最終更新日 2025-09-01

享徳の乱(1455~83)

享徳の乱全史 ― 関東を焼き尽くした28年間の大乱

序章:終わらない戦いの序曲

日本の歴史において「戦国時代」の幕開けを告げる動乱といえば、多くの人々は京都を舞台とした応仁の乱(1467年〜1477年)を想起するであろう。しかし、その応仁の乱に先立つこと12年、東国・関東では既に、室町幕府の権威を根底から揺るがし、下剋上の時代の到来を告げる大規模な戦乱の火蓋が切られていた。それが、享徳3年(1454年)から文明14年(1483年)に至るまで、実に28年もの長きにわたって関東全域を焦土と化した「享徳の乱」である。

本報告書は、この享徳の乱を単なる一地方の紛争としてではなく、関東における中世的秩序の崩壊と、新たな時代である戦国時代の胎動を克明に描き出す画期的な出来事として捉える。応仁の乱が勃発し、そして終結した後もなお、関東ではこの戦いが続いていたという事実 1 は、この地が日本史の変革の最前線であったことを雄弁に物語っている。この乱は、室町幕府が構築した中央と地方の統治システム、とりわけ鎌倉公方と関東管領という二頭体制に内包された構造的欠陥が、ついに修復不可能な形で噴出した必然の帰結であった 3

本稿では、乱の原因となった根深い対立の系譜から、その発端である鎌倉での凶行、利根川を挟んで関東を二分した長期の対陣、そして複雑な戦局をさらに混乱させた内乱の勃発と、それを収拾した将星の活躍、最後に訪れる不完全な和睦までを、可能な限り時系列に沿って詳述する。これにより、単なる歴史事件の解説に留まらず、28年間にわたる戦乱のダイナミズムと、そこに生きた人々の葛藤、そしてこの大乱が如何にして「戦国時代」の扉をこじ開けたのかを、立体的に解き明かすことを目的とする。

第一部:積怨の系譜 ― 乱の胎動(〜1454年)

享徳の乱は、一朝一夕に勃発したのではない。その根源は、室町幕府の成立期にまで遡る、鎌倉府が抱えた構造的矛盾と、数世代にわたって蓄積された憎悪の連鎖にあった。

第一章:鎌倉府の宿痾 ― 永享の乱・結城合戦の傷跡

室町幕府初代将軍・足利尊氏は、関東統治の拠点として鎌倉に自らの子・基氏を置き、鎌倉府を開いた。これは幕府の「支店」とも言うべき機関であったが、代を重ねるごとに鎌倉公方は独自の権力基盤を築き、次第に京都の将軍家と対立するようになる 5 。特に3代将軍足利義満の時代、鎌倉公方足利氏満が将軍位を窺う野心を見せたことで、両者の亀裂は決定的となった 7

この長年の確執が、破滅的な形で爆発したのが「永享の乱」(1438年)である。4代鎌倉公方・足利持氏は、6代将軍・足利義教と全面的な対立関係に陥った。持氏は将軍の権威を無視する行動を繰り返し、補佐役である関東管領・上杉憲実の諫言にも耳を貸さなかった 7 。ついに幕府は持氏討伐を決断。幕府軍と上杉軍に攻められた持氏は鎌倉で自害し、鎌倉府は一時的に滅亡する 9 。この事件は、関東の武士たちに、鎌倉公方と幕府・上杉氏との間の和解しがたい対立を深く刻みつけた。

持氏の死は、関東に平和をもたらさなかった。むしろ、主を失った旧持氏派の武士たちの遺恨は、関東各地で燻り続けた 9 。永享12年(1440年)、持氏の遺児である安王丸・春王丸を担いだ下総の結城氏朝らが、「公方家再興」と「上杉討伐」を掲げて蜂起する。「結城合戦」の始まりである 10 。結城城に籠城した公方派に対し、幕府は再び大軍を派遣。約1年にも及ぶ凄惨な籠城戦の末、結城城は陥落し、安王丸・春王丸は捕らえられ、護送の途上で殺害された 10 。この悲劇は、持氏派の残党に、幕府と上杉氏に対する消えることのない復讐心を植え付けた 12

しかし、歴史の皮肉というべきか、結城合戦の翌年(1441年)に将軍足利義教が赤松満祐に暗殺される「嘉吉の変」が勃発。中央の混乱により結城合戦の残党処理が不徹底となり、持氏のもう一人の遺児・永寿王(後の足利成氏)は幸か不幸か生き延びることとなった 3

第二章:再興と亀裂 ― 新たなる公方の苦悩

嘉吉の変後の混乱を収拾し、関東の安定化を図りたい幕府は、宥和政策へと転換する。文安4年(1447年)、持氏の遺児・永寿王は元服して足利成氏と名乗り、宝徳元年(1449年)には幕府の公認のもと、第5代鎌倉公方として鎌倉への帰還を果たした 8

しかし、この鎌倉府再興は、構造的な時限爆弾を内包していた。成氏の周囲を固めるのは、他ならぬ父・持氏を死に追いやり、兄たちを殺害した上杉一族とその家臣団であった。特に、父・憲実の跡を継いで関東管領に就任した若き上杉憲忠との関係は、当初から冷え切っていた 2 。成氏が結城氏や千葉氏といった北関東の旧持氏派を自らの支持基盤とする一方、上杉氏は南関東に強固な地盤を築いており、鎌倉府は発足当初から二つの勢力の対立の舞台と化した 13

この抜き差しならない緊張関係が、最初に火を噴いたのが宝徳2年(1450年)の「江ノ島合戦」である。上杉家の家宰である長尾景仲と太田資清(太田道灌の父)が、成氏の排除を狙ってその御所を襲撃した 13 。このクーデター未遂事件は、一時的な和睦によって収束したものの、成氏と上杉家臣団との間の不信感を決定的なものにした。特に、事件後の所領問題が絡み、両者の対立はもはや個人的な感情論を超え、解消不可能な政治闘争へと発展していった 2

この一連の出来事は、享徳の乱が突発的に発生したのではなく、永享の乱・結城合戦という過去の悲劇によって運命づけられた必然の帰結であったことを示している。父を殺され、一族を滅ぼされた足利成氏にとって、上杉氏との共存はあり得なかった。彼の行動原理は、足利将軍家の血を引く者としての強烈な自負心 6 と、父の仇を討つという復讐心 13 の複合体であった。この個人的情念が、やがて関東全域を28年間もの長きにわたって焼き尽くす大乱の、最初の着火点となるのである。

勢力

主要人物

主な支持基盤

関係性

鎌倉公方

足利成氏

結城氏、千葉氏、小山氏など北関東・東関東の伝統的豪族

父・持氏を滅ぼした上杉氏に強い憎悪を抱く。

関東管領(山内上杉家)

上杉憲忠

長尾景仲(家宰)

幕府との協調を重視。公方の専制を警戒。

関東管領(扇谷上杉家)

上杉持朝、上杉顕房

太田資清(家宰)

山内上杉家と同盟関係。

室町幕府

足利義政(8代将軍)

細川勝元(管領)

鎌倉公方の独走を抑え、関東における幕府の権威を維持しようとする。

第二部:鎌倉の凶刃 ― 乱、東国を覆う(1454年12月〜1455年)

積もり積もった憎悪と不信は、ついに臨界点を超えた。足利成氏は、もはや政治的交渉による解決を放棄し、最も直接的かつ破壊的な手段に打って出る。鎌倉で振るわれた凶刃は、関東全域を巻き込む大乱の序曲となった。

第一章:誅殺 ― 享徳3年12月27日

享徳3年(1454年)12月27日、運命の夜。足利成氏は、周到な計画のもとに行動を開始した。この作戦は、単なる上杉憲忠個人への復讐ではなく、上杉方の指揮系統を瞬時に麻痺させることを目的とした、電撃的な指導者層の無力化作戦であった。

成氏はまず、上杉方の軍事・行政を実質的に取り仕切っていた家宰・長尾景仲が、歳末の参詣のために鎌倉を離れているという情報を的確に掴んでいた 15 。この好機を逃さず、成氏は「急用あり」と称して関東管領・上杉憲忠を自らの西御門邸に呼び出した 15 。主君からの召喚を、憲忠は断ることができない。武装を解いて邸内に入った憲忠は、待ち構えていた結城氏の家臣・多賀谷氏家らによって、なすすべもなく殺害された 13 。享年22であった。

作戦はこれだけでは終わらない。ほぼ時を同じくして、岩松持国率いる別働隊が管領屋敷を襲撃。鎌倉の留守を預かっていたもう一人の家宰・長尾実景とその子・景住を殺害した 15 。政治的トップと軍事的中心を同時に叩くという、冷徹な二正面作戦であった。

凶報は直ちに鎌倉中を駆け巡った。不在だったため難を逃れた長尾景仲は、急ぎ鎌倉に戻ると、もはや手の施しようのない管領屋敷に火を放ち、憲忠の正室(扇谷上杉持朝の娘)ら生き残った人々を保護して、扇谷上杉家の本拠である糟谷館へと脱出させた 3 。鎌倉は、一夜にして戦場と化した。

事件後、成氏が幕府に送った弁明書は、謝罪の言葉どころか「憲忠に逆心の兆しがあった」と主張する、開き直りに近い内容であったと伝わる 15 。彼に、もはや後戻りする意思はなかった。これに対し幕府は、成氏の弁明を黙殺し、彼を「朝敵」として討伐することを正式に決定した 8 。ここに、享徳の乱の火蓋は完全に切られたのである。

第二章:分倍河原の激闘 ― 緒戦の帰趨

年が明けた康正元年(1455年)1月、足利成氏は先手を打って上杉方の本拠地である上野国を制圧すべく、自ら軍を率いて鎌倉を出陣。武蔵国府中の高安寺に本陣を構えた 13

これに対し、上杉方は反撃を試みる。扇谷上杉持朝は成氏の留守を狙って鎌倉を奪還しようとするが、相模国島河原で成氏方の武田信長に迎撃され敗退 16 。一方、長尾景仲は上野・武蔵の兵を急ぎ結集させ、扇谷上杉顕房、犬懸上杉憲秋ら上杉一族と共に府中の成氏本陣へと迫った。

1月21日、両軍は府中の分倍河原で激突する。上杉連合軍は約2000騎、対する成氏軍は約500騎と、兵力では上杉方が圧倒的に優勢であった 16 。しかし、成氏はその劣勢をものともせず、自ら先頭に立って上杉軍に突撃を敢行した。この予期せぬ猛攻に上杉軍の先鋒は混乱。犬懸上杉憲秋が致命傷を負い、高幡不動で自害に追い込まれるという波乱の幕開けとなった 13

翌22日、態勢を立て直した上杉軍は再度攻撃を仕掛けるが、そこへ成氏軍の主力である結城成朝の部隊が側面に回り込み、上杉軍を強襲。これにより上杉軍は総崩れとなり、潰走を始めた。成氏軍の追撃は熾烈を極め、武蔵夜瀬(現在の三鷹市)で扇谷上杉家の当主・顕房らが討死 16 。長尾景仲は、残存兵力をかき集め、辛うじて常陸国の小栗城まで落ち延びるのがやっとであった 16

この分倍河原の戦いは、足利成氏の将器の高さと、彼に従う武士たちの精強さを関東中に知らしめる結果となった。緒戦は、成氏方の圧倒的な勝利に終わったのである。

第三章:古河公方の誕生 ― 新たなる関東の支配者

分倍河原での勝利に勢いづいた成氏は、追撃の手を緩めず、長尾景仲が逃げ込んだ常陸小栗城を攻撃し、閏4月にはこれを陥落させた 18 。この時点では、関東の軍事的主導権は完全に成氏が握っていた。

しかし、その間に中央の幕府も手をこまねいていたわけではなかった。成氏討伐の幕命を受けた駿河守護・今川範忠が、大軍を率いて関東へ進出。成氏が北関東に兵力を集中させている隙を突き、6月には手薄となっていた鎌倉を占領した 13

これにより、足利成氏は生まれ故郷であり、鎌倉公方の象徴でもある鎌倉への帰還の道を断たれてしまう。彼はやむなく、自らの支持基盤が強固な下総国古河(現在の茨城県古河市)に新たな本拠を移した 13 。以後、成氏とその子孫は「古河公方」と称されることになる。

この一連の出来事により、鎌倉府は事実上崩壊。関東は、古河に拠点を置く足利成氏と、幕府の権威を背景とする上杉氏および今川軍によって、二分される状況が確定した。一つの戦いが終わり、長く終わりの見えない、新たな戦争の時代が始まろうとしていた。

第三部:利根川の断絶 ― 関東の二分と果てなき対陣(1456年〜1475年)

鎌倉を追われた足利成氏が古河に新たな拠点を築いたことで、享徳の乱は新たな局面を迎えた。それは、関東全域を巻き込み、利根川を境界線として東西に分断する、長期にわたる消耗戦の時代の幕開けであった。

第一章:二人の公方 ― 堀越公方の下向

古河公方として関東の武士たちから依然として強い支持を集める足利成氏に対し、幕府は対抗策として新たな「正統な」鎌倉公方を関東へ送り込むことを決定する。長禄元年(1457年)、8代将軍・足利義政は、自らの異母兄である天龍寺の僧・清久を還俗させ、「足利政知」の名を与えて次期鎌倉公方として派遣した 8

幕府の狙いは、将軍家の権威をもって成氏を孤立させ、関東の統治権を再びその手に取り戻すことにあった。しかし、この目論見は早々に頓挫する。政知が関東へ下向したものの、成氏方の勢力に行く手を阻まれ、ついに鎌倉へ入ることができなかったのである 8 。政知は、やむなく伊豆国の田方郡堀越(現在の静岡県伊豆の国市)に御所を構え、そこから関東を治めようとした。これにより、政知は「堀越公方」と呼ばれるようになる 22

この結果、関東には古河と堀越に二人の公方が並び立つという、前代未聞の異常事態が生まれた 25 。この事態は、もはや室町将軍の命令一つでは関東を動かすことができないほど、幕府の権威が失墜していたことを象徴する出来事であった。関東の武士たちの多くは、幕府が送り込んだ「よそ者」の政知ではなく、たとえ朝敵となろうとも、関東に生まれ育ち、武勇を示した成氏こそが真の主君であると考えていたのである 8 。堀越公方の影響力は、事実上、伊豆一国とその周辺に限定され、関東の戦局に決定的な影響を与えることはできなかった。

第二章:五十子の陣 ― 泥沼の長期戦

関東の覇権をめぐる戦いの主戦場は、武蔵国北部に移った。上杉方は、古河公方軍の南下を阻止するための最前線基地として、長禄3年(1459年)頃、武蔵国五十子(現在の埼玉県本庄市)に大規模な陣城を構築した 27 。利根川を挟んで古河城と対峙するこの「五十子の陣」は、以後、約20年近くにわたって両軍が睨み合う、享徳の乱の象徴的な場所となる 28

関東は、この五十子の陣と利根川を事実上の境界線として、東の古河公方方(下総、常陸、下野、上総など)と、西の上杉方(上野、武蔵、相模など)に真っ二つに分断された 31 。この長い対陣期間中、太田庄の戦い(1459年) 27 のように、時に激しい戦闘が繰り広げられることもあったが、どちらの陣営も決定的な勝利を収めることはできず、戦線は膠着した。

この戦いは、従来の短期決戦型の野戦とは様相を異にしていた。それは、堅固な防衛拠点を中心とした、兵站と経済力が勝敗を左右する長期の消耗戦、いわば戦国時代の城郭戦を先取りするような、新たな戦争の形態であった。寛正7年(1466年)には、関東管領の上杉房顕がこの五十子陣中で病没し、後継として越後から上杉顕定が迎えられるなど 2 、世代交代を経てもなお、この果てしない戦いは続いていった。

第三章:京の動乱、関東の停滞 ― 応仁の乱の影響

文明元年(1467年)、京都で細川勝元と山名宗全の対立を軸とする「応仁の乱」が勃発すると、関東の戦局はさらに泥沼化する 31 。室町幕府は東西両軍に分裂して内戦状態に陥り、もはや遠い関東の問題に介入する余力を完全に失ってしまった 2

これにより、上杉方や堀越公方への幕府からの支援は事実上途絶える 8 。後ろ盾を失った上杉方は、単独で古河公方の大軍と対峙し続けなければならなくなった。一方で、足利成氏も幕府の混乱を好機と見て攻勢を強めるが、上杉方の防衛網も厚く、戦局を覆すには至らない。両陣営ともに、中央の動乱の行方を固唾をのんで見守りながら、決定的な行動を起こせないまま、いたずらに時間だけが過ぎていった。応仁の乱が、結果的に享徳の乱をさらに長期化させる最大の要因となったのである。

第四部:内なる亀裂と将星の登場 ― 戦局の転換点(1476年〜1478年)

20年近く続いた五十子での対陣は、両陣営を心身ともに疲弊させた。誰もがこの終わりの見えない戦いに倦んでいた頃、戦局を根底から揺るがす、新たな動乱が上杉方の内部から発生する。この危機は、一人の類稀なる将星を歴史の表舞台へと押し上げ、長く続いた戦争を終結へと導く、皮肉なきっかけとなった。

第一章:長尾景春の叛旗 ― 上杉家の内紛

文明8年(1476年)、山内上杉家の家宰(筆頭家老)として長年、享徳の乱を戦い抜いてきた長尾景信が五十子陣中で病没した 34 。景信の子である長尾景春は、父の功績から当然自分が家宰職を継げるものと信じていた。しかし、関東管領・上杉顕定は、景春の叔父にあたる長尾忠景を後任に指名する。

この人事に激しい不満と屈辱を覚えた景春は、ついに主君である山内上杉家に対して反旗を翻した 19 。これが「長尾景春の乱」である。景春は、父の代から培ってきた武蔵・上野の国人たちへの影響力を背景に、瞬く間に大勢力を形成。さらに、これまで敵対していた古河公方・足利成氏と密かに手を結んだ 29

この反乱は、上杉方にとって致命的な打撃となった。これまで一枚岩で古河公方と対峙してきた体制が、内側から崩壊したのである。上杉方は、東の「古河公方」と西の「長尾景春」という二つの強大な敵を同時に相手にする、絶望的な二正面作戦を強いられることになった 36 。景春の攻勢は凄まじく、五十子の陣は放棄され、上杉顕定は上野国へと敗走。上杉方は、まさに滅亡の淵に立たされた 29

第二章:太田道灌の躍進 ― 江戸城の名将

この上杉方最大の危機に、一人の男が彗星の如く現れる。扇谷上杉家の家宰・太田道灌である 20 。彼は享徳の乱の勃発後、対古河公方の防衛拠点として、武蔵国の江戸城や河越城を築城し、来るべき時に備えていた 20

主家と本家が崩壊の危機に瀕する中、道灌は江戸城を拠点に反撃を開始する。彼の用兵は、まさに神算鬼謀と呼ぶにふさわしかった。景春方に味方する武蔵・相模の諸将の城を、驚くべき速さで次々と攻略 39 。敵の連携を断ち、各個撃破していく電撃戦を展開した。彼の活躍により、上野へ敗走していた上杉顕定らを五十子に復帰させ、崩壊しかけていた上杉方の戦線を再構築することに成功する 29

長尾景春の乱という「戦争の中の戦争」は、膠着していた享徳の乱の戦局を動かす触媒となった。そして、この絶体絶命の状況は、太田道灌という傑出した軍事指導者の才能を最大限に引き出すための、歴史が用意した舞台装置であった。彼の活躍なくして、上杉方の勝利、ひいては享徳の乱の終結はあり得なかったであろう。

第三章:二正面作戦の終焉 ― 和睦への転換

太田道灌の relentless な攻勢の前に、長尾景春の勢力は次第に削られていった。関東各地で景春に味方した勢力は道灌によって鎮圧され、追い詰められた景春は、最終的に同盟者であった古河公方・足利成氏を頼って落ち延びていった 38

上杉方にとって最大の脅威であった景春の乱が鎮圧されたことで、ようやく古河公方との戦いに全力を注げる状況が生まれた 41 。しかし、20年以上にわたる戦争と、それに続く内紛は、上杉方の国力を著しく消耗させていた。これは、古河公方方も同様であった。

この状況が、これまで敵対一辺倒であった両陣営に、和睦という選択肢を現実的なものとして考えさせる大きな要因となった。特に、この内乱を独力で収拾し、その名声が関東中に轟いていた太田道灌は、これ以上の無益な戦いを続けるべきではないと考え、両者の間の和平交渉を主導したとされる 38 。長きにわたった戦乱は、ついに終わりの時を迎えようとしていた。

しかし、この道灌の目覚ましい活躍は、皮肉な結果をもたらす。彼の功績は、主家である扇谷上杉家だけでなく、本家である山内上杉家をも救うものであったが、そのあまりに高まった名声と影響力は、主君である上杉定正や山内上杉家にとって、自らの権威を脅かす潜在的な脅威とも映った 42 。享徳の乱における彼の輝かしい勝利が、後の彼自身の悲劇的な最期を準備することになるのである。

第五部:都鄙和睦 ― 長すぎた戦いの終焉(1478年〜1483年)

長尾景春の乱の鎮圧は、享徳の乱そのものの潮目を変えた。共通の敵を相手に戦う中で疲弊しきった古河公方と上杉氏の間に、ようやく和平の機運が生まれる。しかし、28年間にわたって流された血と憎悪を乗り越えての和睦は、一筋縄ではいかなかった。

第一章:和平への道

長尾景春の勢力がほぼ一掃された文明10年(1478年)1月、まず関東の現場レベルでの和睦が成立する。足利成氏と、上杉顕定・上杉定正の両上杉氏との間で停戦協定が結ばれたのである 44 。これにより、20年以上続いた五十子周辺での軍事対峙は、事実上終わりを告げた。

これと並行して、京都の室町幕府と古河公方との間での公式な和睦交渉が本格化した。前年(1477年)に応仁の乱が終結したことで、幕府にもようやく関東問題に本格的に取り組む政治的余裕が生まれていた。交渉は、8代将軍・足利義政の奉公衆が仲介役となって進められた。長年の戦乱による関東の荒廃は、これ以上の戦争継続が誰にとっても利益にならないことを示しており、双方を交渉のテーブルに着かせた。

第二章:都鄙合体 ― 成立と限界

数年間にわたる交渉の末、文明14年11月27日(西暦1483年1月6日)、ついに幕府と古河公方との間で正式な和睦が成立した。これを「都鄙和睦」あるいは「都鄙合体」と呼ぶ 26

その内容は、以下の通りであった。

  1. 幕府は、朝敵としてきた足利成氏を赦免し、正式な公方としてその地位を認める。
  2. 古河公方(足利成氏)は、伊豆国を除く関東一円の支配権を認められる。
  3. 堀越公方(足利政知)は、伊豆一国の支配者としてその地位を安堵される 44

この和睦により、28年間にわたった享徳の乱は、公式に終結した。しかし、その内実は、根本的な対立構造を解決しないままの、極めて不安定な妥協の産物であった。乱の発端となった「朝敵」足利成氏の支配を、幕府が結果的に追認したこの和睦は、幕府が関東の実効支配を事実上放棄したことを意味する「敗北宣言」に他ならなかった 45

さらに、関東に二人の公方を並立させ、堀越公方・政知を伊豆一国に押し込めるという取り決めは、新たな不満の火種を残した 21 。そして何よりも、この和睦は関東に真の平和をもたらさなかった。享徳の乱という共通の敵を失ったことで、これまで協力関係にあった山内上杉家と、太田道灌の活躍で勢力を伸長させた扇谷上杉家との間の対立が、急速に表面化していく 25

享徳の乱の終結は、一つの時代の終わりであると同時に、新たな戦乱の時代の始まりであった。関東は、息つく間もなく、次の内乱「長享の乱」へと突入していくのである。

総括:享徳の乱が遺したもの ― 新たな時代の黎明

28年間にわたる享徳の乱は、関東の政治・社会構造を根底から変質させ、新たな時代の到来を告げる分水嶺となった。この大乱が遺したものは、荒廃した土地だけではなく、来るべき戦国時代の秩序を規定する、いくつかの決定的な変化であった。

第一に、 関東における室町幕府体制の事実上の崩壊 である。「都鄙和睦」は、幕府が反逆者である古河公方の存在を認めざるを得なかったという事実を示しており、鎌倉府を頂点とする幕府の地方統治システムが、もはや関東においては機能不全に陥ったことを白日の下に晒した 47 。これにより、古河公方は幕府から半ば独立した地域権力となり、関東は中央の権威から切り離された、独自の政治力学によって動く時代へと移行した。

第二に、 関東管領・上杉氏の権威失墜と内部抗争の激化 である。28年間の戦乱は、上杉氏の国力を著しく消耗させた。さらに、乱の終結後、共通の敵を失った山内・扇谷両上杉家は、関東の覇権をめぐって「長享の乱」という泥沼の内紛に突入する 46 。これにより、関東管領という職の権威は地に落ち、関東の国人領主たちを束ねる求心力を完全に失っていった。

第三に、そして最も重要なのが、 新興勢力が台頭する土壌の形成 である。旧来の権威であった鎌倉公方と関東管領が共倒れに近い形で弱体化したことで、関東には巨大な権力の真空地帯が生まれた。この混乱に乗じ、実力によって領地を切り拓いていく新たな勢力が登場する。その象徴が、堀越公方家のお家騒動を好機と捉えて伊豆一国を奪取した伊勢宗瑞(後の北条早雲)であった 23 。享徳の乱がもたらした秩序の崩壊と流動化こそが、後の後北条氏に代表される戦国大名が、身分や家格にとらわれずに関東を席巻していく下地を整えたのである。

以上の点から、享徳の乱は、応仁の乱に先駆けて始まり、それを超えて続いた長期大規模な内乱であったこと、幕府の権威が及ばない地域権力が確立されたこと、そして旧来の支配体制が崩壊して下剋上の土壌が生まれたこと 3 を踏まえ、単なる地方の反乱ではなく**「関東における戦国時代の真の幕開け」**と位置づけることができる。この乱こそが、関東を中世から近世へと移行させる、長く困難な産みの苦しみの始まりであった。


付録:享徳の乱 詳細年表(1454年〜1483年)

西暦(和暦)

年月日(旧暦)

場所

出来事

主要人物

結果・影響

1454年(享徳3)

12月27日

相模国鎌倉

足利成氏、関東管領・上杉憲忠を自邸に呼び出し謀殺。

足利成氏、上杉憲忠

享徳の乱、勃発。

1455年(康正元)

1月21日-22日

武蔵国分倍河原

分倍河原の戦い。足利成氏軍が上杉連合軍に圧勝。

足利成氏、長尾景仲

上杉顕房ら上杉一族の多くが戦死。

1455年(康正元)

6月

相模国鎌倉

幕府軍の今川範忠が鎌倉を占領。

今川範忠、足利成氏

成氏は鎌倉を追われ、下総国古河を本拠とする( 古河公方 の始まり)。

1457年(長禄元)

12月

伊豆国堀越

幕府、足利政知を新たな鎌倉公方として派遣するも、鎌倉に入れず伊豆堀越に御所を構える( 堀越公方 の始まり)。

足利政知

関東に二人の公方が並立する異常事態となる。

1459年(長禄3)

10月14日

武蔵国太田庄

太田庄の戦い。古河公方軍が上杉軍に勝利。

足利成氏、上杉房顕

上杉方は武蔵国五十子に陣を構え、長期対陣に突入( 五十子の戦い )。

1466年(寛正7)

2月

武蔵国五十子

関東管領・上杉房顕が陣中で病没。

上杉房顕

越後から上杉顕定が後継者として迎えられる。

1467年(応仁元)

5月

山城国京都

応仁の乱 が勃発。

細川勝元、山名宗全

幕府が関東問題に介入する余力を喪失し、享徳の乱はさらに長期化。

1476年(文明8)

6月

武蔵国

山内上杉家家宰・長尾景春が、家宰職継承問題で反乱( 長尾景春の乱 )。

長尾景春、上杉顕定

上杉方は内部分裂し、最大の危機を迎える。

1477年(文明9)

1月

武蔵国五十子

長尾景春の攻撃により五十子陣が陥落。

長尾景春、太田道灌

太田道灌が反撃を開始。景春方の城を次々と攻略し、戦局を転換させる。

1478年(文明10)

1月

-

古河公方・足利成氏と両上杉氏との間で和睦が成立。

足利成氏、上杉顕定

関東における戦闘行為が事実上停止。

1483年(文明14)

11月27日

-

幕府と古河公方との間で正式な和睦( 都鄙和睦 )が成立。

足利義政、足利成氏

**享徳の乱、終結。**成氏は公方として赦免される。

引用文献

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