佐和山城前哨戦(1573)
元亀元年、織田信長は浅井長政の離反後、佐和山城を八ヶ月にわたり包囲。猛将・磯野員昌は孤立無援の中、奮戦するも開城。この前哨戦が浅井氏滅亡と北近江の織田支配を決定づけた。
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佐和山城攻防戦(元亀元~二年):浅井氏滅亡への序曲、北近江の帰趨を決した八ヶ月の攻防
序章:元亀四年の近江と「佐和山城前哨戦」の再定義
元亀四年(1573年)、後の天正元年、織田信長は積年の宿敵であった浅井長政をその居城・小谷城に攻め滅ぼし、北近江の完全平定を成し遂げた。この歴史的転換点において、佐和山城は既に織田方の重要拠点として機能しており、信長が琵琶湖の制水権を掌握すべく巨大な軍船を建造させるための前線基地と化していた 1 。したがって、1573年という年に、佐和山城を舞台とした大規模な「攻防戦」は記録されていない。
しかしながら、「佐和山城前哨戦」という言葉は、歴史の深層を的確に捉えている。1573年の浅井氏滅亡という「本戦」の帰趨を事実上決定づけた、真の前哨戦が存在したからである。それは、元亀元年(1570年)の姉川の戦い直後から始まり、翌元亀二年(1571年)2月に落着した、浅井家の猛将・磯野員昌が守る佐和山城をめぐる約八ヶ月間にわたる壮絶な攻防戦である 3 。この戦いこそが、浅井氏の屋台骨を揺るがし、北近江の戦略的均衡を不可逆的に崩壊させた決定的な出来事であった。
本報告書は、この1570年から1571年にかけての「佐和山城攻防戦」を、1573年の浅井氏滅亡に至るまでの決定的な「前哨戦」と再定義し、その背景、詳細な経過、そして歴史的意義を時系列に沿って徹底的に解明するものである。
佐和山城攻防戦 関連年表(元亀元年~天正元年)
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年月日 |
出来事 |
概要 |
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元亀元年 (1570) 4月 |
金ヶ崎の戦い |
信長、越前朝倉氏を攻めるも浅井長政の離反により撤退。 |
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元亀元年 (1570) 6月28日 |
姉川の戦い |
織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍に勝利。磯野員昌は佐和山城へ敗走。 |
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元亀元年 (1570) 7月1日 |
佐和山城包囲戦 開始 |
織田信長、丹羽長秀らを将として佐和山城を完全包囲。 |
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元亀二年 (1571) 2月24日 |
佐和山城、開城 |
約八ヶ月の籠城の末、磯野員昌が降伏。丹羽長秀が城主となる。 |
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元亀二年 (1571) 9月12日 |
比叡山焼き討ち |
信長、浅井・朝倉方を匿った比叡山延暦寺を焼き討ちにする。 |
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天正元年 (1573) 8月 |
一乗谷城の戦い |
信長、越前に侵攻し朝倉義景を滅ぼす。 |
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天正元年 (1573) 9月1日 |
小谷城の戦い |
信長、小谷城を陥落させ浅井長政は自害。浅井氏滅亡。 |
第一章:決裂―織田・浅井同盟の破綻と姉川の戦い
佐和山城が戦火に包まれる直接的な原因は、かつて固く結ばれていた織田信長と浅井長政の同盟関係が破綻したことに遡る。美濃を平定し、天下布武の次なる一手として上洛を目指す信長にとって、京への経路上に位置する北近江の支配者・浅井氏との連携は不可欠であった 5 。信長は妹であり絶世の美女と謳われたお市の方を長政に嫁がせ、両家は婚姻による強固な同盟を成立させた 7 。しかし、この同盟には、浅井家が長年恩義を受けてきた越前の朝倉家を織田家が攻撃しないという、暗黙あるいは明示の条件が付されていたとされる 7 。
この均衡は、元亀元年(1570年)4月、信長が突如として越前の朝倉義景討伐の軍を起こしたことで脆くも崩れ去る。長政は、旧来の盟友への「義理」と、義兄である信長への「信義」との間で板挟みとなり、苦悩の末に信長を裏切り、その背後を突く決断を下した 9 。これが世に言う「金ヶ崎の退き口」であり、信長を生涯最大の窮地の一つに陥れたこの離反は、両家の関係を修復不可能なものとした。
信長の怒りは凄まじく、同年6月、徳川家康の援軍を得て北近江に侵攻。姉川の河原で浅井・朝倉連合軍と激突した。この「姉川の戦い」において、浅井軍の先鋒を務めたのが、佐和山城主・磯野員昌であった 6 。員昌は「員昌の十一段崩し」と後世に伝わるほどの凄まじい猛攻で織田軍の陣を次々と突破し、一時は信長の本陣に肉薄する獅子奮迅の働きを見せた 11 。しかし、徳川軍の奮戦により朝倉軍が崩れると戦況は一変し、浅井軍もまた総崩れとなった。員昌は辛うじて戦場を離脱し、手勢を率いて居城・佐和山城へと敗走したのである 1 。
この姉川での員昌の突出した武勇は、皮肉にも彼自身の運命を決定づけることとなった。信長は、員昌という将の危険性と、彼が守る佐和山城の戦略的重要性を骨身に染みて認識した。北近江を制圧するためには、この最も危険な牙城を何をおいても無力化せねばならない。信長が姉川の戦いの直後、間髪入れずに佐和山城の完全包囲に着手したのは、まさにこの員昌の武勇を目の当たりにしたが故の、必然的な戦略的判断であった。
第二章:孤城、佐和山―織田信長による北近江分断戦略
姉川の戦いに勝利した信長は、力押しで小谷城を攻めるのではなく、より周到かつ冷徹な戦略を実行に移した。それは、浅井氏の領国を南北に分断し、その主要拠点を一つずつ無力化していくというものであった。その最初の標的こそ、佐和山城であった。
信長の戦略の要は、浅井氏の本拠地である小谷城と、南の要である佐和山城との連携を完全に断ち切ることにあった。そのために、両城の中間に位置する横山城を奪取し、ここを拠点として木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)らを配置した 3 。これにより、小谷城と佐和山城を結ぶ陸路は物理的に遮断され、佐和山城は織田方の勢力圏の只中に浮かぶ「孤島」と化したのである 3 。
近江国は、琵琶湖の水運と東山道(後の中山道)や北国街道といった主要陸路が交差する、日本の経済・交通における大動脈であった 13 。佐和山城は、この東山道を押さえる極めて重要な戦略拠点であり、ここを失うことは、浅井氏にとって単に一城を失う以上の、領国経営そのものへの大打撃を意味した。信長の分断戦略は、佐和山城を物理的に孤立させるだけでなく、その地政学的な価値を無効化する狙いがあった。
この戦略は、信長の近代的な思考を如実に示している。彼は堅固な城を力で攻め落とすという伝統的な戦術に固執しなかった。そうではなく、城が持つ「連携」や「交通」といった機能を外部から破壊することで、城そのものを戦略的に「死んだ拠点」へと変えていったのである。小谷城からの援軍も補給も絶望的となり、情報すら届かない完全な孤立状態の中で、磯野員昌は絶望的な籠城戦を強いられることになった。佐和山城は、織田軍の攻撃を受ける前に、既に戦略的に敗北していたと言っても過言ではない。
第三章:八ヶ月の攻防―佐和山城包囲戦のリアルタイム詳解
元亀元年(1570年)7月1日、『信長公記』によれば、織田信長は自ら佐和山へ馬を寄せ、鉄壁の包囲網を敷いた。それは、磯野員昌の武勇と佐和山城の堅固さを熟知した上での、徹底的な兵糧攻め(干殺し)の始まりであった。
包囲網の形成:四方を塞ぐ鉄の檻
信長が構築した包囲網は、地理的にも人員的にも完璧なものであった。城の四方に織田家の宿将を配し、いかなる物資の搬入、兵の出入りも許さないという固い意志が示されていた。
佐和山城包囲戦における織田軍の布陣
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方角 / 地点 |
担当武将 |
戦略的役割 |
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東(鳥居本) |
丹羽長秀 |
大手口方面を圧迫し、包囲軍全体の指揮を執る。交通の要衝である東山道を完全に封鎖。 |
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北(物生山) |
市橋長利 |
浅井氏の本拠・小谷城からの援軍ルートを最終的に遮断する。 |
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南(里根山) |
水野信元 |
南方からの侵入経路および城兵の脱出路を封鎖する。 |
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西(彦根山) |
河尻秀隆 |
琵琶湖方面からの連絡・補給を警戒し、搦手口を監視する。 |
この布陣に加え、周囲には鹿垣(逆茂木を連ねた柵)が幾重にも結われ、文字通り蟻一匹這い出る隙間もない包囲網が完成した 1 。丹羽長秀を総大将格とするこの布陣は、佐和山城を外部世界から完全に切り離し、その生命線を断つことを目的としていた。
籠城戦の実態:飢えと絶望との戦い
織田軍は積極的な攻撃を控え、ひたすら時が満ちるのを待った。これは戦国時代の攻城戦術の中でも最も残酷かつ効果的な「兵糧攻め」であった 14 。城内に備蓄された兵糧は日一日と減少し、やがて水や矢弾も尽きていく。兵士たちの士気は飢えと共に失われ、援軍が来ないという絶望感が城内に蔓延していった 16 。
この八ヶ月という長期間の包囲を維持できたこと自体が、織田信長の驚異的な兵站能力と組織力を物語っている。敵地深くに数万の軍勢を長期間展開し続けることは、戦闘そのものよりも困難な事業である。食料や武具を継続的に補給し、兵士の規律を保つ。この戦いは、磯野員昌という一個人の武勇と、織田信長という巨大な軍事・経済組織との戦いであった。
城の構造と防御:難攻不落の要塞
それでもなお、佐和山城が八ヶ月もの間持ちこたえたのは、その構造が「難攻不落」と称されるにふさわしい堅固さを誇っていたからに他ならない 17 。標高約232mの山全体を要塞化した山城であり、山頂の本丸を中心に、西ノ丸、二ノ丸、三ノ丸、そして尾根続きに太鼓丸、法華丸といった多数の曲輪が複雑に配置されていた 4 。近年の発掘調査では、幅が約22メートルにも及ぶ大規模な内堀や、堅固な土塁の跡も確認されており、当時の防御力の高さが窺える 1 。磯野員昌はこの天険の要害を最大限に活用し、織田の大軍を寄せ付けなかったのである。
水面下の調略と心理戦:蝕まれる心
包囲軍は、ただ待つだけでなく、降伏勧告という形で心理戦を仕掛け続けた。特に、当時まだ木下藤吉郎と名乗っていた秀吉が、その弁舌と才覚をもって員昌の説得にあたったとも伝えられている 12 。
しかし、員昌の心を最も蝕んだのは、敵からの調略よりも、味方からの裏切りであった。員昌は再三にわたり、主君・浅井長政に援軍を要請した。だが、小谷城から兵が送られてくることはついになかった 19 。それどころか、長政は員昌が織田方と内通しているのではないかと疑い、員昌一行が小谷城へ入ることすら拒絶したという逸話も残る 12 。外部からの情報が完全に遮断された中で、主君に見捨てられたという絶望感と不信感は、いかなる猛将の心をも折るに十分であった。物理的な兵糧の枯渇と、精神的な支えである主君との信頼関係の枯渇。この二つが、員昌に苦渋の決断を迫ることになる。
第四章:落城―磯野員昌、苦渋の決断
元亀二年(1571年)2月24日、八ヶ月に及ぶ壮絶な籠城戦の末、磯野員昌はついに白旗を掲げ、織田信長に降伏した。佐和山城は、一滴の血も流れることなく開城されたのである 3 。
この決断の背景には、兵糧が完全に尽きたことに加え、主君・浅井長政からの援軍が絶望的であるという冷徹な現実があった 19 。見捨てられたという絶望は、員昌から最後の抵抗の意志を奪い去った。
驚くべきは、降伏後の信長の処遇であった。信長は、あれほど自軍を苦しめた敵将・員昌の命を奪うどころか、その武勇を高く評価し、佐和山城と引き換えに近江高島郡一郡を与えるという破格の条件を提示した 3 。これは、当時の織田家の宿老たちと同等の待遇であり、員昌がいかに高く評価されていたかを示している 3 。
しかし、これは単なる温情や武人への敬意だけではなかった。信長の行動の裏には、浅井家臣団の切り崩しを狙った高度な政治的・心理的戦略が隠されていた。浅井家随一の猛将が降伏し、しかも信長によって厚遇されているという事実は、小谷城に残る他の家臣たちに強烈なメッセージとして伝わる。「最後まで抵抗すれば滅びるが、降伏すれば未来がある」という選択肢を提示することで、家臣団の結束に楔を打ち込み、内部からの崩壊を誘う。信長は、佐和山城という物理的な拠点を手に入れると同時に、浅井家の精神的な支柱を奪い、自軍の戦力として組み込むという、一挙両得の成果を上げたのである。
降伏後、員昌は織田家臣として仕え、信長の甥である津田信澄を養子に迎えるなどしたが、天正六年(1578年)、信長の勘気に触れて所領を没収され、高野山へ出奔したと伝えられている 11 。戦国の世の非情さを象徴するような結末であった。
第五章:戦後の近江と浅井氏の終焉
磯野員昌の降伏と佐和山城の開城は、北近江の勢力図を決定的に塗り替えた。城には織田家の筆頭家老の一人である丹羽長秀が入城し、佐和山城は対浅井・朝倉戦線の最前線基地、そして北近江から若狭国に至る広大な地域の支配拠点へと、その役割を完全に変えた 23 。丹羽長秀は織田家臣団の中で最初に一国を与えられた「国持大名」となり、佐和山城はその権威を象徴する居城となったのである 24 。
一方、南の最重要拠点と家中随一の猛将を同時に失った浅井氏は、戦略的にも精神的にも致命的な打撃を受けた。その勢力は小谷城周辺に封じ込められ、もはや織田信長の大軍に対抗する力は残されていなかった。
そして二年後の天正元年(1573年)、信長は満を持して最後の総仕上げに取り掛かる。同年8月、まず越前の朝倉義景を滅ぼし、浅井氏を完全に孤立させた。その直後、北近江に全軍を差し向け、小谷城を包囲した。この時、かつて浅井氏の牙城であった佐和山城は、皮肉にも浅井氏を滅ぼすための織田軍の出撃拠点の一つとして機能した。
この年、信長が佐和山城の麓で巨大な軍船を建造させたという事実は象徴的である 1 。これは、琵琶湖の制海権を完全に掌握し、小谷城を水陸両面から圧迫するデモンストレーションであり、佐和山城がもはや完全に織田方の戦略拠点となったことを天下に示すものであった。
援軍の望みも絶たれ、完全に包囲された小谷城内で、浅井長政は同年9月1日に自害。ここに戦国大名・浅井氏は滅亡した 10 。佐和山城の落城から二年半、その時に打たれた布石が、寸分の狂いもなく浅井氏の終焉へと繋がったのである。佐和山城主の変遷は、そのまま北近江の支配権が浅井氏から織田氏へと移行した歴史の縮図であった。
結論:歴史的意義―「前哨戦」が決定づけた北近江の未来
元亀元年から二年にかけての佐和山城攻防戦は、単なる一城の奪い合いに終わるものではなかった。それは、織田信長の天下統一事業において、北近江平定の帰趨を事実上決定づけた、極めて重要な戦略的転回点であった。
この戦いの帰結は、以下の三点においてその歴史的意義を明確に示している。
第一に、佐和山城の喪失は、浅井氏の軍事力と経済基盤を根底から揺るがし、1573年の滅亡を不可避なものとした。南の防衛線を失い、家中随一の猛将を失ったことで、浅井氏は織田信長という巨大な力に対抗する術を失ったのである。
第二に、この戦いは織田信長の卓越した戦争遂行能力を天下に知らしめた。敵の拠点を直接攻撃するのではなく、まずその連携を断ち、兵站を絶って孤立させるという高度な分断戦略。数万の軍勢を八ヶ月もの長期間にわたり敵地で維持し続けた驚異的な兵站能力。そして、降伏した敵将を破格の待遇で迎えることで敵組織の内部崩壊を誘う、巧みな政治的・心理的戦略。これらは、旧来の戦国大名の戦いとは一線を画す、信長の近代的で合理的な思考を象徴している。
第三に、磯野員昌の八ヶ月にわたる抵抗は、戦国武将の意地と、佐和山城という要塞の堅固さを証明するものであった。しかし、その個人的武勇も、最終的には信長が駆使した組織力、兵站、情報戦といった総合的な国力の前に屈した。これは、個人の武勇が戦の勝敗を左右した時代から、組織力と戦略が雌雄を決する新しい時代への移行を告げる戦いであったとも言える。
したがって、ご依頼のあった「佐和山城前哨戦」の核心は、1573年ではなく、1570年から1571年にかけて繰り広げられたこの一連の攻防戦にある。この「前哨戦」の終結をもって、北近江の未来は、そして浅井家の運命は、事実上決定づけられていたのである。
引用文献
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- 1573年 – 74年 信玄没、信長は窮地を脱出 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1573/
- 磯野員昌 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%AF%E9%87%8E%E5%93%A1%E6%98%8C
- 佐和山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%92%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E
- 浅井長政は何をした人?「妻・お市の兄である信長のパートナーだったが裏切った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/nagamasa-azai
- 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第20回【浅井長政】信長を苦しめた北近江の下克上大名 https://shirobito.jp/article/1787
- 浅井長政の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7483/
- 「浅井長政」ってどんな人? 織田信長や豊臣秀吉との深い関係とは【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/689052
- 小谷城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11097/
- 浅井長政とは?織田信長の義弟、お市の夫、そして豊臣氏へと続く血脈の源流を徹底解説 https://sengokubanashi.net/person/azainagamasa-2/
- 磯野平三郎 - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/isono.html
- 磯野員昌 https://nablatcha.michikusa.jp/sengoku/kazumasaiso.htm
- 近江国(現在の滋賀県)の商人で、16 世紀から 19 世紀にかけて全国にそ https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001653763.pdf
- 戦国時代の要「兵糧」とは? 最も有名な「兵糧攻め」とは?【戦国ことば解説】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1107753
- 合戦の種類 ~野戦・海戦・攻城戦~/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/18695/
- 兵糧攻めを得意とした秀吉の敵を弱らせていく戦法とは? 戦国の城攻め https://japan-castle.website/battle/shirozeme-hyourou/
- 佐和山城 - 彦根市 https://www.city.hikone.lg.jp/kakuka/kanko_bunka/8/2_2/4587.html
- 近江 佐和山城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/oumi/sawayama-jyo/
- 武家家伝_磯野氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/om_isono.html
- 歴史の目的をめぐって 磯野員昌 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-02-isono-kazumasa.html
- コラム 磯野員昌と佐和山城・新庄城 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042296.pdf
- 歴史の目的をめぐって 津田信澄 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-18-tsuda-nobuzumi.html
- 丹羽長秀の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46489/
- 丹羽長秀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%BE%BD%E9%95%B7%E7%A7%80
- 丹羽長秀(丹羽長秀と城一覧)/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16999_tour_080/
- 【これを読めばだいたい分かる】丹羽長秀の歴史 - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/nca411812cdfe