榊原康政所用「黒糸威二枚胴具足」は、六十二間筋兜と三鈷剣前立が特徴。胴の龍は肖像画のみの理想化表現。知将康政の品格と実用性を兼ね備えた桃山時代の傑作。
徳川家康の天下統一事業をその揺籃期から支え、「徳川四天王」の一人に数えられる榊原康政(1548-1606)は、単なる武勇の将ではなかった 1 。小牧・長久手の戦いにおいて、豊臣秀吉を痛烈に批判・挑発する檄文を書き、秀吉をして「康政の首に十万石の賞金を懸ける」と言わしめたほどの知略と文才の持ち主であった 3 。また、主君家康の嫡男・松平信康の乱行に対しては、命の危険を顧みず諫言するなど、その剛直な性格も知られている 2 。武勇と知略、そして忠義と剛直さを兼ね備えた康政の多面的な人物像は、彼の遺した武具を理解する上で不可欠な背景となる。
戦国時代における甲冑、すなわち「具足」は、単に敵の攻撃から身を守るための防具にとどまらない、多層的な意味を持つ存在であった。広大な戦場で敵味方を識別するための標識であり、大将の権威と威光を誇示するための装置でもあった。さらに、その意匠には所有者である武将個人の美意識や信仰、さらには政治的信条までもが色濃く反映されており、具足はまさに「着用する自己表現のメディア」としての役割を担っていたのである。
本報告書は、東京国立博物館が所蔵する重要文化財「黒糸威二枚胴具足〈兜・小具足付/(榊原康政所用)/〉」(列品番号 F-20138)を主題とする 4 。この一領が持つ美術工芸品としての価値と、戦国時代という歴史的文脈における意義を、あらゆる角度から徹底的に調査・分析することを目的とする。特に、ご依頼者が把握している情報、すなわち「胴には龍の泳ぐ様が描かれている」という点に着目する。現存する実物と、康政の姿を伝える肖像画との間に見られるこの描写の相違は、本具足をめぐる核心的な謎であり、その解明は本報告書の中心的な課題となる。
この部では、具足を構成する各要素を美術工芸品の観点から分解し、その素材、技法、意匠を専門的に解説する。
本具足の文化財としての基本情報は以下の通りである。
本具足の制作年代については、資料によって「桃山時代」(16世紀)と「江戸時代・17世紀」という二つの記述が見られる 4 。これは矛盾するものではなく、安土桃山時代の末期、すなわち16世紀末に制作され、所有者である康政が活躍した関ヶ原の戦い(1600年)を経て、江戸時代初期(17世紀初頭)に至るまで所用されたことを示唆している。桃山文化の豪壮な気風と、武家社会の秩序が確立していく江戸初期の様式が混在する、過渡期の優れた作例として位置づけることができる。
「具足」とは、元来「不足なく十分に備わっていること」を意味する言葉である 9 。甲冑においては、兜、胴、そして籠手(こて)、佩楯(はいだて)、臑当(すねあて)といった小具足(こぐそく)が一式揃った状態を指す 11 。
本具足は、戦国時代後期に主流となった「当世具足(とうせいぐそく)」という形式に分類される 12 。これは、騎馬武者の弓射戦を主眼とした旧来の大鎧や胴丸とは異なり、鉄砲という新兵器の登場や、徒歩による集団戦への戦術の変化に対応して生まれた、より実戦的な甲冑形式である。防御力を高めつつ、軽量化と動きやすさを追求した構造が特徴とされる 13 。
兜の本体である鉢は、「六十二間筋鉢(ろくじゅうにけんすじばち)」と呼ばれる精巧な作りである 15 。これは、頭部を覆う鉢を62枚もの細長い鉄板を鋲で留め合わせて構成し、その継ぎ目を筋状に盛り上げて仕上げたものである。板の枚数が多くなるほど制作には高度な技術と手間を要するため、六十二間という数は、この兜が非常に格式高く、優れた甲冑師によって作られたことを物語っている。
兜の正面には、ひときわ目を引く金色の立物が据えられている。これは仏教、特に密教において不動明王が右手に持つとされる法具「三鈷剣(さんこけん)」をかたどった前立である 3 。三鈷剣は、あらゆる魔を打ち払い、人間の根源的な煩悩や因縁を断ち切る力を持つとされる。康政が自身の部隊の旗印に「無」の一字を掲げたことは有名であるが、その「無」の境地と、煩悩を断つ三鈷剣には、仏教思想を通じた精神的な繋がりが見出せるかもしれない 16 。この前立は、単なる装飾ではなく、康政の深い信仰心や武将としての精神性を象徴していると考えられる。
この兜の価値をさらに高めているのが、兜鉢の内側に切られた「吉道作」という銘の存在である 15 。この「吉道」が何者であるかを考証する作業は、本具足の出自を探る上で極めて重要である。
まず、刀剣の世界では江戸時代に大坂で活躍した刀工・大和守吉道(やまなのかみよしみち)が著名である 17 。しかし、刀工と甲冑師は、鉄を扱う職人とはいえ、その技術体系や専門性は大きく異なる。刀工が兜を制作した例が皆無ではないものの、この「吉道」を安易に刀工と結びつけるのは早計であろう。
銘は兜鉢に切られていることから、甲冑師の銘と考えるのが最も自然である。当時の著名な甲冑師の流派としては、奈良を拠点とし、特に兜鉢の制作技術に優れていたとされる春田派(はるたは)や、武家社会で絶大な権威を誇った明珍派(みょうちんは)などが挙げられる 18 。これらの流派に「吉道」を名乗る工人がいたかどうかの明確な記録は現時点では確認できない。しかし、徳川四天王の一人である康政の注文に応じ、六十二間筋鉢という高度な技術を要する兜を制作したからには、この「吉道」が、いずれかの有力な工房に属していたか、あるいは独立して名を馳せていた高名な甲冑師であったことは疑いようがない。この銘は、制作者の自らの技量に対する自信と、注文主への敬意の表れであり、今後の甲冑研究における貴重な手がかりと言える。
身体の核を守る胴は、前胴と後胴の二つの部分から構成されている。左脇を蝶番(ちょうつがい)で連結し、右脇で引き合わせて着用する「二枚胴」と呼ばれる形式である 13 。この構造は当世具足において最も一般的であり、一人での着脱が比較的容易で、かつ堅牢性に優れるという利点があった 12 。
胴は全体が黒漆で塗られ、黒い糸で威されている。これを「黒糸威(くろいとおどし)」と呼ぶ 21 。一見すると、この胴は伊予札(いよざね)と呼ばれる小さな鉄の板を、黒糸で菱形に縫い留めて作られているように見える。
しかし、より詳細に観察すると、驚くべき技法が用いられていることがわかる。実際には、この胴は本物の小札を一枚一枚繋ぎ合わせたものではない。横長の鉄板の表面に、あたかも小札の継ぎ目であるかのように切れ込みを入れ、さらに漆を盛り上げるなどの加工を施すことで、伝統的な本小札(ほんざね)仕立てに見せかけているのである。この技法は「切付札(きりつけざね)」を用いた「縫延胴(ぬいのべどう)」と呼ばれる 23 。
なぜこのような一見すると手間のかかる偽装とも言える技法が用いられたのか。そこには、戦国時代末期の極めて合理的な思想が反映されている。鉄砲の弾丸のような高い貫通力を持つ攻撃に対しては、小さな板を繋ぎ合わせた構造よりも、一枚板に近い構造の方が防御力は格段に高い。一方で、伝統的な本小札仕立ての甲冑は、見た目の威厳や格式の高さという点で依然として価値があった。つまりこの技法は、当世具足に求められる「高い防御力」という実用性と、伝統的な甲冑が持つ「格式高い外観」という審美性を、同時に満たすための画期的な工夫であった。まさに桃山時代らしい、合理的精神と高度な職人技が融合した産物と言えよう。
本具足は、兜と胴だけでなく、腕を守る籠手(こて)、大腿部を守る佩楯(はいだて)、そして脛を守る臑当(すねあて)といった「小具足」が一式揃って現存している 4 。これらが欠けることなく一揃いで伝来している点は、資料としての価値を著しく高めている。
装飾面で最も重要なのが、榊原家の家紋である「源氏車(げんじぐるま)」の扱いでる。この紋は、兜の左右にある吹返(ふきかえし)という部分に、金蒔絵(きんまきえ)という豪華な技法で施されている 25 。
e国宝の解説によれば、この家紋は「家康から拝領した際に施されていたとは考えがたく、拝領後に加えられたものであろう」と考察されている 25 。この点は非常に示唆に富む。なぜなら、家紋を後から加えるという行為には、単なる装飾以上の意図が隠されている可能性があるからである。
「源氏車」紋は、平安貴族が用いた牛車の車輪を意匠化したもので、藤原秀郷の流れを汲む佐藤氏が用いたことで知られる 26 。榊原氏は元々伊勢の出自で、藤原氏の系統を称していた可能性が指摘されている 28 。しかし、主君である徳川家康が「清和源氏」を称するようになると、康政もまた源氏を称するようになったという 28 。
この背景を踏まえると、榊原氏が「源氏車」を家紋とした行為は、自らの家系のルーツを主君・徳川家と同じ「源氏」に結びつけ、徳川一門としての正統性と、家康への絶対的な忠誠を視覚的に示すための、極めて戦略的な選択であったと推測できる。家康からの拝領品という栄誉ある具足に、後から自らの家紋を刻む。それは、この具足が名実ともに榊原康政のものであることを宣言すると同時に、徳川家における自らの地位を不動のものとするための、政治的な意思表示であったと解釈することが可能である。
この部では、所有者である榊原康政の人物像や他の所用具足、そして肖像画との関係から、本具足が持つ歴史的な意味を深く掘り下げる。
黒を基調とし、奇抜な装飾を排して素材と造形の良さで品格を示す本具足の様式は、知略に長け、質実剛健であったと伝わる康政の人物像と見事に重なる。華美に走らず、本質で勝負するという姿勢は、彼の生き方を反映しているかのようである。
その一方で、康政には心温まる逸話も伝わっている。若く貧しかった頃、将来を期待した先輩から餞別として譲り受けたという、擦り切れた粗末な鎧を、大身となった後も出陣の際には必ず傍らに置かせ、大切にし続けたという 1 。この逸話は、康政が義理堅く、初心を忘れない人間であったことを示している。本具足のような最高級の一領を所用する立場になっても、その根底にある精神性は変わらなかったことをうかがわせる。
康政は生涯において複数の具足を所有し、戦の規模や儀礼の有無といった状況に応じて、それらを戦略的に使い分けていたと考えられる。これは現代のファッションにおける「ワードローブ」の概念にも通じるもので、武将が自己をいかに演出し、見せていたかを考える上で興味深い視点を提供する。
これらの具足の役割分担を明確にするため、以下の表を作成した。
表1:榊原康政所用とされる主要具足の比較一覧
名称 |
形式 |
特徴 |
伝来・背景 |
想定される用途・意味 |
黒糸威二枚胴具足 |
当世具足(二枚胴) |
黒糸威、三鈷剣前立、六十二間筋兜、「吉道作」銘 |
榊原家伝来、東京国立博物館所蔵 |
公式な軍装、儀礼。知将としての品格と威厳の象徴。 |
紺糸威南蛮胴具足 |
当世具足(南蛮胴) |
紺糸威、西欧製兜、高い防御力 |
徳川家康より拝領 30 |
重要決戦(関ヶ原等)。最新鋭装備による実戦能力と家康からの信頼の証。 |
茶糸素懸威黒塗桶側五枚胴具足 |
当世具足(五枚胴) |
茶糸素懸威、鉢巻型兜 |
初陣着用と伝わる 31 、榊神社蔵 32 |
個人的な思い入れ。武将としての原点、初心を象徴。 |
この表は、一人の武将が複数の甲冑を所有し、それらを単なる道具としてではなく、状況に応じて自らを演出するための戦略的なツールとして用いていたことを明確に示している。
東京国立博物館には、本具足(F-20138)と一括で伝来した「榊原康政像」(F-20138-2)という肖像画が存在する 3 。この肖像画は、康政が本報告書の主題である黒糸威二枚胴具足を着用した姿を描いたものとされ、両者を比較検討することは極めて重要である 34 。
この比較において、本報告書の核心的論点である「龍の謎」が解明される。
結論として、ご依頼者が把握していた「龍の泳ぐ様」は、実物の具足に施された装飾ではなく、この 理想化された康政の肖像画 に由来するものであった。これは、歴史における事実(実物)と表象(肖像画)の興味深い関係性を示す、またとない事例と言える。
この部では、同時代の他の武将たちの具足と比較することで、本具足の独自性と歴史的意義をさらに明確にする。
徳川家康を支えた四天王は、それぞれが強烈な個性を持つ武将であったが、その個性は彼らの具足にも色濃く反映されている。
これらの個性的な具足と比較すると、榊原康政の黒糸威二枚胴具足が持つ独自性が際立ってくる。忠勝の「個の武勇」、直政の「軍団の力」とは一線を画し、康政の具足は「知将の品格」と「抑制された威厳」を表現している。黒という色は、他の全ての色を吸収し、全体を引き締める効果がある。それは、戦場で冷静沈着に指揮を執る司令官として、また主君に的確な諫言を行う知恵袋としての康政の一面を象徴しているのかもしれない。
表2:徳川四天王の具足比較
武将名 |
具足の通称・形式 |
基本色 |
兜の最大の特徴 |
具足が与える印象と人物像との関連 |
榊原康政 |
黒糸威二枚胴具足 |
黒 |
三鈷剣の前立 |
知的、品格、抑制された威厳。知勇兼備の将。 |
本多忠勝 |
黒糸威胴丸具足 |
黒 |
巨大な鹿角の脇立 |
豪勇、武骨、圧倒的な個の力。生涯無傷の猛将。 |
井伊直政 |
朱漆塗紺糸威桶側二枚胴具足 |
赤 |
金色の天衝の脇立 |
鮮烈、精鋭、軍団の統一性。「井伊の赤鬼」と恐れられた突撃隊長。 |
酒井忠次 |
朱塗黒糸威二枚胴具足 |
朱 |
鹿角の脇立 |
威厳、重厚、実用的。徳川家臣団を束ねる筆頭家老。 |
桃山時代は、豊臣秀吉の黄金の茶室に代表されるような、豪華絢爛で派手な文化が花開いた時代である。しかしその一方で、黒を基調とした武具もまた、一つの美意識として存在していた。例えば、前田利家の子・利政が所用したと伝わる「黒漆塗黒糸威二枚胴具足」は、黒で統一されつつ、兜を兎の耳の形にするなど、強い個性を放っている 43 。
これらの作例と比較すると、康政の具足は、奇抜な造形や金銀の過度な使用に走ることなく、あくまで全体の調和と、武具本来の機能美、そして所有者の品格を重視した、抑制の効いたデザインであることがわかる。これは、桃山時代の華やかな文化の中にあって、武士としての質実剛健な精神性を追求した、もう一つの確固たる美学の表れとして高く評価できる。
本調査を通じて、榊原康政所用「黒糸威二枚胴具足」が、単なる歴史的遺物ではなく、多層的な価値を持つ類稀な工芸品であることが明らかになった。
総括すれば、本具足は、桃山時代の甲冑製作技術の粋を集めた最高級の作品であると同時に、その所有者である榊原康政の、知勇兼備にして質実剛健な人柄を雄弁に物語る、第一級の歴史資料である。
本報告書で解明された主要な点は以下の通りである。
この黒糸威二枚胴具足は、鉄と漆と糸の単なる集合体ではない。それは、戦国の世を駆け抜け、徳川の天下を支えた一人の武将の精神性、美意識、そして政治的立場までもが深く刻み込まれた、まさに「武将の魂を宿す」不朽の工芸品である。その多層的な価値を一つ一つ解読していく作業を通じて、我々は戦国という時代のリアリティと、そこに生きた人々の息遣いを、より深く感じることができるのである。今後の研究においては、この優れた具足を制作した甲冑師「吉道」の系譜を特定するなどの課題が残されている。