上関合戦(1555)
弘治元年、毛利元就は厳島の戦いで陶晴賢を破り、その勢いで周防国東部へ侵攻。上関周辺の制海権を掌握し、鞍掛合戦で杉隆泰を討ち、宇賀島水軍を壊滅させた。この勝利は防長経略の重要な一歩となった。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
1555年秋の周防侵攻:厳島から上関、そして防長経略へ
序章:西国の覇権を賭けた対決前夜
弘治元年(1555年)、日本の西部に位置する中国地方の勢力図は、まさに地殻変動の直前にあった。かつて西国随一の栄華を誇った大内家は内部から崩壊し、その混乱の中から安芸国の一国人に過ぎなかった毛利元就が、天下にその智謀を知らしめる機会を窺っていた。この年の秋に繰り広げられた一連の戦いは、単なる局地的な戦闘ではなく、中国地方の新たな支配者を決定づける分水嶺となる。特に、瀬戸内海の要衝・上関周辺の制海権を巡る攻防は、その後の毛利氏の飛躍を決定づけた重要な局面であった。本稿では、「上関合戦」という視座から、厳島の戦いを起点とし、それに続く周防国東部への侵攻作戦、すなわち「防長経略」の序盤戦を、合戦中のリアルタイムな状況が浮かび上がるよう時系列で詳細に解説する。
大内家の内訌と陶晴賢の台頭
この物語の背景には、西国の名門・大内氏の深刻な内紛がある。31代当主・大内義隆は、勘合貿易などを通じて莫大な富を築き、山口に「西の京」と称されるほどの爛熟した文化を花開かせた 1 。しかし、その治世後半、義隆は軍事への関心を失い、文治に傾倒していく 3 。天文11年(1542年)の出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)で尼子氏に大敗を喫し、寵愛する嫡男・晴持を事故で失ったことが、その傾向に拍車をかけた 3 。
この状況に強い不満を抱いたのが、大内家の武断派を率いる重臣筆頭、陶隆房(後の晴賢)であった。陶氏は大内氏の庶流であり、代々周防守護代を務める名門中の名門である 6 。隆房は「西国無双の侍大将」と評されるほどの猛将であり、文弱に流れる主君の姿と、相良武任ら文治派の台頭に、大内家の衰退を危惧していた 6 。
主君と筆頭家臣の亀裂は修復不可能なレベルに達し、天文20年(1551年)9月、隆房はついにクーデターを決行。山口を急襲し、主君・大内義隆を長門の大寧寺で自害に追い込んだ(大寧寺の変) 10 。そして、豊後の大友宗麟の弟・晴英を新たな当主として迎え入れ、大内義長と名乗らせた 13 。この時、隆房も義長から一字を賜り、「晴賢」と改名する 3 。これにより、陶晴賢は大内家の実権を完全に掌握したが、この主君殺しという下剋上は、旧秩序を根底から揺るがし、新たな戦乱の火種を蒔くことになった。
安芸国人から戦国大名へ:毛利元就の野心と力量
一方、大内家が内側から崩壊していく様を冷静に見つめていたのが、安芸国の国人領主・毛利元就であった。元就は、小規模な領主から身を起こし、謀略と巧みな外交、そして卓越した軍事能力を駆使して、安芸国内の諸勢力を次々とまとめ上げていた 16 。
当初、元就は陶晴賢のクーデターを黙認し、むしろその混乱を利用して自己の勢力拡大を図った。大内氏の旧臣という立場上、表向きは晴賢に従い、晴賢に反抗する安芸国内の勢力を討伐することで、漁夫の利を得ていたのである 10 。この時期、両者は一種の共存関係にあった。
両雄、衝突に至る道程
しかし、この蜜月は長くは続かなかった。元就が安芸・備後を着実に支配下に収めていくにつれ、晴賢はその急成長に強い警戒感を抱くようになる 8 。晴賢は、元就が混乱に乗じて奪った領地の返還を要求したが、もはや一介の国人ではない元就がこれに応じるはずもなかった 10 。両者の対立は決定的となり、天文23年(1554年)、元就は「防芸引分」を宣言し、公然と陶晴賢に反旗を翻した 13 。
晴賢は直ちに討伐軍を派遣する。腹心の将・宮川房長に率いられた軍勢が安芸に侵攻したが、元就はこれを「折敷畑の戦い」で迎え撃った。兵力で劣る毛利軍であったが、元就は地形を巧みに利用した包囲作戦を展開し、わずか1日で宮川軍を壊滅させ、房長を討ち取ったのである 10 。この緒戦での完勝は、元就の軍事的才能を改めて知らしめるとともに、晴賢に大きな衝撃を与えた。西国の覇権を賭けた全面対決は、もはや避けられないものとなった。
この対立は、単なる個人的な確執ではなかった。それは、戦国時代という時代の必然が生んだ構造的な衝突であった。晴賢は、自らが起こしたクーデターによって脆弱化した大内家の広大な領国という「旧秩序」を維持しようとしていた。対して元就は、安芸国という強固な地盤の上に築かれた、より集権的で効率的な新しい支配体制、すなわち「新興勢力」を代表していた。晴賢が旧主の権威を借りて元就を抑え込もうとすればするほど、元就は自立と拡大を目指さざるを得なかった。両者の利害は根本的に相容れず、その提携は破綻すべくして破綻したのである。
また、陶晴賢の悲劇は、彼が優れた「武将」ではあっても、老獪な「政治家」ではなかった点にある。クーデターという軍事行動には成功したものの、その後の政治的安定を築くことには失敗した。元就の力を侮り 8 、後述する村上水軍のような重要な海上勢力を敵に回し、そして元就が仕掛ける心理戦の罠にことごとく嵌っていく姿は、戦場の駆け引きには長けていても、より大きな国盗りのための謀略戦には対応できなかった武人の限界を物語っている。
表1:主要関連人物一覧
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勢力 |
人物名 |
役職・関係性 |
1555年秋の動向 |
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毛利方 |
毛利元就 |
総大将、安芸国の戦国大名 |
厳島奇襲と防長経略を指揮 |
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毛利隆元 |
元就の嫡男、毛利家当主 |
本隊を率いて父に従軍 |
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吉川元春 |
元就の次男、毛利両川の一翼 |
陸上部隊の主将として鞍掛合戦等で活躍 |
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小早川隆景 |
元就の三男、毛利両川の一翼 |
水軍を統括、村上水軍との交渉役 |
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陶(大内)方 |
陶晴賢 |
大内家宰、事実上の支配者 |
厳島に大軍を率いて渡海、敗死 |
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弘中隆兼 |
大内家重臣 |
厳島にて奮戦、討死 |
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杉隆泰 |
鞍掛山城主、大内家譜代 |
毛利軍に抵抗し、鞍掛合戦で討死 |
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椙杜隆康 |
蓮華山城主、杉隆泰の宿敵 |
いち早く毛利に降伏、鞍掛城攻めの先導役 |
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水軍衆 |
村上武吉 |
能島村上水軍の頭領 |
毛利方につき、厳島海戦の勝利に貢献 |
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宇賀島忠重 |
宇賀島水軍の頭取 |
陶方の水軍大将として厳島で戦うも敗死 |
表2:1555年秋 関連年表
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年月日(旧暦) |
出来事 |
関連資料 |
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弘治元年 (1555) 9月21日 |
陶晴賢、2万の大軍を率いて厳島に上陸、宮尾城を包囲 |
8 |
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9月30日 (夜) |
暴風雨の中、毛利元就の本隊が厳島・包ヶ浦に上陸 |
8 |
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10月1日 (早朝) |
厳島の戦い 。毛利軍が陶本陣を奇襲、村上水軍が陶水軍を撃破 |
13 |
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10月1日 (日中) |
陶晴賢、大江浦にて自刃。陶軍は壊滅 |
5 |
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10月12日 |
毛利元就、本陣を本土の小方に移し、 防長経略を開始 |
25 |
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10月18日 |
蓮華山城主・椙杜隆康が毛利軍に降伏 |
25 |
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11月14日 (諸説あり) |
鞍掛合戦 。毛利軍の奇襲により鞍掛山城が落城、城主・杉隆泰は討死 |
25 |
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10月~12月 (推定) |
小早川・村上水軍が周防大島・浮島などを掃討、 宇賀島水軍を壊滅 させる |
28 |
第一章:瀬戸内海の支配者たち ― 水軍の動向
毛利元就と陶晴賢の決戦の行方を占う上で、陸上の兵力以上に重要な鍵を握っていたのが、瀬戸内海の制海権であった。この海の覇権を巡る水軍衆の動向こそ、来るべき決戦の勝敗を事前に決定づけたと言っても過言ではない。
「海の関所」上関と宇賀島水軍
周防国の南東端に位置する上関は、瀬戸内海の東西交通を扼する天然の要害であった 29 。この海峡を抑えることは、海上交易の利益を独占し、軍事行動における兵站線を確保する上で極めて重要であった 30 。この戦略的要衝を拠点としていたのが、宇賀島水軍(宇賀島衆)である 28 。彼らは大内氏の強力な庇護のもと、この海域で活動し、大寧寺の変以降は陶晴賢配下の主力水軍として、その海上戦力を支える屋台骨となっていた 28 。
独立不羈の海賊衆、村上水軍
一方で、瀬戸内海に宇賀島水軍以上の影響力を持っていたのが、能島・来島・因島の三家からなる村上水軍であった 32 。彼らは特定の戦国大名に完全には従属しない独立勢力であり、その実態は単なる「海賊」という言葉では捉えきれない。彼らは自らの支配海域に「海の関所」を設け、通行する船から帆別銭などの通行料を徴収し、航行の安全を保障するという、いわば海の秩序を司る一大海上勢力であった 30 。その武力は絶大で、宣教師ルイス・フロイスをして「日本最大の海賊」と言わしめたほどである 35 。彼らがどちらに味方するかは、中国地方の戦況を左右するほどの重みを持っていた。
対立の火種:陶晴賢と村上水軍の衝突事件
運命の年、弘治元年から遡ること4年前の天文20年(1551年)。陶晴賢が大寧寺の変を起こした直後、彼の将来に暗い影を落とす一つの事件が発生していた。晴賢が将軍家への献上米を積んだ廻船団を、配下の宇賀島水軍に警固させ、村上水軍が管理する上関の海関を、慣例である通行料を支払わずに武力で強行突破させたのである 29 。
これは村上水軍の権益と誇りを真っ向から踏みにじる行為であった。激怒した村上三家の連合水軍は、この廻船団が安芸蒲刈沖に差し掛かったところを奇襲し、積荷をことごとく略奪するという報復に出た 29 。面目を潰された晴賢は、一時的に村上水軍を上関城から追い払い、宇賀島水軍に守らせたが、村上水軍はすぐに反撃してこれを奪還している 29 。この一連の衝突は、両者の間に深刻な遺恨を残した。
毛利の調略:小早川隆景による村上水軍懐柔
毛利元就はこの好機を見逃さなかった。彼は、陶晴賢との決戦において制海権の確保が絶対条件であると看破していた。そして、この困難な交渉役を、三男であり、自身の養子戦略によって沼田小早川家の当主となっていた小早川隆景に託した 38 。隆景は毛利水軍の総帥であり、その知略は父・元就譲りであった 40 。
隆景は、腹心の乃美宗勝らを通じて、村上水軍、特にその最強硬派である能島村上家の当主・村上武吉との交渉を粘り強く進めた 17 。隆景が提示した条件は、晴賢の傲慢な態度とは対照的であった。彼は村上水軍の独立性を最大限に尊重し、勝利の暁には周防大島(屋代島)を与えるなど、破格の報酬を約束した 35 。
この外交交渉の成否は、まさに厳島合戦の勝敗そのものであった。そして、その交渉を成功に導いた触媒こそ、4年前に晴賢が自ら蒔いた上関での衝突事件だったのである。晴賢の行動は、村上水軍の権威と経済的基盤に対する直接的な攻撃であり、深い恨みを植え付けていた。隆景の外交は、何もないところから同盟を築いたのではなく、晴賢の失策によって生じた亀裂を巧みに利用し、決定的なものへと昇華させたのである。毛利元就は、海戦が始まる4年も前に、外交というもう一つの戦場で、すでに勝利への布石を打っていたのだ。
第二章:元就の奇策 ― 厳島への誘引
陸上の兵力において、陶晴賢の2万に対し、毛利元就は4千から6千程度と、圧倒的に不利な状況にあった 13 。まともに平野で戦えば、勝機は万に一つもない。この絶望的な戦力差を覆すため、元就は戦国史上でも類を見ない、大胆かつ巧妙な奇策を打ち立てる。それは、敵を自らが選んだ決戦場、安芸の厳島へと誘い込むことであった。
孤島への城砦構築:宮尾城の戦略的価値
元就の策謀の核となったのが、厳島に築かれた宮尾城である 22 。厳島は、本土との間に大野瀬戸を挟む孤島であり、大軍を展開するにはあまりにも狭隘な地形であった 8 。このような場所に城を築くことは、軍事上の常識からすれば、補給路を断たれやすく、籠城には全く不向きな愚策に見える。
しかし、これこそが元就の狙いであった。彼は宮尾城を、あえて「毛利にとって死守すべき重要拠点」であるかのように見せかけた。城の守将には、元大内家臣で晴賢から寝返った形の己斐直之らを配置し、晴賢の猜疑心を煽った 42 。宮尾城は、晴賢を誘き寄せるための、壮大な罠の「餌」だったのである。
情報戦と心理戦:元就が仕掛けた巧妙な罠
城の構築と並行して、元就は高度な情報戦と心理戦を展開した。まず、重臣の桂元澄を偽って陶方に寝返らせ、「宮尾城が落ちれば、毛利は窮地に陥る」という偽情報を晴賢の陣営に流させた 8 。さらに、様々なルートから「厳島を攻めれば、毛利を容易に打ち破れる」という噂を流布させ、晴賢の判断を誤らせようと画策した 22 。
中でも最も効果的だったのが、晴賢の重臣筆頭であった江良房栄に対する離間の計であった 41 。元就は、房栄の筆跡を偽造した内通を誓う書状を作成し、これが晴賢の目に触れるように仕向けた 41 。自らも主君を裏切った経験を持つ晴賢は、家臣を信じきることができず、この謀略にまんまと嵌ってしまった。彼は、何の罪もない猛将・江良房栄を誅殺してしまう 22 。これにより、陶軍は決戦を前にして、最も有能な指揮官の一人を自らの手で葬り去るという、致命的な失態を犯したのである。
晴賢の決断:大軍の厳島渡海とその誤算
弘中隆兼をはじめとする歴戦の家臣たちは、「狭い島での戦いは大軍の利を殺す」と、厳島への渡海に強く反対した 17 。しかし、元就の周到な罠に嵌り、自軍の水軍力に絶対の自信を持っていた晴賢は、これらの忠告を聞き入れなかった 22 。彼は、厳島を占領し、宮尾城を落とすことで、元就に精神的・戦略的な打撃を与え、一気に勝負を決することができると信じていた。
弘治元年(1555年)9月21日、陶晴賢は2万余の大軍を500艘の船に乗せ、意気揚々と厳島へと渡った 8 。そして、宮尾城を見下ろす塔の岡に本陣を構え、城への攻撃を開始した 8 。この瞬間、晴賢は元就の掌の上で踊らされ、自ら逃げ場のない檻の中へと足を踏み入れたのである。彼は、自らを勝利に導くと信じていた圧倒的な兵力と、すでに毛利方に寝返っていた村上水軍への過信という、二重の誤算の上に、その運命を賭けていた。
第三章:天の時、地の利、人の和 ― 厳島の戦い(1555年10月1日)
陶晴賢の大軍が厳島に上陸してから10日後、毛利元就が待ち望んでいた「天の時」が訪れた。それは、戦の常識を覆し、兵力差を無に帰すための、自然の猛威であった。
【リアルタイム解説】嵐の夜の奇襲
9月30日、夕刻から夜半:
この日の夕刻、瀬戸内海一帯に激しい暴風雨が吹き荒れ始めた。天候の急変を、元就は「天祐(天の助け)」と捉えた 8。この嵐は、敵の警戒心を緩ませ、自軍の渡海の気配を完全に掻き消す、絶好の隠れ蓑となった。
本土の地御前に本陣を置いていた元就は、徴発した100艘ほどの船に、嫡男・隆元、次男・元春らを含む約4,000の主力部隊を乗せ、出航を命じた 44 。闇夜と荒れ狂う波濤の中、この危険な航海を可能にしたのは、瀬戸内海の潮流を知り尽くした村上水軍の卓越した操船技術であった 46 。彼らの水先案内により、毛利軍は誰一人として知られることなく、深夜、陶軍の背後にあたる厳島東岸の包ヶ浦への上陸に成功した 23 。
【リアルタイム解説】夜明けの強襲
10月1日、未明:
包ヶ浦に上陸した毛利軍は、雨に打たれながら、険しい博打尾根を越える強行軍を開始した 23。兵士たちは音を立てぬよう細心の注意を払い、漆黒の闇の中を、陶軍の本陣が置かれた塔の岡の真上へと進軍した。嵐の中、まさか敵が背後の断崖を越えてくるとは、陶軍の誰もが予想だにしていなかった 22。
10月1日、夜明け(午前6時頃):
嵐が小康状態となり、東の空が白み始めたその瞬間、元就は全軍に突撃を命じた 23。博打尾根の頂から、毛利軍は鬨の声を上げ、怒涛の如く塔の岡の陶本陣へと雪崩れ込んだ。完全に油断し、宿営地で眠っていた陶軍は、全く組織的な抵抗ができなかった 5。狭い島内では2万の大軍も身動きが取れず、密集した兵士たちは混乱の中で同士討ちを始める有様であった 5。
【リアルタイム解説】海上の決戦
10月1日、早朝から午前中:
陸上での奇襲と時を同じくして、海上でもう一つの決戦の火蓋が切られた。小早川隆景率いる毛利水軍と、同盟する村上水軍の艦隊が、陶軍の船団に襲いかかったのである 5。
陶水軍の主力は、宇賀島忠重が率いる宇賀島水軍であったが、数と練度で勝る村上水軍の敵ではなかった 28 。村上水軍は、機動力に優れた小早船を巧みに操り、陶軍の大型船を取り囲むと 34 、得意の「焙烙火矢」を次々と投げ込んだ 34 。素焼きの壺に火薬を詰めたこの手榴弾は、敵船の甲板で炸裂し、火災と混乱を引き起こした 50 。炎上し、沈没していく船団を前に、陶水軍はなすすべもなく壊滅。これにより、島内に取り残された陶陸軍の退路は完全に断たれた 47 。
西国無双の侍大将、その最期
本陣を蹂린され、指揮系統を失った陶晴賢は、わずかな手勢とともに戦場からの脱出を図った。しかし、島の西岸にある大江浦まで逃げ延びたものの、そこに迎えの船は一艘もなかった 23 。
全てを悟った晴賢は、もはやこれまでと覚悟を決め、自刃して果てた。享年35 3 。総大将の死により、陶軍の組織的抵抗は終焉した。この戦いは、毛利軍の戦死者が僅かであったのに対し、陶軍は弘中隆兼をはじめとする多くの将兵を含む4,000人以上が討ち死にするという、一方的な大勝利に終わった 13 。日本三大奇襲の一つに数えられる厳島の戦いは、毛利元就の智謀が、圧倒的な兵力差を覆した歴史的瞬間であった。
第四章:防長経略の開始 ― 真の「上関合戦」
厳島での圧勝は、毛利元就にとって終着点ではなく、壮大な領土拡大戦略の始発点であった。優れた将が戦術的勝利に酔いしれる中、元就のような稀代の戦略家は、その勝利をいかにして戦略的成功へと転化させるかを考えていた。彼は、陶晴賢亡き後の大内領に生じた権力の真空状態を、一瞬たりとも見逃さなかった。
一般的な武将であれば、戦勝の祝賀や論功行賞に時間を費やしたであろう。しかし元就は、厳島の戦いからわずか11日後の10月12日には、早くも本陣を厳島から対岸の小方(現在の大竹市)へと移し、周防・長門二国の完全制圧作戦、すなわち「防長経略」を開始した 25 。この迅速な行動こそ、彼の戦略的連続性の証左である。防長経略は厳島の戦いとは別の戦役ではなく、勝利の果実を即座に刈り取るための、連続した作戦行動の第二段階であった。そして、この序盤戦の主戦場となった周防国東部、上関を含む玖珂郡の平定こそが、実質的な意味での「上関合戦」と呼ぶべき攻防戦であった。
第一目標:周防国東部・玖珂郡の平定
元就が最初の目標として定めたのは、自領の安芸国に隣接する玖珂郡であった 53 。毛利本隊が山陽道を進む一方、吉川元春と小早川隆景の「毛利両川」が率いる別動隊が山陰道や海上から進軍し、多方面から圧力をかける作戦が取られたと推測される 19 。
調略と裏切り
元就がまず用いた武器は、武力ではなく調略であった。10月18日、彼は玖珂郡の有力国人である蓮華山城主・椙杜隆康に使僧を送り、降伏を勧告した。厳島での大敗を目の当たりにしていた隆康は、時勢を悟り、人質を差し出してあっさりと毛利氏に降った 25。
この椙杜氏の寝返りは、連鎖反応を引き起こした。蓮華山城に隣接する鞍掛山城を守る杉隆泰は、大内家譜代の忠臣であった 54 。しかし、彼はかねてより椙杜隆康と犬猿の仲であった 53 。毛利に降った椙杜隆康は、元就に対し「杉隆泰の降伏は偽りであり、内実は大内義長と通じている」と讒言した 53 。これが真実であったか否かは定かではないが、元就にとっては、反抗勢力を叩く絶好の口実となった。
【リアルタイム解説】鞍掛合戦(1555年11月)
11月上旬(推定):
毛利軍は鞍掛山城への攻撃を開始するが、城主・杉隆泰は巧みに防戦し、寄せ手を度々撃退した。記録によれば、杉方は鉄砲を用いて応戦したとも伝えられており、城の守りは堅固であった 57。
11月13日または14日(諸説あり):
力攻めでは容易に落ちないと判断した元就は、得意の偽計を用いた。毛利軍の主力を山口方面へ向かうように見せかけ、城攻めを諦めて撤退したかのように装ったのである 57。
11月14日、未明:
杉軍が油断した深夜、毛利軍は行動を再開した。毛利に寝返った椙杜隆康の案内で、吉川元春・小早川隆景らが率いる精鋭部隊が、防御の手薄な城の搦手(裏手)へと静かに回り込んだ 57。
11月14日、夜明け:
夜明けとともに、毛利軍は城の背後から一斉に奇襲をかけた 52。全くの不意を突かれた城兵1,300名は大混乱に陥り、圧倒的な兵力差の前に次々と討ち取られていった 25。
11月14日、午前中:
城主・杉隆泰は父・宗珊とともに最後まで勇猛果敢に戦ったが、衆寡敵せず、ついに討ち死にした 54。落城の際、城は炎に包まれ、その時に焼けた米(炭化米)が後世になって出土している 25。この鞍掛合戦の勝利により、玖珂郡における大内方の組織的抵抗は終焉した。
宇賀島水軍の掃討と瀬戸内海航路の完全掌握
陸上で鞍掛城が攻略されている頃、海上では小早川隆景率いる毛利・村上連合水軍が、陶晴賢亡き後の残存勢力の掃討作戦を展開していた。最大の標的は、厳島で主力を失いながらも、なお周防大島や浮島を拠点に抵抗を続けていた宇賀島水軍であった 28 。
連合水軍による攻撃は徹底的を極めた。宇賀島水軍の拠点であった浮島は、住民が一人もいなくなるほどに掃討され、ここに宇賀島水軍は完全に壊滅した 28 。この勝利により、毛利・村上連合は、上関海峡を含む西瀬戸内海の制海権を完全に掌握した。これは、防長経略を遂行するための兵站線を確保しただけでなく、海上交易から得られる莫大な経済的利益をも手中に収めたことを意味した 35 。厳島での戦術的勝利は、この一連の掃討作戦を経て、毛利氏の長期的な戦略的優位へと結実したのである。
終章:新たなる秩序の誕生
弘治元年(1555年)秋の一連の戦いは、中国地方の歴史を大きく塗り替えた。毛利元就が仕掛けた周到な罠、厳島での奇跡的な勝利、そして間髪入れずに開始された防長経略の序盤戦は、一つの連続した軍事行動として、彼の戦略家としての評価を不動のものにした。
防長経略の完遂と大内氏の滅亡
鞍掛合戦と宇賀島水軍の壊滅によって周防国東部を平定した毛利軍の進撃は、もはや誰にも止められなかった。山代一揆など各地の抵抗勢力を鎮圧し 53 、弘治3年(1557年)には、ついに大内氏の本拠地・山口を制圧。傀儡の当主であった大内義長を長門の且山城に追い詰め、自害させた 10 。これにより、西国に二百年以上にわたって君臨した名門・大内氏は、歴史の表舞台から完全に姿を消した。
この防長経略の最中、弘治3年11月25日、元就は富田の勝栄寺に在陣中、三人の息子たち(隆元、元春、隆景)に宛てて、有名な「三子教訓状」を書き送っている 25 。これは、後世に「三本の矢」の逸話として知られる教えの元となったもので、兄弟の結束を説き、毛利家の永続を願う元就の強い意志が示されている 62 。天下取りの野望を現実のものとしつつある中で、彼が最も心を砕いていたのが、築き上げた権力の継承と一族の団結であったことが窺える。
「上関合戦」の歴史的意義
本稿で「上関合戦」と総称した1555年秋の一連の軍事行動は、毛利氏の歴史における最大の転換点であった。
第一に、これにより毛利氏は安芸・備後の一地方勢力から、周防・長門という広大で豊かな領国を支配する中国地方の覇者へと飛躍した 43 。
第二に、瀬戸内海の要衝・上関を含む西瀬戸内海の制海権を完全に掌握したことである。これは軍事的な優位性のみならず、日明貿易の利権を引き継ぐことによる莫大な経済力を毛利氏にもたらした 35 。
第三に、この戦いを通じて、村上水軍との同盟関係を盤石なものとしたことである。この強力な水軍力は、その後の毛利氏の生命線となり、十数年後には織田信長の石山本願寺攻めを海上から妨害し、木津川口の戦いで織田水軍を打ち破るなど、天下の情勢に大きな影響を与え続けることになる 35 。
毛利元就の戦略思想:「謀神」の真骨頂
1555年秋の戦いは、毛利元就の戦略思想の集大成であった。それは単一の会戦の勝利ではなく、外交、調略、情報戦、心理戦、そして電光石火の軍事行動が、一つの目的のために有機的に連動した、完璧な作戦であった。彼は、厳島で矢を交える前に、外交と謀略によってすでに敵の力を半減させていた。そして、厳島で得た決定的な勝利の余勢を駆って、敵が態勢を立て直す暇も与えずに、一気呵成に領国を奪い取った。
戦う前に勝ち、勝った後には即座にその戦果を拡大する。この一連の流れこそ、元就が後世「謀神」と称される所以である。上関の海を制したこの戦いは、毛利元就という一人の稀代の戦略家が、旧時代の秩序を破壊し、自らが頂点に立つ新たな時代を切り拓いた、輝かしい第一歩だったのである。
引用文献
- 山口県の歴史【第1回|中世編】大内氏-毛利氏~中世史から見えた、近代の先鋭的な政治力 https://discoverjapan-web.com/article/46435
- 大内義隆(おおうち よしたか) 拙者の履歴書 Vol.157~文雅と戦の狭間に生きて - note https://note.com/digitaljokers/n/n213f8e065d51
- 「陶晴賢(隆房)」主家・大内氏をクーデターで乗っ取り、毛利元就に敗れる | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/758
- 大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)に討たれたのはなぜ?戦国時代の山口で発生した謀反の経緯 https://articles.mapple.net/bk/22575/
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