最終更新日 2025-08-29

佐土原城の戦い(1587)

天正十五年、秀吉の九州征伐において、佐土原城は戦闘なく開城。根白坂の敗戦後、島津家久は秀吉に恭順し、無血開城。家久は秀吉から厚遇されるも直後に急死。この「戦い」は戦国末期の政治的転換を象徴。

天正十五年、日向の終焉 ―「佐土原城の戦い」の真実と島津家久の決断

序章:天下人の視線、九州へ ― 対立の構造

天正15年(1587年)、日向国佐土原城で繰り広げられた一連の出来事は、単なる一城の攻防戦ではない。それは、戦国という旧時代の秩序が、天下統一という新しい時代の奔流に飲み込まれていく象徴的な瞬間であった。この「戦い」を理解するためには、まず、その背景にある二つの巨大な力の衝突、すなわち九州の覇者・島津氏の野望と、天下人・豊臣秀吉が描く新秩序の構想を解き明かす必要がある。

九州の覇者・島津氏の野望

当時の島津氏は、まさに破竹の勢いであった。天正6年(1578年)の耳川の戦いで宿敵・大友氏の主力を壊滅させ 1 、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでは肥前の龍造寺隆信を討ち取り、九州の二大勢力を事実上無力化した 3 。島津義久を当主とし、勇猛な次弟・義弘、知略に長けた三弟・歳久、そして「戦の天才」と謳われた末弟・家久という、歴史上稀に見る有能な四兄弟の結束を核に、島津の軍団は九州統一の最終段階へと突き進んでいた 1 。彼らの前には、もはや風前の灯となった大友宗麟が残るのみであった 6

豊臣秀吉の「惣無事令」という名の挑戦状

一方、畿内では織田信長の後継者として天下統一事業を継承した羽柴秀吉が、天正13年(1585年)に四国を平定し、関白に就任。その権威を背景に、全国の大名に対し「惣無事令」を発令した 7 。これは、大名間の私的な戦闘を禁じ、領土紛争は関白である秀吉の裁定に委ねるべしとする命令であり、単なる停戦勧告ではなかった。それは、武力によって領土を拡張するという戦国時代以来の価値観を根本から否定し、すべての大名を豊臣政権という中央集権的な秩序の下に組み込もうとする、高度な政治的布石であった。

新旧秩序の衝突

この惣無事令に対し、九州の二大勢力は対照的な反応を見せた。劣勢に喘ぐ大友氏はこれを即座に受諾したが、九州制覇を目前にする島津義久は、この命令を公然と無視した。島津氏にとって、秀吉は「由来なき仁」、すなわち由緒も実績もない「成り上がり者」に過ぎなかった 8 。源頼朝以来の名門であるという自負を持つ島津氏からすれば、自らの武力で切り取った領土を、出自の定かでない人物の命令一つで手放すことなど到底受け入れられるものではなかった 9 。ここに、自力救済を原則とする「戦国的秩序」と、天皇と関白の権威を背景とする「近世的秩序」との、決して相容れないイデオロギーの衝突が顕在化したのである。

大友宗麟、最後の賭け

島津の猛攻に耐えかねた大友宗麟は、天正14年(1586年)、自ら大坂城に赴き、秀吉に謁見して直接の救援を懇願した 1 。これは単なる泣きつきではなかった。宗麟のこの行動は、島津と大友という二大名間の地域紛争を、「豊臣政権に恭順する忠臣(大友)」対「関白の命に背く逆賊(島津)」という、天下の公論へと昇華させる極めて高度な外交戦略であった。これにより、秀吉は島津を「征伐」する大義名分を完全に手中に収め、九州平定戦の火蓋が切られることとなったのである 12

第一章:豊臣の大軍、日向を席巻す ― 東路軍の進撃

天正15年(1587年)3月、豊臣秀吉は、島津氏を屈服させるべく、壮大な規模の九州征伐を開始した。その作戦は、島津軍に戦力の集中を許さない、周到に計画されたものであった。

二方面同時侵攻作戦

秀吉の戦略は、九州を東西に二分し、同時に挟撃するというものであった。秀吉自らが率いる本隊は、筑前から肥後、そして島津の本国・薩摩を目指す「西路軍」。そして、弟の豊臣秀長を総大将とする別働隊は、豊前から豊後、そして日向へと進撃する「東路軍」として編成された 10 。この二方面作戦により、島津軍は防衛線の分断を余儀なくされ、初動から戦略的劣勢に立たされることになった。

日向方面軍(東路軍)の威容

佐土原城へと迫る東路軍の陣容は、まさに圧倒的であった。総大将は、秀吉が最も信頼を置く弟・豊臣秀長。軍監には稀代の智将・黒田孝高(官兵衛)が就き、その麾下には毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家といった中国地方の雄、さらには蜂須賀家政、加藤清正といった豊臣子飼いの猛将たちが名を連ねた 15 。その総兵力は10万、一説には15万ともいわれ、島津方が動員しうる全兵力を遥かに凌駕していた 15 。この大軍の進撃を支えたのは、秀吉が石田三成らに命じて事前に準備させた膨大な兵糧と弾薬であり、島津は純粋な軍事力だけでなく、兵站という近代戦の要諦においても、戦う前から敗北していたのである 7

豊後からの撤退と日向への侵攻

3月、秀長率いる東路軍が豊後国に侵攻を開始すると、先の戸次川の戦いで勝利し、大友氏の府内城を占領していた島津義弘・家久軍は、抗戦を断念。圧倒的な兵力差を前に、府内城を放棄して日向国へと戦略的撤退を開始した 18 。豊臣軍はこれを追撃し、3月29日には日向北部の要衝である松尾城を攻略。進撃の速度を緩めることなく南下を続け、4月6日には日向における島津方の重要防衛拠点、高城(宮崎県木城町)を重厚な包囲網の下に置いた 10 。島津軍が得意とする野戦に持ち込む間もなく、豊臣軍は多数の鉄砲隊を駆使して拠点を次々と制圧し、戦線そのものを崩壊させていったのである 15

年月日(天正15年)

主要な出来事

3月1日

豊臣秀吉、大坂城を出陣

3月中旬

島津軍、豊後府内城を放棄し日向へ撤退

3月29日

豊臣秀長軍、日向松尾城を攻略

4月6日

秀長軍、高城を包囲

4月17日

根白坂の戦い

4月18日

高城開城

4月21日以降

島津家久、佐土原城開城交渉を開始

5月8日

島津義久、泰平寺にて秀吉に正式降伏

5月下旬

島津家久、佐土原にて急死

第二章:血戦、根白坂 ― 島津、最後の賭け

天正15年4月17日、この一日の戦いが、九州の、そして島津氏の運命を決定づけた。佐土原城の未来は、その前哨戦となった根白坂での死闘の結果に委ねられていたのである。

高城の孤立と救援軍の出撃

豊臣軍10万の重囲の中にあった高城では、島津氏譜代の勇将・山田有信がわずかな兵で奮戦していた 13 。このままでは高城の陥落は時間の問題であり、日向方面の防衛線は完全に崩壊する。この危機に際し、都於郡城に集結していた島津義久、義弘、家久の首脳部は、高城を救援すべく、一族の総力を結集した約2万の兵を率いて出撃するという、最後の賭けに出た 10

豊臣軍の罠 ― 要塞化された根白坂

しかし、島津軍のこの動きは、豊臣秀長と軍監・黒田孝高によって完全に見抜かれていた。彼らは、島津の救援軍が高城へ向かうには、必ずや隘路である根白坂を通過すると予測。この坂に幾重もの砦を築き、大量の鉄砲隊を配備して、堅固な迎撃陣地を構築していたのである 15 。それは、島津軍をおびき寄せて殲滅するために仕掛けられた、周到極まりない罠であった。

戦闘経過(リアルタイム再現)

4月17日、夜明けと共に戦闘の火蓋は切られた。

  • 午前: 島津軍の先鋒が、根白坂の砦群に猛烈な攻撃を開始。しかし、豊臣方の陣地は堅く、鉄砲による十字砲火を浴びて、島津方はいたずらに損害を重ねる。
  • 昼前: 状況を打開すべく、島津軍は伝統の必殺戦術を繰り出す。鉄砲の弾幕をものともせず、刀を抜いて敵陣に突撃する「抜刀隊」である。宮部継潤らが守る砦では、凄まじい白兵戦が展開された 15
  • 昼過ぎ: 島津方の猛攻に、豊臣方の第一線が揺らぎ始めたその時、秀長は満を持して予備兵力を投入する。藤堂高虎、黒田、小早川といった歴戦の部隊が、坂の側面から島津軍に襲いかかり、挟撃態勢を完成させた 3
  • 午後: 前後左右から攻撃を受け、完全に指揮系統を寸断された島津軍は総崩れとなり、壊走を始めた。豊臣軍の追撃は苛烈を極め、この戦いで島津義弘の子・忠隣をはじめとする数多の将兵が討ち死にし、島津軍は壊滅的な敗北を喫した 15

この戦いは、単なる兵力差による勝敗ではなかった。個々の兵の武勇と突撃力に依存する島津の「中世的」な戦術が、陣地、火力、兵站、そして連携を統合した豊臣の「近世的」な軍事システムの前に、完膚なきまでに粉砕された瞬間であった。

項目

豊臣秀長軍(日向方面軍)

島津軍(救援軍)

総大将

豊臣秀長

島津義久

主要武将

黒田孝高、小早川隆景、宮部継潤、藤堂高虎

島津義弘、島津家久、島津忠隣

総兵力

約100,000

約20,000 10

戦術

陣城と鉄砲による防御・迎撃、連携による挟撃

抜刀隊による白兵突撃

結果

圧勝

壊滅的敗北

第三章:落日の将、佐土原へ ― 籠城か降伏か

根白坂での惨敗は、島津氏による組織的抵抗の終焉を意味した。野戦軍主力が壊滅した今、日向の諸城は巨大な豊臣軍の前に孤立無援となった。この絶望的な状況下で、一人の将が究極の選択を迫られることになる。

敗走と撤退

根白坂の戦場で九死に一生を得た島津家久は、僅かな手勢とともに戦線を離脱し、自らの居城である佐土原城へと退却した 18 。時を同じくして、兄の義弘は飯野城へ、そして当主である義久は都於郡城へと、島津首脳部はそれぞれ拠点を支えるべく四散した 18 。かつて九州を席巻した島津の軍団は、もはや雲散霧消していた。

佐土原城の構造と戦略的価値

家久が目指した佐土原城は、日向国那珂郡に位置する堅城であった。丘陵の地形を巧みに利用して築かれた山城であり、山頂の本丸を中心に、南の城、西の丸といった複数の曲輪が階段状に配置されていた 20 。発掘調査では天守台の礎石も確認されており、最盛期には三層の天守が聳えていたと伝えられる 22 。しかし、いかに堅固な城郭であろうとも、根白坂で主力軍が壊滅した今、この城単独で10万を超える豊臣の大軍に抗することは物理的に不可能であった。籠城は、もはや一族の滅亡をわずかに先延ばしにする以上の戦略的価値を持たなかったのである。

城主・島津家久の人物像

この絶望的な城の主、島津家久は、島津四兄弟の末弟でありながら、その軍才は兄たちを凌ぐとさえ評された人物であった。特に天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでは、わずか数千の兵で龍造寺隆信率いる数万の大軍を破り、隆信自身を討ち取るという離れ業を演じ、「戦の天才」の名を不動のものとしていた 2 。彼は比類なき勇猛さを誇る一方で、戦況を冷静に分析し、最善手を見出すことのできる現実主義者でもあった。佐土原城に籠る彼が下す決断は、彼個人の運命のみならず、島津家全体の未来をも左右する、極めて重いものであった。この時点で、彼にとって佐土原城は軍事拠点としての「要塞」ではなく、自らの、そして一族の行く末を決めるための「交渉の場」へと、その役割を大きく変質させていたのである。

第四章:見えざる攻防 ― 佐土原城、開城に至る道

一般に「佐土原城の戦い」と呼ばれるこの出来事の真実は、城壁を挟んだ血生臭い攻防戦の中にはない。それは、武力衝突が回避された水面下で繰り広げられた、情報、戦略、そして政治的判断が交錯する「見えざる戦い」であった。

「戦い」なき包囲

根白坂での決定的勝利の後、豊臣秀長軍の進撃はもはや誰にも止められなかった。4月18日には高城が降伏。返す刀で都於郡城をも攻略し、佐土原城は完全に孤立した 18 。豊臣の大軍が城下に迫り、軍事的な圧力は頂点に達したが、各種史料において、佐土原城で大規模な攻城戦が行われたという記録は見当たらない。物理的な戦闘は、すでにその意味を失っていたのである。

家久、動く ― 降伏交渉の開始

この状況下で、島津家久は驚くべき行動に出る。当主である兄・義久が4月21日に人質を差し出して秀長との和睦交渉を開始するのとほぼ時を同じくして、家久はそれとは別に、独自のルートで豊臣方との交渉を開始したのである 1 。これは、島津家としての一括降伏を待つのではなく、自らの判断で活路を見出そうとする、彼の現実主義的な思考の表れであった。

交渉のリアルタイム再現

家久が展開した交渉は、単なる命乞いではなかった。

  • 第一段階(意思表示): 家久はまず、豊臣秀長に対し、恭順の意を示す使者を派遣。徹底抗戦の意思がないことを明確に伝え、交渉のテーブルを設けた。
  • 第二段階(条件提示): 交渉の席で、家久は「佐土原城を無血で明け渡す。その代償として、上方の地(畿内近国)に新たな領地を拝領したい」という、破格の条件を提示したと伝えられている 1 。これは、島津家の一員として赦されるのではなく、島津から離れ、豊臣政権直属の大名として再出発したいという意思表示に他ならなかった。
  • 第三段階(秀吉・秀長の評価): この大胆な提案は、秀吉と秀長の心を動かした。彼らは、家久の武将としての卓越した能力を高く評価しており、また、敗戦後も冷静に自己の価値を提示し、次代を生き抜こうとする現実的な判断力に感銘を受けた 1 。敵対勢力を根絶やしにするのではなく、有能な人材は自らの体制に積極的に組み込むという、秀吉の統治思想がここに見て取れる。

無血開城

交渉は成立した。島津家久は佐土原城を豊臣方に無傷で明け渡した。これにより、宮崎平野を貫く戦略的な回廊は完全に豊臣軍の支配下に入り、南九州における戦局は事実上、この瞬間に決したのである。この「戦い」の勝敗を決したのは、兵力や兵器ではなく、家久自身の市場価値(武将としての能力)と、相手(秀吉)の度量と戦略を見抜いた彼の政治的嗅覚であった。

秀吉が家久の提案を受け入れたのは、単なる温情ではない。島津最強の武将と謳われた家久を、本家から切り離して自らの直臣とすることで、島津一族の内部に楔を打ち込み、その力を削ぐという「分断統治」の狙いがあった。家久を厚遇することは、いまだ抵抗を続ける他の島津勢力に対し、「早期に降伏すれば有利な条件が引き出せる」という無言のメッセージを送る、極めて効果的な心理戦でもあったのである。

第五章:降伏の作法と、天才の最期

佐土原城の無血開城は、島津家久に栄光と悲劇を同時にもたらした。彼の降伏後の処遇は異例のものであり、それは九州平定の結末を象徴する劇的なものであったが、その栄光はあまりにも短かった。

異例の厚遇

豊臣秀吉は、家久の現実的な判断と迅速な降伏を高く評価した。その証として、一度は明け渡されたはずの佐土原の所領を返還しただけでなく、都於郡などをも加増し、彼を島津本家から独立した大名として取り立てるという、破格の処遇を与えた 1 。天正15年5月27日には、その所領を正式に認める秀吉の朱印状が家久に下されている 1 。これは、敵将に対しては極めて異例の厚遇であった。

島津本家の降伏

家久の降伏、そして秀吉本隊が薩摩国内へ侵攻したことを受け 9 、島津宗家もついに白旗を掲げた。5月8日、当主・島津義久は自ら剃髪して龍伯と号し、川内の泰平寺にて秀吉に謁見、正式に降伏した 8 。この結果、島津家の領地は本領である薩摩・大隅と、日向国諸県郡の一部に大幅に削減されることとなった 8

謎の急死 ― 毒殺説の影

しかし、独立大名としての輝かしい未来が約束された矢先、島津家久の運命は暗転する。豊臣秀長との会見を終え、佐土原城に戻った直後に急病を発し、数日のうちにこの世を去ったのである 1 。享年41、あまりにも若く、そして謎に満ちた最期であった。

この突然の死には、当時から不審な点が多かった。『島津国史』などの日本の編纂史料のみならず、イエズス会宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』においても、家久は「毒殺された」と明記されている 1 。真相は歴史の闇の中だが、その背景にはいくつかの可能性が指摘されている。一つは、家久の突出した軍才を将来の禍根と恐れた秀吉による暗殺説。もう一つは、家久が宗家を差し置いて独自に降伏し、敵である秀吉から厚遇されたことを「裏切り」と見なした、島津家中の強硬派による粛清説である。

いずれにせよ、彼の死は、新旧秩序が激しく衝突する中で発生した悲劇であった。家久は、武勇によって戦国乱世を駆け上がり、武力では抗えない巨大な権力に対して、今度は知略と交渉力で自らの道を切り開こうとした。しかし、その突出した能力と、時代の狭間で取った行動が、豊臣方からは「危険な存在」、島津方からは「不穏な存在」と見なされ、かえって自らの命を縮める結果を招いた。彼の死は、もはや個人の武勇や知略だけでは生き残れない、新しい政治の時代の到来を告げる象徴的な事件であった。

終章:一つの城の陥落、一つの時代の終焉

天正15年の佐土原城無血開城は、単なる一つの城の降伏ではなかった。それは、九州における戦国時代が完全に終わりを告げ、日本全土が豊臣政権という単一の秩序の下に統合されていく過程における、決定的な一場面であった。

九州平定の完了と戦後処理

佐土原城の開城と島津氏本家の降伏により、秀吉の九州平定は完了した 8 。戦後、秀吉は九州諸国の「国分」、すなわち大名の領地再配分を断行し、豊臣政権の支配体制をこの地に確立した 7 。これにより、長きにわたる戦乱の時代は終わりを告げ、九州は新たな支配者の下で再編されることになった。

新秩序の軋轢 ― 肥後国人一揆へ

しかし、この急進的な改革は、在地勢力の強い反発を招いた。特に、肥後一国を与えられた佐々成政が、性急に検地を強行した結果、それに反発する国人衆による大規模な一揆(肥後国人一揆)が勃発した 7 。これは、秀吉が構築しようとした新秩序が、在地社会に根付くにはまだ多くの困難が伴うことを示していた。

佐土原城のその後

悲劇的な最期を遂げた島津家久の後、佐土原は息子の豊久が継いだ。豊久は後に関ヶ原の戦いにおいて、伯父・義弘を救うべく敵中に突入し、壮絶な戦死を遂げる 26 。その後、佐土原は一時徳川の直轄地となるが、慶長8年(1603年)、島津氏の一族である以久が入封。以降、佐土原藩3万石の居城として、島津氏の支配が幕末まで続くこととなる 28

歴史的意義の総括

「佐土原城の戦い」は、物理的な戦闘がほとんど行われなかったにもかかわらず、日本の歴史において重要な意味を持つ。それは、豊臣秀吉の天下統一事業が、圧倒的な軍事力だけでなく、敵を分断し、有能な人材を取り込む巧みな外交・政治戦略によって支えられていたことを示す好例である。そして、島津家久という一人の武将の現実的な決断と悲劇的な最期を通して、戦国という個人の武勇が輝いた時代が終わり、巨大な政治権力の下で生き残りを図る新しい時代が始まる瞬間の、光と影を我々に鮮烈に伝えている。一つの城の静かなる開城は、一つの時代の騒がしい終焉を告げる鐘の音だったのである。

引用文献

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  2. 島津家久のすごい戦績、戦国時代の九州の勢力図をぶっ壊す! - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2024/03/07/155220
  3. 「九州征伐(1586~87年)」豊臣vs島津!九州島大規模南進作戦の顛末 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/713
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