最終更新日 2025-08-30

久留里城の戦い(1564)

第二次国府台合戦後、里見義弘は北条氏康に久留里城を攻められ一時陥落。安房へ撤退し雌伏するも、水軍と在地勢力との連携で抵抗。三年後の三船山合戦で北条軍を破り、久留里城を奪還し房総の覇権を回復した。
Perplexity」で合戦の概要や画像を参照

房総の攻防:永禄七年、久留里城の戦いの実相と戦略的意義

序章:第二次国府台合戦の衝撃 — 房総侵攻の序曲

永禄七年(1564年)に繰り広げられた久留里城を巡る攻防戦は、戦国時代の房総半島における里見氏と北条氏の覇権争いの縮図である。この戦役を正確に理解するためには、その直接的な引き金となった第二次国府台合戦(永禄六年〜七年、1563年〜1564年)の衝撃的な結末から説き起こさねばならない。この合戦における里見氏の劇的な勝利とそれに続く壊滅的な敗北こそが、相模の獅子・北条氏康による大規模な上総侵攻を誘発し、房総全土を戦火に巻き込む序曲となったのである。

開戦の経緯 — 関東三国志の力学

当時の関東は、小田原を本拠に関東全域の支配を目指す北条氏康と、越後から関東管領の権威を掲げて南下する上杉謙信という二大勢力が激しく対立する構図にあった。この中で房総の雄・里見氏は、安房・上総を基盤とし、上杉謙信や常陸の佐竹義昭らと連携して反北条連合の一翼を担う、重要な存在であった 1 。一方の北条氏康は、甲斐の武田信玄、駿河の今川義元との間に甲相駿三国同盟を締結し、西方の憂いを断つことで関東経略に全力を注げる体制を整えていた 4

この均衡状態を揺るがす事件が、永禄六年(1563年)に発生する。北条氏の江戸城代を務める有力家臣、太田康資が上杉謙信への内通を画策したのである 1 。康資は、北条氏の家臣団統制に対する不満から離反を試みたが、この謀議は事前に露見してしまう。窮地に陥った康資は、同族であり反北条の立場を明確にしていた岩付城主・太田資正を頼り、さらにその同盟者である里見氏に救援を求めた 6

この動きは、里見氏にとって北条氏の牙城である江戸方面へ影響力を及ぼす絶好の機会であった。当主の座を父・義堯から継いでいた若き里見義弘は、この好機を逃さず、太田康資の救出を名目に軍を動かすことを決断する。永禄七年(1564年)正月、里見義弘は太田資正の軍勢と合流し、北条方の下総における重要拠点・国府台城(現在の千葉県市川市)へと進軍した 7 。これを迎え撃つべく、北条氏康は嫡男・氏政を伴い、二万ともいわれる大軍を率いて小田原から出陣。正月七日には江戸城に到着し、両軍は江戸川を挟んで対峙することとなった 1 。房総の命運を賭けた第二次国府台合戦の火蓋が、ここに切られたのである。

国府台の激闘 — 勝利からの転落

合戦の序盤は、里見軍の圧倒的な優勢で進んだ。正月七日から八日にかけて行われた緒戦において、里見軍は巧みな戦術で北条軍の先鋒を誘い込み、これを撃破する。この戦闘で北条方は、江戸衆を率いる遠山綱景・隼人佑親子、富永康景といった譜代の重臣を次々と失うという、手痛い損害を被った 1 。特に遠山綱景は、同じく江戸城代であった太田康資の離反に気づけなかった責任感からか、突出して深追いしすぎたことが討死の原因になったとも考えられる 1 。この緒戦の勝利は、兵力で劣る里見軍の士気を大いに高め、義弘をはじめとする将兵に、北条本軍を打ち破れるという確信を抱かせたに違いない。

しかし、この輝かしい勝利こそが、里見軍にとって最大の悲劇の始まりであった。緒戦の勝利に酔いしれた里見軍は、国府台の陣中において戦勝を祝う酒宴を開き、警戒を怠るという致命的な過ちを犯してしまう 5 。この油断を見逃すほど、北条氏康は甘い将ではなかった。里見軍の状況は北条方の忍びによって即座に氏康・氏政の許へ報告された。

好機と見た北条軍は、申の刻(午後四時頃)に反撃を開始する。軍を二手に分け、氏政の部隊が南側へ迂回して里見軍の側面を突くという奇襲戦法であった 10 。祝宴で完全に弛緩していた里見軍は、この組織的な奇襲に対応することができず、瞬く間に大混乱に陥り、総崩れとなった。この乱戦の中で、里見義弘の弟・里見弘次(15歳)が討ち取られ、里見軍は5,000名以上とも伝わる甚大な戦死者を出す壊滅的な敗北を喫した 5

この敗北は、単なる軍事的な力負けではなかった。緒戦の勝利で有力武将を討ち取ったことで、里見軍全体が目的を達成したかのような錯覚に陥り、戦略的な緊張感を失ってしまったのである。この心理的な慢心が、老練な戦略家である氏康に逆転の機会を与えた。つまり、この敗北は戦略的未熟さが露呈した結果であり、この心理的敗北こそが、その後の北条軍による破竹の進撃を許し、房総半島全体を未曾有の危機に陥れる連鎖反応の起点となったのである。

命からがら戦場を離脱した里見義弘は、土気城主・酒井胤治に救出され、辛うじて本国の上総へと敗走した 5 。しかし、彼を待ち受けていたのは、関東の覇権を賭けた次なる死闘の幕開けであった。国府台での勝利を単なる敵の撃退で終わらせるつもりは、北条氏康には毛頭なかった。彼はこの好機を捉え、長年の懸案であった房総半島全体の制圧へと、即座に戦略目標を切り替えたのである。これは、事前に房総の国人衆への調略を進めていたことの証左であり、国府台での勝利は、この周到な計画を実行に移すための「引き金」に過ぎなかった 11

【表1】第二次国府台合戦から三船山合戦に至る主要年表(1563年~1567年)

年/月

出来事

主要人物

典拠

永禄6年 (1563)

北条方の太田康資が上杉氏へ内通を画策するも失敗、里見氏を頼る。

太田康資、里見義弘、北条氏康

5

永禄7年 (1564) 正月

里見・太田連合軍が下総国府台に布陣。第二次国府台合戦が勃発。

里見義弘、太田資正、北条氏康、北条氏政

7

永禄7年 (1564) 正月7-8日

緒戦で里見軍が勝利。北条方の遠山綱景らを討ち取る。その後、油断した里見軍は北条軍の奇襲を受け壊滅。

里見義弘、遠山綱景、北条氏政

1

永禄7年 (1564) 正月以降

北条軍が上総へ侵攻を開始。椎津城など湾岸の諸城を次々と攻略。

北条氏政

11

永禄7年 (1564)

北条軍が久留里城を包囲。数ヶ月にわたる攻防の末、久留里城は一時陥落。

里見義弘、里見義堯、北条氏康

12

永禄7年〜9年 (1564-1566)

里見氏は安房へ撤退し、雌伏。水軍による後方攪乱などで抵抗を続ける。

里見義弘、里見義堯

4

永禄9年 (1566) 末頃

里見氏が久留里城を奪還したと推定される。

里見義弘

4

永禄10年 (1567) 8月

三船山合戦。里見軍が北条軍に劇的な勝利を収め、上総の支配権を回復。

里見義弘、里見義堯、北条氏政、太田氏資

5

第一章:房総の要害、久留里城 — 里見氏の戦略的支柱

国府台で大敗を喫した里見軍が最後の砦として目指した久留里城は、単なる一地方の城郭ではなかった。それは房総半島の中央に楔を打ち込むがごとく聳え立つ、里見氏の支配と抵抗の象徴であり、その戦略的支柱であった。北条氏が上総制圧の総仕上げとしてこの城の攻略に執着し、里見氏が絶望的な状況下でもこの城を死守しようとした理由は、久留里城が持つ地理的・構造的な優位性と、里見氏の歴史における特別な意味にあった。

地理的・地政学的重要性

久留里城は、房総半島の中央部、上総国小櫃川の中流域に位置する 14 。標高約180メートルの丘陵上に築かれたこの山城は、眼下に広がる平野部と背後に控える山塊の接点という、軍事的に極めて有利な立地を占めていた 15 。この場所は、安房から上総、下総へと抜ける街道が交差する交通の要衝でもあり、房総半島の内陸部を支配するためには絶対に押さえなければならない地政学的なヘソであった 16

里見義堯は、この地形を最大限に活用して城を設計した。城の麓を蛇行する小櫃川は、それ自体が巨大な天然の水堀として機能し、敵の大軍が容易に城へ取り付くことを阻んだ 14 。本丸を最高所に置き、西に二の丸、山麓に三の丸と外郭を配する連郭式の縄張りは、山城としての防御力を極限まで高めるためのものであった 15 。このように、久留里城は単に堅固な建造物であるだけでなく、周囲の地形と一体化した要塞であった。

「雨城」の異名と籠城戦への適性

久留里城は、古くから「雨城(うじょう)」という異名で知られている。その由来は、「城の完成後、三日に一度、二十一回も雨が降った」という築城伝説や、「この山には頻繁に霧がかかり、遠方から見るとまるで雨が降っているかのように見え、城の姿を敵の目から隠した」という気候的特徴に求められる 17

この異名は、単なる風雅な呼び名ではない。頻繁に発生する霧は、敵の偵察活動を妨げ、攻城軍の視界を遮る「天然の煙幕」として機能した。これにより、城方は敵の動きを察知されずに兵を移動させたり、奇襲をかけたりすることが可能となり、防御側に多大な利益をもたらしたのである。

さらに、籠城戦において勝敗を分ける最も重要な要素の一つが、水の確保である。兵糧が尽きる前に水が枯渇すれば、いかに堅固な城も降伏せざるを得ない 20 。その点において、久留里城はまさに天与の要害であった。城内には「男井戸(おいど)」「女井戸(めいど)」と呼ばれる二つの大きな井戸をはじめ、豊富な水源が存在し、長期の籠城にも耐えうる生命線を確保していた 22 。この豊富な水こそが、「雨城」の名が示すもう一つの意味であり、里見氏が幾度となく北条軍の猛攻を凌ぐことができた最大の要因であった 19

久留里城の防御力は、城壁や堀といった人工的な構造物だけに依存するものではなかった。小櫃川という「動く堀」、頻繁に発生する霧という「天然の隠れ蓑」、そして豊富な地下水という「無限の生命線」が一体となって、一個の巨大な防御システムを形成していた。里見義堯は、この地の自然環境そのものを城の設計に組み込んだと言える。したがって、永禄七年に北条軍が攻め寄せた際、彼らが対峙したのは単なる「城」という建造物ではなく、この「環境一体型要塞」そのものであった。

里見氏の拠点としての歴史

久留里城が歴史の表舞台に登場するのは、室町時代、上総武田氏がこの地に支城を築いたことに始まる 15 。しかし、この城を房総の戦略的中核へと昇華させたのは、里見氏中興の祖と称される里見義堯である。天文年間、義堯は上総武田氏の内紛に乗じてこの地に進出し、久留里城を攻略した 19

義堯は、従来の「古久留里城(上の城)」が手狭であると考え、その南側の丘陵に新たに大規模な城郭を築き直した 12 。これが、現在に伝わる久留里城の基礎である。安房の一領主であった里見氏にとって、房総半島の中央に位置するこの堅城を本拠地としたことは、画期的な意味を持っていた。これにより里見氏は、守勢に徹するだけでなく、上総、さらには下総へと勢力を拡大するための強力な前進基地を得たのである 4

以来、久留里城は里見氏の対北条氏政策における最前線の司令塔として、また房総支配の象徴として機能し続けた。これほど堅固な本拠地を持つことは、里見氏の戦略思想にも影響を与えたと考えられる。つまり、「いざとなれば久留里城に籠城すれば耐えられる」という戦略的な安心感が、国府台への大胆な出兵のような、リスクの高い作戦行動を可能にした背景にあるのではないか。城の堅固さが、皮肉にも国府台での油断を生む一因となった可能性も否定できない。城とは単なる防御施設ではなく、その主である大名の戦略思考そのものを方向付ける基盤でもあったのである。

第二章:永禄七年、上総席巻 — 久留里城攻防のリアルタイム再現

第二次国府台合戦の勝利は、北条氏にとって房総半島全域を制圧する絶好の機会をもたらした。永禄七年(1564年)正月、国府台から敗走する里見軍を追撃する形で、北条氏康・氏政親子率いる大軍は雪崩を打って上総国へと侵攻を開始した。ここから、房総の要害・久留里城が陥落するまでの数ヶ月間は、里見氏にとってまさに存亡の危機であった。本章では、史料と軍記物語の記述を織り交ぜながら、この一連の攻防戦を可能な限りリアルタイムに近い形で再現し、その実像に迫る。

第一節:北条軍、破竹の進撃(永禄七年一月〜)

国府台の戦場から立ち上る硝煙がまだ消えやらぬうちから、北条軍の行動は迅速を極めた。総大将は氏康であったが、実質的な軍事指揮は嫡男の氏政が執り、里見氏の支配領域へと深く切り込んでいった 1 。彼らの最初の目標は、里見氏の勢力基盤を支える上総沿岸部の諸城、とりわけ江戸湾の制海権に直結する拠点の制圧であった。

その中でも最重要拠点とされたのが、姉ヶ崎湊を扼する椎津城である。この城は、里見氏にとって江戸湾を通じた兵站線・連絡線の要であり、ここを失うことは房総半島内部に封じ込められることを意味した 11 。北条軍は国府台の勢いを駆ってこの城に猛攻を加え、里見方の城将・木曾左馬介らが守る城を攻略した 24

椎津城の陥落は、ドミノ倒しのように他の支城の運命をも決定づけた。北条軍はさらに内陸へと進撃し、榎本城、舎人城、和田城、小糸城といった里見方の拠点を次々と攻め落としていった 11 。これらの城は、国府台の敗戦で主力を失った里見軍にとって、もはや組織的な抵抗が不可能な状態にあった。北条軍の進撃は、まさに破竹の勢いであった。

第二節:久留里城、孤立と攻防

上総の主要な支城をことごとく制圧した北条軍は、いよいよ最終目標である里見氏の本拠・久留里城へと迫った。城下まで進出した北条軍は、小櫃川を挟んで城と対峙する「陣馬」や「幕ノ台」と呼ばれる台地に本陣を構え、堅固な久留里城を完全に包囲した 14

籠城する里見軍の状況は絶望的であった。国府台で軍の半数以上を失い、残った兵も敗走の疲労と士気の低下に苦しんでいた。指揮を執ったのは当主の里見義弘自身、あるいは後見役の父・義堯であったと考えられるが、彼らが率いる兵力は、城外にひしめく北条の大軍に比べてあまりにも寡兵であった 7

【表2】久留里城攻防戦(1564年)における両軍の推定兵力と主要将帥

勢力

北条軍(攻城側)

里見軍(籠城側)

総大将

北条氏康

里見義堯

現場指揮官

北条氏政、北条綱成(推定)

里見義弘、城代(山本左馬丞など)

推定兵力

20,000以上

4,000以下(国府台合戦での損害を考慮)

備考

国府台合戦の勢力を維持し、士気は高い。

国府台で大敗し、兵力は激減。多くの支城を失い孤立状態。

典拠

1

このような圧倒的な兵力差にもかかわらず、久留里城の攻防は長期にわたった。それは、城が持つ地形的な優位性と、里見軍の必死の抵抗があったからに他ならない。この攻防戦の様相は、後世に成立した『久留里軍記』などの軍記物語にドラマティックに描かれている一方で、断片的な史料からはより現実的な戦いの姿が浮かび上がってくる。

軍記物語の世界では、超自然的な奇跡や英雄的な一騎打ちが戦いの帰趨を決める。例えば、義堯の夢枕に正源寺の観音菩薩が現れ、「我、加勢すべし」と告げたという伝説がある 14 。このお告げに従い、観音像を戦場に掲げたところ、里見軍は奮戦し北条軍を退けたとされる。また、北条方から藤沢播磨守と名乗る六尺あまりの大男が挑戦してきた際には、里見方の若武者がこれに応じて一騎打ちの末に討ち取った、といった武勇伝も語られている 14 。これらの物語は、絶望的な状況下で兵士たちの士気を鼓舞し、城の神聖性を高めるために語られたものであり、実際の戦闘がいかに過酷であったかの裏返しと見るべきであろう。

一方、より史実性の高い情報からは、北条氏が力攻めだけでなく、兵糧攻めと調略を併用した、冷徹な攻城戦術を展開していたことがうかがえる。その一例が、一宮城主・須田将監父子への内通工作である 14 。北条方は須田氏を寝返らせ、城下にある入定寺に兵を潜ませて内部から攪乱しようと企てた。しかし、この計画は須田氏の下人の密告によって事前に露見し、義堯は須田親子とその一族四十数名を本丸で処刑するという厳しい処断を下した。さらに、入定寺に潜んでいた北条兵も山本左馬丞率いる部隊によって殲滅されたという 14 。この事件は、城内が物理的な包囲だけでなく、猜疑心という内なる敵にも苛まれていたことを示している。

籠城側もただ無策に守りを固めていただけではない。地の利を活かし、散発的ながら効果的な反撃を試みていた。軍記物によれば、北条軍の兵士たちが持久戦に疲労しているのを見た義弘が、三月十一日の未明、冬木丹波守に一隊を率いさせて北条軍の陣地に夜襲をかけ、寝込みを襲われた北条軍を混乱に陥れたといった記述も見られる 7 。このようなゲリラ的な抵抗が、北条軍の攻勢を遅らせ、攻城戦を長期化させる一因となったことは想像に難くない。

第三節:落城の刻 — 史実の探求

英雄的な防衛譚が語り継がれる一方で、複数の信頼性の高い史料は、この永禄七年の戦いにおいて久留里城が**「一時陥落した」**という、動かしがたい事実を記録している 12 。これは、里見氏の歴史における最大の屈辱の一つであり、この戦いの実像を考える上で最も重要な点である。

陥落に至る具体的な日付や経緯を詳細に記した一次史料は乏しい。しかし、国府台合戦後の状況から推測することは可能である。正月以降、数ヶ月にわたって続いた包囲、そして椎津城をはじめとする全ての支城が陥落し、外部からの補給や援軍が完全に途絶えたことにより、城内の兵糧や武器弾薬は確実に底をつき始めていたはずである。

また、『久留里軍記』には、北条方の磯部地蔵院が率いる三千余騎が城の大門口に突入し、細田曲輪が破られて北条兵の一部が城内に乱入した、という記述がある 7 。これが事実であれば、最終的には北条軍の強攻によって城の一部が突破され、これ以上の組織的抵抗が不可能になった結果、開城に至った可能性も考えられる。いずれにせよ、数ヶ月にわたる攻防の末、房総の要害・久留里城は、ついに北条氏の手に落ちたのである。

この攻防戦には、「一時陥落した」という客観的な史実と、「観音様の加護で守り抜いた」という後世に形成された記憶・物語という、二つの異なる層が存在する。この乖離は、歴史の複雑さを示している。おそらく、三年後の三船山合戦での劇的な勝利と城の奪還という輝かしい出来事が、永禄七年の敗北の記憶を「一時的な苦難」として再解釈させ、屈辱の歴史を英雄譚へと昇華させたのであろう。

また、この戦いは、戦国後期の攻城戦の性質を如実に示している。北条軍の勝利の要因は、単なる兵力差だけではない。椎津城を始めとする湾岸拠点を先に押さえて里見氏の兵站線を断ち 11 、須田将監への内通工作で城内の結束を内側から崩そうとした 14 。これは、物理的な包囲と並行して、兵站、調略、心理戦を組み合わせた総力戦が展開されていたことを意味する。久留里城の戦いは、戦国時代の合戦が、より複雑で多角的な様相を呈していく過渡期の好例と言えるだろう。

第三章:里見氏の雌伏と北条氏の上総支配

久留里城の陥落は、里見氏にとって単なる一城の喪失以上の意味を持っていた。それは上総支配の基盤を根こそぎ奪われ、安房一国に封じ込められるという、一族の存亡に関わる危機であった。この敗北から、後に三船山で奇跡的な逆転勝利を収めるまでの約三年間、里見氏は苦難に満ちた雌伏の時を過ごすことになる。一方で、勝利した北条氏は、この機を逃さず上総国に新たな支配体制を構築し、房総半島の領国化を着々と進めていった。

里見氏、安房への撤退と再起への道

上総の主要拠点をほぼ全て失った里見義弘は、残存兵力を率いて本国である安房へと撤退した 7 。この時期、里見氏の支配領域は安房一国と上総南部のわずかな地域にまで縮小し、その勢力は大きく減退した。

この絶望的な状況下で、里見氏の再起を支えたのは、若き当主・義弘と、後見役として依然として強い影響力を持っていた父・義堯の双頭体制であった 7 。彼らは安房で軍備の再編と兵力の回復に努めると同時に、北条方に寝返った国人衆の切り崩しや、反撃の機会を虎視眈々と窺っていた。

特に、里見氏が伝統的に強みとしてきたのが水軍の存在である。陸上での劣勢を補うため、義堯は里見水軍を積極的に活用し、東京湾を挟んだ対岸の三浦半島など、北条氏の領国の沿岸部に対してゲリラ的な襲撃や略奪行為を繰り返したと考えられる 4 。これは、北条氏の背後を脅かし、上総に集中する兵力を分散させるための後方攪乱作戦であった。あまりの略奪の激しさに、現地の領民が年貢の半分を里見氏に納めることで被害を免れようとしたという逸話も残っており、里見水軍が北条氏にとって大きな脅威であり続けたことを物語っている 4

この1564年の大敗は、里見氏にとって痛恨事であったが、結果として組織の変革を促した側面もある。この危機を乗り越える過程で、実権は老練な父・義堯から、若き当主・義弘へと本格的に移行していった。国府台での敗北と久留里城の喪失という苦い経験は、義弘を単なる「血気盛んな若大将」から、忍耐と策略を身につけた成熟した戦国大名へと成長させる、重要な試練の期間となった。三年後の三船山での勝利は、この雌伏期間における戦略の練り直しと、指揮官としての義弘の成長なくしてはあり得なかったであろう。

北条氏による上総統治体制の構築

一方、上総の大部分を手中に収めた北条氏は、この地を恒久的な領国とするための支配体制の構築に速やかに着手した。占領した久留里城や椎津城をはじめとする上総の諸城には、北条氏譜代の家臣や、新たに服属させた現地の国人衆が城番として配置された 11 。例えば、椎津城には下総の有力国人である高城氏や酒井氏の一族が「椎津番」として交代で駐留した記録が残っており、北条氏が占領地を広域的な家臣団ネットワークの中に組み込んでいたことがわかる 11

さらに北条氏は、軍事的な制圧だけでなく、民政を通じた支配の安定化も図っていた。永禄七年(1564年)七月には、北条氏の家臣が木更津周辺の高根郷に対して乱暴狼藉を禁じる制札を発給しており、占領地の治安維持と民心の掌握に努めていた様子がうかがえる 11 。これは、北条氏の支配が単なる一時的な軍事占領ではなく、房総を自らの領国として統治しようという明確な意図に基づいていたことを示している。

しかし、北条氏の上総支配は必ずしも盤石ではなかった。里見氏は安房に拠って執拗な抵抗を続けており、その影響力は上総の在地社会に深く根を張っていた。領民の中には、長年統治してきた里見氏を「万年君様」と呼び慕う者も多く、新来の支配者である北条氏への反感も根強かったと推測される 4

このため、最前線では両者の勢力が複雑に入り組む状況が生まれた。史料には、一つの村が里見氏と北条氏の双方に年貢を半分ずつ納める「半手(はんて)」と呼ばれる支配形態が存在したことが記されている 27 。これは、どちらか一方の勢力が完全に他方を圧倒するには至らず、在地社会が両者の間で一種のバランスを取りながら存続していたことを示している。北条氏は上総の大部分を物理的に制圧したものの、その支配は主要な城や街道を押さえる「点の支配」に留まり、村落レベルでの人心掌握、すなわち支配の「深度」という点では課題を残していた。この在地社会との結びつきの弱さが、後に里見氏が反撃に転じた際、多くの国人衆が雪崩を打って里見方へ復帰する伏線となったのである 13

第四章:逆襲の狼煙 — 三船山合戦と久留里城奪還

久留里城を失い、安房一国に逼塞を余儀なくされた里見氏であったが、彼らは決して屈服していなかった。約三年にわたる雌伏の時を経て、永禄十年(1567年)、ついに逆襲の機会が訪れる。この年に勃発した三船山合戦は、国府台の敗戦で地に堕ちた里見氏の名誉を回復し、房総の勢力図を再び塗り替える、劇的な逆転劇の舞台となった。

三船山の決戦(永禄十年、1567年)

永禄十年八月、北条氏政・氏照兄弟は、里見氏の本国・安房にさらなる圧力をかけるべく、大軍を率いて上総に進出した。彼らが陣を敷いたのは、里見義弘の居城である佐貫城(現在の千葉県富津市)にほど近い、三船山であった 7 。これは、里見氏の息の根を完全に止めようとする、北条方の大規模な軍事行動であった。

この動きに対し、里見義弘と父・義堯は、籠城ではなく、果敢に打って出ることを決断した。兵力では依然として北条軍が優勢であったが、里見軍には地の利と、三年間の雌伏で蓄えた雪辱の念があった。両軍は三船山の麓で激突。戦いは激戦となったが、義弘の巧みな指揮と里見軍の奮戦により、戦況は次第に里見方優位に傾いていった 3

この戦いのクライマックスは、敗走する北条軍の殿(しんがり)を巡る攻防であった。殿軍の指揮を執っていたのは、北条方の有力武将・太田氏資であった。彼は、第二次国府台合戦の引き金となった太田康資の一族であり、北条氏にとっては重要な将帥であった。里見軍はこの殿軍に猛攻を加え、激闘の末、ついに太田氏資を討ち取るという大金星を挙げた 4 。総大将格の武将を失った北条軍は総崩れとなり、上総から撤退していった。

この三船山での勝利は、単に一戦の勝利に留まらず、三年前に国府台で喫した屈辱を、同じく敵将を討ち取るという形で完全に晴らす、象徴的な意味を持つものであった。

房総の勢力図、再び反転

三船山合戦の勝利は、房総の政治情勢を一変させる起爆剤となった。北条方の敗北と太田氏資の戦死という報が伝わると、これまで北条氏に与していた上総の国人衆は、一斉に態度を翻した。

かつて里見氏に背き北条方についていた勝浦城主・正木時忠や、土気・東金の両酒井氏といった有力者たちが、次々と再び里見氏に帰順・従属を申し出たのである 13 。これは、北条氏の上総支配が、軍事力によってかろうじて維持されていたに過ぎず、在地社会に深く根付いていなかったことを証明するものであった。

これにより、里見氏は失っていた上総の旧領のほとんどを回復することに成功した。その勢いは上総に留まらず、下総の一部にまで進出するほどであり、里見氏は再び房総半島における一大勢力としての地位を取り戻した 3

久留里城の奪還

そして、里見氏にとって最大の悲願であった本拠・久留里城の奪還も、この時期に成し遂げられた。史料の中には、三船山合戦に先立つ永禄九年(1566年)の終わり頃には、すでに里見氏が久留里城を回復していた、とする記述も存在する 4 。これが事実であれば、里見氏は三船山での決戦以前から、局地的な反攻作戦を粘り強く続け、徐々に失地を回復していたことになる。

いずれにせよ、三船山合戦の決定的な勝利によって、久留里城を含む上総全域における里見氏の支配は、確固たるものとなった。里見氏中興の祖である義堯が、その最期をこの久留里城で迎えたという事実は 3 、この城が再び里見氏の政治・軍事の中心地として、その栄光を取り戻したことを何よりも雄弁に物語っている。

永禄七年(1564年)から十年(1567年)に至る一連の流れは、強大な中央集権的勢力(北条氏)に対する、地域に深く根差した勢力(里見氏)が持つレジリエンス(回復力・弾力性)を示す典型例である。一度は本拠地を失うという壊滅的な打撃を受けながらも、①水軍による後方攪乱、②在地社会との強い結びつき、③好機を逃さない決断力(三船山での出撃)という三つの要素を組み合わせることで、戦況を覆した。もし里見氏がこの敗北から立ち直れなければ、房総半島は完全に北条氏の領国となり、関東の勢力図は大きく変わっていたであろう。上杉謙信にとっても、南からの強力な同盟者を失うことになり、対北条戦略はさらに困難になっていたはずだ。その意味で、三船山での勝利と久留里城の奪還は、里見一族の存亡を救っただけでなく、関東における反北条勢力の橋頭堡を維持し、その後の関東の歴史の展開に大きな影響を与えた、重要なターニングポイントであったと評価できる。

結論:久留里城の戦いが残した歴史的意義

永禄七年(1564年)に展開された久留里城を巡る一連の攻防は、房総の覇権を賭けた里見氏と北条氏の長きにわたる抗争史において、極めて重要な一幕であった。この戦いは、単なる一城の攻防に留まらず、両大名の戦略、組織力、そして領国支配のあり方を浮き彫りにした、象徴的な出来事であったと言える。

短期的な視点で見れば、国府台での大敗に続く久留里城の陥落は、里見氏にとって創設以来最大の危機であった。上総の支配基盤をほぼ全て失い、安房一国に封じ込められたこの時期は、まさに存亡の淵に立たされた瞬間であった。しかし、この敗北は同時に、里見氏が抱える組織的な弱点、すなわち緒戦の勝利に慢心するという戦略的未熟さを炙り出す結果となった。そして、この苦難の経験こそが、若き当主・里見義弘を百戦錬磨の戦国大名へと鍛え上げる、貴重な試練の場となったのである。

長期的な視点に立てば、この三年間にわたる失地と回復の経験は、逆説的にも里見氏の房総における支配をより強固なものにした。一度は北条氏に靡いた国人衆を、三船山での実力行使によって再び服属させたことで、主従関係はより強固に再確認された。危機の克服は、領国の一体感を醸成し、里見氏の求心力をかえって高める効果をもたらした可能性がある。

戦国史全体における位置づけとして、久留里城の攻防は、戦国時代の「城」が持つ多面的な意味を我々に教えてくれる。城は単なる軍事拠点ではない。それは地域の政治的安定を象徴する「旗」であり、領主の権威そのものであった。久留里城の喪失は里見氏の求心力の低下を意味し、その劇的な奪還は房総における覇権の完全な回復を内外に宣言する行為であった。

最終的に、永禄七年の久留里城の戦いは、里見氏にとっての一時的な、しかし深刻な後退であった。だがそれは同時に、組織の膿を出し、次世代のリーダーを成長させ、より強固な領国支配を築き上げるための、大いなる逆転劇への序曲でもあった。この一連の戦いは、房総半島という限定された舞台の上で繰り広げられた、戦国時代の権力闘争のダイナミズムと、逆境に屈しない人間の強靭さを凝縮した、象徴的な事例として歴史に深く刻まれている。

引用文献

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  5. 北条氏 VS 里見氏の激戦地、国府台城 - パソ兄さん https://www.pasonisan.com/review/0_trip_dell/11_0221houjo.html
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  16. 里見義堯 人物叢書 : 滝川恒昭 | HMV&BOOKS online - 9784642053075 https://www.hmv.co.jp/artist_%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E6%81%92%E6%98%AD_000000000899783/item_%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%BE%A9%E5%A0%AF-%E4%BA%BA%E7%89%A9%E5%8F%A2%E6%9B%B8_12983309
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  20. お城の”松の木”は食用!?戦国時代、武士たちは何を食べていた?籠城戦のため備蓄していたものとは? | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/240689/2
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