさせる作品」 17 と述べられている。この「精神的高潔さ」という評価は、徽宗自身の芸術や、彼が目指した院体画の理想に通じるものかもしれない。しかし、様式的には、徽宗の厳格でやや分析的な写実性とは異なり、南宋的なより柔軟で詩情を帯びた写実性へと変化している可能性が考えられる。例えば、徽宗の作品に指摘される平面的な構図や人為的な美感 9 と比較して、「鴨図」がどの程度空間の奥行きや自然な空気感を表現し得ているか、という点は重要な比較ポイントとなる。
「伝徽宗」という帰属は、作品の伝来や評価に大きな影響を与えたと考えられる。たとえ真筆でなくとも、「徽宗風」の作品であること、あるいは徽宗の名を冠すること自体が、特に日本においては高い価値を持つ要因となった 1 。南宋13世紀という制作年代の根拠については、現存する同時代の他の院体花鳥画との様式的比較(筆致、彩色、構図、絹や絵具の質など)に基づいて推定されているものと考えられるが、本報告書の範囲ではその詳細な論証過程までは踏み込めない。しかし、専門家の間でこの年代が共通認識となっていることは、作品の様式が南宋13世紀の特徴を明確に示していることを物語っている。
「鴨図」の日本における伝来を考える上で最も重要な点は、本作品が足利将軍家旧蔵の美術品コレクションである「東山御物」の一幅であったという事実である 1 。東山御物とは、主に室町幕府三代将軍足利義満から八代将軍義政の時代にかけて収集された中国絵画(唐絵)、墨蹟、茶道具などの総称であり、当時の日本の文化・芸術に計り知れない影響を与えた 3 。これらの美術品は、単に将軍家の私的な趣味の品であるに留まらず、政治的な権威の象徴であり、また文化的な規範を形成する役割も担った 3 。
東山御物の収集は義満に始まり、義政の時代にそのコレクションが「東山殿御物」として特に知られるようになった 3 。これらの唐物は、室町幕府の権勢を背景に、日明貿易などを通じて日本にもたらされたと考えられている。東山御物は、後の時代の美術品鑑賞や蒐集の基準となり、日本の美術史における「古典」としての地位を確立した 3 。
足利将軍家の絵画コレクションの内容を伝える重要な史料として、能阿弥の撰述と伝えられる『御物御絵目録(ぎょもつおんえもくろく)』がある。この目録には、当時将軍家が所蔵していた中国絵画が作家名や主題などと共にリストアップされており、東山御物の実態を知る上で不可欠なものである。
美術史家の板倉聖哲氏によれば、『御物御絵目録』には徽宗筆とされる絵画が10点記載されており、そのうち現存作と確実に同定できる作品が5点あるという 20 。そして、2014年に三井記念美術館で開催された「東山御物の美」展では、この5点全てが一堂に会し、その中に五島美術館所蔵の「鴨図」も含まれていた 20 。このことは、「鴨図」が室町時代において既に足利将軍家のコレクションにあり、徽宗筆(あるいは徽宗様式を伝える重要な作品)として認識・評価されていたことを強く示唆する。目録における具体的な記載内容や、他の徽宗画(例えば国宝「桃鳩図」や「秋景・冬景山水図」など)との関係性については、さらなる史料研究が待たれるが、「鴨図」が東山御物の中でも由緒正しい作品の一つであったことは疑いない。この「確定できる5点」という指摘は、目録記載の作品と現存作品との照合研究が相当程度進んでいることを示しており、その同定は作品の様式、主題、寸法、伝来経緯、関連史料などを総合的に検討した結果であろう。
室町幕府の権威が揺らぎ、群雄割拠の戦国時代に入ると、東山御物をはじめとする多くの美術品が将軍家から有力武将や豪商、寺社などの手に渡っていった 3 。この時代、中国から舶載された絵画や工芸品、いわゆる「唐物(からもの)」は、美術的価値のみならず、社会的・経済的にも極めて高い価値を持つようになった 1 。
特に、戦国時代に隆盛した茶の湯の文化は、唐物の価値を一層高める要因となった。茶会においては、床の間に掛ける掛物(主に書画)や、茶碗、茶入などの道具が重視され、これら唐物の名品を所有し、茶会で披露することは、武将や豪商にとって自身の権力、財力、そして教養を示す重要な手段であった 21 。織田信長は、茶の湯を政治的に利用し、功績のあった家臣に対して領地の代わりに名物茶器を与えることもあったと伝えられるほどである 21 。
「鴨図」のような徽宗筆と伝わる高名な画家の作品は、唐物の中でも特に珍重され、茶会の席で披露されれば、その場の雰囲気を高め、主客の間の文化的な交流を深める上で大きな役割を果たしたと考えられる 22 。掛軸は、持ち運びが比較的容易であるため、所有者が変わっても大切に受け継がれやすく、戦乱の世にあってもその価値を失いにくかった。このような背景のもと、「鴨図」もまた、戦国武将や豪商たちの間で、垂涎の的となっていた可能性が高い。
戦国時代の堺の豪商であり、千利休、今井宗久と並び称される大茶人であった津田宗及(生年不詳~1591年)が残した茶会記『天王寺屋会記』は、当時の茶の湯文化や美術品の動向を知る上で第一級の史料である 23 。この『天王寺屋会記』の中に、五島美術館所蔵の「鴨図」に言及した可能性のある記述が存在すると指摘されている 2 。
具体的には、永禄十二年(1569年)の条に、博多屋宗寿(はかたやそうじゅ)という人物が催した茶会に宗及が出席した際の記録があり、そこで「鴨の絵」が掛けられていた旨の記述が見られるという 2 。この「鴨の絵」が、現存する五島美術館の「鴨図」そのものであるという説である。津田宗及自身も多くの唐物茶器を所有し、美術品に対する優れた鑑識眼を持っていたことで知られており 25 、彼が記録した茶会の道具組は信頼性が高いと考えられる。
『天王寺屋会記』の永禄十二年の博多屋宗寿茶会に関する記述が、五島美術館の「鴨図」を指すかどうかについては、慎重な検討が必要である。茶会記における美術品の記述は、往々にして簡潔であり、例えば「徽宗筆 鴨図」といった明確な記載がない限り、他の「鴨図」である可能性を完全に排除することは難しい。実際に、徽宗筆と伝わる別の鴨図の存在も示唆されている 26 。
この説の当否を判断するためには、『天王寺屋会記』の該当箇所の正確な翻刻と、その記述内容(例えば、筆者名、主題の詳細、寸法、表装、あるいは同席者の評価など)を詳細に分析する必要がある。また、当時の博多屋宗寿という人物の背景や所蔵品に関する他の情報、あるいはこの説を支持する研究者の具体的な論拠などを突き合わせることも重要となる。
しかし、もしこの説が有力であるとすれば、それは極めて興味深い事実を明らかにする。すなわち、足利将軍家の秘蔵であった東山御物の一つが、戦国時代中期には堺の町衆である津田宗及が参加する茶会で鑑賞されていたということになる。これは、室町幕府の権威の失墜と、新興の商人層の文化的・経済的台頭という、戦国時代の社会変動を象徴する出来事と捉えることができる。また、美術品が将軍家から有力武将、そして豪商へと流通していく具体的な経路や、茶会を通じた文化交流のネットワークの一端を垣間見せる貴重な事例となるだろう。
「鴨図」が徽宗皇帝筆と伝承されてきた背景には、いくつかの要因が考えられる。まず第一に、徽宗自身の芸術家としての卓越した名声と、彼が確立・奨励した院体花鳥画様式の影響力の大きさである 1 。徽宗の作品や様式は、後代の画家たちにとって一つの理想形となり、その影響は長く続いた。第二に、日本における唐物崇拝、特に皇帝や高名な文人画家の作品に対する強い憧憬である 3 。徽宗の名は、その作品の芸術的価値を高め、権威づける上で極めて効果的であった。
本作品は、実際の制作年代が南宋13世紀とされることから、徽宗の直接の筆によるものではない可能性が高い。しかし、それは作品の価値を損なうものではなく、むしろ徽宗様式を継承しつつ、南宋の時代様式を反映した優れた院体花鳥画として評価されるべきである 2 。徽宗が理想とした写実性、技巧性、そして気品といった要素を、時代を経て継承し、南宋画院の画家が独自の解釈と技法を加えて昇華させた成果と見なすことができる。
さらに、本作品が足利将軍家のコレクション「東山御物」の一つとして日本に将来され、大切に伝えられてきたという来歴は、その歴史的価値を一層高めている 1 。東山御物に選定されたということは、当時の日本の最高権力者と、彼らに仕えた同朋衆などの目利きたちによって、その芸術的価値が高く評価されたことを意味する。作品自体の質の高さに加え、徽宗伝称という権威、そしてそれを評価した日本の鑑識眼が、「鴨図」を今日まで伝える原動力となったと言えよう。
「鴨図」を含む宋元の院体画は、日本の絵画史、特に室町時代以降の狩野派や、後の琳派などの花鳥画の展開に、直接的あるいは間接的に影響を与えたと考えられる。ある研究では「日本画の発生は宋院画を真似ることから」 9 と指摘されており、宋代院体画の写実性や構図、主題などは、日本の画家たちにとって重要な学習対象であった。
近代以降の美術史研究においても、「鴨図」は注目され、その様式や伝来について様々な議論がなされてきた。特に、2004年に根津美術館で開催された「南宋絵画―才情雅致の世界」展や、2014年に三井記念美術館で開催された「東山御物の美―足利将軍家の至宝―」展など、重要な展覧会に出品され、図録等で詳細な解説がなされている 20 。これらの展覧会は、東京大学東洋文化研究所の板倉聖哲氏をはじめとする専門家によって企画・監修されており、「鴨図」が学術的にも高い関心を集めていることを示している 20 。
「鴨図」が五島美術館に収蔵されるまでの具体的な伝来経路については、断片的な情報を繋ぎ合わせる必要がある。例えば、川崎男爵家の旧蔵であったという情報 26 が五島美術館本を指すのであれば、近代の著名なコレクターの手を経ていることになる。このような伝来の軌跡を辿ることは、作品が各時代においてどのように評価され、受け継がれてきたかを明らかにし、日本の美術コレクション史の一端を照らし出す上で意義深い。現代においても、「鴨図」は歴史的価値と芸術的価値を兼ね備えた重要な文化財として、研究・鑑賞の対象であり続けている。
本報告書では、伝徽宗筆「鴨図」について、その作品情報、筆者とされる徽宗皇帝の芸術、様式的特徴、日本における伝来と受容、そして美術史的意義を多角的に検討してきた。
その結果、以下の点が明らかになった。
今後の展望としては、まず『天王寺屋会記』の記述に関するさらなる史料的検証が望まれる。また、他の徽宗伝称作品や南宋院体花鳥画とのより詳細な比較研究を通じて、「鴨図」の様式的独自性や制作背景をさらに深く掘り下げることも重要であろう。加えて、東山御物としての価値が定着した後、戦国期から江戸初期、そして近代を経て五島美術館に収蔵されるに至るまでの具体的な伝来経路を可能な限り明らかにすることも、本作品の歴史的意義をより豊かに理解する上で有益である。
一枚の絵画が、制作された時代から数百年を経て、異国の地で多様な価値を付与され、解釈され、大切に受け継がれてきた軌跡そのものが、文化の継承と変容を物語る興味深い研究対象と言えるだろう。「鴨図」は、まさにそのような歴史の重みを担う作品の一つなのである。
本報告書作成にあたり参照した主な資料は以下の通りである。